放課後、ハルヒの原稿(催(促(から逃(亡(するように部室へ来た俺に、
「実体験を書いてはいかがでしょう」
古泉がノートパソコンのキーボード上で停(滞(なく指を滑(らせながら言った。
「ようは恋愛が絡(んでいればいいのでしょう? でしたら、実際にあったことをそのまま執(筆(し、あくまでフィクションだと言い切ってしまえばいいのですよ。一(人(称(形式で書くことをお勧(めします。この場合、あなたが普(段(考えているようなことを普通に文章化してしまっても問題ありません」
「イヤミか、それは」
俺は投げやりな返答をして、ノートパソコンの画面が映し出すスクリーンセーバーを眺める仕事に目を戻(した。
部室は一時的な安息の場所となっている。なぜって、ハルヒが席を外しているからだ。
生徒会と全面戦争をやっているつもりのハルヒは、腕(章(の「編集長」の部分に「鬼(」とつけたいくらいの辣(腕(を発揮して、今もあちこち走り回っている。
しょっぱなの標的はごく身近にいたクラスメイト、谷口と国木田だった。ホームルームが終わるやいなや教室から逃げ出そうとした谷口をハルヒは俊(敏(に捕(獲(し、「帰る」「帰らせない」と一(騒(動(を繰(り広げ、そんな様子を逃げもせずに眺めていた国木田をも手中に収めると強(引(に席に着かせ、白紙のルーズリーフの束を押しつけて言い放った。
「書き終えるまで帰っちゃだめだからね!」
その顔が異様に嬉(しそうだったのは、なんだろう、新しい加(虐(趣(味(に目覚めたからかも知れねえな。
谷口はなおもブチブチと文句を垂れ続け、国木田は緩(やかに首を振(ってシャーペンを握(りしめていた。国木田はどこか余(裕(だが、谷口は本気で迷(惑(そうに、まるでハルヒがおこなう一(切(のもめ事に関(わると将来天国行きのバスに乗りそびれると悟(っているかのようだ。気持ちは解(るさ。オモシロエッセイを書けなどと言われてハルヒの眼鏡(にかなうものがすぐさま書けるくらいなら逃亡を図(ったりはしない。
「何がオモシロ日常エッセイだ」と谷口。
「キョン、お前の日常のほうがよっぽどオモシロ状態だろうがよ。お前が書いてくれ」
断る。俺は自分の作業ですでに目(一(杯(だ。
「涼宮さん、コラム十二本はちょっと多くない?」と国木田はのんびりと、「せめて五本にしてくれないかなぁ。英語と数学と古典と化学と物理は得意だけど、生物と日本史と公民は苦手なんだ」
そんだけ得意なら充(分(だろうし、俺もお前の原稿だけは心待ちにしている。科目別役立ち学習コラム十二本。本当に役立つならこれほど読みたいものはない。
ハルヒは居残り二人組に、
「一時間したらまた来るから。その時にいなかったら……解ってるわね?」
明快な脅(しをかけて、教室を走り去った。いろいろと忙(しいんである、我らの編集長は。
一方で、ハルヒの執筆依(頼(を快く受け入れるという気のいいヒマ人もいたことを申し添(えておこう。
一人は言うまでもなく鶴屋さんである。もしかしたらハルヒ以上に何でも器用にこなす上級生は、
「何でもいいから書いてくれない?」
というハルヒの抽(象(的(な依頼を快(諾(し、あっさり、
「締(め切(りはいつ? うん、それまでには必ずやっ! わはは、面(白(そうっ」
と笑顔で答えたそうだ。いったいあの人は何を書いてくるつもりなのか。
もう一人は、これは一人ではなく集団と言ったほうがいいか。コンピュータ研究部である。例のインチキパソゲー対戦の経過に加えて、ちょくちょく長門が訪問しているよしみもあり、ハルヒ的にはすっかりSOS団第二支部化しているコンピ研に飛び込んでいった本家本元の団長は、『最新パソコンゲーム完全レビュー・このゲームぶったぎり読本』とかいう、なんかよく解らんものを書かせる確約を取って帰ってきた。どういうわけだかコンピ研は部長以下、けっこう乗り気でいたらしい。ちなみに俺はパソコンでまともなゲームをやったことがないので、もう一つ興味なしだが。
これでもまだハルヒの仕事は終わらない。会誌の表紙を小マシなものにすることを思いついたハルヒは、その足で美術部まですっ飛んでいって、一番絵のうまい部員は誰(かと尋(ねると、そいつに一枚絵を強要し、文章だけでは華(が足りない、挿(絵(も必要だと言い出したかと思うと漫(研へ駆(け込んでイラストを発注した。されたほうはいい迷惑だと思うのだが、あいにく俺は他人が感じる迷惑にこれ以上シンクロしたくもないので、谷口と国木田を教室に残し、部室までやって来たというわけである。
部室にはハルヒの姿はなかった。前述の理由によって学校中を駆け回っているからで、俺としては大いにくつろげるはずだったがスクリーンセーバーとにらめっこしているのみの時間は安息とはほど遠い。
「うーん、うーん」
悲(壮(な顔つきでテーブルに着いているのは、珍(しく制服姿の朝比奈さんだ。
この時はまだ朝比奈さんの絵本チックな童話も完成しておらず、テーブルで頭を押さえながら紙に鉛(筆(を走らせるお姿を目にすることができるだけで、お茶の給仕は自分でするしかなかった。
その横で、長門はいつもの風(情(を維(持(している。読書人形のようにハードカバーを広げている姿には、すでに一仕事終えた感が漂(っていた。
「…………」
ハルヒに提出した三枚のショートショートで自分の役割は終(了(したと判断したのか、すっかりもとの長門に戻(っている。この前生徒会室で見せた不可視オーラが噓(のようだ。
噓と言えば、俺がそんな長門が気にならないと言えばこれも噓になっちまうので正直に告白しておく。あのヘンテコな小説モドキを長門がどんな心情で書き上げたのかとか、それをハルヒに見せて何も思わなかったのかとか、ありゃいったいどういう話なのか自作解題してほしいとか、いろいろ問いただしたいところだが、朝比奈さんと古泉のいる前でそれを言うのも、ちょっとな。
そのうち二人だけになったときにでも、その機会を預けておこう。
平常モードの無表情で本を読む文芸部員から目を外す。テーブル上で稼(働(しているパソコンは二台だけだ。持ち主の唇(と同様、長門の前のノートパソコンは貝のように蓋(を閉じられて脇(に追いやられていた。
できれば俺もそうしたい。地球上の限りある資源を浪(費(することに自責の念を感じる身としては、この俺に支給されてるパソコンのスイッチをただちにオフにすべきだろう。このまま電源をつけていてもエネルギーの無(駄(であり、ついでに頭のスイッチもオフにして今すぐ深い眠(りに入りたかった。
そう考えつつ溜(息(などついていると、古泉が声をかけてきた。
「深く考えることはありませんよ。ありのままを書けばいいのです」
お前はすでに頭の中にあるものを文章化すりゃいいんだからラクだろうが、俺は一から考えんといかんのだぞ。なんならお前の恋(愛(経験を教えてくれ。お前を主役にしたラブリーな物語を書いてやる。
「それは遠(慮(したいですね」
古泉はキータッチの手を休め、俺に問いかけるような笑(顔(を向けてきた。それから小声で、
「本当にないんですか? 今までの人生で、恋愛感情の虜(になったことや、女性と付き合ったことがです。いえ、この高校の一年間でそれらしいことはない──というより書けないでしょうから、それ以前のものならどうです? 中学時代なんかどうです?」
俺が天(井(を眺(めて自分の過去記(憶(を参照していると、古泉はますます小声となって、
「草野球大会で僕が言ったことを覚えていますか?」
さぁ、お前は色々と言いっぱなしをする野(郎(だからな。セリフを逐(一(記憶に留(めてもらおうなんて思わないほうがいいぜ。
「涼宮さんが望んだから、あなたが四番打者になったという話くらいは覚えていると思いますがね」
俺は古泉のヤサ男スマイルを胡(乱(に見つめた。またそれか。
「ええ、またそれです。つまり、あなたが恋愛小説のクジを引いたのは偶(然(ではありません」
クジ引きの偶然性は俺も疑って久しい。手品師じゃなくても計画通りに目当てのクジを引かせることができるのは俺も知っている。
ちらりと長門を見ると、取り立てて聞き耳を立てているようでもなかった。朝比奈さんは鉛筆と消しゴムと友達になるのにイッパイイッパイらしい。
「つまり、涼宮さんはあなたの過去の恋愛模様を知りたいと思ったんですよ。だからジャンルの一つを恋愛小説にしたのです。ずばり恋愛体験談──と、しなかったのは、涼宮さんなりのちょっとした躊(躇(の表れです」
あいつのどこに躊躇なんてもんがあるんだ。どこにもかしこにも遠慮と挨(拶(なしで踏(み込んでいくようなやつだぞ。
古泉は薄(く笑い、
「心という部分にですよ。ああ見えて涼宮さんは、ギリギリのラインがどこにあるのかをちゃんと解(っている人です。無意識でしょうが、だとしたらなおのこと素晴らしく鋭(敏(な感覚だと言えますね。現に彼女は、僕たちの心に土足で踏み入るような真似(を決してしません。少なくとも僕はされたことがない。まあ、逆に僕は少々涼宮さんの精神の中に入れさせてもらったりしてましたが」
俺も二度ばかり行ったっけな、そういえば。
「だがあいつが遠慮なし女だという線は譲(れんぞ」
と、俺はせめてもの反(抗(。
「でなきゃ生徒会室のドアを蹴(飛(ばして入ったり、そもそも文芸部を乗っ取ろうとしたりするわきゃねえだろう。俺がこんなもんを書かされたりしたりもだ」
「いいじゃないですか。これはこれで楽しい作業ですよ。弱小クラブ活動を守るため、強大なる生徒会と抗(争(する高校生たち……」
古泉は薄(気(味(悪(くなるほど爽(やかな遠い目をして、微笑(み直した。
「実は僕はこういうスクールライフを夢に描(いていたのです。ますます涼宮さんを神として認定し、拝(跪(したい気分になりますよ。夢を叶(えてくれているのですからね」
お前の自作自演でな。裏から糸を引いておいて、何が夢の実現だ。努力しているのは認めてやってもいいが。
「ですが、あなたがどのクジを引くかまでは僕も操作しようのないことです。話をもとに戻(しましょう。解りやすく言って、涼宮さんはあなたの恋愛観のようなものが書かれるのを期待しているんですよ。ついでに言わせていただければ、僕も知りたいですね」
古泉はやや大きめの声で、
「小耳に挟(んだところ、あなたには中学時代に仲よくしていた女子がいたそうではないですか。そのエピソードなんかどうでしょう」
だから何度も言っているだろう。あれは全然そういった話じゃないんだ。
俺は眉(間(の間(隔(を狭(くして、ついで指で揉(みながら、そして部室にいる他二名の顔を盗(み見た。
朝比奈さんは絵付きの童話作成に精神を集中させていて、俺たちの会話が耳に届いている様子はない。
長門は──、
こちらも読書に視神経のすべてを集中させているようだったが、耳の神経までは俺も確認しようがなく、おまけにどんなに声をひそめても長門相手に隠(し果たせることが可能だとはまったく思えなかった。
だいたいだな、どうして俺がやましい気分にならなきゃならんのだ。なんだって国木田といい、中(河(といい、俺の中学時代の同級生はそろいもそろって妙(な勘(違(いをしてるんだ? 不思議でならん。
「とにかく、その話はするつもりも書くつもりもない」
俺は断言する。特に興味本位で目をニカニカさせているようなヤツにはな──って何だ古泉、その解ってますよ的な目は。だから違うっつーの。思い出したくない過去だからということでもないんだよ。本当にどうでもいい話だからなんだ。
「そういうことにしておきましょう」
腹立たしいセリフだが、古泉は黙(らずに新たな提案をしてきた。
「では他に、何か書くべき思い出の一つを早(急(に思い出してください。いくら何でも一つくらいはあるでしょう。誰(かとどこかでデートしたとか、誰かから告白されたとか」
ねえよ。
と、言おうとして俺の口は半開きで止まった。それを見て、古泉の微(笑(が広がる。
「あるんですね? そう、まさしくそれですよ。涼宮さんと、ついでに僕も知りたい物語です。それを書いてください」
お前はいつから副編集長にもなったんだ。せっせとシャミセン消失事件のノベライズでもやってろよ。自分で書くものくらい自分で決めさせろ。
「もちろん、決めるのはあなたです。僕は単なるオブザーバー、よくてアドバイザー程度のことしか言えません。今は涼宮さんの代弁をしているような気がしますけどね」
古泉は肩(をすくめ、俺との会話を切り上げて自分のノートパソコンに指先を向けた。
俺は考え始めた。
悪いが古泉、お前はまだ勘違いをしている。お前の想像の内では、中学時代の俺がいかにも中学生らしい男女交際をちょっとの間でもやってるようなものが渦(巻(いているのかもしれないが、自(慢(じゃないが俺は今まで誰かに告白なんかされたこともないし、したこともない。初(恋(の相手は年の離(れた従姉妹(のねーちゃんだったが、そのねーちゃんはロクでもない男と駆(け落ちしちまった。トラウマと言えばトラウマだが、それも遥(か昔のことさ。
告白でもない、ましてやデートでもないもの。
ふっ、と一つの情景が目(蓋(の奥に浮(かんだ。
それは今から一年ほど前、中学の卒業式が終わって、この高校に来る直前の期間にあった風景だ。まさか俺の高校生活がこんな目まぐるしいものになるとは蚊(の足先ほども思わず、のんびりだらだらしていた中学最後の春休み。
妹が受話器を持って俺の部屋にやってきたことに端(を発する、小さな挿(話(がかろうじて脳みその隙(間(に引っかかっていた。
しばらく天(井(を見上げていた俺は、軽く鼻を鳴らしてノートパソコンのトラックパッドに手を触(れた。
スクリーンセーバーがどこかに飛び去り、立ち上げたまま放置していたテキストエディタが白い画面を復帰させる。
横で古泉がにやけた笑(みを作る気配を感じつつ、俺は試(しにキーを叩(いてみた。
ま、ただの指ならしさ。書いてる最中につまらなくなったらすぐさま全文削(除(する程度のな。
記(憶(の淵(からザルで砂金を掬(うような作業だなと思いつつ、頭で組み上げた文章を指先に伝達し、導入部を書き始める。
とりあえず、こんな感じでどうだろう。
『あれは俺が高校に入る前、残りわずかな中学最後の春休みを過ごしていた時だった…………』
あれは俺が高校に入る前、残りわずかな中学最後の春休みを過ごしていた時だった。
すでに中学校の卒業証書をもらってはいたものの、いまだ高校生未満の身の上で、できることならこの身分よ永遠に続け、とか思っていたことを覚えている。
中三の頃(からお袋(に通わされていた学(習(塾(効果か、専願で首(尾(よく合格を果たしたのは、まあ、楽でよかった。だが、受験前に下見に行った時点で俺はこの高校に三年間も通うのかと、長々と続く坂道を上りながらうんざりしていたのも本当だ。ついでに言えば、学区割りの関係上、それまで仲の良かったツレ連中はのきなみ近所にある市立か、遠くの私立に進学が決まっていたから孤(独(感がいやでも増すというものだ。
この時点の俺には、まさか高校生活が始まるや否(や奇(怪(な女に出くわして、そのまま異様な団の創設に名を連ねることになるとは白昼夢でも思い描(きようのないことだったから、中学時代を回(顧(しつつ、未知のハイスクールライフになんとなく不安にもなりつつ、要するにしみじみとしていたわけさ。
そんなわけで、心の大半を支配する孤独を埋(めるべく、昼前までダラダラと眠(り続けたり、他の高校に進学する連中たちとしばしの別れパーティと称(するゲーム大会を開いたり、つれだって映画を観(に行ったりする──といったことに興じていたのだが、やがてそんな日々にも飽(きが来て、朝昼兼(用(の飯を喰(い、さて牛にでもなるかと自室でゴロゴロしていた四月直前の昼下がりのことだ。
寝(て起きて飯を喰い、また一(眠(りしようとベッドに横(臥(していた俺の耳に、家の電話が着信のメロディを奏(で始める音が聞こえた。
俺の部屋に子機はなく、お袋か妹が出るだろうと放置していたところ、しばらくして妹がコードレスホンを携(えて部屋に入ってきた。
これも今さらながらにして思うのだが、こいつが電話片手に俺のところに来るたびに、何やら変なことが発生しているような気がするな。
しかし、繰(り返すが、この時の俺はまだまだ無(垢(で、圧(倒(的に経験値が足りていなかった。
「キョンくん、電話ぁー」
妙(にニコニコしてやってきた妹に、
「誰(だ」
「女のひとー」
妹は俺に受話器を押しつけて、にへらっと笑い、くるりと身体(を回転させると、ホップステップジャンプという感じで部屋を出て行った。珍(しいな。いつもなら俺が追い出すまで部屋に居座っているのに、なんか急ぎの用でもあったのか。
いや、それより誰だ。俺は自分に電話をかけてきそうな女の顔を頭の中の選(択(表示画面でスクロールさせながら、受話器の通話ボタンを押した。
「もしもし」
一(瞬(の間があって、
『……はい。あの……』
確かに女の声がそう言った。しかし誰だかはまだ検(索(モードが終わっていないので解(らない。どこかで聞いたことのある声だったが。
『わたしです。吉(村(美(代(子(です。こんにちは。いま大(丈(夫(ですか? おいそがしくなかったでしょうか』
「あー……」
吉村美代子? 誰だっけ。
考え始めると同時に脳内スクロールが停止した。聞き覚えがあるのも当然だ、何度か顔を合わせたことのある人間だった。フルネームで言うからかえって解りにくい。吉村美代子、通(称(ミヨキチ。
「ああキミか。うん、全然いそがしくない。めっちゃヒマだけど」
『よかった』
心底安(堵(したような声が言い、俺は怪訝(に思う。いったい彼女が俺に何の用だ?
『明日、お暇(ですか? 明後日(でもいいんです。でも四月に入ってしまったらダメなんです。あなたのお時間をお借りできないでしょうか』
「ええと、俺に訊(いてんの?」(※1)
『はい。急に言ってごめんなさい。明日か、明後日なんです。おいそがしいですか?』
「いや全然。どっちも丸一日ヒマだ」
『よかった』
またもや心の底から響(いているような正直な囁(き声を漏(らし、
『お願いがあるんです』
美代子はどこか緊(張(した声に転じて続けた。
『明日、一日だけでいいんです。わたしに付き合ってくれませんか?』
俺は出て行った妹の影(を追い求めるように、開きっぱなしの自室ドアを眺(めながら、
「俺が?」
『はい』
「キミと?」
『はい』
美代子は声をひそめるように、
『二人だけがいいんです。いけませんか?』
「いや、別に悪くはない」
『よかった』
また大げさに安心した吐(息(が聞こえ、明るさを努めて抑(制(したような声が、
『では、よろしくお願いします』
電話線の向こうでお辞(儀(している美代子の姿が目に見えるようだった。
その後、彼女は待ち合わせの場所と時間を、しきりとこちらの都合を気にしながら提案し、俺はただ「わかった」と言い続け、
『すみません。急に電話をして』
「いいさ。どうせヒマだ」
最後まで低姿勢な彼女に曖(昧(な応(えをしてから、電話を切った。こちらから切らないと、きっと美代子はいつまでも感謝の言葉を続けていただろうからだ。吉村美代子、通称ミヨキチは、そういう娘(だった。
俺は電話機を元の位置に返そうと、廊(下(に出た。するとそこで妹が何やらヘラヘラしながら待っていたので、ついでだとばかりに子機を押しつける。
「にゃはは~」
妹はアホみたいな笑い声を上げ、受話器を振(り回しながら去っていく。
俺は妹の行く末を案じつつ、ミヨキチの落ち着いた声を思い出していた。(※2)
でもって、翌日だ。
あまり詳(細(なことを書くつもりはない。一言で言うと面(倒(だからだ。これは小説であって業務報告書でも航海日誌でもない。ましてや俺の日記でなどあろうはずもないだろう。
つうことは、書き手である俺が好きなようにしちまってもいいはずである。そうさせていただこうじゃないか。
その日、待ち合わせ場所にやって来た俺は、先に来て待っていたミヨキチの姿を見いだして早歩きに近づいた。俺に気づいた彼女は、顔をこちらに向けたままきちっとした仕草でお辞儀をした。
「おはようございます」
蚊(の鳴くような声での挨(拶(の後、ポシェットを肩(にタスキがけし、お下(げ髪(を振るわせるようにして彼女は頭を上げた。花(柄(ブラウスの上に水色のカーディガンを羽織り、ボトムは七分丈(のスリムジーンズ。細身の体形によく似合っていた。
俺は「やあ」とか何とか返礼をして、周囲をゆっくりと見回した。
駅前である。SOS団の集合地点としてお馴(染(みとなっている例の場所だ。だが、この時の俺は、数ヶ月後に意味不明な団に所属させられ、この世に覇(を唱えんとするイカれた団長により顎(でこき使われることになろうとは思っていなかったので、普(通(に辺りを眺めただけだ。女と二人で会っているところを誰(かに見られたら面倒だなと考えたわけでもない。んなこと、思いつきもしなかったね。(※3)
「あの」
ミヨキチは上品な顔を、少しばかり緊張させながら言った。
「行きたいところがあるんですが、いいですか?」
「いいよ」
そのために来たんだからな。行くつもりがなければ昨日の電話で断っている。そして俺にはミヨキチの依(頼(を無下にする理由がなかった。
「ありがとうございます」
そんなに丁(寧(にすることもないのに、ミヨキチはいちいち頭を下げて、
「観(に行きたい映画があるんです」
むろん構わない。彼女のぶんのチケットを買ってやってもいいくらいさ。
「それには及(びません。自分で出します。わたしが無理を言って来てもらっているのですから」
はっきりと述べて、彼女は微笑(んだ。汚(れを知らぬ笑(顔(とはこういうのを言うんだろう。妹とは違(った意味で、無(邪(気(にすぎる笑みだった。
ちなみにこの近所に映画館はない。俺とミヨキチは駅に向かい、切(符(を買って電車に乗り込んだ。彼女の観たい映画は、シネコンやデカい劇場ではかかっていない、ドがつくほどのマイナーなシロモノで、小さな単館系ロードショーだった。
電車に揺(られている間、彼女はタウンガイド誌を握(りしめてずっと窓の外を眺(めていたが、時折思い出したように俺の顔を見上げ、ぺこりと首を傾(ける。
別に黙(ってばかりだったわけではなく、それなりに会話をしていたが、別に書くこともない。とりとめのない世間話くらいさ。この春からどこの学校に行くのかとか、俺の妹の話とかをした覚えがある。(※4)
目的の駅に着き、映画館まで歩いている最中も同じ。ただ、彼女は少々緊(張(しているようだった。その緊張は、劇場に到(着(してチケット売り場を前にするまで続いた。(※5)
そろそろ次の回が始まろうとする時間なのに、売り場には誰も並んでおらず、その映画の不入り具合を表していた。俺はちらりとミヨキチを見てから、ガラスの向こうでヒマそうにしているおばさんに、
「学生二枚」
と告げた。
……と、ここまで書いたところで俺はキーボードから指を離(し、パイプ椅(子(にもたれ掛(かって大きく伸(びをした。
どうも慣れないことをしているせいか、肩が凝(ってしかたがない。俺がぐりんぐりんと頭を回していると、
「調子よく書けているではないですか」
古泉が微(笑(しつつ興味深そうにしつつ、
「その調子で最後までお願いします。いや実に、読ませてもらうのが楽しみですよ」
残念だがな、古泉。賭(けてやってもいい。読んだところで楽しいものにはならんと言っておきたい。恋(愛(小説とはほど遠いものになっているだろうからな。
「それでも」
と、古泉は自分のノートパソコンの液(晶(を指で弾(きながら、
「僕はあなたの書くものに興味をそそられます。何であろうと、文章にはその執(筆(者の内面がわずかでも含(まれるものですからね。行間から滲(み出る作者の声ならぬ声を聞くことができるのです。僕は長門さんや朝比奈さんの文章以上に、あなたの小説が気がかりですよ」
お前が気にかける必要はないだろう。いつからお前はハルヒの精神面担当以外の仕事を始めるようになったんだ。俺の精(神(分(析(は任務外作業なんじゃねえのか。
「あなた次(第(で涼宮さんの精神状態が変移することを考えると、一(概(にそうだとも言い切れませんが」
どこまでもこしゃくな野(郎(だ。
俺は古泉の相手を打ち切ると、部室を眺め渡(した。ハルヒはまだ帰ってきておらず、朝比奈さんはお絵かき中である。
「うーんと、うーん……」
ふわふわした上級生、朝比奈さんは困(惑(した表情で紙に向かい、鉛(筆(を子供っぽく握りしめてちょこちょこっと線を引き、しばらく考えてから消しゴムをこしこしと使い、また、
「うーん」
うつむいて熱心に作業を続けていらっしゃる。朝比奈さんの絵本風童話はすでに紹(介(した通りであるが、今の彼女が取りかかっているのはまさにアレだ。できあがり具合を見ても、彼女の努力は結実したと言ってもいいよな。非常に朝比奈さんらしい作品になっていたし。
というわけで、現時点で自分の仕事を終(了(させているのは、
「…………」
テーブルの端(っこ、定位置で静かに本を読んでいる長門だけだった。あの無題超(短編三部作を提出したことで、すっかり身軽になっている小(柄(な文芸部員は、楽しげに飛び回っているハルヒや呻(吟(する朝比奈さんと俺などすっかり蚊帳(の外のできごとのように、黙って深々と読書に励(んでいた。
俺からすれば、無題1、2、3の自作解説を長門に頼(みたいくらいであったのだが、なんとなく何も訊(かないほうがいいようにも思え、それより気にするべきなのは今俺が取りかかっている〝恋愛小説〟とやらのほうだろう。必死に書いたはいいが、
「つまんない。没(」
の一言で、あっさりゴミ箱直行となってしまったらかなわん。しかしハルヒの気に入りそうなものを、と気をつかって書くのもなんかむしゃくしゃする。どうして俺がこんなしょうもないことでまであいつに配(慮(せんといかんのだ。
俺がだんだん小腹を立て始めていると、またもや横から爽(やか笑顔くんが、
「それはないでしょうね」
俺の独り言を聞きとがめたようだ。古泉はノートパソコンから指を離さず、パチパチとブラインドタッチを続けながら、
「あなたが過去の実体験、それも僕や涼宮さんに出会う前のドキュメントを書いたのだとしたら、涼宮さんは興味をもって読んでくれると思いますよ」
書きながら会話できるとは器用なもんだが、しかしお前に保証されてもな。
「たとえばですね」
古泉はどこか楽しげに、
「僕の過去を知りたいと思ったことはありませんか? この学校に転入してくるまで、僕がどこで何をしていたか、何を思って日々を過ごしていたのか、その片(鱗(を知ってみたいと思わないんですか?」
そりゃお前……。どっちだと言われたら聞いてみたいさ。超能力者の日常が描(かれたノンフィクションがあったりしたら、小学生時代の俺なら小(躍(りして読みあさっただろう。特に『機関』とかいう組織がどうなってんのかなんて、今でも知的好(奇(心を刺(激(させられるぜ。
「知ってもがっかりするだけですよ。たいして面(白(いエピソードはありません。あなたもご存じのように、僕は地域と時間を限定されている超能力者ですからね」
古泉はそう言いつつ、
「ですが、常人とは違(う日常を過ごしてきたのは確かです。いつかほとぼりが冷めた頃(に自(叙(伝(でも書こうかと思っているくらいですよ。書き上がったら、献(辞(にあなたの名を入れておきます」
「入れなくていい」
「そうですか。その際には、ぜひあなたに献(本(しようと考えているんですが」
俺は答えず、お茶を求めて手を伸(ばした。手にした湯飲みはすでに空だ。朝比奈さんは絵本作業にかかり切りのため、二杯(目も自分で入れるしかないな、と立ち上がりかけたとき、
バァン、と部室ドアを開き、威(勢(のいい女が入ってきた。
「どう、みんな。はかどってる?」
ハルヒは妙(なほどハイなテンションで、ずかずか部室に入ってくると団長席に腰(掛(け、持っていた紙束を机に置き、俺に怪(光線を発しているような目を向けた。
「あ、キョン、お茶入れるんだったらあたしのもお願いね。みくるちゃんはお仕事中だし、邪(魔(しちゃ悪いわ」
ここで変に抵(抗(するのもガキくさくてイヤだ。せめてもの反(抗(の印として、俺は聞こえるように溜(息(をついてやり、それから急(須(にポットの湯を注ぐと、出がらしのお茶を俺とハルヒの湯飲みに注ぎ、臨時のウェイターとなって団長席まで持っていった。
ハルヒは機(嫌(良く湯飲みを受け取るとズルズルすすり、
「なにこれ。ただの薄(茶(色(のお湯じゃない。葉っぱ取り替(えなさいよ、葉っぱ」
「お前がやれ。俺はいそがしい」
いそがしいのは事実だったので、たとえ団長のありがたいお言葉であろうと、この程度の抗(命(は許されてしかるべきだ。会誌作成よりお茶くみが優先されるとは言わせないぜ。
「ふうん?」
ハルヒはニヤリとしつつ、
「あんた、ちゃんと書いてんのね。やっと? 感心感心。締(め切(りには間に合わせなさいよ。そろそろレイアウト工程に入んないといけないからね」
俺は自分で入れた茶を飲みながら、ハルヒの上機嫌の元を探(ってみた。どうやら机に投げ出されたA4用紙の数々に要因があるらしい。
「これ?」
ハルヒは目ざとく俺の目線を嗅(ぎ当てて、
「上がってきた原(稿(よ。発注してたヤツ。みんなけっこうがんばってくれたわ。谷口はどうしても書けないって言うから、明日まで延ばしてあげたけど。国木田のは半分まで。あれ、真(面(目(だから明日には最後まで出してくるはずよ」
鼻歌を奏(でながら、ハルヒは原稿をチェックするように一枚一枚摘(み上げ、
「これが漫(研に頼(んでたイラストで、こっちのが美術部に頼んでた表紙のラフ絵ね。それからこれがコンピ研のやつ。これだけでもページが稼(げそうだわ。何書いてあんのかはさっぱりだけど、ま、いいわ。熱意は伝わってくるし、解(るヤツが読めば面白いんでしょ、きっと」
なるほどな。つまるところ、会誌作りが着々と進行していることに喜楽を見いだしているらしい。何もないところから形あるモノを作っていき、徐(々(に完成に近づきつつある過程は、そりゃ俺でも楽しいさ。プラモを組み立てていくというか、RPGでラスボスに迫(っていく道筋というか、とにかくそんなんだ。さぞ楽しかろう。自分がプラモの部品やノンプレイヤーキャラの立場じゃなけりゃな。
「何ぶつぶつ言ってんのよ」
ハルヒはあっという間にお茶を飲み干すと、湯飲みをぷらぷらさせながら、俺にニンマリした笑(みを見せつけて、
「とっとと自分の席に戻(って、ほら、書きなさい。部外者のコンピ研がこんなにがんばってんのに、あんたがサボってちゃ外聞が悪いでしょ。本来、これはあたしたちの受けた勝負なんだからね」
ハルヒはかっこうのライバル組織が見つかって覇(気(がいい。腹立ち紛(れに、ここで生徒会長の正体を教えてやりたいくらいだ。ついでに言いたい。最初にイチャモンをつけられたのは文芸部員である長門であって、お前は突(然(横から飛び出してきた野(次(馬(だろうに、どうしてお前がリーダーシップを取っていることになってんだ。編集長なんて腕(章(をつけてまで。
俺は古泉の横顔を睨(み、ハルヒの退(屈(紛らわせ作戦がこれで第(何(弾(目(だったっけと考え始めた。確か孤(島(が一番手で、ケチの付いた雪山が第二弾か。いや待てよ、喜緑さんがやって来たカマドウマのは──あれは長門だったか。
などと無意味に回想していると、ノックの音が耳に響(いた。
「失礼する」
返答を待たずにドアを開け、長身の人(影(が部室に侵(入(してきた。
ピキン──。
ピアノ線をニッパーで切り飛ばしたような音が聞こえたのは、たぶん俺だけだ。
まるでシューティングゲームの中ボスみたいに、いきなり現れたのは生徒会長だった。
そして、その斜(め後ろに喜緑さんがいた。
会長は眼鏡(を意味なく光らせた真面目モードで、ゆっくりと部室に視線を横切らせ、
「なかなかいい部屋だな。ますますキミたちにはもったいない」
「なにしに来たのよ。仕事の邪魔だから帰ってくれる?」
ハルヒは特(撮(ヒーローの変身よりも素早く不機嫌モードへと変化した。会長よりも偉(そうな態度で腕(組(みし、席を立とうともしない。
会長はハルヒの殺人的視線攻(撃(を真正面から受け止め、
「敵情視察とでも思いたまえ。私はキミたちの宿敵や乗り越(えるべき壁(になったつもりはない。様子を見に来ただけだが、いちおう条件提示をした責任がある。キミたちが真面目にやっているかどうか、確認のための見回りと考えてくれたまえ。ふむ。見たところ、動くだけは動いているようだ。けっこうなことだが、運動総量が直接的に結果へと直結するとは必ずしも限らん。ゆめゆめ精(進(を怠(るべきではないと言っておこう」
別に言われたくもなかったが、俺より先に反応したのは団長(現状、編集長)だ。
「うっさい」
きゅるり。ハルヒの目が鋭(角(な逆三角形へと変化する効果音が聞こえたほどだ。
「イヤミを言いに来たんだったらおあいにく様。あたしはそんな程度の低いボケにツッコンであげたりしないんだからね」
「私はそれほどヒマではない」
会長はわざとらしい仕草で指を鳴らした。いまにも「ギャルソン!」とか言いそうだったが、眼鏡のやり手生徒会長は給仕係を呼んだわけではなく、
「喜緑くん、例のものを」
「はい、会長」
喜緑さんは脇(に抱(えていた冊子の束を捧(げ持ち、しずしずとハルヒの前に進んだ。
長門は膝(の上に開いたハードカバーのページに目を戻し、ピクリともしない。
「…………」
喜緑さんも長門などいることすら気づいていない、という感じの顔に笑みを広げて、
「どうぞ。資料です」
ハルヒに古ぼけたいくつもの冊子を差し出した。
「なに、これ」
ハルヒは迷(惑(そうな顔を隠(さず、しかし、くれるものなら呪(われた道具でももらうとばかりに古冊子を受け取って、眉(の角度をメキメキと上(昇(させる。
会長が皮肉な仕草で眼鏡を弄(りながら、
「昔の文芸部が作成した会誌だ。せいぜい参考にしたまえ。独自の理論でものを考えるキミのことだ、文芸という言葉の意味を履(き違(えている可能性があるのでな。礼はいらん。恩義なら喜緑くんに向けたまえ。資料室の書(架(からそれを探し出す労を負ったのは彼女だ」
「ふーん、ありがと。ぜっんぜん嬉(しくないけど」
一方的に塩を送られたものの別に塩分不足に陥(っていなかった甲(斐(国領主みたいな顔で、ハルヒはバサリと冊子群を団長机に置き、そこで初めて使者の顔に思い当たるものを見つけたように、
「あら、あなた……。へえ、生徒会の人だったわけ?」
「はい。今年度から」
喜緑さんはおっとりと返事をし、一礼するとしずしずした足取りで生徒会長のそばに戻(っていった。ハルヒはどうでもよさそうに、
「あのカレシとは、どう、うまくいってんの?」
ハルヒの言うカレシとは、コンピ研部長に違いない。
「あの時はお世話になりました」
喜緑さんは微(笑(をそよとも揺(るがせずに、
「ですが、もうお別れしました。今思うと、本当は最初からお付き合いしていなかったようにも思える、それは遠い記(憶(です」
回りくどく返答しているが、俺には理由が解(るような気がする。きっとコンピ研の部長氏も俺に同意してくれるだろう。彼には付き合ってたなんて自覚がない。SOS団のサイトなんかをチェックしてたバチがあたっただけだ。まあ、多少気の毒ではあったが。
「…………」
ぱらり、と長門は本のページをめくる。
この時点になると長門と喜緑さんは互(いに積極的な無視合戦をしあっているような感じがした。だが長門は誰(が相手でも普(通(にこんな態度なので、おそらく俺の主観にすぎないのだろう。どうも最近、変な色のついた眼鏡(をかけさせられているような感覚がする。
「ふうん、そう」
ハルヒは口元を変な形にして、
「まあ、若いしね。いろいろあるわ」
言っとくが、お前のほうが年下だぞ──という低(俗(なツッコミをするつもりはない。ここはスルーが基本だ。それに喜緑さんの実(年(齢(はたぶん長門と同じくらいだ。年長かどうか疑わしい。たまたま二年生として存在しているだけなんじゃないかと思うね。
しかし、ここでそんなことを教えてやるわけにもいかない。長門の反応からみて、喜緑さんは敵ではなかろう。俺はさりげなく朝比奈さんの様子を目の端(でうかがう。彼女は少なくとも長門が宇宙人関係者だと知っていた。最初にここに連れてこられたときの驚(きようがそれを示している。ならば喜緑さんもまたそれらしいということに気づいているんじゃないかと勘(ぐる俺の心の動きは正当だろう。
しかし──。
「うーん、あ。えーと、ううん」
この愛くるしい上級生さんは、一心不乱に絵本を描(くことに必死のあまり、部室にやって来た二人組の闖(入(者にまったく気づいていないようだった。強固な集中力を褒(めて差し上げるべきなのか、それともドジっ娘(へどんどん近づいているのを心配したほうがいいのか。後者だとしたらハルヒの教育の成果だ。
俺が漠(然(と立っている間も、ハルヒと会長は言語的攻(撃(を応(酬(させていた。
「小説誌にするらしいが」
と、会長のニヒルな声。
「果たして、キミたちにまともなものが書けるのかね」
「何度でも言うわ。おあいにく様」
ハルヒの決然とした声。
「あたしは全然心配なんかしてないのよね」
ハルヒはどこのワームホールから湧(き出ているのか調べたくなるほどの自信に満ちた顔をして、
「教えてもらわなくたって、小説を書くことなんて簡単よ。このバカキョンにだってできるわ。だって、たいていの人は文字を書けるでしょ? 文字さえ書けたら、文章だって書けるし、その文章を繫(げていくことだってできるわけ。字を書くのに特別な訓練なんていらないじゃない。もう高校生なんだしさ。だから小説書くのに練習なんか必要ないの。ただ書いてみればいいだけのものよ」
会長はくいっと眼鏡をずり上げて、
「キミの楽観的な物の見方には感心するしかないな。しかし、いかにも幼(稚(だ」
俺も全面的に同意見だが、ここでハルヒを焚(きつけるようなことは慎(んで欲しい。たとえそれが会長として誰かに割り当てられたセリフなんだとしても、燃え上がったハルヒオーラを浴びるのはここにいる俺たちなんだからな。
案の定、ハルヒはぐんぐん眉(と目の端の角度を鋭(利(な刃(物(のような形にして、
「あんたがどんだけ偉(いのかは知んないわ。でもねっ! たとえ本当にあんたがすっごく偉いのだとしても、あたしは偉そうにするやつが大っ嫌(いなの。偉くもないのに偉そうなのはもっと嫌いだけどね!」
口ゲンカなら後(れを取らないヤツである。このままではいつまでも言葉のぶつけ合いを演じてくれそうだ。なにしろ会長はハルヒより偉そうなのだ。これまた演技なんだろうが、怒(りの火だるまと化したハルヒを前に平然としているのは大したものだ。会長も、それから喜緑さんも。
「ふむ。私は別段偉くはないとも。キミは偉い偉くないで人間を計るのかね。私が多少なりとも誇(るべき点を持つのだとしたら、それは公正な選挙結果によってこの地位にいるということだ。それで、キミは何によってその席に座っているのかね。団長どの?」
さすがは古泉に選ばれた人材と言うべきか、この会長は一本太い芯(の持ち主だった。ハルヒに向かってこうまで堂々と皮肉をかませられる人間など、この高校には他(にはいまい。
しかし、ハルヒはハルヒでたいしたヤツなのだ。俺が言うのだから間(違(いはない。
「挑(発(しようったってムダよ」
学園内非合法組織の領(袖(は、怒り出す代わりに不気味な笑(みを浮(かべた。
「生徒会は文芸部のついでにSOS団を潰(したいんでしょうけど、そうはいかないわ」
ハルヒはちらりと俺を見る。何だ、その目は。
輝(く瞳(はすぐに会長を串(刺(しにした。
「あたしは絶対、ここを動いたりしないんだからね。なぜだか教えて欲しい?」
「うかがおう」と会長。
ハルヒは、その声がマイクロ波なのだとしたら、どんな電子レンジよりも効率的だろうと思うような音量で、こう言った。
「ここはSOS団の部屋で、このSOS団はあたしの団だからよっ!」
言いたいことだけ言って、そしてハルヒに言わせるだけ言わせて、会長と随(伴(する喜緑さんは帰っていった。
「もう、腹立つわ。何しに来たのよ、あのバカ会長」
ハルヒは唇(を尖(らせてブツブツ呟(き、喜緑さんが持ってきた旧文芸部の会誌をパラパラめくっている。
ハルヒの雄(叫(びによって、さしもの朝比奈さんもようやくお客が来ていることに気づき、慌(ててお茶の用意をしようとしたが時すでに遅(く、しかしおかげで俺はようやく朝比奈さんの美味(しいお茶にありつけて心爽(やか、執(筆(もはかどる…………とは、いかなかった。
何となく、いったん気勢をそがれると意欲もなくなる。まして、クジ引きで決められたテーマで、かつ自分の過去エピソードとあってはな。
しかしそうも言ってはいられない。会長の登場によって燃え上がったハルヒのやる気は、今や部室の天(井(を焦(がすまでになっていた。
「いい、みんな」
ハルヒがアヒル口を開いて言ったことは、
「こうなったら死んでも会誌を作り上げて、それもすっごいのを作って完売させるのよ。一部も余さず、生徒会の鼻を明かしてやるの。いいわねっ!」
会誌は売り物ではなく配布物だし、こんなもんのために死ぬ気もなかったが、締(め切(りを破ろうものなら死なないまでも死ぬような罰(ゲームに遭(わされそうだ。まったく、いくらそれが役目なんだとはいえ、あの会長も演出過(剰(なんじゃないか? 古泉もだ、満足そうに微(苦(笑(している場合か。
「僕としましては」と古泉は例によって俺に囁(く。「非常に満足ですよ。涼宮さんの目が日常的な出来事に向いている限り、僕は例の空間とは無(縁(でいられるのですから」
そりゃお前はいいかもしれん。だが、俺はどうなる。このまま生徒会を相手にした学園闘(争(に突(入(するのは勘(弁(して欲しいぜ。あの会長がフリだけだというのは解(っているが、解っていないハルヒが何をおっぱじめるか、それこそ解らん。もし今回の会誌作りが会長の条件通りにいかなかったりしてみろ、ハルヒが素直に部室を明け渡(すはずがない。俺はこんなところに籠(城(して、あげく兵(糧(責めに遭いたくはないぜ。
古泉はくつくつと鳥みたいに笑い、
「考えすぎですよ。僕たちが今考えるべきは会誌を完成させることです。それで何とかなります。ならなかった時は──」
穏(やかなスマイル面(に、策(謀(家じみた表情をふっとかすめさせ、
「また別のシナリオを発動させるとしましょう。籠城戦ですか、それもいいですね」
鶴屋さんの観察眼によると生徒会長氏は司馬仲(達(のような感じらしいが、彼女なら古泉を誰(と比類させるだろう。黒(田(官(兵(衛(あたりか?
俺は水(攻(めを仕(掛(けられた高松城城主のような気分を味わいつつ、どうやら学園陰(謀(ものに憧(れを持っているらしい古泉が本気で謀略を発動させないように祈(った。
結局、この日には俺の原(稿(は完成しなかった。邪(魔(が入ったせいもあって、あれっきり一文字も進んでいない。
幸い、ハルヒは上がってきた原稿チェックをすませると、部室を飛び出て行った。新たな外注先を思いついたか、それともハッパをかけに行ったのか……。
ハルヒが戻(ってきたのは下校を催(促(する音楽が流れ始めた頃(合(いで、それは長門が本を閉じた時刻とぴったり一(致(していた。順調に書き進めていた古泉と、健(気(にがんばっている朝比奈さんに紛(れて、俺は鞄(を手にして立ち上がる。
さすがのハルヒもノートパソコンを持ち帰って家で書けとは言わなかった。ぷりぷり怒(るあまり忘れていただけかもしれないが、俺にとってはありがたい。
全員で下校する途(上(、山の上から降ってくるような冷たい風に身をさらしつつ、だが確実に春の息(吹(を感じつつ、来年度、文芸部に入部希望するような新入生が現れたら、そいつは自動的にSOS団に組み込まれてしまうのだろうか──なんてことを考えているうちに家に着いた。
そんなわけで、俺が自伝的小説の続きを書き始めたのは、次の日の放課後だ。
ええと、どこまで書いたっけ。ああ、映画の券を買ったところまでだな。
では、そこから再開しよう。
首(尾(よく入館した俺とミヨキチは、単館だけあって広いとは言い難(い劇場の真ん中あたりの席に座った。よほど不入りなのか、客入りはまばらどころかガラ空きだ。
その映画が何だったかと言うと、これがスプラッタ系のホラーだった。正直、あんまり好きなジャンルではなかったが、この日ばかりは彼女の希望を聞いてやらないわけにはいかない。それにしても、おとなしい風(貌(に似合わない趣(味(をしている。よほど観(たかったのか。
上映中、彼女は熱心な映画ファンとなってスクリーンを鑑(賞(していたが、ところどころ、ホラー映画特有のビックリ演出の際には素直にビクっとしたり、顔を背(けたり、一回だけ俺の腕(をつかんだりして、なんか知らんが俺をなごませた。
しかし、それ以外では食い入るように映像を見つめ、これだけ集中して観られたら映画制作者も本望だろうという真(面(目(ぶりだった。いちおう、映画について俺の感想を漏(らしておくと、端(的(に「B級だな、こりゃ」としか言いようがなかった。観て損をしたとは思わんが、とりたてて得をしたわけでもない。前評判も全然見聞きした覚えがないし、宣伝だってちょろっとしかしていなかったはずだ。
どうして彼女は、この映画を指定したのだろう。
そう尋(ねたところ、
「好きな俳優さんが出演していたんです」
少し照れたように、彼女は答えた。
エンドロールが上がりきらないうちに幕が閉じられ、俺たちは劇場を出た。
昼過ぎだった。どっかで昼飯にでもするか。それとももう帰るのかなと考えていると、彼女はひたすら控(えめな声(色(で、
「行ってみたいお店があるんですが、いいですか?」
見ると、彼女の開いているガイド誌のページの片(隅(が赤ペンで丸く囲まれている。ここから徒歩で行けるくらいの場所にある店だ。
俺は少し考えてから、
「いいに決まってるさ」
答えて、誌面に記された簡易地図を頼(りに歩き出す。彼女はどこまでもおとなしく、俺の斜(め後ろで歩いていた。ここでの会話も何かあったはずだが思い出せない。
しばらく歩いて到(着(したのは、こぢんまりとした喫(茶(店(だった。見るからにオシャレな外観と内装をしていて、男一人で入店するにはとてつもない勇気を必要としそうな、ザ・場(違(いという感じのとこだ。思わず店先で立ち止まった俺だったが、ミヨキチが心配そうに見上げてきたので、ごく自然な感じで木製の手動ドアを押した。
予想通り、店内の客層はほとんど女性で占(められていた。華(やかだ。男女のカップルが何組かいて、俺はなんとなくホッとした。
席に案内してくれたウェイトレスは、微笑(ましそうに俺とミヨキチを見て、やはり微笑ましそうに水の入ったグラスを持ってきて、さらに微笑ましそうにオーダーを聞いてきた。
メニューをためつすがめつすること三十秒、俺はナポリタンとアイスコーヒー、彼女は特製ケーキセットを注文した。どうやら彼女は最初から注文するものを決めていたらしく、ウェイトレスさんがサンプルとして持ってきた十種類くらいのケーキの中から、ためらいなくモンブランを指差した。
「ケーキセットだけでいいの?」
と、俺は訊(いたはずだ。
「それだけじゃ腹がすかないか?」
「いえ、だいじょうぶです」
彼女は背を伸(ばし手を膝(の上に置き、緊(張(したような顔で言った。
「わたし、小食なんです」
意外な答えだった。俺がまじまじと見つめていたせいだろう、彼女はすっと顔をうつむかせた。俺は慌(てて弁解に走り、やっとの思いで笑(顔(を取り戻(すことに成功した。今思えば、汗(が滲(み出るような恥(ずかしいことを言ったように思う。そのままで全然可愛(いとか、うっ、こうして書いているだけでもうダメだ。しかし、実際にミヨキチは綺(麗(な娘(だったのだ。彼女のクラスにいる男子の半分くらいから惚(れられてるんじゃないかと思うくらいに。
運ばれてきたモンブランとダージリンティーを、彼女は三十分くらい時間をかけて口に運んだ。俺はさっさと食い終わり、アイスコーヒーに入っていた氷が溶(けた水まで飲み干してしまうくらいの時間が経過していた。
ずいぶん手持ちぶさただったが、それを彼女に悟(らせないよう、俺は適当な話題を彼女に振(り、うなずかせたり首を横に振らせたり……。まあ、考えてみればそこまで気を遣(うこともなかったように思う。あん時の俺は気配りの塊(だった。俺も緊張していたのかもな。
茶店代くらい、俺が奢(ってもよかった。しかし彼女はあくまでかたくなに、自分のぶんは自分で払(うといって聞かなかった。
「今日、こうして付き合ってもらっているのはわたしですから」
というのが彼女の言い分だ。
精算を終え、俺たちは明るい日差しの中を歩き始めた。ホラー映画、小(綺(麗(な喫茶店の次はどこに行きたいのか。それとももう帰るのかな。
「…………」
歩きながら、彼女はしばらく黙(っていた。それから、やがて、
「最後に、一カ所だけ……」
小さな声で告げた場所、そこは俺の家だった。
というわけで俺は彼女を自宅に連れ帰り、俺たちの帰りを待っていたかのようにやって来た妹と三人でゲームして遊んだ。
「ふう」
そこまで書いて、俺は指を止めた。
ここ、部室にいるのは古泉と長門だけである。ハルヒは相変わらず走り回っていて、朝比奈さんは絵の最終チェックのため美術部に出かけていた。
俺が書いた文章を最初からスクロールさせていると、視界の横から古泉の顔が湧(いて出てきた。
「最後まで書けたんですか? もう?」
「どうかな……」
答えつつ、そう言われたらこれで終わってもいいような気がしてきた。考えてみれば、こんなもんをせっせと書いてて何になるんだ? 文芸部のため、ひいては長門のため──ってんのならハリキリもするが、ようはSOS団がこの部室を根城にし続けるための手段であり、ハルヒの退(屈(しのがせ計画の一(環(だ。裏で糸を引いているのは古泉で、会長は職権の乱用を腹に抱(えている古泉の傀(儡(モドキだ。言うなれば、この一件は回りくどい自作自演である。
しかしながら、古泉の期待するように第二ステージみたいな対生徒会全面戦争はどうやったっても避(けたい気分であった。なにより、いちおうだが長門が中心にいるのだ。俺はあいつに平(穏(な学生生活を満(喫(してもらいたいと考えている。この部室の片(隅(で、静かに本を読んでいる長門を眺(めて心の平静を呼び起こされるのは俺だけではないと信じたい。
「まあ、いいか」
俺は古泉に顎(をしゃくって見せた。
「ハルヒに見せる前にお前の意見を聞きたいぜ。読んでみろ」
「読ませていただきましょう」
興(味(津(々(といった古泉の顔を見ながら、俺はタッチパッドを操作した。
団員に支給されているノーパソは団長机のデスクトップパソコンをサーバにしてLAN接続されている。ちょちょいと操作してやるだけで部室の隅に置かれていたプリンタが作動開始、印刷した用紙を吐(き出し始めた。
数分後。
読み終えた古泉はニッと笑い、こうコメントした。
「はて、ミステリの役割は僕の仕事だと思っていたんですが」
やっぱり気づきやがったか。
「なんのこったい」
とぼけることにする。
「俺はミステリなんて書いたつもりはないが」
古泉はますます笑(みを広げ、
「なおのこと問題ですね。これでは恋(愛(ものにもなっていませんよ」
だとしたら、俺の書いたそれは何だってんだ?
「これは、ただの自(慢(話です。可愛(い女の子とデートした、という」
普(通(に読めばそうなるかな。だが、古泉。お前は別のことに気づいただろう。どこが怪(しかった?
「冒(頭(からです。こうもあからさまではね。感づくなというほうが無理ですよ」
原(稿(を揃(えた古泉は、ボールペンを取るとそのうち数枚に印を付け始めた。※印だ。というわけで、前文にあった(※)ってのは古泉がつけたものである。
「あなたも親切な人ですね。手がかりを連続して書いてくれるとは。どんな鈍(い読者でも、(※4)くらいでピンと来ますよ」
俺はすっとぼけるようにして舌打ちし、横を向いた。長門の動かない姿を見て心を安らげようと思ったのだ。おかげで目は安らいだが、耳には古泉が追い打ちをかけてくる。
「このままではオチがありませんね。そこで提案です。一行か二行、この後に付け加えることがあるでしょう? いわゆる種明かしという部分です。決して手間ではないはずですが」
やっぱりあったほうがいいのかね。
古泉のアドバイスに従うのは業(腹(だが、今回ばかりは耳を傾(けておいたほうがいいような気もする。ハルヒの精(神(分(析(に関してはヤツが専門だしな。
って、待てよ? なんで俺がハルヒの読書感想を気にかけないといかんのだ。恋愛小説を書けなんて無茶を言い出したのはあいつで、その無茶を何とかやってやったのは俺であり、それは朝比奈さんや長門だって同じだ。これで難(癖(つけるようなら、編集長の座に勝手に居座ってしまったハルヒこそを糾(弾(すべきだろう。
俺が液(晶(画面の表示を凝(視(していると、古泉が含(み笑いを漏(らした。
「そう思い悩(むことはないように思いますがね。それに僕が気づくようなことを、涼宮さんが気づかないとは思えません。詰(問(を受ける前に……おっと」
古泉はブレザーのポケットを押さえた。虫の羽音のような音が響(いている。
「ちょっと失礼」
携(帯(電話を引っ張り出した古泉は、画面を一(瞥(して、
「野(暮(用ができたようです。少しばかり中座させてもらいますよ。いえ、ご安心ください。単なる定時報告のようなもので、例のアレではありません」
その言葉を裏付けるように、古泉はニコヤカな顔のまま部室を出て行った。案外、こいつこそ影(でどっかの女子生徒と付き合っているのかもな。如(才(のなさそうな古泉のことだ、俺たちの知らないところで何か普通のことをしていても不思議ではない。
で、俺と読書に没(頭(する長門だけが残された。
長門は顔も上げない。何か言ってやろうかと思ったのだが、俺は俺でまだ迷っている最中だ。蛇(足(を承知で書くべきか。
沈(黙(の中、俺はそれまで書いていた小説モドキのファイルを保存終(了(させ、新しいテキストファイルを立ち上げた。真っ白な画面がモニタに表示される。
とりあえず、書くだけ書いてみるか。古泉の言うとおり、二行くらいで終わる。
カタカタとキーを打ち、推(敲(なんてする長さでもないのでそのままプリントアウト指示。
プリンタから出てきた一枚のコピー用紙をじっくり眺(めているうちに、俺は全文を削(除(処理したくなってきた。だめだ、これは。昔話にしても恥(ずかしすぎる。
俺は最終ページとなるその一枚を折りたたみ、制服ブレザーの内ポケットにしまい込んだ。
と、同時に、
「谷口、また逃(げちゃったわ。明日は縛(り付けてでも書かせなきゃね。キョン、あんたもよ。そろそろ完成してないと編集長として怒(るわよ」
ハルヒが部室に入ってきた。
そして、古泉がテーブルに置きっぱなしにしていった俺の原稿に目を留めた。
ちょっと待て、という俺の願いも虚(しく、ハルヒは神速の動きでプリントアウトしたコピー用紙を奪(い取った。自分の机に着席し、おもむろに読み始める。
俺はあきらめと開き直りの境地を半々に感じつつ、強権を誇(る編集長の顔色をうかがった。
ハルヒは最初ニヤニヤしていたくせに、中(盤(辺りで無表情になり、枚数を経るとともに表情が失(せていったが、最後のページを読み終えて、また表情が変わった。
あな珍(しや。ハルヒがキョトンとしていやがる。
「これで終わり?」
俺は神(妙(にうなずいた。長門は何も言わずに開いた本のページを見つめている。朝比奈さんは出向中。古泉は何か理由をつけて出て行った。ハルヒに余計な注進をする人間はどこにもいないはずだ。
しかして──。
ハルヒは俺の原(稿(を机に置くと、改めて俺に向き直った。
そして、ニッと笑いやがった。古泉と同じように。
「オチは?」
「オチとは?」
しらばっくれることにする。
ハルヒは不気味なほど優(しく微笑(み、
「これで終わりだなんて、そんなことないでしょ? このミヨキチって子、その後どうなったの?」
「さあ、どっかで幸せに暮らしてるんじゃないかなあ」
「噓(ね。あんた、知ってるでしょ」
団長机に手をついたハルヒは、そのまま机を飛び越(えて俺の前に跳(んできた。かわす間もなく、俺はネクタイをつかまれる。このバカ力女め、息苦しいだろうが。
「離(して欲しかったら言いなさいよ。ま正直にね」
「何が正直にだ。それは小説さ。そう、フィクションなんだ。そこに書いてある俺ってのは、俺じゃなくて、俺の書いた一(人(称(小説のキャラクターなのさ。ミヨキチもな」
ハルヒの笑顔がますます接近し、俺の首はさらなる力で締(められる。いかん、窒(息(の危機が迫(ってきた。
「噓言いなさい」
ハルヒは清(々(しい口調で、
「あんたに噓っぱちな小説が書けるなんて、ハナっから思ってないわ。どうせ身近にあった思い出とか人から聞いた話を書き写せる程度よ。あたしの勘(では、これ、どう読んだって実話を元にしてるわよね。あんたの」
ハルヒの目は爛(々(と輝(いている。
「ミヨキチって誰(? あんたとどういう関係?」
ギリギリとネクタイは締まり続け、とうとう俺は真実を白状した。
「たまに家に来て、晩飯喰(って帰ったりする」
「それだけ? まだ何か言うことあるんじゃないの?」
俺は反射的にブレザーの胸を押さえた。ハルヒにはそれで充(分(だった。
「ははぁん。そこに残りの原稿を隠(してるのね。よこしなさい」
なんつう嗅(覚(のきくヤツだ。感(嘆(の念を禁じ得ない。しかし、俺が賞賛の言葉を発してやる前に、ハルヒは実力行使に出た。
もみ合う俺の股(に右(脚(を突(っ込むと、どこで覚えたのか、鮮(やかな内(掛(けを放った。
「うおぅ」と俺は虚しく声を上げる。
体を預けてきたハルヒによって俺は床(に押し倒(された。ハルヒはマウントポジションの体勢で俺に馬乗り。ブレザーの内側に手を入れようとする。何とか抵(抗(を試みる俺。
「有希、手を貸してちょうだい。キョンの手を押さえてて」
言うなりハルヒは俺のブレザーを脱(がそうとし始めた。おいおい、お前には羞(恥(心(というものがないのか。脱がすのは朝比奈さんだけにしておけよ、この痴(女(め。
「こら、やめろ!」
助けを求める目を長門に向けた俺は、どうしようか迷っているような、そんな感じの微(妙(な無表情顔に直面する。
いつのまにか、長門は自分のパソコンの蓋(を開けていた。
いつからだ? コンピ研のコンピュータに侵(入(してプログラムを書き換(える技術を持っているこいつのことだ、俺のパソコン内部を盗(み見するくらいなんぞ楽勝だろう。えーと、見られたのかな?
「…………」
長門はどちらの加勢もせず、冷静な目で俺とハルヒのグラウンド合戦を見守っている。
と、そこに、
「ただいま帰り──ええっ!?」
朝比奈さん登場。なんちゅうタイミングで来る人なんだ。仰(向(けに寝(転(がっている俺と、その上にまたがり逆セクハラを敢(行(しているハルヒを見て、彼女は何を思ったか、
「ご、ごめんなさぁい! あたしは何も見ていませんっ! 本当ですっ」
見当違(いのことを叫(びながら走り去った。
「…………」
と、長門は静観中。
「編集長の言うことが聞けないの? さ、よこしなさい!」
と、ハルヒは凶(暴(な笑(み。
俺はハルヒの両手をガードポジションでさばきつつ、心から念じていた。
古泉、もはやお前だけが頼(りだ。早く戻(って来てくれ。
最後に印刷した一枚。ブレザーの内ポケットに収まっているそれには、こう書かれている。
ちなみに吉村美代子、通(称(ミヨキチは、俺の妹の同級生であり、妹の一番の親友でもあり、その当時、小学四年生十歳だった。
今も一年前も、ミヨキチは妹の同級生とは思えないほど大人びた姿形をしていた。どこが小食なのかと疑いたくなるくらい背があって、たたずまいといい、とっさに見せる表情といい、ややもすれば朝比奈さんより大人に見えるほどだ。そういう小学生らしからぬ人相風(体(のおかげで、映画館の券売の人やもぎりのバイトさんも見(逃(してしまったのだろう。
気づいたとしてもいちいち止めていたかどうかは疑問だが。学生証を提示しなくとも学生料金でチケットを売ってくれたしな。
観(に行った映画は映(倫(によってPG‐12の指定を受けていた。つまり、十二歳未満は成人保護者同(伴(という条件だ。俺ならとうに十五歳になっていたからいい。
問題なのはミヨキチだ。だが彼女は正しく理解していた。自分の外観が十二未満に見られることはないであろう、と。
ただし一人で行くには踏(ん切りがつかなかった。彼女の両親は割合に固い人(柄(で、スプラッタなB級ホラー映画に理解がなく、そんなものを観に行きたいと言おうものなら説教ものだ──とは彼女から聞いた説明さ。
かと言って友人を誘(おうにもウチの妹なんか今でも小学校低学年にしか見えない。映画の上映は三月いっぱいで終わる。いそがないと鑑(賞(の機会は失われる。
そこで彼女は考えた。一(緒(に行って普(通(にチケットを売ってもらえそうな人間は誰だろう?
俺だった。
自分で言うのも何だが、昔から俺は小さい子供にやたらと懐(かれる。従兄弟(どもの大(抵(が俺より年下で、田舎で一同勢(揃(いしたときなんかによく世話をさせられていた習性からくるものだと思われる。
当然、妹の友達連中のあしらいなども日常茶(飯(事(だ。その中にはミヨキチもいて、彼女も俺のことをよく知っていた。
よく遊びに行く家にいる友人の兄貴で、春休みにヒマそうにしているヤツ。小学四年生の交友範(囲(で思いつく人物として浮(かび上がったのが俺だったというわけだ。
彼女はこうも考えた。映画のついでだ、これも子供一人では入りにくいところにも行っておこう。ということで、あの喫(茶(店(が選ばれた。あの時のウェイトレスさんでも微笑(ましくなろう。背(伸(びした小学生が一人で入るには敷(居(が高い店だったし、身分的にはまだ中学生の俺も気(後(れするくらいだった。喫茶店内の俺とミヨキチ。ハタ目からは、どうやったって兄妹以外に見えなかったに違いない。
現在は小学五年生、もうすぐ六年のミヨキチこと吉村美代子。あと五年も待てば、朝比奈さんの対(抗(馬(になっているかもしれん。
どっかでハルヒの目にとまったらの話だが。
さて、ここからは後日談になる。
会誌は期日までに出来上がった。コピー用紙に印刷したものを業務用のデカいホチキスで留めただけの冊子だが、内容は──身内びいきを差し引いて言うんだが──けっこう充(実(していたと言っていい。
特に秀(逸(だったのが、鶴屋さんの書いてきた冒(険(小説だ。『気の毒! 少年Nの悲劇』と題された短編ドタバタ小説は、読む者すべてを残らず笑い転げさせた。俺なんか笑いすぎで涙(が出てきたくらいだ。この世にこんな面(白(い物語があったとは──なんて感じたのは久しぶりのことである。これを読んで顔面の筋肉をピクリとさせなかったのは長門くらいだったが、その長門でも自室でこっそり読み返してクスクス笑いを漏(らしているんじゃないかと思うくらい、鶴屋さんの躍(動(した文体からなるスラップスティック小説は抱(腹(絶(倒(ものだった。
薄(々(思っていたが、改めて実感する。ひょっとしたら天才なんじゃないか? あの人は。
SOS団関係者の他(、谷口の書いた恐(ろしくオモシロくない日常エッセイやら、国木田の豆知識のような学習コラムやら、漫(研の誰(かが描(かされた四コママンガとか、ハルヒが熱心に執(筆(依(頼(と原(稿(催(促(に走り回ったおかげで、文芸部の会誌としては分厚すぎるシロモノになっていて、一冊ごとに束ねてホチキス留めするのにやたらと手間がかかったものの、用意した二百部は、呼び込みもしていないのに一日で捌(けた。おそらく外注のために走って回っていたハルヒの行(為(が意図せずに事前宣伝になっていたものと思われる。
そのハルヒだが、「あたしも書くわよ」と言ったとおり、偉(そうな編集後記以外にも短文を寄(稿(していた。
『世界を大いに盛り上げるためのその一・明日に向かう方程式覚え書き』というタイトルの、図形だか記号だかが満(載(された論文じみたもので、ハルヒの説明によるとSOS団を恒(久(的に存続させるために何やら考えてみた、というようなものらしいのだが、俺にはさっぱり理解不能な文章だった。混(沌(とした秩(序(、と形容したくなるような意味不明さで、まるでハルヒの頭の中身がそのまま漏れて出てきたみたいな印象を持ったのだが──。
しかし、その論文モドキを読んだ朝比奈さんは腰(を抜(かして驚(いた。
「そんな……。これがそうだったなんて……」
見開いた目から愛くるしい瞳(がこぼれ落ちそうなまでの驚(愕(で、理由を尋(ねた俺に対し、朝比奈さんは、
「詳(しくは禁則事(項(なので言えませんが……」
と、断りを入れてから、
「これ、時間平面理論の基(礎(中の基礎なんです。あたしたちの時代の……ええと、あたしみたいな人なら誰でも最初に習います。発案者がどの時代のどの人だったのか、ずっと謎(だったんですが……。それが、まさか涼宮さんだったなんて……」
あとは絶句。俺も付き合って絶句し、ついでにこんな妄(想(が浮かび上がった。
ハルヒは自分の作った会誌を最低一部は自宅に持ち帰るだろう。その会誌が、あのハカセくんみたいな眼鏡(少年の目に触(れる機会がないとは言えない。ハルヒはあの少年の臨時家庭教師だからな。ハカセくんに関しては俺と朝比奈さんも大いにきっかけを与(えてしまっているが、それだけではなかったのかもしれない。結局はハルヒが根元的原因になっているのだろうか。そうでなくても色んな複合要素がありそうだな。朝比奈さん(大)への質問事項がまた一つ増えたぜ。
会誌の即(日(配布完(了(を受け、ハルヒはわざわざ生徒会室に出向いてその旨(を報告した。身体(中から自(慢(オーラがあふれ出していたのは言うまでもなかろう。
生徒会長はハルヒのカチコミにも似た登場にも眉(一つ動かさず、ただ眼鏡だけを光らせながら、
「約束は約束だ。文芸部の存続を認めよう。だが、SOS団とやらの存在に対しては未(だ関知し得ん。私の任期はまだしばらく残っていることを忘れるな」
という白々しい捨て台詞(を残して背を向けた。
それを敗北宣言と受け取ったハルヒは意(気(揚(々(と部室に戻(り、淡(々(と見守る長門の前で戦勝の踊(りを朝比奈さんとともに踊った。やれやれだ。
何にせよ、一つの騒(動(がこれで終わりを告げた。後は本格的な春の到(来(を待つだけだ。
このまま何事もなければ俺たちはそれぞれ進級する。残っている行事でハルヒが何かやらかしそうな時期になるものと言えば春休みくらいだろう。
何とも言い難(い、長いような短いような一年だった。これは内(緒(の話だが、俺は今年四月のカレンダーの一カ所に丸をつけている。それは去年の始業式の四月某(日(でもあった。
誰が忘れていたとしても、ハルヒ自身が覚えていないのだとしても、俺だけは忘れもせずに覚えている記念日だ。
ハルヒと出会ったその日のことを、俺は生(涯(忘れない自信がある。
記(憶(を失いでもしない限り、な。