蒙古の碑 私考
このコースには善應寺に元寇の碑があります
鎌倉幕府御家人として弘安の役にも出兵したのが安達泰盛
後に子孫は陸奥守として仙台に赴任した
泰盛は世尊寺流の書道家としても知られ、
板碑のナデ切るような書体ともなぜか合致します。
この刀で切ったような書体にも意味があるようにも見えます。
実際、この寺には書道教室や近世に建てられた筆塚がありますが
書道家としての安達泰盛との縁を感じさせられます
寺のすぐ近く比丘尼坂へと通じるこの街道付近には安達姓が多く、
板碑上部の梵字を家紋としている家がたくさんあります。
実際に検証見聞しましたが、安達一族では代々この板碑を守っているとのこと
なお、泰盛以降、安達氏は伊達氏に取り入れられ、
近世までこの地を収めたのは史実です
元軍の兵士がこの地に流れ着いたかどうかはともかく、
安達泰盛の子孫がその霊を鎮めるために板碑を建てたとも考えられませんか
「もっこ」伝説や岩手のもっこ山、「もっこ(蒙古)来るぞ」
なぜか東北には多く聞くようです
なお、東北大植物園にある蒙古の碑は、安達姓のこちらとは関係ないと思う
同様に燕沢も血バネに通じるという説もあながち否定はできないかもしれません
比丘尼坂を大拙庵裏の細い尾根道を古東街道とする説もあります。
なお余談ですが、この坂を東進すると川を越えて岩切へと繋がります
(近世のような直線道ではない?
川の手前に新宿(にいしゅく)の地名が古絵図にあります
東仙台駅南一帯は古宿(ふるしゅく)と呼ばれていますが
この地名は1700年代に土地の人が税を納めた文書に既に古宿の地名があります
松原街道から分岐して東郵便局脇から新田の江戸期湯殿山板碑までの古道も
江戸期の絵図に描かれていますが、現在の中原住宅は戦災復興住宅で
古宿付近は、昭和初期に開発されて碁盤のように道筋があります
直後の昭和恐慌で開発も途切れ戦争に続きますが、
現在のような住宅が立ち並んだのは昭和40年代からです
謎は歴史ロマンでもありますね。
推論もありますが、その後、様々な資料や史実、また見聞から
血ばね沢、蒙古、板碑、書道 安達姓が一本に結びつくように思います。
地元史家 佐藤純一 著
2001年想起 2017年作 2019年加筆 2020年加筆
コメント