翌日、土曜日の朝。
慣れない土建屋バイト(無償()をしたせいで上半身がところどころ筋肉痛になっている。ま、昨夜は変な夢を見ることなく心地(よく熟(睡(できたからよしとしよう。
俺は封(筒(♯3をコートの内ポケット奥にしまって玄(関(を出ると、タイヤの空気がヘタり気味のママチャリを引き出し、乾(燥(した冷風の吹(く道を走り出した。うむ、今日も順調に寒い。
不法駐(輪(して業者に持ってかれるのも何なので、駅前に新しくできた駐輪所に金を払(って自転車を預けてから、駅前の待ち合わせ場所に足を運ぶと例によって俺が一番最後だった。
朝比奈さんは新種の愛(玩(動物のような暖かそうな出(で立ちで迎(えてくれ、古泉はすれ違う女子中高生のうち五人に一人は振(り返りそうなハンサムスマイル、長門は今日も制服の上にフード付きダッフルをまとった無口なサンドピープルスタイルである。
ピーコートにマフラーを巻いたハルヒが指(鉄(砲(で俺に狙(いをつけて、
「待ったわよ、キョン。三十秒も」
それは惜(しいことをした。チャリをその辺に置いてたら市内不思議探し第一回から数えて俺が初のブービーだったかもしれんな。一度はハルヒに奢(らせたいものだ。
「そりゃあ奢ってあげるわよ。あたしがドベになった日にはね。言っとくけどあたしはビリとかドン引きとか周回遅(れとか予選落ちなんて言葉が一番嫌(いなの。寝(坊(して遅れるくらいなら前日からここに泊(まり込むくらいの意気込みはあるわよ」
勇ましい笑(顔(はとことん挑(発(的だ。もうまったく、今のハルヒにはどんな巨(大(な敵も太刀(打(ちできそうにない。こんなことならブルーな時に何かしとけばよかったぜ。ところで過去を振り返って、やんなきゃよかったと思う後(悔(とやっとけばよかったという後悔とではどちらが尾(を引くのかね。
などと、考えたところでどうしようもないことを考えているうちに、俺はハルヒに引きずられるようにしていつもの喫(茶(店(に移動していた。
「昨日はなんにも見つかんなかったけど」とハルヒはホットブレンドをガブガブ飲みながら、「よーく考えたら、SOS団の探査目標は過去の遺産じゃなくてもっと不思議なものなのよね。何て言うの? 未来的なイメージなものというか、秘密っぽいものよ。この市内にだって一つくらいは何かあるでしょ。けっこう広いんだしさ」
面積の問題じゃないだろう。重要なのはどれだけ栄えてるかとか人口密度とか──。
「……やれやれだ」
やめた。都市の繁(栄(度(も人間の数なんかも関係ないんだ。本当はな、ハルヒ。不思議なものは気づいたらいつの間にか近くに存在しているものなんだよ。それこそいつの間にかだったので、誰(にも気づかれないうちにすべて進行してたりするのさ。
俺の場合、気づいたんじゃなくて気づかされたんだが、知ることができてよかったよ。それもお前が俺の席の後ろにいてくれたせい……いや、おかげだな。
などと、俺がナレーション的なモノローグに浸(っているうちに、ハルヒはツマヨウジにボールペンで印を付けたクジを作り上げ、全員に引くように促(した。
「一(緒(に行動する組み分けよ。印入りが二つと、ないのが三つね」
反射的に長門のほうを見てしまう。小(柄(な制服姿は無音でフルーツティーのカップを傾(けつつ、メニューに静かな瞳(を向けていた。おっと、これは勇み足だった。今日の初っぱなは無理に長門とコンビにならなくてもいいわけで、そういや朝比奈さんは何と言っていたっけ。そうだ、俺と古泉だったか。
「どうしたのよ、引きなさいよ」
ハルヒが五本のツマヨウジを握(った拳(を突(き出している。
「そんなに組み合わせが気になるわけ? ふふーん、誰と一緒になりたいって? 子供みたいね、あんた」
そんな隣(のお姉さんが悪ガキを見るような顔で笑うなよな。だが、考えてもラチが明かないことは確かでもある。朝比奈さんの未来予報は俺と古泉の二人で同組になることを教えてくれている。どの楊(枝(を引いても同じ結果が出るわけはない。印の入っている確率は五分の二、普(通(に計算すれば無印を引く可能性のほうが高く、で、もし印のないクジを引き当てちまったらどうなるんだ? 朝比奈さんの記(憶(違(いってことでうまくまとまるのだろうか──。
などと考えているのが悪かった。ハルヒは沈(思(黙(考(する俺を放(っておいて、さっさと他(の三人にクジを引かせ、いざ俺の番になったとき残っているのは二本だけだった。
慌(てて古泉の手元を確認する。優(雅(な手つきで持たれたクジの先には、印がちゃんとあった。
これで引いていないのは俺とハルヒだけ、ハルヒはいつも残り福的に最後の一本を自分のクジにする習慣だから、後は俺のヒキにかかっているというわけである。
俺は目を閉じて深呼吸し、さらに十秒ほどハルヒの拳を見つめながら精神を統一させた。
「何やってんの? 大げさねえ」
呆(れ口調のハルヒであるが、俺には割と重要な儀(式(なんだ。ここで帳(尻(を合わせておかないとゆくゆく面(倒(事(になりかねないからな。
「ままよ!」
とばかりに俺は右手を高速移動させた。右か左かなんてチラとも思わず、適当に手を動かして触(ったほうを引こうと試みたわけだったが、あまりうまくはいかなかった。あまりに適当すぎたようだ。俺はハルヒの手からツマヨウジを二本ともはじき飛ばしてしまい、しまったと思ったときには一本がテーブルの上を転がり、もう一本はハルヒが空いていた手で空中キャッチしており、そして転がっているクジの先にはシミのような印がついていた。
「なーんだ」とハルヒは幾(分(か唇(を尖(らせて、「男と女で別れただけじゃん。なんだかつまんない分け方になっちゃったわねえ」
気負って損したよ。この午前の組み合わせは時間移動的に重要ではない、というか俺が無印を引いていれば長門と朝比奈さんという両手に花状態が発生していたわけで、休日に古泉と二人で行動するより心が豊(潤(になっただろうに、それを思うと小さな過去なんかに囚(われることもなかったかもしれない。考えなきゃよかったかな。
しばらくウダウダしてから席を立つ。もちろん払(いは俺任せだ。習慣とは恐(ろしいもので、押しつけられてもいない伝票を自然に取ってしまう自分が恨(めしい。
「キョンくん、いつもすみません。ありがとね」
申しわけなさそうに言ってくれる朝比奈さんだけが心の回復薬だった。古泉も似たようなことを言うのだが、こういう場合、爽(快(な笑顔で言われてもなぜか嬉(しくねえな。
「財(布(の中身にお困りのようでしたら、いいバイト先を紹(介(しましょうか」
俺と肩(を並べて喫茶店を出ながら、古泉が囁(きかけてきた。
「とても簡単なアルバイトでね、慣れたら単純な作業になります。日(当(のよさは僕が保証してもいいですよ」
「していらんね」
甘い言葉には常に悪(魔(の思(惑(が潜(んでいるものだ。うっかり変な書類にサインして、連れて行かれたところが奇(妙(な研究所の手術台だったりしたら目も当てられない。パートタイム超(能(力(者(に改造される恐れがある。俺は無人の灰色空間でハルヒのストレスと戦(闘(を繰(り広げたりはしたくないぞ。
「それは僕がやりますよ。あなたに求めているのは、そのストレスと戦闘しないでもいいような状(況(を作り上げることです」
そんなもん、お前がやればいいだろう。
「あなたにしかできそうにないんですよ。少なくとも、今のところは」
俺は普(遍(性を逸(脱(した特(殊(技能なんか持っていないはずだ。
「そうでしたね」
古泉は唇の先二センチ前で笑うような表情をした。
「その気になったらいつでも言ってください。仕事の内容を教えて差し上げますから。僕としては、すでに教えたような気分になっていたんですがね」
古泉らしからぬ曖(昧(模(糊(としたセリフだったが、俺は追及しなかった。聞きたくもないことを言い出す予感があったからである。考えなしに突っ込んで返り討(ちに遭(ってはしかたがない。時には自重が必要なのだ。だいたい罠(にはめるほうが最初は守勢でいるものだしさ。
店の外で俺の支(払(いを待っていたハルヒが、
「集合は十二時ジャストよ」
右手を長門の、左手を朝比奈さんの腰(に回して南国系の花の笑(顔(。
「それまでに何でもいいわ、不思議なものを見つけてきなさい。昨日まではなかったはずのマンホールとか、知らないうちに増えていた横断歩道の横線とか、目を皿にして歩いていれば一つくらいは見つかるでしょ。いいえ、見つけるつもりで探すわけよ。そうしないと見つかるものも見つからないからね」
お前が等身大人型カイロのように身体(にくっつけているその二人は宇宙人と未来人というこの上ない取り合わせなのだが、もう、それはいいか。それに、もし体育祭の借り物競走で不思議なものを持ってこいと言われたら俺は即(座(にハルヒの手を引いてゴールするだろうが、それももういいな。こんなおかしなバックステージを持つ一団の中に俺がいるという事態が最大の不思議だが、全部ひっくるめて今さら持ち出すことでもない。ハルヒが本能みたいに不思議を追い求めるように、俺は今の日常が続いて欲しいと思っている。もはや間(違(えようのない、それが真実ってやつさ。
あたしたちは線路のあっち側に行くから、というハルヒに引っ張られるようにして長門と朝比奈さんが踏(切(を渡(るのを見届け、俺はマフラーをまき直した。
「どこか行くあてでもあるか?」
二時間限定のツレに訊(いてみる。古泉は固まりそうに寒い空気の中でもあくまで朗(らかに、
「あったとしても、あなたの足が僕の心当たりなどに向いてくれそうにはありませんからね。普(通(に散策を楽しむとしましょうか」
意外なことに、歩き出しても古泉は俺に余計なことを話しかけたりはしなかった。大きなドブ川を泳いでいる鯉(の魚(影(を見つけてその生命力に感心したり、コンビニに入って雑誌を立ち読みしたり、ようはどこから見ても由(緒(あるヒマな高校生二人組だ。
話すことも学期末試験の話やら、昨日見たドラマのツッコミどころやら、おいおい、こいつとこんなまともな会話すると、かえって疑(心(暗(鬼(に陥(るじゃないか。
「僕は一(般(高校生に身をやつした超(能(力(者(ということになっています。こういう表の部分も重要なんですよ」
古泉は横断歩道の線を歩数で数えるように車道を渡りつつ、
「僕だって永遠に超能力者でいられるとは思っていません。誰(かにパスできるのなら、僕の持っている力と役目を包装紙に包んで差し上げたいくらいです、と、そう思うときも、たまにあるんですよ」
安心させるつもりか、古泉はこっちを見て微笑(んだ。
「たまにです。どちらか選べと言われたなら、僕は今の立場を選(択(します。地球外生命の端(末(体(や未来人と自覚的に対話できるなんて、これ以上に物(珍(しい体験はちょっとやそっとでは思いつきませんね。あなたには敵(わないでしょうが」
俺ときたら、お前の挙げたその二人にお前が加わる珍しさだからな。
「僕から超能力者という肩(書(きが取れるのがいつになるかは解(りませんが、僕の属性から高校生という一文が削(除(される日は必ず来るんです。涼宮さんが留年でもしないかぎりね。だとしたら今しかない高校生という立場をそれなりに謳(歌(しておかないと」
俺はけたたましく過ぎていった今年度の日々を思い返した。
「俺にはお前が、じゅうぶん謳歌していたように見えたぜ。特に夏と冬の合宿では大(活(躍(だっただろ」
「それも僕が『機関』の一員だったからです。もうそろそろ四年前になりますが、あの時自分の身に降りかかった奇(妙(な能力がなければ、転校生として北高に編入することはなく、世界の命運うんぬんなどとは特に無関係に暮らしていたことでしょう」
「いいじゃねえか」
点(滅(する歩行者用信号機を見上げ、歩きながら言った。
「超能力だか何だか知らんが、それがあったおかげで今こうしてここにいるんじゃねえか。あったせいで、とか言いやがるなよ。それとも何か、お前はSOS団なんてアホな団体に入ったことを悔(やんでいるのか? ものは試(しだ、退団届けを書いてみろよ。代理で俺がハルヒに提出してやってもいいぜ」
古泉は口の端(を歪(める人工的な笑みを俺に向けた。やや間があって、
「いいえ」
面(白(がっているような声で告げた。
「現在のあなたが、ある種の開き直りの境地に達したように、僕もまた涼宮さんやあなたがた団員の皆(さんに初対面時には考えられないほどの好意を抱(いています。副団長でもありますし……いえ、そんな肩書きを理由にすることもないですね。あの雪山の館(で僕が言ったことを覚えていますか?」
当たり前だ。お前が忘れても俺が忘れん。あの約束を反(故(にするようなことがあれば、俺はハルヒと力を合わせてお前にとびっきりの特製バツゲームを与(えてやる。
「安心しましたよ。僕が記(憶(喪(失(になってもだいじょうぶそうですね。あなたたちが思い出させてくれそうだ」
微笑み、古泉は緩(やかに白い息を吐(いた。
「長門さんがあっさりと窮(地(に立つなどよほどのことで、そう何度もあるとは思いたくありませんが、僕にできることならしますよ」
その決意を長門以外の仲間にも向けてもらいたいもんだな。
「言うまでもないと思ったんですよ。朝比奈さんも守ってあげたくなる人に変わりはありません。無意識のうちに庇(護(欲をくすぐってくれますからね。超能力の一種かと思えるくらいですよ」
横断歩道を渡(りきった古泉は、ふと足を止め、腕(時(計(に視線を落とした。つられて俺も左手首を上げる。ずいぶんブラブラしていたな。そろそろ集合時間だ。
俺が駅前に戻(る道を目指しかけた時、三歩ほど遅(れた後ろから古泉の声が小さくかかった。
「現在の朝比奈さんは僕にも『機関』にとっても守護の対象です。ですが気をつけてください。あなたのあの朝比奈さんとは違(う、別の出(で立ちをした朝比奈さんはそうではないかもしれませんよ」
朝比奈さん大人バージョンのシルエットが網(膜(に再生される。俺は振(り返らずに歩き続け、古泉の声はさらに遠くなった。
「彼女が僕たちに──SOS団に、福だけをもたらすという保証はありません」
かもな。だが、これもお前が言ったことだぞ。
「だとしたら」
と、俺は言った。
「その未来を変えてやればいいのさ。今のこの時からな」
駅前に戻ってきた俺と古泉を、先に帰(還(していた三人が待っていた。
「何かあった?」
ハルヒが訊(いてくるものの、探してもないものは発見できたりはしないので、
「ない」
正直に答えるのみである。
「そっちこそ、面白いもんを発見できたのかよ。なかったならお互(い様(だぜ」
「うん、そんなに不思議なものはなかったけどね」
落(胆(も憤(りも見せず、ハルヒは恐(ろしくニコヤカに、
「面白かったわよ。三人でデパートの食品売り場で試食したりね。ね、楽しかったわよねえ?」
含(んだようにハルヒが笑いかける先は朝比奈さんだった。
「そ、そうですね」
朝比奈さんは何度も素(早(くうなずきながら調子を合わせている。ふわふわする栗(毛(がのんびり屋の蝶(の羽を思わせた。
「いろいろ見て回って面白かったです。新しいお茶も買っちゃった」
幸せそうに微(笑(する朝比奈さんは、本日はすっかり買い物気分である。よく見りゃ長門が手に持っているのは本屋の袋(じゃないか。この三人、いったいどんな不思議をデパートの食品売り場や書(籍(コーナーで探していたというんだ。不思議な話オンリーなら書店にいっぱい並んでいるだろうが。
「まあ、いいじゃないの」
ハルヒはけろりと言い放ち、
「慌(ててやっちゃうとね、たいてい後で悔(いるハメになっちゃうものよ。急ぐときこそ逆にゆっくりすべきなんだわ。車の運転なんかそうよね。猛(スピードで事故ったりしたら間に合う間に合わない以前の問題だもん。それにね、まさかと思うようなことは、まさかと思ってるからやって来るわけ」
お前の言っている理(屈(が徐(々(に解(らなくなってきたぜ。
「簡単な理屈じゃないの。いいこと、キョン?」とハルヒは偉(そばる。「だるまさんが転んだみたいなものよ。見てないところでは動くけど、さっと振り返った瞬(間(にピタって止まるでしょ。不思議さんもそんな感じよ。だからって振り返らないでいると通り過ぎちゃうから、その瞬間にとっつかまえるの。タイミングよ、タイミング」
ますます解らなくなってきた。ハルヒの頭の中では整合性がついているかもしれないが、そんな幸運の女(神(の前(髪(を比(喩(でなくつかめ、みたいなことを言われても困る。実体のないものを捕(獲(できるのは未知の電波を受信している人間だけだ。
「それより昼ご飯、どこにする?」
俺の疑問はそれ扱(いか。
「銀行の向かいに新しいイタリア料理屋さんがオープンしてたわ。ランチメニューがおいしそうだったから五人分予約しといたけど、いいわよね?」
どうやらハルヒは完全にダウナーモードを脱(したようだ。このハイペースなマイペースぶり、馬の耳元でお経(を上げていた坊(さんのほうがよほどやり甲(斐(のある仕事であったろう。功(徳(だけはありそうだからさ。
「俺はいいが、古泉はどうだ?」
ここで「いやぁ実はトマトソースが食べられなくて」とか空気を読まないセリフでも吐(いてくれたらどうなるだろうと考えてゲタを放(ってやったものの、古泉がハルヒの計画に反するような意見を発するわけがなく、「いいですね」と短く答えて微笑(むばかりだった。
「決まりね」
すでに決まっていたことをあらためて告げたハルヒは号令を下し、俺たちは意味もなく駆(け足(を強制されてランチタイムで混雑するイタリアンレストランへ直行、おかげで案内されたテーブルに着く頃(には筋肉痛が再発しかけていた。
猫(と同じで、やんちゃすぎるのもどうかと思うぜ。元気をなくしていれば心配するから元気でいすぎるほうがいいのだが、ハルヒがちょうどいい湯加減になってくれるような日が来るのだろうかと頭の一部分が考える。
ウェイターの運んできたお冷やを三秒で飲み干し、おかわりを要求する姿を見ていると、うーん、そうだな。朝比奈さん(小)が朝比奈さん(大)になるくらいの時間はかかりそうだ。
日(替(わりドリア定食なるお手頃価格の昼飯を食べ終わるなり、ハルヒはまたもや楊(枝(クジのシャッフルに入った。
本日のクライマックスはここからだ。どうも目の前にも朝比奈さんがいるせいで惑(わされがちになってしまうんだが、現時点で俺が気にしないといけないのは朝比奈さん(みちる)のほうなのである。ちゃんと待っていてくれればいいんだが。
斜(め横を見ると、いち早く食べ終えて黙(々(とメニューを読んでいた長門は、今はハルヒの握(る五本のツマヨウジを関心なさそうに見つめている。長門が依(頼(を忘れたりしくじったりするとは思えず、俺は安心してまっ先に即(席(クジを引いた。
印が入っている。
次に長門が手を伸(ばし、印入りの楊枝を見事に引き当てて、静かにテーブルに置いた。
「あら、もう引く必要ないわね」
どこかに不正があったのだとしても、気(取(られるほどのヘマを長門はしていなかったようで、ハルヒは三本の楊枝をぽいっと灰皿に捨てると伝票を手に立ち上がった。と言っても奢(ってくれるわけではない。一円単位の割(り勘(である。
支(払(を終えた俺たちは再び冷たい風に吹(かれながら、街中をあてどもなく巡(る昼の回遊魚と化さねばならない。しかし、それはハルヒと朝比奈さんと古泉にお任せだ。俺と長門は別の道を歩かせてもらう。正確には俺と三日後から来た朝比奈さん(みちる)とで。
長門と二人で歩いていると、どうしても最初の春の日を思い出す。まだ眼鏡(をかけていた頃の製氷所のような無表情、そういや中(河(はその時の俺たちを見かけたんだったな。
俺が進む道を長門は二歩ほど遅(れて音もなくついてくる。あまりにも気配がないもんだから、等(間(隔(を保っている姿を何度も振(り向いて確(認(してしまうほどだ。無論、長門は雪解け天然水のような無表情で俺のマフラーの先を見つめ続けていた。
感(慨(深(いものがあるのは、俺たちの向かっている目的地のせいもある。市立図書館。長門はちょくちょく通っているようだが、俺は長門を最初に連れてきたとき以来であり、あの改変された眼鏡付き長門の思い出の地でもあり、現在の俺と長門にとっても共通する思い出を持つ場所だ。
ハルヒたち三人と別れ、俺が誘(ったのも以前と同じ。違(うのは長門がすでに図書カードを持っていることくらいだろう。あと眼鏡。
互(いにいっさい喋(ることなく俺と長門は図書館への道を歩いていた。二人きりでいてずっと黙(りっぱなしでも気(詰(まりにならずにすむ相手というのは貴重だ。これがハルヒか古泉なら何たくらんでんだと勘ぐるところだが、その点、長門なら折り紙付きだ。
心地(よい沈(黙(に包まれつつ、図書館の中に入った俺が視線を左右させる手間を省いてくれるように、ソファーに座っていた背の低い待ち人がたたっと小走りで駆けてきた。
鶴屋さんが好みそうなロングコートにショールを巻き付けた小(柄(な姿、ニット帽(をかぶって白いマスクをつけているのは変装のつもりだろう。
朝比奈さん(みちる)は隠(しようのない大きな目を瞬(かせた。
「キョンくん、……あ。と、長門さん……」
静(粛(であるべき図書館だ。口の前に手をやっている朝比奈さんを倣(って俺も小声で、
「鶴屋さんはいないんですか?」
「はい」
朝比奈さんはおどおどした目で俺の背後をうかがっていた。そんなビクつかんでも。
「鶴屋さん、今日も外せない用事があるって、ついてきてはくれなかったんです。あ、でも」
ぱたぱたと片手を振り、
「家からここまで車で送ってくれました。帰りはタクシー使いなさいって、お金借りちゃった……」
鶴屋さんの外せない用事もそりゃ気になるんだが、朝比奈さんの目が盛(大(に泳いでいるのはもっと気がかりだ。俺の後ろに長門以外の背(後(霊(でもついているのかと、振り返ってみると、
「…………」
長門の揺(るぎない無表情が朝比奈さんをじっと見つめていた。そして俺は昨夜かけた電話が単にクジ引きの不正要求だけだったことを思い出した。
しまった、何の理由も言ってなかった。
「ああ、その、長門」
「…………」
この程度の変装では長門はおろか誰(もだませやしないだろうが。
「この人は、もう一人の朝比奈さんだ」
「知っている」
長門の取りつくしまのない返答に、
「あ、ああ。そうだった。何日か前に紹(介(したよな」
「…………」
「ええとだ、な」
「…………」
「ご、ごめんなさい」
なぜか謝る朝比奈さんと逆立ちした氷柱(のように佇(む長門に挟(まれた俺を、貸し出しカウンター内の司書さんが眠(り続けたまま動かないパンダを見るような目で眺(めていたのは三日ほど忘れられそうにない。
しかしそこは長門である。説明開始十秒で、
「そう」
棒立ちのままだったが、顎(をナノ単位で引いた。長門式うなずきサインである。
ちなみに俺がした説明の論(旨(内容とは、「これからこの朝比奈さんと行かないといけないところがあるので、すまんが戻(ってくるまでここで待っていてくれないか」の謂(いであり、だいたい「待っていてく」あたりで長門は理解してくれたようだ。
自分と入れ替(わりに俺の背後霊化した朝比奈さんに目もくれず、長門は枕(かと思うような分厚い学術書が詰(め込まれた本(棚(へと歩いて行った。
「行きましょうか、朝比奈さん」
ダッフルコートが完全に棚の陰(に消えたのを見届けて声をかけた。館内の壁(掛(け時計は午後二時前を表示している。
「……あの、キョンくん」
朝比奈さんは強(張(ったふうなニュアンスのオクターブで、
「長門さんに全然説明しないで、ここに一(緒(に来たんですか?」
「はあ、ついうっかり」
「うっかりじゃないです。それは……」ふるふると首を振る朝比奈さん。「長門さんだって怒(ります」
すみません。と言うか、朝比奈さんに怒られているような気分だが。いやいや、長門は別にそんなに怒っては──。
ひゅう、と吐(息(をつかれた。
「あたしは……、いいです。長門さんにもっとちゃんと謝っておいてください。いいですね」
奇(妙(な上級生ぶりを発揮して、ぷいと横を向いた朝比奈さんは図書館を出てしばらく反対車線側ばかりを眺めて口をきいてくれず、俺、困(惑(。
これからどこに何をしに行くのか、内ポケットの手紙を読み返す必要があったくらいである。
木(枯(らしに吹(かれつつ黙(然(と歩くこと十分、身体(が冷えてきたのか、それとも話し相手をなくした俺が電柱に張り付いている住所プレートを逐(一(読み上げていたせいか、朝比奈さんの顔と足取りが緊(張(感(を取り戻してきた。
そろそろ目的の住所だ。歩道橋の橋(梁(が見える。
最後にもう一度、握(りしめていた手紙を開いて、この歩道橋で間(違(いないことを確(認(し、俺と朝比奈さんは歩道に沿って並んでいる花(壇(の脇(で立ち止まった。
「ずいぶんと咲(いてるもんですね」
健(気(な花たちがいるもんだ。南北に一本道の県道沿いに設置された花壇は県営か市営かだろう。冬の寒さと車の排(気(ガスに耐(えて咲き誇(る心意気に感心するが、ちょっと咲きすぎだな。十数メートルに亘(って立ち並んでいるこの花々の中から落とし物を探(さなければならんとは、昨日の宝探しに続いて土難の相でも出ているのか。
風に飛ばされないようにしながら手紙の二枚目をめくる。
「この中から見つけないといかんのか……」
隅(々(まで探すとなると、けっこう時間を食いそうだ。これは計算に入っていなかった。
「いえ、そんなにかからないと思うわ」
朝比奈さんが花壇を指して、
「パンジーが咲いているのって、あの一角だけですから」
花の名前にこれまで関心を払(ってこなかった己(の不明を恥(じつつ、朝比奈さんが指し示す方を見る。小さな青白い花が風に首を振(りながら群生していた。
「あっちに咲いているのが福(寿(草(、そっちのがシクラメンです。その隣(にあるのは、ええと、ビオラかなあ?」
朝比奈さんが草花に詳(しかったとは、これは意外。
「うふ、こっちに来てから勉強しましたから。いろいろ。植物のことも」
助かりますよ。昨日の藁(の山から針を見つけ出すような宝探しより、一万倍はピンポイントで場所が限られる。パンジーの咲いている辺を探せばいいわけだ。
「あ、お花を踏(まないようにしてくださいね」
冬の花を気(遣(う朝比奈さんのお言葉を厳(粛(に受け止めつつ、俺は花壇の端(に足をかけてパンジーたちの上から地面を覗(き込んだ。
落ちているのは記(憶(メディアだという話だ。そんなもんがどうしてこんなところに落ちているのか、とりあえずそんな疑問は無視しておこう。未来人が落ちているって書いているなら落ちてるのさ。でないと俺がやっていることはお使い以下になっちまう。
朝比奈さんが見守ってくれている中、俺はしゃがみ込んでパンジーの茎(をそっと傾(けたり葉っぱをかき分けたりして花壇を探(り続けた。さっさと終わらせたいね。通行人や車がばんばん通るという場所でもないが、これでは花荒(しと勘(違(いされてもしかたがない。パトロール中の警察官が通りがからないことを祈(りながら、パンジーたちの根元に視線を這(わせた。
そうすること三十分後、俺は指先についた土をズボンで拭(いながら額をも拭った。
おかしい。
何も発見できない。パンジーの一角はそれはもう隅々まで調べてみた。リーダーの授業で次に当てられるセンテンスの英単語を調べる以上の注意深さで調べたとも。もしやと思って他(の花壇にも同様の措(置(を試みた。シクラメンもビオラの中も探した。
しかし、やっぱり記憶メディアはもとより、石ころよりも人工的な物体そのものがどこにもなかった。
途(中(から朝比奈さんも加わって、俺が見落としたかもしれない箇(所(を重点的に再確認してもらったが、二人がかりでも無(為(なことは無為だった。
「どういうことだ……?」
もしここに何もなかったのだとしたら、朝比奈さん(大)がそれを知らないわけはない。ここで跪(いて花の根本に目を配っている朝比奈さん(みちる)は、彼女の過去の姿のはずだ。最初からないような落とし物を探せ、なんていう無益な指令を送ってくることもないだろう。
「どうしましょう、キョンくん」
朝比奈さんは泣きそうな顔と声で、
「見つからないと、困ったことになっちゃいます。最優先の強制コードは絶対なんです。その通りにしないと、あたし……」
マスクが外れて片耳にぶら下がっているのにも気づかないようだ。朝比奈さんは先刻、長門に出会ったときより深刻に落ち着きをなくしていた。実は俺もだ。これは花(壇(を掘(り返すくらいはしないといけないかと意を決しかけたとき、
「捜し物はこれか?」
背後から思いも寄らない声がかかった。俺の知り合いの誰(にも該(当(しない、本能的に立ち上がってしまうような声(色(だ。振り返るのに躊(躇(は皆(無(だった。そう、考えるよりも先に身体(が動くときだってある。
俺は朝比奈さんを庇(うように片(腕(を広げ、歩道に向き直った。
五歩分ほど離(れたところに、俺たちと同年代くらいの男が立っていた。その顔に見覚えはない。初顔合わせに違(いない。しかし一発で俺はそいつを気にくわない野(郎(だと認定した。その顔に浮(かんでいるのは、紛(れもなくネガティブな感情だ。
汚(れ物(を持つような手つきでそいつは指先に小さな板のようなものを挟(んでいる。薄(くて黒い、手紙にあった絵に酷(似(した品だった。
「面(白(くもない光景だった。三十分も根気よく花荒しとは恐(懼(する。僕にはできそうにない」
そいつは酷(薄(そうな薄い唇(をわずかに歪(めていた。いくら俺が鈍(感(でも、嘲(笑(されているくらいは解(るぞ。
「あんたも奇(特(な人間だ」
高台から見下ろしているような目つきをする。
「理由も知らず、余計な苦労をしょいこんで、それでも諾(々(と人生を続けている。僕には理解できない。あんたは他に考えること、やるべきことはないのか?」
この一年、度(重(なる異変によって培(われた俺の危機感知能力が状(況(イエローを伝えている。ところが危機というのは感知しただけでは意味がなく、回(避(して初めて「あんときはヤバかった」とお笑い昔話にもできるってものであり、解っていた危機が解っていたとおりにやって来たとき、それが終章になってしまう場合だってあるので解ったからといって安心している場合でもないのである。望みもしない終(焉(の到(来(を悟(ったなら、それを避(けるべく何とかしなければならず、どうやら今がその時らしい。
「それ、どこで拾った?」
俺の問いに、野郎はニヤリとして、
「そこの花壇の中だ。あんたたちが来る直前に手に入れさせてもらった。簡単だったさ。難しい仕事じゃない」
「それをよこせ」
精(一(杯(の恐(い顔を作ってやったつもりだが、そいつは鼻先で笑いのけた。
「あんたのものでもないのに、どうして渡(さないといけないんだ? 落とし物は交番に届けないとな」
「俺が届けてやるさ。いっそのこと落とし主にな。警察に預けるより手っ取り早くすむ」
「ふ」
目(障(りな笑い方だ。
「あんたはその手紙に書いてある住所の宛(名(が、これを落とした人間の名前だと思っているのか。そんなことを誰に聞いた? あの宇宙人にか?」
こいつ──。長門を知ってるのか。いや待て、どうして手紙の内容まで知っているんだ。朝比奈さんにしか見せていないというのに。
ということは、こいつは……。
朝比奈さんは俺の腕を両手で持って小さく震(えている。驚(きと混乱がまじっているような表情に、問いかけた。
「この野郎は朝比奈さんの知り合いですか?」
「いえっ、」ぶんぶんと頭を振(った上級生は、「知りません。あたしの……その、知っている人の中にはいない人です」
「僕が誰かなんてどうでもいいことだ。何も今すぐあんたたちを取って喰(おうとはしない。いい機会だと思ったんだよ」
そいつは持っていたブツに、埃(を飛ばすような息を吹(きかけ、憎(々(しげに微(笑(した。古泉がグレたらこんな笑い方をするかもしれない。それなりに整った顔立ちのせいで、いっそう敵意が際(だって見える。
さあ、どうする。殴(りかかってでも記(憶(媒(体(らしきものを奪(い取るか。しかしこいつが常(軌(を逸(した人間だったら、俺と朝比奈さんで二正面攻(撃(したとしても勝利は薄い。くそ、長門も連れてくるんだったぜ。
俺が握(った拳(でファイティングポーズを取るかポケットの携(帯(電話を出そうか悩(んでいたら、
「ふん」
そいつは興味をなくしたように鼻息を漏(らし、指を弾(いた。放物線を描(いて宙を舞(った小さな板が俺の前に落ちてきた。地面に落下する前に、とっさに拝み取る。
「あんたにくれてやるよ。これは僕にとっても規定事(項(だ。せいぜいがんばって指示通りに動くがいいさ。そして未来の指示で動く過去人形を続けるんだな」
俺は手にした板に目をやった。デジカメあたりの記憶媒体に似ているが、見たことのない規格だ。ただし俺も詳(しくはないので確かなことは言えない。どこか薄(汚(れているのは花壇に放置されていたからか。
過程はどうあれ、目的の物が手に入ったのはいいとして、よくないのは目の前にいる男だ。
「お前は何者だ。どうして俺たちがここに来ると知っていた」
「ふ」
そいつは薄(い唇(をさらに薄くした。
「僕より先に尋(ねないといけないヤツがいるんじゃないか? あんたはどうしてここに来た? なぜだ? そっちを知るほうが先じゃないのか」
同い年ふうの野(郎(から偉(そうにわけの解(らないことを言われると無(性(に腹立たしい。だが、俺にも深(謀(遠(慮(の持ち合わせがある。そうそう感情優先で動いたりはしねえ。
俺にしがみついて怯(えた視線をそいつに向けている朝比奈さんのこともある。
「あんたが詰(問(しないといけないのは僕じゃない」
そいつは険のある目を俺の傍(らに据(え、
「そうだろう? 朝比奈みくる」
ビクっと朝比奈さんの手に力がこもった。俺のコートをぎゅうと握りしめ、
「な──なんのことですか? あたしは、あなたを知りません。どこかで……?」
そいつの唇の両(端(が下向きに歪(む。
「その認(識(でいいんだ。あんたが僕に言う挨(拶(は初めましてでいいだろう。合格だ。しかし僕にはあんたに対して別の挨拶があるってわけだ。この意味が解るか? 朝比奈みくる」
これまででも十三分に許し難(かったが、完全に許容度を超(えた。こいつが朝比奈さんを見る目には明らかに敵意しか感じない。こいつは朝比奈さんを目の敵(にしている。
場(違(いなことかもしれないが、俺はそいつに人間くさいものを感じていた。これほどダイレクトな悪意を放射する野郎には久しぶりに出会った。善人の振りなんか最初からせず、内心を隠(した仮面もかぶらず、思考をそのまま言葉にしている印象である。いっそ話が早くていい。俺もハルヒも搦(め手(が嫌(いだからな。
「言いたいことがあるならさっさと言いやがれ」
うさんくさい野郎に対面したときは強気に出るに限る。曖(昧(なことを回りくどく喋(るような人材は古泉一人で間に合っているんでな。俺は語気になけなしのパワーを込(めて、
「俺に用があるんなら聞いてやってもいいぜ。何ならハルヒに取り次いでやろうか? 紹(介(するだけならタダだ」
「いらないね。涼宮ハルヒか。会う必要もないな」
その言葉は大いに意外だ。てっきりこいつもハルヒを取り巻く不思議人の一員なのかと思ったのだが。
「僕は朝比奈みくるとは違う」
そいつは目を糸みたいに細め、俺の後ろから顔だけ見せているSOS団専従未来人を睨(みつけて、同様の眼光を俺にも注いだ。
「彼女の規定事項を鵜(呑(みにしないほうがいい。事実が一つとは限らないんだ。もっとも、ここまでは僕の規定事項も同じだ。その記憶装置は未来にとって必要なものさ。あんたが自分の手で拾おうが、誰(かからもらおうが結果は変わらない。あんたはそれを手に入れた。そうだろう?」
大違いだろうが。俺の予定表にはお前みたいなヤツに出くわすなんて項(目(は一文字も書かれていない。
「あんたも鈍(いな。それも大した違いにはならないってことがまだ解らないのか? 僕がここに出てきた意味が? 何のために来たと思うんだ?」
「知るもんか」
俺は考えずに言った。代わりに考えてくれる団員に持ち合わせがあるんでな。悪いが、禅(問(答(がしたいならウチの副団長の前に登場してくれ。
「お断りする。そんな予定はない」
にべもなく断言し、そいつは風に押されるように後ろに歩を刻んだ。
「今日はただの顔見せだ。ちょっとしたお遊びさ。僕の予定表には記されていた行(為(でもある。そちらの未来人さんの予定にあったのかどうかは知らないね。これ以上は、ふん、禁則だ」
さっと身を翻(し、そいつはゆっくりした歩調で歩いていく。言いたいことだけ言って自己紹介もなしに去ろうとする非礼を正してやるべきか、俺は後を追おうか半(瞬(迷い、結局は見(逃(すことになった。
朝比奈さんが銅像のように固まって、俺の腕(を抱(きしめていたからである。足に根を生やしたように動かない朝比奈さんは、ただ怯えた目でいけ好かない野郎の後ろ姿を見つめ、ヤツが角を曲がって完全に消え去るまでそうしていた。
「ふわぁ……」
途(端(、小(柄(な上級生の手から力が抜(けて、くたりとしかけたところを俺が支える。ハルヒがくっつきたがるのもよく解る温かさが俺の手に伝わってきたが、喜んでいる場合じゃないな。
「朝比奈さん、あの野郎に思い当たるふしはないんですか?」
よろよろと朝比奈さんは何とか下半身を立て直し、小さな小さな声で、
「……たぶんですけど……。あの人、未来から来た人だわ……」
だろうと俺も思う。使っている単語が朝比奈さんと一部かぶっていた。そこまでは俺の発想力でも推理可能だ。しかし、何しに来たんだ、あいつは。俺たちの先回りまでして、落とし物を事前に探し当ててくれたのが善意のものとは思えない。だったら三十分も俺と朝比奈さんが這(いつくばっている様子を眺(めてはいまい。
新手の未来人。そして朝比奈さんへの敵視。
凍(り付きそうな冬の気温とは関係なく、俺はうそ寒さを感じる。宇宙生命体に派(閥(があるように、未来にも意見の相(違(した連中がいたってことか。そういや古泉も『機関』以外の不(愉(快(そうな組織があるとか仄(めかしていた。今まで何をしていたのかは知らんが、とうとう新種がフラフラ現れるようになっちまった。
「未来人にも色々ありそうですね」
俺の慨(嘆(に、朝比奈さんは返答しようとしたように口を開き、
「ええ。あの…………」
言葉になったのはそこまでで、しばらく口をパクパクさせてから目を伏(せた。
「禁則事(項(です。言おうとしても言えないってことは、そうなんだわ」
充(分(ですよ。俺は気にしませんからあなたも気にしないでください。
「でも、きっと重要なことなんです。いつかはああいう人に会うと思っていました。けど……こんな不安定な時に会うなんて……」
「不安定?」
「はい。だって、本来ここにいるあたしは、いま涼宮さんといるほうですから」
だからかもしれない。
俺はコートの外側からポケット内の手紙を押さえた。もし、ここで俺と朝比奈さんとあの野(郎(が出会うことが規定事項だったのだとしたら、朝比奈さん(小)はこの時間にはハルヒと古泉の三人でいるのだから不可能だったはずだ。可能となったのは、八日後から朝比奈さん(みちる)がやって来て俺と行動をともにしていたからである。
握(りっぱなしだった記(憶(媒(体(が汗(ばんでいるのに気づく。今日の命題はこれだったはずだが、これが何なのかよりも気になることができちまったな。俺は手紙と同じ内ポケットに拾(得(物(を落とし込み、別れたばかりのあの野郎に改めて腹を立てた。朝比奈さんにちょっかいをかけようなんてヤツは過去現在未来を通して俺が許さん。鶴屋さんも許さないだろう。ついでに言えばハルヒだって許さないだろうし、長門と古泉がやすやすと見逃すとも思えない。
「あいつとはまた会いそうですか」
「たぶん」
朝比奈さんは案外あっさりとうなずいた。怯(えの色は困(惑(に移行し、今は何かを考えている表情である。嬉(しいことにまだ俺の腕を取っていることに気づかないようで、
「あの人、これがあたしと同じ規定事項だって言っていました。きっとそんなにあたしと違わないんです。それに……」
言いかけてまた言葉を途切らせる。それも禁則事項ですか。
「ううん」
朝比奈さんはやっと俺に密着していた身体(を離(して、
「そんなに悪い人には見えなかったの。キョンくんはどうだった?」
どうだったも何も、何がムカついたと言って俺と朝比奈さんをあんた呼ばわりしたことが最悪だ。俺をそう呼んでいいのは、……まあ、ごく少人数であるのは確かなことで、その中には初対面のあの野郎など入ってはいない。
もちろん、ニックネームで呼ばれたとしても嬉しくはなかっただろうが。
花(壇(荒(しの真似(事(と、変なヤツが変な登場をしたせいで余計な時間を食っちまった。駅前でハルヒと合流せんといかんのが午後四時で、今の時間が三時過ぎ。ここから図書館に戻(って長門を書(架(の前から引き剝(がし、駅前に行くことを考えると余(裕(すらあるが、この朝比奈さんを一人で放(っておくことはできない。タクシーに乗せるにしても、その運転手に得体の知れない連中の息がかかっていないとも限らず、俺の心配性(をアップさせてくれたさっきの冷(笑(野郎へのイラだちもいや増すってものだ。
懐(は痛むがしょうがない、俺もタクシーに同乗して鶴屋さんの家まで送り、そのまま図書館まで乗っていこう。
俺は通りがかった個人タクシーを止めると朝比奈さんと一(緒(に乗り込み、ドアが閉められたところで、
「鶴屋さんの住所って何でしたっけ」
「あ。あたしもよく知りません。何町だったかなぁ」
しかし中年の運ちゃんは、愛想よく、
「あの大きな鶴屋邸(のことですか? でしたら道は知っています」
こんなところもさすがだ、鶴屋さんとその一家。電話して訊(く手間が省けた。
話し好きらしいドライバーは俺たちの学年を知りたがり、高校生活を知りたがり、自分の息子(が現在小学生であることを教えてくれたり、中学は私立のいいところに入れようと計画していることまで明かしてくれているうちに車は鶴屋家正門前に到(着(した。
先に降りた朝比奈さんが俺と運転手に何度もお辞(儀(しながら鶴屋家敷(地(内に消えたのを見届ける。一安心だ。ここなら新未来人だろうと手出しできないと思う。人間、持つべきものは信(頼(できる先(輩(だ。
「市立図書館まで行ってください」
俺はシートにもたれて次の行き先を告げ、ようやく張りつめていた精神を緩(和(させた。
図書館に舞(い戻った俺を、長門は立ち読み姿で待っていた。重量感豊かなハードカバーを立ったまま読みふける姿には、よく疲(れないものだと感心する。
「待たせた。すまない」
「いい」
長門はパタンと表紙を閉じ、辞典みたいな書物をつま先立って戸(棚(に戻すと、俺の横を通ってすたすたと出口に向かい出す。
慌(てて横に並びつつ、俺はポケットから記憶媒体とやらを取り出した。
「長門、これが何だか解(るか?」
外に出たところで長門はゆっくりと顔を横向かせ、足を止めずに俺の指先を見つめた。
「実はさ」
駅前へと北上しながら俺は話し始めた。長門に包み隠(すことなど何もない。下(駄(箱(の手紙の件も含(めて、先ほどの出来事をつぶさに語ってやる。
「……そう」
長門は普(通(の無表情でうなずき、普通に平(坦(な声で答えた。
「その記録装置には破損したデータが入力されている」
薄(っぺらい板をCTスキャンするように見つめながら、
「半分以上が損(壊(している。そのままでは意味をなさない」
何のデータだ?
「情報不足。損傷度が高く、消えている箇(所(が多すぎる」
長門にも解らないようなものが入っているのか。だったらどんな人間にも理解不能だと思うが、俺がこれを送る先にいる誰(かには解るのかな。
「修復の過程でまったく別のデータになるのだと思われる」
長門はすべてを読みとったような顔をして記(憶(装置から目をそらした。
「推測は可能」
背中に垂らしたダッフルのフードが歩くたびに揺(れている。
「そのデータの欠損部分を埋(める際、元データとは異なる情報入力を二百十八カ所で施(し、本来その記憶装置を参照する再生機とは別のフォーマットで閲(覧(すれば、ある技術の原始的基(盤(となる理論を得ることができる」
俺が再度問う前に、長門は前を向いたまま言った。
「朝比奈みくるが使用している、時間移動理論の原理的基(礎(データ」
ただし──、と長門は解説してくれた。
仮に首(尾(よくそのデータが得られたとしても、人類の現代レベルの科学知識や技術力ではそれが何を意味するデータなのかも理解できず、それがただちに時間航行に繫(がるわけではない。しかし必要不可欠なデータである。この情報がなければ航時機は開発されず、人間が時を超(えることは不可能となる。彼女たちの時間移動方法は、何千通りもの偶(発(的な発見や発明によって稼(働(した。その根っこにあるのが──。
「これだって言うのか」
「そう」
興味なさげな無表情で長門は歩調を緩(めないが俺はそうはいかない。未来の命運が自分の掌(にすっぽり収まってしまうような物に詰(められて、そいつを託(されている気分など表現しようもないくらいのプレッシャーだ。
「ダミーの可能性もある」
長門は水を差すわけでもなかろうが、
「そのデータが唯(一(のものとは考えにくい。バックアップの複数存在が自然」
考えてみればそうだな。貴重品の運び屋を依(頼(されたと思ったら、実はオトリで本物は別のルートで安全に運ばれていた、なんてのもありがちな話だ。朝比奈さん(大)が片目を閉じて人差し指を唇(につけ、しれっと微笑(む映像が目の前に浮(く。だが彼女にも苦手科目があるはずで、それは俺のすぐそばにいる。
「ああ、そういえば、長門」
俺はずんずんと先行する半(端(な長さの後(ろ髪(に、
「今日はすまなかった」
長門の歩行がやや微(速(になり、無表情が物問いたげに振(り向く。
「いや、だからさ、朝比奈さんを連れて行くって昨日言ってなかっただろ? 説明抜(きで願い事をしたのは我ながらどうかと思ったんだよ」
「…………」
長門はこっちを向いたまま直進を続ける。俺の真意を探(っているような瞳(に凝(視(されること十歩、俺は白状した。
「朝比奈さんに謝っておくよう言われたんだ。とにかく、すまなかった」
「……そう」
やっと前を向く。長門は淡(々(と歩き続け、五秒くらいしてからまた言った。
「そう」
駅前では、ハルヒと朝比奈さんが遊び疲(れた子犬の姉(妹(のようにくっついている横に、古泉が人(畜(無害スマイリーな顔をして立っていた。
合流した俺たちは午後の成果を報告し合うために喫(茶(店(に転がり込む。もちろん、ハルヒに報告することなんざ去年の春から何もなく、また変なヤツが出てきましたなんてことも俺は言わない。幸いなのは第一回目と違(って「不思議または不思議に類するものは見つかりませんでした」と告げてもハルヒの機(嫌(が変な方にすっ飛んで行かないことだ。
「まあ、こういう日もあるわ」
こういう日以外にどんな日があったというのか。
むしろ上(機(嫌(に見えるハルヒは、カプチーノをくびぐびと飲みながら、
「明日も集まりましょう。きっと不思議なことも二日連続で探されるとは思ってないわ。不意をつくの不意を。そこで尻尾(をつかむわけ。きっと意外なところから出てくるんじゃないかしら。曲がり角で鉢(合(わせするとか」
いきなり後ろから声をかけてきたりとかな。思い出すと腹が立つ。あの野(郎(が俺と朝比奈さんを観察しながら蔑(みの笑(みを浮かべているところを想像すると、飲んでいるカフェオレがブラックコーヒーになったような錯(覚(に陥(る。今度会ったときを覚(悟(しておけよ。首根っこを捉(まえてハルヒか長門の前で正座させてやる。
よほど苦み走った顔をしていたのか、ハルヒは俺を覗(き込んで何か言おうとしていたが、結局はコメントせずに、それからなぜか不可解な笑みを作った。
「ま、いいわ。明日よ明日。日付が変わったら状(況(だって変わるわよ。永遠に同じ一日をやってたって面(白(くないでしょ? あたしの予想では日曜日が一番狙(い目ね。だってなんとなく油断したようなダラけたイメージがあるじゃない。月曜日とは仲が悪いと思うわ。そんな気がするの」
勝手に曜日を擬(人(化(して性格まで決めつけるハルヒの話を聞きながら、そういや高校は週明けも休みだったことを思い出し、まさか不思議探しが三日連続になるんじゃないだろうなと考えて恐(ろしくなりつつ、朝比奈さん(みちる)の話ではそうでなかったと思い返し、それよりハルヒと仲(睦(まじく話をしている朝比奈さん(小)の控(えめな笑い声に心癒(されていると、
「今日はこのへんにしときましょ」
ハルヒが解散を宣言した。
聞いていたとおり、きっかり午後五時に。
やれやれ。今日は考えることがえらく多かった一日だったな。
逆風をついて自転車を走らせながら、昼前の古泉のセリフや、二人ぶんの朝比奈さんや、名前も言わずに露(悪(的なことばっか呟(いていたあの野郎や、長門の起(伏(のない顔や、ハルヒの意味なし元気顔なんかを回想する。これ以上厄(介(ごとを抱(えたくも、考えたくもない俺だったが、この上においてやることがまだ終わっていない。サクサクすんなり手ぶらで帰宅できるほど俺は物忘れが激しくなく、ポケットの中のブツを見て見ぬ振りはできないし、明日のこともある。
てなわけで、俺はコンビニに寄って切手と封(筒(を購(入(し、その足でホームセンターに向かった。
ペットコーナーをひとしきりウロウロして、シャミセンとは大違いの血統書付き犬(猫(たちに心を奪(われつつ、なんとか誘(惑(を振り切って亀(売り場を探し求め、ゼニガメとミドリガメが一(緒(になって仲よく一(塊(りになっている水(槽(を発見した。できれば朝比奈さんと一緒に来たかった。アメリカンショートヘアやシェルティが入ったガラスケースにくっついて「わぁ」とか言いながら目を輝(かせる姿をぜひ見たい。ウチの妹がそれやってるシーンはもう見(飽(きた。
俺は亀の水槽に目を落とし、
「さてどいつにするか」
品定めを開始する。小さな亀たちはほとんど動こうとせず、ジオラマみたいな岩場の上でじっと積み重なっていた。これはこれで愛らしい。亀愛好家が多いらしいのもうなずける。しかしちょっと愛想がなさすぎるんだが、冬だから仕方がないのか。とはいえ、俺が明日にするのは真冬の川に亀を放(り込むという、どちらかと言えば迷(惑(そうな行(為(である。果たして亀は喜んでくれるだろうか。ぬくぬくとした水槽暮らしと、自由なれど過(酷(な自然に帰されるのとではどっちが好印象を持たれるのかね。
熱心に眺(めている俺の視線を感じたか、一匹(のゼニガメがにゅるりと首を動かして空中を見上げた。バランスを崩(したのだろう、岩場からぽちゃんと水の中に落ちたその亀くんは、濾(過(器(でぶくぶく泡(立(っている水辺をちゃぷちゃぷとたゆたった後、やっぱり冷たいやとばかりに同類たちの背中の上に戻(ってきた。よし、お前にしよう。
俺はいそがしそうに荷出しをしていた店員を呼び止めると、その亀を指して購入意図を伝えた。アルバイトなのか知らんが大学生風の青年店員は、やけに嬉(しそうな顔となって陳(列(されていた亀専用グッズを持ち出し、懇(切(丁(寧(なまでの熱心さで亀の飼い方を説き始めた。俺としては紙(袋(に提(げて持って帰ってもいいくらいなのだが、いや飼育するんじゃなくて川に放流するために買うのです、とは言いにくい雰(囲(気(であり、だいたい何のためにそんなことをするのか、訊(かれてはかなわないし、俺だって理由が知りたい。
結局、持ち合わせがそんなにないことを理由にゴニョゴニョ言いわけしていると、その青年店員は小さなプラケースに砂(利(を敷(き詰(めて水槽の水を入れ、俺が目をつけたゼニガメを貴重品を扱(うような手で摘(んでケースの中に置くとエサの箱とまとめて俺に手(渡(して、
「亀代以外はサービスにしとくよ」
と、思い切り快い笑(顔(を見せて俺をレジまで誘(導(した。どうやら亀好きな店員さんだったようだ。
「亀のことで何かあったら、いつでも訊いてくれ」
そう言って彼は自分でレジを打ち、ケースとエサ代は自分の財(布(から出してまでくれている。恐(縮(するばかりだが、この亀くんは明日には水面に投(擲(される運命なのだ。
若(干(の心苦しさを覚えつつ、俺はケースに入ったゼニガメを携(えてホームセンターを出ると、荷物をチャリのカゴに置いて再び走り出した。
すっかり夜空となっている時間だが、俺にはまだ帰宅が許されていない。今日の締(めくくりに一つ、行っておかねばならぬ所があるのだ。
「やあ! キョンくん! また来ると思ってたよっ。こんばんはっ」
星空の下でも明るいオーラを放つこと丸出しの和装娘(さんが門を開け、自転車ごとお邪(魔(するのは鶴屋邸(に決まっていた。
「ん? なんだいそれっ。お土産(かなっ」
鶴屋さんはカゴの中のケースに目を留め、
「やや、亀だカメカメ。ありがたいけど、家の池にいっぱいいるんだよねクサガメがっ。いつの間にか繁(殖(しちゃってさ、そのちっこいのを放したらイヂメられるんじゃないかなっ」
残念ながら鶴屋さん向けのプレゼントではないのですよ。どちらかと言えば朝比奈さんに渡(すべきペットです。
「そっか、残念! それからキョンくんすまないっ。今日、みちるちゃんを図書館まで送ってあげらんなくてゴメンよ! どーしても抜(けらんなくてさっ」
だだっ広い日本庭園の片(隅(にチャリを停(め、亀ケースを持った俺は鶴屋さんと肩(を並べて歩きながら尋(ねる。
「今日は用事でもあったんですか?」
「法事だよっ。ご先祖様の霊(前(で一家揃(って思い出話をする日さ。父方の爺(さんの命日なんだけどね、面(白(い人生を歩んでた爺さんでさ、エピソード満(載(だわで宴(もたけなわっ!」
くったくなく喋(る鶴屋さんは、対亀(戦の長(距(離(競技で本気を出す気になったウサギのような歩き方で、
「そんなにあのみちるちゃんが心配かいっ? なんだったら同じ部屋で泊(まっていくかい? あたしも横で寝(てるけど、それが気にならないんならいいよんっ」
まるで緊(張(感(のない笑顔を俺に向ける。シンデレラに上等な衣(装(を与(える魔(法(使(いなみの好意だったが、きっと申し出にうかうか乗ったりするとしっぺ返しを喰(らうのだ。安易な誘(惑(は遠回りな罠(となって遠からず戻ってくる。鶴屋さんも解(っているからそんなことを言ってくれるのさ。
「そこまでは俺もしませんよ」
と、俺が答えることくらい彼女ならお解りであろう。仮に実現したのだとしても上級生二人に挟(まれていては、気(疲(れのあまり一(睡(もできないに違(いない。身体(だけはやけに疲(れているのだが。
ゼニガメくんは寒さのせいかケースの角で固まったように動かない。自然の川より鶴屋家の池に投じた方がいいような気がしてきたが、朝比奈さん(大)の指令を破るわけにもいかず、なんとなくジレンマ、隔(靴(搔(痒(だ。
「あ、キョンくん?」
離(れに上がらせてもらった俺を、朝比奈さん(みちる)が意外性を帯びた声で出(迎(えた。別れたばっかなのにまたやって来るとは思わなかったのだろうが、これをお忘れです。俺は亀ケースを差し出して、
「明日、これを持って来てくれますか」
♯4の手紙の内容を思い出していただきたい。『明日の午前十時五十分までに川に亀を投げ込んでください』ってのが俺と朝比奈さんのおこなう最後の仕事だ。市内パトロールは明日も実行の運びなので、時間的にみて午前九時にはハルヒたちと駅前集合、それから喫(茶(店(でだべったりクジを引いたりで一時間はロスするだろうから、亀は朝比奈さんに持ってきてもらうのが合理的だ。こんなものを持って集合場所に行ったりしたら、ハルヒでなくとも質問の雨を浴びせたくもなるだろう。
「うん、そう、そうですね」
朝比奈さんはケースを受け取りながら、
「日曜の朝、キョンくんは何も持ってませんでしたし……」
えへん。わざとらしい咳(払(いが聞こえた。ちゃぶ台で人数分のお茶の用意をしている鶴屋さんが放ったものである。彼女はもう少しでウインクになりそうな感じに片目を閉じ、
「明日もこのみちるちゃんをどっかに送り届けたほうがいいのかなっ?」
「頼(めますか?」
お伺(いを立てた俺に、鶴屋さんはくしゃりとした笑(顔(で、
「あーそれなんだけどね、明日もあたしは用事まみれなのさっ。親族会議に出ないといけないのだっ。でも安心してちょん。家の者に言っといて、みちるちゃんを車で送るようにさせっからっ。で、何時だい?」
午前十時四十五分、桜並木のある川沿いまでお願いします。細かい場所はこの朝比奈さんが知っている。例の思い出ベンチの場所を見失うほど、朝比奈さんも方向音(痴(ではあるまい。
「おっけ、おっけ。任しといてっ。帰りはタク使ってちょうだいねっ」
鶴屋さんはスマートな胸をドンと叩(いて、
「キョンくんが心配するのもよく解るっさ。みくると二人で繁(華(街(なんか歩くじゃん? そすっと二百メートルおきにナンパされるんだよね。もうメンドイったらないさっ。みくるパワーってやつかなっ」
鶴屋パワーも入ってると思いますけど。
「みくるはスキのある娘(に見えちゃうからなぁ。それがあたしはちょっぴり心配なのさっ。いい男とくっつけば少しは安心なんだけどっ」
それだと俺が安心できませんね。いらんことを想像して煩(悶(する毎日を送ることになりそうですよ。
「はっははっ。キミぃ、キョンくんが安心できる方法があるにょろ?」
あるにょろ、と言われても思いつかないが、朝比奈さんは鶴屋さんの言葉に照れているのか顔を赤らめて手をパタパタと振(っていた。何とも言いようのない表情をしているのは、いちおうここにいるのは朝比奈みくるさんではなく、みちるさんであるという設定を守っているつもりだからだろう。俺はもうどうでもよくなっているし鶴屋さんだってそうだろうが、まあそうしておこう。俺の言い出したことだ。
明日用の打ち合わせはこんなもんでいいか。俺は鶴屋さんが入れた渋(いお茶を飲みながら、朝比奈さんを眺(めた。子亀を見つめてケースをちょんちょんとつついている姿に思わず笑みをこぼしつつ、さて、この朝比奈さんをいつまでここに置いておけばいいのかと考える。このまま行けば朝比奈さん(小)と入れ違いにこの時間帯に留(まることになりそうだが、本当にそれでいいのか、それとも八日後──いや、もう三日後だな──に戻(す必要があるのか。
俺は封(筒(にナンバリングされた数字を思い起こす。♯3、♯4、そして♯6。数の数え方が変化して、未来では四の次が六になっているんでもない限り、♯5の手紙がどこかにあるはずだ。欠けたピースはまだ俺のもとに届いていない。
♯6の手紙はこの朝比奈さんには内(緒(だ。おそらく俺の口から言うことはないだろう。そこにはこう書いてあった。
『すべてが終わったとき、七夕の夜にわたしとあなたが出会った、あの公園のベンチに来てください』
鶴屋家のお茶は部室で味わうものより高級な風味がする。俺が持ってきた亀(について必要以上の質問をしてこない鶴屋さんの配(慮(がありがたい。寄り添(うようにしてケースを覗(き込む二人の上級生を見ながら俺は思考を巡(らせる。
すべてが終わったとき──。つまり朝比奈さんが八日後からやって来たこの件は朝比奈さん(大)には規定事(項(なのだ。遠からず解決するのは間(違(いない。
わたしとあなたが──。この『わたし』は朝比奈さん(大)であって、(小)でも(みちる)さんでもない。今から四年前の七夕。俺はそこで二回も同じ人に対面した。
口元がムズムズしてきた。朝比奈さんにハッキリ言ってしまうべきだろうか。意味不明な手紙の数々を俺の下(駄(箱(に入れているのは未来のあなたなのです、と。どこまで朝比奈さん(大)は読んでいるんだ? どうやってもそれは規定事項になっちまうのか?
そして、この朝比奈さんはどこまで気づいているんだろう。未来からの指示、それに従う俺。そんな俺は朝比奈さんに口を濁(してばかりいる。これは正しいことなのか……。
俺は小刻みに頭を振った。
どうもいかんね。下手の考え休みに似たりってやつだ。これもあの変な野(郎(が変なことを言い去りやがった後(遺(症(だな。どれが正しいもへったくれもあるもんか。長門の教えてくれた訓辞その一である。
未来のことを考えて思い悩(んでいてもしかたがない。未来における自分の責任は現在の自分が負うべきだ。そんときはせいぜい過去の自分を呪(ってやるさ。で、今の俺は未来の自分から呪われないよう最善を尽(くすのみだ。考えているヒマはない。
ただ動くのみだ。
しばらくして俺は鶴屋家をお暇(し、自宅に戻った。ベッドで寝(ているシャミセンの寝顔がひたすら平和だ。こいつがこんな顔して眠(れている限り、この世界も平(穏(でいてくれるだろう。まあ、どんな目に遭(ってもこいつが不(眠(症(になるとは思えないが。
「すべては明日か……」
明日には片が付く。ハルヒの不思議探し二日連続招集に、亀の放流。俺のすべきことはそれだけであるはずだった。それくらいなら別段難しくはない。見つからない宝を求めて穴を掘(ったり、見知らぬ人を病院送りにしたり、石を移動させたり、記(憶(装置を拾ってどこかに送ったり──っと、まだそれがあったな。忘れる前にやっておかねばならん。
俺はコンビニで買ってきたサラの封筒に、♯3に記されていた住所と名前を手書きすると例の記憶媒(体(を入れ、こんだけ貼(れば世界のどこにでも届くだろうと思われるぶんの切手を貼り付けて再びコートを羽織った。もちろんこっちの名前は書かない。
郵便ポストに投(函(した後は、もう郵送事故のないよう祈(るだけだった。そこまでは俺も面(倒(見切れないぜ、朝比奈さん(大)。
俺は頼(まれたことを首(尾(よく果たしているはずさ。そのうち絶対聞かせてもらう。すべてが終わったとき、あの七夕のベンチで。