古田武彦氏の著書『古代史の未来』(明石書店、一九九八)に次の一節がある。
“今年の一〇月一四日、和田家文書偽書説側(日立製作所関連会社のOB、野村孝彦氏)
の上告を棄却する最高裁判決が出た(平成九年(オ)第一一四〇号)。偽書説を斥けた青
森地裁・仙台高裁に続く最終判決である。偽書説側は「右文書は現代人による制作」とい
うその主張を裁判所に認めさせようと企図して訴訟を提起していた。その上最高裁の判決
が出る前の九月二七日には、TBSの『世界・ふしぎ発見』で当文書が偽作(現代人の制
作)である旨のナレーションが唐突に流された(制作テレビマンユニオン・提供日立)。
しかし、結局右の最終判決の呈示によって一〇月一七日の朝日新聞は「(津軽地方史)著
書は盗作ではない。最高裁、真偽論争に決着」と報道した。研究史上の画期点であろう”
これを次の文章と並べてみるのも一興だろう。
“『サンデー毎日』がオウム真理教を叩き始めたのと同時期、別の手段を使って、オウム
真理教に激しい攻撃を仕掛けてきたグループがいる-創価学会である”
“例えばオウム真理教では、他の多くの宗教団体もやっているように、教団発行の小冊子
などを、無料で一般の各家庭に配付している。その配付された家に「オウム真理教」を名
乗って創価学会員が訪ねていき、高額の代金を要求するという嫌がらせがあった”
“オウム真理教は、個人個人に解脱と悟りという絶対的な幸福を与えるとともに、平和で
慈愛に満ちた、真理の実践ができるような理想の社会を築き上げようと努力してきた。そ
の大乗の救済活動の一環として、一九八九年七月、「真理党」が結成され、麻原尊師とそ
の弟子たちが、衆議院選挙に出馬を表明したのだ。するとその途端、いきなり始まったの
が『サンデー毎日』によるパッシング、そして創価学会による嫌がらせなのである”(麻
原彰晃『亡国日本の悲しみ』オウム出版、一九九五)
前者のキーワードを「日立」とすれば、後者のキーワードは「創価学会」である。麻原 氏によると、オウム真理教被害者の会も、オウム真理教被害対策弁護団も、その正体は創 価学会だったのだそうだ。
オウム真理教は自己弁護のためにさまざまな陰謀論を持ち出していたが、古田氏による 和田家文書擁護の言動もまた次第に陰謀論の様相を呈しつつあることはすでに指摘したと ころである(拙稿「偽史と陰謀」『季刊邪馬台国』五七号、「『東日流外三郡誌』真贋論 争の倒錯」『季刊邪馬台国』六一号)。違いといえば、麻原氏の表現が露骨なのに対して 、古田氏は婉曲な表現を使っているということくらいだろうか。
オウム書籍押し売りの濡れ衣を着せられた創価学会も迷惑だろうが、古田氏から、いわ れなく陰謀の主体よばわりされた日立も迷惑な話である。
なお、念のため言っておくが、実際の判決では青森地裁、仙台地裁、最高裁とも偽書説 をしりぞけてはいない。実際の判決文では、むしろ偽書説にこそ根拠があると認められて いるのは、私もすでに指摘したところである(拙稿「歴史偽造は許されるべきか」『正論 』一九九八年六月号)。
古田氏がこの文中で取り上げている九七年九月二七日放送分の「世界ふしぎ発見!」は
蝦夷とアイヌ民族の歴史をテーマとするものであった。同番組では、津軽の豪族・安東氏
のナガスネヒコ始祖伝承に関連して、次のようなナレーションを流している。
「古代東北にナガスネヒコの子孫が築いた国があったと記したのが『東日流外三郡誌』。
ところがこの書は古文書であるどころか、昭和に書かれたトンデモない作り物であること
が最近明らかになっている。では蝦夷の謎を解くことはできないのか」
これに対して、古田氏の支援組織の機関誌の一つである『古田史学会報』二三号(一九
九七年十二月発行)は「TBS『世界ふしぎ発見』偽作キャンペーンに加担」と題して、
次の文面の記事を掲載した。
「オウム坂本弁護士事件などで、報道姿勢を問われているTBSが、九月二七日放送の世
界ふしぎ発見で、冒頭に“東日流外三郡誌は昭和に偽作されたマッカな偽物”とアナウン
スした。裏で偽作キャンペーン一派の画策があったようで、こうしたマスコミによる虚偽
報道により、和田家子女へのイジメが再発している。TBSに対して、古田氏から抗議が
なされたが、TBSに良識はないのか」
さて、この記事には、問題のナレーションを理解するための重要な情報が欠落している 。すなわち、「世界ふしぎ発見!」はそれに先立つ六月二一日放送分で、テーマに東北古 代王国をとりあげ、『東日流外三郡誌』に好意的な内容を放送しているのである。
その後、番組制作スタッフは再取材を行い、『東日流外三郡誌』が偽作であるとの確証 を得た。その成果が、九月二七日放送分に生かされたのである。
つまり、問題のナレーションは実質的には六月二一日放送分に対する訂正であり、TB Sの報道姿勢を世に示すためにこそ、流されたものだったのである。
六月二一日放送分の内容にふれずに、九月二七日放送分のナレーションだけを非難する のは片手落ちというものだろう。
その経過は情報雑誌『ゼンボウ』所収の拙稿でくわしく取り上げたところである(「『 東日流外三郡誌』に眩惑されたTBS」『ゼンボウ』平成九年九月号、「『東日流外三郡 誌』を偽書と断定した『世界ふしぎ発見!』」『ゼンボウ』平成九年十二月号)。
もしも、古田氏が示唆するように、日立が、反『東日流外三郡誌』的な組織であるなら 、そもそも、看板番組の六月二一日放送分で『東日流外三郡誌』に好意的な内容を流すは ずはないだろう。
なお、古田氏とその支援組織はなにかといえば「和田家子女へのイジメ」を持ち出すが 、そのこと自体、彼らが現代のイジメ問題を安易に考えている証拠である。
現代のイジメ問題はいじめる側、いじめられる側の関係が広汎かつ複雑な構造を成して おり、しかも原因が特定できないところにその深刻さがあるのだが、古田氏とその支援組 織は問題を和田家周辺に限定し、一切の責任を偽作説論者に転嫁しようとする。
ペース大学助教授テレンス・ハインズは擬似科学の特徴として「反証不可能性」「検証 への消極的態度」「立証責任の転嫁」を挙げている(『ハインズ博士「超科学」をきる』 井山弘幸訳、化学同人、一九九五、原著一九八八)。これらはすべて和田氏、およびその 和田氏を擁護する古田氏とその支援組織の言動にあてはまる。
そもそも、イジメという文献の真贋そのものとは関係ないはずの問題を論争の場に持ち 出すこと自体、実証的な議論だけでは、勝目がないことを認めた証拠ではないか。
論争の相手にイジメの煽動者というレッテルをはることで発言を制しようとするのは、 子供を盾にするも同然であり、研究者として、否、それ以前に人間として最も卑劣な行為 だと、私は思うのだが、古田氏とその支援組織の考え方は違うようである。
論争好きで意気軒昂のようだが、議論で不利になれば相手への雑言・罵倒・恫喝に走る 。いよいよ勝てないとなれば、相手の目上の人を動かすなど卑劣な手段を駆使して相手を 制し、自分は逃げ回る。一方では著書や講演で大言壮語の勝利宣言を繰り返し、実情を知 らないファンの喝采を求める-
そうした言動ゆえに、故・高木彬光は古田氏を「学匪」と呼び、忌み嫌った(高木『邪 馬壹国の陰謀』日本文華社、一九七八、『七福神殺人事件』角川書店、一九八七)。
和田家文書の真贋という当初から古田氏の側の旗色が悪かった論争では、その傾向に一
層、拍車がかかったようにも見える(当論争に関する古田氏の言動については、松田弘洲
『古田史学の大崩壊』あすなろ舎、一九九一、安本美典『虚妄の東北王朝』毎日新聞社、
一九九四、原田実『幻想の津軽王国』批評社、一九九五、千坂げんぽう編『だまされるな
東北人』本の森、一九九八、参照)。
『古田史学会報』二三号の記事にある「TBSに対して、古田氏から抗議がなされた」云
々のくだりにしても、結局は圧力団体に弱いマスコミの体質につけこもうとするものにす
ぎない。虚偽に基づく抗議に屈して、事実に基づく報道を撤回しようものなら、その時こ
そTBSの良識が疑われてしまうだろう。
古田氏とその支援組織が本当に「和田家子女へのイジメ」を重要視しているなら、偽作 説論者を陰謀家よばわりしたり、TBSに抗議したりするよりも先に、すませておくべき ことがあるはずだ。
真贋論争が激化しても、和田氏は疑惑を晴らすことに消極的であり続けている。仙台高 裁判決文も「右偽書説の根拠として主張されている点と、これに対する被控訴人和田の対 応、反論とを対照して、本件各証拠上の裏付の有無を検討すると、右偽書説にはそれなり の根拠のあることが窺われる」として、和田氏の態度に問題があることを指摘した。
古田氏とその支援組織が、本当に和田氏の潔白を信じ、「和田家子女へのイジメ」を憂 いているなら、和田氏を説得し、所蔵史料の全面公開と広汎な研究者・研究機関による史 料調査の受け入れをうながすのがスジというものだろう。家長がすすんで守ろうとしない で、誰がその家の子女を守れるというのか。
さて、和田家文書の全面公開といえば、思い出されるのはいわゆる「寛政原本」問題で
ある。古田氏はかって次のように述べた。
「より重要なのは私がとりくんできたいわゆる寛政年間の原本を出すという作業なんです
。私が思いますには、(九三年)十月以降なら大丈夫だと思います。寛政のものを出せば
二つの論難もストップするんです。つまり和田喜八郎さんの創作、和田末吉氏の創作だと
いう論難もストップするんです。それが、十月現在になお出てこないということになった
ら、やっぱり事実はなかったなと思ってもらってもいいんです」(「安本美典VS古田武彦
両教授 激突八時間」『サンデー毎日』一九九三年七月十一日号)
また、その後の論文でも古田氏はくりかえし次のように述べている。
「これ(寛政原本)なしには、わたしの学問的要望は全く満たされぬ。学問の基礎には、
ならないのである」
「和田家文書に対する、真の学問的研究は、“寛政原本”の出現を待たずしては、決して
出発できない。これが偽らぬ現実だ」
「わたし自身は、和田家文書は、これら(『群書類従』『古事記』『日本書紀』)に比肩
すべき史料価値を持つ、あるいは、これらに代わりえぬ史料価値をもつ、と“予想”して
いる。“学問的仮説”を抱いているのではあるけれど、すべては“寛政原本の出現”とい
う、そのときまでは、あえて慎重に、断言をさしひかえさせていただきたいと思う」
「今必要なこと、それは次の一事である。いわく“是非をいそがず”と。これが学問の王
道である。そして“寛政原本出現の日”、そのきたる日を、心を輝かせて待ちたい」
(「『東日流外三郡誌』の信憑性を探る」『歴史Eye』一九九四年一月号)
和田家文書の現存テキストを明治-昭和初期の真正の写本とみなし、別に寛政原本があ るはずだと主張する論者としては古田氏と共に古賀達也氏、藤本光幸氏らの名をあげるこ とができる。現在、この立場をとる論者はいずれも和田喜八郎氏と親密な関係にあり、喜 八郎氏の手が現存テキストに加わった可能性を否定する。
一方で、和田家文書の研究者の中には、和田家文書の現存テキストは喜八郎氏を含む和 田家歴代の書写・加筆を経たものと認めることで、偽書説を克服しようとする立場をとる 者がある(佐治芳彦氏、鈴木旭氏、他)。
また、和田家文書の現存テキストに和田喜八郎氏の創作が加わっているとしても、ベー スには、何らかの未公開の典拠があるのではないかという立場をとる研究者もある(小口 雅史氏、佐藤有文氏、高橋克彦氏、高橋良典氏、川崎真治氏、有賀訓氏、澤田洋太郎氏、 渡辺豊和氏、他)。
その中でも渡辺豊和氏は、更に進んで、原-和田家文書の作者として、江戸時代の実在 が確かな人物の名をあげている(したがって渡辺氏は、和田家文書が語る秋田孝季のプロ フィールをフィクションとみなす)。
さらに、和田家文書の他の文書群はどうあれ、少なくとも『東日流外三郡誌』だけは江 戸時代の本物の古文書だ、とみなす立場の研究者としては、斎藤守弘氏、飛鳥明雄氏の名 を挙げることができる。
こうした研究者たちもまた、非の打ち所のない「寛政原本」出現の日を心待ちしている に違いない。
しかし、古田氏が「なお出てこないということになったら、やっぱり事実はなかったな と思ってもらってもいい」とまで言い切った期限からさらに五年の歳月を経ても、いまだ に「寛政原本」は出てこない。
古田氏は「学問の基礎」を欠いたまま、『東日流外三郡誌』擁護の言説をたれ流し続け ていることになる。
さらに、よく考えてみると、なぜ古田氏は「寛政原本」があると断言し続けることがで きたのだろうか。そもそも「寛政原本」の話は、和田喜八郎氏が、自宅天井裏には屋根を 壊さなければ出せないようなところにも未開封の箱がある、と言い出したことから始まっ た。
それを自宅改築の際に出したい、ひいては改築費二〇〇万円が必要だ、という和田氏の 意向を受け、古田氏はその支援組織でカンパを集めて回った。
その際、古田氏が用いた名目が、和田家の天井裏にあるはずの「寛政原本」を出す、と いうことだったのである。
そのカンパの金銭は、いまも古田氏の手元にあるはずだが、その後も和田家の改築は行 われず(したがって「寛政原本」も出ない)、会計収支は不透明なままである。
出資をつのった以上、古田氏は一日も早く「寛政原本」を出すように和田氏を説得する のが、出資者に対する義務である。また、和田氏にしても、他の細々とした私事に優先し て自宅改築に着工すべきだろう。それが社会的責任というものだ。
それに、そもそも家を改築したいというのは、和田氏の都合によるものである。その着 工を早めるために古田氏およびその支援組織が資金を貸すというのならまだしも、返済義 務のないカンパを改築費にあてる大義名分など、立つはずがない。
この点については、古田氏の支援組織内部からも疑問の声が上がっている。市民の古代 研究会はかつては古田氏のファンクラブ的な性格をも有する団体だったが、一九九三年を 境に、同会と古田氏の関係は急激に疎遠になっていった。
そのきっかけの一つとなったのが、大阪での同会主催による古田武彦講演会で、古田氏 が和田家改築のためのカンパ集めをしようとした際、会としての協力を拒否したことであ る。金銭に対してシビアーな関西人の間で、大義名分の立たないカンパを集めようとした のだから、それだけでも古田氏の信用が失墜するのは当然である(現在、市民の古代研究 会は、古田氏の介入を排し、いかなる権力、権威にも盲従しない公正な研究団体を目指し て運営されている)。
古田史学の会は市民の古代研究会に代わる古田氏の支援組織の一つとして設立されたも のだが、その代表の水野孝夫氏は、いつになったら「寛政原本」が出るのか、という会員 間の不満に対して、カンパした金銭を返して欲しいという人がいれば、私費ででも支払う と発言し、かえって顰蹙をかっている(藤村明雄「詐術と虚偽の古田史学」『季刊邪馬台 国』五八号)。
古田氏を信じてカンパに応じた人々の望みは一日もはやく「寛政原本」を見たいという ことなのである。金さえ返せばすむという話ではない。
もっとも、水野氏はもともと偽書説論者であり、本当は「寛政原本」など存在しないこ とも承知しておられるはずである。それで「寛政原本」の存在を信じる会員たちをなだめ なければならないのだから、その心労たるや大変なものだろう。本当に気の毒としか言い ようがない。
また、私も、ある方から、「寛政原本」を出す資金として、古田氏にまとまった額を預 けたが、いつまでたっても和田家の改築が行われないのに業を煮やし、結局、古田氏にか けあって全額返してもらったという体験談をうかがったことがある。
さらに、古田氏のファンの一人が、和田氏に対し、「寛政原本」を古田氏に早く見せる
ように迫ったところ、「見せてないことはない」「すでに五所川原市史編纂の時に四散し
た」「荒覇吐神社から盗まれた」などと言を左右してごまかそうとしたという(拙稿「“
和田家文書”は加茂岩倉遺跡を説明できるか!?」『ゼンボウ』平成十年二月号)。
『アサヒ芸能』一九九四年九月二一日号、『季刊邪馬台国』五五号などで報じられた古田
氏の古文書偽造疑惑もこの「寛政原本」との関連で生じたものである。ちなみにこの時、
古田氏と書画複製業者の間で動いたとされる金額が、和田家の改築に必要な額とされたの
と同じ二〇〇万円というのは、面白い符合ではある。
ここで改めて考えてみよう。以上の経緯からすれば、古田氏が「寛政原本」のことを言 い出した時、問題の箱は未開封のまま、取り出すことさえできないところにあった。では 、なぜ、その中に「寛政原本」が入っていると、古田氏は断言できたのだろうか。
和田氏本人は昭和二二年、天井裏の挟箱の一つが落ちてきて、はじめて和田家文書の写 本を見出したと主張している。
この発見談自体に多くの矛盾があることは、すでにくりかえし指摘されてきたところで ある(松田弘洲『東日流外三郡誌の謎』あすなろ舎、一九八七、藤野七穂「現伝“和田家 文書”の史料的価値について」『季刊邪馬台国』五二号、前掲『虚妄の東北王朝』)。
しかし、古田氏とその支援組織は当然、和田氏の和田家文書発見談を信じる(あるいは 信じるふりをする)立場にあることだろう。
だが、そうなると、和田氏がその内容について知っているのは、すでに開封した箱の分 だけということになるのではないか。天井裏から取り出してもいない未開封の箱から何が 出てくるのか、和田氏にも判らないはずである。
その和田氏も知らないはずのことを、なぜか古田氏はあらかじめ知っており、そこに「 学問の基礎」を置くとまで明言していたのである。
厳密に言えば、未開封の箱の中に何が入っているか断言できるのは、その箱の中身を入 れた当人もしくは、その中身を入れる現場に立ち会った者だけである。
中身を断言した後で箱そのものを用意する、箱そのものは空っぽで開封の際に予告した
物が出たように見せ掛けるといったパターンも考えられるが、その手のトリックを弄して
も許されるのは、奇術のステージだけのことであろう。
「寛政原本」をめぐる騒動は、そもそもの発端から大きな矛盾をはらんでいた。この矛盾
を回避するには、古田氏が和田家の天井裏くらいは透視できるか、未開封の箱から何が出
てくるか予知できるほどの超能力者だとするしかあるまい。
念のため申しそえておくが、和田家文書の現行テキストを和田喜八郎氏になるものと考 えた場合、その成立を説明するのに、あえて未公開の典拠などを想定する必要はない。
和田家文書の記述に見られる考古学的事実や実在の伝承との一致は、いずれもテキスト 公開前、和田氏が入手可能だった文献に見られるものばかりである(安本美典編『東日流 外三郡誌「偽書」の証明』廣済堂出版、一九九四、他)。
アソベ族、ツボケ族の話など、和田家文書独特の伝承とされるものについては、他に傍 証となる資料が存在しない以上、和田氏の純然たる創作であることを否定する根拠もない ことになる。時代小説や歴史小説について、すべての記述に出典がなければならないとい われたなら、吉川英治も司馬遼太郎も困ってしまっただろう。そもそも和田家文書は作者 とされる秋田孝季・和田長三郎吉次までもが架空の人物なのである。
さて、『古代史の未来』の引用でも述べられているように、一九九七年十月十七日の『 朝日新聞』青森版は、「津軽地方史 著書は盗作ではない 最高裁、真偽論争に決着」と いう見出しで、和田喜八郎氏の著作権侵害をめぐる裁判により、『東日流外三郡誌』偽書 説が否定されたかのように読める記事を掲載した。
古田氏によると、これこそが「研究史上の画期点」である。
この記事は、さっそく古田氏の支援組織の各機関誌に転載された。また、インターネッ ト「古田史学の会」のホームページに掲載された『新・古代学』第三号の予告では「著書 は盗作ではない 最高裁、真偽論争に決着」と『朝日新聞』の見出しをそのまま使った宣 伝文句が掲げられており、この新聞記事が同誌で大きく取り上げられる予定だったことが うかがえる。
しかし、実際に刊行された『新・古代学』第三号では、この記事のことは取り上げられ
ていない。ただ、古田武彦氏が同誌に寄稿した「和田家文書(『東日流外三郡誌』等)訴
訟の最終的決着について」には、次のような文言がある。
「当問題につき、ジャーナリズム各面において必ずしも“適切”ならざる報道が見られた
。しかし今回当誌の読者はこれらの判決文によって、正確な認識をうることができると思
われる」
なにやら奥歯に物が挟まったような言い回しだが、それというのも、一九九八年三月十 日付の同新聞に、前の記事に対する訂正記事が掲載されてしまったからである。
その訂正記事の中では、最高裁が支持した仙台高裁の判決に「偽書説にはそれなりの根 拠がうかがえる」「野村孝彦氏の論文にヒントを得たと見られる部分がある」という箇所 があったことも報じられており、もはや朝日新聞の記事を、偽書説が裁判で否定されたと いうイメージ作りに使うわけにはいかなくなった。
十月十七日付の記事は、被告側からの一方的な情報によって書かれた虚報に過ぎなかっ たのである(前掲「歴史偽造は許されるべきか」、『だまされるな東北人』、参照)。
古田氏のいう「研究史上の画期点」はあっけなく御破算となってしまった。
最初の記事を転載した古田氏の支援組織の各機関誌のうち、『tokyo古田会new
s』(古田武彦と古代史を研究する会・発行)では、平成十年五月付の第六一号で、次の
文を掲載して、『新・古代学』第三集にゲタを預けた。
「本紙第五八号に朝日新聞青森版が昨年十月十七日付けで報じた『津軽地方史 著作は盗
作ではない』と題する記事を転載しましたが、朝日新聞は本年三月十日に訂正記事を掲載
しました。この件に関しては『新古代学』第三集では判決文、古田先生と古賀達也氏の弁
護用資料と共に掲載しますので、当否をご判断下さい」
とはいえ、古田氏の支援組織の機関誌という立場からすれば、これはできうる限りの良 心的態度ともいえよう。
ところで仙台高裁判決文では、偽書説にそれなりの根拠があるとしながら、「学問的な 背景をもって見解の対立する論点に関して、訴訟手続において提出された限られた資料か ら裁判所が判断するのは、それが争訟の裁判を判断する上で必要な場合には当然行うべき 筋合いではあるが、結論を導くのに不可欠とはいえない場合には、これを差し控えるのが 相当であると考えられる」として、学問的な議論への判断を避ける方針を示している。
この判決について、問題の裁判は和田家文書の真贋問題とも関わっており、その意味で は「争訟の裁判を判断する上で必要な場合」ではなかったか、という疑問もあるのだが、 それはさておき、ここで重要なのは、古田氏も「和田家文書(『東日流外三郡誌』等)訴 訟の最終的決着について」という文章を書く以上はこの判決文にも目を通しているはずだ ということである。
なお、古田氏は九七年四月二十日に東京で行われた講演会でも、仙台高裁の判決につい て説明している。古田氏はその結論で、「古文書については原告側の論点を一つ一つすべ て斥け・・・事実上和田氏の全面勝訴だ」と述べて、聴衆をミスリードしたが、いかに事 実を捩じ曲げているとはいえ、そもそも判決文を読まずして、その説明ができるはずはな い(前掲「“和田家文書”は加茂岩倉遺跡を説明できるか!?」参照)。
つまり、古田氏は、判決が学問的な議論への判断を避けたものであるのを承知の上で、 その裁判に関する新聞報道を「研究史上の画期点」と称していることになる。古田氏の考 える「研究史上の画期点」が、「学問的な議論」とは別の次元に置かれていることは、こ のことからも明らかである。
しかも、その新聞報道そのものが結局は虚報に過ぎなかった。古田氏は、九七年四月二 十日の講演会では、仙台高裁の判決文が実際には「偽書説にはそれなりの根拠がうかがえ る」「野村孝彦氏の論文にヒントを得たと見られる部分がある」とするものであったこと を承知の上で、そのことを隠し、聴衆を真作説支持の方向に誘導しようとした。そして、 さらに、十月十七日付で朝日新聞の記事が出るや、それが虚報であることを承知の上で最 大限に利用し、支援組織の人々をマインド・コントロールしようとしたのである。
なるほど、確かにこの裁判をめぐっては、「ジャーナリズム各面において必ずしも“適 切”ならざる報道」が流されてきた。しかし、その筆頭に上げられるべきは、一九九七年 十月十七日付『朝日新聞』青森版の虚報なのである。
さて、カルトの洗脳外しの第一歩は、信者に客観的な情報を与えることである。『新・ 古代学』第三集を通してでも、実際に判決文に目を通し、さらに「上告趣意書」を読むこ とができるなら、古田氏の支援組織の内部からも、新たに「正確な認識をうることができ る」方が、必ずや現れることだろう。『新・古代学』第三集を編集した水野孝夫氏の苦心 が、無駄にならないことを望むものである。
さて、和田喜八郎氏は紀州熊野に築かれた猪垣を、津軽山中の耶馬台城へと「翻案」し たわけだが、「猪垣」といわれる古い石垣は全国各地にある。滋賀県高島町・志賀町や香 川県小豆島、長崎県五島列島などにも熊野の総延長百キロ以上には及ばないが、かなり大 規模なものがある。
滋賀県高島町のものについては、その規模の大きさから朝鮮式山城とみなし、八世紀の 三尾城の跡とする説さえ現れている(「壬申の乱における三尾城の所在をめぐって」『滋 賀文化財だより』六四号、一九八二)。
近畿各地で遺跡調査を実績を積んでこられた兼康保明氏は、朝鮮式山城説を批判して、 高島町の猪垣は江戸時代の近世遺構であると説き、熊野の猪垣もその類例に属するもので あるとする。
「私は、高島町、志賀町に連なるシシ垣こそ、全国のシシ垣のなかでも規模といい保存状 態といいその最もたるものの一つとして、保存と実態調査をよびかけたい。・・・シシ垣 こそ近世農民の獣害に対する涙と汗のモニュメントである。現在、イノシシの被害もなく 、逆にイノシシが減少するようになってくると、シシ垣は本来の役割を忘れられた無用の 長物として、樹海に隠れ、崩れ、ときには林道に切られて失われゆく運命にある。それゆ えに、山麓部にまで開発の手が伸びていない今なら、なんとか保護の手が差しのべられる のではないだろうか」(兼康保明『考古学推理帖』大巧社、一九九六)。
兼安氏の近世遺構説は斎藤忠の「猪垣遺跡考」(昭和九年初出、斎藤『日本古代遺跡の 研究・論考編』吉川弘文館、一九七六)に基づくものである。
斎藤が自説の根拠としたのは、小豆島の碑文に猪垣の築造に関する記述があること、長 野県伊那市の近世文書に猪垣の修理について記したものがあること、奈良県生駒山の事例 で近世の猪土手と猪垣の石塁が連続していること、などである。
しかし、熊野猪垣については、近世の築造であることを示すような伝承や古文書は残っ ていない(ちなみに伊那市の事例でも修理の記録はあるが築造そのものの記録はないとい う)。後世、猪垣と呼ばれているものが、実は近世、より古い時代の遺構を修築して獣避 けとした可能性も無視できない。
佐藤有文氏は熊野猪垣を「万里の長城」にたとえたが、現存する「万里の長城」の大部 分は明代に修築されたものであり、秦始皇帝が築造した時代の長城は似ても似つかぬもの だったはずである。さらに言えば、秦始皇帝の長城築造もゼロから始めたものではなく、 戦国の列国がそれぞれに築いていた長城を修築してつなげたものだった。
とすれば、現存の猪垣に近世の修築が加えられているにしても、それ以前に何らかの前 史があってもおかしくはない。類似した例としては、熊本県菊水町にあるトンネル状遺構 「トンカラリン」がある。その石組みは、周辺の近世の石垣とひと続きのものだが、トン ネルそのものについては、古代祭祀遺構説も根強く唱えられているのである(拙著『優曇 華花咲く邪馬台国』批評社、一九九四、参照)。
野村孝彦氏の論文では、熊野猪垣について「山城説か神域説、ないしはその両方をかね たもの」ではないかとしており、さらに生駒にある類似の猪垣にナガスネヒコ伝説が残っ ていることも考慮して、「この遺構は、神武軍に相当する勢力と戦って敗れた先住民のも のかもしれない」との仮説を提示している(和田氏はこの野村氏の仮説を盗んで歴史的文 書の偽作に用いたわけである)。
熊野の猪垣が、近世遺構だとしても、その文化財としての価値はあらためて評価される べきである。ましてや、古代遺構の可能性があるとなれば、その文化財的意義ははかりし れないではないか。
兼康氏の重視する滋賀県のものは長大といっても全長七キロほどであり、熊野の猪垣の 方が規模からいえば遥かに大きいのだ。
歴史的文書の偽造は許されるべきではないが、和田家文書偽作事件を契機として、地元 和歌山県でも、猪垣について、認識を新たにしていただきたいものである。
地方の歴史や文化財に対する無関心は、歴史偽造の温床である。和歌山県に限らず、そ れぞれの土地の人が郷土の歴史を見直し、大切にすること、それがひいては第二、第三の 和田家文書出現を防ぐことにもつながっていくだろう。
1998,10 原田 実