第四章

 やってみりゃわかるが、夜の校舎での一人歩きは気味が悪い。

 ジャケットをかたに引っかけて俺はそろりと部室をけ出した。なるたけ音を立てないように階段を下り、ろうの曲がり角に出くわすたびににんじやのように張り付き様子をうかがうのは、精神的にもくたびれる仕事だった。ここがいつどこの北高かはまだ解らないが、宿直の教師に見つかれば困難なことになるだろう。こちとら何とも説明できかねる。説明して欲しいのは俺なんだからな。

 もわっとした湿しつと大気の中を汗まみれになって移動し、ようやくげんかんまでやって来れた。

「さて、何が出てくるか……」

 そう言って開けた俺の箱には、だれかのうわきが入っていた。俺のではないことだけは確かである。近くのやつが間違って履いてったという可能性もそくきやつでいい。ここの季節は真夏。俺はまた違う時空にばされている。それくらいの連想能力は俺にもある。この下駄箱の主が俺ではなく別人である世界、または時代だ。我ながらあまりおどろかないのは異常に慣れきってしまったからか、それとも驚くゆうすら失われているのか。

「しょうがないな」

 上履きのまま外に出るのは不格好だがぜいたく言ってる余地がない。まずは校舎からだつしゆつすることだ。夜の玄関口にはさすがに厳重なじようがしてあった。俺は近くの窓にしのび足で向かい、内側のかぎかいじようして注意深く開いた。草のにおいがする夜風を肺に吸い込みながらまどわくに足をかけてジャンプ、いしだたみに着地する。以前のへい空間で俺がハルヒに起こされたあたりだ。

 十秒ほどじっとして、誰にも見られていないのを確信してから俺は動き始めた。

 外に出ても暑さはほとんど変わりがない。じめっと蒸した日本特有の夏の気温だ。それまで厳寒の冬の季節にいたものだから、余計にかんせんが開いている。俺はだらだらと流れる顔の汗を冬用ブレザーできながら校門を目指した。

 乗りえるのは簡単で、てんでさんなセキュリティに感謝しながらてつさくをよじ登るだけで済む。学校のしきから外に出ると、俺は先に投げておいたジャケットを地面から拾い上げ、しばらく星空を見上げて行くべき場所を考えた。

 今は何月何日の何時何分なのかを知るのが先決である。過去か未来かでは大違いだからな。

 とっとと坂道を下りるとしよう。ちゆうにコンビニがあったはずだ。そこらの民家に飛び込んで「今は何日だ?」とたずねても精神の具合を悪くした高校生として、しかるべき所に通報されるだけだろうし、それより日時の知れる所に行ったほうがいい。

「しかし暑いな……」

 着ているのが冬用制服なんだからしかたがないとは言え、足に汗でくっつくズボンの内側がうつとうしい。ポリエステルの開発者がこの時ばかりはうらめしい。しかもこの制服は冬でもたいして暖かくないのだ。ちゆうはんな制服だぜマジで。

 そんなことを考えるのも多少は頭が回り出したおかげかもしれない。もともと俺は冬の寒さにこごえながら春のとうらいを待ちわびるより、夏の暑さに文句をつけながら団扇うちわでもあおいでいるほうが好きなのだ。それに高校一年の夏には様々な思い出がある。たいていはろうしたりだつりよくしたりあきれたりだったものの、まあ過ぎてしまえばいい経験だった。朝比奈さんの水着も拝めた。冬にはまだSOS団的なイベントをほとんどしていない。

 うはずだったなべの味を考えながら十五分ばかり道を下っていると、やっと目当ての明かりが見えてきた。下校途中、たまに買い食いするコンビニエンスストア。少なくとも、今はこの店ができる以前でも退店した以後の時間でもないようだ。

 自動ドアが開くのももどかしく、入ってすぐ俺はかべぎわを見上げた。れいぼうかんしよくに慣れるまで少しかかる。その間、アナログのかべけ時計に熱い視線を注ぎ続けた。

 八時三十分。

 夜だから午後に決まっている。

 では日付は? 今日は何年の何月何日なのだ。カウンターの前に何種類もの新聞がまとめて展示されている。どれでもいい。俺は一番手前のスポーツ紙を一部引き抜いてちよう特急で広げた。記事もどうでもいい。すべて誤報であっても問題ではない。だがどんなねつぞうタブロイド紙だって、紙面の一番上にある日付だけはうそっぱちを印刷したりはしないだろう。

 泳ぎがちの視線を何とか固定し、俺は見た。

 へん的ラッキーナンバーのゾロ目が目に飛び込んできた。

 いつの? 記された西せいれきをなめるようにかくにんする。店員の兄ちゃんがウザったそうにしているが、かまうもんか。

 四けたの数字を何度も見直す。さっきまでいた十二月時代の西暦から、このスポーツ紙に印刷されている西暦の数字を引く。単純な計算だ。子供でも解る。

「そういうことか、長門……」

 俺は新聞から顔をはなし、大きく息をいててんじようあおいだ。

 全国いつせい七夕デー。


 今は、三年前の七月七日だ。


 三年前の七夕。今日この日に何があった?

 きようそうきよくのような『今年』の七夕、部室でたんざくに願い事を書いた後、俺は朝比奈さんにさそわれるまま共に時間をこうしてこの時間に来た。そこで大人バージョンの朝比奈さんに再会し、夜の東中学に行くよううながされた。それから校門に張り付いていた中学一年生時代のハルヒに直面し、グラウンドにせつかいで宇宙に向けたメッセージをくハメにおちいった。

 そしてTPDDとかいうタイムマシンみたいなものをふんしつした朝比奈さん(小)を連れて長門のマンションに行き、二人してそこで三年ほどごすことで元の時間にもどってきた……。

「ということは……」

 引き算より簡単な計算だ。覚えていることをそのまま思い出せばいい。そうだ、俺はようやく手に入れたのだ。くるった世界を元に戻す、そのために必要なじようきようを。

 だって、そうだろ?

 足がガクガクしてきたのは、決してきようのせいじゃない。そうだとも。これは武者ぶるいだ。

 三年前。七夕。東中。絵文字。ジョン・スミス。

 様々な要因が俺の頭の内部でこんがらがり、やがて結論を出した。実にシンプルで、明白な結論だ。もう一度言おう。

「ということは……」

 ここには、彼女たちがいる。

 わくのグラマー朝比奈さん(大)と待機モードの長門有希。

 助けを借りられそうな人材が、この時間には二人もいるのだ。



 後先考えず、新聞を放り出して俺はコンビニを飛び出した。そして走りながら考えた。

 最初に三年前──今だ──に来たとき、光陽園駅前公園のベンチで目を覚ました俺に朝比奈さんは、現時刻を「午後九時ごろ」と言ったはずだ。三十分も走ればここからそこまで何とか間に合う。問題があるとすれば何者かによる世界改変がこの時間にまでおよんでいたのかどうかだが、だとしたら俺がここにいるはずもないだろう。なんとしても朝比奈さん(大)かマンションにいる長門のどちらかにせつしよくしなくてはならない。あるいはその両方にだ。ならば目指す場所は二つあることになるが、今行くべきはあそこだ。

 マンションに住んでる長門には後でも会える。しかし朝比奈さん(大)には、あの時あの場所でしか会えない。

 女教師みたいな格好でおとずれた成長した朝比奈さん。俺に白雪ひめのヒントをくれ、すぐに帰っていったもっと未来の朝比奈さんだ。ねむり姫となった朝比奈さん(小)のほっぺをつっつき、楽しそうに微笑ほほえんだ彼女を昨日のことのように覚えている。

 あの朝比奈さんなら俺のことも解ってくれる。そうであるはずだった。



 その公園は駅前にほど近く、なのに周囲の人通りは少ない。夜という時間帯のせいでもあるだろう。だから夜にうごめき出すあやかしにとっては都合のいい場所とも言える。ここは変わり者のメッカなのだ──と七夕の日に俺は思い、今もそう思っている。

 あからさまに登場するわけにもいかないので、俺はいんまぎれるように公園を囲うブロックべいに沿って歩いている。塀と言っても高さは俺のこし程度で、そこから上は俺のたけ程度のかなあみになっている。しかし周囲には定かんかくで樹木が植えられているから、真っ昼間ならともかく夜に公園内から見つけられないように中をうかがうのは簡単だ。むしろ背後の道を行く通行人に変な目で見られることのほうが注意こうだろう。

 あの時に俺が目覚めたベンチの場所を思いえがきながら、俺はじりじりと塀沿いに移動していた。格好のポイントを探す。

 時間はまさに午後九時を過ぎようとしている。

 かい見るというこうはまさに俺が今やっていることだろう。首をばし、青々としげる木々の間から俺は目的の光景を見た。

「……あれか」

 映画に出演している自分を見ているような、あるいは自分の姿を客観的に見下ろしている夢を見ているようだ。

「しかし、まあ何という……」

 外灯の光に照らされたベンチがスポットライトを浴びたようにくらやみかび上がっていた。遠目からだがちがえようがない。二人とも北高の制服を着ている。全部、おく通りだ。

 かつての俺と朝比奈さんがそこにいた。

 その『俺』は横になって朝比奈さんのひざまくら代わりにていた。あれでグッドテイストな夢を見ていないのであれば、そっちのほうがうそだろうな。地球上で最も貴重なものを枕に寝てんだ、あの状態ですこやかでなければこの世にあんみんもとなど存在しなくなるっていうもんだ。

 膝枕をしている朝比奈さんは自分のふとももに乗っている俺の顔をのぞき込み、耳に息をきかけたり引っ張ったりして遊んでいる。何てうらやましいことをされてんだ……いや、されたんだ俺は。

 いつしゆん、『俺』を引っぺがして俺がその役を演じたくなったが、どうにかしようどうおさえ込む。あの時の『俺』は別の俺を見てはいない。なら、ここで俺が飛び出したりしてはちようじりが合わないことになる──のかな? 何にせよ時空の混乱をこれ以上自ら招くことはない。

 俺は意思と関係なく動きそうな身体からだを自制して、ピーピングトム(解りやすく言うとノゾキだ)の任を続行した。こんなわやくちゃな状況下でも自分を保っている俺はかく的人格者なのかもな。だれかにほこりたい気分だよ。

 そんなかんがいに満たされながら観察していると、朝比奈さんが何かを言うようにくちびるを動かし、膝枕で寝ていた『俺』は身じろぎをして、のっそりと身体を起こした。今の俺がいるところには声が届かない。だが覚えてはいる。朝比奈さんは「起きた?」と言ったはずだ。

『俺』と朝比奈さんはちょぼちょぼと会話をしているようだったが、すぐに朝比奈さんはくたりと『俺』にもたれかかり──、

 ガサガサとれたベンチの背後の植え込みから、あのお方が登場した。

 白いながそでブラウスにこんいろタイトスカートという女教師みたいな格好を忘れるはずもない。

 五月の終わりごろ、彼女は俺を手紙で呼び出して白雪姫のヒントをあたえた。ついでに自分の星形ホクロの位置まで教えてくれた。そしてこの日、七夕の日に朝比奈さん(小)を眠らせてハルヒのもとに行くように指示して、あっさりと立ち去ってしまった……。

 朝比奈さん大人バージョン。

 背丈とプロポーションが何年か分加算された、未来人朝比奈さんのさらに未来の姿。朝比奈さん(大)。

 あの時のままだ。

 によじつに思う。俺は三年前の七夕の日にいる。すべてが記憶にある筋書き通りだった。

 朝比奈さん(大)は『俺』に二言三言話しかけると、しゃがんで朝比奈さん(小)のほっぺを指で押したり身体をでたりしてから、また立ち上がって『俺』に何やら話しかけた。

 ──ここまであなたを導いたのはこの子の役目で、ここからあなたを導くのはわたしの役目です。

 ──あー、これはいったい……。

 そんな感じのやり取りだったはずだ。

 ぼうぜんとした態度の『俺』に、朝比奈さん(大)は言うべき事を言い終えると、未練を感じさせることもなく公園の外へと歩き始めた。外灯のスポットから退場する。東中方面とは反対側の公園の出口へと向かっていることに、俺は今初めて気づいた。

『俺』のほうはまだぼやぼやしている。眠りひめとなった朝比奈さん(小)の横顔を見下ろして何か考えているりである。何だっけなと思ったのも数瞬で、俺はおくこうの旅をほうした。朝比奈さん(大)の姿を見失うわけにはいかない。

 かくれていたものかげから身体を浮かせ、急ぎ足で公園の外側を回った。もはや身を隠す必要はない。なぜなら俺が『俺』だったとき、『俺』は俺を見ていないからだ。この時の『俺』は、ほかにこの時間にやってきた俺を見てなどいない。思いつきもしなかった。当たり前だ。まさかここまで俺の時空がねじれているとは、過去の『俺』がチラリとでも発想できたはずがないだろう。背中の朝比奈さんが気になるあまり、他に何を考えることもなかった、その『俺』をかえりみず、俺は走る。

 公園の角を曲がると百メートルほど前方に彼女はいた。こちらに背中を向けて歩いている。ハイヒールが立てるカツカツという音がリズミカルに聞こえた。急いでどこかに行こうとしている様子ではなさそうだが、あいにく俺は彼女に急ぎの用事がある。ここで見失うことがあったら何のためにここまで来たのか知れたものではないじゃないか。

 再び俺は走り出した。近づくにつれて、夜のわずかな光のもとでもれいびた手足やセミロングのふわふわがみかがやいているかのように見えてきた。後ろ姿だがちがいない。

 すぐに追いついて、俺は呼んだ。

「朝比奈さん!」

 ぴたり。小気味よく歩いていたヒールの音が止まった。背中にやわらかくかかっているくりいろの髪がふわりと揺れる。スローモーションのようだった。ゆっくりと彼女がり返る。

 俺は彼女のセリフを予想した。

 ──なぜ? さっき別れたばかりなのに。

 ──追いかけてきた……んじゃないですよね。

 ──あれ、もう一人のあたしは?

 どれでもなかった。

「こんばんは、キョンくん」

 おくにある通り、美しい顔をした彼女は、つややかな微笑ほほえみで俺をむかえてくれた。

「あなたとはお久しぶりですね」

 大人版朝比奈さんはそう言って片目を閉じた。五ヶ月ちょいのごだ、この笑顔を見るのも。

 朝比奈さん(大)は安心しきった子供のような表情で、

「でも、よかった。ちゃんとここで会えて。ちょっぴり不安だったんですよー。わたしがうっかりミスをしてないとも限りませんから」

 今でもポカが多くて、と朝比奈さんは可愛かわいらしく舌を出した。こしくだけそうになるくらいりよく的な仕草だったが、ここでヘナチョコになってしまっては元も子もない。

 この朝比奈さんは知っている。これから俺がどうすべきかを。

 俺はもつれそうになる舌をどうにかせいぎよして、

「朝比奈さん、あなたは俺がまた来ることを……。この時間、この場所に俺がもう一度来ることを知ってたんですか」

「ええ」と朝比奈さんはしゆこうした。「ていこうでしたから」

「七夕の日に、小さい朝比奈さんに俺を三年前の七夕……つまり今です、へ連れて行くように仕向けたのはあなたですね」

「はい。どうしても必要なことでした。でないと、今のあなたはここにいないでしょう?」

 東中学の校庭に地上絵をくことがなかったなら俺は中学一年のハルヒにジョン・スミスと名乗ることもなかった。当然、あの光陽園学院高校一年のハルヒもその名を知らないことになる。すなわち俺がつながりを見つけることもできなくなっていただろう。その名前以外、先刻までいつしよにいたあのハルヒと俺との接点はなかったのだから、その結果、部室に五人がそろうこともなく、だつしゆつプログラムも起動しなかった。

 ここで疑問が発生する。もう一人のジョン・スミスとは……まさか。

「あなたですよ。キョンくん。今のあなた」

 朝比奈さん(大)が白のような微笑みをくれた。

「立ち話ではつかれますから、座れるとこに行きましょう。まだ時間はあるわ」

 その笑みと言葉は、俺の身体からだおおっていたしようそうと混乱を取り除くにじゆうぶんなパワーを持っていた。

 ここに朝比奈さん(大)がいるということは、未来はちゃんとある。十八日を境にくるってしまった世界の未来ではない。俺と俺が知るハルヒや朝比奈さんの未来だ。

 何とかなる。

 あんさそう確信を俺は得て、それを裏付けるように彼女は言った。

「これからあなたを導くのはわたしの役目です。でも、それ以降は、あなたは自分自身を導かねばなりません。わたしはあなたの意志に従うだけ」

 そうして片目を閉じた。ひざが落ちそうになるくらいの、パーフェクトなウインクだった。



 俺たちはさっきの公園にもどり、『俺』と朝比奈さん(小)が座っていたベンチに改めて腰を下ろした。座る前、朝比奈さん(大)は祖先の遺品にれるような顔と手つきでベンチをで、俺も何となくそうごんな気持ちとなって座った。ぬくもりがまだ残っている。五ヶ月前、この三年前へとやって来た俺と朝比奈さんの温もりだ。

 さっそく俺は切り出した。

「時間の流れはどうなっているんです? 俺がさっきまでいた時間と、この七夕が連続しているのはわかります。でなけりゃ俺は来られなかった。じゃあ朝比奈さん……あなたの未来とさっきの改変された時間は繋がっていないんじゃないですか?」

くわしいことは話せません」

 だと思った。禁則事項だからでしょう。

「いいえ」

 朝比奈さん(大)は頭を振った。

「解るように説明できないからよ。わたしたちのSTC理論はとくしゆがいねん上の方法論にりつきやくしています。それを解るように伝えるのは言葉では無理なんです。初めてわたしが正体を告白したときのことを覚えてる?」

 川沿いの桜並木で、可愛い上級生でしかないと思っていた朝比奈さんのぎようてん未来人発言を俺は聞いた。

「あの時のわたしは全然要領を得ないことを言っていたでしょ? あんな感じにしかならないの。混乱させるだけになるわ」

 こんこんと側頭部をノックのようにつつきながら、朝比奈さん(大)は片目を閉じた。そんな何て事ない動作の一つ一つが色っぽい。

「言葉を用いない概念は言葉以外のものでしか伝えられません。わかる?」

 わかりようがない。ただ頭グルグル状態の俺に、朝比奈さんはようえんぶん方程式とは何かを説明するような口調で、

「うん、でも、あなたにもそのうち解ります。きっと。今のわたしに言えるのはそれだけ」

 そのうち解る──ってのは夏休みの直前くらいにも他のやつから聞いた言葉だ。そうだ、長門もそんなことを言っていたな……。待てよ。

 シナプスがヒラメキ電流を発し、俺は次のようにこたえた。

「夏休み前に……きよだいカマドウマ事件で長門が言っていたあれは……。未来のコンピュータが今のような物じゃないっていうのは、ひょっとして……」

「あ、するどい。覚えてました? そうです。わたしたちの、この時代でいうコンピュータとかネットワークに相当するシステムは、んーと、物質にそんしてません。それはわたしたちの頭の中に無形で存在しています。TPDDもそうなの」

 なくなるはずがないのになくしちゃった、というアレだ。

「それがタイムマシンですか」

「タイムプレーンデストロイドデバイスです」

 それこそ禁則事項なのではないんですか。

「うん、あの時のわたしにとっては禁則でした。今のわたしは、もうちょっと規制がゆるくなっています。ここまで来るのにけっこうがんばったんだから」

 ブラウスの前ボタンをはじき飛ばさんように朝比奈さんは胸を張った。物理的にあり得ないようなプロポーションが強調され、俺の目をまどわすことしきりだったが、残念なことに精神のほうは今そこにある光景を視神経の保養所とするゆうを失っている。俺はいた。

「何が原因なんです。俺のいた未来が変わっちまったのは解りました。でも、いつ変わったんですか?」

「詳しいことはこの時間にいる長門さんに聞いたほうがいいです。でも一つだけ、あなたのいた時間平面が改変されたのは、『今』から三年後の十二月十八日早朝です」

 俺の体感では二日前のことだ。時間平面の改変か。てーことは……。俺は古泉が言ってた二通りのかいしやくおくからり起こした。パラレルワールドじゃないほうが正解だったか。

「そう。一夜にしてSTCデータ……ええと、世界自体が変化してしまったんです。あなたの記憶だけを残してね。遠い未来からでも観測できる、すごい時空しんだったわ」

 STCや時空震なるテクニカルタームに興味がないわけではなかったが、そんなまつなことにツッコミを入れる時間がもったいない。もっと重要な質問がある。

「朝比奈さんがここで待っていたということは、俺が巻き込まれた未来の異変を何とかするのも、あなたがやってくれるんですか?」

「わたしだけでは無理なの」顔をくもり気味にして、「長門さんの助けがいります。それから、もちろんキョンくんもいつしよじゃないと」

「やったのはだれです? どうせハルヒだと思いますが」

ちがいます」

 がおを引っ込め、朝比奈さんはしずんだ声でおっしゃった。

「涼宮さんではありません。他の人が犯人なんですよ」

「新たな登場人物ですか? どっかの知らない異世界人ろうが──」

「いいえ」

 俺の言葉をさえぎり、朝比奈さんはなぜかうれいた声で言った。

「あなたもよく知っている人です」



 もう少し時間的余裕がある、と朝比奈さん(大)はうで時計を見せながら言って、SOS団での思い出をなつかしそうに語った。俺にしてみれば、その思い出すべてはこの一年以内のことなのだが、彼女にとっては何年も前のことらしい。ハルヒにされて部室に連れて行かれたことから始まって、強制バニーガール、七夕の願い事とか島で出くわした殺人事件劇、ぼんおどりで着た浴衣ゆかた、団員みんなでやった夏休みの宿題、映画のロケでの出来事……。俺の記憶深度の浅い部分にやってくるにつれ、朝比奈さん(大)のしやべり方はだんだんおそくなった。

 俺は自分の未来エピソードが聞きたくて彼女が口をすべらすのを期待していたのだが、さすがにこの朝比奈さんはしんちようだった。本当にやま話しかおっしゃらない。

「たいへんだったけど、全部いい思い出です」

 最後にとってつけたような総評を述べ、朝比奈さんは口を結んで言葉を切った。そのままだまって俺を見つめ続けている。

 俺も何かそれらしい感想を言ったほうがいいのかなと考えていると、やわらかくて暖かいものが俺のかたに乗っかって、それは朝比奈さん(大)の頭なのだったが、いったいこのこうにどのような意味がかくされているのか、ぴったりくっついている彼女の身体からだの重みには同重量の黄金ほどの価値があるにちがいないと脳ミソがうずを巻き始めるくらいにかぐわしいかおりとかんしよくが全神経に伝達され俺をダメ野郎にしようとしていた。シャツの布地しに伝達する甘やかな体温。何かを伝えたいのだろうか。または俺から何か感じ取ろうとしているのか。目をつむって俺の肩に顔を寄せている朝比奈さん(大)、そのくちびるが音もなく動く気配を感じる。声を出さずに彼女は確かに何かを言った。なんだったのだろう。

 まさかなあ、と俺はうつろに考える。このままこの朝比奈さんもねむり込んでしまい、また背後から別の朝比奈さんが現れて、またまた変なことを言い出すのではないだろうな。そうやって俺は永遠にこの時間で違う朝比奈さんに出会い続けるのでは──。いかん、思考がだつすいからまったせんたく物のように同じ所で回ってる。なあ、いったい俺は何をしているんだ? 誰か教えてくれ。

 朝比奈さん(大)は一分くらいそうやって寄りっていたが、

「ふふ」

 俺の考えを読みとったように微笑ほほえんで、

「そろそろ時間です。行きましょう」

 何事もなかったように立ち上がった。残念ながら俺も我に返る。そうだった。行かなくてはならないのだ。えーと、どこへ?

 第二の行き先へ。

 朝比奈さんの腕時計は午後十時前を表示していた。『俺』が中一ハルヒの共犯役として東中のグラウンドにイタズラきをほどこし、ベソをかく朝比奈さんの手を引いて長門のマンションに上がり込んでいる時間。その『俺』の時間はもう止まっているころいだ。

 もう一度、長門の世話にならなきゃな。

「その前に」

 朝比奈さんは心にみ入る笑みを満天の星空のように広げ、

「やっておかないといけないことがあるでしょう?」



 公園から少しはなれると、そこはもう住宅地である。

 俺は朝比奈さんのキューに従い、路地裏から一歩み出した。

 夜道の先に、せいよく歩いている小さいひとかげがあった。Tシャツ短パンから生える細い手足とはんに長いかみをせわしなく動かして歩き去ろうとしている。

「おい!」

 遠目に見えるTシャツ短パンの背の低いかげり返る。こっちに気づいたのをかくにんし、俺は手をメガホン代わりにしてさけんだ。開き直り気味の音量で、

「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」

 その中学一年生女子は、じっとこちらを見ているようだったが、なぜかおこったような動作で向き直ると、そのままスタスタと歩いていった。

 今どうにかしなくても北高を訪ねれば俺に会えると思っているからだろうか、ちっとも迷いのない去りっぷりだった。ちゆうはんに長いくろかみに、俺は小声で付け加える。

「覚えておいてくれよ、ハルヒ。ジョン・スミスをな……」

 この時はまだ十二歳のハルヒ、これからも東中でちやなことをし続けるであろうハルヒに、俺は心の底からいのっていた。

 忘れないでいてくれ。ここに俺がいたことを。



 すっかり道順を暗記している高級ぶんじようマンションへは、今や目をつむってでも行ける。俺はななめ後ろでひかえ目に歩いている朝比奈さん(大)をどうはんし、二十数時間前にもやって来た真新しい建築物を見上げていた。朝比奈さん(大)は、まだだれも出てきてないのに俺の背後に隠れるようにナイスバディな身体を縮めて、

「……キョンくん、お願い」

 あいがんされてきよする理由はまったくない。いつの時代の朝比奈さんでも、あなたのらいそでにするほど俺はへそ曲がりな人間ではありませんからね。

「ごめんね。わたし、ちょっと長門さんって今でも苦手で……」

 そういや部室や前回ここに来たときの朝比奈さん(小)もそんなふんだったな。ハルヒを除いて、宇宙人・未来人のどちらにもニュートラルに接していたのは古泉くらいだ。

「まあ、なんとなく解りますよ」

 俺は思いやるように言い、げんかん入り口のパネルでテンキーを708と押してからベルのマークが付いたボタンを押す。

 数秒の間があって、ぷつんとインターホンが接続する。

 無言と無音の二重奏が返礼となって俺の耳に届けられた。

「長門、俺だ」

 ──ちんもく

「すまん、ちょっと説明しづらいことが起きて、また未来からやって来た。朝比奈さんもいる。大人のほうの。ええとだな、異時間同位体だったか?」

 ──沈黙。

「お前の手を借りたい。というか、俺をここに飛ばしたのは未来のお前なんだ」

 ──沈黙。

「そこに俺と朝比奈さんがいるはずだ。時間を止められて客間でている……」

 玄関のロックがカシャンと解除された。

『入って』

 インターホンごしに聞こえる長門の声が耳にここよくひびいた。いつものように冷たい静けさをともなったへいたんな声。どこかおどろきとあきれのせんりつが混じっているような気もしたが、真実気のせいだろう。長門なら何でもありだ。このじようきようだって何とかしてくれる。でなきゃ、困るんだ。

 ハイヒールでへいの上を歩いているようなきんぱく感を持って、朝比奈さんは俺のベルトに指を引っかけている。エレベータが口を開き、俺たちを吸い込んでからじようしようする。

 おみ、708号室へ。

 ベルのボタンもあったが、そんな気分じゃない。俺は物言わぬとびらをノックした。ドアをへだてた向こうに誰かがいるような気配はしなかったが、鉄の扉はすぐに開いた。

「…………」

 眼鏡めがねをかけた小振りな顔が扉のすきからのぞく。俺をじっと見つめ、視線を振って朝比奈さん(大)に注目のまなしを照準し、また俺にもどして、

「…………」

 まるっきりの無表情で無言、何か適当な感想でいいから言ってくれよとたのみたくなるくらいのくうきよな反応だった。まさしく長門だ。初対面時期の長門有希。とりつく島がかいだった春ごろの、そして『三年前』に『俺』がたよったこいつそのままだ。

「入っていいか?」

 考え込むような沈黙の後、長門は一ミリくらいあごを引いて、すっと部屋の奥へと下がった。イエスという意味で合っているはずだ。俺は背後で息をめている連れの美女に言った。

「行きましょう、朝比奈さん」

「ええ……。そうね、きっとだいじよう

 自分に言い聞かせているような口調である。

 それにしても、いったい上がり込むのは何回目だ? 紀伝体では四回目、編年体では二回目ということになるのか? 俺自身の時系列がワヤになっている。よく体内時計がくるい出さないものだと思う。冬から夏にい戻ったり、三年前に二回も来たりしていれば体調がおかしくなってもよさそうなものだが、今のところ俺はまったく正常だ。むしろこれまでの人生でも数えるほどしかないえた思考を保っている。慣れてしまったのか? こんな現実的とも思えない状況を多々り返すことで、通常の神経回路が焼き切れてしまったのかもしれない。

 生活感かいな長門の部屋は、おくとどまっているままの殺風景さを俺のもうまくに映し出した。以前の『三年前』と変わっておらず、五月に初めて訪問したときともまったくの同じ情景だ。

 安心したのは、長門有希が俺の知るはんでの長門そのものってとこだ。無表情で無感動。何事にもろうばいしたりしない、完全びゆうな宇宙人の雰囲気そのままな。

 くついでフローリングの細いろうを進み、リビングルームに足をみ入れる。長門はそこで待っていた。ぽつんと立って、俺と朝比奈さんに何を言うこともなく目だけを固定していた。仮に驚いているのだとしても、俺には長門の顔から一欠片かけらの感情も読みとることは出来ない。もしかしたら長門にとって未来から俺がやってくるのは日常はんになっているのかもな。そう何度もこの日にタイムスリップする事態になるとは思いたくないが。

「自己しようかいの必要はないよな」

 長門が座らないので俺と朝比奈さんも立ったままだ。

「この人は朝比奈さん大人バージョンだ。以前、お前も会ったことが、」と言いかけて、それは三年後のことなのだと思いだし、「いや、会うことになるんだ。でもまあ、朝比奈さんでちがいないから、別にいいよな」

 長門は朝比奈さん(大)をセンター試験の数学ⅡBの設問を見るような目で見て、次に客間のほうへと視線をすべらせ、また俺の後ろにかくれるようにしているグラマーな身体からだながめて、

りようかいした」

 かみらさない程度のうなずきを返した。

 長門の視線を追っていた俺は、やはりどうしてもそこが気になる。リビングルームのとなり、そこにふすまで仕切られた特別な部屋がある。

「開けていいか?」

 客間を指した俺に長門は頭をった。

「開かない。その部屋の構造体ごと時間をとうけつしている」

 残念のような、ホッとするような。

 首筋に暖かい息がかかった。朝比奈さん(大)のらしたやわらかないきである。彼女も俺と同じ感想をいだいたらしい。俺と仲良くまくらを並べて寝ている自分を見たら、朝比奈さん(大)は何を思うだろうか。いてみたい気もしたが、今は事情説明のほうが先だ。

「長門、たびたび押しかけて来てすまないんだが、とりあえず話を聞いてくれ」

 りんしつで凍結されてる『俺』はどこまで話したっけな。七夕事件までのSOS団史くらいか。なら今の俺はその後のことを話せばいい。ゆううつだった春以降に発生したハルヒの退たいくつしのぎアレコレを経由して、俺のためいきげんきようとなった映画さつえいとその後日談までの約半年間の物語だ。そう、そこには長門、お前もいてだな、俺はお前の行動に助けられたりあわてたり色々あったんだぜ。一昨日おととい目を覚ますまでな。それが何故なぜかなかったことになっちまってて、それで俺はここまで来たんだ。長門製きんきゆうだつしゆつプログラムの助けを借りてさ。

 しようさいを語り始めると何時間もかかりそうなので、俺はハルヒに語ったやつ同様のダイジェスト版をお送りした。細かいところは飛ばして、大まかなストーリーラインだけを語る。こいつにはそれでじゆうぶんなはずだ。

「……というわけで、俺がまたまた舞いもどってきたのは、お前のおかげなんだ」

 論よりしようとばかりに、ジャケットのポケットでしなびていたしおりを取り出した。ゆうれいにお札をわたすような気分で、そいつを長門に示してやる。

「…………」

 長門は栞を指先でつまみ上げ、表面のフラワーイラストを無視して裏の文字にひとみを落とした。はくの地層からえきしようテレビをり出してしまった考古学者のような目でそれを見ている。そのままいつまでも見ていそうだったので、質問で割り込んだ。

「どうすればいいんだ?」

「わ、わたしは異常な時空間をノーマライズしたいと思ってます」

 朝比奈さん(大)の声は、意中の男性に愛を告白するようなきんちよう感にまみれていた。長門に対してはいつもおっかなびっくりだった朝比奈さんの習性は、何年後かになっても変わっていないらしい。この時の俺はそう思った。

「長門さん……。あなたに協力して欲しいんです。改変された時間平面を元通りにできるのはあなただけなんです。どうか……」

 朝比奈さん(大)は神社の神体を拝むように両手を合わせて目を固く閉じた。長門大明神様、俺からもたのむよ。部室に朝比奈さんがいて、入れてくれたお茶を飲みながら古泉とボードゲームやってて、その横にお前がちようぞうみたいに本を読んでいる姿があって、そこにハルヒが飛び込んでくるような世界を復帰させて欲しい。俺の願いもそれなんだ。

「…………」

 栞から顔を上げた長門は、しんまなしでくうを見つめていた。朝比奈さんの緊張も理解できる。長門と意見が対立すれば勝つみこみはないのだろう。いったいこの世のだれが長門に太刀たち打ちできるのか。ハルヒくらいだ。

 防音設備の行き届いたマンションの部屋には、ほとんど何の音も届かない。時間が止まっているような静けさだった。長門の目が俺の目と合わされた。こうていの仕草。あの、ミリ単位での首の動きだ。

「確認する」

 と、長門は言い、何を確認するのかと問う前に目を閉じて、

「…………」

 待つまでもなくぶたを持ち上げ、やみ色の瞳が俺に向いた。

「同期不能」

 短い音の連なりを発して、俺をじっと見つめる。みように顔つきがちがって見えたのは多分、俺のさつかくではないと思う。春以降から夏にかけてのこいつの顔だ。古泉も気付いていた、出会った直後から微小な変化のじようにある長門の表情である。ただし冬までの長門には至っていない。

 あわくちびるうすく開き、

「その時代の時空連続体そのものにアクセスできない。わたしのリクエストをせんたく的にはいじよするためのシステムプロテクトがかけられている」

 意味はわからないが不安になる。おいおい、待ってくれよな。「手のほどこしようがない」とか言うんじゃないだろうな。

 長門は、そんな俺のをよそに、

「だが事情はあくした。再修正可能」

 そっと栞の文字を指でなぞる。そして、新雪が積もる音のような声で説明を始めた。

「その時空改変者は涼宮ハルヒの情報創造能力を最大利用し、世界を構成する情報を部分的に変化させた」

 聞き慣れた静かな声だ。あかぼう時代にきいたオルゴールのサビのように、俺の心にみ渡る。

「ゆえに改変後の涼宮ハルヒには何の力も残っていない。情報を創造する力はない。その時空には情報統合思念体も存在しない」

 よく解らないが、とてつもないことなのだろう。ハルヒの周辺にいた俺以外の人間たち、そのすべての過去を新しく生み出したのだから。女子校を共学にしたり、北高に通っていたやつの何割かをそっちに割りったり、それがちっともおかしくないように関係する人間すべてのおくを改変したり、『機関』の連中や宇宙人の長門と未来人の朝比奈さんにも違う人生を用意する。朝倉を再登場させ、北高の生徒からハルヒが存在したという記憶を消し、朝倉はいたがハルヒはいなかったという歴史を作り上げる。長門の親玉すら消してしまう。

 むちゃくちゃだな。

「涼宮ハルヒからぬすみ出した能力によって、時空改変者が修正した過去記憶情報は、三百六十五日間のはん

 つまり去年の十二月──俺が来た時間から見て──から、今年の十二月十七日までを改変したわけか。三年前の七夕──なんと今日だ──までは手が回らなかったんだな。おかげで助かった。ハルヒがあの七夕事件を覚えていたせいでここまで来れた。しかしいったい誰だ、そんなハルヒ並みのバカをやったのは。

 長門は俺から視線を外さず、

「世界を元の状態にもどすには、ここから三年後の十二月十八日へと行き、時空改変者がとうがいこうをした直後に、再修正プログラムを起動すればよい」

 じゃ、これから俺たちと三年後に行ってくれるんだな? 再修正をしてくれるのは、お前なんだろう?

「わたしは行けない」

 なぜだ?

 なぜなら、と長門は客間に指先を向けて、

「彼らを放置できない」

 そこでている俺と朝比奈さんの時間をとうけつし続けるには、この時空をはなれるわけにはいかないのだ、と解説する。長門は時報を告げるような声で、

「エマージェンシーモード」

「じゃ、どうしろってんだ」と俺。少しあせる。

「調合する」

 相変わらず説明不足の物言いだ。

 長門はゆっくりと眼鏡めがねを外すと、両手で包み込むように持った。見えない糸にられているように、眼鏡はてのひらの上にかんでいる。つうの人間がやるのを見れば本当に見えない糸が指からびているんだろうが、言うまでもなく長門はそんな普通のことはしない。

 ぐにゃり。

 レンズごとフレームがゆがんで、かいうずき模様になったかと思うと、いつしゆん前まで眼鏡だったその物体は別の物へと変化していた。見たことのある形状だ。あまりお世話になりたくないと思わせる、人間ならば本能的におそれおののくべき器具である。

 俺は躊躇ためらいつつ評した。

「でかい注射器のようだが……」

「そう」

 無色とうめいな液体がたんまりじゆうまんしている。そんなものでだれをどうしようというのだ。

「時空改変者に再修正プログラムを注入」

 俺は注射器から生えるするどい針を見て反射的に目をそむけた。

「あのさ……。もうちょっとおん便びんなやり方はないのか? 残念だが俺はすべての意味で無めんきよだ。す場所をちがえちまったら困るだろ」

 長門はにぎった注射器に電源の切れたえきしようディスプレイ色のひとみを向けていたが、

「そう」

 再び両手を開き、注射器を渦巻き状にして違う物を提示した。その形が何を表しているのかをさとって、俺は息をのんだ。

「またぶつそうな物を出してきたな……」

 今度はけんじゆうだった。ただし口径はやけに小さいしステンレスのような材質をしている。

 長門は金属こうたくも生々しい新品のモデルガンみたいな小銃を掌にせて差し出してきた。

「着衣の上からでも成功率は高いが、できれば直接皮下にち込むことが望ましい」

たまは? まさかじつだんじゃないだろうな」

 外観から察するにはアルミかプラスチック製のようだが。

「短針銃。針のせんたんにプログラムをしてある」

 太い注射器で刺すよりは心理的なていこう感は少ない。俺は銃を受け取って、あまりの軽さにおどろきながら、

「ところで」

 あえてかないでおいた質問をようやく発する。

「誰が犯人だ。世界を変えたのはどいつだ。ハルヒでないならそれは誰だって言うんだよ。教えてくれ」

 朝比奈さん(大)が小さく息を吸い込むのが聞こえた。

 長門はたんたんくちびるを開き、無表情にそいつの名を告げた。

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