雪山症候群 3

 …

 ……

 ………

 以上で回想を終わる。これで俺たちが雪山をのたのた歩いている理由が解っていただけただろうか。

 なんせ視界が効かないもんだから、数メートル先にだんがいぜつぺきがあっても気づかず落ちる危険性がある。そんながけなどは確かなかったはずだが、地図を無視していきなり出現しても大して不思議ではなく、ジャンプ台もないのにラージヒルにいどみたくもない。さすがに崖は大げさとしても雪で白くめいさいされた樹木に正面しようとつしてはヘタすりゃ鼻の骨くらいは折れるだろう。

「俺たちは今どこを歩いてるんだ?」

 こういうときにたよりになるのは長門だった。俺としては不本意なのだが命には代えられない。そうやって長門の正確無比なナビゲーションに従って山を下りているというのに、すでにそのまま何時間も経過しているのは最初に述べたとおりだ。

「変ねえ」

 ハルヒのつぶやきにもしんかおりがこもり始めている。

「どうなってんの? いくらなんでもここまで人の姿を見かけないなんておかしいわ。いったいどんだけ歩いたと思ってんのよ」

 その視線が先頭の長門に向いている。長門が降りる方向をちがえたのではないかと疑っている顔だった。そうとしか思えないじようきようではある。ここは秘境でも何でもないスキー場なのだ。だいたいの見当を付けてしやめんを道なりに降りていれば、おのずとふもととうちやくしないとおかしい。

「しょうがないからカマクラ作ってビバークでもする? 雪が小やみになるまで」

「待て」

 俺はハルヒを呼び止め、雪をき分けるようにして長門の横に並んだ。

「どうなってる?」

 ショートヘアをとうでごわごわにした無表情むすめは俺をゆっくりと見上げて、

かいせき不能な現象」

 小さな声でそう言った。黒目勝ちの目はしんなまでにまっすぐ俺に向けられている。

「わたしのにんしきしうる空間座標が正しいとすれば、我々の現在位置はスタート地点をすでに通り過ぎた場所」

 何だそりゃ。それじゃあ、とうに人里に入ってなければいかんだろう。こんだけ歩いてんのにリフトのケーブルやロッジの一つも見なかったぞ。

「わたしの空間あく能力をえた事態が発生している」

 長門の冷静な声を聞きながら、俺は大きく息を吸った。舌先に当たった雪のけつしようが蒸発するようにけていき、発する言葉も同様にさんした。

 長門の能力を超えるような事態?

 みような予感はこれだったのか。

「こんどは誰のわざだ」

「…………」

 長門は思考するようにちんもくし、たたきつける雪のらんまばたきせずに見つめた。

 俺たち全員、うでけいけいたい電話も持たずにゲレンデに乗り出していたから、現在時刻もよくわからなくなっていた。鶴屋家のべつそうを出たのは午後三時ごろだったかな。それから何時間もっているにちがいないのに、くもりまくった空はまだぼんやりと明るい。しかし厚い雲と吹雪のおかげで太陽の位置が全然解らん。ヒカリゴケにおおわれたどうくつの中にいるような不可解な明るさで、思わず俺は親知らずのさらにおくが金気くさい痛みをうつたえ始めるのを感じた。

 行けども行けども雪のかべが立ちはだかり、てんがいは灰色一色。

 どこかで体験したような光景とちょっと似ている感じがしないでもない。

 まさか──。

「あっ!」

 すぐそばでハルヒがさけび声を上げ、俺は心臓がろつこつき破って飛び出すかと思うくらいにおどろいた。

「おい、ビビらすなよ。デカい声を上げやがって」

「キョン、あれ見て」

 ハルヒが風にも負けず一直線に指差す先──。

 そこに小さな明かりがともっていた。

「何だ?」

 目をこらす。雪交じりの風のせいでまるでまたたいているように見えるが、光源自体は移動していない。こうを終えたほたるみたいに弱った光だ。

「窓かられる光だわ」

 ハルヒは声に喜色をかべながら、

「あそこに建物があるのよ。ちょっと寄らせてもらいましょう。このままじゃ凍死しそう」

 その予言はこのままいけば事実になるだろうな。だが建物だと? こんなところに?

「こっちよ! みくるちゃん、古泉くん。しっかりついてきなさい」

 人間除雪車となったハルヒがザクザクと道を造って先頭を進み始める。寒さと不安とろう感から来るものだろう、ガタガタふるえる朝比奈さんをかばうように支えながら、古泉はハルヒの後を追った。すれ違いざまにささやいたセリフが俺の心をより寒くさせる。

「明らかに人工の光ですね。ですが少し前まであんな所に光なんかありませんでしたよ。これでも周囲に目配りしていましたから確かです」

「…………」

 長門と俺はだまったまま、スキー板で雪をらして道を作ってくれているハルヒの背中をながめた。

「早く早く! キョン、有希! はぐれちゃダメよ!」

 ほかにどうしようもない。氷づけとなって百年後くらいのニュース記事になるよりは、少しでも生存の可能性にけたほうがいい。それがだれかの仕組んだわなへの入り口なんだとしても、他に道がないのならそこを歩いていくのがゆいいつの方向だ。

 俺は長門の背を押して、ハルヒが作り出した雪道を歩き始めた。



 近づくにつれて光の正体が明らかになってくる。ハルヒの人並み外れた視力を賞賛してやってもいいな。それはまがうかたなく窓から漏れ出している室内灯の光だった。

「洋館だわ。すごい大きい……」

 ハルヒはいつたん立ち止まり、顔を垂直に向けて印象感想をおこなってから再び歩き出した。

 俺もまたきよだいな建物を見上げ、ますますあんたんたる感情をいだく。白い雪と灰色の空の中で、そのやかたかげのようにそびえ立っていた。どこかまがまがしく思ったのは見慣れない外見のせいだけではなさそうだ。館というより城に近いようほこり、屋根の上にはよう不明なせんとうがいくつも突き出していて、光の加減か外装がやけに黒っぽい。そんな建物が雪山のただなかに建っているのだ。これがあやしくないと言うのなら、全国の辞書の怪しいという単語のこうもくをすべて書きえる必要がある。

 吹雪ふぶきの雪山。そうなん中の俺たち。方向を見失って歩いている最中に発見した小さなともし。そして辿たどり着いたのはみような西洋風の館──。

 これだけの条件がそろってるんだ。次に出てくるのは今度こそ怪しい館の主人か、それとも異形のかいぶつか? で、以降のストーリーはミステリかホラーのどちらにぶんするんだ?

「すいませーんっ!」

 早くもハルヒはげんかんとびらに声を張り上げている。インターホンもノッカーもない。無骨な扉がハルヒのこぶしによって叩かれた。

「誰かいませんか!?」

 おうり返すハルヒの後ろに続き、俺はもう一度館を見上げた。

 それにしても、あまりにも用意された感じがまとわりつくじようきよう設定とたい装置だ。これが古泉のけでないのはわかる。これで館の扉を開いたら荒川さんと森さんが最敬礼してたら最高なんだが……。長門が自分で自分の能力をえていると証言したことからも、そうなってくれそうにないのは明らかだった。古泉たちが長門を出しけるとは思えないし、仮に長門をき込んでドッキリの一部にたんさせているのだとしても、長門は俺にだけはうそを言わない。

 ハルヒはもう吹雪ふぶきにも負けないくらいの大声を張り上げていた。

「道に迷っちゃって! 少しでいいから休ませてもらえますか! 雪の中で立ち往生して困ってるんですっ!」

 俺はり返って全員がいることをかくにんした。長門はいつものビスクドール的表情でハルヒの背中を見つめている。朝比奈さんはビクついた顔で自分の身体からだを抱きしめ、くしゅんと可愛かわいくクシャミしてすっかり赤くなっている鼻先をこする。古泉の顔面からもニヤケスマイルは消えていた。うでみにかしげた首、やや苦い物をんでいるような表情という思案顔をした古泉は、扉が開いたほうがいいかざされたままのほうがいいか迷っているようなハムレット的ふんをまとっていた。

 ハルヒの立てるそうおんはこれが俺の家あたりならとうに近所めいわくレベルに達している。にもかかわらず、扉の内側からは何の返答もない。

「留守なのかしら」

 ぶくろいで拳に息をきかけながらハルヒはうらめしそうに、

「明かりがついてるから誰かいると思ったんだけど……。どうする、キョン」

 どうすると言われてもそくに回答しかねる問題だな。トラップのにおいがする場所に勢いよく飛び込むのは直情径行な熱血ヒーローの役回りだ。

「雪と風さえ防げる場所があればいいんだが……。近くにとか物置小屋がないか?」

 しかしハルヒははなれを探すような回りくどいことをしなかった。手袋をはめ直した手が、雪と氷のこびりついたドアノブをにぎるのを俺は見た。いのるような横顔が、ふっと息を吐く。しんけんおもちのまま、ハルヒはゆっくりノブをひねった。

 止めるべきだったのかもしれない。最低、長門のアドバイスを聞いてから判断すべきだったような気もする。だが何もかも時おそく──。

 まるで館そのものが口を広げたように。


 扉が開いた。


 人工の灯火が俺たちの顔を明るく照らす。

かぎかかってなかったのね。だれかいるんだったら、出てきてくれてもよさそうなのに」

 ハルヒはスキーとストックを建物のかべにもたせかけると、せんじんを切って中に飛び込んでいき、

「どなたかーっ! いませんかっ。おじやしますけどーっ!」

 しかたない。俺たちも団長の行動をほうすることにした。最後に入ってきた古泉が扉を閉め、何時間かぶりに冷気と寒気とみみざわりな風切り音とに一次的別れを告げることができた。やはりホッとしたのだろう、

「ふぇー」

 朝比奈さんがペタリと座り込んだ。

「ねえ、誰もいないのーっ!」

 ハルヒの大声を聞きながら、明るさと暖かさが骨にわたっていくのが解った。ちょうど真冬の外からもどってきた直後に熱いにつかったような感じだ。頭とスキーウェアに積もっていた雪がたちまちけてゆかすいてきを作っている。だんぼうが効いていた。

 しかし、人の気配はない。そろそろ誰かが出てきて迷惑そうな態度をかくさずハルヒを追いはらってもよさそうな展開だったが、呼びかけに応じてやってくる登場人物はかいだった。

ゆうれいしきじゃないだろうな」

 俺はつぶやいてそのやかたの内部を見回した。扉を開けてすぐが大広間になっている。高級ホテルのロビーと言ったら話が早いか。き抜けになっているてんじようはやけに高いところにあって、これまたやけにきよだいなシャンデリアがこうこうたる明かりをともしていた。床にかれているのはしんじゆうたんだ。外装はかいな城のようでも中身はかなり現代的で、真ん中にははばのある階段が二階の通路へ続いている。これでクロークさえあれば本当にホテルに来たのだとさつかくするほどだ。

「ちょっと探してくるわ」

 待てども現れない館の住人にごうやしたのはハルヒだった。びしょぬれのスキーウェアからだつするようにい出すとり飛ばすようにスキーブーツも脱ぎ捨てて、

「非常事態だからしょうがないと思うけど、勝手に上がり込んじゃって後から文句言われるのもイヤだしさ。誰かいないか見てくるから、みんなはここで待ってて」

 さすが団長と言うべきか、いかにも代表者チックなことを言うと、ハルヒはくつしたのまますぐさま走り出そうとした。

「待て」

 止めたのは俺だ。

「俺も行く。お前一人じゃどんな失礼をやらかすか不安だからな」

 大急ぎでウェアとブーツを取り外す。たんに身体が軽くなった。吹雪の山中を歩きづめることでちくせきしたろう感を、まるごと衣服にたくして脱ぎ捨て去った気分だ。俺はかさばるしようわたしながら、

「古泉、朝比奈さんと長門をたのむ」

 雪山だつしゆつの役にまったく立たなかったちようのうりよくろうは、くちびるをひん曲げるようなみをかべてしやくで答えた。俺を見上げる朝比奈さんの心配そうなひとみと、もくもくと立ちつくす長門をいちべつしてから、

「行こう。こんだけ広いんだ。奥の方まで声が届いていないだけかもしれん」

「あんたが仕切んないでよ。こう言うときはね、リーダーシップを取るのは一人にしたほうがいいの! あたしの言うとおりにしなさいよ」

 負けずぎらいみたいなことを言いつつハルヒはさっと俺の手首をつかんで、待機に回った団員三人に、

「すぐに戻ってくるわ。古泉くん、二人をお願いね」

りようかいしました」

 古泉はだんの笑みに戻ってハルヒに答え、俺にもうなずきかけやがった。

 たぶん、こいつは俺と同じことを考えている。

 この館のすみずみまでそうさくしても人の姿を発見することはできない。

 なぜだか俺にはそんな予感があった。



 まずハルヒは階上のたんさくこうを選んだ。広間の大階段を上ると、左右に分かれる通路が長々と延びており、通路の左右両側にちょっと数える気にならないほどの木製とびらがついている。ためしに一つ開けてみる。すんなり開いた扉の中はこざっぱりした洋式のしんしつだった。

 ろうの両端がさらに階段になっていて、俺とハルヒはもう一階上を目指した。行く先はハルヒ任せだ。

「あっち。次、こっち」

 ハルヒは片手で指さしかくにんしながら、もう一方の手で俺の手首を引いていた。新たな階にとうちやくするたび「誰かいますか!」と至近でさけだいおんじように耳をふさぎたくも思うが、それすらままならないね。俺はハルヒの指が示すまま、ただ付き従うだけである。

 数が多すぎるのでランダムに扉を開け放ち、そのすべてが同じような寝室でしかないことを確認しながら俺たちは四階までやって来ていた。館の通路は常夜灯なのか、どの階も明かりに満ちている。

 さて次はどの扉を開けようかと目で選んでいたら、

「こうしていると夏を思い出すわね。船を確認しに外に出たときのこと」

 ……ああ、そういうこともあったな。今と同じように俺はハルヒに引きずられてしやりの中を歩かされたっけ。

 俺がセピア色のおくフィルムを巻き戻していると、とつぜんハルヒが立ち止まり、手首をらわれている俺も止まる。

「あたしさ」

 ハルヒはトーンを落とした声で話し始めた。

「いつのころからか忘れたけど、いつのまにかだけど……。できるだけ人とはちがう道を歩くことにしてきたの。あ、この道ってつうの道路のことじゃなくて、方向性とか指向性とかの道ね。生きる道みたいな」

「ふうん」と俺は相づちを打つ。だからどうした。

「だから、みんなが選びそうな道はあらかじめけて、いつも別のほうに行こうとしてたわけ。だってさ、みんなと同じほうに行ったってたいがいおもしろくないことばかりだったのよ。どうしてこんな面白くないことを選びたがるのかあたしにはわからなかった。それで気づいたの。なら、最初から大勢とは違うほうを選べば、ひょっとしたら面白いことが待ってるんじゃないかって」

 根っからのヒネクレ者はメジャーだからという理由なだけで、そのメジャーなものに背を向けたりする。損得度外視で自らマイノリティの道を選ぶのだ。俺にも多少そんながあるからハルヒの言ってることだって解らん話ではないさ。ただ、お前はきよくたんに走りすぎるあまりメジャーだのマイナーだのとは全然別次元に行っちまってる気がするぜ。

 ハルヒはフフっとみような笑い方をして、

「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」

 何なんだよ。俺の答えを聞くまでもないんなら最初からたずねるな。このじようきようをどう思ってやがるんだ。ゆうちように笑い話のできる場合ではないだろうが。

「それより気になることがあるんだけど」

「今度は何だ」

 うんざり感をめて返答した俺に、

「有希と何かあったの?」

 …………。

 ハルヒは俺を見ず、まっすぐ前の廊下の先を見つめているようだった。

 俺の返事はいつぱく以上おくれていた。

「……なんのこった。別に何もねーよ」

「うそ。クリスマスイブからずっと、あんた、有希を気にしてばかりいるじゃん。気がついたら有希のほうばっか見てるし」

 ハルヒはまだ廊下の先を見通そうとしている。

「頭打ったせいじゃないわよね。それとも何よ。有希に変な下心を持ってんじゃないでしょうね」

 長門ばかりをながめている自覚なんか心情としてまったくない。せいぜいいって朝比奈さんと合わせてロクヨンくらいの割合……なんて言ってる場合じゃねえな。

「いや……」

 口ごもらざるを得なかった。例の消失の件からこっち、俺が長門をそれなりに気にしているのはハルヒの読み通りだし、言葉の上だけでも否定語を使用するのは俺自身が気にする。しかし、まさかこいつに気づかれていたとは思わないからはん解答も用意しておらず、真実をそのまま伝えるわけにはもっといかず。

「言いなさいよ」

 ハルヒはわざとのように歯切れよく、

「有希もちょっと変だもの。見た目は前と変わんないけど、あたしには解るんだからね。あんた有希に何かしたでしょ」

 わずか二言三言の間に下心からせい事実に移り変わろうとしている。このままほうっておいたら古泉たちの所にもどるまでに俺と長門は本当に『ナニかあった』ことにされてしまうおそれがある。実際に何かがあったことは確かだから、とつに完全否定するのも難しい。

「あー。ええとだな……」

「ごまかそうったってそうはいかないわよ。いやらしい」

「違うって。やましいことなんか俺にも長門にもねえんだ。えー……。実は……」

 いつしかハルヒは俺にアーチェリーの的を見る目を注いでいた。

「実は?」

 いどむような目つきのハルヒに、俺はやっとの思いで言葉をねじり出した。

「長門はなやみ事をかかえてるんだ。そう、そうなんだよ。ちょっと前に俺はその相談に乗ってやったんだ」

 考えるのと話すのを同時進行でやるのはつらいな。それが口からデマカセならなおさらだ。

「正直言ってそれはまだ解決してないんだ。何というか……つまり……ようするに長門が自分で解決しないといけないことだからな。俺にできるのは話を聞いてやって、長門がどうしたいのかを自分で決めさせることくらいでさ。長門はまだ解答保留中だから相談された手前、俺もまだ気になっている。それが目にでちまったんだろう」

「どんな悩みよ、それって。どうしてあんたなんかに相談するわけ? あたしでもいいじゃないの」

 疑念の晴れない口ぶりだった。

「有希があたしや古泉くんよりあんたをたよりにするとは思えないわ」

「お前じゃなけりゃだれでもよかったんだろう」

 キリキリとまゆり上げるハルヒを、俺は自由なほうの手で制してやった。ようやく頭が回り出してきたぜ。

「つまりこうなんだ。長門が一人暮らしをしてるわけは知っているか?」

「家庭の事情でしょ? あれこれ聞き出すのはやらしいと思って、そんなにくわしくは知らないけど」

「その家庭の事情がちょっと発展を見せているんだ。結果の如何いかんによって長門の一人暮らしは終わるかもしれん」

「どういうこと?」

「簡単に言えば引っしさ。あのマンションをはなれて、遠くの……親族のもとに行く可能性があるんだ。当然、学校も変わることになる。言っちまえば転校だ。来年の春、キリのいいところで二年に上がると同時に別の高校に……」

「本当?」

 ハルヒの眉がゆるやかに下がる。こうなればしめたものだ。

「ああ。だが長門は家庭の事情がどうあれ、転校はしたくないそうだ。卒業まで北高にいたいと言っている」

「それで悩んでたの……」

 ハルヒはしばしうつむいて、だが顔を上げたときは再びおこった顔になっていた。

「それこそ、だったらあたしに言えばいいじゃない。有希は大切な団員なのよ。勝手にどっか行くなんて許せないわ」

 そのセリフが聞けただけでも俺は満足だよ。

「お前に相談なんかしたら余計に話がこじれると思ったんだろうよ。お前のことだ、長門の親族のもとに乗り込んで、転校絶対反対のデモ行進くらいするだろう」

「まあね」

「長門は自分でケリをつけたいと決心してはいるんだ。ちょっと迷っているだけで心はあの部室にあるのさ。だがずっと一人で考え込んでいても精神に負担がかかるから、誰かに伝えておきたかったんだろう。ちょうど俺が入院してて、長門が一人でいに来てくれたときに聞いたんだ。たまたまそこに誰もいなくて俺だけがいたってことさ。それだけ」

「そう……」

 ハルヒは軽く息をつき、

「あの有希がね……。そんなことで悩んでたの? けっこう楽しそうに見えたのに。休み前だけど、ろうでたまたま出くわしたコンピ研の下っ部員たちに最敬礼されてたわよ。まんざらでもなさそうな感じだったけど……」

 俺は満更でもないような顔をする長門をイメージし、どうにも想像できずに頭をらした。ハルヒはパッと顔を上げて、

「でも、うん、まあ、そうね。有希らしいと言えば有希らしいわ」

 信じてくれたようで俺もあんの息をく。このうそエピソードのどこに長門らしさがあったのか我ながら不思議だが、ハルヒには長門がそういう感じのに見えているようだ。俺は話をまとめにかかる。

「ここで言ったことはオフレコにしとけよ。ちがっても長門には言うな。安心しろ、あいつなら新学年になっても部室でおとなしく本読んでいるさ」

「もちろん、そうじゃないとダメよ」

「だがな」

 俺はハルヒにつかまれた手首の熱さを感じながら言い足した。

「もし、万が一にだ。長門がやっぱり転校するとか言い出したり誰かに無理矢理連れて行かれようとしてたら、好きなように暴れてやれ。その時は俺もお前にたんしてやる」

 ハルヒは目を二度ほどしばたたかせた後、俺をポカンとした顔で見上げた。そしてごくじようみを広げて、

「もちろん!」



 俺とハルヒが一階エントランスロビーまでもどると、スキーウェアをいで待っていた三人が三様の対応でむかえてくれた。

 なぜか朝比奈さんは早くも半泣きの顔をして、

「キョンくん、涼宮さぁん……。よかったぁ、戻ってきてくれて……」

「みくるちゃん、何泣いてんのよ。すぐに戻ってくるって言ったじゃない」

 ハルヒはじようげんに述べて朝比奈さんのかみでているが、俺は古泉の表情がざわりだった。何だよ、そのアイコンタクトは。そんな意味不明なパスを送られても俺の胸には届かないぞ。

 もう一人、長門はぼんやりとっ立って黒目をハルヒに向けている。いつも以上にぼんやりしているように見えたが、宇宙人的有機生命体にもラッセル車じみた雪中進軍は負担だったものとかいしやくして俺はなつとくした。長門がびゆう性のかたまりではないというのは織り込み済みだ。今の俺はそれを知る側にいる。

「ちょっとよろしいですか?」

 古泉がさり気なく近づいて俺に耳打ちした。

「涼宮さんにはないしよにしておきたいことがあります」

 そう言われればだまって耳をかたむけるしかないな。

「あなたの体感でかまいません。あなたと涼宮さんがこの場をはなれてから戻ってくるまで、どれだけの時間がったと思いますか?」

「三十分も経ってないだろう」

 ちゆうでハルヒの話を聞いたり嘘話を語ったりしていたものの、感覚的にはその程度だ。

「そうおっしゃるだろうと思っていましたよ」

 古泉は満足げなのか困り顔なのかわからないような表情となりながら、

「残された僕たちにとってはですね、あなたと涼宮さんがたんさくに出かけてからここにかんするまで、実に三時間以上が経過しているんです」



 計測してくれたのは長門だった、と古泉は語った。

「あなたがたの帰りがあまりにもおそいので」

 すっかりかわいた前髪をはじきつつ、こいつはニヒルに微笑ほほえみながら、

「思いつきをためしてみることにしました。長門さんに僕から見えない、離れた場所に行ってもらうようらいしたんです。秒数を正確に数えるよう打ち合わせて、十分後に戻ってくると約束して」

 長門はなおに従ったそうだ。このエントランスから横へ続く通路へ歩き、やがて角を曲がって姿を消し──。

「ところが、長門さんは僕が二百を数え終わらないうちに帰ってきました。僕の感覚では三分も経っていないのは疑いを得ない。しかし長門さんは間違いなく十分を計測したと言い張りましたよ」

 長門が正しいに決まっている。お前が途中でねむりをしたかけたを間違えたかしたんだろ。

「朝比奈さんも僕とほぼ同じ数だけを小声で数えていましたけどね」

 そりゃあ……。やっぱり長門のほうが合っていると思うのだが。

「僕だって長門さんのカウント精度を疑問視したりはしません。彼女がこういった数学的単純作業で間違いをおかすはずはないですから」

 じゃあ何だ、っていう世界だな。

「このやかたは場所によって時間の流れる速度が異なる……または、存在する個々の人間によって主観時間と客観時間にズレが発生する。そのどちらかか、あるいは両方です」

 古泉はいっそすがすがしいおもちで朝比奈さんを乱暴になだめるハルヒを見て、また俺を見た。

「できる限り全員がひとかたまりになっていたほうがいいですね。でないと、どんどん時間のが生じることになる。それだけならまだいいのです。この建物の内部だけが時間的にくるっているのなら対処方法はないでもありません。しかし、僕たちがさそい込まれるようにしてここにやって来た、それ以前から齟齬が開始されていたとしたらどうでしょう。とつぜん吹雪ふぶきと、歩けども目的地にたどり着けない山下りに、あなたはどんな想像をしましたか? 僕たちはその時すでに別の時空間にまぎれ込んでいたのだとしたら……」

 ハルヒに髪をかき回されている朝比奈さんをながめてから長門を見る。吹雪で変な形になっていた髪型はすっかり乾いて元に戻っていた。雪よりは暖かみのある白いはだだ。

 俺も古泉にささやき返した。

「お前のことだ、長門と朝比奈さんとすでに話し合いの場を設けただろう。何か言ってたか?」

「朝比奈さんにはまるで見当がついていないようです」

 それは様子を見れば解る。かんじんなのはもう一人だ。

 古泉はさらに声をひそめさせ、

「それが何も答えてくれませんでした。僕が先ほどの依頼をしたときも一言もなく歩き出して、もどってきてからも無言です。本当に十分間だったのかといたらうなずいてはくれましたが、それ以外はどんな意思表示もなしです」

 長門はあかじゆうたんの表面をじっと注視している。表情がないのは昨日も今日も同じだが、ぼんやり度が増しているような気がするのは果たして気のせいですませていいのかな。

 俺が長門にづかいの声をかけようと動きかけた時、

「キョン、何してんのよ。みんなに報告しないといけないじゃない」

 ハルヒがちようまんするような声で一同をへいげいし、

「さっき見回ってきたんだけど、二階から上の部屋は全部ベッドルームだったわ。どっかに電話がないかと思ったんだけど……」

「ああ、なかった」と俺も追加情報をろうする。「ついでにテレビとラジオもなかった。モジュラージャックや無線機らしい機械の姿もな」

「なるほど」

 古泉は指先であごでながら、

「つまりどこかとれんらくを取ったり、外界から情報を得る手段が何もないということですね」

「少なくとも二階以上にはね」

 ハルヒは不安の欠片かけらもなさそうに微笑み、

「一階のどこかにあればいいんだけどね。あるんじゃない? これだけデカい館だもん、通信専用の部屋がわざわざ用意されてるのかも」

 では探しに行きましょう、とハルヒは旗の代わりに手をって、あんたんたる顔つきの朝比奈さんを引き寄せた。

 俺と古泉、少しおくれて長門も歩き出す。



 ほどなく俺たちは食堂に落ち着いていた。アンティークな内装がほどこされているこのスペースは、入ったことがないからよくは知らないが三星級のレストランのようなごうせいな広さときらびやかさをね備えている。白いテーブルクロスのかかったたくじようには黄金色にかがやくキャンドルまで立っていて、てんじようを見上げるとそこにもごうなシャンデリアがり下がり、SOS団メンバーを冷たく見下ろしていた。

「ホントにだれもいなかったわねえ」

 ハルヒは湯気の立ちのぼるティーカップを口元に持っていきながら、

「どうしちゃったのかしら、ここの人たち。明かりもエアコンも付けっぱなしで、電気代がもったいないわ。通信室もないしさ。どうなってんの?」

 ハルヒがズルズルすすっているホットミルクティーは、このレストランみたいな食堂おくちゆうぼうからカップやポットともども無断で拝借したものである。朝比奈さんが湯をかしている間にハルヒとそこら中を開けてみて回ったところ、たなには洗ってかんそうさせたばかりのようにピカピカの食器が並んでいるし、特大の冷蔵庫にはふんだんに食材が用意されているし、とてもじゃないがここが長らく無人の館として放置されていたとは思いがたい。まるで俺たちのとうちやくと同時に全員が荷物をまとめて出て行ったようなふんだ。いや、それすら疑わしいな。だったら少しは人間の気配か残りの一つでも残っているはずだ。

「まるでマリー・セレスト号みたいね」

 ハルヒはちゃかしているつもりらしいが、あんまり笑えないな。

 一階の探検は五人でおこなった。ぞろぞろと列になって歩く俺たちはとびらを見つけるたびに次々に開いていき、その度ごとに使えそうなものを発見していた。きよだいかんそうのしつらえられたランドリー室を見つけたり、最新機材が装備されたカラオケルームを見つけたり、銭湯みたいに広い浴室を見つけたり、ビリヤードとたつきゆうだいと全自動ジヤンたくが設置されたレクリエーションルームを見つけたり……。

 願えばその通りの部屋が新たに発生するんじゃないかと思えるくらいだ。

「可能性としては」

 古泉がカップをソーサーに置き、キンキラのしよくだいをもてあそぶように手に取った。そのままガメる気かと思ったが、細工を入念にかんていするような目で見てすぐに置いた。

「このやかたにいた人々は、吹雪ふぶきになる前に全員で遠くに出かけ、この悪天候のせいで足止めされているということが考えられます」

 うす微笑ほほえみをハルヒに見せつけるようにかべ、

「だとすれば、吹雪が収まりしだい戻ってくるでしょう。勝手に上がり込んだ非礼を許してくれればいいのですが」

「許してくれるわよ。ほかにしょうがなかったんだしさ。あ、ひょっとしたらこの館、あたしたちみたいに道に迷ったスキー客のなんじよになってるんじゃない? それだったら無人なのもわからないでもないわ」

「電話も無線機もない避難所なんかないだろ」

 俺の声は心持ちつかれている。五人で一階部分をのし歩いたあげくに解ったことはそれくらいだ。通信手段やニュースソースだけにとどまらず、この建物の中には時計すらなかった。

 それ以前に、この館は建築基準法と消防法を確実に無視している気がするんだがと思いつつ、

「どこの誰がこんなデカいだけで不便な避難先を作るんだ?」

「国か自治体じゃないの? 税金で運営されてるんじゃないかしら。そう考えるとこの紅茶とかもえんりよなく飲めるしね。税金ならあたしだってはらってるから使用する権利はあるわ。……そうだ、おなかいたから何か作ってきましょうよ。手伝って、みくるちゃん」

 思い立つと他人の意見に左右されないハルヒである。ばやく朝比奈さんの手を取ると、

「えっ? あっ、はっはい」

 心配そうなひとみを俺たちに向けながら厨房へと連行された。朝比奈さんには申しわけなかったし古泉の言う時間の流れも気になるが、ハルヒが消えてくれたのは都合がいい。

「長門」

 俺は空になったとうを見つめているショートカットの横顔に言った。

「この館は何だ。ここはどこだ」

 長門は固まったまま動かない。そして三十秒くらいしてから、

「この空間はわたしにをかける」

 そんなポツリと言われても。

 解らん。どういうことだ? 長門のクリエイターだかパトロンだかにれんらくを取って何とかしてもらうことはできないのか。異常事態なんだ。たまには手を貸してくれてもいいだろ?

 やっと俺のほうに向いた顔には何の表情もない。

「情報統合思念体との連結がしやだんされている。原因かいせき不能」

 あまりにたんたんと言われたので飲み込むまでに少々時間がかかった。気を取り直して俺はたずねる。

「……いつからだ」

「わたしの主観時間で六時間十三分前から」

 感覚がせてるから数字で言われても解りにくいなと思っていると、

「吹雪に巻き込まれたしゆんかんから」

 黒目がちの瞳はいつものように静かな色をしている。しかし俺の心はあいにく静けさを保ってくれたりはしなかった。

「どうしてその時に言わなかったんだよ」

 責めてるわけじゃないんだ。長門のだんまりぐせは通常のこいつであるというしようのようなものだから、しかたがないというよりはそうでなくてはならないからさ。

「ということはここは現実にある場所じゃないのか。この館だけじゃなくて……俺たちがずっと歩いていた雪山から全部、だれかの作った異空間か何かなのか?」

 長門はまただまり込み、しばらくして、

「解らない」

 どこかさびしそうにうつむいた。その姿がいつぞやの長門を想起させ、ちょっとあせる気分がする。しかしだ、こいつにも解らないなんて言語を絶する現象がハルヒがらみ以外にあったとは。

 俺は天をあおぎ、もう一人のSOS団団員に言った。

「お前はどうだ。何か言うことはないか?」

「長門さんを差し置いて僕が理解可能な現象もそうありませんが」

 興味深そうな目を長門に向けていた副団長殿どのは、やや姿勢を正した。

「僕に解るのは、ここが例のへい空間ではないということくらいです。涼宮さんの意識が構築した空間ではありません」

 言い切れるのか?

「ええ。これでも涼宮さんの精神活動に関してはスペシャリストですからね。彼女が現実を変容させるようなことがあれば僕には解ります。今回の涼宮さんは何もしていません。こんなじようきようを願ったわけでもない。まず無関係と言い切れます。何でもけてください、そく倍賭けダブルアツプを宣言しましょう」

「じゃあ誰だ」

 俺はうすら寒さを感じる。吹雪のせいでそう見えるだけなのか、食堂の窓から見える風景はひたすらグレー色だ。あの青白い〈しんじん〉がひょっこり顔をのぞかせても別段おかしいとは思わないような背景だった。

 古泉は長門を見習ったようにちんもくしてかたをすくめた。きんちよう感のない仕草だったが、それは演技だったのかもしれない。深刻な顔を見せたくなかったのだろうか。

「お待たせー!」

 ちょうどハルヒと朝比奈さんがサンドイッチを山積みした大皿をかかえて来たからな。

 俺の体内時計がかんで教えてくれるところによれば、そうたいして待ってはいないはずた。ハルヒと朝比奈さんがちゆうぼうへと消えてから実質五分にも満たないだろう。だが、さり気なくハルヒに聞いて明らかになった所要時間は最低でも三十分はかかっているらしく、料理を見る限りではどうやらそっちも正しそうだった。サンドイッチ用のうすりパンは一枚一枚焼いてあるし、ハムやレタスにも下味がついてるし、卵をでて刻んでマヨネーズであえて具材にするのも五分ではすむまいね。てんこ盛りのミックスホットサンドの量は、二人がどんなにきをしても相応の時間がかかりそうな手のみようで、余談になるのを知りつつ言うと、これがかなり美味うまいのだ。ハルヒの料理のうではクリスマスなべで身にみていたが、いったいこいつの不得意科目は何だろう。小学生時代に出会っていれば道徳の成績だけは勝っていただろうが……。

 俺は自分の頭をく。

 こんなことを考えている場合じゃないんだ。心配すべきなのは今の俺たちの現況だけというわけにはいかないんだよ。

 朝比奈さんは自分の作った料理の行方ゆくえが気になるのか、俺が新たなサンドイッチに手をばすたびに息をめて見守って、あんした顔を作ったりきんちようしたりしている。前者の場合がハルヒの製作によるもので、後者が朝比奈さんのものなのだろう。まるわかりだ。

 彼女はまだ知らない。古泉にも言っていない。ハルヒには知らせるわけにはいかない。

 長門と俺だけが知っていて、まだ実行していないことがある。

 そうだ──。


 俺はまだ世界を救いに過去にもどっていないんだ。


 あわてて行くこともないと思い、年明けでもいいかと考えていた。朝比奈さんに何と言おうか文案を練っていたということもあって、のんびりと年末気分を味わっていたのはマズかったのか? このままこの館から出られないなんてことになれば……。

「いや、待てよ」

 それではおかしなことになる。俺と長門と朝比奈さんは必ず十二月の半ばに時間こうするはずなのだ。でないとあの時の俺が見たあの三人は何だったのだという話になる。てことは、俺たちはしゆよく通常空間にだつしゆつできるのか。そうであれば安心材料の一つにもなるが。

「ささ、どんどん食べなさいよ」

 ハルヒは自らパクつきながら紅茶をがぶ飲みしている。

「まだまだあるからね。何ならもっと作ってきてあげてもいいわよ。しよくりよう、食べきれないほど大量の食材がたんまりあったからね」

 古泉はしようしてハムカツサンドをみしめつつ、

「美味ですよ。非常にね。まるでレストランの味です」

 たいちみたいな感想をハルヒに向けて言っているが、俺が気になるのはこいつではない。いかにも材料の無断使用を気にして食の進んでいない朝比奈さんでもない。

「…………」

 長門だ。

 ちまちまとした食べ方は本来のこいつのものではなかった。

 宇宙人製有機アンドロイドは、まるでいつものおうせいな食欲をどこかに置き忘れたかのように、手と口の動きが半減していた。

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