第二章

 こごりに閉じこめられたような十二月十八日が終わり、次の一日が始まった。

 十二月十九日。

 今日から短縮授業に入る。本来ならもっと早くに短縮されるはずだったのだが、この前の全国模試で市立のライバル校に総合成績を追いかれたことにムカっ腹を立てた校長が、学力向上というお題目を唱えてへんこうしてしまったのだ。その歴史は変化しなかったようだな。

 変わったのは俺の周辺、北高、SOS団の周りだけか。何者かの的なもくみをはらうことができないまま登校すると、五組の欠席者数はさらに増えていた。谷口もとうとう四十度が出たかのか、姿がない。

 そして俺の後ろの席には今日もハルヒではなく朝倉がいて、

「おはよう。今日は目が覚めてる? だといいんだけど」

「まあな」

 仏頂面で俺は自分の机にかばんを置いた。朝倉はほおづえしながら、

「でもね、目が開いているだけではかくせいしてるってことにはならないのよ。目に映るものをしっかりあくして、それで初めて理解の助けになるの。あなたはどう? ちゃんとできてるかしら」

「朝倉」

 俺は身を乗り出して、朝倉涼子の整った顔つきに眼光を飛ばした。

「本当に覚えがないのか、しらを切っているのかもう一度教えろ。お前は俺を殺そうと思ったことはないか?」

 ふっと朝倉の顔がくもった。またあの病人を見るような目だ。

「……まだ目が覚めてないみたいね。忠告するわ。早めに病院に行ったほうがいいわよ。おくれにならないうちにね」

 それっきり口をつぐみ、俺を無視してとなりの女子と談笑を始めた。

 俺も前へと向き直り、ただうでを組んで空中をにらみつける。



 こういうたとえはどうだろう。

 とある所にとても不幸な人がいたとする。その人は主観的にも客観的にも実に見事なくらいの不幸な人で、さとりのおうきわめた晩年のシッダルタ王子でさえ目をらしてしまうような本質的な不幸を体現している人間である。その彼(彼女でもいいのだが、めんどいので彼にしておく)が、いつものように不幸にさいなまれながらのねむりにき、ふと翌朝目を覚ますと世の中が一変していたとしよう。そこはまさにユートピアと言っても言葉が足りないほどのらしい世界で、彼の上から不幸なるがいねんいつそうし、すべてにおいての幸福が彼の身体からだと精神にすきなくじゆうまんしている。もはやどんな不幸も彼の身に降りかかることはない。一夜にして彼はごくから天国へとだれかに連れて行かれたのだった。

 もちろんそこに彼自身の意思はかいざいしない。彼を連れ去ったのは彼の知らない誰かであり、その正体はまったくの不明なのだ。何を考えて彼をそのようにしたのかはわからない。きっと誰にも解らないであろう。

 さてこの場合、彼は喜ぶべきなのだろうか。世界が変化したことで、彼は不幸せではなくなった。しかしそれは彼の元いた世界とはみように異なる場所であり、何よりもこうなってしまった理由が最大のなぞとして残されるのだ。

 彼はそれでも幸福を得たことを最大の評価基準として、その何者かに感謝するのだろうか。

 言うまでもなくその彼は俺ではない。程度がちがいすぎる。

 あー……これは我ながら喩えが悪かったな。先日までの俺は別に不幸の底辺を極めていたわけじゃないし、今の俺がめったやたらに幸福なわけでもない。

 だが程度問題を度外視さえすれば、当たらずも遠からずと言ったところだ。これまでの俺はハルヒにまつわる変な出来事に神経を左右されていたし、それは現在の俺にとってはもはやえんのものらしいからだ。

 しかし──。

 ここにはハルヒはおらず、古泉もおらず、長門と朝比奈さんはつうの人間で、SOS団なんてものはかげも形も存在しない。エイリアンもタイトムトラベルもESPもなしだ。ましてやねこしやべったりすることもない、非常に普通の世界である。

 どうなんだ?

 これまでと、この今と、どっちのじようきようがよりふさわしいんだ。どちらが喜ばしい状態なのだろう。

 俺は、いま幸せなのか?



 放課後、習慣的に文芸部室へと足が向いていた。毎日同じことをり返していれば考えなくても身体が動くという典型的な自動的行動である。に入って体を洗う順番が特に決めてないのにいつしか機械的にいつしよになってしまうのと同じことだ。

 いつだって俺は授業が引けるとSOS団へと向かい、朝比奈さんのお茶を飲みつつ古泉とゲームをしつつハルヒのうわごとのようなトークに耳をかたむけていた。その習慣がたとえあくへきであったとして、むしろ悪癖だからこそいまさらやめろと言われても難しい。

 だが今日はちょっとふんが違う。

「これ、どうする?」

 歩きながら見ているのは白紙の入部届けだ。昨日の長門が俺にこれをくれたのは、文芸部に入部せよという意思表示だろう。しかし何故なぜ俺をさそったのかは解らない。ほかに部員がいなくてはいの危機だからか? にしても、とつぜん現れておそいかかり同然のことをした俺を入部させようとはいい度胸じゃないか。長門だけに、この間違っている世界でもどこかみようなのは変わりなしか。

「ひっ」

 部室とうへ行くちゆうで、また朝比奈さん鶴屋さんコンビとすれ違った。俺を見るなりビクッとして鶴屋さんにすがりつく愛らしい上級生に心を痛めつつ、俺はばやくおをして早足で立ち去った。もう一度あのかんを飲むことができる日常が来て欲しい。



 今度はノックして、小さな返答を聞いた。とびらを開けたのはそれからだ。

 部室にいた長門の視線が俺の顔面表皮を走りけ、また手元の本にもどる。眼鏡めがねをちょいと押さえた仕草がまるであいさつのように見えた。

「また来てよかったか」

 小さな頭がこくりとうなずく。しかし目下の関心は広げている本のほうにあるようで、それきり顔を上げない。

 俺はかばんをそこらに立てかけて、さてどうしようかと次の行動をさくしたものの、だがこの殺風景な部屋では手に取る小道具もそれほどなく、仕方がないのでほんだなながめた。

 全段びっしりと大小様々なしよせきが並んでいる。文庫やノベルスよりハードカバーが多いのは、この長門もまた厚物好きだからなのだろう。

 ちんもく

 長門相手の沈黙には慣れたはずの俺だが、今日のここにおいてはそれはちと苦痛だ。何か喋ってないと余計に不安になる。

「全部、お前の本か?」

 すぐさま反応が返ってきた。

「前から置いてあったのもある」

 長門は持っていたハードカバーの表紙を見せて、

「これは借りたもの。市立図書館から」

 市の所有物であることを示すバーコードシールがってある。ラミネート加工された表紙にけいこうとうの光がチラリと反射して長門の眼鏡をいつしゆんかがやかせた。

 それで会話しゆうりよう、再び長門は厚い書物のもくどくちようせんし、俺は居場所を見失う。

 沈黙がたまらなくまりだ。俺は話のを適当に探し、適当な言葉をいた。

「小説、自分で書いたりしないのか?」

 四分の三びようほど間があって、

「読むだけ」

 レンズにかくされがちの視線がパソコンを一瞬とらえたのを俺はのがさなかった。そうか、俺に見せる前の作業はそのためのものだったか。しように長門の書いた小説とやらが読みたくなる。こいつならいったい何を書くだろう。やはりSFかな。まさかれんあいものではないだろうな。

「…………」

 もともと長門とは会話が成立しにくい。それはこの長門でも変わりがないようだった。

 俺は再び本棚を相手に無言の行を開始する。

 何気なく背表紙を見ていると一冊の本に目が止まった。

 見覚えのあるタイトルだ。SOS団ぼつこう期の初っぱな、長門が貸してくれた海外SF大長編の一巻目で、おそるべき文字数をほこる本だ。そういやまだ眼鏡っだったあの時の長門は、を言わせず俺にこれを押しつけ「貸すから」と言ってさっさと立ち去ったのだった。読了までに二週間かかったよ。あれから何年もった気がする。色々ありすぎたさ。

 みようなつかしい思いが生じ、俺はそのハードカバーを本棚から引き出した。書店でもないのに立ち読みするのはに読むつもりがないからで、ぱらぱらと適当にページをめくって元の位置に戻そうとした俺のあしもとに、小さな長方形の紙切れがすべり落ちた。

「何だ?」

 拾い上げる。花のイラストが入ったしおりだ。本屋が勝手にふくろに入れてくれるような──栞?

 ぐるりと視界が回転したような気がした。そう……。あの時……。俺は自宅の部屋でこの本を開き……。この栞と同じ物を発見したのだ……。そして自転車に飛び乗った……。そのフレーズを俺はソラで暗唱できる。

 午後七時。こうようえん駅前公園にて待つ。

 息を止め、ふるえる手で裏返して──見た。


『プログラム起動条件・かぎをそろえよ。最終期限・二日後』


 ハードカバーから舞い落ちた栞には、いつかの伝言のような明朝体の文章が書いてある。

 とっさに俺は向き直り、三歩で長門のテーブル前に接近した。開かれていく黒いひとみえながら、

「これを書いたのはお前か?」

 差し出された栞の裏面を見つめて、ややあって長門は首をしやに構えた。そしてこんわくした顔で、

「わたしの字に似ている。でも……知らない。書いた覚えがない」

「……そうか。そうだろうな。いや、いいんだ。知ってたらこっちが困ってたところだ。ちょっと気になることがあってな。いーや、こっちの話で……」

 言いわけめいたセリフをこぼしながらの俺はまるで上の空にいるようだ。

 長門。

 やはりメッセージを残してくれてたか。無味かんそうな文字列だけでもうれしいぜ。これは俺がすっかりんだお前からのプレゼントでいいんだよな? じようきようを打破するヒントで合っているよな。でなければこんな思わせぶりなコメントは書かないだろう?

 プログラム。条件。鍵。期限。二日後。

 ……二日後?

 今日は十九日だ。今この瞬間から数えて二日後でいいのか、それとも世界がおかしくなった昨日からか。最悪それでいくとしたら期限は二十日、明日だ。

 単発的なきようが地面をスローペースでつたうようがんのようにじよじよに冷えていく。何だかわからないがプログラムとやらを起動させるには鍵とやらを集めるしかないらしい。でも鍵って何だ? どこに落ちてんだ? 何個いる? そろえたとしてどこに持っていけば記念品と引きえてくれるんだ?

 ハテナマークの群れが俺の頭上をせんかいし、やがて一つのきよだいハテナとなった。

 そのプログラムを起動すれば、世界は昔の姿に立ちもどるのか?



 取り急ぎ俺はほんだなの本をかたはしから出しては戻ししながら、他に栞がはさまってないかをかくにんした。長門のあっけにとられたような視線を浴びながら手間ヒマかけた結果、しゆうかくはゼロ。他になし。

「これだけか」

 まあ、多くを望んで色々土産みやげをもらったとして、その重みで立ち上がれなくなれば元のもくだ。目的地を定めず手当たりだいに動き回っても時間とライフゲージをろうするだけである。まずは鍵とやらに当たりをつけんといかん。まだ山頂には遠いが、かろうじて指針が見えてきた。

 俺はいいか悪いかたずねた上でテーブルに弁当を広げ、長門のはすかいで昼飯をいながら考えも広げた。長門はちらほらとこっちを見ているようだが、俺は機械的にはしを使い、脳みそに栄養をせっせと運び続けることを急務とする。

 いつしか弁当を喰い終わり、お茶をオーダーしようとして朝比奈さんがいないことに気づいたりしてらくたんしつつも考え続けた。ここが正念場だ。せっかくのヒントをにはできない。鍵だ鍵。鍵鍵……。

 そのまま二時間ほど思案に熱中しただろうか。

 俺は自分のバカさ加減にほとほとあいかす思いに満たされつつ打ちひしがれ、独り言をつぶやいた。

「まったく見当がつかん」

 だいたい鍵っつってもばくぜんとしすぎている。まさか本当にじように使うヤツではないだろうから、ここはキーワードとかキーパーソンとかのキーなのだろうが、そうは言ってもはんが広すぎる。アイテムなのかセリフなのか持ち運びができるのかできないのか、その程度の情報もオプションサービスで付け加えて欲しかった。栞を書いた長門の思考を読もうとしても、思い出すのはあいつが難しい本を読んでいる心象風景くらいのもので、有りがたくもまどろっこしい言説は俺の知る長門そのままである。

 ふと気になってななめ向かいを見ると、こっちの長門はねむりでもしているかのように動いていない。気のせいかもしれないが読んでる本のページも全然進んでいないように思える。だがすいではないしように、長門は俺がぼんやりながめているのに気づいて顔にほのかなしゆを差し込み始めた。こちらの文芸部員長門はどうやら極度の照れ屋なのか、人に注目されることに慣れていないかのどっちかだ。

 外見のそっくり同じむすめが見慣れない反応ばかりするので、俺はしんせんな気分となった。わざとじっくり観察してやる。

「…………」

 目のしようてんは本の文字上に合っているようだが何一つ読んでいないのは明らかである。長門はうすく開いた口で音もなく呼吸しており、薄い胸の上下運動もはっきり解るまでになってきた。弱々しげなほお周辺がますます赤くなっていく。本心を言うと、そんな長門はちょっと──いや、かなり可愛かわいかった。いつしゆんだけだが、このまま文芸部に入部してハルヒのいない世界を楽しむのも悪くないかなと思ったほどだ。

 しかし、まだだ。まだ投げ出すわけにはいかない。俺はポケットからしおりを出して折らないようににぎった。これをまぎれ込ませてくれたということは、三角ぼうをかぶって本読んでた長門はまだ俺に用があるのだ。俺にだってあるぞ。ハルヒの手製なべ料理を喰ってないし、朝比奈サンタもまだぶたに焼き付けていない。部室をデコレーションするのにいそがしくて古泉とのゲームはきようで中断している。あのまま進めば勝っていただろうから、俺は百円損したことになる。



 窓から西日が差し始め、かたむいた太陽が巨大なオレンジボールとなって校舎の背後にかくれようとする時間になっていた。

 じっと座っているのもつかれてきたし、これ以上しぼっても脳みそから有益なアウトプットを得られそうにもない。俺はを立って自分のかばんに手をばした。

「今日は帰るよ」

「そう」

 長門は読んでいたのかそうでないのか解らないハードカバーを閉じ、自分の通学鞄にしまい込んで立ち上がった。ひょっとして俺が言い出すのを待っていたのか?

 鞄を片手にげ、俺が歩き始めるまでそのまま立ち続けるかのごとく動かない身体からだに、

「なあ、長門」

「なに?」

「お前、一人暮らしだっけ」

「……そう」

 なぜ知ってるのかと思っているんだろうな。

 家族はいないのかとこうとして、まつがひそやかにせられるのを見て思いとどまる。調度品がほとんどない部屋を思い出した。最初に行ったのは七ヶ月前、気宇そうだいなスケールで語られるコズミックな電波話に色んな意味でビビった。次におとずれたのは三年前の七夕で、そん時は朝比奈さんをともなっていた。一度目より二度目のほうが時系列的には先ってんだから、俺も器用なことをしたものだ。

ねこでも飼ったらどうだ。いいぞ、猫は。いつもしまりのない態度でいるが、時たまこっちの言うことを解ってんじゃないかって気がするんだ。しやべる猫だっていても不思議じゃない。リアルにそう思うぜ」

「ペット禁止」

 そう言ってからしばらくだまって悲しげな目をしばたたかせていたが、ツバメの風切り音みたいな息を吸うともろい音声をき出した。

「来る?」

 長門は俺のつまさきを見ている。

「どこに?」と俺。

 俺の爪先が返事を聞いた。

「わたしの家」

 二分きゆうほどちんもくしてから俺は言った。

「……いいのか?」

 いったいどうしたことだろう。照れ屋なのかおくびようなのか積極的なのか全然解らん。この長門の精神状態はまるでいつかんしていない。それともこの時期の平均的な高校女子一年のメンタリティはクジラ座α星の変光周期並みに不規則なのか?

「いい」

 長門は俺の視線からげるように歩き出した。部室の電気を消し、とびらを開いてろうに姿を消す。

 そしてもちろん、俺も後を追った。長門の部屋。高級ぶんじようマンションの708号室。客間をのぞかせてもらうことにしよう。新たなヒントが見つかるかもしれない。

 もし、そこで別の俺がていたら、ただちにたたき起こしてやる。



 学校からの帰り道、俺と長門の間に会話はなかった。

 長門はまっすぐ前だけを向いて黙々と歩いているだけで、冷たく強い風にかれるような歩調で坂道を下り続けている。短い風で吹き乱れるはんなシャギーの入った後頭部をながめながら、俺もまた事務的に両足をたんたんと動かすのみだ。語りかけるべき言葉はあまりないし、なぜ俺をさそったのかは訊かないほうがいいような気がした。

 延々歩き続けてようやく長門が立ち止まったのは、例の高級マンションだ。ここを訪れるのは何回目だろう。うち長門の部屋に入ったのが二回、朝倉の部屋の前まで行ったのが一回、屋上にのぼったのが一回。

 長門はげんかんのキーロックに暗証番号を打ち込んでじようを解除し、そのまま後ろをり返ることなくロビーにあしを進めた。

 エレベータ内でも無言で、七階の八号室のドアにかぎを差し込み、開けて俺を招き入れるのもりだけで通した。

 俺も無言で上がり込んだ。部屋のレイアウトはおくのまま変化していない。殺風景な部屋である。リビングにはコタツ机が一つあるきりでほかに置かれている物はない。カーテンがないのも相変わらずだ。

 そして客間はあった。ふすまで仕切られた部屋がそれのはずだ。

「この部屋、見せてもらっていいか?」

 きゆうと湯飲みを持ってキッチンから出てきた長門に訊いてみた。長門はゆっくりまばたきしていたが、

「どうぞ」

「ちょっと失礼する」

 車輪でも付いているかのように襖はなめらかに開いた。

「…………」

 たたみしかなかった。

 まあ、そうだろ。そう何度も過去に行ったりしないよな……。

 俺は襖を元通りに閉めて、こちらを見守っていた長門に両手を開いて見せた。さぞかし意味のない行動に見えただろう。しかし長門は何も言わず、コタツ机に湯飲みを二つ置くとていねいに正座してお茶をつぎ始めた。

 その正面に俺は胡座あぐらをかいて座る。最初に来たときもこうだった。長門の入れるお茶をなんばいも無意味に飲んでいて、それからあの宇宙的一人語りを聞いたのだ。あれはやたら暑い新緑の季節のことで現在の寒さとはかくせいの感がある。今のほうが心だって寒い。

 差し向かいで黙々と茶を飲みながら、長門は眼鏡めがねの奥にあるひとみを下に向けていた。

 なにやら長門はちゆうちよしているようだ。口を開きかけては閉じ、意を決したように俺を見上げてはまたうつむき、という仕草をり返していたが、湯飲みを置いてしぼり出すような声で言った。

「わたしはあなたに会ったことがある」

 付け加えるように、

「学校外で」

 どこだ。

「覚えてる?」

 何を。

「図書館のこと」

 それを聞いて脳の奥にある歯車がきしむかのような音を立てた。図書館での長門と過ごした思い出がよみがえる。記念すべき不思議探しツアー第一だん

「今年の五月」

 長門は目をせながら、

「あなたがカードを作ってくれた」

 俺は精神的でんげきに打たれて動きを止めた。

 ……そうだ。そうでもしないとお前はたなの前から動こうとしなかったからな。ハルヒからの呼び出しがめいわく電話のようにかかってきていたし、急いで集合地点にもどるためにはそうするしかなかった……。

「お前、」

 しかし、続く長門の説明は俺の記憶にあるシチュエーションとは異なっていた。この長門の小さなポツポツ声によると──。

 五月半ばごろに初めて市立図書館に足をみ入れた長門だが、貸し出しカードの作り方がよく解らなかった。職員に一声かければ済むものの、少ない職員たちはだれもがいそがしそうにしている。また、引っ込み思案で口べたな自分にはその勇気がなかった。そうして、いたずらにカウンターの前をうろうろしているところを、見るに見かねたのだろう、通りすがりの男子高校生がすべての手続きを買って出て、代わりに全部やってくれた。

 それが、

「あなただった」

 長門の顔が俺の方を向き、半秒ほど視線を合わせてからまたコタツの上に落とされた。

「…………」

 この三点リーダは俺と長門のぶんだ。家具のないリビングにちんもくが戻り、俺もまた言う言葉がない。覚えているかという質問に答えようがないからだ。こいつの思い出と俺の思い出は変な具合にズレている。図書カードを作ってやったのは事実だが、たまたま通りすがったのではなく、そこまで長門を連れて行ったのは俺だ。見つかりようもない不思議たんさくパトロールをほうして、ひまつぶしの場所として図書館を行く先に選んだんだ。だまってついてくる長門の制服姿を忘れることは、いくら俺の物覚えがイソギンチャクの幼体程度だとしてもまだ無理である。

「…………」

 俺の無言をどう受け取ったのか、長門は少しだけ悲しそうにくちびるをゆがめ、細い指先で湯飲みのふちをなぞった。その指がほんのわずふるえているのを見て、いっそう何とも言えない気分になり、実際、何も言わなかった。

 覚えていると答えるのは簡単だ。あながちちがっていない。ただがあるだけだ。そしてこの場合、その齟齬こそが最大の難問なわけである。

 なぜ違ってしまったのか。

 俺の知っている宇宙人はどこに行ってしまった。しおりだけを残して。


 ぴん、ぽーん──。


 えいごうに続きそうな沈黙をかいしたのは、インターホンのベルだった。とつぜんの音に俺は座ったまま宙にきそうなくらいおどろいた。長門も驚いたのだろう、ビクッと身体からだを震わせてげんかんへとり向いた。

 再びベルの音。新たな来訪者か。しかし長門の部屋を訪ねてくるようなやつってのはいったい誰だ。集金人か宅配業者以外に考えつかんが。

「…………」

 長門は肉体からだつしたばかりのれいたいのような動きで立ち上がり、足音も立てずに部屋のかべぎわに移動した。インターホンのパネルを操作して、何者かの声に耳をかたむける。そして俺を振り返ってちょっと困った顔をしてから、

「でも……」とか「いまは……」とか、おそらく断りの言葉を細々とスピーカーに話しかけていたが、

「待ってて」

 押し切られたようにつぶやくと、すうっと玄関まで行ってドアのかぎを開けた。

「あら?」

 とびらかたで押しのけるようにして入ってきたむすめは、

「なぜ、あなたがここにいるの? 不思議ね。長門さんが男の子を連れてくるなんて」

 両手でなべかかげ持った北高の制服姿は、つまさきを戸口のゆかに押し当てて器用にくつぎ、

「まさか、ムリヤリ押しかけたんじゃないでしょうね」

 こいつこそ、なんだってここにまで登場するんだ。教室以外でお前の顔を見るなんて、想定外のシーンだぞ。

「わたしはボランティアみたいなものよ。あなたがいることのほうが意外だな」

 そう言って笑うしゆうれいな顔は、クラスの委員長で俺の後ろの席にいる奴だ。

 朝倉涼子がやって来た。



「作り過ぎちゃったかしら。ちょっと熱くて重かったわ」

 微笑ほほえんで朝倉は大きな鍋をコタツの上に置いた。この時季にコンビニ行けばたいていこのにおいがむかえてくれる。鍋の中身はおでんだった。朝倉が作ったのか?

「そうよ。大量に作ってもそう手間のかからない物は、こうして時々長門さんにも差し入れるの。ほうっておくと長門さんはロクな食事をしないから」

 長門はキッチンで皿とはしの用意をしていた。食器のれ合う音がする。

「それで? あなたがいる理由を教えてくれない? 気になるものね」

 答えにきゆうした。来たのは長門にさそわれたからだが何を思って誘ったのかがよくわからない。図書館の話をするためか? そんなの部室でもできただろう。俺はと言うとここに鍵だか何だかのとっかかりがあるかと思ってホイホイとやって来たのだが、それをそのまま言うわけにはいかない。また頭の心配をされるのがオチだ。

 俺の口はデマカセをしやべった。

「あー、ええとだ。長門とは帰り道にいつしよになって……。そう、俺はいま文芸部に入ろうかどうかなやんでいる。そいつをちょっと相談しながら歩いてたんだ。そうしているうちにこのマンションの近くまで来たからさ、話の続きもあるしで、上がらせてもらった。無理にじゃないぜ」

「あなたが文芸部? 悪いけど、全然ガラじゃないわね。本なんて読むの? それとも書くほう?」

「これから読むか書くかしようかどうかを悩んでいたんだよ。それだけだ」

 コタツの上ではふたの取られた鍋が食欲をそそるかおりを四散させている。ダシじるから見えかくれするたまごがいい色になっていた。

 左ななめ前に正座する朝倉がみような視線を向けている。視線に質量があったら、俺のこめかみに小さな穴が開いているような、そんな険を感じるのは俺の気の回しすぎだろう。以前の朝倉はちゆうさつじんと化したが、この朝倉のりんとした態度の裏には確立された自信らしきものがほのえる。きっとこのおでんだってどこで食べるよりも美味にちがいない。それが俺にはプレッシャーだった。目下のところ俺にはあらゆる意味で何の自信もない。ただ右往左往しているだけだからな。

 やりきれない気分になって、俺はかばんを手にして立ち上がった。

「あら、食べてかないの?」

 するような朝倉の声に無言でもって答え、俺はリビングからしのび足で出ることにした。

「あ」

 台所から出てきた長門としようとつしそうになる。長門は重ねた小皿に箸と練りカラシのチューブをせていた。

「帰るよ。やっぱじやだろうしな」

 じゃな、と立ち去りかけた俺のうでに、羽毛のようにやんわりとした力が加わった。

「…………」

 長門が、俺のそでをそっと指でつまんでいる。まるで生まれたばかりのあかぼうハムスターをつまみ上げようとしているような、小さな力だった。

 今にも消えそうな表情だ。長門はうつむいて、ただ指だけを俺の袖に触れさせている。俺に帰って欲しくないのか、朝倉と二人でいるのがまりなのか、だがこの消え入りそうな長門の姿を見ているとどっちでもよくなってきた。

「──と思ったが、う。うん、腹が減って死にそうだ。今すぐ何か腹に入れないと、家までちそうにないな」

 やっと指がはなれた。なんとなく名残なごりしい。長門の明確な意思表示なんてつうだったらまず見れない。希少価値がある。

 リビングにもどった俺を見て、朝倉は解っていたとでも言いたげに目を細めた。



 俺の味覚はウマいとぜつきようしていたが、心の奥底では何喰ってんだか解っていないような気分でひたすらおでんの具を口に詰め込んでいた。長門はちまちました食べ方でこんかじり終えるのに三分くらいかけていて、その場で明るく話しているのは朝倉だけで、俺は生返事に終始している。

 そんなごくの門前でビバークしているような食事風景が一時間ほど続き、カチコチにかたった。

 ようやく朝倉はこしを上げ、

「長門さん、余った分は別の入れ物に移してかられいとうしておいて。なべは明日取りに来るから、それまでにね」

 俺もそれにならう。ばくから解放された気分だ。あいまいにうなずいていた長門は、うつむいたまま俺たちをドアまで見送りに来た。

 朝倉が先に出たのを確認して、

「それじゃあな」

 俺は戸口の長門にささやいた。

「明日も部室に行っていいか? 放課後さ、ここんとこ他に行くところがないんだよ」

 長門は俺をじっと見つめ、それから……。

 うすく、だが、はっきりと微笑んだ。


 目眩めまいがした。


 エレベータで降りている最中さなか、朝倉はふくみ笑いをかべて言った。

「あなた、長門さんが好きなの?」

 きらいなわけはない。好きか嫌いで言えば前者だが、もともと嫌いになる理由なんかまったくない。命の恩人でもあるのだ。そうさ。朝倉、お前のきようじんから救ってくれた長門有希を、俺が嫌うはずはないだろうが。

 ……とは言えなかった。この朝倉はあの朝倉ではないようだし、長門だってそうだ。ここでは俺だけが気を違えているようで、みんな普通の人間になっちまっている。SOS団はここにはない。

 俺が答えないのをどう思ったか、美人の同級生は軽く鼻で笑った。

「そんなわけないか。あたしの考え過ぎよね。あなたが好きなのはもっと変な子なんでしょうし、長門さんには当てはまらないわ」

「どうして俺の好みを知ってんだ」

「国木田くんが言ってたのを小耳にはさんだのよ。中学時代がそうだったんだって?」

 あのろう、いい加減なことを言いふらしやがる。そいつは国木田のかんちがいだ。聞き流しとけよな。

「でも、あなた。長門さんと付き合うんなら、まじめに考えないとダメよ。でないとわたしが許さないわ。ああ見えて長門さんは精神のモロいだから」

 朝倉が長門を気にかけるのは何故なぜだ。俺の居た世界の朝倉は長門のバックアップだったからまだ解る。まあ、最後にはトチくるって消されてしまったが。

「同じマンションに住んでいるよしみ。なんとなく、ほうっておけない気分なのよね。彼女をながめているとあやうい気分になるの。つい守ってあげたくなるような、ね」

 解るような、解らないような。

 会話はそれだけで、朝倉は五階でエレベータを下りた。505号室だっけな。

「また明日ね」

 俺に向けられた朝倉のがおを、閉じていくとびらが閉め出した。

 マンションから出ると、暗い外の空気はせいせん食品用貯蔵庫のように冷え切っていた。き下ろしの風が身体からだから熱と熱以外の何かをうばい去っていく。

 管理人のじーさんにあいさつでもしようかと思ったが、やめた。管理人室のガラス戸は固く閉ざされていたし、電気も消えていた。ちまってるんだろう。

 俺もさっさとねむりにつきたい。夢の中だけでもよかった。あいつなら他人の夢に出てくることだって無意識にやってのけるだろう。

「いてもいなくてもめいわくなんだから、かんじんなときくらい出しゃばってこいよな。たまには俺の願いを聞いてくれてもいいだろうが……」

 夜空に語りかけている最中、自分が何を思っているかに気づいてがくぜんとして、そんないまいましいことを考えてしまった頭をどこかに打ち付けたくなった。

「なんてこった」

 いたセリフが白い息となって散っていく。


 俺はハルヒに会いたかった。

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