ワンダリング・シャドウ 1

 思いっ切りぶったたかれたボールがゆかでバウンドする小気味よい音と同時に黄色いかんせいひびき、体育館のてんじように反射して俺のところまで降り注いできた。

 俺はところどころ土でよごれた体操着姿で、両手を後ろにつきたいに足を投げ出している。全身が完全にかんした状態であり、そんなリラックス体勢で現在の俺が何をやっているかというと、ごくじゆんすいに単なる一観客だった。なにしろ、もう今日はほかにすることがなく、することがなくても勝手に学校を後にするわけにもいかないので、いかない以上、こうして階下の様子をながめているくらいしかできない。

 俺が座り込んでいるのは体育館のりようわきに張り出したキャットウォークである。手すりのついたせまい通路みたいなところだ。たいていどこの体育館にもあると思う。いまいち何のためにあるのかはわからんが、きっと俺が今しているような試合観賞用にしつらえられているにちがいなく、そして、だらけきったふんでめいめい自由な身体からだと時間をもてあましているのは俺だけではなかった。

 横で俺と同じようにしていた谷口が、

えーな、ウチの女子は」

 別に感心しているわけでもなさそうな感想を述べた。

「そうだな」

 俺は気のない相づちを打ちつつ、コートの上空をう白いバレーボールの行方ゆくえを追う。相手のじんから山なりサーブで飛んできたボールは、放物線の落下点でレシーブされ、次にトスという手順をんでほぼ垂直にじようしようする。

 そのボールを追うように、アタックラインのはるか手前から助走をつけてジャンプした体操着の女子が見事なまでのやくどう感で右手をり下ろし、位置エネルギーと運動エネルギーのすべてを叩き込まれた気の毒なボールは、殺人スパイクとなって相手チームの二枚ブロックをはじき飛ばし、コートの角に吸い込まれた。かんぺきなバックアタック、しゆしん役を務めるバレーボール部員が笛をく。

 歓声がいた。

 ひたすらヒマなせいだろう、

「おい、キョン。どっちが勝つかけでもしねえか?」

 谷口がそれほど熱意なく言い出した。いいアイデアだが、ハンデ戦にでもしない限り、とてもじゃないが公正な賭けにはならないな。

 俺は谷口が口を開くより先に宣言した。

「五組の勝ちだ。ちがいない」

 谷口は舌打ちし、その横顔に向かって俺はセリフをこう続けた。

「なんせ、あいつがいるからな」

 ネットぎりぎりでれいに着地した女が不敵なみをかべて振り返る。俺を見上げてきたわけじゃなく、部室で見せる得意満面な笑顔とはまた異なった笑みだ。け寄るチームメイトたちに、まるで「こんなのできて当然よ」と無言で伝えているような顔である。

 十五ポイント先取のワンセットマッチ。

 予想通り、我が一年五組の女子Aチームはダブルスコアで圧勝をげた。得点源となったエースアタッカーは、ハイタッチをわすクラスメイトに混じって、一人だけにぎこぶしき上げ、一人一人の手のひらに軽いパンチを入れていた。

 サイドラインの外に出てくるちゆう、ようやく体育館のかべぎわ上方にすずなりになっている俺たちに気づいたらしい。足を止めて見上げたのもいつしゆんで、俺はすぐに例のにらむような視線から解放された。

 何をやらしてもそつなくこなし、こと勝負事となれば無類の負けずぎらいのごんと変身、このバレーの試合でもほぼ全得点を叩き出して勝利の功労者となったそいつ──って、わざわざボカす必要なんかないな──つまり涼宮ハルヒは、そくせきチームを組んだ同級生からスポーツドリンクを回され、うまそうに飲み干すところだった。



 だいたい解ってると思うが、ようは球技大会なんぞをしている。

 三月じようじゆん、学期末試験が終わってしまうと学校ってやつは次の休みへの準備期間に入ると相場が決まっており、それはこの県立高校でも同じだった。学内スケジュールとしては、もはや春休みを待ちわびるのみなわけだが、それはそれで他にすることはないのかとだれかが脳内に電球をともした結果なのだろう、毎回この期間には球技大会という行事が組み込まれている。

 テスト勉強でり固まった頭をほぐしてやろうという学校サイドのはいりよなのかもしれなかったが、こんなもんをするくらいなら休みを増やして欲しいね。

 ちなみに今回のメニューは男子がサッカー、女子がバレーであり、俺の所属した一年五組Bチームはトーナメント方式の第一回戦で宿敵たる九組にせきはいしていた。別に古泉のいるクラスだから敵視しているわけではなく、九組というのは特別進学理数コースであり、当然のだいとして頭のいいろうばかりの集まりで、せめてサッカーあたりで勝たないと他のつうクラスの立つがなく、おかげで今の俺や谷口ほかの男子どもはすっかり立つ瀬がない。

 あまりにもないので、こうやって体育館までやってきて女子の体操着姿をながめているくらいしかないという寸法である。

「それにしてもすごいよね、涼宮さん」

 おっとりと言ったのは国木田だった。ハルヒのだいかつやくによって躍進する女子バレーチームの試合は次で三試合目、俺たちは二試合目の途中から観衆と化している。

「どうして運動部に入らないんだろ。あれだけのいつざいはなかなかいないと思うよ」

 まったくもって同意見だ。もしハルヒが陸上部にいたりしたら、おそらく長中短きよのすべてのレースでインターハイに行っているだろう。他のどんなスポーツでも同じことだ。筋金入りの負けず嫌いだからな。一番とか優勝とかいう言葉をあれほど好むやつもいない。

 俺はまだ試合中のとなりのコートに目を転じつつ、

「あいつにしてみりゃ、青春をスポーツについやすより大事なことがあるんだろ」

 長門か朝比奈さんが試合してないかと思って見たのだが、体育館には二人の姿はなかった。ちょい残念。

「SOS団ねえ」

 谷口がどこか鼻で笑うように、

「はん、涼宮らしいぜ。あいつが普通の学生をやってるなんて想像外だからな。中学んときからそうだった。今じゃキョンといつしよにわけのわからん遊びをすんのが好きなんだろーよ」

 もう反論する気にもならんね。

 なんと言ってもこの一学年も残り少ない。球技大会以降は短縮授業に入るから、教室にいる時間も自動的に少なくなるだろう。しゆよく春休みにとつにゆうし、桜がころになっちまったらいよいよ俺たちは二年に自動しようかくする。そうなればクラス分けという学生にとっては割と重要なシャッフルイベントがやってきて、その後の一年間の苦楽を決定づけるかもしれないのだ。俺はこのアホ谷口や国木田といった連中がそれなりに気に入っていたから、次も教室を同じくしていればいいなと思うものの、こればっかりはな。

 俺がぼんやり考え込んでいると、国木田が身を乗り出して注意をかんしてくれた。

「次の試合、始まるみたいだよ」

 見ると、すっかりキャプテンシーを発揮しているハルヒを中心とする五組の女子たちがコートに散るところだった。



 そろそろ春がぶきをまき散らしてもいい頃合いだったが、やまあいにあるこの高校はまだかなり冷えていた。冷えていると感じるのは俺の心情的なものが加算されているからかもしれず、その原因が先日俺の手元にもどってきたテスト用紙に書かれていた点数結果によるものであることは疑いない。

 俺的にはそこそこ満足すべき数値だったが、オフクロの満足しきを完全におおくせるものではなかったらしく、しきりに予備校やがくしゆうじゆくのパンフレットを取り寄せては、俺の目のつくところに置いていたりするので胃が痛い。どうやら国公立ならどこでもいいから入ってくれという意向のようだが、実は俺の書類上の進路志望でもそうなっている。まあ、望みは高くというやつだ。そんでまあ、なんだ。ハルヒの口出しもあったことだし。

 期末テストが赤点ライン低空飛行にならなかったのは、ひとえに臨時家庭教師となったハルヒが部室で俺にいちけ法を伝授してくれたおかげである。試験開始の数日前、テーブルに広げた教科書とノートをばらまきながら、ハルヒは言ったものだ。

「追試や補習なんか許さないからね。SOS団の平常業務に支障をきたすようなヘマは許されないわ」

 団の業務とやらについてはとやかく言うまい。その業務の時給はいくらなんだとか言う以前に、俺の財布から金が飛んで行きっぱなしなわけだが、それもいい。

 ともかく、俺だって教室で教師のかんを受けながら新たな問題文にちようせんしたり、退たいくつな授業を追加で受けたりするより、部室で朝比奈さんのお茶を飲みながら古泉の相手をしているほうがよほど心安らかだったからいなとはいわず、『教官』と書かれたわんしようをはめるハルヒに教えをうことにした。

 ハルヒ教官の試験対策は単純ごく、テストに出そうなところだけを重点的に覚え込ませるというやまかんたよったもので、ハルヒの勘の良さをつくづく知っている俺はほいほいとばかりに言いなりとなった。長門にけば試験問題とはん解答をまるごと教えてくれそうだったし、古泉を拝みたおせばあやしげな手を使って職員室からテスト用紙をぬすみ出してくるくらいのことはしたかもしれないが、ともかく俺はちよう自然的手段も学園内いんぼうもナシにして、素直に勉学にはげむことにした。なにより、うれしそうに差し棒をりながら、わざわざダテ眼鏡めがねまで用意してきたハルヒの家庭教師顔を眺めていると他の手段を採る気にもならず、自分のためにもならないのは歴然としていたからな。

 きっとハルヒは来年度も俺の背後の席にいるつもりなのにちがいない。そして授業中だろうが何だろうが、俺の背中をシャーペンの先でつつきつつ、「ねえ、キョン。ちょっと考えたんだけど──」などと、考えてくれなかったほうがよかったような思いつきをとして言い出すに違いない。そのためには同じクラスになる必要があり、当然進路志望先も似たようなところでないといけないから、自動的に俺の成績を気にする必要もあるのだろう。だって俺はSOS団専属の雑用係みたいなもんだからな。士官しかいない軍隊が戦場で役に立たないのと同じさ。指図するのはハルヒの役目、そのたびに荷物かかえて走り回るのは俺ってわけだ。

 実際、この一年はそんなふうに過ぎ、次の一年も同様のものになるだろうことを、俺は疑いもしなかった。ハルヒは絶対にそう望み、自分の望みをかなえるためならどんな非常識なことだってするだろう。いざとなれば永遠に一年生をり返すことだってやってのけるはずだ。

 もちろん、あの八月のようなことにはならないと俺は思う。ハルヒはこの一年をリセットしたりはしやしない。その確信が俺にはある。

 なぜって? それは言うまでもなく、SOS団結成以来の一年間がハルヒにとって楽しいものであったことを俺は知っているからだ。様々な思い出をハルヒはなかったことにはしやしない。それはもう絶対にない。

 今のハルヒを見りゃわかるさ。

 俺は眼下の光景を改めて視野に入れる。

 ハルヒ率いるバレーチームは決勝戦を戦っていた。

 バッシンバッシンとアタックを決めまくるハルヒ。飛びねるたびにまくれあがるすそからのぞくヘソなんかに興味はねえと言っておくぜ。注目すべきはハルヒの表情さ。

 一年前の四月、最初に出会った頃のハルヒはクラスから完全にりつしていた。というか、自らとけ込もうとしなかった。がおなんかチラとも見せず、むっつりげんそうに俺の後ろの席に引っ込んで、ひたすらクラスの空気を冷たくする役にてつしていたじゃないか。その後しばらくして俺とだけ口をきくようになっても、ほかの女子とはえんだったのに、だが今はそうではない。仲良しグループに混じることこそなかったが、寄ってくるものすべてをき放すような態度は過去のものだ。

 きっとSOS団の立ち上げはあいつにいい方への変化をうながしたのだろうな。と、同時に、それは元々ハルヒが持っていた素地でもあったのだ。ハルヒがおかしくなったのは中学時代で、それ以前はアクティブレーダーミサイルみたいな行動力とアフターバーナー級の明るさを本質にしていたに違いなく、だったら今のハルヒはよくなったと言うよりは元に戻ったと言うべきだろう。

 俺は中一以前のハルヒを知らん。あの中一ハルヒだってチラッと出くわしただけだ。そのうちハルヒと同じ小学校だったやつを調べて、当時のハルヒがどんなだったかたずねてみたくもあったが、たぶん俺はそんなこともしないんだ。

 体育館、バレーボールコートの中で、ハルヒは同級生たちとつうに球技大会を楽しんでいる。ただまだちょっとよくせい気味だな。とびっきりなばつゲームの着想を得たときのような、あの百ワットの得意満面は団員の前限定か。出ししみはもったいないぜ、ハルヒ。

 スパイクを決めたハルヒは、差しべられるクラスメイトの手を、照れてでもいるようにゲンコツでパシンとたたいていた。



 そして球技大会はしゆうりようし、本日中に学校でやるべきことは何もなくなる。

 部活動をやってるやつは各自そちらに向かい、そうでないやつはとっと帰り、SOS団の団員たちは文芸部室に集合し、俺もまた上機嫌にステップをむハルヒといつしよに座り慣れたパイプのある部屋へと向かった。

 ハルヒの機嫌の良さはバレーで優勝したからに決まっていた。てっぺんを取ったからと言って何がどうなるわけでもなかったが、俺の横をすったかと歩いているハルヒはどこまでも元気だ。文芸部の休部すいそうどうしゆよく生徒会長をやりこめた件もあるし、こいつをゆううつにすることがらがそうそうやってくるとはあまり思えなかった。いて言うなら、やはり二年進級時のことくらいか。

 古泉によれば、ハルヒの願いはたいていにおいて叶ってしまうのだという話であるから、俺と長門と古泉がまとめてハルヒと同じクラスになってしまう可能性だってある。特別クラスにいる古泉だが、そんなもんどうとでもしてしまうのがハルヒ的変態パワーだ。朝比奈さんの目からビームを出すことに比べると、んなもんまだしも常識的だろう。問題はハルヒがそんな自分の力を知らないってことで、全員バラバラになってしまうこともあり得る、と考えているかもしれないってことだ。

 ハルヒだけがいまだに知らない。長門の情報操作や、古泉の組織を使えばたいていのことはできるってのをな。

 なので俺は楽観していた。腹を割って正直に言おう。俺は二年になってもハルヒの前の席にいたかった。もしバラけたりしたら、俺はクリスマス直前に起こったハルヒ消失事件の縮尺版のような気分を味わいそうな気配だぜ。俺が見てないところで何しでかすか気が気でないしさ。

 だが、一方でそれならそれでかまわないと考えているのも事実で、こういうのを二律背反と言うんだろうな。これまた古泉が語るように、ハルヒのトンデモ能力がどんどん落ち着いていったら、それはそれでいいことなのだ。

 ただ──、やっぱりというか、少しはさびしく感じるかもしれないが。

「なに?」

 俺がよほど達観したような顔をしていたのだろう、せいよく歩きながらハルヒが下から俺をのぞき込むようにして、

「へんよ、あんた。ニヤニヤしたかと思ったら、急にな顔をしたりして、顔面神経痛? それともサッカーで負けたことをいつまでも考えてんの? ホント、五組の男子は役立たずぞろいね」

 球技大会の組み分けとポジションをくじ引きで決めたからな。運動神経のいいのはAチームに行っちまったんだよ。なんせBチームのディフェンダーフラット3は俺、谷口、国木田だったんだ。まあ、思う存分九組のフォワードにタックルしまくれたが、れいとうの位置にいてキラーパスを出しまくる古泉までには足が届かなかったのが残念だ。その九組も準決勝で六組に負けていたし、なんとなく古泉らしいちゆうはんな大会結果だぜ。わざとじゃないかと思うね。

「何言ってんのよ」

 ハルヒはおかしそうに笑う。

「でも、古泉くんならそうするかもね。だって、九組だもの。あんたとか谷口みたいな頭のいいのをさかうらみしたバカがとつげきして来てしちゃバカバカしいものね。確かに中には鼻につくのもいるけど、あたしは九組の連中をそんなにきらいじゃないわ」

 まるごと他校に持っていったりしてたしな。いや、あれは長門がやったんだっけ。

 俺がかい録をひもといているうちに部室の前までたどり着いた。えんりよとかノックの習性なんぞをどこかに置き忘れているハルヒが勢いよくドアを開き、

「みくるちゃん、球技大会どうだった? ところで冷たいお茶ない? ずっとバレーしてたせいでまたノドがかわいてきちゃったのよ。水分不足ね、きっと」

 ずかずか、どすん、という感じでいつもの団長机につく。

 部室はすでに団員そろい踏み、長門と古泉は定位置にいて、かんぺきにメイド姿が板に付いてしまった朝比奈さんがおぼんくようにして立っている見慣れた風景は、レンブラントかルーベンスあたりをつれてきて忠実な模写をたのみたくなるくらいの決まりきったワンシーンだ。

「冷たいのはないです。すみません」

 朝比奈さんは、さもちがいをびるように、

「あ、急いで冷やしましょうか? 冷蔵庫で……」

 そういえば冷蔵庫が設置されているのである、この部室には。れいとうスペースのない小さなやつだが、なべしたときとか、かんジュースを冷やす役なんかには立っている。まあ、俺のここでのメイン飲料は朝比奈さんの熱いお茶だから、カセットコンロよりはらない備品だ。

「いいわ」

 と、ハルヒはおうように、

「冷やすのも手間だし、お茶はいれたてが一番おいしいしね」

 たちどころにハルヒと俺の席に二つの湯飲みが運ばれてきた。お茶くみ朝比奈さんのぎわの良さも格段に向上している。この小間使い技能の上達をめるべきところなのかどうか迷うが、朝比奈さんはとてもうれしそうに、

「冷たいお茶ですかぁ。そうですね、今度は水出し式のを買ってこようかなぁ」

 なんて、おっしゃっている。未来から来て仕入れる知識が茶葉関係のものばかりというのはいかがかと思わんでもないものの、俺の本音を言わせればばんばんざいである。朝比奈さんにはあまりアチコチ動いてもらいたくはない。どっから見ても可愛かわいいメイドさん以外の何者でもない朝比奈さんだが、やっぱり未来人は未来人であり、朝比奈さんが自分の事情でアタフタすることになるとそれは時間がどうのという話がらみにちがいなく、そして俺は古泉と違って時間の話を考えると頭が痛くなる。しばらくは難しい図形とはえんでいたいね。

 その古泉は、とっくに自分のに座って一人オセロをやっていた。

「ずいぶんなつかしいものを持ち出してきたもんだ」

 俺は茶をすすりながら古泉の手元に目をやった。考えてみれば、部室に備わった最初のボードゲームにして、しかも俺が持参したものだ。

「ええ、そろそろ僕たちが出会って一周年です。ここらで原点に回帰するのもいいかなと思いまして」

 サッカーの試合中もにこやかだったが、部室に居座ってますますさわやかに微笑ほほえむ古泉は、俺が返答する前にオセロのばんじようを初期状態にもどした。

 原点回帰ね。

 過去をり返るほどの長い人生を歩んじゃいないが、なんとなく言ってはみたいセリフではあるな。

 俺はマグネット入りのオセロのこまをつまみ上げつつ、ふと視線を横にすべらせた。オセロ。一年前。と聞くと一つの連想される姿があり、その姿の主は、今はテーブルのすみっこで静かに外国文学の学徒となっていた。

「…………」

 長門有希のひっそりとした読書姿。この宇宙人作成による有機アンドロイドが初めて感情っぽいものをあらわにしたのは、ここで俺と朝比奈さんがオセロをしていた時だったという思い出もせんめいに。

 そういや長門とガチでこの手のゲームしたことないな。わざとでもない限り、俺に勝ち目はなさそうだが。古泉にはたいがい負けない。これもわざとか? ひょっとして。

 それはそうとして、団長机に着席したばかりのハルヒは、しばらくの間けっこうおとなしい。まずパソコンを起動し、ネットじゆんかいするのがいつもの日課だ。もちろんブラウザ立ち上げて一発目に出てくるのは我がSOS団のしょぼくれたサイトで、一日一回カウンタを団長自ら回すのが業務の一つになっている。その後は電脳世界内不思議探しとしようされたネットサーフィンをおこない、たまにどっかからみようなフリーソフトをダウンロードしては勝手にインストールし、もはやこのデスクトップパソコンの中に何が入ってて何がないのか、俺にはさっぱりわからない。時折ハルヒにも解らなくなるようで、困ったときに呼びつけられるのはコンピュータ研の部長である。まあ適材適所はいいことだ。

 春を前にしたたおやかな日の午後、球技大会の直後という総員ややろう気味であるはずの時間は、割とのんびり進んでいるような気がしてけっこう心地ここちいいものだった。

 オセロの調子もいいし、朝比奈さんのお茶もうまい。今日も何事もなく時間が過ぎて、このまま帰宅すべき時をむかえる。

 ──と、そうなればよかったのだが、安息の日々は永遠に続くことはないのだった。

 原点回帰。

 まさにそんなことをつぶやきたくなるようならいが、SOS団にい込んで来たからである。

 そう、依頼だ。決してこっちから首をっ込みに行ったわけでも、ハルヒが無計画に立ち上がった結果でもない。

 その依頼人は部室のドアをノックするとくまの家に招かれた鹿じかのようにえんりよがちに入ってきて、そしてハルヒを喜ばせるようなことを言った。


 自宅の近くにゆうれいが出るとうわさの場所がある。それを調べてくれないか。



「幽霊?」

 ハルヒは目をかがやかせてオウム返しに、

「が、出るって?」

「うん」

 さかなかしんみようにうなずき、

「近所で噂になってるのね。あれって、もしかしたら幽霊がいるんじゃないかって」

 阪中……下の名前は覚えてないが、俺とハルヒのいる一年五組のクラスメイトである。客用パイプ椅子に座り、朝比奈さんからお茶を振る舞われている阪中は、まゆのあたりをくもらせながら、

「そういう話になったのは最近なのね。三日くらい前かな。あたしも何となく変だなって思ったんだけど……」

 客用湯飲みをくぴりとかたむけ、ものめずらしそうに室内を見回した。特にハンガーラックにまんさいされている朝比奈さんの衣装なんかを。

 俺はハルヒが張り切っていたバレーの試合を思い出した。女子Aチームでアタッカーハルヒと息のあったセッターを務めていたのが、この阪中だ。

 はっきり言うとクラス内での俺の印象にはうすい。というか、一年五組で一番目立っていたのは今はなき朝倉であって、あいつが消えちまってからそのあとがまに座るやつなどついに出なかった。現在のクラス委員がだれかなんてさっぱり知らん。それを考えると、谷口と国木田はほかの同級生に比べるとハルヒの近くにいるほうだ。地球からのきよで言うと木星とてんのう星くらいのちがいだが。

 しかしハルヒはクラス内距離感などまったく気にしていないようだった。

くわしい話を、聞きたいわ。幽霊……そう、幽霊。阪中さん、それ間違いなく幽霊なのよね? だったらあたしたちの出番であることは疑問をはさむ余地なんか全然ないと言って過言ではないわ」

 今にも『しんれいたんてい』というわんしようをつけて現場に飛び、ところかまわずキープアウトの黄黒二色テープを張りめぐらさん勢いだ。

「待って。ね、待って、涼宮さん」

 あわてたふうに阪中は手をった。

「幽霊って決まったわけじゃないの。幽霊っぽいっていうかね? そんなのなの。あくまでも噂で……でも、あたしもあの場所はおかしいって思うのね」

 長門をふくめた団員全員の注目の的となった阪中は、五人の視線を浴びていることにようやく気づいたように首をすくめ、

「あの……こんなの言いに来て、だめだった……?」

「ぜんぜんだめじゃないわ、阪中さん!」

 ハルヒはけんで、

あくりようだろうが生き霊だろうが、ばくでもゆうでも好きにすればいいわ。幽霊に会えるんだったらあたしはどこ行きのきつだって買うから。とにかくそう聞いてだまって座ってることなんてできないわね」

 もともと黙って座ってることのほうが少ないだろうが。

「キョン、ちょこざいなツッコミはこの際ナシにしてちょうだい。幽霊よ、幽霊。あんた見たくないの? それとも見たことある?」

 ない。永遠になくていい。

 ハルヒはひるから覚めて三十分ったようえんのようなテンションで、

「でも目の前に出できたら、ちょっとくらい話をしてみたいと思うわよね!」

 すまん。思わん。

 俺はひとみの中でいさり火を燃やしているハルヒから目をそらし、何かを言いかけようとしては口を閉じ、という仕草をり返している阪中を見た。

 なんだって阪中が、こんな年度末も押しせまったころに幽霊話を持って訪ねてきたりするんだ? らい人としては喜緑さん以来の第二号目……って、あの七月に喜緑さんがカマドウマ話に続くなやみ相談に来た直後、俺はそくに依頼人しゆうのポスターを引っぺがしゴミに出しており、奏功したか、あれっきりSOS団を学内の何でも屋とかんちがいした生徒など一人も来なかった。もしや阪中は例のポスターがけいされている間にそれを見かけ、内容をずっと覚えていたとでも言うのか? だったらもっと有効な情報をおくするのにのうさいぼうを使ったほうがいいぜ。

 俺がそう言うと、あにはからんや、阪中は頭を振った。

「違うの。あたしが覚えていたのは別のやつね。なんだかわたされちゃって、それで捨てきれなくって家の引き出しにしまっておいたの。それ思い出して……」

 阪中がかばんから取り出した一枚の紙切れ。古びたわら半紙を見て、朝比奈さんがロザリオをかざされた新米きゆうけつのようにたじろいだ。

「そ、それは……」

 朝比奈さんのトラウマの元でもあり、そしてハルヒの輝かしきSOS団的行動だいいちだん、しかしてその実体は学校の機材を無断借用して刷られた一枚のチラシであった。

 SOS団結団にともなう所信表明。

 そこにはこう書かれているはずだ。

『わがSOS団はこの世の不思議を広く募集しています。過去に不思議な体験をした人、今現在とても不思議な現象やなぞに直面している人、遠からず不思議な体験をする予定の人、そうゆう人がいたら我々に相談するとよいです。たちどころに解決に導きます。確実です……』

 謎のバニーガール二人組が校門でまいていた、あのビラだ。この世の不思議を我が手につかまんとしていたハルヒが作成したトンデモ広告。

 なんてこった。ハルヒのいた種が本当に芽生えて飛んできてしまうとは。

 しかも、やっとのことで一年度もつつがなく終わろうとしているこの時期に。誰の希望したカーテンコールだ? アンコールの用意なんかしてなかったぞ。いまさら原点に回帰している場合か。

 俺と朝比奈さんのふんを感じ取ったのか、阪中は不安そうに、

「……ここ、SOS団ってところよね? もう有名だし……。涼宮さんたちがやってるのって、そっち系のアレなんでしょ? ホラーとか」

 悪いが阪中。今のところホラー要員は欠番なんだ。ここにいるのは本好きの宇宙人やら、ミステリ好きのちようのうりよくしややら、目の保養になってくださる未来人くらいで、どっちかと言えばSFのほうが得意技っぽいな。それも、別段俺が得意にしているわけではない。

 思わず黙り込んだ俺に反し、ハルヒは身を乗り出して得意顔。

「ごらんなさい、キョン。ちゃんと見てくれてる人は見てんのよ。ちっともムダじゃなかったでしょ? やっぱ、やっといてよかったわ」

 ホントかね。こんなもん作ったことをハルヒ自身忘れてたんじゃないかと思うが。

「喜んでちょうだい、阪中さん。クラスメイトだし、特別にタダで解決してあげるから」

 確実にいえることは、いつどこからだれの依頼が来ても、ハルヒは金をせびろうなどとはしないってことだ。どうやらハルヒにとって最大のほうしゆうとは不思議な依頼そのものらしいからな。依頼人が来た時点でおなかいっぱいなのだ。それは去年のカマドウマ事件でわかっている。

ゆうれいね」

 ハルヒはニンマリと、

「最終的にはじよれいしちゃうとして、その前にとっくり身の上話を聞きたいわ。記念さつえい用のカメラと、インタビュー用のビデカメが必要ね」

 俺以下、団員を無視してすっかり盛り上がっている。いかんな。このままでは本当に幽霊がデロ~ンと出てきかねない。ん? 阪中の話?

 ああ、幽霊なんて人間のだまされやすい視覚のせいでおこるちがいとか、やなぎの下のばなとかの気のせいに決まってる。マジもんが出てきた日には、それこそ人類が積み重ねてきただいなる科学体系ほうかいの序曲さ。

 しかして、阪中も、

「だから、ちょっと待って欲しいのね。まだ幽霊って決まったわけじゃないの。違うかもしれない。でもほかに思い当たるのがなくて……」

 え切らない証言を始めた。

「おい、ハルヒ」

 と、俺は素早く口をはさむ。なぜならハルヒはすでに機材置き場をあさり始めていたからである。

「ちょっとは落ち着いて、阪中の話を聞こうぜ。事態はそう単純じゃなさそうだ」

「あんたが仕切らないでよ」

 ぶつぶつ言いつつも、ハルヒはガラクタ箱から団長机にもどってうでを組んだ。阪中も俺もほっとする態度をかくせない。ここで、ようやく、俺は長門と古泉の表情を見比べるゆうを得た。

 別に見なくてもよかったかもしれない。

 両者とも、だんと変わりない顔色表情でいた。つまり古泉は無意味に明朗なしようで、長門の表情はまったくの無風。いつもの反応だ。

 しかし、どちらも興味深そうに阪中を見つめている。みようなことに、俺は二人の顔に共通する文字が書かれているようなさつかくを覚えた。

 ──幽霊だって? 何を言ってるんだ、この人は。

 とまあ、そんな感じのト書きをな。



 さて、私見を述べさせてもらうと、俺はれいこんの存在を信じていない。テレビなんかでよくやってる心霊体験ドキュメンタリーなどは、よくできたエンターテインメントであって真実を告げるものではない、と確信している。

 もっともこの確信もここ一年ですっかり砂上ろうかくになりつつあり、なんたって俺は宇宙人と未来人とエスパーろうとグルになって何やらかにやらと首をっ込み、ちようじよう現象に慣れ親しんでけっこうな時間がっているんだからな。

 その気になればゴーストやファントムやレイスの一体くらい、ひょっこり顔を出さないとも限らないと心のどこかでは思っていた。だが異世界人とまだ出会っていないのと同様に、幽霊ともいまだコンニチワのあいさつをかわしておらず、会ってもいない存在のことなど今から気にんでいてもしかたがないので、そんななやみからはダッシュでのとうそうかんりようさせている。来たいなら来ればいい。だが、そのめんどうまではりちに見てらんないぜ。そのような境地と言えば解りやすいかい?

 と、まあ、俺はちようぜんとするしか身のりようもなかった。それで他のメンツはと言うと、

「幽霊ですか。それはそれは」

 古泉はあごに指をあて、考え込む様子。

「はあ……それって、あのう……?」

 朝比奈さんはもん付きのうわづかいでらい人を見る。

 長門は通常通り、

「…………」

 どうやら俺の思いはハルヒをのぞく団員全員の総意でもあるようで、長門も古泉も朝比奈さんも、幽霊と聞いてな顔つきになっていたりなどしていなかった。朝比奈さんなんか、そんな単語やがいねんに思い当たるフシがない、と言いたげにキョトンとしている。未来には宗教やれいすうはいの習慣がないのかもしれない。今度聞いてみよう。どうせ教えてくれたりはしないだろうが。



 いくら俺でも一年五組の教室で話す相手がハルヒ・谷口・国木田オンリーなんてことはなく、他の同級生たちともそこそこ日常会話をやってたりするんだが、さすがに相手が女となるとコミュニケーションレンジもせまくなる。

 脳みそをまさぐっても会話したおくがなかったからよく知らなかったが、阪中はあまり話の得意なほうではないらしかった。

 なので要所要所をばつすいしてお送りする。

「あのね、最初におかしいなって気づいたのは、ルソーだったの」

 と、阪中はハルヒに向けて言った。

「ルソー?」

 と、ハルヒは当然まゆを寄せる。

「うん。家で飼っている犬。ルソー」

 たいそうな名前の犬だ。

「朝と晩、あたしが散歩させてるのね。ルートはいつも同じだったの。飼いだしたころはいろんな道を歩くようにしてたけど、今は毎日同じ通りを通ってるのね。あたしもすっかり歩きぐせがついちゃって」

 そんなことはどうでもいい。

「ごめん。でも重要かも」

 どっちだ。

「キョンはだまってなさい」とハルヒ。「さ、続けて」

「いつも同じ道で、それでルソーも喜んで歩いてたのに、それが……」

 口ごもったのち、阪中は小声になった。かいだんの演出か。

「一週間くらい前、ルソーがそれまでの道をいやがるようになったのね。リードを引っ張っても、こう」

 阪中は両手で地面にしがみつくようなポーズを取る。暖かい場所からはなれようとしないシャミセンの姿とそっくりだ。

「こんな感じでビクともしないの。うん、ちゆうまでは平気なんだけど、そこからそんななのね。変だなって思ったんだけど、それがいつもそうなっちゃって。だから今は散歩のルートを変えちゃった」

 そこまで説明して、阪中は湯飲みに口を付けた。

 なるほど、てつがく者みたいな名前の犬がとつぜん散歩コースをいやがるようになったと。で、その話のどこからゆうれいが出てくるんだ?

 俺の疑問はハルヒの疑問でもあったらしい。

「幽霊は?」とハルヒ。

「だから、」

 阪中は湯飲みを置いて、

「幽霊かどうかはわからないの。うわさだから」

 その噂の出どころを聞きたいんだが。

「いろいろ。家の近所、犬を飼っている人が多いの。散歩してるとよく会ったりして、話もして、ルソーも友達ができてうれしそうだし、あたしも知り合いの人がたくさんできたのね。一番初めはシェルティを二頭飼いしてるなんさんだったかな、やっぱり散歩してて、その道だけはどうしても歩こうとしなくなったって。しなくなったのはその、犬さんたちなんだけど」

 人間は何も感じずかつできるのか。

「うん、そうなのね。あたしも特に変なこと感じないし」

 なかなか本題にいかない。かんじんなのは幽霊の二文字だろ。

「それなのよね」

 阪中は顔をくもらせて、

「ある日から、近所の犬さんたちが、ある地域にどうやったって近寄らなくなったの。飼い主さんたちの間ではそれが今のメインの話題になってるのね。ノラネコもそこそこいたんだけど、すっかり姿を見なくなったし……」

 ハルヒはふんふんと聞いている。メモを取るようにシャーペンをにぎりしめていたが、のぞき込めば書いているのは犬とねこのギャグタッチなイタズラきだ。だったが、ハルヒはおおよその展開をつかめたようだ。

「きっとそのあたりに幽霊がいるから動物たちが立ち入らなくなって、でもそれは犬とか猫には見えるけど、人間には見えないってわけなのね?」

「そうなの。そういう話になってるのね」

 我が意を得たりとばかりにうなずく阪中は、

「もう一つ、気になることがあって。あのね、多頭飼いしてるぐちさんて人がいるのよ。その人とワンちゃんたちもあたしの犬仲間なのね」

 さもおそろしそうな口調で、

「そのうちの一ぴきが昨日から具合を悪くしてるんだって。今朝の散歩に連れてきてなかったの。立ち話程度だからくわしく聞いてないけど、動物病院に通院中みたい」

 阪中のな目がハルヒに注がれる。

「これってやっぱり幽霊だと思う? 涼宮さん」

「そうねぇ」

 ハルヒは組んだ両手にあごを乗せ、考え込むように目を細めた。この話だけではなんだか解らないが幽霊だったらおもしろそう、ってな顔つきである。

「現時点では何とも言えないわ」

 意外にもハルヒはしんちような言い回しで、ただしくちびるはしをピクピクさせながら、

「でも、その可能性は大いに有りね。犬とか猫って、人間には見えないものを見たりするって言うしさ。そのナントカさんの犬っころも、幽霊見たショックで込んでんのかも」

 その意見に挙手して反論することは俺にもできんな。なぜなら、シャミセンが何もないはずの部屋のすみをじっとながめていたりすることはよく見かける光景だからだ。猫飼ってる人にはなつとくとともに賛同を得られると思うがどうであろう。だが猫は犬とちがって、たとえ幽霊をもくげきしたとしても寝込んだりはしない。それも猫飼ってりゃ解るぜ。

 俺が自宅のねこに関するおくしようかんしていると、ハルヒがるようにして立ち上がった。

「だいたいのことは飲み込めたわ」

 俺に解ったのは、いぬねこが立ち入りきよする地域があるということだけだが。

じゆうぶんよ。こうなったら部室で推理合戦するより、いち早く現場に急行するのが正しいわ。たぶんそこには動物ならではの本能が危機を感じる何かがあるはず。幽霊かオバケかようかいか、そんなのがね」

 それか、もっとあやしいものかだな。俺は十九世紀半ばのヨーロッパをはいかいする共産主義のごとき姿のない妖怪をげんして身体からだが冷えた。ゆうれいなら説得だいで成仏してくれるかもしれないし、オバケまたは妖怪ならゴーストバスターか妖怪ポストを探せばいいが、コズミックホラーに出てくる名状しがたきものとかにかれたらどうすんだ。

 と、考えたところで俺の目は自然に長門の方を向く。

 前回のらい人にして今は生徒会書記の地位にいる喜緑さんは、長門の関係者だった。ということは、まさかこの阪中も……。

 しかし俺はすぐにこの仮定をほうした。長門は開いた本から顔を上げ、めずらしく興味を引かれたように阪中の話を聞いていたからである。そのそっけないほどに白い顔にあったのは──ここはまんしたいところだ──俺にだけは解る表情の変化だった。長門は考え込むような表情を一ミクロンほどかべている。すると、阪中がみような話を帯同させて来た今回は、長門にもイレギュラーな出来事なのだ。

 ついでに古泉の顔色もうかがってやる。目が合うと、古泉は小さくかたをすくめて唇にしようを刻んだ。腹立たしいことに、俺の言いたいことは着実に伝心されたようだ。僕の仕込みではありませんよ──と、古泉は態度で表明し、そんなボディランゲージが解ってしまう俺もすっかり古泉に慣らされてしまったようでヤな感じ。

 もう一人のお方に関しては言うまでもない。朝比奈さんは完全な無関係ぶりを発揮して、そもそも話についていけてないんじゃないかという印象すら受ける。仮に幽霊さわぎの原因が時間がらみだったのだとしても、この朝比奈さんではどうにもなるまい。朝比奈さん(大)を呼ばないと。

「じゃあ、みんな」

 ハルヒが気勢を上げた。

「今から出発するわよ。いるものはカメラと……幽霊かく装置はないわねえ。できれば西せい文字で書いたお札が欲しかったんだけど」

ひつじゆ品なのは市内の地図ですね」

 古泉が付け加え、阪中にみのほこさきを向けた。

「実地検分をしてみたいと思います。あなたの家のルソー氏にも協力願えますか?」

 こいつも乗り気でいるらしい。市内を意味なくたんさくするパトロール、ついぞ不思議な場所など発見できなかったが、こうしてわくの土地が労せずして飛び込んでくるとは。

「いいよ」

 阪中は古泉のハンサムづらにうなずいた。

「ルソーの散歩のついでなら」

 お目目をパチクリさせていた朝比奈さんだが、

「あっ、あっ。そうなら、えないと」

 メイド服を押さえてあわてだす。急がないとこのままの格好で外に連れ出されることをおそれているようで、ハルヒならを言わせず引っ張っていきそうだったのだが、

「そうね。みくるちゃん、着替える必要があるわ。その格好はふさわしくないもの」

 常識的なことを言い出した。

「で、ですよね」

 朝比奈さんはあんの表情で頭のカチューシャに手を当てる。

 それならそれと、俺と古泉は部室を出ないとな。俺はともかく、古泉に無用のサービスシーンを提供してやるわけにはいかん。

 俺が部室を出ようと背を向けかけたとき、ところがハルヒは予想外のセリフを放った。

「でも、みくるちゃんが着るのは制服じゃないわ」

「え?」

 こんわくの声をらす朝比奈さんの横を素通りし、ハルヒはつかつかとハンガーラックに歩み寄った。喜色満面でしよう集の中から選び出したのは、

「これよ、これ。幽霊退治にもってこいの服でしょ?」

 ハルヒの手にかざされているのは、たけの長い白衣にいろはかまのツートンカラー。古式ゆかしい日本の民族衣装の一つ、であるところの……。

 朝比奈さん、思わず後ずさり。

「それは……そのぅ……」

巫女みこさんよ、巫女さん」

 いいこと思いついた、と実感しているとき特有の笑みを浮かべ、ハルヒは巫女しようぞくを朝比奈さんに押しつけた。

「おはらいにはこれが一番よ。の用意はないし、あってもみくるちゃんをまるぼうにしてしまうのは気が引けるしさ。どう、キョン。あたしだって考えなしに衣装を持ってくるわけじゃないんだからね。ほら、ちゃんと役に立ったでしょ?」

 下校するのにメイドか巫女のどっちが目立たずにすむか……って、そういう問題じゃないだろう、という俺のリアクションを言わせる間もなく、俺と古泉は仲良く部室とうろうたたき出された。

 室内からはおみ、朝比奈さんの衣服を着せえることに喜びを見いだすハルヒの声と、かれている朝比奈さんの可愛かわいらしい悲鳴がBGMとなって聞こえている。

 この機会にいておくことにする。

「古泉」

「なんでしょうか。初めに言っておきますと、僕にはゆうれいと聞いて思い当たることがらは何もありませんよ」

 古泉はまえがみを指先ではじいてにゆう微笑ほほえむ。

「じゃあ、何だ?」

「今の段階で言えることはほとんどありませんね。いずれもおくそくはんを出ません」

 何でもいいから言ってみろ。

「犬たちがいつせいに特定の地域をするようになった、という話ですよね。ではここでクイズです。人間よりも動物、特に犬がすぐれている特性は何ですか?」

きゆうかくだろ」

「そうです。阪中さんの散歩コースのちゆうに、犬がきらにおいを発するものがまっている、あるいは埋められた可能性があります」

 耳にかかるかみはらいつつ、古泉は笑みをくずさない口のままで、

「一つ考えられるのは、有毒ガスだんですね。どこかの軍事的組織がはんそうの途中で落としたとか」

 んなアホな。軽トラに積んでいた荷物が落っこちたレベルの感覚で有毒ガスを運ぶわけないだろ。

「または放射性物質です。もっとも、動物がどこまで放射能を関知できるのかは僕もくわしくありませんけど」

 毒ガスとどっこいだろ。まだ不発弾のほうがすんなり受け入れやすいぜ。

「ええ、それもあり得ます。もっと現実的なことを言えば、人里に下りてきたくまがそのあたりでとうみん中で、そろそろ目覚める気配を犬たちが感づいたということも……」

 ねえよ。この辺の山にイノシシはいても熊はいねえ。

「ですから」と古泉はゆううでを組む。「あいまいな伝聞情報からでは、このように何とでも考えられるんですよ。ゆいいつ無二の真相を看破できるのは、すべての情報が出そろい、かつ論理的な思考と想像力のやく、およびじやつかんの直感を複合的に連動させた場合に限られます。中でも一番重要なのは情報の確定ですね。どこの時点ですべての手がかりが出そろったのか、それをきわめるのはなみたいていではありませんから」

 ミステリ談義がしたいならミステリ研でやってくれ。何も考えて解決しようってんじゃないんだ。こんなもん、ハルヒのやろうとしている通り、現場に行ってあやしいものを発見すりゃいいんだ。簡単に解決するだろ。ひょっとしたらハルヒは地面をめったやたらにり返し、下手すりゃが中国のこうていからもらったという金印を掘り返してしまうかもしれんが、そんなことになったら考古学会のお歴々がそつとうするかもしれんから考えたくもないとして、それはともかくミステリがしたいなら次の合宿でやって欲しいものだ。

じゆんすいさくによって真実を明らかにする思考実験こそがミステリのだいなんですけどね。調べたらわかるような事件にらく性はありません」

 わけのわからんことを言いつつ、古泉はもたれていたとびらから身体からだかせて横に移動した。

 たん、ドアが開いて勇ましい団長が朝比奈さんの手を引いて姿を現す。

「準備ばんたん、これでオッケーね。みくるちゃん、とってもいい感じよ。どんなあくりようだって速効でしようてんするわ」

「うう……」

 おずおずと出てきた朝比奈さん巫女バージョンは、ずかしそうにうつむいてよろりと足をみ出した。この姿を見るのは三月三日のひなあられきイベント以来だ。

 いつの間に作ったのか、神に仕えるべき衣服をまとった朝比奈さんは、へいせんたんに取り付けた棒まで持たされている。これをフリフリしながら祝詞のりとを唱えられたら、確かに悪霊でなくても昇天しそうなお姿だ。可愛い。

 二人の後から、「うーん、何もそこまでしてくれなくても」という具合に首をかしげた阪中と、けてない幽霊みたいな足取りで長門が廊下に並び、これで学校を去る準備は整った。

 まさか本当に除霊することにはならんだろうと思いたい。なんせふつの役割を勝手に押しつけられたお人がお人だ。パートタイムのコスプレ巫女がそくせきのおはらい棒をってカタがついたりしたら、平安期ふじわら政権全盛時代のおんみようの方々に申しわけない。

 ま、春先だしな。人間もそうだが、この時期、いぬねこだっていろいろじようちよ不安定になる季節なのさ。



 と、常識的にはそう思ってしかるべきなのだが。

 いかんせん、ハルヒが何やら期待にあふれた顔をして動き出すと、たいていなにがしかのケッタイなことに巻き込まれることになっている。おまけに最近ではハルヒ以外のメンツ、古泉や朝比奈さんや長門までが独自に事件を運んでくるようになっているのだから、まったく、たまには俺も何かやらかしてやろうかと思いめるくらいだ。

 もっとも、俺はこのSOS団団員以外に非常識的な存在を知らないのでかなわぬおもいというやつである。

 それも込みで今日の場合を考えると、なぞの持ち込みをしてきたのはどっからどう見てもつうのクラスメイトである犬好き女子生徒で、この阪中がわざわざ幽霊ルートへぶんするシナリオなんてものを書いてくるはずはないから、本当にマジもんの幽霊が出てくるはずもなかろう。特に朝比奈さんの説得で消えてくれるような、解りやすいゆうれいなんてものが市内をフラフラしてるんだったら、とっくに部室にさまよい込んでいるような気がする。第一、今は幽霊の出る季節じゃない。

 俺はそう考えて、巫女みこしようぞくの朝比奈さんをほんわりとながめつつりようを安らがせていた。

 いや、もう──。


 幽霊よりももっと説明しにくいものがお出ましになるとは、思っていなかったからな。

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