雪山症候群 5

 古泉がぐったりした長門を抱き上げるのを見てから俺は階段を早足で下りた。氷枕か。どこを探したらあるかな……。

 そんなことを考えているのも、長門が気絶するようにたおれたしようげきから立ち直れていないからだろう。あり得ない光景だった。そのせいでニセ朝比奈さんが俺の部屋でやってたことや、他の連中の部屋にそれぞれ俺たちのうち誰かの偽者が発生したというミステリーが、もうウザイくらいにどうでもよくなってきた。勝手にしやがれ。そんなもん俺には関係ない。

やろう野郎

 本格的にヤバい。ちくしょう、長門にはしばらく平和な人間的生活を味わわせてやりたいと思っていたのに、これじゃ逆目しか出ていないじゃねえか。

 氷枕のあてもないまま歩いているうちに、俺は無意識にちゆうぼうにやって来ていた。俺の家ではれいきやくシートは救急箱じゃなくて冷蔵庫に入っている。このやかたではどうだろう。

「待てよ」

 大型冷蔵庫の取っ手をにぎる前に、俺はふとうでを止めた。氷枕を思いえがき、強く念じてみる。

 冷蔵庫を開けた。

「……やはりな」

 キャベツの玉の上に、青い氷枕がっていた。

 まったく用意がいい。便利すぎるぜ。しかし誰だか知らんが逆効果だ。おかげで決心が強まった。

 こんなところに、これ以上いてはいけない。



 キンキンに冷えた氷枕をかかえて食堂を出ると、館のエントランスに古泉が一人で立っていた。げんかんとびらを熱心に見ているが、いったい何のつもりだ。雪をかき集めてくるようハルヒに命じられでもしたのか。

 俺は苦言の一つでもていしてやろうと近づき、古泉は俺に気づいて先に口火を切った。

「ちょうどよかった。これを見てもらえますか」

 扉を指差す。

 俺は文句を後回しにして指された方を見る。そこにみようなものを発見し、言葉にまった。

「何だ、これは」

 言えるのはその程度だ。

「こんなものがあったとは気づかなかったが」

「ええ、ありませんでしたよ。この館に最後に入ったのは僕です。扉を閉めたときに見ましたが、その時にこんなものはなかったはずです」

 館の玄関扉、その内側に形容しにくいものがり付いていた。あえて近い表現を探すと、コンソールとかパネルとかになるだろうか。

 木製の扉に、金属こうたくのある五十センチ四方くらいのプレート──やっぱりパネルと言うのが一番か──がくっついていて、頭痛をもよおしそうな記号と数字が並んでいた。

 まんして目をらす。一番上にあるのが、


 x-y=(D-1)-z


 その一段下にも記号が並んでいて、


 x=□、 y=□、 z=□


 □の部分がへこんでいる。まるでそこに何かをはめ込めと言わんばかりだった。俺が三つのくぼみにこんわくのにらみをきかせていると、

「ピースはそこにあります」

 古泉が指差す先のゆかに、わくに並べられた数字ブロックが入っていた。よくよく見ると0から9までの数字が三列になって収められている。かがみ込んでつまみ上げてみた。マージヤンパイのような形状で、重さもそれくらい。雀牌とちがうのは表面にられた模様で、ひとけたのアラビア数字のみが刻印されている。

 計十種類の数字が三組ずつ、平らな木箱に詰められていた。

「この方程式の解答となる数字を」と古泉もブロックの一つを拾い上げて観察の視線をえ付けながら、「空いた部分に当てはめろということでしょう」

 俺はもう一度、数式のほうに目をやった。たんに頭が痛くなる。数学は俺の数多く存在する不得意科目の一つだった。

「古泉、お前には解けるのか?」

「どこかで見たような式ではあるんですが、これだけでは何とも解きかねますね。単純に両辺の数値を等しくするだけならいくらでも組み合わせがあります。これがもし、ただ一つの解を導き出せというのなら、もっと条件をしぼってくれないと無理ですね」

 俺は四つのアルファベットのうち、さいを放っている一つに注目した。

「このDは何だ。答えなくてもいいみたいだが」

「一つだけ大文字ですしね」

 古泉はナンバー0のせきはいをもてあそびながらのどを押さえるような仕草をし、

「この数式……。知っているような気がします。ここまで出ているんですが……。何でしたっけね。見たのはそんな昔ではないと思うんですけども」

 そのまま固まってまゆを寄せている。めずらしい。古泉がしみじみとな顔で考え事をしている図なんてな。

「で? これに何の意味があるんだ?」

 俺は持っていた牌を木枠にもどした。

「扉の内側にこつぜんと算数問題が発生したのはわかったが、それがどうしたんだ」

「ああ」

 古泉はふっと我に返り、

かぎですよ。扉に鍵がかけられています。内側から開けるすべがありません。ノブをいくらひねってもなしなんですよ」

「何だと?」

ためしてもらえば解りますよ。見ての通り、内側にはかぎあなもノッチもありません」

 やってみた。開かない。

だれがどうやってしめたんだ? オートロックでも内側からなら開くはずだろう」

「そんな常識論が通用しない空間だという一つの証明ですね」

 古泉は意味なしスマイルを戻して、

「誰だか知りません。ですが、その誰かは僕たちをここに閉じこめておきたいのでしょう。窓はすべてはめ殺し、入り口のとびらには固いじよう……」

「じゃあ、このパネルの数式は何だよ。ひまつぶしのクイズか?」

「僕の考えにちがいがなければ、この数式こそが扉を開く鍵なのです」

 古泉はゆったりした口調で言った。

「長門さんが作ってくれた、ゆいいつだつしゆつだと思います」



 俺が最近のおくを呼び覚ましてノスタルジーにられているのもお構いなく、古泉は舌をすべらかに回し始めた。

「情報戦と言うべきでしょうか。何らかの条件とうそうがあったものと思われます。何者かが我々を異空間に閉じこめる。長門さんはそれにたいこうして脱出路を用意する。それがこの数式なのではないでしょうか。解くことができたら我々は元に戻れますが、そうでなければずっとこのままという図式です」

 古泉はコンコンと扉をたたき、

「具体的にどういう戦いがあったのかは解りようのないことです。これが精神生命体同士の情報戦なんだとしたら僕たちに想像しようもないことですから。しかし現実にはこのようなカタチとして現れた。このパネルがその結果なのでしょう」

 なぞめいたやかたに不り合いな計算問題。

ぐうぜんではありません。僕たちがみような夢的なものを見たと思ったら、その直後に長門さんがたおれ、扉にこのパネルが発生する……。これらの連続した出来事は偶発的なものではなく、何らかの関係性があるに違いありません」

 しようそうを覚えているのだとしても古泉はそんな様子はまったく見せずに、

「きっとそれが脱出の鍵なんですよ。たぶん、長門さんによる」

 パネルのどっかに『Copyright © by Yuki Nagato』と書いてあるんじゃないかと探しちまった。なかったが。

「これも推測ですが、長門さんがこの空間で使用できる力はそれほど大きくないのだと思います。統合思念体と接続をたれた今や、彼女には彼女単独での固有能力しかないのです。だからこんなちゆうはんな脱出口しか開けなかったのでしょう」

 推測にしてはやけにもっともらしいじゃねえか。

「ええ、まあね。『機関』は長門さん以外のインターフェイスともせつしよくはかっていますから。ある程度の情報は僕のところにも回ってきていますよ」

 他の宇宙人話をくわしく聞きたくもあるが、今はいい。それよりこの妙なパズルを何とかすることだ。俺はパネルの記号とわくに入った数字の石をこうながめ、長門のひかえ目な声を思い出した。

〝この空間はわたしにをかける〟

 俺たちを吹雪ふぶきの館に導いたのが何者かは知らないが、長門を熱出して倒れるまでにしたやつを俺は許しちゃおかん。そんなゲロろうもくみに乗ってなどやるものか。何が何でもここから出て行って鶴屋さんのべつそうまで戻ってやる。誰一人欠けることなく、SOS団の全員でだ。

 長門はちゃんと自分の仕事を終えたんだ。俺には見えも聞こえもしなかったが、異空間にさまよい込んでからずっと不可視の〝敵〟と戦っていたに違いない。いつもよりぼんやりしているように見えたのはそのためだったんだろう。その結果、倒れしながらも小さな風穴を開けてくれた。後は俺たちが扉を開かせる番だ。

「ここを出るぞ」

 俺の決意表明に対し、古泉はさわやかに笑った。

「もちろん僕もそのつもりです。いくら快適でも、ここはいつまでもいたいと思う場所ではありませんからね。理想郷とディストピアは常にひよう一体です」

「古泉」

 そう呼びかける俺の声は自分でもおどろくくらいにシリアスだった。

「お前のちようのうりよくで穴をこじ開けられないのか。このままじゃマズい。長門がああなっちまった今、なんとかできそうなのはお前だけだ」

「それは過大評価というものですけどね」

 古泉はこんなじようきようでもしようを刻んでいた。

「僕は自分がばんのうな超能力者と言った覚えはありませんよ。力を発揮できるのは限定された条件下のみです。それはあなたもご存じのはず──」

 セリフを最後まで聞くことはなかった。俺は古泉のむなぐらをつかんで引き寄せ、

「そんなことは聞いちゃいない」

 くちびるを皮肉にゆがめる古泉をにらみつけ、

「異空間はお前の専門だろうが。朝比奈さんはたよりになりそうにないし、ハルヒはアレだ。いつぞやのカマドウマみたいに、お前にできることもあるだろうよ。『機関』とやらは木偶でくぼうの集まりか」

 木偶人形なのは俺もだ。なんもできない。落ちついてもいられないから古泉以下とも言える。思いつくのはここで古泉をぶんなぐり、次に俺をぶん殴ってもらうことくらいだ。手加減きで自分で自分を殴れないからな。

「何やってんの?」

 背後からえいな声がさった。げんそうなこわいろが、

「キョン、こおりまくらはどうしたのよ。あんまりおそいんで見に来たら何? 古泉くんと組み手の練習して、どういうつもり?」

 ハルヒがおうちでこしに手を当てていた。かきどろぼうの常習犯を現行犯たいした近所のじいさんのような表情で、

「少しは有希のことも考えなさいよ。遊んでるヒマはないの!」

 俺と古泉が遊んでいるように見えるのだとしたら、ハルヒも多少は心を別の場所に移送しているのかもしれない。俺は古泉の胸元から手を放し、いつ落としたのかもおくにない氷枕をゆかから拾い上げた。

 ハルヒはばやく枕をうばい取り、

「なにこれ」

 視線をとびらに付いている変な式へと向けた。古泉は乱れたえりもとを指で引っ張りながら、

「さあ、それを二人で考えていたのですよ。涼宮さんには見当がつきますか?」

「オイラーじゃない?」

 ひようけすることに、あっさりとした感想を述べた。応じたのは古泉で、

「レオンハルト・オイラーですか? 数学者の」

「ファーストネームまで知らないけど」

 古泉はもう一度ドアのなぞパネルを数秒間ほど見つめ、

「そうか」

 演出のように指をパチンと鳴らした。

「オイラーの多面体定理ですね。おそらく、これはその変形ですよ。涼宮さん、よくわかりましたね」

ちがうかも。でも、このDってとこ、次元数が入るんだと思うから、たぶんよ」

 違おうが正解だろうがいい。とりあえず俺は当然のような疑問をいだく。オイラーとはだれで何をしでかした人だ。多面体定理って何だ? そんなもん数学の授業に出てきたか? ともたずねたいところだが、数学の授業はいつも半分ているので積極的に質問するのははばかれる。

「いえ、高校の数学ではつうは出てきません。ですが、あなたも聞いたことはあるはずですよ。ケーニヒスベルクの橋問題くらいはね」

 それなら知ってる。数学の吉崎が授業中の雑談のいつかんとして出してきたパズルの例題だった。あれだ、二つのなかと川の対岸にかかった何本かの橋を一筆書きでわたりおおせるかどうかってやつだろ? 確かできないんだったよな?

「そうです」と古泉はうなずき、「そのパズルは平面上の問題ですが、オイラーはそれが立体にも当てはまることを証明したんです。彼は歴史に残る定理をいくつも発見していますが、多面体定理はその一つです」

 古泉は解説する。

「あらゆるとつがた多面体において、その多面体の頂点の数に面の数を足して辺の数を引けば、必ず答えが2になるという定理です」

「…………」

 俺があらゆる数学的要素を窓から投げ捨てたいと考えているのが解ったのか、古泉は苦笑しつつ片手を背中に回し、

「では、解りやすく図にしてみましょう」

 黒色フェルトペンを取り出した。どこからだ? かくし持っていたのか? それとも俺が氷枕を出した方法でか。

 古泉はフロアにひざをつくと、涼しい顔であかじゆうたんにペンを走らせた。ハルヒも俺も止めない。落書きくらいどうとでもなりそうなやかただ。

 そうやってえがき出されたのはサイコロのような立方体の図である。

「見てもらえば解りますが、これは正六面体です。頂点の数は8、面の数はそのまま6です。そして辺の数は12。8+6-12=2……と、なるでしょう?」

 これだけでは足りないと思ったか、古泉は新たな図形を描いた。

「今度はかくすいです。数えると、頂点の数が5、面も5、辺は8あるのが解ります。5+5-8で、答えはやはり2となります。このように、たとえ面の数をどんどん増やして百面体くらいにまで行っても出てくる解答が必ず2になるこの式を、オイラーの多面体定理と言うのですよ」

「そうかい。それは解ったよ。ところでハルヒの言った次元数とはなんのこった」

「それもまた単純です。この多面体定理は何も立体だけに作用する方式ではなく、二次元平面図にも当てはまるんですよ。ただしその場合、頂点+面-辺は必然的に1となるんですが、ケーニヒスベルクの橋問題はこちらの考え方です」

 絨毯に別の落書きが生まれた。

「見ての通りのぼうせい、一筆書きの星マークです」

 自分で数えてみた。頂点の数はひいふう……10だ。面は……6だな。辺の数が一番多くなるのか、ええと合計15。てことは10+6-15だから──1だ。

 俺が計算している間に古泉は四つ目の図を描き終えていた。ほく七星を書き間違ったような絵である。

「こういうデタラメな図でもいいわけですよ」

 めんどうになってきていたが、せっかくなので暗算してやろう。えー……。点は7、面は1、そして辺は7か。なるほど、やっぱり1になる。

 古泉は晴れやかながおでフェルトペンにふたをして、

「つまり三次元の立体ならイコール2、二次元の平面なら1になるのです。それを頭に置いて、この式を見てみましょう」

 ペン先はとびらのパネルに向いていた。

「x-y=(D-1)-z。xは頂点で合っているでしょう。となればそこから引き算されるのは辺しかないのでyは辺の数です。ややわかりにくいのは本来左辺にあるべきz、すなわち面の数が右辺に移動してマイナス記号を付帯されているところですね。そしてこの(D-1)というやつですが、立体なら2、平面なら1となるはずですので、Dにあたるのは三次元なら3、二次元なら2となります。このDはディメンション、次元のDですよ」

 俺はだまって聞き続け、頭を働かせることに集中している。うむ。とりあえずは解ったと思う。なるほど、これがオイラーさんの開発したナントカ定理だというのは理解した。

「それで?」

 と俺はいた。

「この数字クイズの答えはどうなる。xとyとzにはどの数字ブロックを入れてやればいいんだ?」

「それは」

 と古泉は答えた。

「解りません。元となる多面体か平面図がないと」

 それじゃ意味ねーだろ。どこにあるんだ、その元となる図形とやらは。

 さあ、と古泉はかたをすくめ、俺をますますいらたせる。

 だが、その時だ。

 難しい顔をして方程式を見ていたハルヒが、とつぜんすべきことを思い出したみたいに、

「こんなのどうでもいいわ──、それよりっ、キョン!」

 やにわにさけぶなよ。

「後で有希を見に来てやってよね」

 それはもちろんだが、どうしてそんなにたけだかに言うんだ。

「だってあのうわごとであんたの名前を呼んでるんだから。一回だけだけど」

 俺の名前を? 長門が? 譫言?

「一体なんて言ったんだ?」

「だから、キョン、って」

 長門が俺をあいしようで呼びかけたことなんか一度もなかった。というか、本名でもニックネームでも具体的に俺を指す名称で呼ばれたというおくそのものがない。あいつが俺を主語にするセリフを言うとき、それはいつも二人称代名詞だった……。

 俺が不定形の感情のもやを胸の奥に感じていると、

「いや……」

 古泉が異を唱える。

「それは本当に〝キョン〟でしたか? 別の言葉の聞きちがいという可能性はないでしょうか」

 なんだこいつ、長門のごとに文句を付けるつもりか。

 しかし古泉は俺を見ずハルヒを見つめて、

「涼宮さん、これはけっこう重要なことですよ。よく思い返してみてください」

 古泉にしては勢い込んだ声の調子で、ハルヒも少し意外そうにしながら目をななめ上に向けて考えるような様子を見せた。

「そうねえ。ハッキリと聞いたわけじゃないからキョンじゃなかったかもしんないわね。声、小さかったしさ。もしかしたらヒョンとかジョンとかだったかも。キャンやキュンではなかったように思うわね」

「なるほど」

 古泉は満足げに、

「最初の第一音が不明で、残りのだけが聞き取れたんですね。はは、そうか。きっと長門さんが言いたかったのはキョンでもジョンでもなく、〝ヨン〟ですよ」

「よん?」と俺。

「ええ、数字の〝4〟です」

「4がどうかし……」

 俺はセリフを止めた。数式を見上げる。

「ねえ」

 ハルヒは苛立ったようにくちびるとがらせて、

「こんな数字クイズにかまけてる場合じゃないわよ。有希のことを心配しなさいよ。もうっ」

 こおりまくらり回しながら目を三角にいからせつつ、

「後でちゃんといに来るのよ! いいわねっ!」

 たけびを残し、足音高くさっさと階段を上っていった。それを見送って、完全に視界から消えたのをかくにんしてから古泉は言った。確信に満ちた声と表情で。

「やっと条件が出そろったんですよ。これで解りました。x、y、zに当てはまる数字がね」



「先ほど僕たちが体験した現象を思い出してください。涼宮さんが夢だったのかと疑って、僕にはあやふやな実感があるにせものの件です」

 古泉はまたペンを片手にこしかがめた。

だれのところに誰のげんえいが現れたのか、それを図にしてしまいましょう」

 まず古泉はあかじゆうたんに点を一つ打ち、その横に『キ』と書き入れた。

「これがあなたです。あなたの部屋に来たのは朝比奈さんでしたね」

 点から上に直線を延ばし、そこにも点を穿うがって『朝』と記す。

「朝比奈さんの部屋には涼宮さんが登場した」

『朝』を表す点から、今度は斜め左下に線を書き、点と『涼』の字を書く。

「涼宮さんのところにはあなたでした」

 点『涼』から延びた線は点『キ』に合流し、直角三角形が完成した。

「そして僕の所にはあなたです。本当に、あなたらしからぬあなたと言えましたよ。気がくるったとしてもあなたはあんなことをしないでしょうね」

 点『キ』から下に線を引き、点『古』と書き入れた。

「長門さんもあなただと言いましたね」

 この時点で俺も気づいた。俺を表す点から右に延ばされた線の先に点『長』が付けられて、古泉はペンにキャップをかぶせてしゆうりようの合図をする。

「すべては関連していたのです。夢とも現実ともつかない偽者は、ですから長門さんが僕たちに見せた幻影です」

 俺は古泉がいた最新の図形を見た。じっくりと。

 一筆書きの〝4〟だった。

「これをとびらの数式に従って計算すればいいわけです。僕たちが見た偽の僕たちとの相関図ですよ。平面なのでDは自動的に〝2〟になりますね」

 俺が頭で計算するより早く、

「それを当てはめてみると、頂点は僕たち人数分なので〝5〟、面の数はあなたと涼宮さんと朝比奈さんで構成された三角形だけですから〝1〟、辺の数は全部で〝5〟」

 まえがみを指でつまき、古泉は笑う。

「x=5、y=5、z=1。それが解答です。ちょうど両辺ともに0になりますね」



 感心したり賞賛してやる時間がしい。

 俺は数字ブロックを手に取った。三つ。答えが判明したなら、さつそくそいつに従ってやるのみだ。

 だが古泉はまだ疑問を持っているようで、

「僕がおそれているのは、これが消去プログラムではないかということです」

 一応いてやる。それは何だ。

「僕たちがコピーされ、シミュレーションによって存在させられているのだとしたら、わざわざこの異空間から出て行く必要はありません。オリジナルが現実にいるのであればそれでじゆうぶんですからね」

 古泉はひょいと両手を上向けて、

「この数式に正答することで発動するけ、その正体は僕たちを消去することなのかもしれません。僕たちはいわば自殺することになるわけです。さて、ここで変化のない満ち足りた人生を永遠に歩むのと、いっそのことデリートされてしまうのと、あなたはどちらがいいと思いますか?」

 どっちもいやだね。永遠に生きたいなどとは思わないが、今すぐ消えちまうのも断固としてきよする。俺は俺だ。ほかの誰とも入れわったりはしない。

「俺は長門を信じる」

 我ながら落ち着いた声だった。

「お前のこともだ。俺はお前の出した解答が正解だと思っている。だが、それはこの方程式の答えまでだぜ」

「なるほど」

 古泉は以心伝心のわざとくしているのかやわらかに微笑ほほえんだ。そして半歩ほど後ろに下がって、

「あなたにお任せしますよ。何が起ころうと僕はあなたと涼宮さんについていくことしかできません。それが僕の仕事であり任務でもあるのでね」

 その割には楽しそうでよかったな。楽しい仕事なんてめつにあるもんじゃないぞ。

 古泉はがおいくぶんなものに変化させ、

「僕たちが通常空間に復帰できたという仮定を前提とした話ですが、一つお約束したいことがあります」

 へいおんな声で言った。

「今後、長門さんがきゆうに追い込まれるようなことがあったとして、そしてそれが『機関』にとって好都合なことなのだとしても、僕は一度だけ『機関』を裏切ってあなたに味方します」

 俺に、じゃなくて長門に味方しろよ。

「そのような状況下では、あなたはまず確実に長門さんにかたれするでしょうから、僕があなたの味方するのはそのまま長門さんを助けるという意味になりますよ。やや遠回りになるかもしれませんがね」

 唇のかたはしゆがめて、

「僕個人的にも長門さんは重要な仲間です。その時、一度限りは長門さん側に回りたいと思います。僕は『機関』の一員ですが、それ以上にSOS団の副団長でもあるのですから」

 古泉は完全に見守る目で俺をながめていた。自分のターンを終え、意思表示の権利をほうして満足しているような顔だった。ならば俺はえんりよなくおのれの考えるところを躊躇ためらわずにさせてもらおう。

 十二月半ば──。俺は元いた世界から一人で取り残され、いろいろ走り回ったあげくだつしゆつできた。だから今度だってそうするのさ。あの時とちがうのは、今回は俺一人じゃなくSOS団の全員でここを出て行くってことだ。りゆうぐうじように用はない。消えるのは俺たちじゃない。この空間だ。

 俺はちゆうちよなくブロックを所定の場所にはめ込んだ。

 カチン。小気味いい音がした。金具の外れる音だと思う。

 息をめてノブをにぎった。力を入れる。

 ゆるやかに扉が動き出した。


「────」


 これまで俺は言葉にならない声を思わず上げてしまうような体験をしてきた。あきれ果てたりきようがくしたりきようしたりとさまざまで、何度も「こりゃないだろう」と思ったりしてて、こんだけ時間と空間が牛の胃腸ぐらいにゆがんでいるようなシーンに出くわせば、いくらなんでもそろそろ殺虫ざいの効きにくいゴキブリ並みのたいせいがついていてもおかしくないとも考えていた。

 てつかいしなければならないようだ。

 重い扉を開き終えた俺は、

「────」

 どうやっても声を発することが不能な状態にかんらくしていた。

 自分の目が信じられない。どうして俺の視神経はこんな光景を脳みそに伝えてくるんだ。どこでおかしくなった? もうまくすいしようたいか。どこがイカレた。

 明るい日差しが俺の目をくらませる。明るい陽光が上空から降り注いでいた。

「──こりゃあ……」

 クシャミが出そうなくらいの晴天が広がっている。吹雪ふぶきどころかせつぺんのひとひらもっていない。どこまで行ってもただ青く、雲ひとつぶいていない空だった。あるのは……。

 リフトのケーブルが視界を横切っている。ガタゴト動く登りのリフトにスキーウェア姿のカップルが乗っていた。

 よろめいた足元が、どうしたことだ、やけに重い。

 雪だった。俺は雪をみしめている。キラキラとかがやく白い大地がばゆくて、俺の目はますます眩んだ。

 ふと気配を感じて顔を上げると、もうスピードでかつそうするひとかげがすぐわきを通り過ぎた。

「うわっ!?」

 思わず小さくジャンプして視線を追わせる。俺を障害物のようにけて行ったのは、カービンスキーをいたスキーヤーだった。

「ここは……」

 スキー場だ。疑いようがない。よく見なくてもそこら中にスキー客がいて、思い思いのすべりを楽しんでいる様子が、ごくごく自然に目に入る。

 横を向いた。どうもかたが重いと思ったらスキーとストックをかついでいやがる。次いで足先に目を転ずると、俺の足はスキーブーツを履いていた。そして俺が着ているのは鶴屋家べつそうを出るときに支給されたスキーウェア以外の何でもなかった。

 背後を大急ぎで見る。

「あ……?」

 朝比奈さんが子供のこいノボリみたいに口を開け、目を白黒させていた。

「なんと」

 古泉も愕然と天を見上げている。二人とも見覚えのあるウェアで、当然のようにTシャツ姿なんかではない。

 やかたなど影も形もなかった。それはもう、絶対的にあるはずがない。ここはただの穴場なスキー場なんだ。地図にないあやしい館の出る幕なんか水蒸気の一りゆうもない。

 ……ってことは。

「有希っ!?」

 ハルヒの声が身体からだの前から聞こえ、俺はいそがしく顔と眼球を動かした。

 雪の上にたおれた長門を、ハルヒが取りすがるようにしてき起こしているところだった。

「だいじょうぶ? 有希、そういえばあなた熱が……あれっ?」

 ハルヒは巣穴から外をうかがうナキウサギのように周囲を見回し、

「変ね……。さっきまで館の部屋にいて」

 そこで俺に気づいて、

「キョン、何だか変な気分がするんだけど……」

 答えず、俺はスキーとストックをほうり出して長門の横にひざをついた。ハルヒも長門も吹雪前、スイスイとゲレンデをしつそうしていた時のしようのままだった。

「長門」

 そう呼ぶと、ショートヘアが小さく動き、ゆるゆると頭を上げた。

「…………」

 果てしのない無表情、いつも変わらない大きさのひとみが俺を見上げる。顔を雪まみれにした長門は、そうやってしばらくじっと視線と顔を固定していたが、

「有希っ!」

 俺をき飛ばしたのはハルヒだった。そうして長門をかかえるようにして、

「何が何だかわからないわ。でも……、有希、目が覚めたの? 熱は?」

「ない」

 長門はたんたんと答え、自分の足で立ち上がった。

「転んだだけ」

「ほんとに? だってすっごい熱だった……ような気がするんだけど、あれ?」

 ハルヒは長門の額に手を当てて、

「ほんと、熱くないわね。でも、」

 周囲をぐるりとわたして、

「えっ? 吹雪……。館……。まさか? 夢……じゃないわよね。あれれ? 夢……だったの?」

 俺にくなよ。まともな返答をしてやるサービスは受け付けてないんだ。お前限定でな。

 俺が知らんぷりをよそおっていると、「おーいっ」というせいのいい声がそう遠くないところから聞こえた。

「どしたのーっ?」

 ゲレンデのしやめんがなだらかになるスキー場のふもとで、二組の人影が手をっていた。

「みくるーっ、ハルにゃーんっ!」

 鶴屋さんだった。彼女の近くには大中小の三つの雪ダルマがちよりつして、ちょうど中規模雪ダルマと同じくらいのたけの人影も付録のようについていた。こっちを見て飛びねているのは俺の妹だ。

 俺は改めて現在位置をあくした。

 リフト乗り場からもそうはなれていない、初級コースのそれもかなり下ったあたりに俺たち五人は群れている。

「まあ、いいわ」

 とりあえずハルヒは深く考えることをめたようで、

「有希、おぶってあげるからあたしの背中に乗りなさい」

「いい」と長門。

「よくない」とハルヒは断じて、「よく解らないけど、自分でも何でか解らないけど、あなたは無理しちゃダメなの。熱はないみたいだけど、なんかそんな気がすんのよ。安静にしてなきゃダメ!」

 ハルヒはを言わせず長門を背負い、手を振り続ける鶴屋さんと妹のほうへ走り出した。新品の除雪車でもこうはいかんだろうと思えるくらいの、もし冬季五輪に人を背負っての雪上百メートル走があれば、ぶっちぎりの金メダルだろうと思える速度で。



 その後。

 鶴屋さんのれんらくによって、荒川さんが車を回してくれた。

 長門は自分を病人あつかいするハルヒにていこうするように、長門なりの健康体ピーアールをポツポツとうつたえていたが、俺の目配せの効果が少しはあったのか、やがてもくもくとハルヒの言うなりと化す。

 車には長門、ハルヒ、朝比奈さんと妹が乗り込んで先にべつそうへと向かい、俺と古泉と鶴屋さんは散歩する足取りで歩いてもどることになった。

 その最中に鶴屋さんが語ったところによると、

「なんかさぁ、みんな板かついでザクザク歩いてスキー場降りてきたけど、何やってたのっ?」

 ええと、吹雪ふぶきは?

「んーっ? そういや十分くらいもうれつに雪降った時があったかな? でも、そんな言うほどのもんじゃなかったよっ。ただのニワカ雪さっ」

 どうやら俺たちが雪の中を歩き回り、やかたで過ごした半日以上ものときは、鶴屋さんにとって数分もかかっていないようだった。

 鶴屋さんはハキハキとした歩調と口調で、

「五人ともそろーりそろーり降りてきて、なぜに? って思ってて、したらば、いっちゃん前の長門ちゃんがパッタリたおれたね。すぐ起きたけどさー」

 古泉はしようするだけで何も言わない。俺も言わない。外から俺たちを観測していた第三者、この場合は鶴屋さんだが、彼女にとって俺たちはそのように見えたのだろう。そして、そっちが正しいのだ。俺たちは夢かまぼろしの世界にいた。現実はこっち、オリジナルな世界はここだ。

 しばらくだまって歩を刻んでいると、鶴屋さんはさわやかにケラリと笑い、俺の耳元に口を寄せてきた。

「ねえキョンくんっ、話は変わるけどさっ」

 なんすか、せんぱい

「みくると長門ちゃんがつうとはちょっとちがうなぁってことくらい、あたしにも見てりゃわかるよ。もちろんハルにゃんも普通の人じゃないよねっ」

 俺はマジマジと鶴屋さんを観察し、その明るい顔にじゆんすいな明るさのみを見いだしてから、

「気づいてたんですか?」

「とっくとっく。何やってる人なのかまでは知んないけどね! でも裏で変なことしてんでしょっ? あ、みくるにはないしよね。あの、自分ではいつぱんじんのつもりだからっ!」

 よほど俺のリアクション顔がおもしろかったのだろう、鶴屋さんは腹を押さえるようにしてケラケラと笑い声を上げた。

「うんっ。でもキョンくんは普通だね。あたしと同じにおいがするっさ」

 そして俺の顔をのぞき込んで、

「まーねっ。みくるが何者かだなんていたりしないよっ。きっと答えづらいことだろうしねっ。何だっていいよ、友達だし!」

 ……ハルヒ、もう準団員でもめいもんでもない。鶴屋さんも正式にスカウトしろ。もしかしたらこの人は俺より物わかりのいい的確な一般人を演じてくれるかもしれないぞ。

 鶴屋さんはサバサバとした動作で俺のかたをはたき、

「みくるをよろしくっぽ。あの娘があたしに言えないことで困ってるようだったら助けてやってよっ」

 それは……、……もちろんですが。

「でもさぁ」

 鶴屋さんは目をキラキラさせて、

「あん時の映画、文化祭のヤツだけどっ。ひょっとして、あれ、本当の話?」

 聞こえていたのかどうか、古泉が肩をすくめる仕草をしたのが目のはしに映った。



 別荘に帰り着くと、長門はハルヒの手によって自室で無理矢理かされていた。

 あのやかたにいたときのようなぼんやり感は今やはくせきの表情のどこにもなく、部室で読書しているひんやりした印象が顔面にもふんにも表れている。ふとしたひように微細な感情がれ動くことだってある、俺のみの長門そのままだった。

 まるでしんだいいたかいの精のように、朝比奈さんとハルヒが長門のまくらもとにいて、妹とシャミセンもそこで待機していた。おくれて長門の部屋に入った俺と古泉、鶴屋さんが来るのを待っていたのか、全員そろったところでハルヒが次のように述べた。

「ねえ、キョン。あたしさ、何だかみようにリアルな夢を見ていたような気がするのよね。館に行って、お入ったりホットサンド作って食べたり」

 げんかくを見たんだろ、と言いかけた俺に、ハルヒは続けて、

「有希は知らないって言うんだけど、みくるちゃんもあたしと同じようなことを覚えてたわ」

 俺は朝比奈さんに目を泳がせた。愛らしいお茶くみメイドさんは、「ごめんなさい」と言いたげにうつむいた。

 こいつは困ったな。そんなもん幻覚かデイドリームでオチをつけようと思っていたのに、二人揃って同じ白昼夢を見るくつにすぐさま思いがおよばない。

 どうやってかたろうかと考えていると、

「集団さいみんです」

 古泉がやれやれという顔を俺に見せながら口をはさんだ。

「実は僕にもそれらしいおくがあるんですよ」

「催眠術にかかってたっていうの? あたしも?」と、ハルヒ。

じん的な術とはちょっと違いますが。そうですね、涼宮さんの性格から言って、もし今から催眠術をかけますよとあらかじめ告げたりしたら、かえってかい的になって催眠術が通用することはないでしょう」

「そうかも」

 ハルヒは思案する顔。

「ですが、我々は白い吹雪ふぶきしか見えない風景の中を一定のリズムで延々と歩き続けていました。ハイウェイヒュプノーシスという現象をご存じでしょうか。まっすぐな高速道路を車で走り続けていると、とうかんかくに立っている外灯の風景がドライバーに催眠状態をゆうはつさせ、ねむらせてしまうと言う現象のことです。それと同様の状態に我々も置かれてしまった可能性は高いと思われます。電車に座って乗っているとよく眠気をもよおしますが、あれも電車の揺れが一定のリズムを刻んでいるからなのです。赤んぼうを眠らせるときに背中をゆっくりとトントンとたたくのも同じ理屈なんです」

「そうなの?」

 ハルヒが初めて知ったという顔をするのに対し、古泉は深くうなずきながら、

「そうなんですよ」

 説得するような口調で、

「吹雪の中を行進している最中にだれかがつぶやいたのでしょう。どこかになんできるような館があって、そこがとても快適な空間ならいいのに……というようなことをね。何と言ってもそうなん中の我々は極限状態におかれていましたし、そんな精神状態ではどんなまぼろしを見ても不思議はありませんよ。ばくをさまよう者がオアシスのげんえいを見るという故事はご存じでしょう?」

 古泉め、ごういんにまとめにかかっている。

「うん……、まあね。あれがそうだったわけ?」

 ハルヒは頭をかたむけて俺を見た。

 らしいぜ。俺もうんうんうなずきながらなつとくがおを作ってやった。古泉はここぞとばかりに、

「長門さんが転んだ音で僕たちは正気にもどったんです。間違いありません」

「言われてみればそんな気もするけど……」

 ハルヒはさらに首をかしげ、すぐにもどした。

「まあ、そうよね。あんな都合のいいところに変な館が建ってるわけないし、だんだん記憶もぼんやりしてきたわ。夢の中で夢を見ていたような気分」

 そう、あれは夢だ。現実には存在しない館だった。俺たちには必要のない、ただの精神ろうから来る幻覚だったのさ。

 気がかりなのは他の二名、SOS団じゃない部外者だ。俺は鶴屋さんを見る。

「うへっ」

 鶴屋さんは片目を閉じて俺に笑いかけた。その表情が語りかけるものを解読すると、「まっ、そういうことにしとけばっ」というあんもくりようかいが復号される。俺のかんりすぎかもしれないな。それ以上鶴屋さんは何も言うことなく、いつもの調子の鶴屋スマイルでいつさいの余計なコメントを発することはなかった。

 そしてもう一人、俺の妹はというと朝比奈さんのひざにすがりつくようにして、すっかり夢見時空をさまよっている。ねこと同じで起きてしやべっているときはうっとうしいががおだけはやたらに可愛かわいく、朝比奈さんもまんざらではなさそうに妹の表情をながめている。この様子では朝比奈さんも妹も古泉の解説後半部分をほとんど聞いてはいまい。

 ゆかづくろいしているシャミセンが、俺を見上げて「にゃ」と鳴いた。まるで安心しろとでも言うかのように。



 そんなことをやってるうちに、やっと冬合宿一日目の夜がとうらいした。

 長門はベッドをはなれたくて仕方がないようだったが、そのたびにハルヒはおおさわぎして半ば押したおすようにとんをかぶせていた。

 俺は思う。無理して寝かしつける必要はない。たとえそれで楽しい夢を見たとしても、しょせんは夢だ。大切なのは今ここに俺たちがこうしているということなのさ。いくら夢みたいなたいで夢みたいなだいかつやくをしてたとしても、目覚めとともに強制しゆうりようされるまぼろしなんかに意味はない。わかってはいるんだ──。

 いろんなことが後回しになっている。結局あの館は何だったんだとか、ハルヒは古泉の作り話を本心から受け入れたのかとかな。今は長門で遊ぶことにかまけて、どうでもよくなっているみたいだが。

 ハルヒのけたたましい声からのがれるように、俺は意味なく外に出てみた。都会では見ることのない星空とその光を反射する一面の白銀がやみくもまぶしく、けど何故なぜかそんなに寒く感じない。

「だが」

 明日は一年の最終日だ。古泉作の推理劇興業が待っているおお晦日みそか、ハルヒもラストスパートにはくしやをかけてくるだろう。

 どうせだ。それまでゆっくり休んでいればいい。長門はこんな機会がめつになさそうなヤツだった。いつ寝てるのか、そもそも寝る必要があるのかどうかも解らないが、この際である。思う存分すいみんよくを満たすべきだ。シャミセンを布団にほうり込んでやるのもみようあんだろう。湯たんぽ代わりにはなる。

 わたす限りの雪原に向かって、俺は独り言を言った。

「今夜だけはきそうにないな」

 長門が夢を見ることが可能なのだとしたら、せめてよいだけでもいい夢がい降りろ。

 そう願わないほうがいい理由など、俺にはまったくもって全然ない。

 ついでに星々にいのっておく。今日は七夕ではなくまだ大晦日にもなってないが、別にベガとアルタイルに限った話でもないだろう。宇宙にはこんだけこうせいがあるんだ。そのうちの一つに届けば何とでもしてくれるさ。

「新年を良い年にしてくれよ」

 たのんだぜ、そこにいるだれか。

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