地球をアイスピックでつついたとしたら、ちょうど良い感じにカチ割れるんじゃないかというくらいに冷え切った朝だった。いっそのこと、むしろ率先してカチ割りたいほどだ。
とはいえ寒いのも当然で、それは今が冬だからだ。一ヶ月ちょい前の文化祭までがやたら暑かったと思えば十二月になった途端(、ど忘れを思い出したかのように急激に冷え込みやがり、今年の日本には秋がなかったことを身にしみて実感する。誰(かが商売繁(盛(の判じ物を呪(文(と勘(違(いしたんじゃないだろうな。シベリア寒気団の連中も、たまにはルートを変(更(すればいいのに。こう毎年やってくることもないだろう。
地球の公転周期が狂(ってやしないかと、俺が母なる大地の健康を気(遣(いながら歩いていると、
「よっ、キョン」
追いついてきた軽(薄(な男が水素並みに軽い調子で俺の肩(を叩(いた。立ち止まるのはおっくうなので振(り返るだけにした。
「よう、谷(口(」
と俺は返答し、また前を向いて遥(かな高みにある坂のてっぺんを恨(めしく眺(める。こんな坂道を毎日のように上っているんだから、体育の授業なんざもっと削(ってもいいんじゃないか? 毎朝がハイキングの通学路を歩く学生への心配りを担任岡(部(他(の体育教師ももっとするべきだ。どうせ自分たちは車で来てるんだし。
「何をジジむさいこと言ってんだ。早足で歩け。いい運動だぜ。身体(が暖まるだろ。俺なんか、ほら見ろ、セーターも着てねえ。夏場は最悪だが、この季節にはちょうどいいぜ」
やたら元気なのはいいことだが、その素(となるのは何だ。俺にも少し振りかけてくれ。
谷口はしまらない口元をニヤリとゆがめ、
「期末テストも終わっただろ。おかげで今年中に学校で学ぶことなんかもう何もねえよ。それよりもだ、素(晴(らしいイベントがもうすぐやってくるじゃねえか!」
期末テストなら全校生徒に対して平等に降りかかり、平等に終わった。不公平なのは採点されて戻(ってきた解答用紙に書き込まれている数字くらいのものだろう。
俺はそろそろ予備校の心配をし始めた母親の様子を思い出しながら気分を暗(澹(とさせた。来年、二年になれば、クラス分けは志望校に沿って行われる。文系か理系か、国公立か私立か。さあ、どうしような。
「そんなこと後で考えりゃあいい」谷口は笑い飛ばした。「もっと別に考えることがあるだろ? 今日が何月何日がお前知ってるか?」
「十二月十七日」と俺。「それがどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもねえ。一週間後に胸が躍(るような日がやってくるのを、お前は知らんのか?」
「ああ、なるほど」俺は正解を思いついた。「終業式だな。確かに冬休みは心待ちするに足りるイベントだ」
しかし谷口は、山火事に出くわした小動物のような一(瞥(をみまい、
「違うだろ! 一週間後の日付をよーく思い出してみろ。自(ずと解答にたどり着くだろーが」
「ふん」
俺は鼻を鳴らして、もわっと白い息を吐(いた。
十二月二十四日。
解(ってたさ。来週に誰かのでっち上げか陰(謀(のような行事があるってことくらい、とっくにお見通しだ。誰が見(逃(しても俺が見逃せようはずもない。俺以上にこの手のイベントをめざとく発見する奴(が近くの席に座っているのだからな。先月ハロウィンを見過ごしてしまったことを残念がっていたし、何かやるつもりなのは間違いない。
いや、実は何をやるのかも知っている。
昨日、部室で、涼(宮(ハルヒは確かにこう発言した…………。
「クリスマスイブに予定のある人いる?」
扉(を閉めるなり鞄(を投げ出したハルヒは、オリオンの三連星のような輝(きを瞳(に浮(かべながら俺たちを睥(睨(した。
その口調には、「予定なんかあるわけないわよね、あんたたちももうちゃんと解ってるでしょ?」みたいな言外のニュアンスが込(められているようで、イエスとでも答えようものならたちどころにブリザードを呼び寄せかねない勢いであった。
その時、俺は古(泉(につきあってTRPGをやっているところであり、朝(比(奈(さんはほとんど普(段(着(となりつつあるメイド衣(装(で電気ストーブに手をかざし、長(門(はSFの新刊ハードカバーを指と目だけを動かして読んでいた。
ハルヒは鞄の他に持っていた大きな手(提(げバッグを床(に置き、俺のそばにつかつかとやってくると胸を反らして見下ろす視線をよこし、
「キョン、もちろんあんたは何にもないわよね。訊(かなくても解るけど、いちおう確(認(してあげないと悪いような気がするから訊いてあげるわ」
世界一有名な猫(のような笑いを浮かべている。俺は転がそうとしていたダイスを、いわくありそうな微(笑(をたたえる古泉に手(渡(して身体をハルヒへ向けた。
「予定があったらどうだってんだ。まずそれを先に言え」
「ってことは、ないのね」
勝手にうなずいて、ハルヒは俺から視線をはずした。おい、ちょっと待てよ。まだお前の質問に答えてないぞ。……まあ、何の予定もないのは今回に限ったことでもないのだが。
「古泉くんは? 彼女とデートとかするの?」
「そうであったらどれほどいいことでしょう」
手のひらでサイコロを転がしつつ、古泉は芝(居(じみた吐(息(を漏(らした。実にわざとらしい。イカサマの香りがプンプンする。
「幸か不幸か、クリスマス前後の僕のスケジュールはぽっかりと空いています。どうやって過ごそうかと、一人で思い悩(んでいたところですよ」
そう言いつつ微笑するハンサム面(に俺は嘘(吐(けとか思う。しかしハルヒはあっさりと信じ込み、
「悩むことはないわ。それはとても幸せなことだから」
次にハルヒが舳(先(を向けたのはメイド少女の姿へである。
「みくるちゃん、あなたはどう? 夜(更(けすぎに雨が雪へと変わる瞬(間(を見に行こうとかって誰(かに誘(われてない? ところで今時そんなことをマジな顔で言う奴が本当にいたら殴(っちゃっていいわよ」
大きな双(眸(を見開いてハルヒを見つめていた朝比奈さんは、いきなりの詰(問(にビビクンとしてから、
「いえ、そ、そうですね。今のところ何も……。ええと、夜更けすぎ……? あ、それよりお茶を……」
「とびっきり熱いやつをお願いね。この前のハーブティーってやつがおいしかったわ」
注文するハルヒに、
「は、はい! さっそく」
お茶を入れるのがそんなに楽しいのか、朝比奈さんは顔を輝かせてカセットコンロにヤカンをかけた。
満足げにうなずきつつ、ハルヒは最後の一人となった長門に言った。
「有(希(」
長門はページから顔を上げずに短く答えた。
「ない」
「よね」
小鳥の囀(りのように端(的(な会話を終え、ハルヒは改めて俺に偉(そうな笑(みを向ける。俺は我関せずといった具合に本を読み続ける長門の白(皙(の顔を見て、そんな当(意(即(妙(に答えなくてもいいものを、と少しばかり思った。ちょっとはスケジュールを思い出すフリくらいすればいいのに。
ハルヒは片手を振(り上げると、
「そういうことで、SOS団クリスマスパーティの開(催(が全会一(致(で可決されました。異論や反論があるならパーティ終(了(後に文書で提出しなさい。見るだけなら見てあげるわよ」
つまり何があっても言い出したことを取り消したりはしないってことであり、とうに見慣れた展開でもある。言葉通りに一応だったが、全員の予定を聞いて回ったあたりは半年前くらいに比べると進歩と言えなくもない。それが予定でなく全員の意思であったらなおさらよかったのだが。
すべてがシナリオ通りに進んでいると言いたげな満足顔で、ハルヒは置いていた手提げバッグに手を突(っ込んだ。
「でさ。せっかくのクリスマスシーズンなんだから、いろいろ準備もしないといけないでしょ? そう思ってグッズを用意してきたの。こういうのは雰(囲(気(作りから始めるのが正しいイベントの過ごしかただわ」
そうして出てきたのは、スノースプレー、金や銀のモール、クラッカー、ミニチュアサイズのツリー、トナカイのぬいぐるみ、白い綿、電(飾(、リース、赤と緑の垂れ幕、アルプス山脈が描(かれたタペストリー、ゼンマイで動く雪だるま人形、ぶっといローソクとキャンドル立て、幼(稚(園(児(なら入れそうな巨(大(クツシタ、クリスマスソング集入りCD……。
子供にお菓(子(を配る近所のお姉さんみたいな笑顔で、ハルヒは次々とクリスマスっぽい品物を登場させてはテーブルに並べ、
「この殺風景な部室をもっとほがらかにするの。クリスマスを積極的、かつ前向きに味わうためには形から入るのが初心者向けね。あんたも子供の頃(にこんなことしなかった?」
するもしないも、後もう少ししたら俺の妹の部屋がクリスマス仕様になる。今年もその手伝いを母親に命じられるだろう。ちなみに当年取って小学五年生十一歳になる我が妹は、どうやら未(だにサンタ伝説を信(仰(しているようだ。俺が人生のかなり初期に見(抜(いてしまった両親の巧(妙(なる偽(装(工作にまだ気づいていないのである。
「あんたも妹さんの純真な心を見習いなさい。夢は信じるところから始めないといけないのよ。そうでないと叶(うものも叶わなくなるからね。宝くじは買わないと当たらないわ。誰かが一億円の当たりクジをくれないかなあなんて思ってても、絶対そんなことないんだからね!」
ハルヒは嬉(しそうに怒(鳴(るという器用な技(を見せながら、パーティ用の三角帽(を取り出して自らかぶった。
「ローマに行けばローマの、郷にいれば郷のしきたりに従わないといけないのよね。クリスマスにはクリスマスのルールに則(るわけ。誕生日を祝われてイヤな気分になる人間なんてそうそういないからね。ミスターキリストだってあたしたちが楽しそうにしているのを見て喜ぶわ、きっと!」
さすがに、生まれた年すらよく解っていないキリスト生誕日にまつわる諸学説をここでそらんじるほど俺は空気の読めない人間ではない。それにキリスト誕生推定日が複数あるなんてことを言えばハルヒのことだ、「だったらそれ全部をクリスマスにしたらいいじゃない」とか言い出して、年に何回もツリーを持ち出すハメになりかねないし、いまさらA.D.の始まりが前(倒(しされても困るだけだし、太陽暦(だろうが古代バビロニア暦だろうが所(詮(は人間の勝手な都合だし、広大な宇宙を黙(々(と回る天体たちは別に何を気にすることもなく寿(命(の果てるまでそうやっていることであろう。ああ、宇宙はいいなあ。
などと大宇宙の神秘について思わず少年心をくすぐられる俺に夢想の猶(予(も与(えず、ハルヒは部室内をサービス精神旺(盛(なパンダのようにウロウロしながら、部屋のあちこちにクリスマス用小物を置いて回り、読書中の長門の頭にも三角帽を載(せ、スノースプレーをしゃかしゃか振ってガラス窓に『Merry Xmas!』と書き殴(った。
いいけど、それ、外から見たら鏡文字になってるぞ。
そうこうしているうちに、ティーカップをお盆(に載せた朝比奈さんがクルミ割り人形のようによちよちとやってきた。
「涼宮さーん、お茶入りましたよ」
メイドスタイルで微笑(む朝比奈さんの姿は今日も極(上(で、何度見てもそのたびに新(鮮(な潤(いを俺の心に届けてくれる。たいていハルヒが何かを言い出すごとに悲(惨(な目に遭(う朝比奈さんも、今度のクリスマスパーティには不安を覚えていないらしい。バニーでビラ配りやセクハラな衣(装(で映画に出ることに比べたら、団員全員でこぢんまりしたパーティを楽しむことなど実際的純(粋(的に楽しげなことだしな。
だが、本当にそうか?
「ありがと、みくるちゃん」
機(嫌(良くハルヒはカップを受け取って、立ったままハーブティーをずるずるすすり込む。その様子を邪(気(のない笑顔で見守る朝比奈さん。
わずか数十秒で熱々の液体を飲み干し、ハルヒは先ほどまでの笑顔をさらに二乗にした。
イヤな予感がするね。何かいかがわしいことを考えているときの笑みだ。けっこう長いつきあいだ、それくらいは俺にだって理解できている。
問題は……。
「とってもおいしかったわ。みくるちゃん、お礼と言っては何だけど、あなたにちょっと早めのプレゼントがあるのよね」
「え、ほんとですか?」
目を瞬(かせる可(憐(なメイドさんに、
「これ以上の真実はないってくらい本当よ。月が地球の周りを回ってて地球が太陽の周りを回っているくらい本当のことだわ。ガリレイのことを信じなくてもいいけど、あたしの言うことは信じなさい」
「あ、はははい」
そうしてハルヒはまたもやバッグに手を差し入れた。
気配を感じて顔を向けると、まともに目があった古泉が微(苦(笑(を浮(かべて肩(をすくめて見せる。何のつもりだと言いたいところだが、何となく解(る。だてにハルヒの仲間を半年以上もやってないんだ、これで想像できないほうがおかしいだろ。
そう、と俺は思うのだった。
問題は、まさにハルヒの思いつきを抑(制(できる人間やそんな効果のある薬がこの世のどこにもないということなのだ。誰(か発明してくれたら個人的に勲(一等を進(呈(したい。
「じゃじゃーん!」
幼(稚(な掛(け声とともに、ハルヒがバッグの奥底から最後に出してきたクリスマスアイテム、それは──。
「そ、それは……?」
反射的に後ずさる朝比奈さんに、ハルヒは弟(子(に愛用の杖(を伝授しようとしている老魔(法(使(いのような表情で言い放った。
「サンタよ、サンタ。ばっちりでしょ? やっぱこの時期なんだから、季節限定の格好をしてないと示しがつかないからね。ほら、着(替(え手伝ってあげる」
まさしく、後退する朝比奈さんにゆっくりと詰(め寄っていくハルヒが両手で広げているのは、サンタクロースの衣装に他(ならないのであった。
かくして俺と古泉は部室の外に放(り出され、内部で行われているハルヒによる朝比奈さん衣(替(えシーンをむなしく妄(想(するのみである。
「えっ」「きゃ」「わわっ」という、悲鳴にも似た小さな声が、いらない想像力を俺に与え、なんだか扉(の向こうを透(視(できてるんじゃないかってくらいの幻(覚(を運んできた。いやあ俺もそろそろ本格的にヤバいのかもしれないな。
しばらく幻想夢物語に浸(っていると、
「朝比奈さんには気の毒ですがね」
ヒマをもてあましたか古泉が語りかけてきた。廊(下(の壁(にもたれて腕(を組む無(駄(な面(と物(腰(のよさを誇(るこの男は、
「涼宮さんが楽しそうにしている様子は、僕に安心感を与えてくれますよ。イライラしているところを見るのが一番心の痛む事(柄(ですから」
「あいつがイラつくと変な空間が発生するからか?」
古泉は前(髪(を片手の薬指ですいっとかき上げ、
「ええ、それもあります。僕と僕の仲間たちが何より恐(れるのは閉(鎖(空間と《神人》の存在です。簡単そうに見えたかもしれませんが、あれでも苦労してるんですよ。ありがたいことに、この春以降、どんどん出現回数は減っていますが」
「てことは、まだたまには出てくるのか」
「まれにね。ここのところは深夜から明け方頃(に限られています。涼宮さんが眠(っている時間ですよ。おそらく、イヤな夢を見ているその時に、無意識に閉鎖空間を作ってしまうのでしょう」
「寝(てても起きてても、迷(惑(を生み出すヤツだな」
「とんでもない」
古泉にしては鋭(い声が飛んできた。正直言うとちょっとだけ驚(いた。古泉は笑いを極小に抑(えて、俺を強い目線で見(据(えた。
「あなたは知らないでしょう。高校入学以前の涼宮さんがどのようだったかをね。僕たちが観察を始めた三年前から北高に来るまで、彼女が毎日のように楽しげに笑う姿なんて想像もしませんでしたよ。すべてはあなたと出会ってから、もっと正確に言うと、あなたとともに閉鎖空間から帰ってきてから、です。涼宮さんの精神は、中学時代とは比(較(にならないレベルで安定しています」
俺は無言で古泉を見返した。視線を逸(らすと負けのような気がして。
「涼宮さんは明らかに変化しつつあります。それも良い方向にね。我々はこの状態を保ちたいと考えていますが、あなたはそうではありませんか? 彼女にとって今やSOS団はなくてはならない集まりなのですよ。ここにはあなたがいて、朝比奈さんがいる。長門さんも必要ですし、はばかりながら僕もそうでしょう。僕たちはほとんど一心同体のようなものですよ」
それは、お前サイドの理(屈(だろう。
「そうです。でも、決して悪いことではないでしょう? あなたは数時間刻みで《神人》を暴れさせている涼宮さんを見たいのですか? 僕が言うのも何ですが、決していい趣(味(とは言えませんね」
俺にそんな趣味はないし、これからも持つつもりはない。そればっかりは断言しておかなければならないな。
古泉はふっと表情を改めた。また元の曖(昧(スマイル状態に復帰する。
「それを聞いて安心ですよ。変化と言えば、涼宮さんだけでなく僕たちだって変化しています。あなたも僕も、朝比奈さんもね。たぶん長門さんも。涼宮さんのそばにいれば、誰だって多少なりとも考え方が変わりますよ」
俺はそっぽを向いた。図星をつかれたからではない。自分自身にはそんな実感はないから、図星なんかつかれようもないな。意外に感じたのは、長門がちょっとずつ変わりつつあるってことをこいつも気づいているってことだ。インチキ草野球に三年越(しの七夕、カマドウマ退治に孤(島(の殺人劇やループする夏休み……。あれやこれやをわたわたとやっているうちに長門のちょっとした態度や仕草が、すべての始まりを告げた文芸部室での邂(逅(から微(細(に変化しているのは確かだ。錯(覚(ではない。俺にだって手作り望遠鏡くらいの観察眼はあるんだ。思えば孤島でもあいつはちょっとおかしかった気がする。市民プールや盆(踊(り会場での様子もだ。映画撮(影(での魔(法(使(いぶりもさることながら、コンピュータ研とのゲーム対戦ではさらなるおかしな振(る舞(いを見せていた。……が。
それは良いことなんだろう。ハルヒはともかく、俺にはそっちのほうが重要に思えるね。
「世界の安定のためでしたら」と古泉が微笑(み混じりに言った。「クリスマスパーティの主(催(くらいは安いものです。その上楽しいときたら、僕が言う文句はボキャブラリーのどこを探しても見あたりませんね」
反論のセリフが思いつかないことを何故(か腹立たしく思っていると、
「もういいわよ!」
いきなり扉が開かれ、そして部室の扉は内開きになっていたものだから、そのドアに身を預けていた俺は当たり前の結果としてゴロンと無様に背中から転がった。
「ひえっ!?」
声の主は俺でもハルヒでもなく、朝比奈さんであり、ましてやその声は上から降ってきて、ちなみに仰(向(けに倒(れた俺はイヤでも天(井(を見上げる形にあったが天井は見えず、代わりに別のものが見えた。
「こら、キョン! 覗(くなっ!」
そう叫(んだのはハルヒで、
「ふわ、あふっ」
うろたえた声を出して後ろに跳(ねたのは、朝比奈さんだろう。八(百(万(の神々に誓(う。足しか見えなかった。
「いつまで寝てんのよ! 起きなさいよっ!」
ハルヒに襟(首(をつかまれて俺はようやく立ち上がる。
「まったくこのエロキョン! みくるちゃんのパンツ覗こうとするなんて、あんたには二億五千六百年早いわ! さてはワザとね、ワザとなんでしょ」
合図を終えないうちにドアを開けたお前が悪い。これは事故だ。事故なんですよ朝比奈さん──と言おうとして、俺は目を奪(われた。何にかと誰(か訊(くかい?
「わわ……」
頬(を朱(色(に染めて立っている朝比奈さんのお姿以外に何もないね。
白い縁(取(りをされた赤い服にぽんぽんのついた赤い帽(子(……のみを身につけた朝比奈さんは、丈(の短い裾(を両手で握(りしめ、恥(ずかしさのあまりか妙(に潤(んだ目で俺を見つめていた。
どこから見ても完(璧(完全、一分の隙(すら見つけることのできないサンタ姿である。耄(碌(の境地に達した老サンタがひそかに家(督(を孫(娘(に譲(っていた、その孫娘こそ今ここにいる朝比奈みくるの正体なのだ。
と、言われたら八対二の割合で信じてしまえることだろう。うちの妹なら絶対信じる。確実だ。
「非常によいですね」
感想を述べたのは古泉である。
「申しわけありませんが、常(套(句(しか思いつきませんよ。ええ、とてもよくお似合いです。うん、そうですとも」
「でしょ?」
ハルヒは朝比奈さんの肩(を抱(き寄せ、目を白黒させているサンタ少女の顔に頬を寄せた。
「めっちゃくちゃ可愛(いわ! みくるちゃん、もっと自分に自信を持ちなさい。これからクリパまで、あなたはSOS団専用のサンタクロースよ。その資格があなたにはあるわ!」
「ふひー」
情けなさそうな吐(息(をつく朝比奈さんだったが、これだけはハルヒが正しい。誰も反対するものはいないだろうな、と考えて長門のほう見やると、小(柄(なショートカットの無言娘は、当然無言のままに読書にふけり続けていた。
頭に三角帽(を載せっぱなしで。
その後、ハルヒは俺たちを整列させて、その前で何か言っていた。
「いい? この時期ね、街の中でサンタを見かけてもホイホイついていったりしちゃダメよ。奴(らは偽(物(なんだから。本物は地球上にピンポイントでしか現れないの。みくるちゃん、あなたは特に気をつけるのよ。知らないサンタから安易に物を貰(ったり、言われたことにうなずいていたりしちゃダメ」
朝比奈さんをムリヤリ偽サンタにしておきながら言うセリフじゃないだろう。
よもや、こいつはこの歳(にもなって妹同様に例の国際的ボランティア爺(さんの存在を信じているんじゃないだろうな。織(姫(彦(星(に向けて願望充(足(メッセージを放つような奴だからあり得ないことでもないが、俺はまさかと思うに留(めておいた。何と言ってもすでに聖朝比奈が部室におわしてくれているのだ。本物を超(越(した贋(作(がここにある。それでいいじゃないか。これ以上何かを望んだりしたら北(欧(三国のどこかからクレームが来るだろう。
俺が年一しか働かない怠(け老人の闇(にまみれた資金源について考えていると、
「でさ、キョン。クリスマスパーティを盛大にやるのはいいとして、今年は思いつくのが遅(かったからキリストの誕生日だけだけど、来年は釈(迦(とマホメットの誕生会もしてやんないとね。でないと不公平だわ」
ついでにマニ教とゾロアスター教開祖の誕生日も祝ってくれ。信者でもない野(郎(どもに祝われても雲の上にいるであろう彼らにすれば苦(笑(するだけだろうし、ハルヒは祝うためにそれをするのでなく騒(ぐ口実が欲しいだけなのでお互(い様だが、バチを当てるのならハルヒだけにしてくれよな。俺は片棒の端(っこをちょいとつまんでいるだけなのだからさ。
この場合どこの神様宛(にいいわけをすればいいのかと考える俺を尻(目(に、ハルヒは団長席に着いて、
「何がいい? 鍋(? すき焼き? カニはNGよ、あたしアレ苦手なの。殻(から身をほじくるのがイライラすんの。どうしてカニって殻も食べられるようになってないのかしらね。進化の過程でもうちょっと学ばなかったのかって言いたいわ」
そう思ったからこそ甲(羅(を獲(得(したんだろうよ。連中はお前に喰(われるために海底で自然淘(汰(されてきたわけじゃねえ。
古泉が挙手の上、こう発言した。
「それでは店を予約しなければなりませんね。すでにシーズンに差し掛(かっておりますし、急がないとどこも一(杯(になってしまいますよ」
こいつが紹(介(するような店にはあまり行きたいと思わないな。また変な店主が出てきてディナーの最中(にキテレツな殺人喜劇が始まりかねない。
「あ、それは心配しなくていいわ」
俺と同じ感想を抱(いたのか、ハルヒは笑(顔(で首を振(った。で、言ったのが、
「ここでやるから。必要な物は揃(ってるし、後は材料だけよ。そうね、炊(飯(ジャーも持ってきたほうがいいわ。それからお酒は厳禁よ。あたしはもう一生飲まないって心に誓(っているからね」
もっと別のことを誓って欲しかったが、それよりすんなり聞き逃(せないことが先にあった。
「ここでやる?」と俺は部室を見回した。
確かに土鍋やカセットコンロは常備されている。冷蔵庫まで鎮(座(しているのだ。どれもハルヒがSOS団黎(明(期にどこかから運び込んで来たものだが、まさかこの時のために用意していたんじゃないだろうな。とりあえずコンロは朝比奈さんが本格的なお茶を入れるときの役には立っていたが、本来学校内それも古ぼけた部室棟(でそんな料理していいものなのだろうか。考えるまでもなくよくはない。棟内火気厳禁だ。
「いいわよ」
ハルヒはちっとも動じず、調理師免(許(もないのになぜか腕(だけは確かな小学生料理人のような笑みで、
「こういうのはコソっと隠(れてやるのが楽しいの。もし生徒会や先生達が乗り込んできたら、あたしの素(晴(らしい鍋料理を振る舞(ってあげるわけ。そしたらそいつらもあまりのおいしさに感(涙(にむせび泣きながら特例を認めるに違(いないって寸法よ。寸分の間違いもないわ。完(璧(よ」
面(倒(くさがりのクセに、やるとなれば何であれ人並み以上にこなすハルヒのことだから、料理の腕前も口ほど並みにはあるのだろう。しかし鍋料理? いつのまに決まったんだ。話の流れではカニではないみたいだが、希望を募(るフリだけして自己完結するとは──まあいつものことか。気にするまい…………。
と、いうようなことが昨日あったわけである。谷口にところどころ端折(って話しているうちに高校に到(着(した。
「クリスマスパーティねえ」
校門を過ぎながら谷口は半分笑った顔をする。
「涼宮のやりそうなことだな。部室で鍋大会か。ま、マジで教師どもには見つからないようにしろよ。また面倒なことになるぜ」
「なんならお前も来るか?」
話した手前もあるので誘(ってやることにした。ハルヒも谷口なら気にしないだろう。こいつと国(木(田(、鶴(屋(さんの三人は、困ったときの人数あわせトリオになっている。
しかし谷口は首を振った。
「いやあ悪いなあ、キョン。俺はその日、しょぼい鍋なんぞを喰い散らかすヒマはねえんだ。うけけ」
なんだその気味の悪い笑みは。
「あのなあ、クリスマスイブに変な仲間内で集まって鍋をつつきあうなんて、モテない連中のするこった。残念だが、俺はもうそっち側の男じゃなくなっちまった」
まさかとは思うが。
「そのまさかってヤツだと思ってくれ。俺のスケジュール帳の二十四日には赤いハートマークが刻まれているぜ。いや悪い。マジで悪い。ほんと、すまねえーなあー」
なんてこった。俺がハルヒやSOS団の面々と妙(ちきりんな遊びをやっている間に、谷口のアホ野郎に彼女ができていようとは。
「相手は誰(だ?」
できるだけひがみに聞こえないように気を付けつつ尋(ねると、
「光(陽(園(女子の一年さ。無難なとこだろ?」
光陽園学院。山の下にある駅前の女子校か。ちょうど俺たちがえっちらおっちら山登りを始めるスタート地点に建ってるから、黒ブレザー制服の女子どもが大名行列のように歩いているところを毎朝見かける。割とハイソなお嬢(さん連中が通っているので有名だが、それより殺人的坂道を歩かなくてもいいのは羨(ましい話だ。いや別に谷口が羨ましいわけではない。
「いいじゃねえかよ。お前には涼宮がいるんだろ? 鍋(か……。あいつの手料理? 鍋に手料理もへったくれもないような気もするが、腹は膨(れるだろ。うらやましいなあ、キョン」
こいつめ、クリスマスイブの話を振ってきたと思ったら、自(慢(したかっただけか。
「さあ、どこをどう巡(るか、そろそろ段取りを決めねえとなあ。悩(むぜ」
俺は憮(然(。さらに無言。
この日の放課後にはたいした出来事もなかった。部室ではハルヒが新たに持ってきた飾(りを部屋中に取り付けるという作業に俺と古泉が追われ、ハルヒは指を差して指示するだけ、朝比奈さんはサンタ姿でお茶くみ兼(マスコット状態、今日も三角帽(を装着させられた長門は黙(々(とハードカバーを読んでいる。
それで一日が終わった。鍋の内容はまだ決まっていない。そのうち俺を荷物持ちにして買い物に出かけることだけは決まっているらしい。いったい何鍋になるんだろうな。闇(鍋(は陰(謀(の香(りがするのでやめておいて欲しいのだが……。
さて、プロローグにしては長すぎるな。しかし、以上のことは本当に単なるプロローグに過ぎなかった。本題はここから、翌日から始まる。ひょっとしたら今日の晩には始まっていたのかもしれないが、そこんとこはどうでもいい。
この次の日、山風に凍(り付くような十二月十八日。俺を恐(怖(という名の奈(落(に突(き落とすようなことが起きた。
あらかじめ言っておく。
それは、俺にはちっとも笑えないことだった。