パリ大改造はなぜ起きた?
(1853年 – 1870年)
◎19世紀半ば頃までのパリは?
生活環境・都市衛生は極めて劣悪、暗く、風通しが悪く、非常に不衛生で病気や疫病が蔓延する街だった。
◎当時のパリは?
建物と建物の間隔が狭く細い道ばかりで、その細い道の両側に多層階の建物が建てられているので中層から低層にかけては光が当たらず風通しが悪く悪臭が立ち込めていた。
◎細い道は?
石畳で舗装がされたものも多かったが、当時のパリでは豚が放し飼いにされている状態。
◎パリ住民は?
日々の生活で出る生ゴミや汚物を通りに投げ捨てるため、道の(中央の)窪みや溝(屋根に降った雨水が道に落ちたものを流すために作られたもの)には、実際には雨水だけでなく、動物の糞・廃棄物・汚物などが流れ込み溜まり、うまく流れても溝を伝って低いほうへと汚物が街中を流れてセーヌ川へと流れ込み、セーヌの水も汚染したが、そのセーヌ川の水を飲料水などに使用していた。
◎19世紀半ばのパリでは急激な人口の増加
19世紀当時は工業都市に仕事を求めていくことが一般的であったが、産業革命などの動きが本格的になっていた政治中心都市のパリにもフランス国内から仕事を求めて移住する人が急激に増えた。
◎人口が増えると同時に人口密度も高まる
一人当たりの居住面積は10㎡にも満たない状況。
科学的に一人当たり12㎡から14㎡の空気が健康的な生活を送るために必要とされたが、当時のパリはせいぜい3㎡から4㎡の空気の中で暮らしていた。
パリの人口増加・人口密度の高まりに加え、パリの街並みの不衛生な環境が重なったことによりパリ中で疫病が広がり多数の死者が出たことで、パリ改造へと向かう。
普仏戦争(プロイセンVSフランス:1870年)
ナポレオン3世◎セダンの戦い◎普仏戦争
プロイセン宰相ビスマルクは、プロイセンの強大化を恐れドイツ統一を妨げるナポレオン3世を巧妙に挑発し(エムス電報事件)1870年普仏戦争が起こり、準備不足のフランス軍は敗北を続けナポレオン3世はセダンの戦いで捕虜となりフランス第二帝政は崩壊した。
第一次世界大戦(1914年7月28日 – 1918年11月11日)
スペイン風邪(1918年1月 – 1920年12月)
人々は相次ぐ戦争やコレラやスペイン風邪などの疫病にさいなまれ「ここではないどこか」にあるものを求め続けた。
近代美術(モダンアート)とは?
実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術作品のこと
美術史において近代美術とは?
◎写実的な初期印象派から脱却への後期印象派
◎新印象派
◎リアリズムから脱却への象徴主義
◎一般的に認知されているのは
1860年代から1970年代までに制作された作品
具体的な芸術様式:後期印象派の画家たち
(印象派やキュビズムやシュルレアリスムなど)
クロード・モネ
フィンセント・ファン・ゴッホ
ポール・ゴーギャン
ポール・セザンヌ
ジョルジュ・スーラ
彼らの動向こそが視覚美術のスタイルにおける近代美術の発展における本質的な存在。
コンセプチュアル・アートが主流となった1970年代以降は「現代美術」と区別されている。
「近代」という言葉は?
封建主義時代や中世ではなく、その後の資本主義社会・市民社会の時代のこと。
すなわち「個人主義」「民主主義」の時代
国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重する立場をとる姿勢のことを意味する。
近代を特徴づける思想傾向としては
個人主義、合理主義、世俗化、自由主義などがあげられ、科学、技術の進歩と結びついた産業資本主義の発達を近代化の起動力とみなす考えが有力。
「近代美術」の本質とは?
こうした要素を含めつつ「近代」以前の王朝や宗教国家の権威を高めるプロパガンダ美術に対して、個人の自由を主張し対抗する民主主義の美術といえる言い換えれば、独裁国家に近代美術が根付くことはない。
モネとマティスの「楽園」とは?
急速な近代化や戦争などの混乱した社会状況のなかにあって欠くことのできない絵画の主題であると同時に、制作の場であり生きる環境でもあったという。
近代の絵画が生み出された当初は?
人々の常識を覆す過激な前衛的表現で、近代絵画が生まれる19世紀のヨーロッパは、なおも残る中世の旧体制を完全に打ち捨て、近代の世界を構築しようとする社会の動乱期にあたる。
拡大する富によって人々は神の支配する世界観から脱却し、理性に基づき自然、人間を解明し、真の人間らしさを求める力を得て、貴族、ブルジョワジー、さらには労働者階層が次々に台頭し、科学革命と政治革命の潮流を生む。
科学革命の潮流は?
18世紀の産業革命、それに続く技術革新をもたらした他、自立的な学問、哲学の誕生、さらには、この論の主題である芸術文化の誕生とも深く連動している。
政治革命の潮流は?
フランスでみれば、1789年のフランス革命以降、政治を主導するブルジョワジーとそれに不満をつのらせる労働者階層の力関係の変化によって政治体制は、立憲君主制、共和制、帝政など、王政、民政のあいだを行きつ戻りつ目まぐるしく変転。
近代の画家たち
世界の本質をいかにとらえいかに表現するかという問題は、単に絵画の意匠の問題に終わらず、自分たちが動乱の時代をいかに生きるかという問いと密接に結びついた、いわば命がけの問題でもあった。
近代絵画は、必死で流動の時代を生き抜こうとする画家たちによる、時代の変化、リアリティを映しきれなくなった古典絵画に対する、激しい抵抗の営為によってもたらされたといえる。
モネはパリから70キロ離れた農村ジヴェルニーにアトリエを制作。
ジヴェルニーに移り住んだモネは、カラフルな夢の庭を実現するため、クロ・ノルマンディーの手入れを決して止めなかった。
元から植わっていたツゲと、妻アリスともめながらもトウヒを切り、現在のような金属製のアーチをすえ、睡蓮がある水の庭を作る。
モネの有名な睡蓮の連作は?
モネが作ったこの理想の空間で描かれたものである。
庭にある池と周囲を流れる小川は、エプト川の支流リュ川から水を引き込んだもので、池に浮かぶ橋は、モネは浮世絵から日本風の橋を作ったのではないか、と言われている。
モネは庭師を雇い、自身で花の種類や色の指示を出しこの庭をつくり上げ、邸宅も庭も含めた敷地がモネの理想的な環境であり「楽園」であったと語る。
モネらしさは、近代的なモチーフの中にも
モネも煙を出しながら走る列車や、煙の向こうのサン=ラザール駅舎、工場の煙突などを含む風景画を描いているが、このような近代性をもつ絵画の中にも「モネらしさがみられる」という。
「モネは『光の画家』と言われ、煙や水、霧など光を媒介するものをよく描き、列車を描いた絵でも煙に焦点が当たっている点がモネらしい。
一方、マティスはパリから南仏のニースで、ホテルの一室をアトリエに。
アパルトマンの室内、テキスタイルや調度品が空間を埋めマティスは絵画のモデルの衣装も自作したという。
自分の思い通りの空間を部屋の中につくり、自分だけの「楽園」の中で創作に向かったと言える。
マティス、こだわりの部屋
マティスが特に重視したモチーフが、テキスタイルだといい、部屋を中東やアフリカの布で異国風に飾りお気に入りのモデルに自分で作ったっ服を着せ「演劇的空間」でエキゾチックな情景を演出する役割も担っていたという。