翌日、朝礼ギリギリで教室に飛び込んだ俺は、ふくれ面の谷口やそんな級友をからかう国木田を無視して自分の席の後ろに声をかけた。
「よう、元気か」
「当たり前でしょ」
ハルヒは陰(謀(を巡(らせている時特有のチェシャ猫(笑(いを返してきた。おやまぁ、睨(む前に笑いかけられるとは、こいつも一晩で感情を入れ替(えられるタチなのか。
予(鈴(を聞きながら席に着いた俺の背後から、にゅうと首が伸(びて耳元で囁(き始めた。
「キョン、言っておくわ。昨日のこと、ベラベラ喋(っちゃダメよ。特に谷口とかにはね。内(緒(にしておきなさい内緒に。あたしが恥(ずかし……くは別にないけど、いい? あんまり吹(聴(すんのはよくないわ。希少価値が薄(れるし」
何をゴニョゴニョ言ってんだ。もらったものなら俺は返さないぜ。食い物となるとなおさらな。
「返せなんて言わないわよ。だったら初めからあげたりしないもんね。それとは別の話。今日の放課後はいそがしくなるから覚(悟(しといてよ」
解(っているさ。実は俺もいそがしいんだ。今日の朝比奈さんを八日前に行かせて、二日前から帰ってくる朝比奈さんを出(迎(えないといけない。それでようやく終わる。長い長い一週間が。
その日の昼休み、鶴屋さんが俺の教室まで来た。滅(多(に弁当を持ってこないハルヒが学食に行っているのは幸いだ。俺は食いかけの弁当を放置して、「キョンくんーっ!」と廊(下(で叫(ぶ上級生のもとへと走った。
「ここじゃなんだからっ」
鶴屋さんは俺のネクタイを引っ張るように階段を駆(け上がり、最上階のさらに上、屋上に出るドアの手前で足を止めた。かつてハルヒが俺を連れて行った薄暗い踊(り場(である。雑多な美術用品が転がっているのはあの時のままだ。
「いきなり本題なんだけどっ」
俺を試(すような笑(みで、鶴屋さんは胸(元(から写真の束を出してきた。
「ねえキョンくん、どうしてあっこにあんなもんが埋(まってるって解ったんだい? あたしはものごっついたまげたよっ」
やっぱり出てきましたか。で、何が。
「とんでもないもんが!」
鶴屋さんは写真を扇(状(に広げて、
「まず一個ビックリしたのはさ、穴(掘(ってたら、ほんっ──とうに、三百年以上前の壺(とコンニチワしたことさ!」
差し出した写真にはひび割れだらけの土器がどこか白い壁(を背景に写っている。
「三百年以上前ってのは確かなんですか?」
「スーパー確かだよっ。アイソトープ検査までしてもらったし、なんと、中に入ってたのがまた驚(き!」
二枚目の写真中央にはボロボロになった和紙が写し出されていた。仮名文字が書いてあるみたいだが、俺にはさっぱりだ。一つ解るのは、和紙の端(のほうにどこかで見たような山の絵と、小さな×印がついているところだけ。その×印が山の中腹についてあるのが何とも言えない。
「これがねえ、マジで鶴屋房右衛門、あたしのご先祖様が書いた文章なのさ。時に元(禄(十五年。内容は、ざっと訳すと『何だか変なものを手に入れたが妙(な胸(騒(ぎがするので山に埋める』とかって書いてあんだよ、これ」
ハルヒの宝の地図。あれにも似たようなことが書いてあったとハルヒは言った。そしてあっちはガセの地図で、こっちはマジ。
「でもこの房右衛門爺(さん、うっかりしすぎだよねっ。埋めた場所を書いた手紙を一(緒(に埋めてるんだものさっ。どうやって探せって言うんだっ?」
笑いながら鶴屋さんは三枚目を提示した。
「何です、これ」
写真に収まっているせいで縮尺の程度がよく解らないが、どうやら十センチほどの金属棒だ。地中で長い眠(りについていたとは思えないほどピカピカで、目をこらすと表面に基(盤(のような線が蜘蛛(の巣のように描(かれている。無(秩(序(な模様に見えて、その実は美しい対(称(性(を持っていることに俺は気づいた。江(戸(時代の装(飾(品(かな。
「壺の中にあったのは手紙とこれだけ! しっかしこれが大問題なのさ。先祖のタイムカプセルから出てきたって、なかなか信じてくれなくてさー」
「どうしてです?」
鶴屋さんは嬉(しそうに、写真を振(って言った。
「だってそれ、チタニウムとセシウムの合金だよっ?」
ここは驚くところなのだ。あとで国木田に尋(ねて、改めて驚こう。
「三百年前の地球の科学技術じゃこんなの加工できないってさ。調べてくれた人が言ってたけど、もしこれが本当に何百年も前のモノなら、超(古代文明の遺産か、その時代にやって来た未来人の忘れ物か、よその星から来た宇宙船の欠片(くらいしか思いつかんっ、とかって呻(ってた」
……超古代文明はちょっと勘(弁(してもらいたいな。
「でも、これ、なんかの部品っぽいよねっ?」
鶴屋さんは三枚目をしげしげと見つめ、そして俺に笑顔を向けた。
「キョンくんはどっちだと思う? 未来人か宇宙人だったら、どっちがいい?」
邪(気(のない上級生は、さらにこんなことまで言って俺を無言にさせた。
「そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」
鶴屋印の壺から出てきた謎(のオーパーツは鶴屋家が厳重に保管してくれることになった。鶴屋さんが確約してくれたのだから安心だ。間(違(いなくそうしてくれるだろう。まずはハルヒの目に届かないようにするのが先決だが、実はある予感に苛(まれていることを告白しておく。そんなことにはなって欲しくないと考えているし、正直考えたくもないのだが……。
その部品がいつか必要になる時が来るような気がしてならない。
ひょっとしたら鶴屋さんに宝の在(処(を教えてしまったのは早計だったかな。誰(にも教えず、俺が掘(り返すこともなく、胸にしまって放(っておくという手もあったかもしれん。
しかしさ、できるか? そこに何かがありそうだと悟(って、割合たいそうなモノが埋(まっているらしいと気づいて、そのまま何もしないでいるようなことがさ。俺の知的探求心は知らない言葉をすぐさまネットで調べたくなるくらいにはまだ現(役(だ。
それに、なんかの拍(子(にハルヒが掘り返す可能性を残すより、鶴屋さんの所有物となったほうが謎パーツにとっても幸せだろう。ある日突(然(、超古代人か未来人か宇宙人が現れて、それを返せと言ったとしてもハルヒなら絶対うんと言ったりしない。そもそもあいつの目の前にそんなもんが現れて欲しくない。その連中が朝比奈さんや長門のように身分を隠(してくれるとは限らないからな。過去に戻(って現在を未然のものとするよりも、今できることをして未来の不幸を未然に防ぐべきなのさ。俺たちは現在で生きているのだから。
鶴屋さんと別れた俺が教室に戻ると、ハルヒが俺の弁当を勝手に喰っているところに出くわした。
「おい、こら。それは俺のだぞ」
「解(ってるわよ。あたしだって知らない人のお弁当を無断で食べたりはしないわ」
知っているヤツのなら喰(っていいことにはならんぞ。返せ、吐(け。
「そんなことより」
ハルヒは空になった弁当箱に箸(を入れて俺に突(きつけながら、妙(な顔で俺を見上げてきた。
「あんた、何をそんな気持ちの悪い顔してんの? ニヤニヤしちゃって」
ニヤニヤ? 俺がそんな顔をする理由があるか。と、俺は自分の頰(を撫(でた。驚(いたことにハルヒが正しい。確かに俺の顔は弛(緩(しているというか歪(んでいるというか。
「変な顔」
失礼なコメントを放って、ハルヒは顔を背(けた。髪(が舞(い、やや幼めの耳元が覗(く。
その瞬(間(、どういうわけだか把(握(した。
俺が無意識にニヤニヤしているらしい理由さ。だって、どうして笑ってなどいられるんだ? この一週間で俺はどんな目に遭(った? もう一人の朝比奈さんとさまよい歩いたのはまだいいが、新型の未来人と新手の組織が登場し、朝比奈さんを誘(拐(したりなどの、さも敵っぽいことをしでかしてくれ、そいつらがまた出てきそうな上に、どうやらその勢いで別口の宇宙人までやってくるらしいことに加えて、山の中から用(途(不明のオーパーツまで出てきたって言うのに、へらへらしている場合じゃないだろう。
そんなヤツはタダのバカであり俺はタダのバカでないつもりだ。俺が顔を緩(めているんだとしたら理由があってのことだ。そうだとも、今にして気づいた。
今までさんざんな目に遭い、これからも遭いそうだってのに現在の俺はまったく動(揺(していないんだ。何だろうが誰だろうが好きなように現れろ、と思っているんだ。
なぜならば、俺はそいつらをちっとも恐(れたりはしないからだ。来たいのなら来ればいい。相手をしてやろうじゃないか。だが俺一人で立ち向かうんじゃないぜ。きっとその時、俺の横には長門がいて、古泉がいて、朝比奈さんがいる。むしろ俺の前でハルヒが仁(王(立(ちしているかもしれんし、後ろで鶴屋さんがケラケラ笑っているかもしれない。それでもいいのなら、やって来い。敵も味方も中立も共(闘(勢力も知ったことか。
俺はハルヒから手(渡(された空の弁当箱に蓋(をすると、ナプキンで包んで鞄(に押し込んだ。
変な顔と言いつつ、ハルヒのほうがよほど変な顔をして俺を眺(めている。それほど変か、今の俺は。
「なあ、ハルヒ」
「何よ」
眉(を寄せるハルヒに、俺は言った。
「SOS団を頼(んだぜ」
バカリと口を開けたハルヒは、
「あったりまえでしょ」
瞬時に唇(と目の端(を吊(り上げるという独特な笑(顔(となって叫(んだ。
「それは、あたしの団なんだからっ!」
その放課後である。後は二人の朝比奈さんを入れ替(えるだけだと思っていて、俺のやるべきことはそれで合っていたのだが、ハルヒのやることもまた一つ残っていた。いや、忘れていたわけではない。まさかこんな大(騒(ぎになるとは聞いていなかっただけの話だ。
俺が知らされていたのは、ハルヒがアミダクジ大会を開き、巫女(の格好をした朝比奈さんが賞品進(呈(係を務めるということのみで、まさかクジ引き大会の内容が、
「SOS団プレゼンツ、朝比奈みくるちゃんの手作りチョコ争(奪(、一日遅(れのバレンタイン特別アミダクジ大会、参加料一人五百円!」
という、今現在ハルヒがメガホンで触(れ回っているようなものだとは思い至らなかった己(の不明を深く恥(じるしだいだ。
そりゃあ、朝比奈さんの手作りチョコレート争奪アミダクジ大会ともなれば巻物レベルの紙が必要とされ、参加費を一人五百円にしても楽勝で応(募(者(が殺(到(し、万単位の稼(ぎになりそうで、それが俺のもらったやつならば、もちろんこんな罰(当(たりな場に提供することはしないわけだが、朝比奈さんだけは俺と古泉用のものにプラスして、三つ目の義理チョコを作らされていたらしい。
「実は長門さんがほとんど作ってくれたんですけど……」
すまなさそうに白状する朝比奈さんは、今すぐ神社にテレポートしても通用しそうな巫女装(束(を着せられて中庭の芝生(に怯(えた顔で佇(んでいる。ハルヒがどこかから持ってきた衣装で、ホームルームが終わるやすっ飛んでいったハルヒが朝比奈さんを部室に連れ込み、強(引(に着替えさせたものである。節分の豆まきで俺が漏(らした言葉を執(念(深(く覚えていたとみえる。
ハルヒの激(励(を受けた俺と古泉が部室の長テーブルをかついで降り、中庭に置くやハルヒはメガホン片手に走り出して、受付嬢(の役割を拝命したのは長門である。
そして中庭には生肉に引かれたゾンビのように男子生徒どもが群れ集(い、黒山の人だかりを形成しているという、この国の行く先を憂(いたい気持ちが充(満(する空気を醸(成(していた。群衆の中に谷口と国木田がいるのを見て、俺はクラスメイトの将来をも憂い始めた。
ハルヒが大量の男子生徒と少数の女子生徒の群れをメガホンで誘(導(しつつ、
「受付はこっち、有希の前に並んでちょうだい! 五百円と引き替えに数字入りの整理券を渡(すから、券をもらったら古泉くんのところにいって、アミダの好きなところにその数字を記入するの。横線は一人一本、どこでも自由に描(いていいわよ!」
長門が手(際(よく客をさばいている横で、古泉はB4コピー紙に定規で縦線を引きまくっていた。このぶんだと三ケタは必要で、紙も二枚や三枚ではすむまい。
古泉がコピー用紙をテープでつなぎ合わせる回数が増え続けるにつれ、俺が腕(時(計(を見る回数も増え始めた。非常にまずい。このままでは間に合わなくなる。
朝比奈さん(みちる)が帰ってくるのは四時十六分。ここにいる朝比奈さんを過去に行かせるのは四時十五分で、それも巫女から制服に着替えさせる必要があるときた。
そして現在の時刻は四時を今回ったところであり、長門の整理券配布と古泉の線引きはまだ終わっていない。
マスコットにしては引きつった笑顔の朝比奈さんが、プレゼント仕様の装(飾(を施(された包装箱を手にして立っている。この時期に巫女の格好も寒そうだが、そんな感想を抱(いている場合ではなくなってきた。この衣装をといて制服に着替えるのに何分かかるだろうと、頭の中で計算しているうちに、ようやくアミダクジは完成した。予想通り、丸めたらちょっとした巻物になりそうな長さを誇(っている。
ハルヒはおもむろにペンを取ると、何十もある縦線の一本を選んでその下にハートマークを描き、ついでにむやみと無(秩(序(に横線を増やしまくってから、
「さあ! このハートに辿(り着くことのできたたった一人だけが、朝比奈さんの義理チョコが手渡しでもらえます。もらえた人は大喜びすること! じゃあ右(端(から順にいくわね」
アタリのマークから逆に辿れば一回で済むってのに、どうしてそんな時間のかかりそうなことをするんだ。そりゃ一発で当たる確率は低いから、徐(々(に盛り上げていったほうがいいのは解(る頭の働きだが、俺が不都合なんだよ。
俺の焦(燥(を知らないハルヒは、持参したCDラジカセをテーブルにのせると、再生ボタンをガションと押した。威(勢(のいいテーマが流れ出す。『天国と地(獄(』。運動会か。
こうなれば頼みの綱(を使うしかない。ここにはクジ引きの女(神(が居合わせている。
「悪い、長門」
俺はセンベイの缶(に投げ込まれた硬(貨(と紙(幣(の山を見下ろす振(りをして、パイプ椅(子(に腰(掛(けて動かない受付嬢の横顔に囁(いた。
「一発でクジを当てさせてくれ。時間がない」
「…………」
緊(張(と寒さに震(えるコスプレ巫女をじっと見つめていた長門は、目だけを動かして俺を見ると解ったとも何とも言わずにすっと立ち上がり、ハルヒが赤ペンに持ち替(えてアミダを辿り始めようとする直前、横から手を伸(ばして横棒を一本書き加えた。
その十分後、俺は朝比奈さんの手を引き部室めがけて走っていた。
「わわっキョンくん……! いたい、その、どうしたんですかぁ?」
足をもつれさせる朝比奈さんが悲鳴じみた声を出しているが、この時ばかりは気(遣(うヒマがなく、残り時間は五分もなかった。
「説明は後でします。今は急がないとヤバいんです」
俺は小(柄(な上級生巫女(を片手で抱(えるようにして階段を三段飛ばしで上がる。
アミダクジのほうだが、さすがは長門、あっさり俺の願いを叶(えてくれた。一番手の生徒がいとも簡単に賞品を引き当てたことに関しては、ハルヒも他(の連中も驚(く以前に白けていたようだが、もともと誰(かに当たるようなものなんだから気にするな。ハルヒはそれでも盛り上げるつもりか、BGMを『勝利をたたえる歌』に切り替え、整理券ナンバー56を持つ生徒を強(引(に引きずり出すと朝比奈さんと向かい合わせに立たせた。ちなみに当選を勝ち取ったのは巻き毛の可愛(い一年生女子で、しきりともじもじしていたのが印象的だ。妙(に暖かい空気の漂(う中、朝比奈さんはぎこちない手つきでその娘(に賞品チョコを渡すとハルヒの要(請(に従って握(手(を交(わし、なぜかその場の全員が拍(手(するという意味不明な事態を巻き起こした。これもハルヒがどこからか持ってきたポラロイドで二人がツーショット写真を撮(られているところまでは我(慢(したが、もう限界だった。
俺は問答無用で朝比奈さんの手をひっつかむと、後のイイワケを考えずに走り出し、今に至る。そして部室にも至った。
「ひい、あのぅ、なにが、キョンくん……?」
朝比奈さんが怪(しむのももっともだった。いきなり部室に連れ込まれて、
「早く着(替(えてください!」
ハンガーに掛(かった制服を突(きつけられているんだからな。
「三分以内にです! 早く!」
俺の迫(力(に押されたか、それとも俺がよほど鬼(気(迫(る顔をしていたのか、朝比奈さんはカクカクとうなずいて、だがまだ衣(装(を脱(ごうとはしない。いっそ俺の手で脱がせるべきかと腹をくくり始めたとき、白い指先がおずおずとドアへ向けられた。
「あの……」
「なんでしょうか!」
「外に出てください」
一秒で退散した。俺は閉じた扉(の前で腕(時(計(とにらめっこを開始する。十二分三十三秒。
「朝比奈さん、まだですか!」
「……ちょっと待って」
ごそごそする気配や衣(ずれの音に妄(想(を働かせている余(裕(はなかった。ハルヒが後を追っかけて来やしないかとそっちの心労もキツい。
「朝比奈さん!」
「もうちょっと……」
午後四時十四分を通過した。もう待てない。俺は部室に飛び込んだ。
「わわっ、キョンくん? まだ、わっ、わっ」
目をいっぱいに開いた朝比奈さんは、セーラー服のファスナーに手をかけた姿勢で固まっていた。急いでくれた証(拠(に白衣と袴(が床(に散らばっている。拾うのは後回しだ。
俺は朝比奈さんの両(肩(をつかむと、そのまま掃(除(用具入れに押していく。
「わひぃ、きょ、きょ」
そんな声を聞きつつ闇(雲(に押していたのがよくなかった。朝比奈さんが足を滑(らせ、その勢いで俺は彼女を押し倒(した。
「わぁっ! だめ、だめです……」
何をしているんだ俺は。床に伸びてか弱く首を振(る姿をゆっくり眺(めることなく、軽いセーラー服姿を引き起こし、片手でスチールロッカーを音高く開けると朝比奈さんを押し込む。
「いいですか朝比奈さん。よく聞いてください。今すぐ、今から八日前に遡(行(してください。いいから、とにかくしてください」
目元を潤(ませていた朝比奈さんは、きょとんと、
「……え。でも、申(請(しないと」
「してください、すぐに!」
「八日前にですか? あの、何時に?」
くそ、さっさと思い出せ。あれは何時何分だった? 朝比奈さんは何と言った? キョンくんが八日前の午後──、
「午後三時四十五分。そこまで超(特急で!!」
「は、はい……あれっ?」
小動物のような目で俺を見上げていた朝比奈さんは、さらに目を見開いて片手を頭に当てた。
「まだ申請してないのに、もう来ました。時空間座標……。八日前、二月七日午後三時四十五分の──ここ? えっ。最優先強制コード……?」
「行けば解(ります。そっちで俺が待っているはずだ。そいつがどうにかしてくれます。よろしく言っといてください」
四時十五分まで十秒を切った。
驚(いている顔の朝比奈さんにうなずきかけながら掃除用具入れを閉めた。スチールロッカーに阻(まれて息づかいも聞こえない。
情けは人のためならず、ということわざがある。誰(かに何かをしてあげたら、その何かはいずれ自分に返ってくるのだよってな意味だが、良くも悪くも自分の行(為(が自分に戻(ってくる現象を今ほど実感したことはない。俺がここまで息せき切ることになったのは、二日前の俺が朝比奈さんの帰(還(時間を四時十六分などと指定したせいだ。その二日前の俺がその時間を選んだのは、二日後の俺がこれほどせっぱ詰(まることをまるで想像していなかったせいだ。どっちにしても俺のせいか。
「朝比奈さん」
ロッカーに喋(りかけてみる。返答はない。無(駄(だとは解っていた。八日前の俺へ向けた忠告を言付けることはできない。なぜなら俺はそんなことを聞かなかったし朝比奈さんも言わなかった。言いたくても時間切れだ。
腕時計の表示は四時十五分を三秒も上回っていた。
やけに静かだ。俺以外誰もいない部室で聞こえるのは、風の音色とそれに乗って中庭からやってくるぼやけたガヤくらいのものだ。まだ何かやってんのか?
俺は掃除用具入れの前に立ち、待ち続けた。
かたん──。
この音じゃなくてもいい、掃除用具入れの中に掃除用具以外のものが現れる音をさ。
息づかいが聞こえなくとも気配で解る。単なるスチールロッカーが、まるでアンティークな調度品に変化したような錯(覚(を覚える午後四時十六分ちょうど。
俺は扉を開き、このために用意していたセリフを言った。
「おかえり、朝比奈さん」
二日ぶりに見るロングコートにショール姿。鶴屋さんの借り物衣(装(。
「あ……。えっと……」
朝比奈さんは照れくさそうにうつむいて、そして、ゆっくり面(を上げた。清らかな瞳(が俺をおずおずと見上げ、上目遣(いのまま固定される。やがて仄(かな笑(みを形作った唇(がそっと花を咲(かせ、言葉をも生み出した。
「……ただいま」
これでゆっくり見つめ合うという叙(情(的な雰(囲(気(を味わうことができたらよかったのだが、俺と朝比奈さんを取り巻く状(況(はそれを許さない。今着ている外出着から着(替(えてもらわねばならず、しかしまだ鶴屋さんから制服一式を受け取っていない。
しかたがないので朝比奈さんにはもう一度巫女(さんになってもらうことにして、俺は部室を出るとドアにもたれ掛(かった。
それにしてもハルヒたちは遅(いな。都合のいいことではあったが、やけによすぎるのが気がかりだ。そしてもう一人、こっちはもう少し早く来てくれたら手間が省けたかもしれない人が紙(袋(を手にして歩いてきた。
「やっぽー。キョンくん、ゴメンよう。これ、みくるの制服と上(靴(。昼休みに渡(そうと思ってて忘れてたよっ」
鶴屋さんは数歩で距(離(を詰めると、
「んで? ハルにゃんたちは中庭で何かやってたけど、みくるはどうしたい?」
無言で部室扉(を指した俺にニッカリ笑いかけ、鶴屋さんは自分の家の冷蔵庫を開けるような気安さでノブを回した。
「やぁ、みくるっ。着替えかい? あー、ちょうどいいや。その服、ついでに持って帰るよ」
俺に片目を閉じて見せ、鶴屋さんは部室に入っていった。慎(んで廊(下(の壁(を眺める俺には見えないが、朝比奈さんの驚く顔なら容易に想像できる。何度も見たからな。
「手伝ってやろうかっ。着せ替え着せ替え。今日は巫女サービスデー?」
朝比奈さんのあたふたした声と鶴屋さんの童女みたいな笑い声を聞きながら、俺は廊下に座り込んだ。朝比奈さんの生き別れの妹に貸したはずの服を、どうして朝比奈さん本人が着てこんなところにいるのかなんて、鶴屋さんにとってはどうでもいいことだろう。あんな説明に何の効能もないのは俺も彼女もよく解っている。それでもまったく気にしないのが鶴屋さんの偉(大(なところだった。一生頭が上がりそうにないな。
俺が苦(笑(の面(持(ちでいると、長門と長テーブルを背負った古泉を引き連れてハルヒが戻ってきた。船ならば大漁旗をデカデカと掲(げているような得意顔で足音高く、缶(の中の小金をジャラジャラさせながら、
「どうしてみくるちゃんを連れ去ったりしたのよ。ブーイングものだったわ」
あんな薄(着(であれ以上外に出しておいたら風邪(を引きかねないと思ったんだよ。それにもったいないだろうが、朝比奈さんの特別衣装姿なら鑑(賞(料(だけで五百円取れるぜ。
「まあ、そうね。あんたの言うことも解るわ。こういうのは出し惜(しみしないとね。ありがたみが減っちゃうもの」
第(二(弾(の企(画(をすでに始めているのか、ハルヒは機(嫌(よく同意して、
「それよりキョン、びっくりしたわ。有希がいきなり残念賞を発表するんだもん」
ハルヒは長門の細い背をぱしぱし叩(きながら、
「徳用袋入りのチョコレートがあるでしょ? アルファベットとかが刻まれてるやつ。それを一個一個、クジに外れた連中に配ってあげたのよ。そんなの用意してたなんて驚(き。有希、よくそこまで気が回ったわねえ。でも、いいアイデアよ。これで外れた連中だって、今度何かしたときも残念賞目当てで財(布(を緩(めるってものよ」
長門目当て、の間(違(いではなかろうかと思ったが、長門の機転に感動を覚えるほうが先だな。その時間稼(ぎのおかげで助かったよ。
「…………」
長門はわずかに身じろぎをして、早く部室に入って読書をしたいと言いたげな、俺にしか解(らないような顔をする。
その時、部室の扉が内側から開かれた。
「あ、鶴屋さん、来てたの。どうしたの? その服」
「やあ、ハルにゃん! これはね、みくるに貸してたのさ。あたしは取りに来ただけ、お邪(魔(虫(にはならないっさ」
鶴屋さんはロングコートを肩(に引っかけ、残りの服を紙袋に入れて靴(を指先でブラブラさせていたが、
「じゃね、ハルにゃん」
「うん、またね。鶴屋さん」
ハルヒとハイタッチをかわすと、最初から最後までまったく目線を泳がすことなく立ち去った。朝比奈さんのことも昼休みのこともまるでなかったかのような日常ぶりだ。ありゃあ真似(できそうにない。大物過ぎる。あの人がいる限り鶴屋家は安(泰(だ。
「…………」
長門はふらりと部室に入ると、本(棚(から無造作に本を選び、パイプ椅(子(を広げて座ると、さっそく読みふけり始めた。
俺が古泉を手伝ってテーブルを運び入れるのを尻(目(に、ハルヒは巫女姿の朝比奈さんが懐(かしそうな顔をしているのにも気づかないで、
「みくるちゃん、今度思い切って高いお茶っ葉を買ってきていいわよ。軍資金はたんまりせしめたから。これもあなたの働きによるところ大だわ。喜んでちょうだい、みくるちゃん。この功績によってあなたはSOS団副々団長に昇(進(することが決定されたわ」
団長机の中をまさぐるハルヒの意(気(揚(々(たる姿を見ながら、俺は端(の席を確保すると、テーブルに突(っ伏(して脱(力(した。
それにしても疲(れた。ヘタに時間移動に関(わると、つじつま合わせに奔(走(することになるってのがよーく解った。誰(を責めようにも、そうしちまったのは俺なのだから責任転(嫁(の矢印は常に自分に向いている。未来人はいつもこんな苦労をしているのか? なら朝比奈さんには当分何も教えないほうがいいな。現在の朝比奈さんに精神負(荷(のかかる重い荷物を背負わせたら、あっという間につつかれたダンゴムシになりそうだ。
「その苦労のいくつかを僕にふってくれてもよかったんですよ。事後処理は僕の得意科目です」
隣(にいる俺にだけ届く小声で囁(きつつ、古泉はカードゲームのパッケージを破った。
「涼宮さんの計画なら、少しは見当がついていましたしね」
俺が顔を上げるとトレーディングカードをためつすがめつしながら微笑(んでいる古泉と目が合った。ハルヒは「これに一番似合う髪(型(はどれかしらね」とか言いつつ、椅子に座らせた朝比奈さんの髪をあれこれいじくり回している。されている朝比奈さんが背中の毛をくしけずってもらっている猫(のように目を細めているのを見て、
「お前、ハルヒがいつもと変わらない調子でいるとか言ってなかったか?」
「だからですよ。宝探しも市内探(索(も、いつもの涼宮さんがやりそうなことです。むしろ無理してでも普(通(に振(る舞(おうとしていたんですよ。まさか、あなたがバレンタインデーを忘れているとは涼宮さんでなくとも思いません。僕たち男子生徒にとってはもらえるアテがなくとも気になる日ですからね。当然、彼女はあなたがその日を気にしていると思っていて、わざと素知らぬふりをしていたのです。二日連続の市内パトロールもその表れですよ。ひょっとしてもらえないのかな、と、あなたをヤキモキさせる計画だったんでしょう」
まとめて下(駄(箱(にでも入れておいてくれてもよかったんだ。俺の靴箱は未来人専用の郵便受けじゃないんだぜ。
「局所的に普(遍(性を嫌(う涼宮さんのことです。それでは面(白(くないと思ったのでしょう。それに宝は苦労して探しあてるもので、手に入れたときの喜びも大きいというわけです」
古泉はカードを吟(味(するように並べ、その手を休めずに、
「僕はたいそう嬉(しく思いましたが、あなたは違(うんですか?」
何だそれは、誘(導(尋(問(か?
俺が気の利(いたリアクションを考えていると、
「そこ、キョンに古泉くん! くつろぎ私語タイムは終(了(!」
大声がウトウトしていた朝比奈さんをビクリとさせ、俺と古泉の視線を集めさせた。ハルヒはシニヨンに結(った朝比奈さんの頭から手を離すと、
「では、講義を始めます!」
ホワイトボードをバンバン叩(く。
「特にキョンと古泉くんはよく聞いてないとダメよ」
どことなく策(謀(家(めいた笑(みを閃(かせた団長は、デキは悪いが性格は素(直(な生徒を前にした塾(講師のような顔で言った。
「これから、三月に予定されているイベントについて講義します」
俺は来月のカレンダーについて考えを巡(らせ、
「ひな祭りか」
一(瞬(黙(り込んだハルヒは、
「……そうね、それもあったわね」
忘れていたらしい。
「覚えてたわよ。目新しい行事を楽しくやるには故(きを温(ねることが大切なんだから、忘れるわけがないじゃないの。三月三日には、そうね、渡(り廊(下(の最上階から雛(あられを撒(きましょう」
ひな祭りがそんな行事だったとは初耳だ。
「それはそれとして、三月はもっと別の忘れちゃいけないイベントがあるでしょ?」
ハルヒは特大の望遠鏡を銀河中心面に向けたときに見れそうな星空のような笑顔で、
「今日はその日のことを、あんたと古泉くん限定で脳ミソに刻み込んであげようっていうの」
いったい何を張り切って講義してくれるのか。
「ホワイトデーについてよ。三月十四日、この日はバレンタインにチョコレートをもらった人が義理だろうが何だろうがくれた相手に三十倍の恩義で報(いなければならない日とされています」
いつもはブリンカーをつけられた暴れ馬なみに斜(め前を突(っ走っているっていうのに、どうしてこいつは都合のいいときだけ普遍性を取り戻(すんだ。まあ三十倍ってあたりにハルヒ的インフレモードが働いているが。
「有希とみくるちゃんも今のうちに希望の品を言っておきなさい。この二人が」
俺と古泉を指差して、
「何でも好きなものをお返しに持ってきてくれるわ。恩返しする鶴(がいたのは大昔、今は現代で、それも人間だってんだから、反(物(よりもっと素(晴(らしいものを返してくれるわよ」
ハルヒはものすごい勢いで口元を笑わせた。
「参考までに言っておくと、あたしが欲しいなぁって思うものはね、候補はいくつか思いついてるんだけど、今考え中。近々発表するわ。だいじょうぶよ、一ヶ月もあれば何とかなりそうなものにしてあげるつもりだから」
遠(慮(も何もないハルヒのことである。おそらくかぐや姫(が求(婚(者(にそうしたように無体なものを要求するに違(いない。それが『邪(馬(台(国(畿(内(説(を裏付ける物的証(拠(』とか『蓬(萊(島産不老不死の妙(薬(』的な無理難題でないことを切に祈(りながら、俺は減らず口を叩いた。
「ただし、俺たちが宝探しに費(やした程度の苦労はオプションでついてくるぜ」
言い終える直前にこれでは逆効果だと気づいたが、もう遅(い。
「もちろん」
ハルヒは両(眼(にプレアデス星団をまるごと押し込んだような光を灯(らせ、
「そっちのほうが楽しみよ。あたしが欲しいものをくれるんだったら火星にだって取りに行ってあげる。ねえ、有希、みくるちゃん。あなたたちもそう思うでしょ?」
朝比奈さんが遠慮がちに、長門が本に目を落としたままうなずくのを眺(めながら俺は肩(をすくめた。まるで呼吸を合わせたような、古泉とぴったり同じタイミングで。