第一章

 朝、俺はいつものように妹の必殺とんはぎによって、かたわらで毛布にくるまっていたねことともに目覚めさせられた。母親の命令を忠実に実行する朝一番のかく、それが妹である。

「朝ご飯はちゃんと食べろって、お母さんが」

 にこにこと言いながら、妹はベッドにわだかまるねこき上げて耳の後ろに鼻先をつけた。

「シャミも、ご飯できてるよ」

 文化祭以降、我が家の飼い猫になったシャミセンは、ぼんやりした顔であくびをして、ぺろりと前足をなめた。この元おしゃべり猫だったオス三毛猫は、すっかり言葉を失って単なるあいがん動物の地位を我が家に築いていた。今思えばこいつが人間語を話したというのは聞きちがいだったのかと思うくらい、一ぴきのどこにでもいる猫と化している。人語とともに猫語も忘れたのか、ほとんどと言っていいほど鳴かないのはやかましくなくていいのだが、どういうわけか俺の部屋をどこにしているので、シャミセンにかまいたがる妹があししげくやってくるようになったことには閉口する。

「シャミー、シャミー。ごっはんだよー」

 調子ハズレな節をつけて歌いながら、妹は猫を重そうに抱いたまま部屋を出て行く。俺は朝の冷気にはだあわてつつ時計の時刻をにらみつけていたが、暖かいベッドへの未練をすべてほうこしを上げた。

 そしてえと洗面を終えるとダイニングに下り、五分で朝食を済ませて妹より二足ほど先にげんかんを出た。今日も順調に寒い。

 ここまではだん通りだった。



 例によって坂道を上っている俺の目に、見覚えのある後頭部が映った。十メートルほど先行しているその姿は、谷口のもので間違いない。いつもは快調に登山道をんでいるくせに今日はやけにゆっくり歩いている。たちまち追いついた。

「よう、谷口」

 たまにはこっちからかたたたいてやるのもいいだろう、と思ってそうしてやったのだが、

「……む、キョンか」

 声がやけにくぐもっているのも当然で、谷口は白いマスクを装着していた。

「どうした? 風邪かぜか?」

「ああ……?」谷口はダルそうに、「見ての通り風邪状態だ。本当は休みたかったんだが、おやがうるさくてな」

 昨日まで元気いっぱいだったのに、とつぜんの風邪があったもんだ。

「何言ってやがる。昨日も調子はよくなかったぞ。ゲホゲホン」

 き込む谷口の弱りかけの様子には見慣れないだけにこっちのリズムもくるうな。しかし、昨日も風邪気味だって? 俺には普段通りのお調子者に見えたが。

「ん……そうだったか? 調子がよかったつもりはないんだが」

 首をひねる谷口に、俺は意地悪く笑いかけて言った。

「イブの予定をうれしそうに語ってただろ。まあ、デートまでには治せよ。そんなチャンスはめつとうらいしないだろうからな」

 しかし谷口はますます首を捻り、

「デートだあ? なんのことだ。ゲホ。イブに予定なんかねえぞ」

 なんのことだはこっちのセリフだ。光陽園女子の彼女はどうしたんだ。ひょっとして昨日の晩にでもフラれたか。

「おい、キョン。マジでおめーは何言ってんだ? そんなもん俺は知らねえ」

 谷口はむっすり口をつぐんで、また前を向いた。どうやら風邪のしようじようふしぶしに効いているらしく、弱っているのは演技ではなさそうだ。それにこの分ではデートがご破算になったのも当たりだったようで、そりゃへばりもするよ。せいのいいことを言っていた手前、俺と顔を合わせるのも心苦しかろう。そうかそうか。

「気を落とすな」

 俺は谷口の背中を押してやり、

「やっぱなべ大会に参加するか? 今ならまだ間に合うぞ」

「鍋ってなんだ? どこでする大会だよ、それ。聞いた覚えはねえな……」

 ああ、そうかい。しばらくは何を言っても耳をどおりするくらいショックだったのか。ならば俺は手を引こう。すべては時間というだいなるゆうきゆうの流れが解決してくれるさ。何も言わないことにしてやるよ。

 のろのろ歩きの谷口に付き合って、俺もゆっくりと坂を上り続けた。

 この時点で気づくのは、さすがにまだ無理だった。



 おどろいたことに、いつのまにか一年五組には風邪がまんえんしているようだった。れいぎりぎりに教室に入ったってえのに空席がいくつもあるし、クラスメイトの二割程度に白マスクが流行している。全員のせんぷく期間と発症時期が同期を取ったとしか思えない。

 もっと驚いたのは、俺の真後ろの席が一時間目が始まっても空席のまま取り残されていることだった。

「なんと、まぁ」

 ハルヒまで病欠してんのか。今年の風邪はそんなにタチが悪いのか? あいつの体内にしんにゆうする勇気ある病原体がいようとは、ましてやハルヒがさいきんだのウイルスだのに敗北をきつするとは、にわかには考えがたい出来事だ。何か新しいわるだくみを思いついて、そのための下準備をしているといったほうがまだなつとくできる。鍋以外にもまだ何かあるのだろうか。

 どうにも教室内の空気が寒々しいのはエアコンがないせいでもなさそうだ。突然にして欠席者が増えるとはな。なんだか五組の総人口までもが目減りしているような気さえする。

 ハルヒの気配が背後からせまってこないってのもあるが、なんとなく空気がちがっている感じがした。

 そうしてまんぜんと授業をこなし、順当に昼休みになる。

 俺が冷え切った弁当箱をかばんから取り出していると、国木田が昼飯片手にやって来て俺の後ろの席に着いた。

「休みみたいだから、ここに座ってもいいよね」

 タッパウェアを包むナプキンをほどきつつ言う。高校で同じクラスになって以来、こいつと昼飯をうのが半ば習慣化されている。もう一人の昼飯仲間、谷口はと探してみると、今日は学食なのか教室にはいなかった。

 俺はを横向きにして、

「なんか風邪がいきなり流行はやりだしているな。うつされなけりゃいいんだが」

「んん?」

 ちようめんに広げたナプキンの上にタッパを置き、中身をぎんしていた国木田は、怪訝けげんな表情をして俺を見返した。はしをカニばさみのように動かしながら、

「風邪なら一週間前から流行のきざしを見せていたよ。インフルエンザじゃないみたいだけど、かえってそっちのほうがよかったかもね。今は特効薬があるから」

「一週間前?」

 弁当のホウレン草入り卵焼きをバラす手を止め、俺は聞き返す。

 先週のいまごろだれかが風邪菌をき散らしていたようなこうはなかったように思う。欠席者はいなかったはずだし、授業中にせきをしているやつだっておくにない。一年五組の誰もが健康体に見えたのに、俺の視界のおよばぬはんでひそかにびようは進行していたと言うのか。

「あれ? けっこう休んでいる人もいたけどなあ。キョンは気づかなかったのかい?」

 まったく気づかなかった。本当の話か、それは?

「うん、本当。今週に入っていよいよヒドくなったね。学級へいけたいよね。冬休みがけずられそうな気がするし」

 ふりかけご飯を口に運ぶ国木田は、

「谷口もここんとこしんどそうにしてるなあ。親父さんの方針が病は気力で治せってもんだから、四十度をさないと学校休めないみたいだよ。悪化する前に何とかしたほうがいいと僕は思うね」

 俺は箸を止めた。

「国木田。すまんが、俺には谷口がしんどそうにしているのは今日からだと思うんだが」

「え、そんなことないよ。今週の初めにはもうあんな調子だったじゃん。昨日の体育も見学してたしさ」

 だんだん混乱してきた。

 待て、国木田。何を言ってるんだお前は。俺が覚えている限り、昨日の体育の授業では谷口はアッパー系のドラッグをやってんじゃねえかってくらいはつらつとサッカーの紅白戦に出てたぞ。敵チームにいた俺が何度も奴の足元にスライディングタックルを決めてやったから間違いのないことだ。彼女のできた谷口をひがんでのことではないが、今日のことを知っていればえんりよはしていただろうな。

「そうだっけ。あれえ? おかしいな」

 国木田はキンピラゴボウのにんじんを取り分けながら、首をかたむけた。

「僕の見間違いかなぁ」

 のんきな口調である。

「うーん、でも後で谷口にいたらわかることだよね」

 今日はいったいどうしたことだ。谷口も国木田も、なんだかもやに包まれたようなことを言ってる上、ハルヒなんか欠席している。ハルヒを除く全人類が困るようなことがまた発生しようとしている前兆ではないだろうな。あるわけのない俺の第六感がけいかい警報をピリピリ発令し始め、首筋の裏側あたりにみような冷気が走った。



 その通り。

 俺のかんも捨てたものではない。それはまさしく前兆だった。勘で解らなかったのは、困るのは誰かってところだ。ハルヒを除く全人類……ではなく、この事態が発生しているのに気づいて困ったのは意外にもたった一人だけだった。そいつ以外の全人類は別に困りはしない。なぜなら事態の発生自体に気づくはずもないからだ。にんしきの外にあるものを認識することは決してできないのである。彼らにしてみれば世界は何も変わっていなかった。

 では誰が困ることになったのか。

 言うまでもない。

 俺だ。

 俺だけがこんわくの中で立ちつくし、ぼうぜんとしたまま世界に取り残されることになったのだ。

 そう、やっと俺は気づいた。

 十二月十八日の昼休み。

 形をともなった悪い前兆が、教室のドアを開いた。



 わあ、というかんせいが教室前部のドア付近にいた数人の女子から上がった。入ってきたクラスメイトの姿を確認しての声らしい。わらわらと群がるセーラー服姿のすきから、重役出勤してきたそいつの姿がちらりとのぞく。

 通学かばんを片手にぶら下げたそいつはけ寄ってきた友人たちにがおを向けて、

「うん、もうだいじようよ。午前中に病院でてんてき打ってもらったらすぐによくなったわ。家にいてもヒマだから、午後の授業だけでも受けようと思って」

 風邪かぜよくなった? という一人の質問に答え、やわらかく微笑ほほえんだ。それから短い談笑を終えると、セミロングのかみらしながら、ゆっくりと……こちらに──歩いて──来た。

「あ、どかないと」

 国木田がはしをくわえてこしかせる。俺はと言うと、声帯の発声機能を丸ごと全部ぼつしゆうされたように、むしろ酸素を呼吸することすら忘れて、そいつの姿をぎようしていた。無限の時間のようにも感じたが、実際はそう何歩も歩いていなかっただろう。足を止めたとき、そいつは俺のすぐ横に立っていた。

「どうしたの?」

 俺を見ながら不思議そうな口調でじようとういた。

ゆうれいでも見たような顔をしているわよ? それとも、わたしの顔に何かついてる?」

 そしてタッパを片づけようとしている国木田に、

「あ、鞄をけさせてもらうだけでいいの。そのまま食事を続けてて。わたしは昼ご飯食べて来たから。昼休みの間なら、席を貸しておいてあげる」

 言葉の通り、その女子生徒は鞄を机横のフックに掛けると、友人たちが待ちわびる輪の中へ身体からだひるがえした。

「待て」

 俺の声はさぞヒビ割れていたことだろう。

「どうしてお前がここにいる」

 そいつは、ふっとり返り、すずしげな視線を俺にした。

「どういうこと? わたしがいたらおかしいかしら。それとも、わたしの風邪がもっと長引けばよかったのに、っていう意味? それ、どういうことなの?」

「そうじゃない。風邪なんかどうでもいい。それではなくて……」

「キョン」

 心配げに国木田が俺のかたをつついている。

「本当に変だよ。さっきからキョンの言ってることはおかしいよ、やっぱり」

「国木田、お前はこいつを見て何とも思わないのか?」

 まんできずに俺は立ち上がり、不可解なものを見る目で俺を見ているそいつの顔を指さした。

「こいつがだれだが、お前も知ってるだろう? ここにいるはずのないやつじゃねえか!」

「……キョンさあ、ちょっと休んでただけでクラスメイトの顔を忘れちゃったりしたら失礼だよ。いるはずのない、ってどういうこと? ずっと同じクラスにいたじゃん」

 忘れやしないさ。かつての殺人すいはんを、仮にも俺を殺そうとした奴の顔なんてものをぼうきやくするには半年とちょっとは短すぎる。

「解ったわ」

 そいつはとびっきりのじようだんを思いついたような笑みを広げた。

「お弁当食べながらうたたしてたんでしょう。悪い夢でも見てたんじゃない? きっとそうよ。そろそろ目が覚めてきた?」

 れいな顔をほころばせ、「ねえ?」と国木田に同意を求めているそいつは、俺ののうに焼き付いていまはなれない女の姿をしていた。

 様々な映像がフラッシュバックする。夕焼けに染まった教室──ゆかに長くびるかげ──窓のないかべ──ゆがんだ空間──振りかざされるナイフ──うっすらとした笑み──さらさらくずれ落ちる砂のようなけつしよう……。

 長門との戦いに敗れてしようめつし、表向きはカナダに転校したことになった、かつての委員長。

 あさくらりようが、ここにいた。



「顔を洗ってきたらすっきりするわよ。ハンカチ持ってる? 貸してあげようか」

 スカートのポケットに手を入れた朝倉を俺は手で制した。出てくる物がハンカチだけとは限らない。

「いらん。それよりどういうことか教えろ。何もかもをだ。特にどうしてお前がハルヒの席に鞄を置くのか言ってくれ。それはお前の机じゃない。ハルヒのだ」

「ハルヒ?」

 朝倉はまゆを寄せ、国木田に問いかけた。

「ハルヒって誰のことなの? そんなあいしようの人がいたかしらね」

 そして国木田もまた、絶望的な回答をよこした。

「聞いたことないなあ。ハルヒさんねえ。どんな字を書くんだい?」

「ハルヒはハルヒだ」

 と俺は目眩めまいを感じながらつぶやいた。

「お前たち、涼宮ハルヒを忘れたのか? どうやったらあんなやつを忘れることができるんだ……」

「涼宮ハルヒ……うーんとね、キョン」

 国木田はいたわるような声で、ゆっくりと俺に、

「そんな人はこのクラスにはいないよ。それにこの席はこの前のせきえのときから朝倉さんの席なんだよ。どっかほかのクラスとかんちがいしてるんじゃないの? でもなあ、涼宮っていう名前には全然聞き覚えがないなあ。一年にはいないと思うけど……」

「わたしのおくにもないわね」

 朝倉も俺に病気りようようすすめたがっているようだ。やさしいねこなで声で、

「国木田くん、ちょっと机の中を見てくれる? はじっこのほうにクラスめい簿があるわ」

 国木田が取り出した小冊子を俺はひったくった。一番に開くのは一年五組のページ。女子の名前が並ぶ列に指をわせる。

 えきさかなかすずのう……。

 鈴木と瀬能の間にどんな名前もない。涼宮ハルヒの名前がクラス名簿から消えている。誰をさがしてるんだ、そんな奴はハナっからいねーぜとページが語りかけているようで、俺は名簿を閉じて目も閉じた。

「……国木田、たのみがある」

「何だい?」

ほおをつねってくれ。目を覚ましたい」

「いいの?」

 思い切りやられた。痛かった。そして目は覚めない。ぶたを開けたとき、朝倉はまだそこにいてくちびるで半円を作っていた。

 何かが起こっている。

 気がつけば俺たちはクラス中の注目の的になっていた。まるでジステンパーにかんした年老いたノラ犬を見るような視線が俺に集中している。くそ、なぜだ。俺は何一つ間違ったことを言ってないぞ。

「ちくしょう」

 俺は近くにいた数人に、二つの質問を浴びせて回った。

 涼宮ハルヒはどこだ。

 朝倉涼子は転校したはずだ。

 得られた答えはまったくかんばしくなかった。全員はかったように、

「知らない」

「してない」

 と答えて、俺の目眩はき気をともなうまでになる。きようれつな現実そうしつ感覚のしゆうげきを受け、近くの机に手をついて身体からだを支えなければならなかった。精神のどこかが打ちくだかれたような気がした。

 朝倉が俺のうでに手をかけて、心配そうにのぞき込む。そのかみからただよかぐわしいかおりが、俺にはやくのように感じられる。

「保健室に行ったほうがいいみたい。具合のよくないときって、そういうこともあるわ。きっとそうよ。風邪かぜの引きはじめなんじゃないかしら」

 違う!

 大声でわめきたい。おかしいのは俺じゃない。このじようきようだ。

「放してくれ」

 朝倉の手をはらって、俺は教室の出口へと向かった。はだばくぜんと感じていた感が、頭の中にしんとうしていく。とつじよとしてまんえんした風邪、谷口とのかみ合わない会話、名簿から消えたハルヒの名前、朝倉の登場……だと? ハルヒがいなくなる? だれも覚えていない? そんなわけあるか。この世界はあいつを中心に回ってるんじゃなかったのか。宇宙規模の要注意人物、それがあいつじゃなかったのか。

 もつれがちの足をしつげきれいし、俺は這うようにろうへ進み出た。

 まっさきに思い出したのは長門の顔だ。あいつなら事情を説明してくれる。もくばんのうの宇宙人アンドロイドである、あの長門有希ならば。いつでもあいつはすべてを解決してくれた。長門のおかげで俺は生きていると言っても過言ではない。

 長門なら。

 この俺をきゆうから救い出してくれるだろう。

 長門のクラスは近い。走るまでもなく数秒でとうちやくした。何も考えることができないまま、俺はドアを開けてがらなショートカットの姿を探す。

 いない。

 だが絶望にはまだ早い。昼休みのあいつはたいてい部室で本を読んでいる。教室にいないからと言って、長門までが消え去ったと考えるのは早計だ。

 次に思いかんだのが古泉だった。旧館にある文芸部室はここからでは遠い。朝比奈さんの二年教室も向かいの校舎だ。一階下の一年九組に行くのが早い。古泉いつ、ちゃんとそこにいろよ。これほど古泉のニヤケづらを見たかったことはない。

 廊下を小走りでけ、階段を三段抜かしで飛び降り、校舎のすみにある一年九組を目指しながら、俺はそこにちようのうりよくろうがいることをいのった。

 七組の前を通り過ぎ、八組も通過した先、そこに一年九組が……。

「……なんなんだ、これは」

 やっとの思いで立ち止まり、もう一度かべかっているプレートを見直す。一年八組のひだりどなりが七組。そして八組のみぎどなりには──。

 非常階段に続くおどだけがあった。

 ない。かげも形も。

「いくらなんでも、これはないだろう……」

 古泉はおろか。

 九組自体がなくなっていた。



 参るしかない。

 昨日まであったはずの教室がないなんて誰が想像する? 人間一人が行方ゆくえ不明になったわけじゃないんだぞ。クラスの全員が消え去り建物自体が縮んでいる。とつかん工事でも一夜では無理だ。九組の連中はどこに消えた?

 あまりのぼうぜんにより、俺は時間の感覚を失っていた。どれだけそこに立ちつくしていたか、背をかれてようやく意識を取りもどしたものの、俺は教科書をかかえたマシュマロマンみたいな生物教師の声を上の空で聞いた。

「何してるんですか。授業はもう始まっています。教室に戻りなさい」

 休み時間しゆうりようを告げるチャイムすら聞こえていなかったらしい。廊下には他に誰もおらず、七組の教室からは教師の張り上げる声だけがわずかにひびいていた。

 よろよろと俺は移動を開始する。前兆を見定める時間は終わった。もう起こってしまったのだ。いるはずのないやつがいて、いなければいけないやつがいない。朝倉一人にハルヒと古泉および九組の生徒たちでは、こうかんするにもまるで尺があわない。

「なんてこった」

 俺がくるったのではないんだとしたら、ついに世界が狂ったのだ。

 誰がそれをした?

 ハルヒ、お前か?



 おかげで午後からの授業をまったく何一つ聞けやしない。どんな声も物音も俺の耳をどおりし、脳さいぼうに何の情報を植え付けることはなく、気がつけばホームルームさえ終わって、とうに放課後になっていた。

 俺はおそれていた。後ろの席でシャーペンを走らせている朝倉よりも、ハルヒと古泉が学校にいないってことにだ。誰かに改めてかくにんすることすら、もうたまらなくイヤである。「そんなやつ、知らん」と言われるたびに、俺はずぶずぶと底の見えないしようたくしずんでいくだろう。から立ち上がる気力もなかなかチャージされない。

 谷口はあっさりと、多少は俺のことを気にしていた国木田も帰り道につき、朝倉は女子数人で笑いさざめきながら教室を後にした。出がけにり返り俺によこした目には、元気のないクラスメイトを本気でづかう光があって、ますますくらくらする。おかしい。何もかもが。

 そう当番の連中に引きずられるようにして、俺はようやくかばん片手にろうに足をみ出した。

 どのみち放課後の俺の居場所はここではない。

 そしてしようぜんと階段を下り、一階にたどり着いた俺は、そこで一筋の光明を見いだして走り出した。

「朝比奈さん!」

 こんなうれしいことが他にあるか。俺の女神けん眼精ろう回復薬が対面から歩いてくる。なお喜ばしいのは、その童顔グラマラス美少女の隣に鶴屋さんの姿まであることだ。あまりの喜びに気が遠くなりかけた。

 ──もうちょっとしんちようになっておくべきだったと思う。

 我ながら異常な速度で二人の上級生に駆け寄って、俺は目を見開く朝比奈さんのりようかたをがっしとばかりにわしづかみにした。

「ひえっ!」

 きようがくする顔は見えていたが、俺の口は勝手にしやべった。

「ハルヒがいないんですよっ! 古泉なんかひようりゆう教室になってます! 長門はまだ確認してませんが、朝倉がいて、どうも学校の様子自体が変なんです。あなたは俺の朝比奈さんですよね!?」

 ぽと、ごん。朝比奈さんが持っていた鞄と習字セットがゆかに落ちる音だ。

「えっ? あっ、ひっ。えっ。ちょ、その……」

「だから、あなたは未来から来た朝比奈さんですよね!?」

 対して朝比奈さんは、

「……未来って? 何のことでしょう。それより放してくだ……さい」

 胃の奥がキュウとなる。朝比奈さんが俺を見る目は飼い慣らされたインパラが野生のジャガーを見る目そのものだった。明らかなきようの色である。それこそ俺が最も恐れていた色だ。

 がくぜんとしていると、片手がぐいとひねり上げられた。関節がイヤな音を立てる。痛え。

「ちょいとっ少年!」

 鶴屋さんが俺の手に古流武術系のわざほどこしていた。

「いきなりはダメだよっ。ごらん、うちのみくるがすっかりおびえてるよっ」

 声は笑っていたが目がきく一文字なみにしんけんそのものだった。見ると確かに朝比奈さんは、うるうるしたひとみこしを引かせている。

「みくるファンの一年かい? 物事には手順てやつがあるんだよっ。先走りはよくないなあっ」

 今日何度目かの精神的寒気が背骨をすべり下りた。俺は片手をうでがらみに取られた体勢のまま、

「あの、鶴屋さん……?」

 鶴屋さんは俺をえる。まるで知らない他人を見るように。

 あなたもなのか、鶴屋さん。

「あれ。あたしを知ってるの? ところで僕ちんはどなたかなあ。みくるの知り合いかいっ?」

 見たくないものを見てしまった。鶴屋さんのかげで縮こまっていた朝比奈さんは、俺をまじまじと見つめてプルプル首を振ったのだ。

「しし、知らないです。あ、のう。ひとちがいじゃあ……」

 そろそろ一年も終わりだが今期絶望宣告をくらった感じがして目の前が暗くなる。誰に何を言われようと俺はこたえないだろうが、朝比奈さんにそう言われるのは、幼少のころあこがれていた年上の従姉妹いとこが男とけ落ちして以来のショックだった。

 朝比奈さんに朝比奈さんと呼びかけて人違いもくそもない。この朝比奈さんがどっか別にいる朝比奈さんであるのなら話は別だが……あ、そうだ。彼女が本当に俺の知っている朝比奈さんかどうか、判別する方法があるじゃないか。

「朝比奈さん」

 自由なほうの手で自分のむなもとを指差した。動転していたとしか思えない。俺は次のように口走っていた。

「あなたの胸のここらへんに星形のホクロがあるはずです。ありますよね? できたらそれ見せてもらえれば──」

 思いっきりなぐられた。

 朝比奈さんに。グーで。

 俺の放ったセリフにキョトンとした朝比奈さんは、みるみるうちに赤くなり、次になみだを目にめて、それからゆるやかで不器用なモーションでもって右ストレートを俺の顔面にさくれつさせ、

「……っう」

 嗚咽おえつのような声をらして駆け去った。

「あっ、みくるっ。しょうがないなあ。ねえ少年、あんまりオイタしちゃダメにょろよ。みくるは気が小さいからね! 今度何かしたら、あたしがはついちゃうからねっ」

 最後に俺の手首をイヤと言うほどキツくにぎり、床に落ちた鞄と習字セットをかかえると鶴屋さんは朝比奈さんの後を追って走り出した。

「待ちなーっ、みくるーっ」

「…………」

 ぼうぜんと見送る俺の頭の中ではらしがいていた。

 終わりだな、もう。

 明日まで命がつだろうか。朝比奈さんを泣かせちまったということが学校内に知れわたれば、勢い込んでおそってくるやつは枚挙にいとまがないと思われる。立場が逆なら俺だってそうするさ。辞世の句の用意をしていたほうがいいかもしれない。



 いよいよ打つ手がなくなってきた。ハルヒのけいたいに電話してみてももどってくるのはオペレーターの『現在使われておりません』だけ、自宅の番号は記録もおくもしていないしめい簿からはハルヒの名前ごとまつしようされている。家まで出向くことも考えたが、よくよく思い出せば俺はあいつの家に行ったことがない。ハルヒが俺んちまで来たことはあるのに不公平だとか思ってももうおそい。

 消えせた九組はともかく、古泉とハルヒがどこかにいやしないかと職員室にも行っていてみた。ざんなものだ。涼宮ハルヒという生徒はどのクラスにもざいせきしていない。古泉一樹なる転校生はこの学校に来ておらず存在もしたことがないときやがった。

 処置なしだ。

 手がかりはどこにある。これはハルヒによる人さがしゲームか? 消えた自分の所まで辿たどり着けという、そんな遊びなのだろうか。だが何のために。

 俺は歩きながら考え込んだ。朝比奈さんのいちげきの効果か、少しは頭が冷えてきた。カッカしていてもいいことはない。こういう時こそ冷静に、冷静に。

たのむぜ」

 つぶやきをいて俺が向かう先はただ一つ。最後のとりでであり最終絶対防衛ライン。ここがかんらくしたら一巻の終わり、打ち切りしゆうりようだ。

 部室とうつうしよう旧館にある文芸部部室。

 そこに長門がいなければ、俺に何ができるというのだろう。

 故意にゆっくりと歩き、時間をかけて部室へと移動する。数分後、古ぼけた木製とびらの前に立った俺は胸に手を当ててしんぱくすうかくにんする。平常運転にはほど遠いが昼休みよりはマシになっている。異常のれんいすぎて、だんだん感覚がしてきたのかもしれない。こうなったらもうヤケである。最悪の結果を予想しつつやみくもに前進するしかない。

 俺はノックを省略し、勢いよく扉を開いた。

「…………!」

 そして見た。

 パイプに座り、長テーブルのかたすみで本を広げているがらひとかげを。

 驚いた表情で口を開け、眼鏡のレンズ越しに俺を凝視する長門有希を。



「いてくれたか……」

 あんの息ともためいきともつかぬものを吐き出しながら後ろ手に扉を閉めた。長門はいつものように何も言わず、にもかかわらず俺は手放しで喜べなかった。朝倉との一件以来眼鏡めがねをかけなくなったのが俺のである長門有希だ。しかるに、ここにいる長門の顔には、かつてこいつがかけていた眼鏡が今もある。改めて思うが長門は眼鏡のないほうがえがするな。俺のしゆではさ。

 それに、そんな表情は似合わない。まるで全然知らない男子生徒にいきなり飛び込まれて不意を突かれた女子文芸部員のような顔じゃないか。なぜ驚くんだ。そんな感情から一番はなれているのがお前の特色じゃなかったのか。

「長門」

 朝比奈さんとのことにりていた俺は、突っ込みがちな上半身をなるたけおさえてテーブルに近寄った。

「なに?」

 長門は動かずに返答した。

「教えてくれ。お前は俺を知っているか?」

 すっとくちびるを結び、長門は眼鏡のツルを押さえてしばらくちんもくの時を過ごした。

 俺があきらめたほうがいいかと出家先を考え始めていると、

「知っている」

 そう答えた長門は、俺の胸の当たりに視線を注いでいる。希望がわいてきた。この長門は俺の知る長門なのかもしれん。

「実は俺もお前のことなら多少なりとも知っているんだ。言わせてもらっていいか?」

「…………」

「お前は人間ではなく、宇宙人に造られた生体アンドロイドだ。ほうみたいな力をいくらでも使ってくれた。ホームラン専用バットとか、カマドウマ空間へのしんにゆうとか……」

 言いながら早くもこうかいの念が押し寄せてきた。長門は明らかに変な顔になっている。目と口を開き、俺のかたぐちくらいに視線をさまよわせていた。俺と目を合わせるのをおそれているような気配が長門の周囲にひようりゆうしている。

「……それが俺の知っているお前だ。ちがったか?」

「ごめんなさい」

 耳を疑うようなことを長門は言った。なぜ謝る。どうして長門がこんなセリフを吐く。

「わたしは知らない。あなたが五組の生徒であるのは知っている。時折見かけたから。でもそれ以上のことをわたしは知らない。わたしはここでは、初めてあなたと会話する」

 最後の砦は、もろくも風化した砂上のろうかくとなってくずれ落ちた。

「……てことは、お前は宇宙人じゃないのか? 涼宮ハルヒという名前に何でもいい、覚えはないか?」

 長門は「宇宙人」と唇を動かして面食らったように首をかたむけた後、

「ない」と言った。

「待ってくれ」

 長門でダメならだれたよれないことになる。生まれたてのツバメのひなが親鳥に見捨てられたようなものだ。こいつに何とかしてもらうしか俺の正気を確保する機会はない。このままでは俺がくるったことになる。

「そんなはずはないんだ」

 だめだ、またもや冷静さが失われようとしている。頭の中で三原色の流星群が乱れ飛んでいるような混乱状態。俺はテーブルをかいして長門のそばに歩み寄った。

 白い指が本を閉じる。分厚いハードカバー。タイトルを見て取るゆうはない。長門は椅子から立ち上がると、俺から退くように一歩後ろに下がった。みがきたての黒いしみたいな二つのひとみまどうようにれ動く。

 俺は長門の肩に手を置いた。朝比奈さん相手に失敗したばかりだが過去をかえりみる余裕も失われていた。げられたくなかった一心だ。それにこうしてつかんでないと、そのうち知り合いすべてが手のひらからこぼれ落ちてしまうのではないかと俺は恐れた。これ以上誰を失いたくもない。

 制服しに伝わる体温を手で受け止めながら、俺はそむけられたショートヘアの横顔に言った。

「思い出してくれ。昨日と今日で世界が変わっちまってる。ハルヒの代わりに朝倉がいるんだよ。この選手交代を誰がさいはいした? 情報統合思念体か? 朝倉が復活しているんだからお前も何か知ってるはずだ。朝倉はお前の同類なんだろう? 何のたくらみだ。お前ならわかりやすくなくとも説明はできるはずだ──、」

 これまでそうだったように、と続けようとして俺は飲み込んだ液状のなまりが胃腸に広がっていく感覚を覚えた。

 このつうの人間のようなリアクションは何だ。

 固く目を閉ざした長門の横顔、とうのように白かったほおしゆが差している。うすく開いた唇から小刻み版溜息のような息をき、ふと気づくと俺がつかんでいるきやしやな肩は、寒さにこごえる子犬のようにしんどうしていた。ふるえる声が耳に届く。

「やめて……」

 我に返った。いつしか長門はかべに背を付けており、つまり俺は無意識のうちに長門をそこまで追い込んでしまっていたようだ。なんてことを俺はしている。これではまるで暴漢じゃないか。誰かに見られでもしたらそつこく後ろに手が回ると同時に社会的制裁を受けること必至だ。二人きりの文芸部室でおとなしい女子部員におそいかかったどうちくしようろう。客観的に見てそれ以外の何者でもない。

「すまなかった」

 両手をホールドアップして俺は力なく、

ろうぜきを働くつもりはないんだ。かくにんしたいことがあっただけで……」

 足がよろける。俺は近くにあったパイプを引き寄せてみずげ直後のなんたいるいのようにぐんにゃりとこしを下ろした。長門は壁にくっついたまま動かない。部室を飛び出して行かなかっただけぎようこうだと思わねばならないな。

 改めて部屋内部に視線を周回させると、ここがSOS団秘密基地などではないことが一目で理解できる。この部屋にあるのはほんだなとパイプ椅子数個、折りたたみ式長テーブルとその上に置いてある旧式のデスクトップパソコンのみで、それもハルヒのかんけいによってコンピュータ研からだつしゆしてきた最新機種ではない。それより三世代ばかり旧型だ。あれと比べたら二頭立て馬車とリニアモーターカーくらいの能力差があるだろう。

 当然ながら「団長」と書かれたさんかくすいも置かれるべき団長机もなかった。冷蔵庫も様々なコスプレしようられたハンガーラックもない。古泉が持ち込んだ各種ボードゲームもなく、メイドもいなければサンタのまごむすめもいない。ナッシングアットオール。

「ちくしょう」

 俺は頭をかかえた。ゲームオーバーだ。もしこれが何者かの精神こうげきなら、それはまんまと成功している。めてやるぜ。で、誰の実験だこれは。ハルヒか、情報統合思念体か、見えざる新たな世界の敵か……。

 五分くらいそうしていたように思う。どうにか気を取り直すフリだけして、俺はこわごわと顔を上げた。

 長門はまだ壁に張り付いて俺にこくたんのような目を向けていた。眼鏡めがねがちょっとズレている。天に感謝したいことがあるとすれば、長門の瞳にいているのがおびえやおそれではなく、死に別れたはずの兄とはんがいぐうぜん再会した妹のようなしきさいだったことだろうか。少なくとも通報されることはなさそうだ。きようこう状態の中にあって、ほんの少しだけ安心する要素である。

 座ったらどうだ、と言いかけて、俺は長門の椅子をうばっていたことを発見した。座席をゆずってやろう。それより別の椅子を出したほうがいいか。いや、俺の近くに座りたくはないかもしれない。

「すまん」

 もう一度謝って俺は立ち上がった。たたんだ状態で立てかけてあったパイプ椅子を持ち、部屋の中央へと移動する。長門からじゆうぶんきよだと判断したところで椅子に座り、引き続き頭を抱えることにする。

 ここはただのれいさい文芸部だ。五月のあの日、せいぎよかない工業用ロボットみたいなハルヒに力ずくで連れてこられ、長門と初顔合わせした時分の俺が見た部屋模様である。その時ここにはテーブルと椅子と本棚と長門しか付属していなかった。雑多なものが増え始めたのはそれからだ。「これからこの部屋が我々の部室よ!」とハルヒが宣言してからなのだ。コンロやヤカンやなべや冷蔵庫やパソコンが備わったのは……。

「うん?」

 俺は頭をおさえる手を浮かす。

 待て、何が備わったって?

 ハンガーラック、給湯ポット、きゆう、湯飲み、食器、古いラジカセ……。

ちがう」

 SOS団のアジトとなる前の部室にはなく、以後の部室にはあり、かつ今のこの部屋にもあるものを探せ。

「パソコンだ」

 確かに種類は違う。電源コードしかゆかってないので多分ネットにもつないでいない。しかし注意をかんされるものと言えばこれしかない。間違い探しのゆいいつの解答だ。

 長門は立ったままだった。そんなに気になるのか、俺をずっとながめていたようだ。しかしこちらが顔を向けると、すかさず視線を床に落とす。注意深く見れば頬のあたりがまだあわく色づいている。ああ……長門。これはお前ではないんだな。お前が顔を紅潮させて困ったように目を泳がすことなんてないものな。

 無理かもしれないができるだけけいかいされないように俺は自然をよそおって立ち上がった。

「長門」

 パソコン背面を指で差し、

「それ、ちょっといじらせてもらっていいか?」

 長門は顔をおどろかせ、しばらくしてこんわくがありありと解る表情に変化して、俺とパソコンを三度こうに見ていたが、大きく息を吸った後、

「待ってて」

 ぎこちない動作で椅子をパソコン前まで持っていき、本体の電源スイッチを押してから座った。

 OSが立ち上がるまでには買ったばかりのホットかんコーヒーがねこの飲みごろ温度になる時間が必要だった。リスが木の根をかじっているような音がやっと終わると、長門はマウスをばやく操作し、俺の推測ではいくつかのファイルを移動ないしさくじよしているようだ。あまり人に見せたくないものがそこにあったのだろう。気持ちは解る。俺だってMIKURUフォルダをだれにも見られたくない。

「どうぞ」

 か細い声で長門は俺を見ずに言い、また椅子からはなれてへきめんしようとなった。

「悪いな」

 席に着いた俺はさっそくモニタをのぞき込み、知る限りのあらゆるテクニックを使してMIKURUフォルダとSOS団サイトファイルを探し求め、徒労感がかたを落とさせた。

「……ねえか」

 どうやっても繋がりを見つけることができない。ハルヒがここにいたというしようがどこにもない。

 先ほど長門のかくしたデータが何だったろうかとも思ったが、かんするような視線が俺の背後から届いている。見られてはマズいものを発見されそうになるや、そくに電源コードを引きこうと身構えているような気配である。

 俺は席を立った。

 手がかりはこのパソコンにはないのだろう。本当に見たかったのは朝比奈画像集でもSOS団ウェブサイトでもない。ハルヒと俺がへい空間にとらわれてしまったときに出現したような、長門のヒントメッセージが表示されるんじゃないかと思ったのだ。その期待はざんに投げ捨てられた。

じやしたな」

 ろうした声で告げて俺はとびらに向かった。帰ろう。そしててしまおう。

 ここで意外なことが起こった。

「待って」

 長門はほんだなすきからわらばんを引っこ抜き、ためらいがちに俺の前に立つ。そして俺のネクタイの結び目あたりを見ながら、

「よかったら」

 片手を出してきた。

「持っていって」

 わたされたのは白紙の入部届けだった。



 さて。

 せめてもの救いは今まで散々非常識な目にっておいてよかったということだ。でなけりゃ、とうにカウンセラーの姿を求めて走り回っているにちがいない。

 じようきようかんがみると俺の頭がバッドな感じにオシャカになったか世界の気が違っちまったかのどちらかだが、今の俺は前者の可能性をほぼはいじよできる。いつだって俺は正気で、世界に転がるしんばんしように対するツッコミ役をにんしているのだ。おかしくなっている世界にホラ、こうしてツッコミを入れることだってできるぞ。なんでやねん。

「…………」

 俺は長門ばりにちんもくする。色々な意味でうすら寒い。カラ元気にも限度はある。

 長門は単なる読書好き眼鏡めがねになってるし、朝比奈さんは見知らぬ上級生、古泉なんかはどこで学生をやっているのか、北高に転校もしてきていない。

 何なんだよ、これは。

 俺に最初からやり直せって言うのか? それにしては季節が変じゃねえか。リセットしてまた初っぱなから……つうのなら、高校生活初日にもどしてくれてもいいだろう。誰がリセットボタンを押したのかは知らんが、時間の流れはそのままにかんきよう設定だけ変えちまってもオロオロするだけだぞ。現にすっかりろうばいしまくっている。この役どころは朝比奈さんのものじゃなかったのか。

 それにあいつはどこにいる。俺だけをこんな所におっぽり出しておいて、あのアホはどこでのうのうと生活しているんだ。

 ハルヒはどこだ?

 お前はどこにいる。

 早く姿を現してくれ。不安になるじゃねえか。

「……くそ、何で俺があいつの姿を探さないといけないんだ」

 それともハルヒ、ここにお前はいないのか。

 かんべんしてくれよな。どうして俺がこんなことを思うのかは俺にだってわからないが、お前が出てこないと話にならんだろうが。俺だけにこんなゆううつためいきな気分を押しつけるのは筋違いだぞ。何を考えていやがった。

 王墓作りの材料となるきよだいな石をかついで坂を上っている職業れいの気分を味わいながら、俺は渡りろうから見える寒々としたうすぐもりの空を見上げる。

 ポケットの入部届けがカサリと音を立てた。



 自宅の部屋に戻った俺をむかえたのはシャミセンと妹だった。妹はじやに笑いながらせんたんにモジャモジャの付いた棒をって、ベッドに寝そべるシャミセンの頭をぺたぺたたたいている。シャミセンはめんどくさそうに目を細めつつ、時折手を出して妹の相手をしてやっていた。

「あ、おかえりー」

 妹はがおで俺を見上げて、

「晩ご飯もうすぐだって。ごはんだにぁあ、シャミー」

 シャミセンも俺を見上げたが、すぐあくびをして妹のり出すねこじゃらし作戦に投げやりな応戦をした。

 そうか、まだこいつらが残っていたな。

「おい」

 俺は猫じゃらし棒をうばい取ると、それで妹のデコをパスンと叩いた。

「ハルヒを覚えているか? 朝比奈さんでもいい。長門は? 古泉は? いつしよに草野球して、映画に出たことはないか?」

「なーに、キョンくん。知らぁなぁい」

 次に俺はシャミセンをき上げ、

「この猫はいつからこの家にいるんだ? だれが連れてきた」

 妹はもともと丸い目をさらに円に近づけ、

「んーと先月。キョンくんが持ってきたよ? でしょ。外国に行っちゃうトモダチからもらったんだよね。ねぇシャミー」

 俺の手から三毛猫をむしり取ると、妹はいとおしそうにほおずりし、ねむそうに目を細めるシャミセンがさとりきったような顔で俺をながめた。

「貸せ」

 再び猫をだつしゆする。品物のようにやりとりされてめいわくそうにヒゲをふるわせるシャミセンには後でかんそうえさむくいてやることにする。

「俺はこいつと話がある。二人きりでな。だからお前は部屋を出て行け。今すぐだ」

「えー。あたしもお話ししたい。ずるいよキョンくん。え?……シャミとおしゃべり? え? ほんとに?」

 俺は問答無用で妹のこしかかえると部屋の外にほうり出し、「絶対開けるな」と厳命してドアを閉じた。直後、

「おかーさーん。キョンくんがー頭おかしくなってるよー」

 ひょっとしたら本当かもしれないことをさけびながら階段を下りていく妹の声が聞こえる。

「さあ、シャミセン」

 俺はあぐらを組んで、ゆかにちょこんと座る貴重なオス三毛猫に言った。

「以前、俺はお前に絶対しやべるなと言った。だがそれはもういい。むしろ喋ってくれたほうが今の俺は安心する。だからな、シャミセン。何か喋れ。なんでもいい。てつがくネタでも自然科学ネタでもいい。解りやすくなくていい。喋ってくれ」

 シャミセンは俺を退たいくつそうに見上げていたが、心底退屈になったのかちゃっちゃとづくろいを始めた。

「……俺の言ってることが解るか? 喋ることはできないがヒアリングはできるとか、そんなんか? だったらイエスの場合は右まえあしを、ノーの場合は左前脚を出してくれ」

 手のひらを上向けてはなづらきつける。シャミセンはしばらく俺の指のにおいをくんくんといでいたが、やはりというか、何も言わず何の意思表示もすることなく、毛繕いにもどった。

 そうだろうな。

 こいつが喋ったのは映画さつえいの間、それも短い間だけだ。クランクアップと同時にこいつはつうの猫になっちまった。る遊ぶくらいしか動詞を持ち合わせていない、当たり前の猫である。

 一つ解った。ここは猫が喋るような世界ではない。

「あたりまえだろ」

 だつりよくして寝転がりながら俺は手足をばした。猫は喋ったりしない。だからおかしかったのはシャミセンが口をきいたあの時のほうで、つまり今はおかしくない。だが本当にそうか?

 いっそ猫になってしまいたい。そうしたら何を考えることもなく本能のままに過ごせるだろうのに。

 妹が晩飯の完成を告げに来るまで、俺はそうしていた。

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