月曜の朝は、すでにもう文化祭まで一週間を切ってるってのに相変わらずユルい空気だった。本当に文化的な祭りをする気があるのかこの学校は。もっとバタバタしててもいいんじゃないか? いくらなんでも悠長(すぎるような気配だ。おかげでこっちはタルい。しかも教室へと歩いている途(中(に、さらにタルくなりそうな場面が俺を待ち受けている。
俺の教室の前で、古泉が壁(にもたれて立っていた。昨日あれだけ喋(っといて、まだ何かあると言うのか。
「九組の演目、舞(台(稽(古(が早朝からありましてね。ここにはたまたま通りかかったんですよ」
朝からお前のニヤケ面(を見たりしたくはなかったが。
「どうした。あのマヌケ空間がやっぱりまた発生したとか言うんじゃないだろうな」
「いえ。昨日はとうとう出ませんでした。どうも今の涼宮さんはイライラするより、しょんぼりすることに忙(しいみたいですよ」
なぜだろう。
「解っておられるはずですが……。なら説明しましょう。涼宮さんは、あなただけは何があろうと自分の味方をすると思っていたのです。いろいろ文句を付けつつも、あなたは彼女の肩(を持つわけです。何をしでかしたとしても、あなただけは許してくれるだろう、とね」
何が、とね、だ。あいつのすべてを許せるのは、とうの昔に殉(教(した歴史上の聖人くらいだぜ。言っておくが俺は聖人でも偉(人(でもない、常識的な凡(人(だ。
「涼宮さんとはどうなりました?」
どうもなってたまるか。あのままだ。
「元気を出すように言ってもらえませんかね? 白い鳩(ならまだ可愛(いものです。このまま涼宮さんの気分が沈(み続けると、神社の鳩がもっと鳩らしからぬモノに入れ替(わってしまうかもしれませんよ」
「何にだよ」
「それが解ったら苦労はなしです。ネトネトして複数の触(手(で這(い回るようなものの大群が境(内(を蠢(いていたら不気味でしょう?」
「塩を撒(けばいい」
「それでは根本的な解決にはなりませんね。現在の涼宮さんは宙ぶらりんです。今までは映画撮(影(を通して積極的に現実を変容させてしまったわけですが、昨日のあなたとの一件で、いきなりベクトルが逆走してしまいました。ポジティブからネガティブへです。それで事態が収まればいいのですが、このままではより一層酷(いことになりそうなんですよ」
「それで。俺にあいつを慰(めろって言うのか?」
「そうややこしい話でもないでしょう。元の鞘(に戻ってくれればいいだけですから」
元も何も、俺はそんな鞘に収まっていたことなんかないぞ。
「はて。あなたの頭も冷えている頃(合(いだと思っていたのですが、見込み違いでしたか?」
俺は押し黙(った。
昨日カッカきちまったのは、朝比奈さんへの暴(虐(を見かねた俺の善良なる心がそうさせた──とも限らない。カルシウムが不足していただけなのかもな。昨日の晩に牛乳一リットルほど飲んで寝(て起きたら、不思議と治まったからな。プラシーボ効果かもしれないが。
かと言って、なぜ俺のほうから歩み寄らねばならんのだ。誰(がどう判断したって、あいつはハシャギ過ぎだったろうが。
古泉はえづいた猫(みたいに喉(を鳴らす笑い声を漏(らし、俺の肩をハタいた。
「よろしく頼(みますよ。距(離(的に、あなたが一番近い場所にいるのですから」
真後ろに座るハルヒとは俺が振(り向かない限り目を合わすことがない。今日は一段と空模様が気になるようで、ハルヒはほとんど窓の外を眺(めていて、そのままの状態を昼休みまで続けていた。
加えて、どういう伝染病なのか、谷口までもがご機(嫌(斜(めだった。
「何が映画だ。昨日は行って損した」
昼休み、弁当を喰(いながら谷口は憎(まれ口を叩(いていた。休み時間のハルヒは滅(多(に教室におらず、今もそうだ。いたらこいつもそんなことを言えないだろう。気の小さい奴(に限って安全圏(では声が大きいのさ。
「涼宮のやることだ。その映画とやらもどうせゴミみたいなものになる。決まってるぜ」
誰に言われたっていい。俺は自分が偉(い人間だとは思ってないし、歴史に名を刻むこともしそうにない。片(隅(のほうで一人ブツブツ呟(いているような人間だ。自分じゃ料理も出来ないのに母親の作った食い物にイチャモンをつけるようなことが得意だ。
だがこれだけは言っておきたい。ので、俺は言った。
「お前にだけは言われたくないぜ」
谷口、お前は何をやっている? 少なくともハルヒは文化祭に参加して何かをしようとしている。迷(惑(千(万(なことにしかならないだろうが、少なくとも何もしないで文句だけ言ってる奴よりマシだ。このアホめが。全国の谷口さんに謝るがいい。貴様と同じ名字であることはお前以外の谷口さんたちにとって不(愉(快(でしかないぞ。
「まあまあキョン」
国木田が間に入った。
「彼はスネてるんだよ。ほんとは涼宮さんたちともっと遊びたいんだ。キョンがうらやましいんだよ」
「んなこたぁねえ」と谷口は国木田を睨(んだ。「俺はあんなアホ集団の仲間入りをする気はねえ」
「誘(われたらついていくクセに? 昨日だって喜んでたじゃん。どっか出かける予定をキャンセルしてまでさ」
「言うな、バカ」
谷口が不機嫌なのはそのせいだったのか。せっかくの予定をすっ飛ばして来たと思ったら、ほとんど写してもらえないまま退場を宣告されたのだからな。池にまで落ちていた。なるほど、同情に値(するかもしれない。だが俺はそんな気にはなれないね。なぜなら、俺は俺で腹を立てていたからだ。
ハルヒの映画が目も当てられないほど下らないものになるのは俺にも解(っている。いつもの後先考えない全力疾(走(をやってるわけだから、その日その時間に撮(りたいと思ったことを撮っているだけ、繋(がりも演出も何にもなしだ。それで凄(い映画が出来上がったりしたら、それは天才の仕(業(で、そして俺の見たところハルヒに監(督(の才はない。だからと言って、それを他人から指(摘(されるのは──さて、なんで腹立つのかと言うと……。
「どうしたのさキョン。今日は涼宮さんもいつもより機嫌悪そうだしさ。何かあったの?」
国木田の声を聞きながら俺は考えていた。
俺も谷口と同じだ。ハルヒの言うがままにへいこらしてはブツブツ言ってるだけだ。俺がこいつに感じたことは、そっくり俺自身にも当てはまる。ハルヒのやることなすことにツッコミを入れて回りうんざりする気分になるのは……、だから俺の仕事である。俺だけの役割だ。他人に譲(るつもりがないのではなく、そういうことになっているのだ。
むしゃくしゃした気分で喰う飯のなんと美味(くないことか。これでは作ってくれた母親に悪い。くそ、谷口のゲロハゲ野(郎(。お前が余計なことを言うからだぞ。だから、俺はこれからのちのち後(悔(するようなことをしたくなってきたじゃねえか。
俺は何をしたか。
弁当箱にフタをすると、そのまま教室を飛び出したのだ。
ハルヒは文芸部室にいて、ビデオカメラとパソコンを繋いで何かをやっているようだったが、俺がいきなり扉(を開けたのを見て、驚(いたように顔を上げた。左手に持ってるのはカレーパンか。
そのパンを慌(てたように放(り出し、後ろに手を伸(ばして髪(を触(っている──と思ったら、はらりと黒髪がほどけた。理由は知らないがくくっていた後ろ髪を慌てて解いたらしい。よく見ていなかったし、そんなことは後で考えればいいことだ。俺は今言わなければならないことを言った。
「おい、ハルヒ」
「なによ」
ハルヒは戦(闘(態勢に移行しつつある猫(のような顔でいる。その顔に、俺は言ってしまった。
「この映画は絶対成功させよう」
勢いというやつだ。一年に二回くらいは俺だってハイになる時がある。昨日頭に来たのだってそのせいだ。たまたまそれにかち合ってしまったのだよ。それが今日は古泉の妙(な話やら谷口のアホ面(やらハルヒの鬱(顔(が何かこう、こんがらがって俺もガタガタになってしまっていたのだ。この衝(動(を放っておけば教室のガラスを叩き割って歩いてしまうかもしれないので、ここで解消しておくことにしたわけだよ。なんで俺はこんな言いわけをしているんだろうね。
「む」
と、ハルヒは言った。そして、
「当然よ。あたしが監督するんだからね。成功は約束されているの。あんたに言われるまでもないわよ」
何という単純さ。少しは殊(勝(な顔でも見せるかと思ったが、ハルヒの意味不明なまでに爛(々(と輝(く瞳(は、どこから充(填(したものか再び自信の炎(が見え隠(れするようになっていた。簡単すぎる。高レベルの回復魔(法(を延々自分にかけ続ける中ボス程度の厄(介(さだが、俺は気にしない。必要なのはバランスだ。弱々しい奴(を一(撃(で葬(り去ってオワリみたいなゲームは……何と言ったっけ、そう、カタルシスとやらがないのさ。意味はよく解らないしそもそも意味なんてないわけで、すなわち俺は、元気のないハルヒなんか不気味なので見たくはないのだ。こいつは常に果てしなく無意味かつ根(拠(なし目的地なしの脳内千メートルダッシュしているくらいがちょうどいい。変に立ち止まると余計にわけわっからんことを無意識にやっちまうみたいだしな。それだけ。
……と、この時の俺は思っていたらしい。
その日の放課後である。
「もう少し他(に言い様はなかったのですか?」と古泉は言い、
「すまん」と俺は答えた。
「元気づけるとしてもですね、もっとこう……当たり障(りのないものにして欲しかったんですが」
「……すまん」
「元に戻(ったと言うより、さらにパワフルになってますよ?」
「…………」
「これでは隠しようがありませんね」
反省しきりの俺に、古泉は穏(やかな色を浮(かべた目を向けた。非難しているわけではなさそうだが、その声はどことなく憂(いの音階を帯びている。そうだろうな、事態は確実に悪化しているようで、どうもそれは俺のせいらしい。
なんでかって? 知るか。
桜が満開になっていた。ここは川沿いの桜並木通り、朝比奈さんが俺に正体を明かしてくれたあの遊歩道だ。再(確(認(しておこう、今は秋だ。確かにまだ残暑の名残(が消え去っていないとはいえ、普(通(に考えて日本ではソメイヨシノは春に咲(くものだ。少々のフライングならば許してやってもいいが、半年ばかり早い。太陽のバカさ加減に桜まで付き合うことはないだろう。
花(吹雪(が舞(う中で、ハルヒ一人がエンジン全開だった。キワキワウェイトレス姿の朝比奈さんがよちよちわたわたしているのは、時季外れの花見客がそこら中(にいるせいだな。
「なんて都合がいいのかしら! なんとなく桜の画(が欲しいなあって思っていたのよ。素(晴(らしいタイミングの異常気象ね!」
ハルヒは口(角(泡(を飛ばし、朝比奈さんに無体なポージングを強制していた。
ダメだね、やっぱり。人間、一時の感情で何かやってしまうとそれは必ず未来の自分に跳(ね返ってくるもので、現に俺はこの半年間ずっと似たようなことばかり反省している気がする。「あの時ああすればよかった」ではなく「するんじゃなかった」という実に後ろ向きな一人反省大会だ。誰(か銃(を貸してくれ。モデルガンじゃないやつを。
桜の木々は昼すぎに蕾(を膨(らませ、夕方には満開になっていたそうだ。秋の椿(事(として、地元のローカル局が中(継(にまで来ている。たまにはこんなこともあると思ってもらいたいね。近年の地球規模な異常気象が遠因だ。そういうことにしておけ。な?
「涼宮さんはそう思っているようですね」
少し前まで朝比奈さんと肩(を並べて川(縁(を歩いていた古泉が言う。外面だけはいいこいつとすべてがいい朝比奈さんのツーショットは、世の男性にとっては苛(立(たしくなる効果しかないだろうと思えるくらいのハマリ役であって、俺を不(機(嫌(にさせた。
長門は花吹雪にさしたる感想もなく、また表情もなく、体内時計の狂(った桜たちを漠(たる目で眺(めている。黒マントの上にピンクの花びらが数枚くっついて、ほんの少しのアクセントを演出していた。白(鳩(のことをこいつは知っているのだろうか。
「そだ! 猫(を捕(まえましょう!」
突(然(、ハルヒが言い出した。
「魔女に使い魔がいるのよ。それは猫が一番しっくりくるわ! どこかに黒い猫落ちてない? 毛並みのいいやつ」
待てよな。長門の初期設定は悪い宇宙人じゃなかったか?
「いいから猫よ! あたしのイメージではそうなってるのよ。猫のいそうな場所ってどこかしらね」
「ペットショップだろうよ」
俺のおざなり返答に、ハルヒは珍(しく妥(協(するようなことを言った。
「野(良(猫でいいのよ。売り猫や飼い猫は借りたり返したりするの面(倒(だしね。どこかの空き地に行けば猫がたまっている場所があるんじゃない? 有希、知らない?」
「知っている」
長門は僅(かなうなずきを返し、俺たちを約束の地に導く宗教的指導者のような足取りで歩き始めた。長門に知らないことなんかないんだろう。五年くらい前に俺が失(くした小銭入れの在(処(も訊(いたら教えてくれるかもしれんな。当時の俺の全財産で、五百円くらいは入っていたと思う。
徒歩で十五分ほど移動した後の到(達(地点は、長門が一人暮らしをしている豪(華(マンションの裏だった。手入れの行き届いた芝生(が広がり、周囲を植木が覆(って外からの視線を遮(断(している。そこに何匹(もの猫たちが群れていた。野良猫らしいが人慣れしている奴(らばかりで、近寄っても逃(げようとしない。エサでもくれると思ったのか、足元にまとわりついてくるほどである。そのうちの一匹をハルヒは持ち上げた。
「黒猫いないわねえ。いいわ、この猫で」
三毛猫で、貴重なことにオスだった。しかしハルヒはそれがどのくらい珍しいのか知らないようで、無(作(為(抽(出(の結果に驚(くこともなく、
「さあ、有希。これがあなたの相棒よ。仲良くしなさいね」
ハルヒの抱(き上げた三毛猫を長門は黙(って受け取った。路上でティッシュを渡(されたような無感動ぶりで、猫のほうも無感動に渡されている。
すぐさまこの場で撮(影(が再開された。マンションの裏側だ。もう場所なんかどこでもいいらしい。俺のビデオカメラに詰(まっているのは、ブツ切れの思いつきカットばかりとなっている。これを編集してまともな一本の話にするのは、さて俺の仕事なんじゃないだろうな。
「有希、みくるちゃんに攻(撃(よ!」
ハルヒの指令に、長門は変な姿勢のままうなずいた。猫を左(肩(に乗せている黒い衣(装(の魔(法(使(いである。どう見ても猫のほうが重量オーバーだった。三毛猫がおとなしく長門にしがみついているのはいいが、長門は首だけでなく身体(全体を傾(けて猫が落ちないようにバランスを取っていた。その不自然な体勢を保ちつつ、朝比奈さんに棒を振(る。
「くらうがいい」
多分このシーンでは長門の棒から不可思議な光線が出ていることになっているのだろう。
「……ひー」
と、朝比奈さんは悶(える演技。
「はいカット!」
満足そうにハルヒは叫(び、俺は録画停止。古泉はレフ板を降ろす。
「その猫、喋(ることにするわ。魔法使いの飼い猫だもの、皮肉の一つくらいは言うわよね!」
とんでもない。
「あなたの名前はシャミセンよ。ほらシャミセン、何か話しなさい!」
話すわけない。と言うか、話さないでくれ。
俺の願いが天に届いたのか、シャミセンなる不(吉(な命名を受けた三毛猫は突然日本語を喋り出すことなく、尻尾(の毛(繕(いを始めてハルヒの命令をシカトしていた。当たり前のことなのだが、ホッとする。
「順調ね」
今日撮(った映像を再(確(認(しながら、ハルヒは満足げに笑っていた。午前中までの表情が嘘(のようだ。切り替(えが早いってのはいいことだよな。それだけは感心してやっていい。
「キョン、その猫の世話はあんたに任せるわ」
ディレクターズチェアを折り畳(み、無体なことを俺に命じた。
「家に連れ帰って歓(待(してあげなさい。これからの撮影に必要だからね、ちゃんと手なずけておくのよ。明日までに芸の一つを仕込んでおいて。そうね、火の輪くぐりとか」
長門の肩(に乗ってじっとしてるだけでも、猫としては上出来な部類に入るだろう。
「今日はここまでね。明日から大(詰(めよ! いよいよクライマックスへ撮影快調、体調は万(全(だわ! みんなゆっくり休んで明日に備えなさい」
メガホンを振りつつ解散を宣言したハルヒは『ブレードランナー』のエンディングテーマをハミングしながら一人で帰っていった。
「ふー」
ため息でユニゾンを奏(でる俺と朝比奈さんである。他(の二人、古泉はレフ板を小(脇(に抱(えて帰り支(度(を始め、長門はシャミセンに、インクの切れたボールペンを見るような目を落としていた。
俺は腰(を曲げて三毛猫の頭を撫(でてやる。
「ごくろうだったな。後で猫(缶(を奢(ってやるよ。それとも煮(干(しがいいか?」
「どちらでも構わない」
朗々たるバリトンがそんなセリフを吐(いた。この場にいる誰(の声でもない。俺は古泉と朝比奈さんがポカンとしているのを見て、長門の無表情を見た。三人とも、同じ所に視線を向けている。俺の足元に。
そこには三毛猫がいて、丸い黒目で俺を見上げていた。
「おいおい」と俺は言った。「今のは長門か? 俺はお前に訊いたんじゃないぞ。猫に訊いたんだ」
「私もそのつもりだった。故(に返事をした。私は何か間(違(ったことを言ったのだろうか」
と、猫が喋った。
「弱りましたね」
これは古泉である。
「びっくりです。猫さんが言葉をしゃべるなんて……」
これは朝比奈さんである。
「…………」
長門は沈(黙(していて、シャミセンを抱えて立っている。そのシャミセンは、
「私にはキミたちがなぜ驚(いているのかが解(らない」
とか言って、長門の肩にしがみついていた。
化け猫、猫(又(の類(だ。何年生きたらこうなるんだっけ。
「それも私には解らない。私にとって時間の感覚など存在しないに等しい。今がいつなのか、いつが過去なのか、私には興味のないことだ」
猫が喋り出すだけでも相当アレなのに、微(妙(に観念的なことをほざいている。肉球付きの分際で生意気な。三味線屋はどこにあるのだろう。タウンページに載(ってるかな?
「確かに私はキミにとってヒトの言葉に聞こえるかのような音を出しているかもしれん。だが、オウムやインコの類でもそれくらいのことはするではないか。何をもって、キミは私が言葉通りの意味をこめた音声を発しているのだと確認するのか」
何言ってんだ、こいつ。
「そりゃあれだ。ちゃんと俺の問いかけに答えているからだ」
「私が発している音声が、たまたま偶(然(にもキミの質問に対する応答に合(致(しているだけかもしれないではないか」
「そんなのがまかり通れば、人間同士でも会話が成立していない場合があることになるじゃねえか」
俺はなんで猫相手にこんな真(面(目(なことを言ってるのかね? 三毛野(良(シャミセンはぺろりと前(脚(を舐(め、耳の下を掻(く。
「まったくその通りだ。キミとそちらのお嬢(さんがあたかも会話しているかのような行(為(を働いてたとして、それが正しい意思伝達をおこなっているかどうかなど、誰にも解らないのだ」
やたら渋(い声で言うシャミセンだった。
「誰しも本音と立て前を使い分けていますからね」と古泉。
お前は黙(ってろ。
「言われてみればそうです……よね」と朝比奈さん。
すみませんが、あなたも黙っていてくださいませんか。
芝生(に転がっていた猫どもを一匹(一匹取り調べてみた。シャミセン以外の猫たちは「みい」や「にゃあ」や「うー」くらいしか話さないことが判明し、どうやらこのオス三毛猫のみがなぜか唐(突(にヒト言語発声能力を獲(得(したらしいのである。なぜか?
あのバカのせいだ。
「現(況(は、あまりよろしくないようですね」
優(雅(にマグカップを口元に運びながら古泉が口火を切った。
「僕たちはまだまだ涼宮さんを過小評価していたようです」
「どういうことですか?」と朝比奈さんが忍(び声。
「涼宮さんの映画内設定が世界の常識として固定される恐(れが出てきたのですよ。彼女が思い描(く映画の内容が現実化し、そのままそれが普(通(の情景になってしまうのです。朝比奈さんがレーザーを出したり猫が喋(り出したりね。もし彼女が『巨(大(隕(石(が落下してくるシーンを撮(りたい』と思えば、本当に実現するかもしれません」
現在、ハルヒを除くSOS団の四人が集合しているのは駅前の喫(茶(店(である。対ハルヒ対策の緊(急(合同対策本部の設置を提唱した古泉に、全員が賛成した。どうやら真(剣(に、ことは風雲急を告げる具合になっているようだった。見た目は高校生数人の他愛(のない談(笑(で(笑っているのは古泉だけだったが)、やってることは特(撮(ヒーローものの悪役幹部が正義側の必殺技(を封(じるための相談をしているような胡(散(臭(さ溢(れる会合なのだが。ちなみにシャミセンは、店の外の植え込みで待っているように、それから決して他人に話しかけたり応じたりしないよう申しつけてやった。特に不満の色もなく、「よかろう」と応(えた猫は素(直(に道ばたの常緑樹の木(陰(に身を隠(すようにうずくまり、我々を見送った。
「どうなるんでしょうか……」
一(際(深刻なのは朝比奈さんだった。気の毒なことに相当ヨレている。ハルヒ映画のおかげで一番神経を病(んでいるのは彼女だな。長門はデフォルトの無表情を崩(さない。恰(好(も黒ずくめのままである。
古泉がホットオーレを啜(り込みながら言っている。
「一つ解っているのは、このまま涼宮さんを放(っておくわけにはいかないということです」
「そんなもんはお前に言われるまでもねーよ」
俺はお冷やを一気飲みした。注文したアップルティーはすでに飲み干している。
「だから、どうやってハルヒを止めるのかを問題にしてるんじゃないか」
「どうやってと言いましても、今(頃(になって映画撮(影(を中止させることが誰(に可能でしょうか。少なくとも、僕には自信がありません」
もちろん俺にもない。
いったんエンジンがかかったが最後、ハルヒはスイッチを切らない限りどこまでも走っていってしまうのである。泳ぎを止めると死ぬ魚の一種なのかもな。系図を辿(っていけばあいつの祖先にマグロかカツオがいるに違(いない。
長門は何も考えていないような顔でシナモンティーを黙(々(と飲んでいる。本当に何も考えていないのかもしれないが、すべてを解(っているから考える必要もないのかもしれないし、ただの極(端(な口べたなのかもしれない。こいつばっかりは半年経(っても考えてることがさっぱり解らない。
「長門、お前はどう思うんだ。何か意見はないのか?」
「…………」
音を立てずに受け皿へとカップを戻(した長門は、なめらかな動きで俺を見た。
「前回と違って涼宮ハルヒはこの世界から消えていない」
フリーズドライしたような声だった。
「それだけで充(分(だと情報統合思念体は判断している」
古泉が優雅に額を押さえた。
「しかし僕たちは困るのですが」
「我々は困らない。むしろ観測対象に変化が発生したのは歓(迎(すべきこと」
「そうですか」
あっさり長門に見切りをつけて、古泉は再び俺に顔を向けた。
「では涼宮さんの映画がどのようなジャンルのものになるのか、それを決定づける必要がありますね」
さあ、またこいつはわけの解らないことを言い出すつもりだぞ。
「物語の構造は大まかに分けて三つに分類することが出来ます。物語世界の枠(組(みの中で進むか、枠組みを破(壊(して新たな枠組みを作り上げるか、破壊した枠組みをまた元通りに直してしまうか」
やっぱり演説を始めやがった。はあ? 何言ってるのこの人? みたいなもんだ。朝比奈さんも、そんな真(面(目(な顔で聴(くもんじゃないですよ。
「ところで我々は枠組みの中にいるのですから、この世界を知るには論理的思考を働かせて推測するか、観測によって知覚しなければなりません」
枠組みってな、何のことだ。
「たとえば我々のこの『現実』を考えてみましょう。僕たちがこうして生活している世界のことです。対して、涼宮さんの撮っている映画は我々にとってフィクションです」
当たり前だろ。
「我々が問題視しているのは、そのフィクション内での出来事が『現実』に影(響(を及(ぼしているからです」
ミラクルミクルアイ、鳩(、桜、猫(。
「虚(構(による現実への侵(食(を防がねばなりません」
なんだか古泉はこういうことを話す時には元気になるみたいだな。やけに晴れやかな顔をしている。反(抗(して俺は曇(った表情を浮(かべることにする。
「涼宮さんの異能力が映画作りというフィルターを通して顕(在(化しているわけです。これを防ぐ手段は、『フィクションはあくまでフィクションに過ぎない』、ということを涼宮さんに解らせることなのです。今の彼女は、この垣(根(を無意識のうちに曖(昧(化させていますから」
よほど調子に乗っているんだな。
「フィクションでの出来事が事実ではないということを論理的手続きによって証明することが必要です。我々はこの映画を合理的に落ち着くよう誘(導(しなければなりません」
「猫が喋(るのをどう正当化すればいいんだよ?」
「正当化というのは違いますね。それでは結局、猫が喋り出す世界が構築されることになってしまいます。我々の『現実』では猫は喋りません。喋る猫のどこかに何らかの間違いがあったことにしなければマズいのです。なぜなら猫の喋る世界は、我々の世界にはあり得ないものの一つなのですから」
「宇宙人と未来人とESPはあり得てもいいのか?」
「ええ、もちろん。だって現に存在していましたからね。我々の世界ではそれが普(通(です。ただし涼宮さんには知られてはいけない、という条件付きの」
そうなのか?
「もし我々の世界をどこか遠くから眺(めている存在がいたとしましょう。その彼ないし彼女にとっての『現実』世界が、以前のあなたのように超(常(的な超自然現象のない世界──宇宙人も未来人も超能力者もいない世界です──だとしたら、この我々の『現実』はまさにフィクショナルな世界に見えることでしょうね」
それがお前の言う神様の正体か。
「でもそれはあくまで外側から見た場合でのことです。あなたはすでにこの世界に超自然的存在──つまり僕とか長門さんです──が、ちゃんといることを知ってしまっている。その世界で生きている以上、あなたもまた枠組みの中で現実を認(識(するしかないのです。あなたの現実認識は、一年前と今ではすでに違(うものになっているはずですよ」
知らないままのほうがよかったかもしれないな。
「それはどうでしょうね。まあ、一つ言えることがあります。涼宮さんは以前のあなたと同じ状態です。つまりまだ現実認識が変化するまでにいたっていない。口では色々なことを言いつつも、心の奥底では超自然的存在を信じていないわけです。彼女が見たものと言えば閉(鎖(空間と《神人》ですが、涼宮さんはあの時のことを夢だと思っている。夢は虚構です。なので、この『現実』はまだ我々にとっての現実として形を留(めているというわけですよ」
するってーと。
「ええ、ですからこのまま虚構が現実化していき、涼宮さんがそれらを『現実』だと認識すれば、まさに喋る猫の存在は『現実』の一つとして取り込まれます。猫が喋るなんておかしなことですから、喋る猫の存在を現実化するには世界そのものの再構築が必要です。猫が喋ってもおかしくない世界を、涼宮さんは作り上げようとするでしょう。おそらくSF的な世界観にはなりませんね。彼女の思考パターンから言って、そんな面(倒(なことをするとは思えません。世界は一気にファンタジーの論理が支配するものになるでしょう。猫が喋ることに何の理(屈(もいらないわけです。喋る猫がいる、というただその事実のみで充(分(なのですよ。なぜ猫が喋るのかというエクスキューズは皆(無(です。なぜなら猫とはもともと喋る動物だったことになるのですからね」
古泉はマグカップを置いて、陶(器(の縁(を指でなぞる。
「それでは困るわけです。今まで世界を構築していた概(念(がひっくりかえるからですよ。僕は人類の観測結果と思考実験をそれなりに尊重しています。その上で、何もしてないのに自然に喋りだす猫というものは観測もされていなければ予想もされていません。我々のこの世界にいてはおかしい存在なのです」
お前たちはどうなるんだよ。超能力者だって似たようなものだろう。
「ええ、ですから我々もまた、世界にとっては既(定(の法則を揺(るがす異物です。我々が存在するのは涼宮さんのおかげでしょうね。ということは、この喋る猫もそうでしょう。彼女が映画に登場させようと考えた、まさにその存在です。どうやらですね、涼宮さんが作ろうとしている映画の内容と、この現実世界がリンクしようとしているようだ、ということが解(るのですよ」
解ったところでなあ。なんとかならないのか。
「それにはまず、映画のジャンルを決定する必要があるのです」
いい加減にしろと言いたいね。独りよがりな熱弁を振(るうのは、そりゃ本人は楽しいかもしれないが少しは聞いている身にもなれ。全校朝礼の校長訓辞に匹(敵(するウザさだぜ。見ろ、朝比奈さんもさっきから変に暗い顔になってるじゃないか。
しかし古泉はまだ喋(り足りないようで、
「もしこれがファンタジー世界での出来事なら、猫が喋ったり朝比奈さんが目からビームを出したりなどの現象には何の説明もいりません。その世界は、『もともとそういうふうになっている世界』だからです」
俺は窓の外へ視線を移動し、シャミセンがまだそこにいることを確かめた。
「ですが、喋る猫やミクルビームが存在することに何らかの理由があれば、その時点で別の世界が見えてきます。我々が知らなかっただけで猫が喋ったり朝比奈さんがビームを出したりする現実は確かにあったのだ、ということになるのです。観測によって存在証明ができたわけです。しかしその瞬(間(、我々の世界は変容します。超常現象がない世界から超常現象を内包した世界を認識し直さなければならないのです。我々の知っていた現実世界は、実は偽(りのものだったことになるのですから」
俺はため息をついた。どうやってもこいつは語りを止(めないらしいな。
つまり猫が喋るには喋るだけの理屈がいると、そう言いたいのか。でもそれならお前や長門や朝比奈さんはどうなるんだ。お前と彼女たちだって充分に超自然現象に分類されるんじゃないのか?
「あなたにとってはそうでしょう。自明の理のはずです。あなたにとって世界はすでに変容しています。高校に入学したばかりのあなたと現在のあなたでは、認(識(している世界はとっくに別物なのではないですか? あなたの現実認識は、もはや以前のモノとは違っています。そしてあなたは新しい現実を認識しているんじゃないんですか? 我々のような存在が確かにいることを、あなたはもう解っているでしょう」
「俺に何を解れと?」
「映画の話に戻(りますが、今のところ涼宮さんが作ろうとしているのは、おそらくファンタジーに分類されるもののようです。この映画の中では、猫(が喋るのも朝比奈さんや長門さんが魔(法(じみた力を使うのも何の理由もいりません。ただそうなっている、それで充分なのです」
じゃあ、化け猫や未来人ウェイトレスや悪い魔法使いに存在意義を与(えてやればいいのか。
「ところがそうもいかないのですよ。それどころか、存在意義など与えてしまってはそっちのほうが困るんです。観測者が物語のスタート時と結末時で『物語内の世界が変化』したことを確認してしまえば、まさに存在を認めることになりますからね。喋る猫が存在してもいい、というふうに世界のほうを変えてしまうのですよ。僕はこれ以上世界がややこしくなるのはあんまり歓(迎(しませんね」
俺だって歓迎しない。長門サイドくらいだろうな、困らないのは。
「先ほど僕はジャンルを決定する必要があると言いましたが、ここでとあるジャンルに登場願えればいいのです。そのジャンルは、すべての謎(や超(自然現象を解体し、合理的なオチをつけることによって、歪(みかけた世界を元通りの世界に引き戻す性質を持っています。物語のスタート時にあった世界が結末時において復活し、謎のような現象はすべて合理的に解消する働きを持つ唯(一(のジャンルがあるのですよ」
何だ。
「ミステリですよ。特に本格ミステリと呼ばれるものの一部です。このジャンルの方法論を使えば、あたかも信じがたいように思えた現象はその通り、ただ『信じがたいように思えた』というだけで、なにもわざわざ超自然現象を持ち出さなくともよいことになります。喋る猫も朝比奈必殺ビームも、何かのトリックであったということにしてしまえばいいわけですから。我々の現実は変容することはないでしょう」
喫(茶(店(のウェイトレスが、朝比奈さんを意識して無視するような感じで全員のカップを下げに来た。その姿が去るのを待って、古泉は、
「人語を話す猫がいるというのは明らかにこの世界の常識ではありません。にもかかわらず、ここに喋る猫は存在します。存在するはずのないモノが存在するわけです。これは我々の世界にとって非常に不都合なことです」
水の入ったグラスに付着した水(滴(を指で弾(きながら、
「事態を解決するには、この映画に合理的なオチをつけなければなりません。猫が喋ったり、未来人がいたり、魔法使いの宇宙人がいることに対する、論理的に万(民(が──というより涼宮さんが──納(得(する結末です」
「あるか? そんなの」
「ありますよ。ごくごく簡単で、それまでの理(屈(に合わない展開を一気に常識的なものへ転化する結末がね」
言ってみろ。
「夢オチです」
「…………」
沈(黙(が訪(れた。全員の間に平等に。やがて古泉は言った。
「冗(談(を言ったつもりはなかったのですが……」
前(髪(をつまんで指に絡(めている優(男(に、俺は侮(蔑(を込(めた視線を突(き刺(した。
「ハルヒがそれで納得すると思うか? あいつは嘘(か誠かは別として、けっこう本気で何らかの賞を狙(っているらしいぞ。それが夢オチだ? いくらあいつがアホでも、そこまで突き抜(けたアホな映画にはしないと思うぜ」
「彼女がどう思うかではなく、我々の都合に合わせたオチを考えた結果です。映画の内容がすべて夢、嘘、間(違(いだったということを作品内で自己言(及(するのが、一番よい解決法なのですよ」
お前にとってはそうだろう。俺にとってもそのほうがいいのかもしれない。しかしハルヒはどうだろう。ひょっとしたらあいつの頭の中には、途(方(もなく自画自賛すべきラストシーンが出来上がっているのかもしれんぞ。
それに俺はもう夢がどうしたとかいうような話には二度と触(れたくないのだ。ついでにお前のクソ面(白(くもない独断的事情説明にもな。
自宅への帰り道にホームセンターに寄った。一番安い猫用トイレ一式と特売の猫(缶(を購(入(し、一応領収書も貰(って外に出る。シャミセンは前(脚(で顔を洗いながら待っていた。俺は歩き出し、猫もついてくる。
「いいか、家では一言も喋(るな。ちゃんと猫らしくしていろ」
「猫らしく、という言葉の意味は解(らないが、キミがそのように言うのなら従おう」
「喋るな。返事は、にゃあ、で統一しろ」
「にゃあ」
連れて帰った野(良(猫を見て妹と母親は目を丸くした。俺は考えておいた嘘話、「こいつの飼い主である知人がしばらく旅行にいくことになったので一週間ほど預かることになった」と説明し、快(諾(を得た。特に妹は喜び勇み、シャミセンの身体(中(をぺたぺた触(っている。化け猫のほうはおとなしく「にゃあ」と鳴くのみだった。それはそれであまり猫らしくないかな。
無事に夜が明けた。今日も俺は学校に行かねばならない。置いていくのも心配なのでシャミセンも連れて行く。スポーツバッグの中に入るよう促(した俺に、シャミセンは「まあ、よいだろう」と偉(そうに言って納まった。校門の近くで出してやることにしよう。
文化祭まで残り数日となった我が校だが、まるでハルヒのテンションに連動するかのように、雑然たる雰(囲(気(を着実に増大させていた。昨日までの無気力ぶりはなんだったのかと思えるくらいである。
朝っぱらからあちこちで鳴り物やら歌声やらが聞こえるし、看板や立て札みたいなものを作っている連中もそこら中にいるし、何をするつもりか不可解な衣(装(を着た一団もウロウロしている。このぶんでは異世界人の一人二人が混じっていたとしても不思議ではなくなってきた感じだ。やる気ゼロなのは一年五組だけだったのだろうか。このクラスのやる気の全部をハルヒが吸い取りでもしているのかもしれないな。
俺が教室に入ると、すでにハルヒは着席しておりノートにわしわし書き殴(りをおこなっていた。
「ようやく脚(本(を書く気になったのか?」
自分の席に着きながら尋(ねる。ハルヒはふふんと鼻を鳴らしてくいっと顎(を上げた。
「違うわよ。これは映画のキャッチコピー」
「見せてみろ」
ノートを取り上げて目を走らせる。
『朝比奈みくるの秘蔵丸秘極(秘(映像満(載(! 見ないと絶対後(悔(後の祭り! SOS団プレゼンツでお送りする今年最大の話題作! 雲(霞(のごとく押し寄せよ!』
いたずらに扇(情(的なだけだとか今年はあと二ヶ月くらいしか残っていないとかいうツッコミは封(印(してやってもいいが、これでは朝比奈さんが出ているということしか解らない。このコピーを読んでどんな映画なのか想像できる人間がいたら、俺は違った意味で尊敬する。まあ撮(影(している俺にだってまだどんな映画か解らないんだし文句のつけようもない。ハルヒにも解ってないんじゃないか? それにしてもよく辞書なしで雲霞って書けたな。
「チラシを刷って当日に校門前で撒(くわけよ。うん、効果バツグン! 文化祭くらいバニーの恰(好(してても岡部も何も言わないわよね!?」
いや、言うと思うが。ここはお堅(い県立高校なんでな。担任の胃を痛めるようなことはやめてやれ。
「それに朝比奈さんは模(擬(店で忙(しいだろう。古泉と長門も自分たちのクラスでも何かやるんだろ、当日にヒマなのはお前と俺くらいだ」
ハルヒは胡(乱(な目つきで俺を見た。
「あんたがバニーをするって言うの?」
なんでそうなる。お前が一人でやればいいだろ。俺ならその後ろでプラカード持って立っていてやるさ。
「ところで知ってるか? 文化祭までもうそんなに日がないぞ。今週末の土曜と日曜が文化祭の当日だ」
「知ってるわよ」
「そうかい。のんびりしてるもんだから日付を勘(違(いしてんじゃねえかと思ってたよ」
「のんびりなんかしてないでしょ。今もほら、煽(り文句を考えてたんだし」
「宣伝のことを考えるより、先にやることがあるだろうが。映画はいつ完成するんだ?」
「もうすぐよ。後は足りないシーンを撮(り足して、編集して、アフレコと音楽とVFXを入れたら出来上がりよ」
そりゃ驚(きだ。カメラマン的立場から言わせてもらえば、足りないシーンのほうが多いような印象を持っているのだが、いったい監(督(はどんな映画にすることを考えているのだろう。おまけに撮(影(終(了(後の作業に今までの倍くらい時間がかかりそうなのも、単なる俺の気のせいだといいんだが。
三限と四限の間の休み時間だった。
「キョンくんっ!」
教室にいたクラスメイトたちが残らず腰(を浮(かせるくらいにバカでかい声が響(き渡(り、俺が反射的にそちらを見ると、鶴屋さんが戸口から顔を覗(かせていた。その肩(の横に朝比奈さんの柔(らかな髪(が見え隠(れしている。
「ちょっとこっち来てっ」
鶴屋さんの笑(顔(に引かれるように、俺はすっ飛んで行った。ハルヒは休み時間になるとどこかに消える習慣を維(持(しているので教室にはいない。たぶん、校舎のどこかをほっつき歩いてるんだろう。好都合だ。
廊(下(に出た俺の袖(を鶴屋さんは引っ張って、
「みくるが話があるって!」
反対側の校舎まで聞こえそうな声でそう叫(び、朝比奈さんの背中をばしんと叩(いた。
「ほら、みくる、キョンくんにアレを!」
おずおずとした手つきで、朝比奈さんは俺にぴらぴらの紙切れを差し出した。
「これ……。そのう、わわ、割引券です」
「あたしたちのクラスでやる焼きそば喫(茶(のやつだよっ」と、鶴屋さんが追加説明。
有り難(く受け取ることにする。クーポン券みたいなものらしい。落(款(を押された印刷文字を読む限りでは、これを持って行くと焼きそばが三割引になるそうだ。
「お友達とお誘(い合わせの上でお越(しください」
ぺこりと頭を下げる朝比奈さんと、マンガのキャラみたいな口で笑っている鶴屋さんだった。
「それだけ! じゃあね!」
さばさばと鶴屋さんは立ち去ろうとして、朝比奈さんもそれに従いかけ、しかしすぐに一人で俺の許(へと駆(け戻(った。鶴屋さんはそれを見ながらケロケロ笑い、立ち止まって待ちの姿勢。
朝比奈さんは両手の指先を合わせて俺をちらちらと眺(めていたが、
「……キョンくん」
「なんでしょうか」
「古泉くんの言うこと、その、あまり信用しないほうが……。こんなこと言うと、あたしが古泉くんをアレかと思われるようで……その、イヤなんですけど……でも」
「ハルヒが神様だとか、そういう話ですか?」
なら、そんなこと信じちゃいませんよ。
「あたしは、そのう……。別の考えを持っていて、つまりその、それは……古泉くんの解(釈(とは違うものなんです」
朝比奈さんはふひゅうと息を吐(き、俺を上目で見つめる。
「涼宮さんに、この『現在』を変える力があるのは間違いないです。でも、それが世界の仕組みを変えるものだとは思いません。この世界は、最初からこうだったの。涼宮さんが作り出したんじゃないんです」
それはそれは……。古泉とは真っ向から反発する意見ですね。
「長門さんも違うことを考えていると思う」
朝比奈さんは制服の前で指を絡(ませながら、
「あの……。こんなこと言うとちょっと人聞きが悪いかもしれないんですけど……」
離(れた場所で鶴屋さんがニヤニヤ笑いながら俺たちを眺めている。雛(に巣立ちを促(すツバメの親みたいな顔だった。何か誤解しているんじゃないだろうか。
言葉を紡(ぐ朝比奈さんの口調は朴(訥(としている。
「古泉くんの言っていることと、あたしたちが考えていることは違うものなの。古泉くんのことを、そのぅ……あんまり信用しないで……と言ったら語(弊(があるけど、ええと」
慌(てたように手を振(って、
「ごめんなさい。あたし説明ヘタだし制限かかってるし……。あの、」
うつむいたり、俺を見たりしていたが、
「古泉くんにはあっちの都合と理論があるし、あたしたちにもそう。たぶん、長門さんも。だから」
朝比奈さんは、身体(中(の気力を総動員したような決意に満ちた顔で俺を見つめた。真(面(目(な顔も可愛(らしい。このお顔を至近で拝見できる感激に震(えつつ、自信を持って俺は答えた。
「解(ってますよ。ハルヒが神様なわけないじゃないですか」
あんな奴(に賽(銭(を投げるくらいなら、朝比奈さんを教祖にして宗教法人を立ち上げたほうが信者の集まりもいいというものだ。実印と太(鼓(判(を両方押してもいい。
「俺にはまだ古泉より朝比奈さんの意見のほうが解りやすいですよ」
ちょっとだけ、朝比奈さんは微笑(んだ。もしスイートピーが笑うのだったら、こんな感じになると思うね。
「うん。ありがと。でも、あたし自身には古泉くんに含(むところはありません。それも解っておいてくださいね」
微(妙(なことを言って俺を上(目(遣(いで見上げると、逃(げるようにさっと身体を翻(した。いや別に抱(きつくつもりはなかったですが。
朝比奈さんは、小さく手を振ってから、親鳥の後ろをつけるカルガモの雛みたいに鶴屋さんの後を追いかけて行った。
少しでも作業を進めておいたほうがいいだろう。そう思い、同時に何で俺こんな殊(勝(なことを思ってんだとも思いつつ、パソコンをいじるために訪(れた部室には先客がいてトンガリハットに暗幕マントのまま本を読んでいた。
俺が何も言わないうちに、
「朝比奈みくるの主張はこうだと思われる」
俺の心を読んだように長門はそう前置きし、
「涼宮ハルヒは造物主ではない。彼女が世界を創造したのではない。世界はこのままの形で以前から存在していた。超(能(力(や時間異動体、概(念(形地球外生命体などの超自然的存在は涼宮ハルヒが願望によって生まれたのではなく、元々そこにいたのである。涼宮ハルヒの役割は、それらを自覚無しに発見することであり、その能力は三年前から発揮されている。ただし彼女の発見は自己認(識(に到(達(しない。彼女は世界の異常を探知できるが決して認識することはない。認識を妨(害(する要素もまた、ここに存在するからである」
決して笑わない唇(が淡(々(と言葉を紡ぐ。長門は俺の目をじっと覗(き込むように、最後にこう言って口を閉(ざした。
「それが、我々」
「朝比奈さんには古泉と違(う理由があって、ハルヒが不思議現象を見つけることが不都合なのか」
「そう」
長門はまた開いた本に目を向ける。俺との会話などどうでもよさそうな態度だった。
「彼女は彼女が帰属する未来時空間を守るためにこの時空に来ている」
何だか、重大なことをサラリと言われたような気がする。
「涼宮ハルヒは朝比奈みくるの時空間にとって変数であり、未来の固定のためには正しい数値を入力する必要がある。朝比奈みくるの役割はその数値の調整」
紙の擦(れる音も立てず、長門はページを繰(っている。硬(質(な黒い目を瞬(きもさせずに、
「古泉一樹と朝比奈みくるが涼宮ハルヒに求める役割は別。彼らは互(いに相手の解(釈(を決して認めることはない。彼らにとって異なる互いの理論は自分たちの存在基(盤(を揺(るがすものにほかならない」
待てよ。古泉は三年前に超能力が自分に宿ったのだと言ったぞ。
俺の疑問に長門は即(答(、
「古泉一樹の言葉が真実であるという保証はどこにもない」
俺は例のハンサム笑(顔(を脳(裏(に描(いた。確かに保証はない。古泉の理(屈(は俺が被(った出来事にもっともらしい解説を付けているだけだ。それが正解だと誰(に解る? 事実、朝比奈さんは信じるなと言った。しかし朝比奈さんの理屈だって同じことだ。朝比奈版解答が正しいのだと、誰が保証してくれるのだろう。
長門を見る。古泉の言うことは嘘(っぱちかもしれない。朝比奈さんは自分の意見が嘘だと気付いていないのかもしれない。だが、この冷静な宇宙人だけは嘘を言いそうにない。
「お前はどう思っているんだ。どれが正解だ。前にお前が言ってた、自律進化の可能性ってのは結局何なんだ」
黒衣の読書好きは底(抜(けに無感情だった。
「わたしがどんな真実を告げようと、あなたは確証を得ることができない」
「なぜだ」
しかしその時。俺は滅(多(に見られないものを見た。長門は、迷うような表情をしたのだ。俺が少々愕(然(としていると、
「わたしの言葉が真実であるという保証も、どこにもないから」
最後に長門はこう告げて本を置き、部室から立ち去った。
「あなたにとっては」
予(鈴(が鳴り出した。
わからん。
普(通(、解(るか?
古泉も長門も、もっと他人に解りやすく話してくれよ。わざと難しく言ってるんじゃないかと思うね。少しは簡単にまとめる努力を払(うべきだ。でないと、そんなもの耳を素(通(りするだけだからな。誰も聞いちゃくれねえぜ。
腕(組(みしながら歩いている俺を、無(国(籍(中世風な恰(好(をした一団が追い抜(いて廊(下(の角を曲がった。長門があの黒い衣(装(で混じっていても違(和(感ないような連中だった。どこのクラスかクラブかが、ハルヒに負けじとファンタジー映画でも撮(ってるのかもな。いいよな、そいつらは。おそらく俺のような悩(みを持つことなく、楽しく撮(影(をおこなっていることだろう。もっとまともな監(督(が常識的な指揮を執(っているんだろうしさ。
俺はため息つきつき、一年五組の教室へと帰(還(した。
映画撮影が順調だと考えているのはハルヒだけで、俺と古泉と朝比奈さんは次(第(に顔にかかる縦線が影(を濃(くするようになっていた。
撮影が進むにつれ様々なことが発生しているようだった。いつの間にかモデルガンからはBB弾(ではなく水(撃(弾が出るようになっていたし、朝比奈さんはハルヒが違う色のコンタクトを持ってくるたびに物(騒(なものを出し(金色がライフルダートで緑色がマイクロブラックホールだった)その都度長門に噛(まれていたし、桜は咲(いたと思ったら次の日には散っていたし、神社の白い鳩(たちは数日後にはとっくに絶(滅(したはずのリョコウバトになっていたらしいし(古泉がこっそり教えてくれた)、地球の歳(差(運動が微(妙(にズレたりしてたそうだ(長門・談)。
日常はどんどんおかしくなっているようである。
疲(れた身体(を引きずって自宅に帰ると、今度はヒゲの生えた動物が口を開きやがるしさ。
「あの元気な少女の前で口を閉じておけばよいのだろう」
三(毛(猫(はスフィンクスみたいな姿勢で俺のベッドの上に寝(そべっていた。
「よく解ってくれてるじゃないか」俺はシャミセンの長い尻尾(を軽くつかんだ。猫はするりと俺の手から尾(を逃(がし、
「キミたちがそうして欲しそうにしていたのでな。私自身、あの少女に私の話し声を聞かれるのは何故(か不都合なことになりそうな予感がある」
「古泉によるとそうらしいな」
猫が喋(る。ということは猫が喋っても不思議ではない理屈が必要である。簡単に言えば、喋る猫が存在しても何ら不思議でない世界を構築すればいいらしい。そりゃいったいどんな世界のどんな猫なんだ?
シャミセンはぱかりとあくびをして尻尾の毛(繕(い。
「猫にも色々いるのだ。ヒトもそうであろう」
その「色々」の部分をもっと詳(しく知りたいもんだ。
「知ってどうすると言うのか。キミが猫に成り代わることができるとも思えない。猫の心理を体得することもまた然(りであろう」
うんざりだ。どいつもこいつも。
そろそろ風(呂(にでも入ろうかと考えていたら妹が俺の部屋を訪(れ、来客を告げた。
誰(かと思いつつ階下へと。ついに自宅までやって来たのは古泉だった。俺は家の外に出て、夜道にて応対してやる。部屋に入れて終わらない長話をされても困るし、シャミセンとダブルで意味不明な抽(象(論を聞かされるのも御(免(被りたい。
思った通り、古泉は一人で理(屈(っぽいことを延々話して、あげくにこんなことまで言い出した。
「涼宮さんにとって細かい設定や伏(線(はどうでもいいんですよ。こっちのほうが面(白(いような気がする、で充(分(なわけです。そこには合理的な解決も、綿密な構成も、手がかりになるような伏線もありません。かなり刹(那(的に物語を作っていると言えるでしょう。オチなんか考えていないのです。ひょっとしたら未完で終わるかもしれませんね」
それだと困るんだろうが。お前の言い分では、放(り投げっぱなしで終わるとこのぐちゃぐちゃになりかけている現実がそのまま現実として固定されてしまうんだろ。ハルヒの中でちゃんと結末を迎(えなければならず、なおかつ現実に即(したオチでなければならない。そして、それを俺たちが考えないといけないわけである。ハルヒは考えなしだし、それにあいつの考えることは常態的に滅(裂(だ。ならばまだ俺たちが考えたほうがマシで、しかしなぜこんなことを考えなければならないのか、誰かこの呪(いを肩(代(わりしてくれる奴(はいないものか。
「そのような人がいたら」
古泉は肩をすくめた。
「とっくに我々の前に姿を現していることでしょうね。ゆえに我々がなんとかしなければならないのです。特にあなたのがんばりには期待しています」
だいたい何をがんばれってんだ。まずそれを教えてくれ。
「世界がフィクション化すると困るのは僕たちの論理ですからね。朝比奈さんも困るかもしれない。彼女たちには彼女たちの論理があるようですから。長門さんはよく解(りませんが、観察者は結果を受け止めるだけです。最終的に勝ち上がってきた理論を冷静に受け止めるだけですよ。たとえ地球が消し飛んだとしても、涼宮さんが残るならばそれでいいのです」
外灯の光が、薄(闇(の中の古泉を事務的に照らし出している。
「本当の話をお聞かせしますと、涼宮さんを中心とする何らかの理論を持っているのは我々『機関』と朝比奈さんの一派だけではありません。たくさんあるんです。水面下で我々がおこなっている様々な抗(争(と血みどろの殲(滅(戦をダイジェストで教えて差し上げたいくらいですよ。同盟と裏切り、妨(害(と騙(し討(ち、破(壊(と殺(戮(。各グループとも総力を挙げての生き残り合戦です」
古泉は疲れ気味の皮肉な笑(みを広げる。
「我々の理論が絶対的に正しいとは僕も思いません。しかし、そうでも思わないとやっていけないというのも現状なのです。僕の初期配置は、たまたまそちら側だったのでね。どこかに寝(返(ることもできません。白のポーンが黒側に移ることはできないのです」
オセロか将(棋(にしろ。
「あなたには無(縁(のことでしょう。涼宮さんにも。そのほうがいい。特に涼宮さんには永遠に知らないでいて欲しい。彼女の心を曇(らせるようなことはしたくないんです。僕の基準で言えば、涼宮さんは愛すべきキャラクターをお持ちです。ああ、もちろんあなたも」
「なぜ俺にそんなことを教える」
「口が滑(ったんですよ。理由なんかありません。それに僕は冗(談(を言っているだけなのかもしれない。または、変な妄(想(に取り憑(かれているだけなのかもしれない。あなたの同情を惹(こうとしているだけなのかも。どちらにせよ、つまらない話ですよ」
確かにな。全然面白くない。
「つまらない話のついでにもう一つ。朝比奈みくるが……失礼、朝比奈さんがなぜ僕やあなたと行動を共にしているのか、その理由を考えたことがありますか。あの通り、朝比奈さんは見ていて危なっかしい美少女です。つい手助けしたくなるのも解ります。あなたは彼女が何をしようと肯(定(的に受け止めるでしょう」
「それのどこが悪い」
弱きを助け、強きをくじくのが正常な人間の精神的営みだ。
「彼女の役目はあなたを籠(絡(することです。だから朝比奈さんはあのような容姿と性格をしているのです。まさにあなたの好みそうな弱気で可愛(らしい少女としてね。涼宮さんに少しでも言うことを聞かせることができるのは、唯(一(あなたですから。あなたを搦(め捕(ってしまうのが最適なのです」
俺は深海魚のように沈(黙(する。半年前、朝比奈さんから言われたことが思い返される。今の朝比奈さんではなく、さらなる未来から来た大人バージョンの朝比奈さんの言葉だ。手紙で俺を呼び出したその朝比奈さんは、「あたしと仲良くしないで」と言っていた。あれは彼女の立場がそう言わせたものだったのだろうか。それとも、彼女個人の心情吐(露(だったのか。
俺が黙(っているのをいいことに、古泉は年老いた縄(文(杉(が話しているような声で続けた。
「朝比奈さんがウッカリ者なのはそう演じているだけで、本心は別にあるとしたらどうですか? そのほうがあなたの共感を得やすいと判断したのでしょう。幼く見える容姿や、涼宮さんの無理難題に唯(々(諾(々(と従う可哀(想(な立ち位置もそうです。すべてはあなたの目を自分に向けさせるためですよ」
こいつ、本格的に正気ではなくなってきたようだな。俺は長門の平(坦(な声を真似(る。
「冗談は聞き飽(きた」
古泉は微(細(に微笑(み、いささかオーバーアクション気味に両手を広げた。
「ああ、すみません。やはり僕は冗談を貫(き続ける能力に欠けていますね。嘘(なんですよ。全部今僕が作ったトンデモ設定です。ちょっと深刻ぶったことを言いたかっただけでしてね。本気にしました? だとしたら僕の演技もなかなかですね。舞(台(に上がる自信が湧(いてきましたよ」
耳(障(りなくすくす笑いを漏(らしながら、
「僕のクラスではシェイクスピア劇をやることになっているんですけどね。『ハムレット』です。僕はギルデンスターンの役を仰(せつかりまして」
知らん名だ。どうせ脇(役(だろう。
「本来はそうだったんですけどね。途(中(でストッパード版に変(更(になったんですよ。ですので僕の出番も結構増えてしまいました」
ごくろうさんと言いたいね。ハムレットにシェイクスピア版以外のものがあるとは知らなかったよ。
「涼宮さんの映画と、こちらの舞台とで僕のスケジュールはけっこう厳しいものになっているのです。プレッシャーですよ。僕が精神的に疲(れているように見えるのでしたらそのせいでしょう。その上、閉(鎖(空間でも出たりしたらきっと倒(れ伏(す自信がありますね。それもあって、あなたにお願いしに来たのです。どうか涼宮映画が発生源の異常現象を止めてもらえないかとね」
合理的なオチというやつか? お前は夢オチとか言っていたな。
「ハルヒの映画の内容が全部デタラメであるということをハルヒ自身に自覚させること──だったか?」
「明確に自覚させることですね。彼女は聡(明(ですので、映画がフィクションであることくらいしっかり知っています。ただ、この通りになったらいいなと考えているだけなのです。そうはならない、ということを確実に解(ってもらう必要があるのですよ。できれば撮(影(が終(了(される前に」
よろしくお願いします、と一礼して、古泉は夜(闇(の中に消えていった。なんだろう。あいつは俺に責任を押しつけに来たのだろうか。自分はすでに苦労しているから次の苦労は俺が背負えと、そういうことなのか? だとしたらお門(違(いもいいところだ。ババ抜(きのジョーカーじゃあるまいし、押し付け合いをするもんでもない。涼宮ハルヒは五十三番目のカードじゃないんだぜ。切り札でもオールマイティーでも、もちろんババでもない。
「まあ、しかし」
俺は呟(いた。
放(っておくわけにはいかないようだった。長門はともかく、朝比奈さんも古泉もそろそろヒットポイントがデッドラインに近付いているようだ。俺が知らないだけでこの世界全体もそうなのかもしれない。
「それはちょっと困る……かな」
面(倒(くさいな、ちくしょう。俺だってかなりアップアップなんだぜ。
俺は方策を考えた。ハルヒの妄(想(を収めるにはどうすべきか。映画は映画、現実は現実、おのおの別物なのだと、ハッキリキッパリ解らせるにはどうすればいいのか。そんな当たり前のことを改めて納(得(させる手だてとは何だろう。夢オチか……それ以外では?
文化祭まで、後少し。
翌日、俺はハルヒにとある一つの提案をして、すったもんだの末に了承を得た。
「はいオッケーっ!」
高らかにハルヒは叫(んで、メガホンを打ち鳴らした。
「お疲れさーん! これで全部の撮影は終了よ! みんなよくがんばってくれたわ! 特にあたしは自分を褒(めてやりたいわ! うん、あたしスゴイ。グレートジョブ!」
その言葉を聞いて、ウェイトレス朝比奈さんが崩(れ落ちるように座り込んだ。心底、安(堵(しているようで安堵のあまり泣きそうな顔になっている。実際、すすり泣きまで漏らしていたくらいだ。ハルヒはその涙(を感極(まったものだと解(釈(したようで、
「みくるちゃん、泣くのはまだ早いわよ。その涙はパルムドールかオスカーを授(与(されるその日まで取っておくの。みんなで幸せになりましょう!」
校舎の屋上で、文化祭を明日に控(えた昼休みだ。もはや昼飯すらおちおち喰(えないほど、時間は切(迫(していたのである。
ミクルとユキのラストバトルは、突(如(己(の能力を覚(醒(させた古泉イツキの何だか解らん御(都(合(主義パワーによってユキが宇宙の彼方(に飛ばされることで幕を閉じた。
「これで完(璧(ね。すごいイイ映画が撮(れたわ。ハリウッドに持ち込んだらバイヤーたちが雪崩(を打って飛びつくわね! まず腕(利(きのエージェントと契(約(しないといけないわ!」
グローバルな感じで威(勢(のいいハルヒだった。こんな映像集を誰(が見てくれるのか知らんが、引きのあるのは主演女優だけでその他スタッフは用無しだろうな。何なら俺が朝比奈さんのエージェントとして売り込みに行きたいね。小金くらいなら稼(げそうに思う。ついでだ、ハルヒもグラビアアイドルあたりを目指してみないか? 俺が勝手に写真と履(歴(書を送ってやってもいいぞ。
「やっと終わってくれましたか」
晴れ晴れとした顔で古泉が俺に微笑(みかけた。
腹の立つことだが、こいつに一番似合う表情はこういう無料スマイルのようだ。憂(鬱(な古泉など見たくもないね。気味が悪いからな。
「しかし終わってみれば一(瞬(だった気もしますね。楽しい時間は経(つのが早いと言いますが、さて、楽しんでいたのは誰なんでしょう」
さあね。
「後のことはあなたにお任せしてもいいですか? 今や僕はクラスの舞(台(劇のほうで頭がいっぱいなのですよ。映画と違って、そっちではセリフをトチってやり直しというわけにはいきませんからね」
古泉はいつものニヤケ微(笑(を浮(かべ、俺の肩(を手の甲(でハタいて小声、
「もう一つ。あなたには感謝しています。我々も、僕個人もね」
それだけ言って屋上を後にした。長門はいつもの無表情で、黙(々(と古泉の後を追うように歩き去る。
朝比奈さんはハルヒに肩を抱(かれて、一(緒(になって彼方に見える海の方角を指差していた。「目指すはハリウッド、ブロックバスター!」なんてことを叫ばされている。指差すのはいいが、そっちの方角に向かって海を渡(れば着くのはオーストラリアだぜ。
「やれやれ」
俺は呟き、足元にビデオカメラを置いて座り込んだ。古泉と長門と朝比奈さんにとっては終わりで合っているだろう。だが、俺にとってはこれは終わりの始まりだ。まだやるべきことは残っている。
俺が記録した膨(大(なデジタルビデオ映像の数々、このジャンクな駄(デジタル情報の集積物を何とか「映画」の体(裁(を取るまでにしなければならないのだ。それが誰の仕事なのか、さすがに言われなくとも解(っていた。
金曜日の夕方である。部室には俺とハルヒだけがいた。他(の三人はそれぞれ自分たちのクラスの仕事に赴(いている。
クランクアップしたまではいいが、撮(影(が順調に間延びしたせいで他のことをする余(裕(が全然ない。パソコンに取り込んだ映像を繰(り返し観(ることになった俺の出した結論は、やっぱり朝比奈みくるプロモーションビデオクリップにするしかないという、実にシンプルなものだった。
正直言って、とうとう最後まで俺にはハルヒが何の映画を撮っているのかピクセル単位で解らなかった。モニタに映っているウェイトレスと死神少女とニヤケ少年の三人は頭がおかしいのか? 当然のことだが、ビジュアルエフェクトをかます時間などどこを探しても余っておらず元々そんな技術もない。このまま無加工無(添(加(の素(映像をそのまま垂れ流さざるをえまい。
ゴネたのはハルヒだ。
「そんな未完成なのを出展するわけにはいかないわ! なんとかしなさいよ!」
ひょっとして俺に言ってるのか。
「んなこと言ってもだな、文化祭は明日で、俺はもうイッパイイッパイだ。お前の思いつきストーリーをどうにかこうにか繋(がるように編集しただけでもう限界だっての。当分どんな映画も観たくはねえ」
しかし他人の意見を瞬殺することに長(けているハルヒは、
「徹(夜(ですれば間に合うんじゃないの?」
誰(がするんだ、とは俺は訊(かなかった。ここには俺しかいないし、ハルヒの黒(檀(のような目は一直線に俺を目指していたからだ。
「ここに泊(まり込んでやればいいじゃない」
そしてハルヒは、俺が仰(天(するようなセリフを吐(いた。
「あたしも手伝うから」
結論から言うとハルヒは何の役にも立たなかった。しばらくは俺の背後でうろちょろ口出ししていたが、一時間もしないうちに机に突(っ伏(し寝(息(を立て始めやがったんでね。しまったな、寝顔を撮(っておけばよかった。エンドクレジットの最後にその顔をアップにしてストップモーションで終えることだってできたはずなのに。
ついでに言うと俺もその後まもなく眠(ってしまったようだった。目を開けたら朝になってて顔半分にキーボードの跡(がついていたからな。
したがって、泊まり込みの意味はなかった。映画は未完成のままである。どうにかこうにか切り貼(りして三十分に収めたが、見るも無(惨(な駄作の出来上がりだ。映画なんぞよく知りもしない素人(が勢いで撮るとこうなるみたいなダダ崩(れぶりだった。いっそ開き直ってバニー朝比奈の商店街CMカットだけにすればまだしも、強(引(なまでの編集方針で存在しないストーリーのツジツマを合わせようとしたもんだから、なおさら破(綻(に拍(車(をかけてもうヒドイことになっている。結局アフレコもしてないわVFXなどどこのシーンにも皆(無(だわ、笑いたくなるほどのゴミ映画だ。これでは谷口にも観せられない。
パソコンを窓から遠投しようかと考えて、俺は差し込む朝日に目をすがめた。不自然な姿勢で寝てたから背骨が軋(む。
先に目覚めたハルヒが俺を起こした現時刻は午前六時半。学校に泊まったのは考えてみればこれが初めてだな。
「ねえ、どうなった?」
ハルヒが俺の肩(越(しにモニタを覗(き込み、俺はしかたなくマウスを動かした。
再生が開始される。
「……へえっ?」
ハルヒの小さな歓(声(を聞きながら、俺はたまげている。作ったはずのないCGムービーが豪(勢(に動いてタイトルを表示した。その後から始まった『朝比奈ミクルの冒(険(エピソード00』は、ストーリーはズタボロ、セリフは聞き取れず、手ブレ満(載(、おまけに画面外の監(督(の怒(号(までが入っていたが、ビジュアルエフェクトだけは高校生の自主映画にしてはそこそこくらいのレベルに達していた。朝比奈さんの目からレーザーが出ていたし、長門の棒からも変な色つき光線が出ていた。
「へっへー」
ハルヒも感心している。
「まあまあじゃない? ちょっと物足りないけど、あんたにしたら上出来だわ」
俺ではない。浮(上(した別の人格が俺の寝ている間にやったのでなければ、どうやっても俺にこんなことは出来そうもない。俺以外の誰かがやったのだ。本命・長門。対(抗(・古泉。無印・朝比奈さん。大穴・まだ登場していない誰か。そんなとこだろう。
しばしの間、俺たちは黙(って自主製作映画の鑑(賞(会をおこなっていた。この小さな画面でなく、もっと巨(大(スクリーンで観れば、また別の感(慨(が生まれるのかもしれなかった。
ディスプレイ上の動画はラストシーンへと差し掛(かっている。古泉と朝比奈さんは手を繋いで満開の桜の下を歩いていた。そのままカメラがパンして青空を映し出す。すかさずチャラけた音楽が始まって、スタッフロールが縦スクロールを開始する。
そして最後の最後にハルヒの声でナレーションが入る。
俺が考案し、どうにかハルヒに言わせることの出来たナレーション。遊びの部分も必要なのだと言って説得した、監督自らによる幕引きのセリフだ。
それはすべてをキャンセルできる魔(法(の言葉だった。
『この物語はフィクションであり実在する人物、団体、事件、その他の固有名詞や現象などとは何の関係もありません。嘘(っぱちです。どっか似ていたとしてもそれはたまたま偶(然(です。他人のそら似です。あ、CMシーンは別よ。大森電器店とヤマツチモデルショップをよろしく! じゃんじゃん買いに行ってあげなさい。え? もう一度言うの? この物語はフィクションであり実在する人物、団体…………。ねえ、キョン。何でこんなこと言わないといけないのよ。あたりまえじゃないの』