人騒(がせな一本の電話が始まりの合図だった。
毎年のことだが過ぎるや否(やあっという間に終息するクリスマスムードは今や余(韻(すらなく、年明けへのカウントダウンが刻一刻と迫(り来るものの、またハルヒが何かをやらかすつもりらしいハッピーニューイヤーにはそれなりの猶(予(がある冬休みのことである。
その時、俺は年内に終えておかなければならない自宅の大(掃(除(をひたすら先送りしつつ、部屋でシャミセンと格(闘(しているところだった。
「暴れるな。じっとしてろ。すぐすむから」
「にゃる」
抗(議(声明を発するのも無視し、俺はすっかり冬毛に生(え替(わってふかふかしている小さな肉食獣(を小(脇(に抱(える。
いたく気に入っていたGジャンを無(惨(なボロ布に変えてくれて以来、人並みの物覚えを持つ俺はそれを教訓として定期的にシャミセンの爪(を切ってやることにしているのだが、シャミセンのほうも猫(並みの物覚えを持っているらしく、俺が爪切り片手ににじり寄ろうとすると素(早(く逃(げ出そうとしやがる。
とっつかまえてからがまた一苦労で、殴(る蹴(る嚙(むなどの抵(抗(を企(てる三毛猫を押さえつけ、ムリヤリ出させた手足の爪をすべて適度な長さに切り終える頃(には俺の両手に無数の歯形が残されることになるのだが、肉体の傷とは違ってGジャンの刺(繡(は元に戻(ってくれたりはしないので気分が晴れたりもしない。まったく、異様に聞き分けのよかったお喋(り猫状態が懐(かしい。あの時の素直なお前はどこに行ったんだ?
まあ、もう一度喋り出すようなことがあったら、それはそれでよくないことの前兆だろうから、猫は猫(猫(しく「にゃあ」とでも鳴いているのが筋にあっているとも言えるが。
俺がシャミセンの右手の爪切りを終え、今度は左手に移ろうとしていると、
「キョンくんー、電話ー」
部屋の扉(を勝手に開き、妹がやって来た。片手にコードレスホンの子機を握(りしめ、俺とシャミセンの人類と猫属の尊厳と威(信(をかけた抗(争(を見てニパッと笑う。
「あ、シャミー。爪切ってもらってんの? あたしがする」
シャミセンは迷(惑(そうに目を逸(らし、人間そっくりの鼻息を漏(らした。一度だけ妹に任せてやったことがある。俺が両手足を押さえる係で妹が切る係という役割分担だったが、この小学五年生十一歳には遠(慮(とネイルカットのセンスがまるっきり欠けていたらしく、あまりの深爪にその後しばらくシャミセンがハンストを起こしたくらいだった。それに比べりゃ俺のほうが格段にマシだと思うのに、毎回暴れ倒(すのはやはり猫の額の中身は猫程度といったところか。
「誰からだ?」
爪切りと引き替えに受話器を受け取る。それを見たシャミセンがここぞとばかりに身体(をねじり、俺の膝(を蹴って部屋から逃げ出していった。
妹は嬉(しそうに爪切りを握りながら、
「えーとね、知らない男の人。でもキョンくんの友達だって」
それだけ言うとシャミセンを追って廊(下(に消えた。俺は電話に目を落とす。
さて誰だろう。男と言うからにはハルヒや朝比奈さんではないだろうし、古泉なら妹も知っているはずだ。谷口や国木田他(の友人連中だって家のじゃなく携(帯(を鳴らす。くだらんアンケートやキャッチセールスなら承知せんぞ、と思いながら俺は保留ボタンを押した。
「もしもし」
『おお、キョンか。俺だ。久しぶりだな』
野太い声が第一声を放ち、俺は眉(をひそめた。
誰だ、こいつ? お世辞にも聞き覚えがあるとは言えない声だが。
『俺だよ俺。中学んときに同じクラスだっただろう? もう忘れたのか。俺はこの半年、ずっとお前のことを思い出しては溜(息(をついていたのに』
何を薄(気(味(悪(いことを言いやがる。
「名を名乗れ。お前は誰だ?」
『中(河(だ。一年前までの同級生くらい覚えておいてくれてもいいじゃないか。別の高校に行った元クラスメイトなど記(憶(にも値(しないか? ヒドいヤツだ』
本当に悲しんでいるような声である。だがな。
「そうじゃない」
俺は記憶の蓋(を開けて中三時の自分史を瞬(間(的に回想した。中河ね。確かにそんなヤツもいた。えらくガタイのいい長身で、相応の肩(幅(もある体育会系の男だった。ラグビー部かなんかにいたような気がする。
しかし、と俺は電話を見つめ直した。
同じクラスになったのは三年の時だけで、しかもそんなに親しくしてはいなかった。なんとなく教室でも所属するグループが違(うってやつだ。顔をあわせたら「おう」とか「やあ」とかはそりゃ言ってたが、毎日のように会話してたかどうかと言えば明確に否だった。卒業して以降、中河の顔も名前も思い出すことはさっぱりなかったな。
俺は床(に落ちていたシャミセンの爪を拾い上げながら、
「中河か、中河ね。久しぶりっちゃあ久しぶりだな。よう、どうしてた? 確かどっかの男子校に行ったんだよな? で、何でまた俺に電話してきたんだ? 同窓会の幹事にでもなったのか」
『幹事なら市立に行った須(藤(だが、そんなことはどうでもいい。俺はお前に用があって電話したんだ。いいか? 俺は真(剣(なのだ』
いきなり電話してきといて何に真剣だと言うんだ。やにわにそんなこと言われてもこっちには話が見えねえが。
『キョン、真(面(目(に聞いてくれ。お前にしか言えないことがある。俺にとってお前が唯(一(の命(綱(なんだ』
大げさだな。まあいい。用件を聞かせてもらおうか。それほど仲良くもなく中学出てから疎(遠(だった元同級生に電話してくるほどの用事とやらを。
『愛しているんだ』
「…………」
『俺は本気だ。真面目に悩(んでいる。ここ半年、寝(ても覚めてもそればかり考えているのだ』
「…………」
『あまりの思いの大きさにほとんど何一つ手につかなかったくらいだ。いや、そうじゃない。何とか己(に打ち勝とうと勉強にも部活にも打ち込んだ。おかげで成績も上がったし部活では一年目にしてレギュラーになれた』
「…………」
『それもこれも愛するがゆえなのだ。解(るかキョン? この俺の煩(悶(する胸の内を。中学のクラス名(簿(をめくってお前んちの電話番号を探し、いざ電話しようとして何度躊(躇(したことか。今でも俺の身体は小刻みに震(えている。愛だ。強大な愛の力によって俺はお前に電話をかけている。解ってくれ』
「いやあ、中河……」
俺は乾(ききった唇(を舐(めた。一筋の冷や汗(がこめかみをつたう。やべえぞ、こいつは。
「……すまないが、お前の愛とやらは俺には重すぎるな……。マジですまんとしか言いようがない。残念だがお前に応答する言葉を俺は持ってねえ」
背筋が凍(るとはこのことだ。言っておくが俺は超(完全にオーソドックスなヘテロタイプである。アッチ系の趣(味(はハチドリの体重ほどもない、というかあってたまるか。潜(在(的にも無意識的にも俺はノーマルなんだ。ほら、なんだ、そう! 朝比奈さんの顔と姿を思い浮(かべて身体がぽかぽかしてくるしな。これが古泉だと殴りたいだけだ。つーこって俺はバイでもないってことだ。な? な?
誰(に語りかけているのか解らないようなことを思い浮かべつつ、俺は受話器に向かって言った。
「というわけでだな、中河。お前との友情は継(続(してもいいが……」
もともと友情と呼べるほどのものもなかったと思うが。
「愛情のほうはどうしようもない。悪い。それじゃあな。お前はお前で通う男子校でよろしくやってくれ。俺は北高でノーマルライフを適当に楽しむ。久しぶりに声が聞けて嬉しかったよ。同窓会で会ったら素知らぬ態度を貫(き通すから安心しろ。誰にも言いやしない。そいじゃ……」
『待て、キョン』
中河はいぶかしげな声で、
『何言ってんだ。勘(違(いするな。俺はお前なんか愛しちゃいないぞ。何を勝手に思い違いをしてるんだ。気味の悪いヤツだな』
さっきの「愛してるんだ」ってのは何だよ。誰に向けた言葉だ。
『実は名前は解らない。北高の女子生徒であることは解っているんだが……』
こいつの言っている事情が俺にだってまだよく解らんが、しかし少しはホッとする。最前線の塹(壕(の中で休戦協定締(結(を知らされた下っ端(兵士のような安(堵(感(だ。男の知り合いからの告白なんてのがマジだったら、それは恐(怖(以外のなにものでもないね。俺のケースではな。
「もっと解るように話してくれ。誰を愛しちまったんだって?」
紛(らわしいにもほどがある。もう少しで逃(亡(先のリストアップに入るところだった。
だいたいな、高一の分際で真面目に愛を語ろうなんざ、それこそ頭がイッちまっていると言うべきだろう。口に出すのも恥(ずかしいね。愛だって?
『今年の春……五月頃(だ』
と、中河は勝手に語り始めた。どことなく陶(酔(しているような口調である。
『その人はお前と一(緒(に歩いていた。目を閉じれば蘇(る。ああ……その姿のなんと可(憐(で美(麗(なことだっただろう。それだけではない。俺はその人の背後に後光が差しているのが見えた。錯(覚(ではない。そう、それはまるで天国から地上に差し込む光のようだった……』
陶酔の声はなにやらケミカル系のドラッグでもやってんのかというような危ない響(きを持ち始めていた。
『俺は圧(倒(された。今までの人生で感じたことのない感覚だった。まるで電流が走り抜(けたように……いや! 特大の雷(に打たれたかのように俺は立ちつくした。何時間もそうしていたらしい。らしいというのは時間の感覚がまったくなかったからだ。気がつけば夜になっていた。そして思ったのだ。これが愛なのだと』
「ちょっと待てよ」
アンドロメダ病源体患(者(の寝(言(みたいな中河のセリフを整理してみよう。それによると、五月に俺と誰かが連れ添(って歩いていて、そいで中河はその誰かを見て愕(然(とした。誰かとは北高の女子で……って、そうすると候補は何人も挙がらないな。
今年の春に俺が街中を一緒に歩いていた女なんて、我ながら言うのも何だがそんなに多くない。北高限定なら妹も除外できるからSOS団女子三人のうち誰かに決まっている。
と、いうことは……。
『運命の出会いだった』
中河はますます酔(いしれた声(色(で、
『いいかキョン。俺は一(目(惚(れなどというオカルトみたいなもんを信じてはいなかった。自分ではバリバリの唯(物(主義者だったつもりだ。しかしそんな俺の蒙(を啓(いてあまりあることが発生したのだ。一目惚れはある。あるんだよ、キョン』
なんで俺がお前にそんな言い聞かせられるようなことを言われねばならんのだ。一目惚れだと? 外(面(に騙(くらかされているだけじゃねえのか。
『いいや、違う』
いやにキッパリと断言しやがるな。
『俺は顔やボディラインなんかに騙されたりしない。あくまで重要なのは内面だ。俺は彼女の内面を一目で見抜いたのだ。一目で充(分(だった。あの強(烈(なインパクトは何にも代え難(いものだった。言葉で言い表せないのが残念だ。とにかく俺は恋(に落ちた。いや、墜(ちた。今ではどこまでも墜ちていきたい気分だ……。解(るか、キョン?』
それこそこっちが「いいや」だな。
「まあ、それはいいが」
俺はいつまでも続きそうな中河の譫(言(に終(止(符(を打つことにした。
「お前が衝(撃(だか何だかを受けたのは五月のことなんだよな? ところで今はもう冬だ。とっくに半年以上が経(ってるが、その間お前は何をしてたんだ?」
『ああ、キョン。それを言われると俺もツライのだ。この半年間は俺にとって苦行そのものだった。精神の休まるときがなかった。ずっと迷い続けていたのだ。いったい俺のどこに彼女にふさわしい部分があるのだろうかと、そればかりを考えていた。正直言うとな、キョン。彼女のそばにお前がいたことを思い出したのはごく最近なのだ。思い出したからこそこうして名簿を引っ張り出して電話をしているのだからな。それほど彼女は光(り輝(いていた。こんな思いをしたのは人生において他(にない』
名前も知らない女をパッと見ただけでコロリといかれ、そのまま半年以上も一人でうなっているだけとは恐(れ入るね。
俺は朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に顔を思い浮かべながら核(心(に触(れることにした。実を言うとそろそろ電話を切りたく思っていたが、この中河の話しぶりではいくらガチャ切りしても何度でもリダイヤルしかねない勢いだ。
「お前が惚れたという女の人相風(体(を教えろ」
中河はしばらく押し黙(ってから、
『髪(は短かった』
思い出しつつ話すようにゆっくりと、
『眼鏡(をかけていた』
ほう。
『北高のセーラー服がとてつもなく似合っていた』
ううむ。
『そして、光り輝くようなオーラをまとっていた』
それはよく解らない。しかし、
「長門か」
これは意外だった。てっきりハルヒか朝比奈さんのどちらかだろうと思っていたのに、よりによって長門とはな。さすが谷口が目をつけたAマイナーだけのことはある。俺なんか初対面時には無口で風変わりな部室のアンティークドールくらいにしか思っていなかったのに、さすが目ざといヤツはどこにでもいるようだ。今は違うぜ、俺の長門に対する印象はこの半年間で大きく様変わりしている。
『ナガトさんと言うのか』
中河の声は妙(に弾(んでいた。
『どんな字を書くのだ? ぜひフルネームを教えてくれ』
長門有希。戦(艦(長門の長門に、有機物の有、希望の希だ。そう言ってやると、
『……いい名前だ。雄(大(なイメージを思わせる長門型に、希(みが有ると書いて有希か……。長門有希さん……。まさに思った通りの清(澄(で未来の可能性に満ちあふれた姓(名(だ。凡(庸(でもなく、かといって突(飛(すぎてもいない。俺のイメージ通りじゃないか』
どんなイメージだ。一目見ただけで構築した独りよがりな妄(想(だろう。そういや内面がどうしたとか言っていたが、一目惚れのどこに内面が関係するんだ。
『俺には解ったのだ』
いやに自信に満ちた断言である。
『これは妄想なんかじゃない。確信なんだ。外見や性格なんかどうでもいいんだ。知性であり理知なのだ。俺は彼女に見た。大いなる神のごとき理性をだ。あれほどハイブロウな女性に人生で二度と巡(り会うことはないだろう』
あとでハイブロウを辞書で引こうと考えながら、俺の首のヒネリはまだ取れない。
「だから、どうしてパッと見でそんな高(尚(なことが解ったんだよ? 一言も口きいてないし遠目から見ただけなんだろ?」
『解ってしまったのだからしかたがないだろう!』
何で俺が叫(ばれなきゃならん。
『俺は神に感謝している。それまで無宗教だった自分を恥じているほどだ。とりあえず近所の神社に毎週の参拝を欠かさないようにして、たまに教会で懺(悔(もしているぞ。それもカトリックとプロテスタントの両方だ』
それじゃかえって不信心者だぜ。拝めばいいというものではないんだ。信じる神は一柱にしておけ。
『それもそうだな』
中河は普(通(に答え、
『ありがとうキョン。おかげで決心がついた。俺が信じるのはただ一人の女(神(でいい。長門有希さんがまさにそれだ。彼女を俺の女神として、終生違(わぬ愛の誓(いを──』
「中河」
戯(れ言(がいつまでも続きそうだったので俺はヤツの言葉を遮(断(した。気味の悪さもさることながら、なんだか妙にイライラしてきたからである。
「だから何なんだ。お前が電話してきた理由は解(ったさ。それで? そんな告白を俺に聞かせてどうしようってんだ」
『伝言を頼(みたい』
と、中河。
『長門さんに俺の言葉を伝えて欲しいのだ。頼む。お前しか頼(りにならない。彼女と並んで歩いていたお前だ。少しは彼女と親しいのだろう?』
親しいといえば親しいさ。同じSOS団の団員で今や仲良くハルヒの衛星群と化しているからな。それにこいつに見られた俺と長門の姿、五月で眼鏡で制服だって言ってたか。なるほどアレだ。第一回SOS団パトロールで俺と長門が図書館に行った時だろう。やたらと懐(かしい思い出だが、あの時に比べたら今の俺は長門のことを百倍以上もよく知っている。知り過ぎちまったかと反省しているくらいだぜ。
若(干(のしみじみした気分を味わいながら、俺は中河に尋(ねた。
「ところでお前、俺が長門と歩いてるのを思い出しといて──」
ちょっと言いにくいが、
「ええとだな、俺とあいつがただ親しいだけだとしか思わなかったのか? たとえば、何だ、俺と長門が付き合っているとかさ」
『まったく思わん』
中河は躊(躇(の一(片(もなく、
『お前はもっと変な女が好きだったはずだ。中三の時の……何と言ったか忘れたが、あの奇(妙(な女とは続いていないのか?』
長門を指して変じゃないというのも違(和(感(ありありだが、それよりこいつは何を勘(違(いしているんだ。そういや国木田も誤解しているようだったが、あいつとはただの友達で、よく考えたら中学を卒業して以来会ってない。しばらくぶりに思い出した。年賀状くらいは書いといたほうがいいかな……。
なぜか墓(穴(を掘(ってる気分になってきたので、話を変えることにする。
「で、何て伝えるんだ? デートの誘(いか? それとも長門の電話番号を教えたほうがいいか?」
『いや』
中河の返事は重々しい。
『現時点の俺は長門さんの前におめおめと顔を出せるほどの何者でもない。まったくもって不釣(り合いだ。だから、』
一(拍(の間があって、
『待っていて欲しい……と、伝えてくれ』
「何を待つって?」と俺。
『俺が迎(えにいくのを、だ。いいか? 俺は現在のところ、何の社会性もない一(介(の高校生に過ぎない』
そうだろうとも。俺だってそうさ。
『それではダメなんだ。聞いてくれ、キョン。俺はこれから猛(勉強を開始する。いや実際もうしているのだが、そうやって現(役(で国公立大のどこかに入る』
目標を高く持つのはいいことだ。
『志望は経済学部だ。そこでも俺は勉学に打ち込み、卒業時には第一席を獲(得(する。そして就職先だが、あえて国家公務員一種や超(一流企(業(ではなく中(堅(どころの会社に職を得ようと思っている』
よくもまあそこまでリアルなのか絵空事なのか解らん青写真を描(けるものだ。この会話を鬼(が聞いていれば笑いすぎで腹(膜(炎(を起こすかもしれない。
『だが俺はいつまでもプロレタリアートの地位に甘んじるわけではない。三年……いや二年であらゆるノウハウを吸収し、独立開業するつもりだ』
止めやしないので存分にやってくれ。もしそん時に俺が路頭に迷ってたら雇(って欲しいね。
『そうやって自分の興(した会社が軌(道(に乗るまで五年……いや三年で何とかする。その頃(には東証二部に上場も果たし、年度ごとに最低十パーセントは利益を上げていく計画だ。それも粗(利(でだぞ』
だんだんついていけなくなってきた。しかし中河は調子よく、
『その頃には俺も一息つけるようになっているだろう。そこで、ようやく準備が整ったというわけなのだ』
「何の準備だ?」
『長門さんを迎えに行く準備が、だ』
俺は深海に住む二枚貝の仲間のように沈(黙(し、中河のセリフは大シケの波のように押し寄せる。
『高校を卒業するのに後二年、大学卒業までに四年、就職してからの修(行(期間が二年で開業から上場までが三年、合計して十一年だ。いや、キリのいいところで十年でいい。その十年間で俺は一人前となり──』
「アホかお前は」
と俺が言うのも解(ってもらえると思う。どこのどいつが十年もおとなしく待っていたりする? おまけに会ったこともない男をだ。突(然(誰(とも知らない野(郎(から十年でいいから俺の迎えを待っていてくれと言われて、そのままじっとしているヤツがいたらそいつは人間以外の何かだ。そしてもっと悪いことに長門は人間以外の何かなのである。
俺は小さく舌を打った。
『俺は本気だ』
マズいことに本気の声をしている。
『命をかけてもいい。真(剣(だ』
声に切れ味があるのだとしたら電線があちこち断線しているような声である。
どうやってごまかそう?
「あー、中河」
俺はひっそりと本を読んでいる長門の線の細い姿を思い浮(かべながら、
「これは俺の私見だが、長門は裏ではけっこうモテる女だ。引き合いが多くて困るほどだぜ。お前の女を見る目がなかなかの慧(眼(なのは誉(めてやってもいい。だが、十年も長門がフリーでいる可能性はほとんどゼロだ」
デマカセだけどな。十年後のことなんざ俺にだって解るものか。俺自身の進路だって不明確なのにさ。
「それにそんな重要なことなら長門に直接言えよ。気が進まんが、手引きしてやってもいい。ちょうど冬休みだし、一時間くらいならあいつも時間を空けてくれるだろうし」
『それはダメだ』
中河は不意に小声となって、
『今の俺ではダメなんだ。きっと長門さんの顔を見るなり卒(倒(してしまうだろう。実は最近も遠くから見たことはあるんだ。駅近くのスーパーマーケットで偶(然(な……。夕方だったんだが、その後ろ姿を一(瞬(捉(えただけで、俺はそのまま閉店まで店内に立ちつくしていた。直接顔を合わすなんて……とんでもないことだ!』
いかん、中河は完全に脳が桃(色(になる病気にかかっている。将来設計まで完(了(する始末だから相当の重(篤(である。手の施(しようがあればいいんだが、切った張ったの騒(ぎに巻き込まれた日にはゴメンと謝って遁(走(するしか手だてがない。
しかもこんなアホなことを親しいとも言えない俺に電話してきて声高らかに叫(び出すようなヤツだ、次に何を言い出すか解らんのが恐(ろしい。そんなヤツはハルヒ一人でも手に余ってんのに、長門も罪作りなことをしてくれるよな。
やれやれ。俺は中河に聞かせるつもりで溜(息(をつき、
「いちおうは解ったよ。長門に何て伝えればいいのか、もう一度教えてくれ」
『ありがとう、キョン』
中河はいかにも感動したように、
『結(婚(式には必ずお前を呼ぶ。スピーチも頼(む。それも一番手でだ。一生お前のことは忘れない。もしその気があるのなら、俺が将来立ち上げる会社で相応のポストを用意して迎えようじゃないか』
「いいから早く言え」
気が早いにもほどがある中河の声を聞きながら、俺は肩(に受話器を引っかけて白紙のルーズリーフを探し始めた。
翌日の昼過ぎ、俺は北高へ至る坂道を黙(々(と上っていた。標高が上がるごとに吐(く息の白さも際(だち、しかし冬休みだってのに何で学校に向かっているのかというと、SOS団の全体ミーティングは定期的に開(催(されるからである。
ついでに今日は部室の大(掃(除(も兼(ねていた。メイドな朝比奈さんがまめに清掃しているとは言え、エントロピーは増大するという格言に従って部室には雑多なものがどんどん運び込まれては秩(序(を乱し、そんなカオスの元(凶(になっているものこそ、目についた物を何でもかっぱらってくるハルヒ、次々と新しいゲームボードを運び込む古泉、分厚い本を矢(継(ぎ早に読破してしまう長門、日々完(璧(なお茶くみ係になるべく精(進(を続ける朝比奈さん──なんと俺以外の全員だ。そりゃ放(っておけば散らかり放題になるよ。そろそろ余計な備品を各自の自宅に持って返るよう提言する頃(合(いだろう。最低限、朝比奈さんのコスプレ衣(装(だけは何としても保全するとして。
「あー、うっとうしい」
足取りが軽(やかであらざるのは言うまでもなく、ブレザーのポケットに余計な紙切れが入っているからだった。
中河の長門へ向けた愛の言葉を言われるがままに羅(列(した口述筆記。バカバカしくて何度シャーペンを放り出そうとしたことか。こんなこっ恥(ずかしいことをてらいもなく言える男はベテランの結婚詐(欺(師(にもいないだろう。何が十年待ってくれだ。コントか。
山(颪(に向かって歩くうち、お馴(染(みの校舎が見えてきた。
俺が部室棟(に辿(り着いたのは、ハルヒが設定した集合時間の一時間前だった。
最後に来た人間が全員に奢(るというSOS団ルールを恐(れてのことではない。適用されるのは学外での待ち合わせだからな。
昨日の電話の最後に中河は、
『書いた文章を渡(すだけではダメだ、それではただの代筆だ。また読んでくれるかどうかも解らない。彼女の前でお前が読み上げてくれ、さっき俺が語ったのと同じ熱意を込めて……!』
などという無茶な要求をした。俺にはヤツの言うとおりにする謂(われも純(朴(さもないが、あれだけ懇(願(されては元々が性善説の信(奉(者である俺のこと、ほんの少しだが情にほだされないわけでもない。それにはその場に長門以外の誰(もいないというシチュエーションが必要だった。一時間も前に来たら、さすがに長門以外のメンツはまだ来ていないに違(いなく、長門は間違いなくそこにいる。必要なときにそこにいなかったためしのない宇宙人製アンドロイド、それが俺の知っている長門有希であるから。
形ばかりのノックの後、沈黙が返答として返ってきたのを確(認(してから扉(を開く。
「よっ」
不自然に軽快な挨(拶(だったかな? と自分にダメだししながら、もう一度、
「よう長門。いてくれると思ったぜ」
静(謐(な真冬の空気が部室を満たす中、長門は体温を感じさせない等身大フィギュアのようにひっそりと席につき、病名みたいなタイトルのハードカバーを広げて読んでいた。
「…………」
表情のない顔が俺を向き、片手がこめかみに触(れるように上がって、またすぐに降りた。
まるで眼鏡(を押さえるような仕草だったが今の長門は裸(眼(であり、眼鏡なしのほうがいいと言ったのは俺で実行し続けているのはこいつだ。今のは何だ? 半年前あたりのクセが蘇(ったりでもしたのか。
「他の連中はまだか?」
「まだ」
長門は簡潔に答えると、再び二段組みにびっしりと書かれた改行の少ないページに視線を落とした。空白が多いと損だと感じるタイプなのかね。
俺はぎこちなく窓に近寄り、部室棟から見える中庭へ目をさまよわせた。休み中のこともあって校舎に人の気配はほとんどない。グラウンドで寒さ知らずの運動部員たちが元気にハッパをかけている声だけが、立て付けの悪い窓ガラス越(しに聞こえてくる。
立ったままで目を長門へ滑(らせた。いつもの長門だった。白(皙(の顔色も揺(るぎのない表情も。
考えてみれば眼鏡っ娘(枠(が長らく空きっぱなしだ。そのうちハルヒが新たな眼鏡少女を連れてくる布石を打っちまったかもしれないな。
そんなどうということもないことを考えながら、俺はポケットをまさぐって折りたたんだルーズリーフを取り出した。
「長門、ちょっとばかり話がある」
「なに」
指先だけを動かして長門はページをめくり、俺は深く息を吸った。
「お前に惚(れたとぬかす身の程(知らずが現れたので、その言葉を俺が代理として告げることにしたいのだが、どうだろう。聞いてやってくれるか?」
ここで「いや」と言ってくれたら俺はすかさずルーズリーフを破り捨てる計画だったのだが、長門は無言で俺を見上げていた。氷の色をした瞳(ではあるものの、俺を見るときに限っては雪解け水くらいに温まっているように感じるのは俺が都合よく解(釈(しているせいだろう。
「…………」
長門は唇(を閉(ざして俺を凝(視(する。まるで外(科(医が被(験(者の患(部(を観察しているような目つきだった。
「そう」
と呟(くように言って瞬(きもせずにじっと固まる。そのまま待っているようだったので、俺はしかたなく中河のセリフを書き留めた紙(片(を広げた。読み上げる。
「拝(啓(、長門有希さま。いても立ってもおられず、このような形で思いを告げる無礼をお許しください。実は私はあなたに一目会ったその日から──」
長門は俺を見つめたまま聞いていた。だんだんと変な気分になってきたのは俺のほうである。ほとんど眩暈(をともなうほどの中河作愛の言葉を吐いているうちに、バカバカしさがピークに至ろうとしていた。何やってんだ俺は。気は確かか?
中河の人生設計が終(盤(にさしかかり、ゆくゆくは郊(外(に一(軒(家(を構えて二人の子供と一匹(のウェストハイランドホワイトテリアとともに優(雅(なスローライフを満(喫(するという未来日記を読んでいる俺を、長門はただ黙(然(と眺(めているのみだった。なんだか自分が途(方(もなくくだらんことをしているような実感が沸(々(と湧(いて出る。
というか、くだらん。
俺は棒読みを停止した。これ以上、妄(言(を読み上げていては俺の精神がおかしくなる。どうやら中河とは永遠に分かり合えそうにないな。こんな脳みそが茹(だりそうなセリフを出力するやつとは付き合いが成立しそうにない。中学時代にそれなり程度の仲だったのも道理だ。一(目(惚(れに半年以上の潜(伏(期間、と思ったら突(然(のメッセンジャー依(頼(に、かくも狂(った愛の告白ではね。うん、もうどうしようもねえ。
「まあ、そういうことなんだが、だいたい解ったか?」
対する長門は、
「わかった」
こくりとうなずいた。
マジで?
俺は長門を見つめて、長門は俺を見つめていた。
沈(黙(という熟語が羽を生やして俺たちの間を飛び回っているような静かな時間……。
「…………」
長門は首の角度をやや傾(けて、しかしそれ以上のアクションを取ることなく、ただ俺をじっと見続けていた。ええと何だろう。次は俺が何か言う番なのか?
俺が懸(命(に語(彙(を探(っていると、
「メッセージは受け取った」
俺から視線を逸(らさずに、
「しかし応じることはできない」
例によっての淡(々(とした声で、
「わたしの自律行動が以降十年間の連続性を保ち得(る保証はない」
そう言って唇を結んだ。表情は変わらない。視線も俺から外れない。
「いやぁ……」
先に根負けしたのは俺だった。首を振(るふりをして吸い込まれそうな漆(黒(の瞳から目を解放する。
「そうだよな。普(通(に考えて十年は長すぎるよな……」
待機時間以前の問題だとは思うが、とりあえず俺はホッとしていた。この安(堵(感(の出所は何かと考えてみるに、早い話が俺は長門が中河でも誰でもいい、他(の男と睦(まじげに歩いている姿など見たくはないのである。ハルヒ消失事件でのあの長門のイメージがちょっとばかり俺の頭に残存しているのも否定できないかな。中河はそんなに悪い男ではなく、むしろいいヤツの部類だったと思うが、それでも俺は俺の袖(を柔(らかい力で引っ張ったあの長門の不安そうな表情をまだ明確に記(憶(している。
「すまん長門」
俺はルーズリーフをくしゃくしゃに丸めながら、
「よくよく思えば、こんなもんを律(儀(にメモってきた俺が悪い。中河には電話の時点できっぱり断るべきだったよ。すっぱりと完(膚(無(きまでに忘れてやってくれ。このアホには俺からきっちり言っておく。ストーカーになるようなヤツじゃないから、その点は安心してくれていい」
まあ、朝比奈さんに彼氏ができるようなことがあったら俺はそいつのストーカーになるかもしれんが……。
うむ? なるほど、そういうことか。
俺は自分の胸にあるモヤモヤの正体に思い当たった。
朝比奈さんにしろ長門にしろ、余計な男が俺たちの間に割り込んでくるのは率(直(に言ってムカが入る。気にくわない、というごく単純な理(屈(で、俺は安堵しているらしかった。我ながら解(りやすい。
ハルヒ? ああ、あいつに関しては何も心配していない。ハルヒに言い寄るような男はそれだけでハルヒ的不合格者だし、もし天変地異でも起きてあいつに男ができるようなことになれば、宇宙人やら未来人やらを追い求めることもなくなって地球にも優(しく、仕事も減って古泉もさぞかし楽になることだろう。
そして俺の巻き込まれ型な人生からもエキセントリックなパートが大いに削(減(されるに違(いない。いつかはそうなるのかもしれないが、今この時じゃないのは確実だ。
俺は部室の窓を開けた。二人分の体温で温(もりかけた部屋に指を切るような冷たい冬の大気が舞(い込んできた。俺は大きく振りかぶり、丸めた紙切れを思いっきり遠投する。
ふわりと風に乗った紙製即(席(ボールは、急角度の放物線を描(いて降下した。校舎と部室棟(を繫(ぐ渡(り廊(下(、その横に広がる芝生(に音もなく落っこちる。そのうちに風に吹(かれて転がっていき、建物沿いにある溝(にでもはまって枯(葉(とともに朽(ちてボロボロになる未来を予測していたのだが──。
なんということだろうか。
「やべ」
ちょうど渡り廊下をこっちに歩いていた人(影(が進路を転(換(して芝生に降りてきた。そいつはチラリと俺のほうを見上げると、タバコのポイ捨てを咎(めるような眼(差(しを作り、すたすたと歩いて投げ捨てたばかりの紙ボールを拾い上げた。
「おい、よせ! 見るな!」
俺の儚(い抗(議(もむなしく、頼(んでもいないゴミ拾い主は、しわくちゃのルーズリーフを広げて黙読を開始した。
「…………」
と、長門は黙々と俺を見続けている。
唐(突(だが、ここでシンキングタイムだ。
Q.1 その紙切れには何が書いてある?
A.1 長門への愛の告白である。
Q.2 誰(の字で書いてある?
A.2 俺の字である。
Q.3 事情を知らない第三者がそれを読んだらどうなる?
A.3 誤解するかもしれない。
Q.4 ではハルヒがそれを読んだなら?
A.4 考えたくもないね。
そうやって涼宮ハルヒは数分間、ルーズリーフをためつすがめつしていたが、やがて顔を上向けて俺に強い視線をぶつけ、どういうつもりなのか、不気味にもニヤリと笑った。
……決定。今日は厄(日(になりそうだ。
十秒後、とんでもない勢いで部室に走り込んできたハルヒは俺の胸(ぐらをつかみ上げると、
「何考えてんの? あんた、バカじゃないの? 今すぐ正気に戻(してあげるから、そこの窓から飛び降りなさい!」
と、笑(顔(のままで叫(んだ。ま、ちょっとは引きつったような笑みだったが、俺を開け放した窓へ引きずろうとする力はエネルギーに換(算(するとそれだけで今日一日の暖(房(分くらいの容量が込められていて、そのパワーは俺が大急ぎで状(況(説明をしようとセリフを考えている最中も翳(ることがなかった。
「いや、だからこれはだな。俺の中学に中河という野(郎(がいて……」
「何よ、他人(のせいにすんの? あんたが書いたんでしょ、これ」
ハルヒはぐいぐい俺を引き寄せ、十センチくらいの距(離(から並はずれて大きな瞳(で睨(みつけてくる。
「いいから放せ。まともに話もできねえだろうが」
そうやって俺とハルヒが揉(み合っているところに、間が悪く第四の人影が登場した。
「うぁ」
朝比奈さんが目を皿のようにして扉(の隙(間(に立っていた。上品に口を押さえ、
「……あの……。お取り込み中ですか? 出直したほうが、その、いいでしょうか……?」
取っ組み合ってはいますが別に取り込んでなどはいませんし、ハルヒと揉み合っていても何一つ楽しくはなく、どうせ同じ目に遭(うならあなたがいい──ので、どうぞお入りください。朝比奈さんの入室を拒(む権限など過去未来を通じて俺にあろうはずがなく、そのつもりもないのである。
だいたい長門が何事もないように座っているんだから、朝比奈さんも堂々と入って来てくれればいいのですよ。ついでに助けてくれたら御(の字ですが。
俺がハルヒと格(闘(しながら朝比奈さんに微笑(もうとしていると、
「おやおや」
最後にやってきた団員が朝比奈さんの横から顔を出した。
「早く来すぎてしまいましたかね?」
明朗快活な微(笑(を見せつつ前(髪(をかき上げ、
「朝比奈さん、どうやら僕たちはお邪(魔(虫のようですので、ここはいったん退散して、お二人のおそらく犬も喰(わないようなやり取りが一時的収束を迎(えてから再訪することにしましょう。自(販(機(のコーヒーくらいなら奢(らせてもらいますよ」
待て、古泉。これが痴(話(ゲンカに見えるようならお前は今すぐ眼科に直行しろ。それから、どさくさに紛(れて朝比奈さんを誘(うんじゃない。朝比奈さんも、おずおずとうなずいてる場合じゃありませんよ。
ハルヒはバカ力で俺のシャツを絞(り上げ、俺はそのハルヒの手首を握(りしめている。このままでは筋肉痛になりそうで、たまらず俺は叫んだ。
「おいこら、古泉! どこに行く、助けろ!」
「さあ、どうしましょうね」
古泉はここぞとばかりにすっとぼけ、朝比奈さんは驚(いた子ウサギみたいに身を固まらせて目をパチクリしており、さりげなく古泉が腰(に手を回してエスコートしようとしているのにも気づいていないようだった。
一方の長門はどうしているかと見ると、こちらはいかにも長門らしく我関せずとばかりに早々と読書に戻っていた。元はと言えばお前の話をしていてこうなっちまったんだから、少しはフォローの言葉を発してくれよ。
そしてハルヒはギリギリと俺を締(め上げながら、
「あたしは情けないわ。こんな間(抜(けな手紙を書くようなバカが団員から出ちゃうなんて、もう! 引責辞任ものよ。裸足(で履(いた靴(の中にゴキブリが巣を作ってたくらいの気持ち悪さだわ!」
そう叫びつつもハルヒの顔は不可解な笑みに強(ばっていた。まるでこういう場合の表情の作り方を知らないかのようでもあったが、
「ここに来るまでに十三通りの罰(ゲームを考えついちゃったわよ! 手始めにアジの干(物(をくわえて塀(の上で近所の野(良(猫(とナワバリ争いをさせてやるから! 猫耳付きでっ」
朝比奈さんがメイド衣(装(でそれをやるんだったら絵にもなるだろうが、俺がやっても都市伝説的な特(殊(救急車を呼ばれるだけだ。
「猫耳属性の持ち合わせはねえよ」
俺は開けっ放しの窓へ顔を向け、吐(息(を漏(らした。
すまん、中河。何もかもネタばらししないと丸めた紙に続いて俺が窓からダイブするハメになりそうだ。俺としても本意ではないのだが、このハルヒの誤解を放置していたら自然界の機(嫌(までが悪くなる恐(れがある。
俺は団長殿(のつり上がった目を覗(き込みながら、爪(切(りを拒(否(するシャミセンに言い聞かせる口調で言った。
「聞け。つーか、まず手をどけろ。ハルヒ、お前のトサカ頭にも解(るように解説してやるからさ……」
十分後。
「ふうん」
と、ハルヒはパイプ椅(子(に胡座(をかいてズルズルとホット緑茶をすすっていた。
「あんたも変な友達を持ったものね。一(目(惚(れすんのは自由だけど、そこまで思いこむなんてよっぽどだわ。バッカみたい」
恋(は人を盲(目(にも脳疾(患(にもさせるのさ。まあ、最後のフレーズには俺も異論はないが。
ハルヒはシワだらけになったルーズリーフを摘(み上げ、ヒラヒラと振(った。
「てっきり、あんたがアホの谷口と組んで有希をからかおうとしてんじゃないかと思ったわよ。あいつならやりかねないし、有希はおとなしいしさ。騙(されやすそうだもん」
長門以上に騙されにくい存在など銀河レベルでもそうはいないように思ったが、俺は口には出さずに聞いていた。そんな自制している雰(囲(気(を少しは感じたのか、ハルヒは俺をキツイ目で一(瞥(し、ふっと表情を緩(めた。
「まあね。あんたはそんなことしないわよね。小細工をする知(恵(も機転もなさそうだもん」
誉(めているのかクサしているのか解らんが、少なくとも俺はそんな理性の足りない小学生みたいなことはしないね。いくらあの谷口でも年相応の分別はあるだろうよ。
「でも……、」
と、口火を切ったのはSOS団が誇(る小(柄(な妖(精(兼(天使である。
「ちょっとステキですね」
朝比奈さんはどことなくウットリとした顔で、
「こんなに誰(かに好きになってもらえたら、少し嬉(しいかも……。十年かぁ。本当に待ち続けることができる人に会いたいですね。なんだかロマンチック……」
顔の前で指を組んで潤(みがちな目をキラキラさせている。
朝比奈さんの言うロマンチックと俺が学んだロマンチックが同じ意味を持っているかどうか定かではないが、きっと別物のような気がするね。未来では言葉の意味も変容している可能性がある。船が浮(力(で浮(いているのを言わなきゃ解らなかった人だからな。
ところで今日の朝比奈さんは普(通(にセーラー服をお召(しである。メイドやらナースやらの衣装をまとめてクリーニングに出していたからで、アマガエルの着ぐるみもその中に入っている。俺とハルヒが朝比奈さんの香(りが染(みこんだ大量のコスプレ衣装を抱(えて持っていったとき、クリーニング店のおっちゃんが不必要なまでにジロジロと俺とハルヒを交(互(に見ていたのが何となくトラウマだ。
「中河の実物はロマンチックとは縁(遠(い感じですけどね」
俺は湯飲みに残っていた冷めかけのお茶を一気に飲み干し、
「間(違(っても少女マンガの主役にはなれそうにないゴツゴツした動物系です。動物占(い的には熊(っすね。胸(元(に月の輪がありそうなヤツだ」
言いながら中学時代の印象でぴったりのキャッチコピーを思いついた。
「そう、気は優(しくて力持ちみたいな」
それほど接点はなかったが、イメージ的にそんなんだ。とにかく身体(の発育だけはよかった。朝比奈さんとは別の意味で。
これもヤツには謝っておかねばならないだろうが、中河の発した言葉を書き留めた俺の筆による恋(文(は止める間もなく──すまないがその気力を俺は失っていた──ハルヒが情感豊かにさっき読み上げてしまい、それを受けて朝比奈さんとは別の感想を述べたのが古泉だった。
「なかなかの名文だと思いますよ」
作り笑いめいた微(笑(も相変わらずに、
「何よりも具体的なのがいいですね。やや理想論めいていますが、それでいてきちんと現実を見(据(えている実直さも好感度高しです。突(発(的な一時の熱意に自失している感があるものの、迸(る勢いが行間から立ち上っている様子も見て取れますし野心的でもあります。言葉通りの努力を続けていれば、きっと中河氏は将来ひとかどの人物になるのではないでしょうか」
安物の精神分(析(医みたいなことを言った。他人の人生だと思って、いい加減な予言をするんじゃねえぞ。責任を取る立場じゃないんだったら俺だって適当なことはいくらでも言える。お前はインチキ占い師か。
「ですが」
古泉は微笑(みをくれる。
「このような文言を発するのもかなりの度胸ですが、書き留めるあなたも人間がよくできていますね。僕なら指が拒否するところです」
それは何か、婉(曲(な言い回しで俺を罵(倒(でもしているのか。俺はお前とは違(って友達思いなんだよ。結果の分かり切っているキューピッド役を辛(うじてパートタイムでやる程度にはな。
俺は肩(をすくめ、それを古泉への返答としてから、
「長門の返事ならお前が来る前に聞いたさ」
ハルヒと古泉を等分に眺(めつつ長門のコメントを代弁する。
「十年は長すぎるってさ。当然だろ? 俺だってそう思うぜ」
その時、それまで存分に寡(黙(さを発揮していた長門が、
「見せて」
細っこい指を差し伸(べていた。
それを見て俺は意外に思う。ハルヒもそうだったようで、
「やっぱ、気になるの?」
ハルヒは不(揃(いな前(髪(を持つ唯(一(の文芸部員を覗き込むように、
「キョンの書いたやつだけど、記念にもらっておくといいわ。今時こんな回りくどいのか直接的なのか解(らないようなコクりなんてそうそうないから」
「どうぞ」
ハルヒから渡(されたシワシワのルーズリーフを、古泉は長門にバトンリレーする。
「…………」
長門は目を伏(せるようにして俺の字を読んでいた。何度も。目が同じ場所を上下している。そうやって嚙(みしめるように黙(読(していたが、
「待つことはできない」
うんうん。そうだろうとも。
しかし、続く言葉として長門は、
「会ってみてもいい」
誰もが絶句するようなことを呟(き、とりわけ俺が顎(をガクリと垂らしていると追い討(ちのように、
「気になる」
そう言って、俺をじっと見つめた。いつもの目の色で。
俺がちゃんと知っている、変わりのない手作りガラス工芸品みたいな正気の瞳(で。
大(掃(除(は大したこともなく単なる掃除で終わった。本(棚(に並んだ書(籍(の処分を提言したところ、イエスともノーとも言わない長門は黙(ったまま俺を見つめることを続行し、その目の色がどことなく悲しそうに思えた俺はそれ以上何も言えなくなり、古泉のゲームコレクションの中でゴミ箱に居場所を移したのは、一回やったきりでそれも雑誌のオマケについてきた紙製のスゴロクだけだった。
朝比奈さんは元々私物を茶葉以外に持っておらず、ハルヒは自分が持ち寄ったあらゆる物体の破(棄(を「ダーメ」の一言で拒(絶(した。
「いいかしらキョン。何であれ使わずに捨てるなんてもったいないことをあたしはしないのよ。再利用できるものだったら何度も使って、最終的にどうしようもないくらい劣(化(でもしない限り、やっぱりあたしは捨てないの。それがエコロジーの精神よ」
将来、こういうヤツがゴミ屋(敷(を形成することになるんじゃないかね。エコのことを考えるならお前は生存活動以外の何もしないほうがいいと思うけどな。
ハルヒは長門と朝比奈さん、それから自分にも三角巾(をかぶせてハタキと箒(を配り歩き、俺と古泉にはバケツと雑(巾(を譲(与(して窓(拭(きを命じた。
「年内にここ来るのはこれで最後なんだから、ピッカピカにして帰るのよ。年明け、あたしたちが来たときに健(やかな気分になれるようにね」
言われるままにガラス拭きを実行する俺と古泉である。その最中、部室を片づけてるんだかホコリを撒(き散らしてんだか解らない三人組の北高少女を眺めつつ、俺の相方が囁(き声で言った。
「ここだけの話、長門さんに接近したがっている『機関』以外の組織はいくらでもあります。今や彼女は涼宮さんやあなたと同じくらいの重要人物ですからね。特に他(のTFEIたちの中でも長門さんはオンリーワンなポジションにいます。そうなったのは最近のことかもしれませんが」
窓(枠(に腰(をかけ、体温を容易に奪(い去る風に対(抗(して濡(れた手に生暖かい息を吹(きかける俺は無言でガラスに濡れ雑巾を這(わせた。
何のことやら──。
とぼけるのは簡単だ。最近、俺は長門や朝比奈さんと一(緒(に、ここのハルヒと古泉があまり関(わらない事件に遭(遇(したばかりであって、その結果として今があるからには完全無視を決め込むわけにはいかない。
「なんとかするさ」
俺は表面的には軽快に応(えた。
今度のは俺が持ち込んだイザコザだ。俺自身で解決すりゃいい。
ガラスの内側を拭きながら、古泉は小さく笑い声を漏(らしたようだった。
「ええ。今回ばかりはあなたに一任させてもらいますよ。僕は年末から年始にかけて行くSOS団雪山旅行の準備に大わらわですからね。加えて言わせてもらうと、あなたは涼宮さんと仲よくケンカすることでストレス発散できるのかもしれませんが、あいにくと僕にはその相手もいないのですよ」
どっちがトムキャットだ。
しかし古泉はハンサム面(の唇(をひん曲げて、
「僕だってそろそろ人(畜(無害な仮面を脱(ぎ捨てて、いつの間にか固定されてしまったこのキャラ性を一新したくなる頃(だと思いませんか? 同級生相手に丁(寧(口調を続けるのも、けっこう疲(れるものなんです」
じゃあ止(めればいい。お前のセリフ内容にまで俺は口出ししようとは思わん。
「そうもいきませんね。今の僕こそが涼宮さんの望む人物設定でしょうから。彼女の精神に関しては僕はかなりの専門家なんです」
古泉はこれ見よがしに嘆(息(し、
「その点、朝比奈さんが羨(ましくなりますよ。なにしろ彼女は自分を何一つ偽(らなくてもいいのですから」
お前、いつぞや朝比奈さんの振(る舞(いはフリかもしれないみたいなことを言ってなかったか?
「おや。僕の言うことなどを信用するんですか? そこまであなたの信(頼(を勝ち取れたのだとしたら、苦労のかいがあったと言うものですが」
相変わらずのバックレぶりだ。信用ならん口ぶりも一年が終わろうとしているのに変化してない。長門すらけっこうな内面変化を遂(げたというのにお前は相変わらずだな。朝比奈さんはあのままでいいさ。別の朝比奈さんと何度か出会っているもんだから、彼女が肉体的にも精神的にも向上してんのは最(早(既(定(事(項(だ。
「僕が何かしらの変化を見せるようなことがあれば」
古泉はせっせと手を動かしつつ、
「それはよくない兆候ですね。現状維(持(が僕の本分です。僕の真(剣(な姿など、あなたが見たくなるとも思えませんが」
ああ、見たくはないとも。お前はいつでもニカニカ笑いながらハルヒの金魚のフンとしてアフターフォローか前段階仕込みに明け暮れるのがお似合いだ。今度行く雪山の山(荘(での寸劇も期待させてもらっている。それで充(分(だろう?
「これ以上ないくらいの誉(め言葉ですね。そう受け取っておきますよ」
本気なのか戯(れ言(なのかは知らないが、ともかく古泉はそのようなセリフを吐(いて、窓ガラスに白い息を吹きかけた。