第六章

 そして運命の日曜日が来た。

 九時前に駅前へとチャリを走らせたのは昨日と同じ、全員がすでにそろっているのは毎度同じで、俺のおごりのきつてんで引いたクジは俺と長門が印入りなのも予定通りだった。一度言ったことを長門は忘れたりしない。たがえることもないだろう。俺も見習わなければならん。特に長門相手の約束は死んでも守ってやるつもりだ。それだけのことを長門は俺にしてくれた。

 喫茶店で時間を気にする俺と裏腹に、ハルヒは昨日以上にハシャいでいるように見えたが、この際なので気にならない。宝探しからずっとこんな調子だし、月初めの不調は体調不良か何かだったんだろう。

 ハルヒが朝比奈さんに何かを耳打ちしてはニヤニヤしているのは不思議な光景で、されてる朝比奈さんがほんわかと微笑ほほえんでいるのも理由を知りたいものだが、古泉と長門は平常営業で、少なくともこれから天変地異が発生することはなさそうだ。

 俺がカップの底に残っていたウインナコーヒーのあわを飲み干したとき、ハルヒが伝票を俺にすべらせて立ち上がった。

 午前十時ジャスト。

 あの川沿いの散歩道までは徒歩でもゆうの時間だった。



 再集合は正午なので、かめを川に放って帰るだけなら往復の時間をこうりよしても割と余る計算だ。

 ハルヒと朝比奈さんと古泉の姿が遠くなるのを見届けて、俺は長門に言った。

「すまない。今日は一人で図書館に行ってくれないか。一時間もしたらむかえに行けると思う」

「そう」

 ダッフルコートのフードに手をわせ、すっぽりと頭にかぶりながら、長門は俺を見ずに答える。

「長門、俺と朝比奈さんが何をやってるのか、お前にはわかるか?」

「必要なこと」

 長門はつぶやくように言って、図書館へ行く道を歩き出した。やや躊躇ためらってから俺も後を追う。

だれにとって必要なことだ?」

「あなたと朝比奈みくる」

 そこにはお前は入っていないのか? ハルヒや古泉は?

「…………」

 ちんもくしながら歩き続ける長門は、やがてフードの奥から平らな声を出した。

「入る可能性もある。まだ解らない」

 立ち止まった俺がかたを落としたように見えたか、長門はふっとり返ってビードロのようなひとみを俺の顔にえ付け、

「でも」

 まえがみを風に遊ばせながら、

「すぐに解ること。そうなればわたしも動く。古泉一樹も動く」

 とぎれとぎれの話し方は、出会ってから変わらない長門の話し方だった。

「進む方向は同じ。わたしも、あなたも」

 それが結論だったように、長門はふいっと前を向いて、静かな歩調で歩き始めた。今度は俺は後を追わない。

「ありがとよ、長門」

 ずかしいので小声で言っておく。どんどんはなれていくフード姿に聞こえたかどうかは解らんが、届いていることを俺は確信していた。そのくらいの器用さは長門にもまだそなわっているだろう。

 ついでに別のことも確信させてもらった。俺も長門も古泉も朝比奈さんも程度の差はあれ、それぞれの連帯保証人になっているらしいって確信さ。その真ん中にはハルヒというこうせいさんぜんかがやき、俺たちはその周囲を回るわくせいに等しい。いつからそうなっちまったのかは思い出しようもないが、たとえば夜空から不意に火星や金星が消えせたら相当さびしくなるだろうし、まずもってせんせいじゆつが大困りだ。俺も困る。火星人や金星人が百パーセントいないと解るまで、地球のおとなりさんが断りもせずに居なくなって欲しくはないね。だん意識してないつもりで、いざなくなった時になってあわて出す物事は案外多いものだ。えーと、試験中のシャーペンのしんとか……いや、こんなくだらないたとえなんかどうでもいい。何より、俺は去年の十二月にらったあのきよだいそうしつかんを二度と味わいたくないのだ。

「また長門に教えられたな」

 俺の進む道など、とっくに決まっていたのだということを。



 三十分後、俺は川岸にとうちやくした。秋にほこった桜は見るかげもなく茶色の枝をき出しにするのみで、寒々しく春のとうらいを待っている。例のベンチまで歩く道すがら、俺は低い位置にある川へと目を落とした。典型的なてんじよう川で、水面から岸まで三メートルほどの段差がある。護岸工事が行き届いているおかげでさっぱりとした印象だ。水量はそれほどでもなく、深度は数センチ程度、下流ということもあって流れも相当におだやか。夏ともなれば見境の知らない子供たちがバシャバシャと小魚を追う姿を見ることができるだろうが、この真冬に冷たい水の流れに近寄りたいと思う人間はかいである。

 だからというわけでもないだろうが、俺がかつて朝比奈さんの未来話を聞いたベンチは空席だった。日曜とは言え、この寒い日の午前中に川沿いを散歩をしようという人間はほとんどおらず、並木道は無人に近い。ヒマそうな犬と寒そうな飼い主が一組、たがいにだまって散歩しているくらいのものだ。

 川のせせらぎに耳をうばわれつつかしこそうなことを考えているこうの男子学生の演技をしていると、

「キョンくん」

 朝比奈さんが車道に面した階段から土手を上ってきた。ちゃんと亀の容器をたずさえていたが、昨日していたマスクをお忘れだ。ニットぼうと首に巻いたショールでずいぶん印象がちがうから、まあいいか。どうせ今日のこれが最後だ。

 俺に向けて小さく手を振った朝比奈さんは、振り返って車道におをした。見ると、鶴屋家の車だろう、いかにも金持ちのセカンドカーといった具合の高級国産車が静かに走り去っていくところだった。運転手さんには俺からも礼を言っておかないといけないな。

 午前十時四十四分。かわべりまで朝比奈さんと歩くと四十五分。時間もぴったりだ。

「水、冷たそう……」

 朝比奈さんはゆるい流れのみなを見下ろし、ついでケースを顔の前に持ち上げてかめを見つめた。

「亀さん、無事に成長してくれるかな」

 小さき生命に気を回すやさしい上級生は、

「ちょっと待ってください」

 ケースを地面に置くとふたを開け、コートのポケットから亀のエサ箱を出した。ゼニガメは不意に消え失せた天井に向けて首をばして思案顔をしていたが、朝比奈さんがエサをつまんで近づけるとパクリとくわえて丸飲みする。たった一晩でよくもなついたものだ。これも朝比奈さんの人徳だろう。

 名残なごりしむ朝比奈さんと亀くんには悪いが、そろそろ時間だ。十時五十分まで後三分ほどしかない。

「春にまた来ましょう」と、俺はなだめつつ、ゼニガメを持ち上げた。小さな亀はていこうもせずに俺のてのひらの上でじっとしている。

「きっと一回り成長したこいつと再会できますよ」

 こんきよはないがそう言うしかない。俺は亀の身を案じる朝比奈さんの視線を振りはらい、とうてき体勢に入った。アンダースローで、なるべく優しくほうろうとしたとき、

「失礼します」

 いきなり背後から声をかけられ、俺は亀をにぎったまま川に転げ落ちるところだった。たたらをみつつ何とか地面に踏みとどまり、大急ぎで背後を向くと、

「この前はありがとうございました」

 幼い声でていねいに頭を下げる、眼鏡めがねをかけた小さな少年がいた。つうしようハカセくん、先月俺があわやの交通事故から救ってやった、そしてハルヒの近所に住んでいて臨時の家庭教師をらいしているという、あの少年だった。

「あ……」

 朝比奈さんもおどろいていたが、俺だって驚く。まさか再会するとは思わなかった。

「何をしていらっしゃるのですか?」

 眼鏡少年はウチの妹とは段違いに理知的な顔つきで、俺と朝比奈さん、それから俺が握るゼニガメを見つめた。何をしていらっしゃるのかは俺がキミにきたいことでもあるが、

じゆくに行くちゆうです」

 俺がたずねる前に少年はハキハキと説明し、かたにかけたかばんを指差した。

「いつもこの道を通っているんです。あの時もそうでした」

 少年はまたぺこりと一礼し、不思議そうな顔をして地面のケースと俺の手の内で手足をジタバタさせているこう付きちゆうるいに視線を注ぎ、

「亀をがすのですか」

「まあな」

 答えつつ、俺は罪悪感にさいなまれる。朝比奈さんもこの少年も、ゼニガメを見る目に同情心があふれている。寒い冬の川にこんな小さな子亀を投げ込んでどうしようと言うのか、ってな無言のアピールを感じた。でもしかたがないだろう。やんないといけないことなんだからさ。

 うでけいの表示が指定の時刻まで一分を切っている。ぼやぼやとはしていられない。俺は働きの悪い頭を高速回転させて、

「キミの家はペットオーケーか? と言うか、こいつを持って帰ってもおやさんは平気か?」

 少年はちょいと眼鏡を押さえるだけの間を開け、

「平気だと思います。僕が世話をするのであれば」

「そうか。じゃあ、ちょっと待ってろ」

 俺はゼニガメの背中を摘んで持つと川縁にしゃがみ込んだ。水面から俺たちがいる岸まで高さにして三メートル、大したきよでもない。流れは緩いし、亀を見失うこともないだろう。

 俺はふわりと亀を投じた。着水のしようげきがなるべくないよう、羽毛を投げるように。

「あっ」と朝比奈さん。

 ぽちゃん、と亀は水面に落ちる。同心円状のもんが広がり、ゆったりとした流れに押されるように下流へと向かっていく。

 少年はその光景を、まるで呼吸をえんりよしているような気配で見つめていた。

 いったんしずんだ亀は、浅い川底をるようにしてすぐにまた顔を出し、自分の作り出した波紋にまどったような顔をしてプカプカいていた。が、しばらくして水をかき始め、近くにあった石にしがみついて首を伸ばした。俺たちに別れを告げているわけではなさそうだ。いきなり拡大したおのれの世界について亀的思考をめぐらしているように見える。

 こうして波紋は流れ去り、亀は残った。

 朝比奈さん(大)がどこまで計算していたのかは解らないが、指令は『亀を投げ込め』までで終わっている。ならば投げ込んだ亀をどうしようが自由だろう。そう自分に言い聞かせながらくつと靴下をぎ捨てる。ズボンのすそまくって準備オーケー、目を丸くしている朝比奈さんと少年を残して岸を下りた。さすがに水は冷たく、コケか何かで足の裏がぬるぬるするのも気持ちのいいものではないが、川遊びは田舎いなかに帰るたびに従兄弟いとこたちとやってるのでお手の物だ。

「すまなかったな、かめよ」

 ゼニガメは小さな頭をもたげる。手を伸ばしても逃げようとせず、あっさり再かくすることができた。亀としてはまたつかまえるなら投げたりするなと言いたいのかもしれないが、幸い俺には亀語の素養がない。片手に亀を持ったまま岸を上って、元のケースに収容するころには足先の冷気は首の後ろにまでひびいていた。うう、腹をこわしそうだ。

 俺は地面にしりをついてりようあしを上げ、すいてきを空中に飛ばしつつ、

「少年、その亀、キミにやるよ」

「いいのですか?」

 一部始終をながめていた眼鏡くんは、遠慮するように、

「この亀を川にもどしたのは理由があるからではないのですか?」

 子供らしい知的探求心だが、亀同様、俺にはキミに答える言葉を持たないんだ。なんせ自分でも自分のやってるこうの意味が解らないんだからな。

「それはもうどうでもいいさ。亀だっていきなり真冬の川にほうり出されても困るだろうし、キミが飼ってやるってんなら、まだそっちのほうがいいと思うだろ」

 朝比奈さんはどうだろう。手紙の未来指令には絶対に従わなくてはならないと言っていたが、俺のやっているのはそれにはんしていないかな。どう言うかと多少心配だったのだが、小動物をづかう朝比奈さんはエサ箱をそっと少年に差し出して、

「これも持っていって。亀さんご飯です」

 それから少しお姉さん風に、

「ちゃんと世話をしてあげるって、約束してください」

「約束します」

 こまっしゃくれた子供だったが、悪い感じはしないね。朝比奈さんからわたされた亀ケースとエサ箱をきしめるようにした少年は、

「ずっと、大切にします」

 そこまで決意にみちた表情をせんでもいいというくらいのがいめて言った。

「ああ、少年。一つ約束してくれ」

 くぎしておく必要があるのだった。前回、それで俺と朝比奈さんはハルヒからエライ目にわされた。そのおくはまだのうにこびり付いている。

「君んちの近所に涼宮ハルヒってのが住んでいるだろ」

「はい。涼宮お姉さんにはいつもお世話になっています」

 涼宮お姉さんとは、またこそばゆい響きの言葉だ。

「そのハルヒには絶対にないしよにしといてくれ。俺と朝比奈さん……そうだな、ウサギのお姉さんがここにいたってことも、俺たちから亀をもらったってことも絶対に秘密だ。守れるか?」

「守ります」

 な顔でうなずく少年だった。安心しておこう。ついでに朝比奈さんが、

「亀を持って帰って、本当にだいじょうぶ? その、お母さんとか、知らない人に物をもらっちゃダメって、言われない?」

「だいじょうぶです。うまく言いくるめることができます」

 少年は背筋をばし、

「この亀を実験に使っていた人たちが、不必要になったので処分しようとしていたところに僕が通りがかり、かわいそうなのでもらうことにした……と説明しようと思っています。僕の両親ならきっと許可してくれるでしょう」

 なんというしっかりした子供だろう。我が家の妹に少しコツを教えてやって欲しくなる。同い年くらいなのにこのちがいは育ったかんきようによるものだろうか。

「それでは僕はじゆくの時間なので」

 しつけの行き届いた仕草で礼をする少年の頭に、朝比奈さんが手を乗せて言った。

「この前の約束も忘れないで。車にはじゆうぶん気をつけてね。どんな事故にも遭わないように、それから、いつしようけんめいに勉強して。そうしたら、きっと、あなたは立派な人になるわ。ずっとずっとだれもが覚えているくらいの……」

 朝比奈さんが伸ばした小指に、少年はとし相応に照れる気配を見せた。おずおずとした指切りげんまん。朝比奈さんと少年がそうしている姿が俺にはやたら微笑ほほえましい。

 少年はくすぐったそうな顔をして指を放すと、まるで宝物のように亀ケースをかかえ、何度もり返っては頭を下げながら歩いていった。その姿が完全に見えなくなるまで朝比奈さんは手を振り続け、俺がやっとかわいた裸足はだしくつしたをかぶせて靴をいたあたりで手を下ろして、

「ふうー……」

 ためいきをつく。朝比奈さん、あるいは朝比奈さん的未来から見て、あの少年はよほど大切な人物らしい。たとえば俺が時代まで時間移動して歴史に名を残しているじんに出会ったような、そんな感じなのだろう。そのくらいはもうかなくてもわかる。それが禁則こうであることもだ。

「ふう」

 俺も溜息じみた息をらした。すべきことを果たした意味での気がけたいきさ。この朝比奈さんとやるべきことをこれで全部終えたはずだ。空きかんのイタズラ、ひょうたん石、なぞの記憶装置、そして亀。

 問題はこれからどうするかがよく解らないことで、それは最後の手紙♯6にも書いてなかった。しかし朝比奈さんはもうひょいひょい出歩くことはなく、鶴屋さんの家のはなれでじっとしている限りでは俺も安心だ。残り二日、そうしていればこの朝比奈さんは元いた俺たちの時間にもどることができる。入れわりに俺は現在の朝比奈さんに過去に行くように言わねばならないわけだが、それも明後日あさつてのことだ。ひとまずは背負った荷物を下ろせた気分である。

「朝比奈さん、来たばっかりですが鶴屋さんまで帰りましょう。タクシーをつかまえて、そこまで同乗します。そこから俺は長門を待たしている図書館に行かんとダメですが」

「はい……」

 朝比奈さんはまだ心持ちぼうっとしたふんで歩き出した。俺のゆうどうのまま、川沿いの並木道に並行している車道へと下りていく。かたに立ってタクシーを待っている間も、朝比奈さんは言葉数少なくややうつむき加減でいた。

 俺はタクシーがやって来るのを待ちつつ、昨日の変なろうがまた来やしないかと周囲をうかがう。悪意丸出しなあの野郎だったが、そのまんますぎてかたきやくとしてはもう一つだとダメ出ししておく。そつちよくに言わせてもらって毛ほどもおそろしくねえぜ。もし古泉みたいなヤツが昨日のあいつみたいな近づき方をしてきたら、そっちのほうがよほどきようめいたものを感じただろうに登場時の演出を間違ったな。あるいはキャスティングをだ。

 おお、我ながらたのもしい心意気だと感心する。それもそうだろう? ここしばらく、俺は一年前には考えられないくらいのとつぴようもない出来事に巻き込まれまくり、その都度色々なことを考えたりもした。たまにらぐこともあったかもしれない。しかし、今では違う。長門にはおよばないかもしれないが、俺だって確固たるものを得るには充分すぎる時を過ごしたんだ。もう自分の立ち位置を見誤ることはないさ。

 タクシーはなかなか通らず、車の数そのものが少なかった。こうして朝比奈さんと二人で並んでいるのも割と楽しいのでたたずむことに苦痛はないものの、図書館に一人で向かわせた手前、長門のところには早めに行ってやらないとな。

 とか、のんきに考えていたのが悪かったのか。

 次のしゆんかん、俺は信じられないものをもくげきすることになった。



 その時、俺は時計をかくにんしなかった。そんなゆうはどこにもなかった。だから正確な時間は解らない。しかし、午前十一時前なのは確かだ。

 事件は次のような手順で発生した。

 県道の左車線外側に立ち、タクシーの姿をぼんやり求めていた俺と朝比奈さんに向かって、大型車がじよこうして走ってきた。スピードを出して走る道でもないからそのこと自体には不思議性はなく、実際俺も気にしなかった。

 しかしその車はさらに減速すると、信号もないのにゆっくりと止まった。俺たちの目の前で。

「何だ?」と思うヒマがあったかどうかも疑わしい。

 なぜなら、そのワンボックスカーのスライドドアがとつぜん開き、車内からばされたうでが朝比奈さんの身体からだとらえて車内に引きずり込むまで、ものの数秒とかからなかったからだ。

「あっ……!?」

 その声が朝比奈さんの上げたものだと気づいたとき、そのモスグリーンのワンボックスカーはドアを閉めもせずに急発進し、まるであざけるようにはいガスを俺にきかけ、すでに道の彼方かなたに小さく見えるばかりになっていた。

「なっ……」

 ぼうぜんから立ち直るのにコンマ二秒ほどかかった。車の姿はすでに視界からせている。

 まて、待て待て。

 なんだこれは。俺の目の前から朝比奈さんが消えている。車に引きずり込まれ、その車は走り去ってもう見えず、俺は一人で車道に立ちつくしている……って、これは何だ。

ゆうかい……!」

 しかも俺の目の前でか。すぐ横に俺がいたのにか。手を伸ばせば届く、それどころかきしめてもいいくらいのきよにいた朝比奈さんが、数秒前までいた朝比奈さんが、今はいないのだ。こんなバカなことがあるか。

「くそっ! なんてこった!」

 何があわてたといって、こんなに慌てたことは十二月にハルヒが教室にいなかったとき以来だった。ハルヒの代わりに朝倉がやって来た、あの時にひつてきした。

「しまった!」

 あの野郎か!? これは昨日のあの野郎のわざか。だとしたらナメすぎていた。あいつの登場の仕方やキャラは、俺を油断させるための作りだったのか。どうとでもなりそうな印象を俺にいだかせ、注意をさんまんにするけだったとしたら──。

「朝比奈さん!」

 みみざわりな音がまくを直撃する。強風で桜の木々が揺れる音ではない。俺の顔面から血の気が引いていく音だ。

 俺はけいたい電話をつかみ出した。だれかに助けを求めなければならない。この際誰でもいい。朝比奈さんを俺のもとに戻してくれるならば、警察でも消防署でも自衛隊でも商工会議所でもかまわなかった。俺の指は半自動的に動き、どこにかけているのか自分でもわからないまま呼び出し音が耳を打ち、すぐに相手が出た。

『どうしたの? キョン』

 ハルヒの声だ。とっさのことで半ば意識をなくしていたあまり、ハルヒの携帯にかけてしまったようだが、この時の俺は思考力のほとんどを失っていた。

「ハルヒ大変だ! 朝比奈さんが誘拐された!」

 ただそうさけぶ俺に、

『はぁ? 何言ってんの?』

 ハルヒの声はひたすらゆうちようだった。ぶくろがでんぐり返りそうになりながら、俺は再度叫ぶ。

「だから朝比奈さんが誘拐されたんだよ! 急いで助けないと……!」

『ねえ、キョン』

 ハルヒはやさしさを感じるほどの声で、

『どういうつもりか知んないけど、もうちょっとマシなイタ電をかけてきなさいよ。くっだらない。なにそれ、どういうつもり? みくるちゃんならずっとあたしのそばにいるわよ。有希ならまだ話はわかるけど』

ちがう、長門じゃない。朝比奈さんが……」

 言いかけてだと気づく。そう、今、朝比奈さんはハルヒといつしよにいる。その朝比奈さんは元からここにいた朝比奈さんで、そう用具入れから現れたほうの朝比奈さんではなく、そっちの朝比奈さんはと言うと、車で連れさらわれて──。

『減点一。すぐにバレるうそなんて程度低いわ。それにね、じようだんなら笑えるものにしなさいよ。じゃあね、バカキョン』

「待っ──」

 切れた。

 携帯電話を持つ俺の手がふるえている。一刻を争うときにハルヒにかけている場合ではなかった。言われるまでもなく俺はバカだ。急報を告げる先はハルヒではなく……。

 着信音が鳴りひびく。

 誰がかけてきたかをかくにんせずに俺は通話ボタンを押した。

『もしもし』

 古泉の声だった。俺が何か言うより早く、

『ご安心ください、涼宮さんたちとははなれた場所からかけています。ええ、トイレに行くと言って席を外させてもらったんです』

 知るか。どうでもいいんだ。それよりも、

「古泉! 朝比奈さんが、」

じようきようあくできています。僕にお任せください。そろそろあなたの前にとうちやくするかと』

「何が来るんだって?」

 俺が重度の立ちくらみにおそわれながら顔を上げると、まるではかったようなタイミングで新たな車がピタリと止まった。くろりのタクシーだ。どこの会社のものかは解らないが見覚えはある。かつて俺は同じ車に乗り、《神人》に会いに行かされた。

 その車が後部ドアを開いた。

「乗ってください。急いで」

 後部座席にいた先客が俺を手で招く。俺は飛び込むようにして車内に転がり込んだ。見覚えのある車の中にいるのは顔見知りの姿だった。事態を飲み込むより先にドアがまり、急激なGが俺の身体からだを座席にめり込ませる。

「すぐに追いつきます」

 横からかかったすずしげな声にも聞き覚えがあった。夏、冬と散々お世話になった彼女の名前を忘れるわけにはいかない。

「森……森そのさん?」

「ごしておりました」

 たかだか一ヶ月ちょいだ。ご無沙汰というほどのものではない。しかしどうしてここに森さんがいるんだ。それも俺が見慣れたメイドしようぞくではなく、つうに道を歩くOLみたいな普段着で?

 森さんはいつもの落ち着いたみをかべ、

「古泉が説明しませんでしたか? わたしも『機関』の一員です。メイドは世をしのぶ仮の姿、あなたがたとご一緒する時だけのパートタイムです」

 目を運転席に移動させ、森さんは安心させるようにうなずいた。

「わたしだけではなく、彼も」

 ハンドルをあやつっていた左手を挙げ、運転手がバックミラーしに俺と視線を合わせた。

「新川さん……」

「左様でございます」

 料理のうまいしつであり、そして今はハイスピードで飛ばすタクシードライバーとなっている初老のしんは、

「あの愛らしいおじようさまをかどわかすとは、ろうぜきにもほどがありますな。がすわけにはいきますまい」

 さらにアクセルをみ込み、俺はますます座席にへばりつく。すさまじい速度の車に乗っているというきようがわき起こり、しかし、おかげでこおっていた頭がほどけ始めた。

 森さんと新川さん。二人は古泉の仲間で、メイドも執事もパートタイマーであるのは知っていた。まさかこんなところで会うとは思わなかった。それも朝比奈さんがゆうかいされた直後に、見計らったように車に乗ってくるとは……って、そうか。

「こうなることがわかっていたんだ」

 俺はしぼり出すように言った。

「朝比奈さんが誘拐されるって、あなたたちも古泉も解っていたんでしょう。だから、俺たちのすぐそばで待機していた。そうなんですね」

「いいえ」

 森さんは女版古泉のような笑顔を続けている。

「わたしたちがマークしていたのは、あなたがたではなく彼らのほうです。彼らの車があなたがたに接近するのを見て、よもやと思いました。わたしたちも彼らがこのような行動を起こすとは意外でした」

「彼らってのはだれのことですか」

 俺が思い浮かべているのは、昨日のろうだが。

「それも古泉が説明しませんでしたか? 朝比奈さんを誘拐した人々は、我々『機関』に敵対する組織の手の者です」

 こうなったらどこのどいつでもいい。許さないのは未来人だろうとちようのうりよくしやでも同じだ。

「どうして朝比奈さんを……」

「おそらく勇み足です。未来への優位性を今のうちに確保したかったのでしょうね」

 優位性?

「そうです。未来に貸しを作っておく、そのために彼女のがらを押さえるつもりだったのだと思います。でも、ちがってしまいましたね。彼らが本当に誘拐したかったのは、いま古泉といつしよにいるほうの朝比奈みくるさんだったでしょうから」

 何やらほうもないことを、森さんは何気なく言う。

「ずさんな計画です。よほどあわてていたのでしょう。彼らがどうしてこんな急に動き出したのか、調査の必要がありますね」

 あの変な野郎の登場も急だった。新手の未来人。あいつが現れたせいか。

 森さんは俺の心を読んだようにしゆこうして、

「本格的に手を組むことにしたのでしょうね。これは我々ももくできません」

「その、『機関』とかは……」

 俺の、と言いたいところを何とかこらえ、

「俺たちの味方でいいんですか?」

「我々の望みは現状です。それでは不足でしょうか?」

 おりの余地が発生しないくらい過不足ない。ではあいつらは、朝比奈さんを誘拐したその彼らとやらは何を考えているんだ。だいたい、それって何者なんだ。俺たちの味方でなければ、敵になるわけか。いったいどんなやつらなんだ?

「『機関』と対立する組織、朝比奈みくるさんと対立する未来の人たち、そして、長門有希さんを作り出した地球外意識体とは別の宇宙規模存在」

 森さんはさっぱりした口調で言い切った。

「そろそろ手を出してくるころだと思いました。年始の雪山については古泉から報告を受けていましたから。その三つが同盟することもありえます。いえ、間違いなくするでしょう。涼宮ハルヒさんにはけるだけの価値があります。すべてを失うかもしれない、けれど見返りも大きい」

 車体が飛びねるようにれた。ふみきりを一時停止せずに横断したくろりタクシーは、S字状コーナーをまったく減速することなくタイヤをきしませながらける。

「古泉も、あなたたちも」

 俺は早くもくるまいしかけながら、

「もう一人の朝比奈さんのことも知ってたんですね? 一週間後から来た、あの朝比奈さんが鶴屋さんの家にかくまわれていることを」

「もし彼女がいなければ、もう一人の朝比奈みくるさんが誘拐されていたかもしれません。涼宮ハルヒさんの目の前で」

 そんなことになれば最悪だ。ハルヒがどう出るか解らない。

「てーことは……」

 未来からきた朝比奈さんが過去の朝比奈さんの身代わりで誘拐された。つまり、過去の自分を助けるために未来の自分がさらわれる、と。こういうことか。だから朝比奈さん(みちる)がここにいることが必要だったのか。朝比奈さん(大)の手紙にあったお使いプレイは俺一人でもできた。俺と朝比奈さんが一緒にいて、俺一人ではあまり意味がなかったこととは何だった? 別口の未来人。かめと少年。そして誘拐。朝比奈さん(大)だけがすべてを知っている。

 俺が得体の知れない情動をいだきかけたとき、

「見失わないで、新川」

「承知しております」

 二人の声が俺の意識を前方に向けさせた。モスグリーンの車体が見えてきた。もうスピードなのは両者とも変わらない。走り出してからここまで、それこそ交通事故の三つや四つをしてもおかしくない交通法規無視っぷりだが、新川さんのドライビングテクニックはWRCレベルに達していた。しつの能力をえている。

 ゆうかい犯の車は山に向かっているらしい。このまま進めば秋に映画さつえいかんこうした森林公園を越えてさらに北へ行ってしまう。ほぼ山道しかない、ひとざとはなれたところだ。くそ、そんなところに朝比奈さんを連れて行って何をしようってんだ。許さん。

 俺は先行する車の車体後部をにらみつける。ワンボックスで、モスグリーン。あの時のあの車と同じ車種だ。先月、眼鏡めがね少年を跳ね飛ばしかけたものとまったく同じ。間違いない。どう考えても中に乗っているヤツは味方ではないな。

 めちゃめちゃな速度で走る誘拐犯車は、ついにそう道路を外れ、本格的な山道にとつにゆうした。たくみにハンドルを切った新川さんがぴったり後をついていく。がけに無理やり作ったような道で、車二台がようやくすれ違うくらいのはばしかなく、ガードレールもなかった。ハンドル操作を誤ったりしたら、そのままふもとまで転がり落ちるようなところである。

 まさかカーチェイスをすることになるとは予想外だったが、そんなじようきようを気にするほど俺は冷静でもない。いかにして誘拐犯をぶんなぐるかばかりを考えるあまりカツカツだ。

 その俺のとうに水を差すように、けいたい電話が鳴り始めた。俺がにぎったままでいた携帯ではなく、森さんが自分のものを取り出して耳に当てる。

 言葉の内容まではわからないが、男の声らしきものが俺の耳にも届いた。しばらくだまって聞いていた森さんは、

「解りました。手はず通りに」

 短く答えて通信を終え、優美にするどい声を前席に飛ばした。

「新川、まもなくです」

「かしこまりました」

 たよりがいのある声で新川さんはうなずき、ギアをシフトダウンさせてエンジンブレーキを効かせる。どうするつもりなのかとたずねるヒマはなかった。

「うわっ!」

 ちょうど未舗装道路のえがくようにわんきよくした部分にさしかかっていた。その曲がり角、俺たちの進行方向から、パトカーが対向車線上におどり出て来た。しかも急ブレーキをかけたパトカーは見事なドリフトをかましながら横腹を見せて停車、完全に道をふさぐ。

 行き場をなくしたワンボックスカーがフルブレーキ、つちけむりを巻き起こして急激な減速にかかる。片輪が崖を越えそうになったいつしゆんには俺がきもを冷やしたが、誘拐犯側のドライバーもうでまえは確かだった。ごういんに体勢を立て直すとよこすべりするような曲芸を見せ、一回転ののち、さらに半回転。ノーズをやまぎわこすりつつもパトカーの側面ギリギリで停車した。

 新川さんは同様の手順を安全かつスローでおこない、やはり横向きに黒塗りタクシーを止める。はさみうちだ。これでワンボックスカーのげ場は崖下しかない。

「新川はここで待機」

 森さんはそう言うと、ドアを自ら開いて山道に降り立った。俺も後に続いて、ワンボックスカーにけよろうとしたところで森さんに腕をつかまれた。

 俺を目で制した森さんは、よく通る声を誘拐犯の車に向けた。

「エンジンを切って出ていらっしゃい。今ならまだ間に合います」

 ていちような口調は変わらず、ただしとうやかたや鶴屋さんのさんそうで聞いた彼女の声とは種類が違っている。

 パトカーからは警官が降りてきた。ぱりっとした制服を着こなしたその人を見て、俺はまたしてもぎようてんする。親指を立てて微笑ほほえみかけた多丸弟、ゆたかさんの好青年顔がせいぼうの下にある。運転席ではその兄、多丸けいいちさんがこれまた人のよい顔で俺に目でうなずきかけていた。

 森さんの電話の相手はこの二人だったのか。

「朝比奈みくるさんを降ろしなさい。あなたがたは失敗しました。これ以上、ねじれを大きくする必要はありません」

 森さんのりんとした声が俺の注意を車にもどす。ブラックシートをられているため、相手の車の中はうかがえず、ヤキモキする気持ちをおさえられない俺がワンボックスカーにりの一つでも入れようかと身を乗り出したとき、アイドリング状態にあったエンジンがちんもくし、モスグリーンのサイドドアが動き出した。ゆっくり開いていくのはせめてものていこうをしようという表れか。

 しかし、姿を現した誘拐犯の人相ふうていを見た俺は、しばし目を見開いた。無言で降りてくるクソろうどもは、いたって意外なことにくつきようこわもてでもせいかんな兵隊顔でもなく、そこらの街中をつうに歩いていそうな若い男女だった。連中の顔をいつしようがい忘れるものかと穴のあくほど見つめていても、取り立てて悪どい顔をしていないのが逆に気にかかる。

 だが、そんな疑問もぐったりした朝比奈さんを見つけた俺にとってはどうでもいいこととなってはじけ飛んだ。最後に降車してきた女に支えられた朝比奈さんは、意識を失っているのだろう、目を閉じてぐんにゃりしている。

 やっぱり許さん。

 飛び出しかけた俺を、また森さんが制止、

「解っているでしょうけど申し上げておきます。その人にかすり傷の一つでもつけているようなことがあれば」

 そのようぜつみを見て、俺はふがいなくもこしけそうになった。これほど美人の笑顔がこわいと思ったことはない。ハルヒが時たま見せる、笑いながらおこってるような顔とはランクとすごみがちがう。

 俺がこおりついた気配を感じたのだろう、森さんは例のメイド的なしようをいったん俺に向けてから、あたらめておお鹿ゆうかいはんたちへ、

なおに解放なさいませ。この場はのがして差し上げます。自分たちの組織にお戻りになるなり、どこへでもお行きになってください。でないと──」

 森さんの微笑みはさらにせいさんになり、俺はもはやそつとうしそうだ。もし俺があの男たちの立場でこの顔を向けられていたら、せいだいにチビっているかもしれん。

 しかし犯人たちは、立ったままらす代わりに舌打ちをして、朝比奈さんから手をはなした。がおの朝比奈さんがくたりと車のタイヤにもたれかかり、しゃがみ込むようにしりもちをつく。誘拐犯たちの手つきがこわものあつかうようであったのが救いだ。もしうるわしの朝比奈さんをき飛ばすようなことをしたら、俺は何事かをわめきながら両手をぐるぐる回しつつ連中にとつしんしていただろう。

「車はのちほど輸送にてお返しします。どうぞ、徒歩でお帰りを」

 森さんは平然と指先をがけしたに向けた。ここを下りて帰れということだろう。やろうと思えば下山することもできるだろうが、登山道具もなしに下りていくのは至難のわざだ。いい気味ではあったが、

「しかたがないわね」

 誘拐犯の一人が、場と身のほどをわきまえていないような明るい声で言った。

「だいたい予想していたけど、やっぱりダメでした。これも必然だったのかしら」

 朝比奈さんを降ろしてきた紅一点だった。あらためて注目してみると、その女はどうみてもミドルティーンだ。年代的に俺と違うところが見いだせない。

 そいつははなやかな笑顔を俺に差し出すように、

「初めまして。こんなところで顔合わせっても何だけど会えて光栄だわ。いずれは正式にあいさつしようと思ってたんだけどね」

 そいつはりで仲間に合図をした。女一人を残し、ほかの連中は大して未練を感じているわけでもなさそうに車を離れる。さいこうにいた大学生風の男がちようめんにも車のサイドドアを閉め、それからほぼ垂直に切り立っている崖へと足をめぐらせる。一人、二人と冬の森の中に消えていくが、森さんも多丸裕さんもらえるつもりはないらしい。

 俺は一刻も早く朝比奈さんに駆け寄りたいものの、森さんはまだ俺の腕を取って離してくれない。くすりと笑い声を上げたのは誘拐女だった。

「心配しなくていいよ。あなたの未来人さんにはさつしようもつけていないから。すいやくがせてねむってもらったけど、自分がどういう目にったのかも覚えてないんじゃないかしら。あんまりすぐに寝てくれたもんだから、こっちがおどろいたくらい。眠らされ慣れをしているのでしょうか?」

 仲間がいなくなっても、その女──いや、少女だな──はゆうぜんと構えている。いつまでそうさせているんですか森さん。誘拐犯ですよ、誘拐犯。多丸さん兄弟も、そんな格好しているんだったらワッパの一つでも持っているでしょう。

 俺がこう行動を起こそうと心に決めたとき、だれも乗っていないはずのワンボックスカーのサイドドアが内側から開かれた。

「つまらないな」

 ひょっこり顔を出した男、その野郎は古泉の五倍はじやあくな笑みをかべていた。

「簡単にやられすぎだ。こうもあっさりおひめさまうばい返されるとは、もうちょっとねばりが欲しかった。これでは逆効果にしかならない」

 車から降りようとはせず、そいつはたいぜんとシートにもたれかっている。昨日のあいつだ。意味ありげに現れた第二の未来人ろうが、

「これも規定こうだよ。だが僕らにとってもそうなんだ。だから、どうってことはない」

「あなたもお帰りください」

 森さんはやさしいお姉さんの口調で言った。くちびるは毒の花のような笑み。

「それともしばらくとうりゆうするのですか? ならばどこをご用意して差し上げます」

「あんたたちの世話にはならない」

 野郎は朝比奈さんを見下ろし、ふん、と鼻を鳴らすと、じやがんみたいな目を俺に向け、

「これは失敗じゃない。単なる歴史的事実なんだ。ご苦労なことさ。あんたも朝比奈みくるも。なあ、あんた、おどらされていて楽しいか? 僕はごめんだね。わかっていることをそのままなぞるなんていやが差す」

「あら、それもいいんじゃないかしら」

 誘拐少女が言った。

「未来がどれだけ決まっているって言うの? 正しい結果に向かって道を外れないように歩くのも芸の一つじゃないかしら。踊るだけなら誰でもできるけど、指定されたり付けを正確に踊るのは難しいわ」

「ふん、なら踊っていればいい。僕はお前たちの力などあてにしていない」

「そうなの?」

 少女はおもしろがるように、

「あたしはそれでもいいけど、どうせ同じところに集まるのでしょう? 力を合わせていきましょうよ」

 いまいましそうに表情をゆがめたその野郎は、またしても俺をにらみつけた。言っておくが、ハルヒの眼光を浴び続けて久しい俺は、その程度ではひるまないんだ。視殺戦なら受けて立とうじゃないか。

 俺の殺気をさとったか、そいつは例のにくにくしい顔で、

おろか者だらけだ。どいつもこいつも。てんで解っちゃいない。あんたの無知にはきようを覚える」

 そいつはドアの手すりに手をかけ、最後に俺にこう言いやがった。

「また来る。あんたとは何度か顔をつきあわさないといけないんだ。バカバカしい。しかし僕の役目でもある」

 言うことはそれだけだったらしく、そいつはドアを閉じた。

 誰も動かなかった。森さんはこわみのままゆうかい少女をえて動かず、俺は森さんのせいで動けない。名前を言おうともしない誘拐犯の少女もまたしようしたまま立っていたが、思い出したように車に近寄り、ドアを勢いよく開けた。

 そうしなくても誰もいないのは解っていた。車内にひとかげはなく、敵意をまとわりつかせるあの野郎などどこにもいない。空間移動か時間移動か、まあどっちでも俺の目の前から消えてくれたのは喜ばしいことだ。

「あたしも、さよなら」

 少女が仕事を終えたとばかりに両手を打ちはらい、山道の下をのぞき込んだ。

「歩いて帰ることにするわ。あ、その車なら処分してくれてかまわないから。返しに来なくていいのです。あげます」

「どうも」

 森さんが応じ、やっと俺の手をはなした。巣に残してきた子供を心配する親鳥のように、俺は朝比奈さんのもとにダッシュした。

「朝比奈さん」

 かたき起こす。小さく息をする音と、定期的に上下する胸が生存のあかしだ。一言あくを投げようと誘拐犯のほうを見ると、その少女はすでに山道からがけしたへと下りていくところだった。

 森さんが俺のそばにかがんで、ねむる朝比奈さんに顔を近づけた。首筋に指を当て、唇に鼻先を寄せる。

「ご無事です。二時間もあれば目を覚まされると思います。どうぞ、車まで」

 もちろん俺が運ぶ。朝比奈さんを背負うのにもすっかり慣れた。どこの誰にも代わってやりたくない仕事の一つである。

 くろりタクシーにもどると、新川さんが孫を見る目で朝比奈さんを見つめ、俺にも似たような目をくれた。後部座席に力のけた朝比奈さんを座らせ、当然その横に俺も座る。一時はどうなることかと思ったが、取り戻せたのはばんばんざいだ。あのままげられていたらと思うと……いや、そんなことは思いたくないし、あり得ないことだ。

 規定こうを信じていいんだよな、朝比奈さん(大)。あなたがそうしているってことは、この朝比奈さんがあなたになるまでの時間は絶対に存在するんだよな?

 俺は年下みたいな上級生の寝顔を見続けて、そのため俺の後から森さんが乗り込んできたことも、多丸氏二人にあいさつしなかったことにも、車が走り出してしばらくするまで気づかなかったほどだ。

「どちらに向かいましょう」

 森さんの問いかけで、ようやく俺は乗った車が元来た県道に復帰していることを悟った。

「……図書館まで」

 今は早いとこ長門の顔を見て安心したかった。俺はそう答え、朝比奈さんと同程度にぐったりとシートにもたれかる。

 かめの放流と再回収で事足りたと思っていたのに、朝比奈さんの誘拐と救出という大仕事が待ち受けていたとは意外をえた出来事だった。精神的につかれ切っていたが、のろのろと口を動かして声を発する。

「森さん……。朝比奈さんは、これまでもあの連中にねらわれていたりしたんですか? 俺の知らないうちに誘拐すいとかがあったんですか? これからも……」

「この時代にいる彼女が誘拐されることはありません」

 じゃあ、さっきのは何だ?

「わたしの言っていることは正しいと思います。現在の彼女はまったくの無事です。だって、未来の彼女が身代わりになってくれたのですから」

 森さんの顔はあいに満ちていた。

「朝比奈みくるさんは多くの人に守られています。あなたや、長門有希さん、それに私たち……。彼女を何者の手にもわたしたくない気持ちは同じです」

 古泉を信用できるように、この人もそうであればいいんだが。

ほかのことはあなたのてきなメイドさんに聞いてくださればと思います。もっと未来から来ている、あのれいで大人っぽい彼女に」

 もっともな意見だった。俺は息をきながら、とうとつに思い至った疑問を口にする。

「森さんは古泉の上の人なんですか? 名前を呼び捨てしてましたけど」

 森さんは、ふふふ、とねんれいしようの笑い声を上げて、

「気にしないでください。同じ会社の仕事仲間なら、対外的にはたとえ社長でもけいしようを略すのがつうです。それと同じようなものです」

 話をかわされている気がじゆうぶんにするが、『機関』とやらの序列やら上下関係にさほど興味があるわけではない。その気になれば古泉をめ上げて吐かせりゃすむ。本当のことを吐き出すとも思えなかったが、森さんだってそうだろう。言うつもりがあるんなら聞きたくもないのに話し出すのが古泉流、ひょっとしたら『機関』流だ。どうせそのうちたのんでもないのにペラペラしやべるに決まってる。

 なら、その時を待つさ。



 図書館前で俺はタクシーを降り、森さんの手を借りて眠り続ける朝比奈さんを背負い直した。

「次にお会いするまで、お元気で」

 森さんがメイド時代に戻ったようなおんがおで言い、新川さんはしつ時代と同じいんぎんもくれい、二人を乗せた黒塗りタクシーはすみやかに国道方面に北上していった。俺が古泉に連れられて《神人》見物に行ったとき、運転席にいたのはひょっとしたら新川さんだったのかもしれない。今度いておこう。そして改めて礼を言おう。多丸さんたちにも。

 朝比奈さんを背にして図書館のげんかんに行った俺は、入り口の外で長門のむかえを受けた。長門は寒さを気にしないようにじっと立っていたが、俺が何か言う前に、

「無事でよかった」

 無機質な目が俺のかたほおをつけてねむる朝比奈さんの顔に向き、

「事情は聞いた」

 だれに。古泉か?

 ゆっくりと首をった長門は、さらにゆっくりと俺に片手を差し出した。

 長門の手がふうとうを持っている。ファンシーなイラストの横に、手書きの文字でナンバーがふられていた。

 ♯5。

 欠番だった未来からのメッセージが、長門のもとに届けられていた。差し出し主は訊かずともわかるが、長門はあっさりと口を割る。

「朝比奈みくるの異時間同位体。約一時間前に会った」

 やっぱり来ていたか、朝比奈さん(大)。だが、長門のところにとは。

「何か言ってたか?」

「わたしをよろしく」

 長門はたんたんと伝言を告げると、指先をばして朝比奈さんの額にれさせた。

「……んんー……あふ……ふぁっ?」

 ほうの指先だ。朝比奈さんはぱっちりと目を開けると、

「わわっ。キョンくん……あれっ? あたし、どうしてオンブなんか、あ、な、長門さん……」

 いやがるシャミセンを無理にき上げるとこんな感じで暴れるんだよな。目覚めたたんにバタバタし始めた朝比奈さんだったが、いくらもうちょっとこうしていたいと思ってもおとなしくはしてくれないだろうし、長門の目もあるので下ろして差し上げる。森さんの話では二時間の効果を発揮していただろうすいやくも、長門がどうにかしてくれたのだろう、朝比奈さんが地をむ姿勢に乱れはなかった。

 朝比奈さんはじりにうっすらとしゆを差し込みながら、俺をうわづかい。

「あのぅ……。あたし、どうしてたんでしょうか。かめさんをあの人にあげて、それから……。そう言えば車が急に止まって……」

 その直後に薬をがされたらしい。何も覚えていない朝比奈さんに、俺は正直にあったことを教えた。話が進むに連れて青くなったり赤くなったりしていた朝比奈さんだが、俺のゆうかい劇カーチェイス話ダイジェストが終わると、意表をつかれることに笑顔となった。

「そうだったんですか。あたしでも役に立てたんですね。今のこの時間のあたしを守ることができたんですね。よかったぁ」

 その前向きな笑みに、俺の心のすみにこびり付いていた精神ろうき飛ぶ思いだ。そうなんだ。もしこの朝比奈さん(みちる)がいなければ、誘拐犯はもっとごういんな手を使って朝比奈さん(小)をかっぱらって行ったかもしれない。ハルヒの目前だろうが、古泉とその一味が全力でしようが、後先とおかまいを考えずに、ダメもとでだ。そんなことになっていたらそれはそれはおそろしい事態になっていた。ハルヒはげきするだろうし、古泉一派がだまって見ているわけもない。だがこれで連中も解っただろう。かくてき無防備だったほうの朝比奈さん(みちる)をさらっても、うまくいかないってことが。

 長門の力を借りずに俺は朝比奈さんを取りもどせた。これに長門がからんでくれたらどうなるか、あいつらも重々承知のはずだ。敵なら敵らしく相応の頭を期待するぜ。

「あ、その手紙……」

 朝比奈さんが封筒♯5に目を留めて、

「それ、いつ……?」

 さっき、長門に届いていたようですよ。

「長門さんに……?」

 長いまつをパタつかせて、朝比奈さんは小声でがらな団員仲間に、

「な、長門さん。これをあなたにわたしたのって、もしかしたら……あ、」

「言わない」

 キッパリと断る長門だった。無表情な宇宙人は言い聞かせるような口調で、

「あなたも、いずれ知る時が来る」

 くちびるを開いて固まる朝比奈さんに、

「それは自分自身で知ること」

 雪像が口をきいているような声で、長門はそれだけ言うとダッフルのフードをぶかかぶった。

 言いたくないってより、言わずとも解るだろうと言いたげに見えたのは俺だけではないだろう。



 黙り込んだ二人の女子団員にはさまれ、みようごこの悪さを感じる俺は、さっそく手紙をひもとくことにする。

 ♯5の内容。

『終わりです。そこにいる朝比奈みくるに元のちゆうりゆうかんじくに戻るよう言ってください。時間指定はあなたがおこなってください。よければ、場所も。好きにして』

 好きにして──か。ちがうシチュエーションで違う意味で言われたいね、一度でいいから。もちろん本物の朝比奈さんに。

 まあ、俺のことだ、そんな願望がかなったとしたら何もできずに立ちくらみを起こしてそのまま気を失ってしまい、こんこんとねむり続けたあげくハルヒあたりにたたき起こされる運命が待っているのだ。きっとそんなオチになる。だから身のたけに合わない願い事はしないでおくにしたことはない。ハルヒみたいに地球を逆回転させたくもない。起こって欲しくない願いはふういんしておいたほうがいいのさ。世界はありのままでいてくれ。

 そのためには朝比奈さんを元に戻すのが先決だな。俺は心をどこかに飛ばしている様子の朝比奈さんのかたを叩き、♯5の手紙を見せた。内容より差出人を気にしているらしい彼女だったが、最後まで読んでしまうとなつとくの顔で、

「わかりました。あたしのすることはもう終わったんですね」

 それからややさびしそうに、

「でも、間接命令になっちゃうんですね。キョンくんを通じないと、あたしは元の時間に戻ることもできないんです」

 しかし、そんな感情もすぐにしようさせ、朝比奈さんは微笑ほほえんだ。

「いつか、きっとあたしは自分で何もかもできるようになってみせます。その時は、あたしがキョンくんたちを助ける番。いつになるかわかりませんが、うん、きっと……」

 望みは叶いますよ。その目的意識と、それを目指したときの思いを忘れない限り。

 俺はうでけいを見るともなしに見ながら、

「それで、戻る先の時間ですが」

 この朝比奈さんがそう用具入れに出現したのは、今から六日前の午後三時四十五分で、その時彼女は「八日後の午後四時十五分から来た」と言ったのだから、この朝比奈さんの元時間は今から二日後の午後四時十五分以降だ。それより前だと今とじようきようが違わなくなる。同じ時間帯に二人の朝比奈さんがいることはけるべきだ。タイムラグは六十二秒ほどでいいだろう。

「二日後だと火曜日か。その午後四時十六分でどうですか? それだと朝比奈さんが存在しない時間は一分くらいですみますが。場所も同じでいいですよね。部室の掃除用具入れの中ってことで」

「そうですね……。その時間ならキョンくんしかいなかったから」

「制服とうわき」

 と言ってくれた長門のおかげで思い出した。この朝比奈さんは鶴屋さんの借り物しよう姿である。彼女が着ていたセーラー服は鶴屋さんの家に置き去りになっている。かと言ってこれから鶴屋宅に戻っていては正午に予定されている駅前再集合に間に合いそうになく、ここまで来て朝比奈さんを一人でほうり出す気もさらさらない。

「こうしましょう。朝比奈さんにはその格好で二日後にもどってもらうとして、制服とくつは俺が今日中に鶴屋さんのところに行って何とかします」

「お願いします。それから、あの」

 ペコリと頭を下げた朝比奈さんは、まじまじと俺を見上げ、言い忘れていたことがあるようなりで口を開きかけて、また閉じた。なぜか長門を気にする気配を感じたが気のせいか?

「なんでもなかった……です。その話は、ええと、戻った先で」

 気にはなるが、大したことではなさそうだ。それに明後日あさつてに知れるようなことなら今知らなくてもかまやしない。

 今この場で時間移動メカニズムを作動させてくれてもいいのだが、朝比奈さんはそのしゆんかんを見られたくはないらしい。一人になれるところがいいそうだ。俺たちは図書館に入ると、女子トイレまで朝比奈さんを送っていった。

「キョンくん。色々ありがとう。本当は古泉くんや鶴屋さんにも言わなきゃですね」

 古泉にはいつでも、森さんたちには今度会ったときにでも言えばいいことです。鶴屋さんは言わなくても解ってくれるでしょうが、それも俺から言っておきますよ。

「じゃあ……。キョンくん、長門さん。また明後日に」

 朝比奈さんは最後まで名残なごりしげにしながら、ためらいがちにトイレの中に消えた。個室のドアを閉める音がして、それっきりどんなSEも届かない。長門が静かに顔を上げ、

「現在時空から消失した」

 教えてくれる。終わったな。これで後は二日後を待つのみだ。俺は長門をともなって図書館を出て、深い息をいた。

「なあ、長門。昨日と今日だけで俺は朝比奈さんとは別口の未来人と、古泉の組織と対立しているらしい連中に会ったよ」

「そう」

「ああ。だからさ、お前の言う違う宇宙人もどっかにいると思うんだ」

こわい?」

 長門は動かない目線で問いかけ、自分で答えを述べた。

「わたしはおそれない」

 お前の言うとおりさ長門。俺も同じ意見の持ち主だ。朝比奈さんと古泉も同意してくれるだろう。似たもの同士、仲よくやっていこうぜ。

 長門はだまったまま前を向き、俺も口をざして歩き続けた。

 言わずとも知れたことをわざわざ言うことはない、俺はそれを知っていた。SOS団は五つの個人の集まりなんかじゃない。SOS団という一つの同体なんだ。そんなとっくに解っていたことを、俺よりよく解っているやつに言う必要なんかないのさ。

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