肩の痛みも忘れるほど唖(然(とした。
現在の俺は腹(這(いの姿勢から身体(を起こすこともできず、自分の目に映った光景にただ驚(愕(しているところだ。俺が動けないのは背中に余計な錘(が乗っていて、そいつが退(かないからでもある。しかしそんなことは気にならないくらいだ。扉(をぶち破った勢いのまま俺に覆(い被(さっている古泉も、やはりこの部屋の光景を目にして俺同様の驚(きに打たれているのだろうな、さっさと降りろ──とも、俺は考えることができなかった。それほど俺は愕然としていたのだ。
まさかである。まさか本当に起きてしまうとは、これはもうシャレだと言って笑ってすませられないぞ、どうすんだ。
窓の外が光った。数秒後、雷(の鳴る重低音が俺の腹に届く。本格的な嵐(が、昨日から引き続き島全域を覆っている。
「……そんな」
呟(きが聞こえた。俺や古泉と一(緒(にこの部屋のドアに体当たりを敢(行(し、開いた拍(子(にもつれ合って転がり伏(せった新(川(さんの声だった。
ようやく古泉が俺の上から退いて、俺は横に転がるようにして半身を起こす。
そして、今もってなお信じがたい光景を改めて凝(視(した。
扉近くの絨(毯(の上だ。そこに人間が一人、さっきまでの俺みたいに転がっている。朝になってもダイニングルームに降りてこなかった館(の住人、かつ主人でもある壮(年(男性。昨夜、リビングで俺たちと別れて、階上に向かったときと同じ格好をしているからすぐに解る。この真夏の島で、かっちりした背広なんぞを必然性もなく着込んでいたのは彼一人だ。先ほど呟きを漏(らした新川さんの雇い主、この島と館の所有者である……。
多(丸(圭(一(氏だった。
圭一氏は、驚愕の表情を顔に張り付けて倒(れている。ぴくりとも動かない。動かないはずだな、どうやら彼は死んじまっているようだから。
なぜ俺にそんなことが解るのか? 見れば解るだろう。胸の上に突(き立っている物が何か、見覚えがある。晩飯に出てきたフルーツ籠(に大量の果(物(と一緒になって混じっていた果物ナイフの柄(だ。
賭(けたっていい。その柄の下には、金属製の刃(が続いているに違(いない。でなければ、目と口を開きっぱなしのまま動かない人間の胸にそんなもんが直立するわけはないからな。つまりナイフが圭一氏の胸に突き刺(さっているというわけだ。
たいていの人間は心臓を刃物で抉(られたら死ぬだろうと俺は思っている。
今の圭一氏の状態がまさにそれだった。
「ひえっ……」
脅(えきった小さな悲鳴が、破(壊(されたドアの向こうから聞こえた。振(り返って見る。朝比奈さんが両手で口元を押さえていた。よろめくように後ずさるその肩を、背後にいた長門が押さえてやっている。いつでもどこでもどんな時でも無表情な長門は、ちらりと俺に視線を向けて、考え込むように顎(を引いた。
もちろん、俺たちのいるところにはこいつもいるに決まっている。
「キョン、ひょっとしてさ……その人」
ハルヒも驚いているようだった。朝比奈さんの横から部屋の中に頭を突っ込んでいたハルヒは、どうやら永(眠(中の圭一氏を暗(闇(の中の猫(みたいな瞳(で見つめていた。
「死んでるの……?」
珍(しく小声で、さらに珍しく緊(張(したような声である。俺は何か言おうとして振り返った。古泉がいつもの微笑(みをどこかにやってしまった難しい顔で立ちつくしている。廊(下(にはメイドの森(さんの顔もあった。
唯(一(、昨夜まで館にいたのにこの場にいない人がいる。
圭一氏の弟、多丸裕(さんがいなかった。
こじ開けた部屋の内部に物言わぬ館の主人が一人、失(踪(者(が一人。これは何を意味するのだろうか。
「ねえ、キョン……」
ハルヒがまた言った。今にも俺にすがりつくんじゃないかと錯(覚(したほど、見慣れない不安そうな表情で。
また、稲(妻(が光って部屋を照らし出した。昨日からの嵐は佳(境(に入っている。雷の音とともに、荒(れた波が島(肌(を削(る効果音までついてきた。
ここは孤(島(だ。それから嵐。おまけに密室で、そこにはナイフで刺された館主人が転がっているというこの情景。
俺は思わずにはいられない。
なあ、おいハルヒ。
この状(況(を作り上げたのは、お前なのか?
俺はSOS団団員が総出でこんな場所に立ち会うハメになった、そもそもの原因へとフラッシュバックした。
まだ夏休みになっていなかった、あの日のことを………。
………
……
…
それは夏真っ盛(りの七月中(旬(頃(であった。太陽に有給休(暇(をやりたいくらいの酷(暑(が今日も続いている。
俺はいつものようにアジト代わりの文芸部室で、朝比奈印の熱いお茶を飲んでいた。返ってきた期末テストの結果から何とか立ち直ろうとしていたのだが、来(るべき補習のことを考えるとどうしたって気楽に構えることはできない。こういうときは現実逃(避(をするに限る。
俺はすべての現実が嘘(っぱちに過ぎないという理(屈(を瞬(時(にいくつか考えて、さてどれを選ぼうかと迷っている最(中(だった。
「あの、どうかしました?」
追試の前日に月の裏側から極(悪(なエイリアンが集団で降下して国会議事堂を叩(き潰(すという嘘ストーリーへの耽(溺(を中断し、俺は我に返った。
「難しい顔をしてますけど……。お茶、美味(しくなかった?」
「とんでもない」
俺は答えた。相変わらずの甘(露(でしたよ。茶葉は安物ですが。
「よかったぁ」
夏服メイド姿の朝比奈さんは、くすりと小さな吐(息(を漏(らした。その安心したような微笑みに俺もまた微笑み返した。あなたの喜びは俺の喜びでもあるのです。朝比奈さんの微笑みに勝(る万(能(薬(はたとえ徐(福(が蓬(莱(山に到(達(していたとしても入手できなかったことでしょう。俺の心は今や摩(周(湖(の透(明(度よりも澄(み切り脳内に天の御(使いたちが管楽器を吹(き鳴らす光景すら幻(視(するありさまなのですよ……。
と、小鳥を前にした聖フランチェスコのような熱意を込めて説こうとしたのだがやめておいた。意味のない修(飾(語(の連続が面(倒(になったわけではなく、邪(魔(な野(郎(が無(駄(に軽快な声で割り込んだからだ。
「やあどうも。期末テストはどうでしたか?」
古泉がテーブルに広げたモノポリーのルーレットを回しながら訊(かなくてもいいことを訊いてきた。おかげで俺は再び月の裏側へとワープしかけ、衛星軌(道(でなんとか意識を静止した。お前はそこで一人モノポリーでもおとなしくやっていればいいんだ。部屋の隅(っこで静かに読書している長門の爪(から垢(でも分けてもらえ。
パイプ椅(子(の上に百科事典みたいなハードカバーを広げている長門は、夏服セーラーを着たガラス製仮面みたいな顔のまま息もしないような雰(囲(気(でページに視線を落としている。どっちかと言えばデジタルっぽい存在のくせに、アナログな情報入力が好きなのは何か理由でもあるのだろうか。
「…………」
それにしても全員ヒマだな。
とっくに短縮授業になっていて学校の営業も午前で終わりだってのに、なんだってこんな所に集まっているんだ? それは俺もだが、俺にはちゃんとした理由があるぜ。一日一(杯(、朝比奈さんのお茶を飲まないと俺は死ぬ身体(になってしまっているのだ。おかげで土日は禁断症(状(で苦しんでいる。
というのは冗(談(だ。断るまでもないのだが、一応言っておかないと冗談の通用しない奴(がいることを俺は高校に入学して学んでいるんでね。この数ヶ月で学んだことがそれだけという俺が言うんだから間(違(いない。冗談と本気の線引きはちゃんとしておいた方がいい。でないとロクでもない目にあう恐(れがあるからな。
今の俺みたいに。
俺は通学鞄(を開けると購(買(部から身(請(けしたハムパンを取り出して、お茶請けにすることにした。
夏休みまでのカウントダウンをするくらいしかないこの時期に、俺たちが部室で猫(溜(まりの猫のようにダマっているのには理由がある──わけがない。自信を持って言えるね。理由もなく発(足(したようなSOS団だ、そんなもん最初からねえ。強(いて言うならその理由のなさこそが理由だな。理由などあっては困るのだよ。どうせ唐(変(木(なことしかしないのなら、まだ無意味であったほうが頭も痛まないというものだ。考える必要もないからさ。
「あたしもお弁当にしますね。今のうちに」
いそいそと自分の分のお茶を用意した朝比奈さんは、実に可愛(らしい弁当箱を出してきてテーブルの俺の向かいに着席した。
「僕ならお構いなく。学食ですませてきましたから」
尋(ねてもいないのに古泉が爽(やかに断りを入れ、長門は食い気より読書欲をもっぱらとしているらしい。
朝比奈さんはふりかけでスマイルマークを描(いている白ご飯をつつきながら、
「涼宮さんは? 遅(いですね」
俺に訊かれても。どっかその辺でバッタでも捕(ってるんじゃないですか。夏ですし。
古泉が代わりに答えた。
「先ほど学食でお見かけしましたよ。感(嘆(すべき健(啖(でした。食べた分がすべて栄養に回るのだとして何エルグになるのか想像もつきません」
そんなもん計算する気にもならんね。何ならこのまま夕方まで食堂に籠(もっていればいい。
「そうもいかないでしょうね。今日は何か重大発表があるみたいですよ」
どうしてお前がそんなに朗(らかでいられるか俺には解(らん。あいつの重大発表とやらが有益であったためしはないからな。お前の記(憶(容量は五インチFD以下なのか?
「だいたい何でお前がそんなことを知ってるんだよ」
古泉はバックレ顔で、
「さて、それはなぜでしょうね。お答えしてもいいのですが、涼宮さんは自分の口から言いたいのではないでしょうか。僕がフライングして彼女の興を殺(ぐようなことになれば大問題です。黙(っておきますよ」
「俺だって聞きたくもなかったね」
「そうですか?」
「ああ、そのお前の口ぶりで、あのアホがまたアホなことを企(画(しているらしいと知れたからな。俺の心の平和があと何分の命だったかは解らんが、たった今平和じゃなくなったのは確か、」
だ、と続けようとした俺のセリフは、どかんと開いたドアの音にかき消された。
「よし、みんなそろってるわね!」
ハルヒがスペクトル分光器みたいに目を輝(かせて立っていた。
「今日は重要な会議の日だからね。あたしより遅(れて来た奴は空き缶(蹴(りで永遠に鬼(の役の刑(にしようと思っていたところよ。あなたたちにもそろそろ団員魂(が芽生えてきてるみたいで、それはとてもいいことよ!」
今日が会議の日などであることを俺が聞いていないのは言うまでもない。
「ずいぶんのんびりだったな」
イヤミのつもりだったのだが、
「いい? 学食でたらふく食べるコツはね、営業終(了(間(際(に行くわけよ。そしたらおばちゃんが余りそうな分もオマケしてくれるのね。でもタイミングが重要なの。待ってるうちに売り切れちゃってたら目も当てられないからね。今日はアタリの日だったわ」
「そうかい」
食堂なんぞ滅(多(に利用しない俺からしたら、そんなどうでもいい情報を得意満面に聞かされてもそれくらいしか言うことない。
ハルヒは団長机の上にとすんと腰(を降ろした。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」
「お前が言い出したことだろ」
しかしハルヒは俺を無視して、行(儀(良く箸(を使っている朝比奈さんを名指しで呼んだ。
「みくるちゃん、夏と言えば何?」
「えっ」
口を隠(してモゴモゴしていた朝比奈さんは、本人の手作りらしきオカズを飲み下した。
「夏ですか……。うーんと、盂(蘭(盆(会(……かなあ」
いやに古風な答えに、ハルヒは目を瞬(かせた。
「ウランボン? 何それ。クリムボンの間(違(いじゃないの。そうじゃなくて、夏と言えば即(座(に連想する言葉があるでしょ」
何だろう。
ハルヒは当然だと言わんばかりの口調で、
「夏休みよ夏休み。決まってるじゃない」
そのまんま過ぎる。
「じゃあ、夏休みと言えば?」
第二問を出題し、ハルヒは腕(時(計(を見ながら「カッチ、コッチ」と口効果音。
つられた朝比奈さんも慌(てて考えているようだ。
「えーと、あーと、う……海っ」
「そうそう、かなり近付いてきたわ。では海と言えば?」
何なんだこれは。連想ゲームか?
朝比奈さんは頭とカチューシャを斜(めにしながら、
「うみ、うみ、えーと……あっ、お刺(身(?」
「全然違うわよ。夏からどんどん離(れてるじゃないの。あたしが言いたいのは、夏休みには合宿に行かなければならないってことよ!」
俺は見れば見るほどムカの入る古泉の微(笑(を睨(んだ。お前の言っていた重大発表ってのはこれのことか。
「合宿だと?」
ハテナマーク付き呟(きに、ハルヒは大きく首(肯(した。
「そ、合宿」
部活持ちの奴(なら合宿の一つもするだろうが、我々がそんなもんをして何になると言うんだろう。まさかどっかの山奥で見つかるはずのないUMAを俺たちに捕(獲(させようってんじゃないだろうな。
俺は朝比奈さんと古泉と長門を順に見て、それぞれに驚(きと微笑(みと無を見いだしてから言った。
「合宿ね……何のだ?」
「SOS団の」とハルヒ。
「だから何しに行くんだよ」
「合宿をするために」とハルヒ。
はあ?
合宿をするために合宿に行く。
それは頭痛が痛いとか悲しい悲劇とか焼き魚を焼くとかいうのと同じではないだろうか。
「いいのよ。この場合、目的と手段は同一のものなわけ。それに頭痛ってのは痛いものでしょ? 頭痛が甘いじゃおかしいもんね。だいたいあってるわ」
日本語が乱れようと標準語が河内(弁(になろうと知ったことではないが、それより問題は合宿とやらだろう。
「どこに行こうと言うつもりだ」
「孤(島(に行くつもりよ。それも絶海のっ、ていう形容詞がつくくらいのとこ」
さて、夏休みの課題図書に『十五少年漂(流(記(』があるとは聞いていないが、いったい何を読んだらそんなことを言い出せるんだろう。
「候補地を色々と考えてみたんだけどね」
ハルヒは喜色満面である。
「山か海かどっちにしようと悩(んでたのよ。最初は山のほうが行きやすいかなって考えたんだけど、吹雪(の山(荘(に閉じこめられるのは冬しか無理だし」
グリーンランドにでも行けばいい……ではなく、なんでまたそんなことする必要があるのかが疑問だ。
「閉じこめられるためにわざわざ山荘に行くのか?」
「そうよ。そうじゃないと面(白(くないからね。でも雪山はいったん忘れなさい。冬の合宿に取っておくから。この夏休みは海に、いいえ! 孤島に行くわよ!」
やけに孤島にこだわるな、とは思ったが、それはまあ反対する気はない。反対したところで無(駄(であるのもさることながら、この季節柄(、海はなかなか魅(力(的な場所である。それで、その絶海の孤島とやらにはちゃんと海水浴場があるんだろうな。
「もちろん! そうだったわよね、古泉くん」
「ええ、あったと思いますよ。監(視(員(も焼きトウモロコシの屋台もない自然の海水浴場ですが」
さっそうとうなずく古泉を俺は疑問形の視線で眺(めた。なんでお前がそこで出てくるんだ。
「それはですね」
古泉が言いかけるのをハルヒが遮(った。
「今回の合宿場所は古泉くんが提供してくれるからよ!」
机の中に手を突(っ込んだハルヒはごそごそまさぐったのち、無地の腕(章(を出してきた。そこにマジックで「副団長」と書き入れて、
「この功績によって古泉くん、喜んでちょうだい、あなたは二階級特進してSOS団副団長に任命されることになったわ!」
「拝領します」
うやうやしく腕章を受け取る古泉は、俺に横目を流し込んでウインクしやがった。言っておくが羨(ましくもなんともないぞ。そんなもんノベルティとして作ったとしても誰(も欲しがりやしない。
「というわけ。三泊(四日の豪(華(ツアーよ! 張り切って準備しときなさい!」
ハルヒはそれだけで話は終わったと言いたげな顔で、俺たちの理解を誘(ったと思い込んでいるようだった。もちろん違うぞ。
「いやちょっと待てよ」
俺は朝比奈さんと長門を代表するために一歩ほど前に出た。
「それはどこの島だ。招待だぁ? なんだそれは。古泉がどうして俺たちを招待なんぞするんだ?」
謎(の転校生としてハルヒに定義された古泉だって怪(しい奴(だが、その背後にいるらしい『機関』とかいうアホっぽい組織はもっと怪しい。俺たちを連れて行った先がどこかの研究所で、ハルヒや長門あたりを生体解(剖(しようという罠(ではないだろうな。
「僕の遠い親(戚(に、けっこうな富(豪(である人がおられましてね」
と、古泉は人(畜(無害な笑(顔(を見せた。
「無人島を買い取ってそこに別(荘(を建てるくらいの金を余している人です。実際に建ててしまいましたしね。その館(が先日落成式を迎(えたんですが、誰もそんな遠いところまでわざわざ行こうという知り合いはおらず、親類中から訪問者を募(った結果として僕にお鉢(が回ってきたというわけです」
そんな怪しい島なのか。俺は遠い昔に読んだ気のするロビンソン・クルーソーのジュブナイルを思い出した。
「いえ、元はただの小さな無人島です。僕たちはこれから夏休みですし、どうせならSOS団全員で出かけたほうが何かと楽しそうですしね。その別荘の持ち主も、喜んで迎え入れてくれるそうですよ」
「そういうことよ!」とハルヒ。
俺たちを困(惑(させるときによく浮(かべる絶頂の笑いを浮かべている。
「孤(島(なのよ! しかも館よ! またとないシチュエーションじゃないの。あたしたちが行かずに誰が行くって感じだわ。SOS団合宿inサマーにふさわしい舞(台(よね!」
「なんで?」と俺。「お前の好きな不思議探しと孤島の館が何の関係があるんだ」
しかしハルヒは一人で自分の世界に入り込んでいた。
「四方を海に囲まれた絶海の孤島! しかも館つき! 古泉くん、そのあなたの親戚の人はとてもよく解(ってるわ! うん、話が合いそうな気がする」
ハルヒと話が合うような人間は例外なく変態だから、きっとその館とやらの主人も変態なんだろう。こいつと話が合ったらの場合だけど。
ハルヒの主張を聞いているのか長門は不明だが、朝比奈さんは昼食を中止して軽く驚(いてるようだ。
「だいじょうぶよ、みくるちゃん。お刺(身(なら新(鮮(なのが食べ放題だから。そうよね?」
「計らいましょう」と古泉。
「そういうわけだからね」
ハルヒは再び団長机から無地の腕章を取り出した。どんだけ予備があるんだ。
「行くわよ孤島! きっとそこには面白いことがあたしたちを待ち受けているに決まってるの。あたしの役割も、もう決まっているんだからね!」
そう言いながら腕章にマジックで書きこんでいる。その乱暴な文字は、俺の目には「名(探(偵(」という三字の漢字に見えた。
「何を企(んでいるのか聞かせてもらおう」
「何も」
しれっと否定するな。
重大発表を終えて満足したハルヒが退散し、朝比奈さんと長門も部室から出て帰宅の途(についている。残っているのは俺と古泉だけだった。
古泉は長めの前(髪(を指で弾(き、
「本当ですよ。僕が言い出さなくても涼宮さんはどこかに出かけるつもりだったでしょう。夏休みは短いようで長いですからね。あなたは海よりも山でツチノコを探すほうがよかったですか?」
「何だ、ツチノコって──いや、いい。ツチノコの説明はするな。それくらいは解ってる」
「三日ほど前ですが、駅前の本屋でたまたま涼宮さんと出くわしましてね。熱心に日本地図を眺(めていましたよ。もう一冊、未(確(認(生物を特集したオカルト雑誌も広げていましたっけ」
UMA探(索(合宿旅行か、それはそれでぞっとしないな。ハルヒのことだ、本当に何かを発見しそうで恐(い。
「でしょう? 涼宮さんはどうやら何かを捕(まえに行くつもりのようでした。僕の感じた限りでは比(婆(山脈が第一候補のようでしたね。だったらまだ海辺で日光浴をしているほうが、我々全員にとって最大公約数的幸福ではないかと考えたのです。そのアテもあったことですし」
よくもそんな都合のいいアテがあったものだ。まあ確かに炎(天(下(の山歩きよりは、浜(辺(で水着姿の女子部員を観賞しているほうが地(獄(とユートピアくらいの差はあるな。
「決め手となったのは個人所有の無人島だってことらしいです。クローズドサークルが、とか言っていましたね」
当然、俺は尋(ねる。知らないことは素(直(に訊(くのが一番だ。
「クローズドサークルって何だ?」
古泉はまったくイヤミでない、これがイヤミなのだとしたら見るほうの目がどうにかしていると俺でさえ解るような笑みを広げた。
「やや意訳気味かもしれませんが」
微笑(んだまま古泉は一(拍(置いて、
「閉(鎖(空間と言っていいでしょうね」
俺の表情のどこが面(白(いのか解らないが、古泉はくっくと笑い、
「それは冗(談(です。クローズドサークルというのはミステリ用語ですよ。外部との直接的な接(触(を絶たれた状(況(のことです」
もっとまともな日本語を喋(れ。
「古典的な推理劇において登場人物たちが置かれることになる舞台装置の一つですね。一例を挙げますと、たとえば我々が真冬にスキーに出かけたとします」
そういやハルヒも雪山が何とかって言ってたな。
「その雪山で宿(泊(するところまではいいのですが、そこで記録的な大雪が降ったとしましょう」
んなとこ行くんだったらあらかじめ天気予報には注意しそうだが。
「さて困りました。吹雪(と積雪に阻(まれて下山することができません。また、誰(かが新たに山(荘(に来ることもできません」
なんとかしろ。
「なんともできないからクローズドなのです。そしてそのような状況下で事件が起きます。最もポピュラーなものが殺人事件ですね。ここで舞台が生きてくるというわけです。犯人もその他(の人物も建物から逃(げ出すことはできません。また、外部からも新たな登場人物が来ることもありません。特に警察がやってくるなどもってのほかです。科学捜(査(などで犯人が判明してもちっとも面白くありませんからね」
毎度のことだが、こいつは何を言ってるんだろう。
「おっと失礼。つまりはですね。涼宮さんの今回のテーマは、そのようなミステリ的状況の当事者となることなのです」
それが島なのか。
「そう、孤(島(です。島に何らかの理由で閉じこめられ脱(出(不可能となった中での連続殺人でも夢想しているのではないでしょうか。クローズドサークルとしては、吹雪の山荘か嵐(の孤島かという、公権力の介(入(をキャンセルする舞(台(としては双(璧(を誇(っていると言ってもいいでしょうね」
「俺はお前が妙(に楽しそうなのが気がかりだがな」
ハルヒが熱暴走するのは夏に限ったことでもないだろうが、お前まで奴(の傍(若(無(人(を後押しすることはないだろう。別に俺が副団長の座をもらえなかったからむくれているんじゃないぞ。
「実は僕もそのような舞台が好きなものですから」
人の好みにイチャモンをつける気はないが、一つだけ言わせてくれ。俺は全然好きじゃない。
だが、古泉も俺の好みに頓(着(せず、論文を読むような口調で続けた。
「名(探(偵(について考えてみましょう。普(通(に一(般(的な人生を送っている人々は、そのまま普通にしていれば奇(妙(な殺人事件に巻き込まれることは稀(ですね」
「そりゃそうだ」
「しかしミステリ的創作物の名探偵たちは、なぜか次々に不可解な事件の数々に巻き込まれることになっています。何故(だと思いますか?」
「そうしないと話にならないからだろう」
「まさしくね。大正解です。そのような事件はフィクション、非現実的な物語の世界にしかありません。ですがここでそんなメタフィクショナルなことを言っていては身も蓋(もありませんね。涼宮さんは、まさにフィクションの世界に身を投じようと考えているようですから」
そういえばSOS団はそのためにあいつが作ったんだったな。
「そのような非現実的でミステリな事件に遭(遇(するには、それにふさわしい場所に出かけなければならない。なぜなら創作上の名探偵たちは、そうやって事件に巻き込まれるからです。いわば事件の当事者となる必要があるわけですよ。放(っておいても事件が向こうからやってくるには、肉親か関係者に警察のお偉(いさんがいるとか、主人公が警察官そのものとか、シリーズを経て数作目を待たなければなりません」
なるほどな。長門がSF好きなのは解(っていたが、お前はミステリ好きだったんだな。そんでハルヒはどっちも好きなんだろう。
「素人(が探偵役をしようとしたら、まず周囲に発生した事件に意図せずして巻き込まれ、かつ明快に解決しなければならないのです」
「そんな都合よく事件が身近で起きるわけないだろ」
古泉はうなずいた。
「ええ。現実は物語のようにはいきません。この学校内で興味深い密室殺人が発生する確率は低い。ならば、発生しやすそうな場所に行けばいい、と涼宮さんは考えたに違(いありません」
本(末(転(倒(という熟語が俺の脳(裏(で点(滅(した。
「それが合宿の舞台となる、今回の孤島です。なぜだか知りませんが、そういう場所は殺人事件の劇場としてうってつけだと世間的に考えられているのです」
どこの世間だ、それは。えらく狭(い世間もあったものだ。
「言い換(えれば名探偵の現れる所に、奇(怪(な事件は発生するのですよ。たまたま出くわすのではなく、名探偵と呼ばれる人間には事件を呼ぶ超(自然的な能力があるのです。そうとしか思えませんね。事件があって探偵役が発生するのではなく、探偵役がそこにいるから事件が生まれるのですよ」
俺は誤ってウミウシを踏(んづけた時のような目を古泉に向けた。
「正気か?」
「僕はいつでもほどほどに正気のつもりです。名探偵やクローズドサークル云(々(は僕がそう考えているわけではなく、涼宮さんの思考パターンをトレースしてみただけです。つまりですね、解りやすく言うと彼女は探偵役になってみたいんですよ。合宿の目的がそれなんです」
どうやったらあいつが名探偵なんぞになれるんだ。事件を自作自演して犯人役と探偵役を兼(ねるんならできるだろうが。
「それでも僕はツチノコ狩(りや猿(人(探しよりはいいと思いましたね。僕は涼宮さんには知り合いが島に別(荘(を建てていて招待客を募(集(しているとしか提言しませんでしたよ。もちろん殺人事件を期待しているわけでもありません。僕はね」
古泉の爽(やかな笑(みは、いつ見ても腹立たしい。ひょいと肩(をすくめる動作もな。
「涼宮さんにささやかな娯(楽(を提供しているだけです。そうでもしないと、彼女が退(屈(を紛(らわすためにどんなことを考えるか解りませんから。だとしたら、あらかじめこちら側で舞台を調(えているほうが幾(らか対処のしようもあるということです」
「こちら側ね」
憮(然(とする俺に、古泉は取り繕(うように返した。
「この件に『機関』は無関係ですよ。一応報告はしましたけど。僕は超(能力者の一員ではありますが、それ以前に一人の高校生なのです。いいじゃないですか、合宿も。実に高校生らしい世界です。親しい友人たちとの旅行は心躍(るイベントでしょう?」
ハルヒが単なる旅行に心を躍らせているだけならいいんだがな。これが普通の温泉地とか陸続きの海岸とかならいいのだが、なんせ孤(島(だぜ? ハルヒのことだ、台風の二つくらいを呼び寄せちまうかもしれない。
……まあ、いくらあいつでも殺人事件を起こすほど狂(気(に侵(されてはいないだろう。でなけりゃ北高はとっくに死体の山になっているだろうからな。それよりも重要なことがあるような気がして、俺は沈(思(黙(考(する。
夏で海で三泊(四日。そこには白い砂(浜(があり、太陽も好調に炎(上(してくれていることだろう。ならば今の酷(暑(も少しは勘(弁(してやろうじゃないか。がんばれ太陽。
さて、今から朝比奈さんの水着姿を拝む準備をしておかないといけないな。
気前のいいことに宿(泊(費用はタダなのだと言う。食費もロハでいいらしい。俺たちが払(うのは往復のフェリー代くらいであった。
そして俺たちは、港のフェリー乗り場に集合して乗船時間を今や遅(しと待ちわびているのだ。
ハルヒはよほど急いで合宿に行きたかったようだった。一学期の終業式は昨日であり、つまり今日は夏休み初日である。古泉とその親類はいつでもいいみたいだったが、休みに入るなり早(速(遠出しようとは、いかにもせっかちなハルヒの性格をよく表していると言える。ハルヒの顔を見ずにすむ日々をゆっくり過ごせると思ったのだが、それすら許さないのが涼宮ハルヒという存在そのものであり、その意義でもあった。
「フェリーに乗るなんて久しぶりだわ」
サンバイザーを斜(めに被(り、ハルヒは波止場の際(で鉛(色(の海面を眺(めている。ベタつく潮風に黒(髪(を遊ばせながら乗降口の先頭に並んでいる。
「おっきい船ですね。これが水に浮(かぶなんて不思議」
両手でバッグを持つ朝比奈さんが、船体を見上げて感(嘆(するように言っている。白いサマードレスに麦わら帽(子(をかぶっている姿がとことん愛らしい。ちゃんと顎(の下で帽子のヒモを結んでいるのも朝比奈さんらしいね。彼女の子供みたいな双(眸(は、中古のフェリーがまるで遺(跡(から発(掘(された古代の葦(舟(であるかのような輝(きを見せていた。彼女の時代には船は水に浮いていないのかもな。
「…………」
その後ろでは長門がぼんやりした顔で船の横腹に書いてある企(業(名を見つめている。珍(しいことに、長門は制服を着ていなかった。クロスチェックのノースリーブで黄緑色の日(傘(を差して薄(い影(を落としている。病弱な少女が久しぶりに退院してきたばかりのような雰(囲(気(だった。どっかでインスタントカメラでも買ってきて撮(っておきたい。谷口あたりに高く売れそうだ。
「晴天に恵(まれてよかったですね。絶好の航海日和(と言えるでしょう。船室は二等ですが」と、古泉が言う。
「相応だろ」
パーティションもろくにない大部屋である。何時間もの長旅だったが個室なんか俺たちには十年早いさ。たかだか高校生の合宿旅行である。
本質的に問題なのは、これが合宿でも何でもないということだな。合宿のための合宿なんざ、意味のある行動とは言えまい。だいたい通常のクラブ合宿には引(率(の顧(問(教師が必要なんではないだろうか。SOS団にそんなもんはいない。学校から認(可(されていない部活なのだから、いたらかえって驚(くね。北高では顧問がいないと同好会すら認められないことになっているわけで、これは俺の勘(だがSOS団の顧問になろうとする教師がいたとしてもハルヒが必要とするとも思えない。必要なんだったらとっくにどこかから拉(致(して来ているだろうからな。俺たちがそうだったみたいにさ。
俺が大あくびをする横に、朝比奈さんがとことこと近寄ってきた。丸い目をさらに丸くしている彼女は、
「あんな大きな船がどうやって浮いているんですか?」
どうやってって、浮(力(以外の何で浮くんでしょう。朝比奈さんがいた時代には理科の授業はなかったのだろうか。
「あっ、そうか。浮力。そ、そうですよね。なるほどー。灯台もと暗しってやつですね」
いったい何をそんなに納(得(したのか、朝比奈さんは今にもユーレカと叫(んで風(呂(桶(から飛び出しそうな顔でうんうんうなずいている。
試(しに質問してみよう。訊(くだけなら害になるまい。
「あのー朝比奈さん、未来の船は何か画(期(的な方法で浮いているんですか?」
「うふ。あたしが言えると思う?」
訊(き返され、俺は首を振(った。ぜんぜん思いません。突(っつき先をちょっと変えて再度の質問。
「海はあるんでしょうね」
朝比奈さんは帽子の縁(をちょいとつまんで傾(けた。
「ええ。あります。海はあるわ」
「そりゃよかった」
近未来か遠未来かも知らないが、地球がオール砂(漠(化していないようで何よりだ。そこの海の成分が今よりマシになっているといいんだけど。
俺が未来人からさらなる有益な情報を聞き出そうと意気込んでいたというのに、
「キョン! みくるちゃん! 何してんの、時間よ!」
ハルヒの叫びが乗船時間を知らせた。