ヒトメボレLOVER 1

 ひとさわがせな一本の電話が始まりの合図だった。

 毎年のことだが過ぎるやいなやあっという間に終息するクリスマスムードは今やいんすらなく、年明けへのカウントダウンが刻一刻とせまり来るものの、またハルヒが何かをやらかすつもりらしいハッピーニューイヤーにはそれなりのゆうがある冬休みのことである。

 その時、俺は年内に終えておかなければならない自宅のおおそうをひたすら先送りしつつ、部屋でシャミセンとかくとうしているところだった。

「暴れるな。じっとしてろ。すぐすむから」

「にゃる」

 こう声明を発するのも無視し、俺はすっかり冬毛にわってふかふかしている小さな肉食じゆうわきかかえる。

 いたく気に入っていたGジャンをざんなボロ布に変えてくれて以来、人並みの物覚えを持つ俺はそれを教訓として定期的にシャミセンのつめを切ってやることにしているのだが、シャミセンのほうもねこ並みの物覚えを持っているらしく、俺が爪切り片手ににじり寄ろうとするとばやげ出そうとしやがる。

 とっつかまえてからがまた一苦労で、なぐむなどのていこうくわだてる三毛猫を押さえつけ、ムリヤリ出させた手足の爪をすべて適度な長さに切り終えるころには俺の両手に無数の歯形が残されることになるのだが、肉体の傷とは違ってGジャンのしゆうは元にもどってくれたりはしないので気分が晴れたりもしない。まったく、異様に聞き分けのよかったおしやべり猫状態がなつかしい。あの時の素直なお前はどこに行ったんだ?

 まあ、もう一度喋り出すようなことがあったら、それはそれでよくないことの前兆だろうから、猫はねこねこしく「にゃあ」とでも鳴いているのが筋にあっているとも言えるが。

 俺がシャミセンの右手の爪切りを終え、今度は左手に移ろうとしていると、

「キョンくんー、電話ー」

 部屋のとびらを勝手に開き、妹がやって来た。片手にコードレスホンの子機をにぎりしめ、俺とシャミセンの人類と猫属の尊厳としんをかけたこうそうを見てニパッと笑う。

「あ、シャミー。爪切ってもらってんの? あたしがする」

 シャミセンはめいわくそうに目をらし、人間そっくりの鼻息をらした。一度だけ妹に任せてやったことがある。俺が両手足を押さえる係で妹が切る係という役割分担だったが、この小学五年生十一歳にはえんりよとネイルカットのセンスがまるっきり欠けていたらしく、あまりの深爪にその後しばらくシャミセンがハンストを起こしたくらいだった。それに比べりゃ俺のほうが格段にマシだと思うのに、毎回暴れたおすのはやはり猫の額の中身は猫程度といったところか。

「誰からだ?」

 爪切りと引き替えに受話器を受け取る。それを見たシャミセンがここぞとばかりに身体からだをねじり、俺のひざを蹴って部屋から逃げ出していった。

 妹はうれしそうに爪切りを握りながら、

「えーとね、知らない男の人。でもキョンくんの友達だって」

 それだけ言うとシャミセンを追ってろうに消えた。俺は電話に目を落とす。

 さて誰だろう。男と言うからにはハルヒや朝比奈さんではないだろうし、古泉なら妹も知っているはずだ。谷口や国木田ほかの友人連中だって家のじゃなくけいたいを鳴らす。くだらんアンケートやキャッチセールスなら承知せんぞ、と思いながら俺は保留ボタンを押した。

「もしもし」

『おお、キョンか。俺だ。久しぶりだな』

 野太い声が第一声を放ち、俺はまゆをひそめた。

 誰だ、こいつ? お世辞にも聞き覚えがあるとは言えない声だが。

『俺だよ俺。中学んときに同じクラスだっただろう? もう忘れたのか。俺はこの半年、ずっとお前のことを思い出してはためいきをついていたのに』

 何をうすわるいことを言いやがる。

「名を名乗れ。お前は誰だ?」

なかがわだ。一年前までの同級生くらい覚えておいてくれてもいいじゃないか。別の高校に行った元クラスメイトなどおくにもあたいしないか? ヒドいヤツだ』

 本当に悲しんでいるような声である。だがな。

「そうじゃない」

 俺は記憶のふたを開けて中三時の自分史をしゆんかん的に回想した。中河ね。確かにそんなヤツもいた。えらくガタイのいい長身で、相応のかたはばもある体育会系の男だった。ラグビー部かなんかにいたような気がする。

 しかし、と俺は電話を見つめ直した。

 同じクラスになったのは三年の時だけで、しかもそんなに親しくしてはいなかった。なんとなく教室でも所属するグループがちがうってやつだ。顔をあわせたら「おう」とか「やあ」とかはそりゃ言ってたが、毎日のように会話してたかどうかと言えば明確に否だった。卒業して以降、中河の顔も名前も思い出すことはさっぱりなかったな。

 俺はゆかに落ちていたシャミセンの爪を拾い上げながら、

「中河か、中河ね。久しぶりっちゃあ久しぶりだな。よう、どうしてた? 確かどっかの男子校に行ったんだよな? で、何でまた俺に電話してきたんだ? 同窓会の幹事にでもなったのか」

『幹事なら市立に行ったどうだが、そんなことはどうでもいい。俺はお前に用があって電話したんだ。いいか? 俺はしんけんなのだ』

 いきなり電話してきといて何に真剣だと言うんだ。やにわにそんなこと言われてもこっちには話が見えねえが。

『キョン、に聞いてくれ。お前にしか言えないことがある。俺にとってお前がゆいいついのちづななんだ』

 大げさだな。まあいい。用件を聞かせてもらおうか。それほど仲良くもなく中学出てからえんだった元同級生に電話してくるほどの用事とやらを。

『愛しているんだ』

「…………」

『俺は本気だ。真面目になやんでいる。ここ半年、ても覚めてもそればかり考えているのだ』

「…………」

『あまりの思いの大きさにほとんど何一つ手につかなかったくらいだ。いや、そうじゃない。何とかおのれに打ち勝とうと勉強にも部活にも打ち込んだ。おかげで成績も上がったし部活では一年目にしてレギュラーになれた』

「…………」

『それもこれも愛するがゆえなのだ。わかるかキョン? この俺のはんもんする胸の内を。中学のクラスめい簿をめくってお前んちの電話番号を探し、いざ電話しようとして何度ちゆうちよしたことか。今でも俺の身体は小刻みにふるえている。愛だ。強大な愛の力によって俺はお前に電話をかけている。解ってくれ』

「いやあ、中河……」

 俺はかわききったくちびるめた。一筋の冷やあせがこめかみをつたう。やべえぞ、こいつは。

「……すまないが、お前の愛とやらは俺には重すぎるな……。マジですまんとしか言いようがない。残念だがお前に応答する言葉を俺は持ってねえ」

 背筋がこおるとはこのことだ。言っておくが俺はちよう完全にオーソドックスなヘテロタイプである。アッチ系のしゆはハチドリの体重ほどもない、というかあってたまるか。せんざい的にも無意識的にも俺はノーマルなんだ。ほら、なんだ、そう! 朝比奈さんの顔と姿を思いかべて身体がぽかぽかしてくるしな。これが古泉だと殴りたいだけだ。つーこって俺はバイでもないってことだ。な? な?

 だれに語りかけているのか解らないようなことを思い浮かべつつ、俺は受話器に向かって言った。

「というわけでだな、中河。お前との友情はけいぞくしてもいいが……」

 もともと友情と呼べるほどのものもなかったと思うが。

「愛情のほうはどうしようもない。悪い。それじゃあな。お前はお前で通う男子校でよろしくやってくれ。俺は北高でノーマルライフを適当に楽しむ。久しぶりに声が聞けて嬉しかったよ。同窓会で会ったら素知らぬ態度をつらぬき通すから安心しろ。誰にも言いやしない。そいじゃ……」

『待て、キョン』

 中河はいぶかしげな声で、

『何言ってんだ。かんちがいするな。俺はお前なんか愛しちゃいないぞ。何を勝手に思い違いをしてるんだ。気味の悪いヤツだな』

 さっきの「愛してるんだ」ってのは何だよ。誰に向けた言葉だ。

『実は名前は解らない。北高の女子生徒であることは解っているんだが……』

 こいつの言っている事情が俺にだってまだよく解らんが、しかし少しはホッとする。最前線のざんごうの中で休戦協定ていけつを知らされた下っ兵士のようなあんかんだ。男の知り合いからの告白なんてのがマジだったら、それはきよう以外のなにものでもないね。俺のケースではな。

「もっと解るように話してくれ。誰を愛しちまったんだって?」

 まぎらわしいにもほどがある。もう少しでとうぼう先のリストアップに入るところだった。

 だいたいな、高一の分際で真面目に愛を語ろうなんざ、それこそ頭がイッちまっていると言うべきだろう。口に出すのもずかしいね。愛だって?

『今年の春……五月ごろだ』

 と、中河は勝手に語り始めた。どことなくとうすいしているような口調である。

『その人はお前といつしよに歩いていた。目を閉じればよみがえる。ああ……その姿のなんとれんれいなことだっただろう。それだけではない。俺はその人の背後に後光が差しているのが見えた。さつかくではない。そう、それはまるで天国から地上に差し込む光のようだった……』

 陶酔の声はなにやらケミカル系のドラッグでもやってんのかというような危ないひびきを持ち始めていた。

『俺はあつとうされた。今までの人生で感じたことのない感覚だった。まるで電流が走りけたように……いや! 特大のかみなりに打たれたかのように俺は立ちつくした。何時間もそうしていたらしい。らしいというのは時間の感覚がまったくなかったからだ。気がつけば夜になっていた。そして思ったのだ。これが愛なのだと』

「ちょっと待てよ」

 アンドロメダ病源体かんじやごとみたいな中河のセリフを整理してみよう。それによると、五月に俺と誰かが連れって歩いていて、そいで中河はその誰かを見てがくぜんとした。誰かとは北高の女子で……って、そうすると候補は何人も挙がらないな。

 今年の春に俺が街中を一緒に歩いていた女なんて、我ながら言うのも何だがそんなに多くない。北高限定なら妹も除外できるからSOS団女子三人のうち誰かに決まっている。

 と、いうことは……。

『運命の出会いだった』

 中河はますますいしれたこわいろで、

『いいかキョン。俺はひとれなどというオカルトみたいなもんを信じてはいなかった。自分ではバリバリのゆいぶつ主義者だったつもりだ。しかしそんな俺のもうひらいてあまりあることが発生したのだ。一目惚れはある。あるんだよ、キョン』

 なんで俺がお前にそんな言い聞かせられるようなことを言われねばならんのだ。一目惚れだと? そとづらだまくらかされているだけじゃねえのか。

『いいや、違う』

 いやにキッパリと断言しやがるな。

『俺は顔やボディラインなんかに騙されたりしない。あくまで重要なのは内面だ。俺は彼女の内面を一目で見抜いたのだ。一目でじゆうぶんだった。あのきようれつなインパクトは何にも代えがたいものだった。言葉で言い表せないのが残念だ。とにかく俺はこいに落ちた。いや、ちた。今ではどこまでも墜ちていきたい気分だ……。わかるか、キョン?』

 それこそこっちが「いいや」だな。

「まあ、それはいいが」

 俺はいつまでも続きそうな中河のうわごとしゆうを打つことにした。

「お前がしようげきだか何だかを受けたのは五月のことなんだよな? ところで今はもう冬だ。とっくに半年以上がってるが、その間お前は何をしてたんだ?」

『ああ、キョン。それを言われると俺もツライのだ。この半年間は俺にとって苦行そのものだった。精神の休まるときがなかった。ずっと迷い続けていたのだ。いったい俺のどこに彼女にふさわしい部分があるのだろうかと、そればかりを考えていた。正直言うとな、キョン。彼女のそばにお前がいたことを思い出したのはごく最近なのだ。思い出したからこそこうして名簿を引っ張り出して電話をしているのだからな。それほど彼女はひかかがやいていた。こんな思いをしたのは人生においてほかにない』

 名前も知らない女をパッと見ただけでコロリといかれ、そのまま半年以上も一人でうなっているだけとはおそれ入るね。

 俺は朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に顔を思い浮かべながらかくしんれることにした。実を言うとそろそろ電話を切りたく思っていたが、この中河の話しぶりではいくらガチャ切りしても何度でもリダイヤルしかねない勢いだ。

「お前が惚れたという女の人相ふうていを教えろ」

 中河はしばらく押しだまってから、

かみは短かった』

 思い出しつつ話すようにゆっくりと、

眼鏡めがねをかけていた』

 ほう。

『北高のセーラー服がとてつもなく似合っていた』

 ううむ。

『そして、光り輝くようなオーラをまとっていた』

 それはよく解らない。しかし、

「長門か」

 これは意外だった。てっきりハルヒか朝比奈さんのどちらかだろうと思っていたのに、よりによって長門とはな。さすが谷口が目をつけたAマイナーだけのことはある。俺なんか初対面時には無口で風変わりな部室のアンティークドールくらいにしか思っていなかったのに、さすが目ざといヤツはどこにでもいるようだ。今は違うぜ、俺の長門に対する印象はこの半年間で大きく様変わりしている。

『ナガトさんと言うのか』

 中河の声はみようはずんでいた。

『どんな字を書くのだ? ぜひフルネームを教えてくれ』

 長門有希。せんかん長門の長門に、有機物の有、希望の希だ。そう言ってやると、

『……いい名前だ。ゆうだいなイメージを思わせる長門型に、のぞみが有ると書いて有希か……。長門有希さん……。まさに思った通りのせいちようで未来の可能性に満ちあふれたせいめいだ。ぼんようでもなく、かといってとつすぎてもいない。俺のイメージ通りじゃないか』

 どんなイメージだ。一目見ただけで構築した独りよがりなもうそうだろう。そういや内面がどうしたとか言っていたが、一目惚れのどこに内面が関係するんだ。

『俺には解ったのだ』

 いやに自信に満ちた断言である。

『これは妄想なんかじゃない。確信なんだ。外見や性格なんかどうでもいいんだ。知性であり理知なのだ。俺は彼女に見た。大いなる神のごとき理性をだ。あれほどハイブロウな女性に人生で二度とめぐり会うことはないだろう』

 あとでハイブロウを辞書で引こうと考えながら、俺の首のヒネリはまだ取れない。

「だから、どうしてパッと見でそんなこうしようなことが解ったんだよ? 一言も口きいてないし遠目から見ただけなんだろ?」

『解ってしまったのだからしかたがないだろう!』

 何で俺がさけばれなきゃならん。

『俺は神に感謝している。それまで無宗教だった自分を恥じているほどだ。とりあえず近所の神社に毎週の参拝を欠かさないようにして、たまに教会でざんもしているぞ。それもカトリックとプロテスタントの両方だ』

 それじゃかえって不信心者だぜ。拝めばいいというものではないんだ。信じる神は一柱にしておけ。

『それもそうだな』

 中河はつうに答え、

『ありがとうキョン。おかげで決心がついた。俺が信じるのはただ一人のがみでいい。長門有希さんがまさにそれだ。彼女を俺の女神として、終生たがわぬ愛のちかいを──』

「中河」

 ごとがいつまでも続きそうだったので俺はヤツの言葉をしやだんした。気味の悪さもさることながら、なんだか妙にイライラしてきたからである。

「だから何なんだ。お前が電話してきた理由はわかったさ。それで? そんな告白を俺に聞かせてどうしようってんだ」

『伝言をたのみたい』

 と、中河。

『長門さんに俺の言葉を伝えて欲しいのだ。頼む。お前しかたよりにならない。彼女と並んで歩いていたお前だ。少しは彼女と親しいのだろう?』

 親しいといえば親しいさ。同じSOS団の団員で今や仲良くハルヒの衛星群と化しているからな。それにこいつに見られた俺と長門の姿、五月で眼鏡で制服だって言ってたか。なるほどアレだ。第一回SOS団パトロールで俺と長門が図書館に行った時だろう。やたらとなつかしい思い出だが、あの時に比べたら今の俺は長門のことを百倍以上もよく知っている。知り過ぎちまったかと反省しているくらいだぜ。

 じやつかんのしみじみした気分を味わいながら、俺は中河にたずねた。

「ところでお前、俺が長門と歩いてるのを思い出しといて──」

 ちょっと言いにくいが、

「ええとだな、俺とあいつがただ親しいだけだとしか思わなかったのか? たとえば、何だ、俺と長門が付き合っているとかさ」

『まったく思わん』

 中河はちゆうちよいつぺんもなく、

『お前はもっと変な女が好きだったはずだ。中三の時の……何と言ったか忘れたが、あのみような女とは続いていないのか?』

 長門を指して変じゃないというのもかんありありだが、それよりこいつは何をかんちがいしているんだ。そういや国木田も誤解しているようだったが、あいつとはただの友達で、よく考えたら中学を卒業して以来会ってない。しばらくぶりに思い出した。年賀状くらいは書いといたほうがいいかな……。

 なぜかけつってる気分になってきたので、話を変えることにする。

「で、何て伝えるんだ? デートのさそいか? それとも長門の電話番号を教えたほうがいいか?」

『いや』

 中河の返事は重々しい。

『現時点の俺は長門さんの前におめおめと顔を出せるほどの何者でもない。まったくもって不り合いだ。だから、』

 いつぱくの間があって、

『待っていて欲しい……と、伝えてくれ』

「何を待つって?」と俺。

『俺がむかえにいくのを、だ。いいか? 俺は現在のところ、何の社会性もないいつかいの高校生に過ぎない』

 そうだろうとも。俺だってそうさ。

『それではダメなんだ。聞いてくれ、キョン。俺はこれからもう勉強を開始する。いや実際もうしているのだが、そうやってげんえきで国公立大のどこかに入る』

 目標を高く持つのはいいことだ。

『志望は経済学部だ。そこでも俺は勉学に打ち込み、卒業時には第一席をかくとくする。そして就職先だが、あえて国家公務員一種やちよう一流ぎようではなくちゆうけんどころの会社に職を得ようと思っている』

 よくもまあそこまでリアルなのか絵空事なのか解らん青写真をえがけるものだ。この会話をおにが聞いていれば笑いすぎでふくまくえんを起こすかもしれない。

『だが俺はいつまでもプロレタリアートの地位に甘んじるわけではない。三年……いや二年であらゆるノウハウを吸収し、独立開業するつもりだ』

 止めやしないので存分にやってくれ。もしそん時に俺が路頭に迷ってたらやとって欲しいね。

『そうやって自分のおこした会社がどうに乗るまで五年……いや三年で何とかする。そのころには東証二部に上場も果たし、年度ごとに最低十パーセントは利益を上げていく計画だ。それもあらでだぞ』

 だんだんついていけなくなってきた。しかし中河は調子よく、

『その頃には俺も一息つけるようになっているだろう。そこで、ようやく準備が整ったというわけなのだ』

「何の準備だ?」

『長門さんを迎えに行く準備が、だ』

 俺は深海に住む二枚貝の仲間のようにちんもくし、中河のセリフは大シケの波のように押し寄せる。

『高校を卒業するのに後二年、大学卒業までに四年、就職してからのしゆぎよう期間が二年で開業から上場までが三年、合計して十一年だ。いや、キリのいいところで十年でいい。その十年間で俺は一人前となり──』

「アホかお前は」

 と俺が言うのもわかってもらえると思う。どこのどいつが十年もおとなしく待っていたりする? おまけに会ったこともない男をだ。とつぜんだれとも知らないろうから十年でいいから俺の迎えを待っていてくれと言われて、そのままじっとしているヤツがいたらそいつは人間以外の何かだ。そしてもっと悪いことに長門は人間以外の何かなのである。

 俺は小さく舌を打った。

『俺は本気だ』

 マズいことに本気の声をしている。

『命をかけてもいい。しんけんだ』

 声に切れ味があるのだとしたら電線があちこち断線しているような声である。

 どうやってごまかそう?

「あー、中河」

 俺はひっそりと本を読んでいる長門の線の細い姿を思いかべながら、

「これは俺の私見だが、長門は裏ではけっこうモテる女だ。引き合いが多くて困るほどだぜ。お前の女を見る目がなかなかのけいがんなのはめてやってもいい。だが、十年も長門がフリーでいる可能性はほとんどゼロだ」

 デマカセだけどな。十年後のことなんざ俺にだって解るものか。俺自身の進路だって不明確なのにさ。

「それにそんな重要なことなら長門に直接言えよ。気が進まんが、手引きしてやってもいい。ちょうど冬休みだし、一時間くらいならあいつも時間を空けてくれるだろうし」

『それはダメだ』

 中河は不意に小声となって、

『今の俺ではダメなんだ。きっと長門さんの顔を見るなりそつとうしてしまうだろう。実は最近も遠くから見たことはあるんだ。駅近くのスーパーマーケットでぐうぜんな……。夕方だったんだが、その後ろ姿をいつしゆんとらえただけで、俺はそのまま閉店まで店内に立ちつくしていた。直接顔を合わすなんて……とんでもないことだ!』

 いかん、中河は完全に脳がももいろになる病気にかかっている。将来設計までかんりようする始末だから相当のじゆうとくである。手のほどこしようがあればいいんだが、切った張ったのさわぎに巻き込まれた日にはゴメンと謝ってとんそうするしか手だてがない。

 しかもこんなアホなことを親しいとも言えない俺に電話してきて声高らかにさけび出すようなヤツだ、次に何を言い出すか解らんのがおそろしい。そんなヤツはハルヒ一人でも手に余ってんのに、長門も罪作りなことをしてくれるよな。

 やれやれ。俺は中河に聞かせるつもりでためいきをつき、

「いちおうは解ったよ。長門に何て伝えればいいのか、もう一度教えてくれ」

『ありがとう、キョン』

 中河はいかにも感動したように、

けつこん式には必ずお前を呼ぶ。スピーチもたのむ。それも一番手でだ。一生お前のことは忘れない。もしその気があるのなら、俺が将来立ち上げる会社で相応のポストを用意して迎えようじゃないか』

「いいから早く言え」

 気が早いにもほどがある中河の声を聞きながら、俺はかたに受話器を引っかけて白紙のルーズリーフを探し始めた。



 翌日の昼過ぎ、俺は北高へ至る坂道をもくもくと上っていた。標高が上がるごとにく息の白さもきわだち、しかし冬休みだってのに何で学校に向かっているのかというと、SOS団の全体ミーティングは定期的にかいさいされるからである。

 ついでに今日は部室のおおそうねていた。メイドな朝比奈さんがまめに清掃しているとは言え、エントロピーは増大するという格言に従って部室には雑多なものがどんどん運び込まれてはちつじよを乱し、そんなカオスのげんきようになっているものこそ、目についた物を何でもかっぱらってくるハルヒ、次々と新しいゲームボードを運び込む古泉、分厚い本をぎ早に読破してしまう長門、日々かんぺきなお茶くみ係になるべくしようじんを続ける朝比奈さん──なんと俺以外の全員だ。そりゃほうっておけば散らかり放題になるよ。そろそろ余計な備品を各自の自宅に持って返るよう提言するころいだろう。最低限、朝比奈さんのコスプレしようだけは何としても保全するとして。

「あー、うっとうしい」

 足取りがかろやかであらざるのは言うまでもなく、ブレザーのポケットに余計な紙切れが入っているからだった。

 中河の長門へ向けた愛の言葉を言われるがままにれつした口述筆記。バカバカしくて何度シャーペンを放り出そうとしたことか。こんなこっずかしいことをてらいもなく言える男はベテランの結婚にもいないだろう。何が十年待ってくれだ。コントか。

 やまおろしに向かって歩くうち、おみの校舎が見えてきた。



 俺が部室とう辿たどり着いたのは、ハルヒが設定した集合時間の一時間前だった。

 最後に来た人間が全員におごるというSOS団ルールをおそれてのことではない。適用されるのは学外での待ち合わせだからな。

 昨日の電話の最後に中河は、

『書いた文章をわたすだけではダメだ、それではただの代筆だ。また読んでくれるかどうかも解らない。彼女の前でお前が読み上げてくれ、さっき俺が語ったのと同じ熱意を込めて……!』

 などという無茶な要求をした。俺にはヤツの言うとおりにするわれもじゆんぼくさもないが、あれだけこんがんされては元々が性善説のしんぽう者である俺のこと、ほんの少しだが情にほだされないわけでもない。それにはその場に長門以外のだれもいないというシチュエーションが必要だった。一時間も前に来たら、さすがに長門以外のメンツはまだ来ていないにちがいなく、長門は間違いなくそこにいる。必要なときにそこにいなかったためしのない宇宙人製アンドロイド、それが俺の知っている長門有希であるから。

 形ばかりのノックの後、沈黙が返答として返ってきたのをかくにんしてからとびらを開く。

「よっ」

 不自然に軽快なあいさつだったかな? と自分にダメだししながら、もう一度、

「よう長門。いてくれると思ったぜ」

 せいひつな真冬の空気が部室を満たす中、長門は体温を感じさせない等身大フィギュアのようにひっそりと席につき、病名みたいなタイトルのハードカバーを広げて読んでいた。

「…………」

 表情のない顔が俺を向き、片手がこめかみにれるように上がって、またすぐに降りた。

 まるで眼鏡めがねを押さえるような仕草だったが今の長門はがんであり、眼鏡なしのほうがいいと言ったのは俺で実行し続けているのはこいつだ。今のは何だ? 半年前あたりのクセがよみがえったりでもしたのか。

「他の連中はまだか?」

「まだ」

 長門は簡潔に答えると、再び二段組みにびっしりと書かれた改行の少ないページに視線を落とした。空白が多いと損だと感じるタイプなのかね。

 俺はぎこちなく窓に近寄り、部室棟から見える中庭へ目をさまよわせた。休み中のこともあって校舎に人の気配はほとんどない。グラウンドで寒さ知らずの運動部員たちが元気にハッパをかけている声だけが、立て付けの悪い窓ガラスしに聞こえてくる。

 立ったままで目を長門へすべらせた。いつもの長門だった。はくせきの顔色もるぎのない表情も。

 考えてみれば眼鏡っわくが長らく空きっぱなしだ。そのうちハルヒが新たな眼鏡少女を連れてくる布石を打っちまったかもしれないな。

 そんなどうということもないことを考えながら、俺はポケットをまさぐって折りたたんだルーズリーフを取り出した。

「長門、ちょっとばかり話がある」

「なに」

 指先だけを動かして長門はページをめくり、俺は深く息を吸った。

「お前にれたとぬかす身のほど知らずが現れたので、その言葉を俺が代理として告げることにしたいのだが、どうだろう。聞いてやってくれるか?」

 ここで「いや」と言ってくれたら俺はすかさずルーズリーフを破り捨てる計画だったのだが、長門は無言で俺を見上げていた。氷の色をしたひとみではあるものの、俺を見るときに限っては雪解け水くらいに温まっているように感じるのは俺が都合よくかいしやくしているせいだろう。

「…………」

 長門はくちびるざして俺をぎようする。まるで医がけん者のかんを観察しているような目つきだった。

「そう」

 とつぶやくように言ってまばたきもせずにじっと固まる。そのまま待っているようだったので、俺はしかたなく中河のセリフを書き留めたへんを広げた。読み上げる。

はいけい、長門有希さま。いても立ってもおられず、このような形で思いを告げる無礼をお許しください。実は私はあなたに一目会ったその日から──」

 長門は俺を見つめたまま聞いていた。だんだんと変な気分になってきたのは俺のほうである。ほとんど眩暈めまいをともなうほどの中河作愛の言葉を吐いているうちに、バカバカしさがピークに至ろうとしていた。何やってんだ俺は。気は確かか?

 中河の人生設計がしゆうばんにさしかかり、ゆくゆくはこうがいいつけんを構えて二人の子供と一ぴきのウェストハイランドホワイトテリアとともにゆうなスローライフをまんきつするという未来日記を読んでいる俺を、長門はただもくぜんながめているのみだった。なんだか自分がほうもなくくだらんことをしているような実感がふつふついて出る。

 というか、くだらん。

 俺は棒読みを停止した。これ以上、もうげんを読み上げていては俺の精神がおかしくなる。どうやら中河とは永遠に分かり合えそうにないな。こんな脳みそがだりそうなセリフを出力するやつとは付き合いが成立しそうにない。中学時代にそれなり程度の仲だったのも道理だ。ひとれに半年以上のせんぷく期間、と思ったらとつぜんのメッセンジャーらいに、かくもくるった愛の告白ではね。うん、もうどうしようもねえ。

「まあ、そういうことなんだが、だいたい解ったか?」

 対する長門は、

「わかった」

 こくりとうなずいた。

 マジで?

 俺は長門を見つめて、長門は俺を見つめていた。

 ちんもくという熟語が羽を生やして俺たちの間を飛び回っているような静かな時間……。

「…………」

 長門は首の角度をややかたむけて、しかしそれ以上のアクションを取ることなく、ただ俺をじっと見続けていた。ええと何だろう。次は俺が何か言う番なのか?

 俺がけんめいさぐっていると、

「メッセージは受け取った」

 俺から視線をらさずに、

「しかし応じることはできない」

 例によってのたんたんとした声で、

「わたしの自律行動が以降十年間の連続性を保ちる保証はない」

 そう言って唇を結んだ。表情は変わらない。視線も俺から外れない。

「いやぁ……」

 先に根負けしたのは俺だった。首をるふりをして吸い込まれそうなしつこくの瞳から目を解放する。

「そうだよな。つうに考えて十年は長すぎるよな……」

 待機時間以前の問題だとは思うが、とりあえず俺はホッとしていた。このあんかんの出所は何かと考えてみるに、早い話が俺は長門が中河でも誰でもいい、ほかの男とむつまじげに歩いている姿など見たくはないのである。ハルヒ消失事件でのあの長門のイメージがちょっとばかり俺の頭に残存しているのも否定できないかな。中河はそんなに悪い男ではなく、むしろいいヤツの部類だったと思うが、それでも俺は俺のそでやわらかい力で引っ張ったあの長門の不安そうな表情をまだ明確におくしている。

「すまん長門」

 俺はルーズリーフをくしゃくしゃに丸めながら、

「よくよく思えば、こんなもんをりちにメモってきた俺が悪い。中河には電話の時点できっぱり断るべきだったよ。すっぱりとかんきまでに忘れてやってくれ。このアホには俺からきっちり言っておく。ストーカーになるようなヤツじゃないから、その点は安心してくれていい」

 まあ、朝比奈さんに彼氏ができるようなことがあったら俺はそいつのストーカーになるかもしれんが……。

 うむ? なるほど、そういうことか。

 俺は自分の胸にあるモヤモヤの正体に思い当たった。

 朝比奈さんにしろ長門にしろ、余計な男が俺たちの間に割り込んでくるのはそつちよくに言ってムカが入る。気にくわない、というごく単純なくつで、俺は安堵しているらしかった。我ながらわかりやすい。

 ハルヒ? ああ、あいつに関しては何も心配していない。ハルヒに言い寄るような男はそれだけでハルヒ的不合格者だし、もし天変地異でも起きてあいつに男ができるようなことになれば、宇宙人やら未来人やらを追い求めることもなくなって地球にもやさしく、仕事も減って古泉もさぞかし楽になることだろう。

 そして俺の巻き込まれ型な人生からもエキセントリックなパートが大いにさくげんされるにちがいない。いつかはそうなるのかもしれないが、今この時じゃないのは確実だ。

 俺は部室の窓を開けた。二人分の体温でぬくもりかけた部屋に指を切るような冷たい冬の大気がい込んできた。俺は大きく振りかぶり、丸めた紙切れを思いっきり遠投する。

 ふわりと風に乗った紙製そくせきボールは、急角度の放物線をえがいて降下した。校舎と部室とうつなわたろう、その横に広がる芝生しばふに音もなく落っこちる。そのうちに風にかれて転がっていき、建物沿いにあるみぞにでもはまってかれとともにちてボロボロになる未来を予測していたのだが──。

 なんということだろうか。

「やべ」

 ちょうど渡り廊下をこっちに歩いていたひとかげが進路をてんかんして芝生に降りてきた。そいつはチラリと俺のほうを見上げると、タバコのポイ捨てをとがめるようなまなしを作り、すたすたと歩いて投げ捨てたばかりの紙ボールを拾い上げた。

「おい、よせ! 見るな!」

 俺のはかなこうもむなしく、たのんでもいないゴミ拾い主は、しわくちゃのルーズリーフを広げて黙読を開始した。

「…………」

 と、長門は黙々と俺を見続けている。

 とうとつだが、ここでシンキングタイムだ。


 Q.1 その紙切れには何が書いてある?

 A.1 長門への愛の告白である。


 Q.2 だれの字で書いてある?

 A.2 俺の字である。


 Q.3 事情を知らない第三者がそれを読んだらどうなる?

 A.3 誤解するかもしれない。


 Q.4 ではハルヒがそれを読んだなら?

 A.4 考えたくもないね。


 そうやって涼宮ハルヒは数分間、ルーズリーフをためつすがめつしていたが、やがて顔を上向けて俺に強い視線をぶつけ、どういうつもりなのか、不気味にもニヤリと笑った。

 ……決定。今日はやくになりそうだ。



 十秒後、とんでもない勢いで部室に走り込んできたハルヒは俺のむなぐらをつかみ上げると、

「何考えてんの? あんた、バカじゃないの? 今すぐ正気にもどしてあげるから、そこの窓から飛び降りなさい!」

 と、がおのままでさけんだ。ま、ちょっとは引きつったような笑みだったが、俺を開け放した窓へ引きずろうとする力はエネルギーにかんさんするとそれだけで今日一日のだんぼう分くらいの容量が込められていて、そのパワーは俺が大急ぎでじようきよう説明をしようとセリフを考えている最中もかげることがなかった。

「いや、だからこれはだな。俺の中学に中河というろうがいて……」

「何よ、他人ひとのせいにすんの? あんたが書いたんでしょ、これ」

 ハルヒはぐいぐい俺を引き寄せ、十センチくらいのきよから並はずれて大きなひとみにらみつけてくる。

「いいから放せ。まともに話もできねえだろうが」

 そうやって俺とハルヒがみ合っているところに、間が悪く第四の人影が登場した。

「うぁ」

 朝比奈さんが目を皿のようにしてとびらすきに立っていた。上品に口を押さえ、

「……あの……。お取り込み中ですか? 出直したほうが、その、いいでしょうか……?」

 取っ組み合ってはいますが別に取り込んでなどはいませんし、ハルヒと揉み合っていても何一つ楽しくはなく、どうせ同じ目にうならあなたがいい──ので、どうぞお入りください。朝比奈さんの入室をこばむ権限など過去未来を通じて俺にあろうはずがなく、そのつもりもないのである。

 だいたい長門が何事もないように座っているんだから、朝比奈さんも堂々と入って来てくれればいいのですよ。ついでに助けてくれたらおんの字ですが。

 俺がハルヒとかくとうしながら朝比奈さんに微笑ほほえもうとしていると、

「おやおや」

 最後にやってきた団員が朝比奈さんの横から顔を出した。

「早く来すぎてしまいましたかね?」

 明朗快活なしようを見せつつまえがみをかき上げ、

「朝比奈さん、どうやら僕たちはおじや虫のようですので、ここはいったん退散して、お二人のおそらく犬もわないようなやり取りが一時的収束をむかえてから再訪することにしましょう。はんのコーヒーくらいならおごらせてもらいますよ」

 待て、古泉。これがゲンカに見えるようならお前は今すぐ眼科に直行しろ。それから、どさくさにまぎれて朝比奈さんをさそうんじゃない。朝比奈さんも、おずおずとうなずいてる場合じゃありませんよ。

 ハルヒはバカ力で俺のシャツをしぼり上げ、俺はそのハルヒの手首をにぎりしめている。このままでは筋肉痛になりそうで、たまらず俺は叫んだ。

「おいこら、古泉! どこに行く、助けろ!」

「さあ、どうしましょうね」

 古泉はここぞとばかりにすっとぼけ、朝比奈さんはおどろいた子ウサギみたいに身を固まらせて目をパチクリしており、さりげなく古泉がこしに手を回してエスコートしようとしているのにも気づいていないようだった。

 一方の長門はどうしているかと見ると、こちらはいかにも長門らしく我関せずとばかりに早々と読書に戻っていた。元はと言えばお前の話をしていてこうなっちまったんだから、少しはフォローの言葉を発してくれよ。

 そしてハルヒはギリギリと俺をめ上げながら、

「あたしは情けないわ。こんなけな手紙を書くようなバカが団員から出ちゃうなんて、もう! 引責辞任ものよ。裸足はだしいたくつの中にゴキブリが巣を作ってたくらいの気持ち悪さだわ!」

 そう叫びつつもハルヒの顔は不可解な笑みにこわばっていた。まるでこういう場合の表情の作り方を知らないかのようでもあったが、

「ここに来るまでに十三通りのばつゲームを考えついちゃったわよ! 手始めにアジのものをくわえてへいの上で近所のねことナワバリ争いをさせてやるから! 猫耳付きでっ」

 朝比奈さんがメイドしようでそれをやるんだったら絵にもなるだろうが、俺がやっても都市伝説的なとくしゆ救急車を呼ばれるだけだ。

「猫耳属性の持ち合わせはねえよ」

 俺は開けっ放しの窓へ顔を向け、いきらした。

 すまん、中河。何もかもネタばらししないと丸めた紙に続いて俺が窓からダイブするハメになりそうだ。俺としても本意ではないのだが、このハルヒの誤解を放置していたら自然界のげんまでが悪くなるおそれがある。

 俺は団長殿どののつり上がった目をのぞき込みながら、つめりをきよするシャミセンに言い聞かせる口調で言った。

「聞け。つーか、まず手をどけろ。ハルヒ、お前のトサカ頭にもわかるように解説してやるからさ……」



 十分後。

「ふうん」

 と、ハルヒはパイプ胡座あぐらをかいてズルズルとホット緑茶をすすっていた。

「あんたも変な友達を持ったものね。ひとれすんのは自由だけど、そこまで思いこむなんてよっぽどだわ。バッカみたい」

 こいは人をもうもくにも脳しつかんにもさせるのさ。まあ、最後のフレーズには俺も異論はないが。

 ハルヒはシワだらけになったルーズリーフをつまみ上げ、ヒラヒラとった。

「てっきり、あんたがアホの谷口と組んで有希をからかおうとしてんじゃないかと思ったわよ。あいつならやりかねないし、有希はおとなしいしさ。だまされやすそうだもん」

 長門以上に騙されにくい存在など銀河レベルでもそうはいないように思ったが、俺は口には出さずに聞いていた。そんな自制しているふんを少しは感じたのか、ハルヒは俺をキツイ目でいちべつし、ふっと表情をゆるめた。

「まあね。あんたはそんなことしないわよね。小細工をするも機転もなさそうだもん」

 めているのかクサしているのか解らんが、少なくとも俺はそんな理性の足りない小学生みたいなことはしないね。いくらあの谷口でも年相応の分別はあるだろうよ。

「でも……、」

 と、口火を切ったのはSOS団がほこがらようせいけん天使である。

「ちょっとステキですね」

 朝比奈さんはどことなくウットリとした顔で、

「こんなにだれかに好きになってもらえたら、少しうれしいかも……。十年かぁ。本当に待ち続けることができる人に会いたいですね。なんだかロマンチック……」

 顔の前で指を組んでうるみがちな目をキラキラさせている。

 朝比奈さんの言うロマンチックと俺が学んだロマンチックが同じ意味を持っているかどうか定かではないが、きっと別物のような気がするね。未来では言葉の意味も変容している可能性がある。船がりよくいているのを言わなきゃ解らなかった人だからな。

 ところで今日の朝比奈さんはつうにセーラー服をおしである。メイドやらナースやらの衣装をまとめてクリーニングに出していたからで、アマガエルの着ぐるみもその中に入っている。俺とハルヒが朝比奈さんのかおりがみこんだ大量のコスプレ衣装をかかえて持っていったとき、クリーニング店のおっちゃんが不必要なまでにジロジロと俺とハルヒをこうに見ていたのが何となくトラウマだ。

「中河の実物はロマンチックとはえんどおい感じですけどね」

 俺は湯飲みに残っていた冷めかけのお茶を一気に飲み干し、

ちがっても少女マンガの主役にはなれそうにないゴツゴツした動物系です。動物うらない的にはくまっすね。むなもとに月の輪がありそうなヤツだ」

 言いながら中学時代の印象でぴったりのキャッチコピーを思いついた。

「そう、気はやさしくて力持ちみたいな」

 それほど接点はなかったが、イメージ的にそんなんだ。とにかく身体からだの発育だけはよかった。朝比奈さんとは別の意味で。

 これもヤツには謝っておかねばならないだろうが、中河の発した言葉を書き留めた俺の筆によるこいぶみは止める間もなく──すまないがその気力を俺は失っていた──ハルヒが情感豊かにさっき読み上げてしまい、それを受けて朝比奈さんとは別の感想を述べたのが古泉だった。

「なかなかの名文だと思いますよ」

 作り笑いめいたしようも相変わらずに、

「何よりも具体的なのがいいですね。やや理想論めいていますが、それでいてきちんと現実をえている実直さも好感度高しです。とつぱつ的な一時の熱意に自失している感があるものの、ほとばしる勢いが行間から立ち上っている様子も見て取れますし野心的でもあります。言葉通りの努力を続けていれば、きっと中河氏は将来ひとかどの人物になるのではないでしょうか」

 安物の精神ぶんせき医みたいなことを言った。他人の人生だと思って、いい加減な予言をするんじゃねえぞ。責任を取る立場じゃないんだったら俺だって適当なことはいくらでも言える。お前はインチキ占い師か。

「ですが」

 古泉は微笑ほほえみをくれる。

「このような文言を発するのもかなりの度胸ですが、書き留めるあなたも人間がよくできていますね。僕なら指が拒否するところです」

 それは何か、えんきよくな言い回しで俺をとうでもしているのか。俺はお前とはちがって友達思いなんだよ。結果の分かり切っているキューピッド役をかろうじてパートタイムでやる程度にはな。

 俺はかたをすくめ、それを古泉への返答としてから、

「長門の返事ならお前が来る前に聞いたさ」

 ハルヒと古泉を等分にながめつつ長門のコメントを代弁する。

「十年は長すぎるってさ。当然だろ? 俺だってそう思うぜ」

 その時、それまで存分にもくさを発揮していた長門が、

「見せて」

 細っこい指を差しべていた。

 それを見て俺は意外に思う。ハルヒもそうだったようで、

「やっぱ、気になるの?」

 ハルヒはぞろいなまえがみを持つゆいいつの文芸部員を覗き込むように、

「キョンの書いたやつだけど、記念にもらっておくといいわ。今時こんな回りくどいのか直接的なのかわからないようなコクりなんてそうそうないから」

「どうぞ」

 ハルヒからわたされたシワシワのルーズリーフを、古泉は長門にバトンリレーする。

「…………」

 長門は目をせるようにして俺の字を読んでいた。何度も。目が同じ場所を上下している。そうやってみしめるようにもくどくしていたが、

「待つことはできない」

 うんうん。そうだろうとも。

 しかし、続く言葉として長門は、

「会ってみてもいい」

 誰もが絶句するようなことをつぶやき、とりわけ俺があごをガクリと垂らしていると追いちのように、

「気になる」

 そう言って、俺をじっと見つめた。いつもの目の色で。

 俺がちゃんと知っている、変わりのない手作りガラス工芸品みたいな正気のひとみで。



 おおそうは大したこともなく単なる掃除で終わった。ほんだなに並んだしよせきの処分を提言したところ、イエスともノーとも言わない長門はだまったまま俺を見つめることを続行し、その目の色がどことなく悲しそうに思えた俺はそれ以上何も言えなくなり、古泉のゲームコレクションの中でゴミ箱に居場所を移したのは、一回やったきりでそれも雑誌のオマケについてきた紙製のスゴロクだけだった。

 朝比奈さんは元々私物を茶葉以外に持っておらず、ハルヒは自分が持ち寄ったあらゆる物体のを「ダーメ」の一言できよぜつした。

「いいかしらキョン。何であれ使わずに捨てるなんてもったいないことをあたしはしないのよ。再利用できるものだったら何度も使って、最終的にどうしようもないくらいれつでもしない限り、やっぱりあたしは捨てないの。それがエコロジーの精神よ」

 将来、こういうヤツがゴミしきを形成することになるんじゃないかね。エコのことを考えるならお前は生存活動以外の何もしないほうがいいと思うけどな。

 ハルヒは長門と朝比奈さん、それから自分にも三角きんをかぶせてハタキとほうきを配り歩き、俺と古泉にはバケツとぞうきんじようしてまどきを命じた。

「年内にここ来るのはこれで最後なんだから、ピッカピカにして帰るのよ。年明け、あたしたちが来たときにすこやかな気分になれるようにね」

 言われるままにガラス拭きを実行する俺と古泉である。その最中、部室を片づけてるんだかホコリをき散らしてんだか解らない三人組の北高少女を眺めつつ、俺の相方がささやき声で言った。

「ここだけの話、長門さんに接近したがっている『機関』以外の組織はいくらでもあります。今や彼女は涼宮さんやあなたと同じくらいの重要人物ですからね。特にほかのTFEIたちの中でも長門さんはオンリーワンなポジションにいます。そうなったのは最近のことかもしれませんが」

 まどわくこしをかけ、体温を容易にうばい去る風にたいこうしてれた手に生暖かい息をきかける俺は無言でガラスに濡れ雑巾をわせた。

 何のことやら──。

 とぼけるのは簡単だ。最近、俺は長門や朝比奈さんといつしよに、ここのハルヒと古泉があまりかかわらない事件にそうぐうしたばかりであって、その結果として今があるからには完全無視を決め込むわけにはいかない。

「なんとかするさ」

 俺は表面的には軽快にこたえた。

 今度のは俺が持ち込んだイザコザだ。俺自身で解決すりゃいい。

 ガラスの内側を拭きながら、古泉は小さく笑い声をらしたようだった。

「ええ。今回ばかりはあなたに一任させてもらいますよ。僕は年末から年始にかけて行くSOS団雪山旅行の準備に大わらわですからね。加えて言わせてもらうと、あなたは涼宮さんと仲よくケンカすることでストレス発散できるのかもしれませんが、あいにくと僕にはその相手もいないのですよ」

 どっちがトムキャットだ。

 しかし古泉はハンサムづらくちびるをひん曲げて、

「僕だってそろそろじんちく無害な仮面をぎ捨てて、いつの間にか固定されてしまったこのキャラ性を一新したくなるころだと思いませんか? 同級生相手にていねい口調を続けるのも、けっこうつかれるものなんです」

 じゃあめればいい。お前のセリフ内容にまで俺は口出ししようとは思わん。

「そうもいきませんね。今の僕こそが涼宮さんの望む人物設定でしょうから。彼女の精神に関しては僕はかなりの専門家なんです」

 古泉はこれ見よがしにたんそくし、

「その点、朝比奈さんがうらやましくなりますよ。なにしろ彼女は自分を何一ついつわらなくてもいいのですから」

 お前、いつぞや朝比奈さんのいはフリかもしれないみたいなことを言ってなかったか?

「おや。僕の言うことなどを信用するんですか? そこまであなたのしんらいを勝ち取れたのだとしたら、苦労のかいがあったと言うものですが」

 相変わらずのバックレぶりだ。信用ならん口ぶりも一年が終わろうとしているのに変化してない。長門すらけっこうな内面変化をげたというのにお前は相変わらずだな。朝比奈さんはあのままでいいさ。別の朝比奈さんと何度か出会っているもんだから、彼女が肉体的にも精神的にも向上してんのははやていこうだ。

「僕が何かしらの変化を見せるようなことがあれば」

 古泉はせっせと手を動かしつつ、

「それはよくない兆候ですね。現状が僕の本分です。僕のしんけんな姿など、あなたが見たくなるとも思えませんが」

 ああ、見たくはないとも。お前はいつでもニカニカ笑いながらハルヒの金魚のフンとしてアフターフォローか前段階仕込みに明け暮れるのがお似合いだ。今度行く雪山のさんそうでの寸劇も期待させてもらっている。それでじゆうぶんだろう?

「これ以上ないくらいのめ言葉ですね。そう受け取っておきますよ」

 本気なのかごとなのかは知らないが、ともかく古泉はそのようなセリフをいて、窓ガラスに白い息を吹きかけた。

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