第五章

 翌日、土曜日の朝。

 慣れない土建屋バイト(しよう)をしたせいで上半身がところどころ筋肉痛になっている。ま、昨夜は変な夢を見ることなく心地ここちよくじゆくすいできたからよしとしよう。

 俺はふうとう♯3をコートの内ポケット奥にしまってげんかんを出ると、タイヤの空気がヘタり気味のママチャリを引き出し、かんそうした冷風のく道を走り出した。うむ、今日も順調に寒い。

 不法ちゆうりんして業者に持ってかれるのも何なので、駅前に新しくできた駐輪所に金をはらって自転車を預けてから、駅前の待ち合わせ場所に足を運ぶと例によって俺が一番最後だった。

 朝比奈さんは新種のあいがん動物のような暖かそうなで立ちでむかえてくれ、古泉はすれ違う女子中高生のうち五人に一人はり返りそうなハンサムスマイル、長門は今日も制服の上にフード付きダッフルをまとった無口なサンドピープルスタイルである。

 ピーコートにマフラーを巻いたハルヒがゆびでつぽうで俺にねらいをつけて、

「待ったわよ、キョン。三十秒も」

 それはしいことをした。チャリをその辺に置いてたら市内不思議探し第一回から数えて俺が初のブービーだったかもしれんな。一度はハルヒにおごらせたいものだ。

「そりゃあ奢ってあげるわよ。あたしがドベになった日にはね。言っとくけどあたしはビリとかドン引きとか周回おくれとか予選落ちなんて言葉が一番きらいなの。ぼうして遅れるくらいなら前日からここにまり込むくらいの意気込みはあるわよ」

 勇ましいがおはとことんちようはつ的だ。もうまったく、今のハルヒにはどんなきよだいな敵も太刀たちちできそうにない。こんなことならブルーな時に何かしとけばよかったぜ。ところで過去を振り返って、やんなきゃよかったと思うこうかいとやっとけばよかったという後悔とではどちらがを引くのかね。

 などと、考えたところでどうしようもないことを考えているうちに、俺はハルヒに引きずられるようにしていつものきつてんに移動していた。

「昨日はなんにも見つかんなかったけど」とハルヒはホットブレンドをガブガブ飲みながら、「よーく考えたら、SOS団の探査目標は過去の遺産じゃなくてもっと不思議なものなのよね。何て言うの? 未来的なイメージなものというか、秘密っぽいものよ。この市内にだって一つくらいは何かあるでしょ。けっこう広いんだしさ」

 面積の問題じゃないだろう。重要なのはどれだけ栄えてるかとか人口密度とか──。

「……やれやれだ」

 やめた。都市のはんえいも人間の数なんかも関係ないんだ。本当はな、ハルヒ。不思議なものは気づいたらいつの間にか近くに存在しているものなんだよ。それこそいつの間にかだったので、だれにも気づかれないうちにすべて進行してたりするのさ。

 俺の場合、気づいたんじゃなくて気づかされたんだが、知ることができてよかったよ。それもお前が俺の席の後ろにいてくれたせい……いや、おかげだな。

 などと、俺がナレーション的なモノローグにひたっているうちに、ハルヒはツマヨウジにボールペンで印を付けたクジを作り上げ、全員に引くようにうながした。

いつしよに行動する組み分けよ。印入りが二つと、ないのが三つね」

 反射的に長門のほうを見てしまう。がらな制服姿は無音でフルーツティーのカップをかたむけつつ、メニューに静かなひとみを向けていた。おっと、これは勇み足だった。今日の初っぱなは無理に長門とコンビにならなくてもいいわけで、そういや朝比奈さんは何と言っていたっけ。そうだ、俺と古泉だったか。

「どうしたのよ、引きなさいよ」

 ハルヒが五本のツマヨウジをにぎったこぶしき出している。

「そんなに組み合わせが気になるわけ? ふふーん、誰と一緒になりたいって? 子供みたいね、あんた」

 そんなとなりのお姉さんが悪ガキを見るような顔で笑うなよな。だが、考えてもラチが明かないことは確かでもある。朝比奈さんの未来予報は俺と古泉の二人で同組になることを教えてくれている。どのようを引いても同じ結果が出るわけはない。印の入っている確率は五分の二、つうに計算すれば無印を引く可能性のほうが高く、で、もし印のないクジを引き当てちまったらどうなるんだ? 朝比奈さんのおくちがいってことでうまくまとまるのだろうか──。

 などと考えているのが悪かった。ハルヒはちんもつこうする俺をほうっておいて、さっさとほかの三人にクジを引かせ、いざ俺の番になったとき残っているのは二本だけだった。

 あわてて古泉の手元を確認する。ゆうな手つきで持たれたクジの先には、印がちゃんとあった。

 これで引いていないのは俺とハルヒだけ、ハルヒはいつも残り福的に最後の一本を自分のクジにする習慣だから、後は俺のヒキにかかっているというわけである。

 俺は目を閉じて深呼吸し、さらに十秒ほどハルヒの拳を見つめながら精神を統一させた。

「何やってんの? 大げさねえ」

 あきれ口調のハルヒであるが、俺には割と重要なしきなんだ。ここでちようじりを合わせておかないとゆくゆくめんどうごとになりかねないからな。

「ままよ!」

 とばかりに俺は右手を高速移動させた。右か左かなんてチラとも思わず、適当に手を動かしてさわったほうを引こうと試みたわけだったが、あまりうまくはいかなかった。あまりに適当すぎたようだ。俺はハルヒの手からツマヨウジを二本ともはじき飛ばしてしまい、しまったと思ったときには一本がテーブルの上を転がり、もう一本はハルヒが空いていた手で空中キャッチしており、そして転がっているクジの先にはシミのような印がついていた。

「なーんだ」とハルヒはいくぶんくちびるとがらせて、「男と女で別れただけじゃん。なんだかつまんない分け方になっちゃったわねえ」

 気負って損したよ。この午前の組み合わせは時間移動的に重要ではない、というか俺が無印を引いていれば長門と朝比奈さんという両手に花状態が発生していたわけで、休日に古泉と二人で行動するより心がほうじゆんになっただろうに、それを思うと小さな過去なんかにとらわれることもなかったかもしれない。考えなきゃよかったかな。

 しばらくウダウダしてから席を立つ。もちろんはらいは俺任せだ。習慣とはおそろしいもので、押しつけられてもいない伝票を自然に取ってしまう自分がうらめしい。

「キョンくん、いつもすみません。ありがとね」

 申しわけなさそうに言ってくれる朝比奈さんだけが心の回復薬だった。古泉も似たようなことを言うのだが、こういう場合、そうかいな笑顔で言われてもなぜかうれしくねえな。

さいの中身にお困りのようでしたら、いいバイト先をしようかいしましょうか」

 俺とかたを並べて喫茶店を出ながら、古泉がささやきかけてきた。

「とても簡単なアルバイトでね、慣れたら単純な作業になります。につとうのよさは僕が保証してもいいですよ」

「していらんね」

 甘い言葉には常にあくおもわくひそんでいるものだ。うっかり変な書類にサインして、連れて行かれたところがみような研究所の手術台だったりしたら目も当てられない。パートタイムちようのうりよくしやに改造される恐れがある。俺は無人の灰色空間でハルヒのストレスとせんとうり広げたりはしたくないぞ。

「それは僕がやりますよ。あなたに求めているのは、そのストレスと戦闘しないでもいいようなじようきようを作り上げることです」

 そんなもん、お前がやればいいだろう。

「あなたにしかできそうにないんですよ。少なくとも、今のところは」

 俺はへん性をいつだつしたとくしゆ技能なんか持っていないはずだ。

「そうでしたね」

 古泉は唇の先二センチ前で笑うような表情をした。

「その気になったらいつでも言ってください。仕事の内容を教えて差し上げますから。僕としては、すでに教えたような気分になっていたんですがね」

 古泉らしからぬあいまいとしたセリフだったが、俺は追及しなかった。聞きたくもないことを言い出す予感があったからである。考えなしに突っ込んで返りちにってはしかたがない。時には自重が必要なのだ。だいたいわなにはめるほうが最初は守勢でいるものだしさ。

 店の外で俺のはらいを待っていたハルヒが、

「集合は十二時ジャストよ」

 右手を長門の、左手を朝比奈さんのこしに回して南国系の花のがお

「それまでに何でもいいわ、不思議なものを見つけてきなさい。昨日まではなかったはずのマンホールとか、知らないうちに増えていた横断歩道の横線とか、目を皿にして歩いていれば一つくらいは見つかるでしょ。いいえ、見つけるつもりで探すわけよ。そうしないと見つかるものも見つからないからね」

 お前が等身大人型カイロのように身体からだにくっつけているその二人は宇宙人と未来人というこの上ない取り合わせなのだが、もう、それはいいか。それに、もし体育祭の借り物競走で不思議なものを持ってこいと言われたら俺はそくにハルヒの手を引いてゴールするだろうが、それももういいな。こんなおかしなバックステージを持つ一団の中に俺がいるという事態が最大の不思議だが、全部ひっくるめて今さら持ち出すことでもない。ハルヒが本能みたいに不思議を追い求めるように、俺は今の日常が続いて欲しいと思っている。もはやちがえようのない、それが真実ってやつさ。



 あたしたちは線路のあっち側に行くから、というハルヒに引っ張られるようにして長門と朝比奈さんがふみきりわたるのを見届け、俺はマフラーをまき直した。

「どこか行くあてでもあるか?」

 二時間限定のツレにいてみる。古泉は固まりそうに寒い空気の中でもあくまでほがらかに、

「あったとしても、あなたの足が僕の心当たりなどに向いてくれそうにはありませんからね。つうに散策を楽しむとしましょうか」

 意外なことに、歩き出しても古泉は俺に余計なことを話しかけたりはしなかった。大きなドブ川を泳いでいるこいぎよえいを見つけてその生命力に感心したり、コンビニに入って雑誌を立ち読みしたり、ようはどこから見てもゆいしよあるヒマな高校生二人組だ。

 話すことも学期末試験の話やら、昨日見たドラマのツッコミどころやら、おいおい、こいつとこんなまともな会話すると、かえってしんあんおちいるじゃないか。

「僕はいつぱん高校生に身をやつしたちようのうりよくしやということになっています。こういう表の部分も重要なんですよ」

 古泉は横断歩道の線を歩数で数えるように車道を渡りつつ、

「僕だって永遠に超能力者でいられるとは思っていません。だれかにパスできるのなら、僕の持っている力と役目を包装紙に包んで差し上げたいくらいです、と、そう思うときも、たまにあるんですよ」

 安心させるつもりか、古泉はこっちを見て微笑ほほえんだ。

「たまにです。どちらか選べと言われたなら、僕は今の立場をせんたくします。地球外生命のたんまつたいや未来人と自覚的に対話できるなんて、これ以上にものめずらしい体験はちょっとやそっとでは思いつきませんね。あなたにはかなわないでしょうが」

 俺ときたら、お前の挙げたその二人にお前が加わる珍しさだからな。

「僕から超能力者というかたきが取れるのがいつになるかはわかりませんが、僕の属性から高校生という一文がさくじよされる日は必ず来るんです。涼宮さんが留年でもしないかぎりね。だとしたら今しかない高校生という立場をそれなりにおうしておかないと」

 俺はけたたましく過ぎていった今年度の日々を思い返した。

「俺にはお前が、じゅうぶん謳歌していたように見えたぜ。特に夏と冬の合宿ではだいかつやくだっただろ」

「それも僕が『機関』の一員だったからです。もうそろそろ四年前になりますが、あの時自分の身に降りかかったみような能力がなければ、転校生として北高に編入することはなく、世界の命運うんぬんなどとは特に無関係に暮らしていたことでしょう」

「いいじゃねえか」

 てんめつする歩行者用信号機を見上げ、歩きながら言った。

「超能力だか何だか知らんが、それがあったおかげで今こうしてここにいるんじゃねえか。あったせいで、とか言いやがるなよ。それとも何か、お前はSOS団なんてアホな団体に入ったことをやんでいるのか? ものはためしだ、退団届けを書いてみろよ。代理で俺がハルヒに提出してやってもいいぜ」

 古泉は口のはしゆがめる人工的な笑みを俺に向けた。やや間があって、

「いいえ」

 おもしろがっているような声で告げた。

「現在のあなたが、ある種の開き直りの境地に達したように、僕もまた涼宮さんやあなたがた団員のみなさんに初対面時には考えられないほどの好意をいだいています。副団長でもありますし……いえ、そんな肩書きを理由にすることもないですね。あの雪山のやかたで僕が言ったことを覚えていますか?」

 当たり前だ。お前が忘れても俺が忘れん。あの約束をにするようなことがあれば、俺はハルヒと力を合わせてお前にとびっきりの特製バツゲームをあたえてやる。

「安心しましたよ。僕がおくそうしつになってもだいじょうぶそうですね。あなたたちが思い出させてくれそうだ」

 微笑み、古泉はゆるやかに白い息をいた。

「長門さんがあっさりときゆうに立つなどよほどのことで、そう何度もあるとは思いたくありませんが、僕にできることならしますよ」

 その決意を長門以外の仲間にも向けてもらいたいもんだな。

「言うまでもないと思ったんですよ。朝比奈さんも守ってあげたくなる人に変わりはありません。無意識のうちに欲をくすぐってくれますからね。超能力の一種かと思えるくらいですよ」

 横断歩道をわたりきった古泉は、ふと足を止め、うでけいに視線を落とした。つられて俺も左手首を上げる。ずいぶんブラブラしていたな。そろそろ集合時間だ。

 俺が駅前にもどる道を目指しかけた時、三歩ほどおくれた後ろから古泉の声が小さくかかった。

「現在の朝比奈さんは僕にも『機関』にとっても守護の対象です。ですが気をつけてください。あなたのあの朝比奈さんとはちがう、別ので立ちをした朝比奈さんはそうではないかもしれませんよ」

 朝比奈さん大人バージョンのシルエットがもうまくに再生される。俺はり返らずに歩き続け、古泉の声はさらに遠くなった。

「彼女が僕たちに──SOS団に、福だけをもたらすという保証はありません」

 かもな。だが、これもお前が言ったことだぞ。

「だとしたら」

 と、俺は言った。

「その未来を変えてやればいいのさ。今のこの時からな」



 駅前に戻ってきた俺と古泉を、先にかんしていた三人が待っていた。

「何かあった?」

 ハルヒがいてくるものの、探してもないものは発見できたりはしないので、

「ない」

 正直に答えるのみである。

「そっちこそ、面白いもんを発見できたのかよ。なかったならおたがさまだぜ」

「うん、そんなに不思議なものはなかったけどね」

 らくたんいきどおりも見せず、ハルヒはおそろしくニコヤカに、

「面白かったわよ。三人でデパートの食品売り場で試食したりね。ね、楽しかったわよねえ?」

 ふくんだようにハルヒが笑いかける先は朝比奈さんだった。

「そ、そうですね」

 朝比奈さんは何度もばやくうなずきながら調子を合わせている。ふわふわするくりがのんびり屋のちようの羽を思わせた。

「いろいろ見て回って面白かったです。新しいお茶も買っちゃった」

 幸せそうにしようする朝比奈さんは、本日はすっかり買い物気分である。よく見りゃ長門が手に持っているのは本屋のふくろじゃないか。この三人、いったいどんな不思議をデパートの食品売り場やしよせきコーナーで探していたというんだ。不思議な話オンリーなら書店にいっぱい並んでいるだろうが。

「まあ、いいじゃないの」

 ハルヒはけろりと言い放ち、

あわててやっちゃうとね、たいてい後でいるハメになっちゃうものよ。急ぐときこそ逆にゆっくりすべきなんだわ。車の運転なんかそうよね。もうスピードで事故ったりしたら間に合う間に合わない以前の問題だもん。それにね、まさかと思うようなことは、まさかと思ってるからやって来るわけ」

 お前の言っているくつじよじよわからなくなってきたぜ。

「簡単な理屈じゃないの。いいこと、キョン?」とハルヒはえらそばる。「だるまさんが転んだみたいなものよ。見てないところでは動くけど、さっと振り返ったしゆんかんにピタって止まるでしょ。不思議さんもそんな感じよ。だからって振り返らないでいると通り過ぎちゃうから、その瞬間にとっつかまえるの。タイミングよ、タイミング」

 ますます解らなくなってきた。ハルヒの頭の中では整合性がついているかもしれないが、そんな幸運のがみまえがみでなくつかめ、みたいなことを言われても困る。実体のないものをかくできるのは未知の電波を受信している人間だけだ。

「それより昼ご飯、どこにする?」

 俺の疑問はそれあつかいか。

「銀行の向かいに新しいイタリア料理屋さんがオープンしてたわ。ランチメニューがおいしそうだったから五人分予約しといたけど、いいわよね?」

 どうやらハルヒは完全にダウナーモードをだつしたようだ。このハイペースなマイペースぶり、馬の耳元でおきようを上げていたぼうさんのほうがよほどやりのある仕事であったろう。どくだけはありそうだからさ。

「俺はいいが、古泉はどうだ?」

 ここで「いやぁ実はトマトソースが食べられなくて」とか空気を読まないセリフでもいてくれたらどうなるだろうと考えてゲタをほうってやったものの、古泉がハルヒの計画に反するような意見を発するわけがなく、「いいですね」と短く答えて微笑ほほえむばかりだった。

「決まりね」

 すでに決まっていたことをあらためて告げたハルヒは号令を下し、俺たちは意味もなくあしを強制されてランチタイムで混雑するイタリアンレストランへ直行、おかげで案内されたテーブルに着くころには筋肉痛が再発しかけていた。

 ねこと同じで、やんちゃすぎるのもどうかと思うぜ。元気をなくしていれば心配するから元気でいすぎるほうがいいのだが、ハルヒがちょうどいい湯加減になってくれるような日が来るのだろうかと頭の一部分が考える。

 ウェイターの運んできたお冷やを三秒で飲み干し、おかわりを要求する姿を見ていると、うーん、そうだな。朝比奈さん(小)が朝比奈さん(大)になるくらいの時間はかかりそうだ。



 わりドリア定食なるお手頃価格の昼飯を食べ終わるなり、ハルヒはまたもやようクジのシャッフルに入った。

 本日のクライマックスはここからだ。どうも目の前にも朝比奈さんがいるせいでまどわされがちになってしまうんだが、現時点で俺が気にしないといけないのは朝比奈さん(みちる)のほうなのである。ちゃんと待っていてくれればいいんだが。

 ななめ横を見ると、いち早く食べ終えてもくもくとメニューを読んでいた長門は、今はハルヒのにぎる五本のツマヨウジを関心なさそうに見つめている。長門がらいを忘れたりしくじったりするとは思えず、俺は安心してまっ先にそくせきクジを引いた。

 印が入っている。

 次に長門が手をばし、印入りの楊枝を見事に引き当てて、静かにテーブルに置いた。

「あら、もう引く必要ないわね」

 どこかに不正があったのだとしても、られるほどのヘマを長門はしていなかったようで、ハルヒは三本の楊枝をぽいっと灰皿に捨てると伝票を手に立ち上がった。と言ってもおごってくれるわけではない。一円単位のかんである。

 はらいを終えた俺たちは再び冷たい風にかれながら、街中をあてどもなくめぐる昼の回遊魚と化さねばならない。しかし、それはハルヒと朝比奈さんと古泉にお任せだ。俺と長門は別の道を歩かせてもらう。正確には俺と三日後から来た朝比奈さん(みちる)とで。



 長門と二人で歩いていると、どうしても最初の春の日を思い出す。まだ眼鏡めがねをかけていた頃の製氷所のような無表情、そういやなかがわはその時の俺たちを見かけたんだったな。

 俺が進む道を長門は二歩ほどおくれて音もなくついてくる。あまりにも気配がないもんだから、とうかんかくを保っている姿を何度もり向いてかくにんしてしまうほどだ。無論、長門は雪解け天然水のような無表情で俺のマフラーの先を見つめ続けていた。

 かんがいぶかいものがあるのは、俺たちの向かっている目的地のせいもある。市立図書館。長門はちょくちょく通っているようだが、俺は長門を最初に連れてきたとき以来であり、あの改変された眼鏡付き長門の思い出の地でもあり、現在の俺と長門にとっても共通する思い出を持つ場所だ。

 ハルヒたち三人と別れ、俺がさそったのも以前と同じ。ちがうのは長門がすでに図書カードを持っていることくらいだろう。あと眼鏡。

 たがいにいっさいしやべることなく俺と長門は図書館への道を歩いていた。二人きりでいてずっとだまりっぱなしでもまりにならずにすむ相手というのは貴重だ。これがハルヒか古泉なら何たくらんでんだと勘ぐるところだが、その点、長門なら折り紙付きだ。

 心地ここちよいちんもくに包まれつつ、図書館の中に入った俺が視線を左右させる手間を省いてくれるように、ソファーに座っていた背の低い待ち人がたたっと小走りで駆けてきた。

 鶴屋さんが好みそうなロングコートにショールを巻き付けたがらな姿、ニットぼうをかぶって白いマスクをつけているのは変装のつもりだろう。

 朝比奈さん(みちる)はかくしようのない大きな目をまたたかせた。

「キョンくん、……あ。と、長門さん……」

 せいしゆくであるべき図書館だ。口の前に手をやっている朝比奈さんをならって俺も小声で、

「鶴屋さんはいないんですか?」

「はい」

 朝比奈さんはおどおどした目で俺の背後をうかがっていた。そんなビクつかんでも。

「鶴屋さん、今日も外せない用事があるって、ついてきてはくれなかったんです。あ、でも」

 ぱたぱたと片手を振り、

「家からここまで車で送ってくれました。帰りはタクシー使いなさいって、お金借りちゃった……」

 鶴屋さんの外せない用事もそりゃ気になるんだが、朝比奈さんの目がせいだいに泳いでいるのはもっと気がかりだ。俺の後ろに長門以外のはいれいでもついているのかと、振り返ってみると、

「…………」

 長門のるぎない無表情が朝比奈さんをじっと見つめていた。そして俺は昨夜かけた電話が単にクジ引きの不正要求だけだったことを思い出した。

 しまった、何の理由も言ってなかった。

「ああ、その、長門」

「…………」

 この程度の変装では長門はおろかだれもだませやしないだろうが。

「この人は、もう一人の朝比奈さんだ」

「知っている」

 長門の取りつくしまのない返答に、

「あ、ああ。そうだった。何日か前にしようかいしたよな」

「…………」

「ええとだ、な」

「…………」

「ご、ごめんなさい」

 なぜか謝る朝比奈さんと逆立ちした氷柱つららのようにたたずむ長門にはさまれた俺を、貸し出しカウンター内の司書さんがねむり続けたまま動かないパンダを見るような目でながめていたのは三日ほど忘れられそうにない。



 しかしそこは長門である。説明開始十秒で、

「そう」

 棒立ちのままだったが、あごをナノ単位で引いた。長門式うなずきサインである。

 ちなみに俺がした説明のろん内容とは、「これからこの朝比奈さんと行かないといけないところがあるので、すまんがもどってくるまでここで待っていてくれないか」のいであり、だいたい「待っていてく」あたりで長門は理解してくれたようだ。

 自分と入れわりに俺の背後霊化した朝比奈さんに目もくれず、長門はまくらかと思うような分厚い学術書がめ込まれたほんだなへと歩いて行った。

「行きましょうか、朝比奈さん」

 ダッフルコートが完全に棚のかげに消えたのを見届けて声をかけた。館内のかべけ時計は午後二時前を表示している。

「……あの、キョンくん」

 朝比奈さんはこわったふうなニュアンスのオクターブで、

「長門さんに全然説明しないで、ここにいつしよに来たんですか?」

「はあ、ついうっかり」

「うっかりじゃないです。それは……」ふるふると首を振る朝比奈さん。「長門さんだっておこります」

 すみません。と言うか、朝比奈さんに怒られているような気分だが。いやいや、長門は別にそんなに怒っては──。

 ひゅう、といきをつかれた。

「あたしは……、いいです。長門さんにもっとちゃんと謝っておいてください。いいですね」

 みような上級生ぶりを発揮して、ぷいと横を向いた朝比奈さんは図書館を出てしばらく反対車線側ばかりを眺めて口をきいてくれず、俺、こんわく

 これからどこに何をしに行くのか、内ポケットの手紙を読み返す必要があったくらいである。

 らしにかれつつもくぜんと歩くこと十分、身体からだが冷えてきたのか、それとも話し相手をなくした俺が電柱に張り付いている住所プレートをちくいち読み上げていたせいか、朝比奈さんの顔と足取りがきんちようかんを取り戻してきた。

 そろそろ目的の住所だ。歩道橋のきようりようが見える。

 最後にもう一度、にぎりしめていた手紙を開いて、この歩道橋でちがいないことをかくにんし、俺と朝比奈さんは歩道に沿って並んでいるだんわきで立ち止まった。

「ずいぶんといてるもんですね」

 けなな花たちがいるもんだ。南北に一本道の県道沿いに設置された花壇は県営か市営かだろう。冬の寒さと車のはいガスにえて咲きほこる心意気に感心するが、ちょっと咲きすぎだな。十数メートルにわたって立ち並んでいるこの花々の中から落とし物をさがさなければならんとは、昨日の宝探しに続いて土難の相でも出ているのか。

 風に飛ばされないようにしながら手紙の二枚目をめくる。

「この中から見つけないといかんのか……」

 すみずみまで探すとなると、けっこう時間を食いそうだ。これは計算に入っていなかった。

「いえ、そんなにかからないと思うわ」

 朝比奈さんが花壇を指して、

「パンジーが咲いているのって、あの一角だけですから」

 花の名前にこれまで関心をはらってこなかったおのれの不明をじつつ、朝比奈さんが指し示す方を見る。小さな青白い花が風に首をりながら群生していた。

「あっちに咲いているのがふく寿じゆそう、そっちのがシクラメンです。そのとなりにあるのは、ええと、ビオラかなあ?」

 朝比奈さんが草花にくわしかったとは、これは意外。

「うふ、こっちに来てから勉強しましたから。いろいろ。植物のことも」

 助かりますよ。昨日のわらの山から針を見つけ出すような宝探しより、一万倍はピンポイントで場所が限られる。パンジーの咲いている辺を探せばいいわけだ。

「あ、お花をまないようにしてくださいね」

 冬の花をづかう朝比奈さんのお言葉をげんしゆくに受け止めつつ、俺は花壇のはしに足をかけてパンジーたちの上から地面をのぞき込んだ。

 落ちているのはおくメディアだという話だ。そんなもんがどうしてこんなところに落ちているのか、とりあえずそんな疑問は無視しておこう。未来人が落ちているって書いているなら落ちてるのさ。でないと俺がやっていることはお使い以下になっちまう。

 朝比奈さんが見守ってくれている中、俺はしゃがみ込んでパンジーのくきをそっとかたむけたり葉っぱをかき分けたりして花壇をさぐり続けた。さっさと終わらせたいね。通行人や車がばんばん通るという場所でもないが、これでは花あらしとかんちがいされてもしかたがない。パトロール中の警察官が通りがからないことをいのりながら、パンジーたちの根元に視線をわせた。



 そうすること三十分後、俺は指先についた土をズボンでぬぐいながら額をも拭った。

 おかしい。

 何も発見できない。パンジーの一角はそれはもう隅々まで調べてみた。リーダーの授業で次に当てられるセンテンスの英単語を調べる以上の注意深さで調べたとも。もしやと思ってほかの花壇にも同様のを試みた。シクラメンもビオラの中も探した。

 しかし、やっぱり記憶メディアはもとより、石ころよりも人工的な物体そのものがどこにもなかった。

 ちゆうから朝比奈さんも加わって、俺が見落としたかもしれないしよを重点的に再確認してもらったが、二人がかりでもなことは無為だった。

「どういうことだ……?」

 もしここに何もなかったのだとしたら、朝比奈さん(大)がそれを知らないわけはない。ここでひざまずいて花の根本に目を配っている朝比奈さん(みちる)は、彼女の過去の姿のはずだ。最初からないような落とし物を探せ、なんていう無益な指令を送ってくることもないだろう。

「どうしましょう、キョンくん」

 朝比奈さんは泣きそうな顔と声で、

「見つからないと、困ったことになっちゃいます。最優先の強制コードは絶対なんです。その通りにしないと、あたし……」

 マスクが外れて片耳にぶら下がっているのにも気づかないようだ。朝比奈さんは先刻、長門に出会ったときより深刻に落ち着きをなくしていた。実は俺もだ。これはだんり返すくらいはしないといけないかと意を決しかけたとき、

「捜し物はこれか?」

 背後から思いも寄らない声がかかった。俺の知り合いのだれにもがいとうしない、本能的に立ち上がってしまうようなこわいろだ。振り返るのにちゆうちよかいだった。そう、考えるよりも先に身体からだが動くときだってある。

 俺は朝比奈さんをかばうようにかたうでを広げ、歩道に向き直った。

 五歩分ほどはなれたところに、俺たちと同年代くらいの男が立っていた。その顔に見覚えはない。初顔合わせにちがいない。しかし一発で俺はそいつを気にくわないろうだと認定した。その顔にかんでいるのは、まぎれもなくネガティブな感情だ。

 よごものを持つような手つきでそいつは指先に小さな板のようなものをはさんでいる。うすくて黒い、手紙にあった絵にこくした品だった。

おもしろくもない光景だった。三十分も根気よく花荒しとはきようする。僕にはできそうにない」

 そいつはこくはくそうな薄いくちびるをわずかにゆがめていた。いくら俺がどんかんでも、ちようしようされているくらいはわかるぞ。

「あんたもとくな人間だ」

 高台から見下ろしているような目つきをする。

「理由も知らず、余計な苦労をしょいこんで、それでもだくだくと人生を続けている。僕には理解できない。あんたは他に考えること、やるべきことはないのか?」

 この一年、たびかさなる異変によってつちかわれた俺の危機感知能力がじようきようイエローを伝えている。ところが危機というのは感知しただけでは意味がなく、かいして初めて「あんときはヤバかった」とお笑い昔話にもできるってものであり、解っていた危機が解っていたとおりにやって来たとき、それが終章になってしまう場合だってあるので解ったからといって安心している場合でもないのである。望みもしないしゆうえんとうらいさとったなら、それをけるべく何とかしなければならず、どうやら今がその時らしい。

「それ、どこで拾った?」

 俺の問いに、野郎はニヤリとして、

「そこの花壇の中だ。あんたたちが来る直前に手に入れさせてもらった。簡単だったさ。難しい仕事じゃない」

「それをよこせ」

 せいいつぱいこわい顔を作ってやったつもりだが、そいつは鼻先で笑いのけた。

「あんたのものでもないのに、どうしてわたさないといけないんだ? 落とし物は交番に届けないとな」

「俺が届けてやるさ。いっそのこと落とし主にな。警察に預けるより手っ取り早くすむ」

「ふ」

 ざわりな笑い方だ。

「あんたはその手紙に書いてある住所のあてが、これを落とした人間の名前だと思っているのか。そんなことを誰に聞いた? あの宇宙人にか?」

 こいつ──。長門を知ってるのか。いや待て、どうして手紙の内容まで知っているんだ。朝比奈さんにしか見せていないというのに。

 ということは、こいつは……。

 朝比奈さんは俺の腕を両手で持って小さくふるえている。おどろきと混乱がまじっているような表情に、問いかけた。

「この野郎は朝比奈さんの知り合いですか?」

「いえっ、」ぶんぶんと頭をった上級生は、「知りません。あたしの……その、知っている人の中にはいない人です」

「僕が誰かなんてどうでもいいことだ。何も今すぐあんたたちを取っておうとはしない。いい機会だと思ったんだよ」

 そいつは持っていたブツに、ほこりを飛ばすような息をきかけ、にくにくしげにしようした。古泉がグレたらこんな笑い方をするかもしれない。それなりに整った顔立ちのせいで、いっそう敵意がきわだって見える。

 さあ、どうする。なぐりかかってでもおくばいたいらしきものをうばい取るか。しかしこいつがじよういつした人間だったら、俺と朝比奈さんで二正面こうげきしたとしても勝利は薄い。くそ、長門も連れてくるんだったぜ。

 俺がにぎったこぶしでファイティングポーズを取るかポケットのけいたい電話を出そうかなやんでいたら、

「ふん」

 そいつは興味をなくしたように鼻息をらし、指をはじいた。放物線をえがいて宙をった小さな板が俺の前に落ちてきた。地面に落下する前に、とっさに拝み取る。

「あんたにくれてやるよ。これは僕にとっても規定こうだ。せいぜいがんばって指示通りに動くがいいさ。そして未来の指示で動く過去人形を続けるんだな」

 俺は手にした板に目をやった。デジカメあたりの記憶媒体に似ているが、見たことのない規格だ。ただし俺もくわしくはないので確かなことは言えない。どこかうすよごれているのは花壇に放置されていたからか。

 過程はどうあれ、目的の物が手に入ったのはいいとして、よくないのは目の前にいる男だ。

「お前は何者だ。どうして俺たちがここに来ると知っていた」

「ふ」

 そいつはうすくちびるをさらに薄くした。

「僕より先にたずねないといけないヤツがいるんじゃないか? あんたはどうしてここに来た? なぜだ? そっちを知るほうが先じゃないのか」

 同い年ふうのろうからえらそうにわけのわからないことを言われるとしように腹立たしい。だが、俺にもしんぼうえんりよの持ち合わせがある。そうそう感情優先で動いたりはしねえ。

 俺にしがみついておびえた視線をそいつに向けている朝比奈さんのこともある。

「あんたがきつもんしないといけないのは僕じゃない」

 そいつは険のある目を俺のかたわらにえ、

「そうだろう? 朝比奈みくる」

 ビクっと朝比奈さんの手に力がこもった。俺のコートをぎゅうと握りしめ、

「な──なんのことですか? あたしは、あなたを知りません。どこかで……?」

 そいつの唇のりようたんが下向きにゆがむ。

「そのにんしきでいいんだ。あんたが僕に言うあいさつは初めましてでいいだろう。合格だ。しかし僕にはあんたに対して別の挨拶があるってわけだ。この意味が解るか? 朝比奈みくる」

 これまででも十三分に許しがたかったが、完全に許容度をえた。こいつが朝比奈さんを見る目には明らかに敵意しか感じない。こいつは朝比奈さんを目のかたきにしている。

 ちがいなことかもしれないが、俺はそいつに人間くさいものを感じていた。これほどダイレクトな悪意を放射する野郎には久しぶりに出会った。善人の振りなんか最初からせず、内心をかくした仮面もかぶらず、思考をそのまま言葉にしている印象である。いっそ話が早くていい。俺もハルヒもからきらいだからな。

「言いたいことがあるならさっさと言いやがれ」

 うさんくさい野郎に対面したときは強気に出るに限る。あいまいなことを回りくどくしやべるような人材は古泉一人で間に合っているんでな。俺は語気になけなしのパワーをめて、

「俺に用があるんなら聞いてやってもいいぜ。何ならハルヒに取り次いでやろうか? しようかいするだけならタダだ」

「いらないね。涼宮ハルヒか。会う必要もないな」

 その言葉は大いに意外だ。てっきりこいつもハルヒを取り巻く不思議人の一員なのかと思ったのだが。

「僕は朝比奈みくるとは違う」

 そいつは目を糸みたいに細め、俺の後ろから顔だけ見せているSOS団専従未来人をにらみつけて、同様の眼光を俺にも注いだ。

「彼女の規定事項をみにしないほうがいい。事実が一つとは限らないんだ。もっとも、ここまでは僕の規定事項も同じだ。その記憶装置は未来にとって必要なものさ。あんたが自分の手で拾おうが、だれかからもらおうが結果は変わらない。あんたはそれを手に入れた。そうだろう?」

 大違いだろうが。俺の予定表にはお前みたいなヤツに出くわすなんてこうもくは一文字も書かれていない。

「あんたもにぶいな。それも大した違いにはならないってことがまだ解らないのか? 僕がここに出てきた意味が? 何のために来たと思うんだ?」

「知るもんか」

 俺は考えずに言った。代わりに考えてくれる団員に持ち合わせがあるんでな。悪いが、ぜんもんどうがしたいならウチの副団長の前に登場してくれ。

「お断りする。そんな予定はない」

 にべもなく断言し、そいつは風に押されるように後ろに歩を刻んだ。

「今日はただの顔見せだ。ちょっとしたお遊びさ。僕の予定表には記されていたこうでもある。そちらの未来人さんの予定にあったのかどうかは知らないね。これ以上は、ふん、禁則だ」

 さっと身をひるがえし、そいつはゆっくりした歩調で歩いていく。言いたいことだけ言って自己紹介もなしに去ろうとする非礼を正してやるべきか、俺は後を追おうかはんしゆん迷い、結局はのがすことになった。

 朝比奈さんが銅像のように固まって、俺のうできしめていたからである。足に根を生やしたように動かない朝比奈さんは、ただ怯えた目でいけ好かない野郎の後ろ姿を見つめ、ヤツが角を曲がって完全に消え去るまでそうしていた。

「ふわぁ……」

 たんがらな上級生の手から力がけて、くたりとしかけたところを俺が支える。ハルヒがくっつきたがるのもよく解る温かさが俺の手に伝わってきたが、喜んでいる場合じゃないな。

「朝比奈さん、あの野郎に思い当たるふしはないんですか?」

 よろよろと朝比奈さんは何とか下半身を立て直し、小さな小さな声で、

「……たぶんですけど……。あの人、未来から来た人だわ……」

 だろうと俺も思う。使っている単語が朝比奈さんと一部かぶっていた。そこまでは俺の発想力でも推理可能だ。しかし、何しに来たんだ、あいつは。俺たちの先回りまでして、落とし物を事前に探し当ててくれたのが善意のものとは思えない。だったら三十分も俺と朝比奈さんがいつくばっている様子をながめてはいまい。

 新手の未来人。そして朝比奈さんへの敵視。

 こおり付きそうな冬の気温とは関係なく、俺はうそ寒さを感じる。宇宙生命体にばつがあるように、未来にも意見のそうした連中がいたってことか。そういや古泉も『機関』以外のかいそうな組織があるとかほのめかしていた。今まで何をしていたのかは知らんが、とうとう新種がフラフラ現れるようになっちまった。

「未来人にも色々ありそうですね」

 俺のがいたんに、朝比奈さんは返答しようとしたように口を開き、

「ええ。あの…………」

 言葉になったのはそこまでで、しばらく口をパクパクさせてから目をせた。

「禁則こうです。言おうとしても言えないってことは、そうなんだわ」

 じゆうぶんですよ。俺は気にしませんからあなたも気にしないでください。

「でも、きっと重要なことなんです。いつかはああいう人に会うと思っていました。けど……こんな不安定な時に会うなんて……」

「不安定?」

「はい。だって、本来ここにいるあたしは、いま涼宮さんといるほうですから」

 だからかもしれない。

 俺はコートの外側からポケット内の手紙を押さえた。もし、ここで俺と朝比奈さんとあのろうが出会うことが規定事項だったのだとしたら、朝比奈さん(小)はこの時間にはハルヒと古泉の三人でいるのだから不可能だったはずだ。可能となったのは、八日後から朝比奈さん(みちる)がやって来て俺と行動をともにしていたからである。

 にぎりっぱなしだったおくばいたいあせばんでいるのに気づく。今日の命題はこれだったはずだが、これが何なのかよりも気になることができちまったな。俺は手紙と同じ内ポケットにしゆうとくぶつを落とし込み、別れたばかりのあの野郎に改めて腹を立てた。朝比奈さんにちょっかいをかけようなんてヤツは過去現在未来を通して俺が許さん。鶴屋さんも許さないだろう。ついでに言えばハルヒだって許さないだろうし、長門と古泉がやすやすと見逃すとも思えない。

「あいつとはまた会いそうですか」

「たぶん」

 朝比奈さんは案外あっさりとうなずいた。おびえの色はこんわくに移行し、今は何かを考えている表情である。うれしいことにまだ俺の腕を取っていることに気づかないようで、

「あの人、これがあたしと同じ規定事項だって言っていました。きっとそんなにあたしと違わないんです。それに……」

 言いかけてまた言葉を途切らせる。それも禁則事項ですか。

「ううん」

 朝比奈さんはやっと俺に密着していた身体からだはなして、

「そんなに悪い人には見えなかったの。キョンくんはどうだった?」

 どうだったも何も、何がムカついたと言って俺と朝比奈さんをあんた呼ばわりしたことが最悪だ。俺をそう呼んでいいのは、……まあ、ごく少人数であるのは確かなことで、その中には初対面のあの野郎など入ってはいない。

 もちろん、ニックネームで呼ばれたとしても嬉しくはなかっただろうが。



 だんあらしの真似まねごとと、変なヤツが変な登場をしたせいで余計な時間を食っちまった。駅前でハルヒと合流せんといかんのが午後四時で、今の時間が三時過ぎ。ここから図書館にもどって長門をしよの前から引きがし、駅前に行くことを考えるとゆうすらあるが、この朝比奈さんを一人でほうっておくことはできない。タクシーに乗せるにしても、その運転手に得体の知れない連中の息がかかっていないとも限らず、俺の心配しようをアップさせてくれたさっきのれいしよう野郎へのイラだちもいや増すってものだ。

 ふところは痛むがしょうがない、俺もタクシーに同乗して鶴屋さんの家まで送り、そのまま図書館まで乗っていこう。

 俺は通りがかった個人タクシーを止めると朝比奈さんといつしよに乗り込み、ドアが閉められたところで、

「鶴屋さんの住所って何でしたっけ」

「あ。あたしもよく知りません。何町だったかなぁ」

 しかし中年の運ちゃんは、愛想よく、

「あの大きな鶴屋ていのことですか? でしたら道は知っています」

 こんなところもさすがだ、鶴屋さんとその一家。電話してく手間が省けた。

 話し好きらしいドライバーは俺たちの学年を知りたがり、高校生活を知りたがり、自分の息子むすこが現在小学生であることを教えてくれたり、中学は私立のいいところに入れようと計画していることまで明かしてくれているうちに車は鶴屋家正門前にとうちやくした。

 先に降りた朝比奈さんが俺と運転手に何度もおしながら鶴屋家しき内に消えたのを見届ける。一安心だ。ここなら新未来人だろうと手出しできないと思う。人間、持つべきものはしんらいできるせんぱいだ。

「市立図書館まで行ってください」

 俺はシートにもたれて次の行き先を告げ、ようやく張りつめていた精神をかんさせた。



 図書館にい戻った俺を、長門は立ち読み姿で待っていた。重量感豊かなハードカバーを立ったまま読みふける姿には、よくつかれないものだと感心する。

「待たせた。すまない」

「いい」

 長門はパタンと表紙を閉じ、辞典みたいな書物をつま先立ってだなに戻すと、俺の横を通ってすたすたと出口に向かい出す。

 あわてて横に並びつつ、俺はポケットから記憶媒体とやらを取り出した。

「長門、これが何だかわかるか?」

 外に出たところで長門はゆっくりと顔を横向かせ、足を止めずに俺の指先を見つめた。

「実はさ」

 駅前へと北上しながら俺は話し始めた。長門に包みかくすことなど何もない。ばこの手紙の件もふくめて、先ほどの出来事をつぶさに語ってやる。

「……そう」

 長門はつうの無表情でうなずき、普通にへいたんな声で答えた。

「その記録装置には破損したデータが入力されている」

 うすっぺらい板をCTスキャンするように見つめながら、

「半分以上がそんかいしている。そのままでは意味をなさない」

 何のデータだ?

「情報不足。損傷度が高く、消えているしよが多すぎる」

 長門にも解らないようなものが入っているのか。だったらどんな人間にも理解不能だと思うが、俺がこれを送る先にいるだれかには解るのかな。

「修復の過程でまったく別のデータになるのだと思われる」

 長門はすべてを読みとったような顔をしておく装置から目をそらした。

「推測は可能」

 背中に垂らしたダッフルのフードが歩くたびにれている。

「そのデータの欠損部分をめる際、元データとは異なる情報入力を二百十八カ所でほどこし、本来その記憶装置を参照する再生機とは別のフォーマットでえつらんすれば、ある技術の原始的ばんとなる理論を得ることができる」

 俺が再度問う前に、長門は前を向いたまま言った。

「朝比奈みくるが使用している、時間移動理論の原理的データ」



 ただし──、と長門は解説してくれた。

 仮にしゆよくそのデータが得られたとしても、人類の現代レベルの科学知識や技術力ではそれが何を意味するデータなのかも理解できず、それがただちに時間航行につながるわけではない。しかし必要不可欠なデータである。この情報がなければ航時機は開発されず、人間が時をえることは不可能となる。彼女たちの時間移動方法は、何千通りものぐうはつ的な発見や発明によってどうした。その根っこにあるのが──。

「これだって言うのか」

「そう」

 興味なさげな無表情で長門は歩調をゆるめないが俺はそうはいかない。未来の命運が自分のてのひらにすっぽり収まってしまうような物にめられて、そいつをたくされている気分など表現しようもないくらいのプレッシャーだ。

「ダミーの可能性もある」

 長門は水を差すわけでもなかろうが、

「そのデータがゆいいつのものとは考えにくい。バックアップの複数存在が自然」

 考えてみればそうだな。貴重品の運び屋をらいされたと思ったら、実はオトリで本物は別のルートで安全に運ばれていた、なんてのもありがちな話だ。朝比奈さん(大)が片目を閉じて人差し指をくちびるにつけ、しれっと微笑ほほえむ映像が目の前にく。だが彼女にも苦手科目があるはずで、それは俺のすぐそばにいる。

「ああ、そういえば、長門」

 俺はずんずんと先行するはんな長さのうしがみに、

「今日はすまなかった」

 長門の歩行がややそくになり、無表情が物問いたげにり向く。

「いや、だからさ、朝比奈さんを連れて行くって昨日言ってなかっただろ? 説明きで願い事をしたのは我ながらどうかと思ったんだよ」

「…………」

 長門はこっちを向いたまま直進を続ける。俺の真意をさぐっているようなひとみぎようされること十歩、俺は白状した。

「朝比奈さんに謝っておくよう言われたんだ。とにかく、すまなかった」

「……そう」

 やっと前を向く。長門はたんたんと歩き続け、五秒くらいしてからまた言った。

「そう」



 駅前では、ハルヒと朝比奈さんが遊びつかれた子犬のまいのようにくっついている横に、古泉がじんちく無害スマイリーな顔をして立っていた。

 合流した俺たちは午後の成果を報告し合うためにきつてんに転がり込む。もちろん、ハルヒに報告することなんざ去年の春から何もなく、また変なヤツが出てきましたなんてことも俺は言わない。幸いなのは第一回目とちがって「不思議または不思議に類するものは見つかりませんでした」と告げてもハルヒのげんが変な方にすっ飛んで行かないことだ。

「まあ、こういう日もあるわ」

 こういう日以外にどんな日があったというのか。

 むしろじようげんに見えるハルヒは、カプチーノをくびぐびと飲みながら、

「明日も集まりましょう。きっと不思議なことも二日連続で探されるとは思ってないわ。不意をつくの不意を。そこで尻尾しつぽをつかむわけ。きっと意外なところから出てくるんじゃないかしら。曲がり角ではちわせするとか」

 いきなり後ろから声をかけてきたりとかな。思い出すと腹が立つ。あのろうが俺と朝比奈さんを観察しながらさげすみのみを浮かべているところを想像すると、飲んでいるカフェオレがブラックコーヒーになったようなさつかくおちいる。今度会ったときをかくしておけよ。首根っこをつかまえてハルヒか長門の前で正座させてやる。

 よほど苦み走った顔をしていたのか、ハルヒは俺をのぞき込んで何か言おうとしていたが、結局はコメントせずに、それからなぜか不可解な笑みを作った。

「ま、いいわ。明日よ明日。日付が変わったらじようきようだって変わるわよ。永遠に同じ一日をやってたっておもしろくないでしょ? あたしの予想では日曜日が一番ねらい目ね。だってなんとなく油断したようなダラけたイメージがあるじゃない。月曜日とは仲が悪いと思うわ。そんな気がするの」

 勝手に曜日をじんして性格まで決めつけるハルヒの話を聞きながら、そういや高校は週明けも休みだったことを思い出し、まさか不思議探しが三日連続になるんじゃないだろうなと考えておそろしくなりつつ、朝比奈さん(みちる)の話ではそうでなかったと思い返し、それよりハルヒとなかむつまじく話をしている朝比奈さん(小)のひかえめな笑い声に心いやされていると、

「今日はこのへんにしときましょ」

 ハルヒが解散を宣言した。

 聞いていたとおり、きっかり午後五時に。



 やれやれ。今日は考えることがえらく多かった一日だったな。

 逆風をついて自転車を走らせながら、昼前の古泉のセリフや、二人ぶんの朝比奈さんや、名前も言わずにあく的なことばっかつぶやいていたあの野郎や、長門のふくのない顔や、ハルヒの意味なし元気顔なんかを回想する。これ以上やつかいごとをかかえたくも、考えたくもない俺だったが、この上においてやることがまだ終わっていない。サクサクすんなり手ぶらで帰宅できるほど俺は物忘れが激しくなく、ポケットの中のブツを見て見ぬ振りはできないし、明日のこともある。

 てなわけで、俺はコンビニに寄って切手とふうとうこうにゆうし、その足でホームセンターに向かった。

 ペットコーナーをひとしきりウロウロして、シャミセンとは大違いの血統書付きいぬねこたちに心をうばわれつつ、なんとかゆうわくを振り切ってかめ売り場を探し求め、ゼニガメとミドリガメがいつしよになって仲よくひとかたまりになっているすいそうを発見した。できれば朝比奈さんと一緒に来たかった。アメリカンショートヘアやシェルティが入ったガラスケースにくっついて「わぁ」とか言いながら目をかがやかせる姿をぜひ見たい。ウチの妹がそれやってるシーンはもうきた。

 俺は亀の水槽に目を落とし、

「さてどいつにするか」

 品定めを開始する。小さな亀たちはほとんど動こうとせず、ジオラマみたいな岩場の上でじっと積み重なっていた。これはこれで愛らしい。亀愛好家が多いらしいのもうなずける。しかしちょっと愛想がなさすぎるんだが、冬だから仕方がないのか。とはいえ、俺が明日にするのは真冬の川に亀をほうり込むという、どちらかと言えばめいわくそうなこうである。果たして亀は喜んでくれるだろうか。ぬくぬくとした水槽暮らしと、自由なれどこくな自然に帰されるのとではどっちが好印象を持たれるのかね。

 熱心にながめている俺の視線を感じたか、一ぴきのゼニガメがにゅるりと首を動かして空中を見上げた。バランスをくずしたのだろう、岩場からぽちゃんと水の中に落ちたその亀くんは、でぶくぶくあわっている水辺をちゃぷちゃぷとたゆたった後、やっぱり冷たいやとばかりに同類たちの背中の上にもどってきた。よし、お前にしよう。

 俺はいそがしそうに荷出しをしていた店員を呼び止めると、その亀を指して購入意図を伝えた。アルバイトなのか知らんが大学生風の青年店員は、やけにうれしそうな顔となってちんれつされていた亀専用グッズを持ち出し、こんせつていねいなまでの熱心さで亀の飼い方を説き始めた。俺としてはかみぶくろげて持って帰ってもいいくらいなのだが、いや飼育するんじゃなくて川に放流するために買うのです、とは言いにくいふんであり、だいたい何のためにそんなことをするのか、かれてはかなわないし、俺だって理由が知りたい。

 結局、持ち合わせがそんなにないことを理由にゴニョゴニョ言いわけしていると、その青年店員は小さなプラケースにじやめて水槽の水を入れ、俺が目をつけたゼニガメを貴重品をあつかうような手でつまんでケースの中に置くとエサの箱とまとめて俺にわたして、

「亀代以外はサービスにしとくよ」

 と、思い切り快いがおを見せて俺をレジまでゆうどうした。どうやら亀好きな店員さんだったようだ。

「亀のことで何かあったら、いつでも訊いてくれ」

 そう言って彼は自分でレジを打ち、ケースとエサ代は自分のさいから出してまでくれている。きようしゆくするばかりだが、この亀くんは明日には水面にとうてきされる運命なのだ。

 じやつかんの心苦しさを覚えつつ、俺はケースに入ったゼニガメをたずさえてホームセンターを出ると、荷物をチャリのカゴに置いて再び走り出した。

 すっかり夜空となっている時間だが、俺にはまだ帰宅が許されていない。今日のめくくりに一つ、行っておかねばならぬ所があるのだ。



「やあ! キョンくん! また来ると思ってたよっ。こんばんはっ」

 星空の下でも明るいオーラを放つこと丸出しの和装むすめさんが門を開け、自転車ごとおじやするのは鶴屋ていに決まっていた。

「ん? なんだいそれっ。お土産みやげかなっ」

 鶴屋さんはカゴの中のケースに目を留め、

「やや、亀だカメカメ。ありがたいけど、家の池にいっぱいいるんだよねクサガメがっ。いつの間にかはんしよくしちゃってさ、そのちっこいのを放したらイヂメられるんじゃないかなっ」

 残念ながら鶴屋さん向けのプレゼントではないのですよ。どちらかと言えば朝比奈さんにわたすべきペットです。

「そっか、残念! それからキョンくんすまないっ。今日、みちるちゃんを図書館まで送ってあげらんなくてゴメンよ! どーしてもけらんなくてさっ」

 だだっ広い日本庭園のかたすみにチャリをめ、亀ケースを持った俺は鶴屋さんとかたを並べて歩きながらたずねる。

「今日は用事でもあったんですか?」

「法事だよっ。ご先祖様のれいぜんで一家そろって思い出話をする日さ。父方のじいさんの命日なんだけどね、おもしろい人生を歩んでた爺さんでさ、エピソードまんさいだわでえんもたけなわっ!」

 くったくなくしやべる鶴屋さんは、対かめ戦のちようきよ競技で本気を出す気になったウサギのような歩き方で、

「そんなにあのみちるちゃんが心配かいっ? なんだったら同じ部屋でまっていくかい? あたしも横でてるけど、それが気にならないんならいいよんっ」

 まるできんちようかんのない笑顔を俺に向ける。シンデレラに上等なしようあたえるほう使つかいなみの好意だったが、きっと申し出にうかうか乗ったりするとしっぺ返しをらうのだ。安易なゆうわくは遠回りなわなとなって遠からず戻ってくる。鶴屋さんもわかっているからそんなことを言ってくれるのさ。

「そこまでは俺もしませんよ」

 と、俺が答えることくらい彼女ならお解りであろう。仮に実現したのだとしても上級生二人にはさまれていては、づかれのあまりいつすいもできないにちがいない。身体からだだけはやけにつかれているのだが。

 ゼニガメくんは寒さのせいかケースの角で固まったように動かない。自然の川より鶴屋家の池に投じた方がいいような気がしてきたが、朝比奈さん(大)の指令を破るわけにもいかず、なんとなくジレンマ、かつそうようだ。

「あ、キョンくん?」

 はなれに上がらせてもらった俺を、朝比奈さん(みちる)が意外性を帯びた声でむかえた。別れたばっかなのにまたやって来るとは思わなかったのだろうが、これをお忘れです。俺は亀ケースを差し出して、

「明日、これを持って来てくれますか」

 ♯4の手紙の内容を思い出していただきたい。『明日の午前十時五十分までに川に亀を投げ込んでください』ってのが俺と朝比奈さんのおこなう最後の仕事だ。市内パトロールは明日も実行の運びなので、時間的にみて午前九時にはハルヒたちと駅前集合、それからきつてんでだべったりクジを引いたりで一時間はロスするだろうから、亀は朝比奈さんに持ってきてもらうのが合理的だ。こんなものを持って集合場所に行ったりしたら、ハルヒでなくとも質問の雨を浴びせたくもなるだろう。

「うん、そう、そうですね」

 朝比奈さんはケースを受け取りながら、

「日曜の朝、キョンくんは何も持ってませんでしたし……」

 えへん。わざとらしいせきばらいが聞こえた。ちゃぶ台で人数分のお茶の用意をしている鶴屋さんが放ったものである。彼女はもう少しでウインクになりそうな感じに片目を閉じ、

「明日もこのみちるちゃんをどっかに送り届けたほうがいいのかなっ?」

たのめますか?」

 おうかがいを立てた俺に、鶴屋さんはくしゃりとしたがおで、

「あーそれなんだけどね、明日もあたしは用事まみれなのさっ。親族会議に出ないといけないのだっ。でも安心してちょん。家の者に言っといて、みちるちゃんを車で送るようにさせっからっ。で、何時だい?」

 午前十時四十五分、桜並木のある川沿いまでお願いします。細かい場所はこの朝比奈さんが知っている。例の思い出ベンチの場所を見失うほど、朝比奈さんも方向おんではあるまい。

「おっけ、おっけ。任しといてっ。帰りはタク使ってちょうだいねっ」

 鶴屋さんはスマートな胸をドンとたたいて、

「キョンくんが心配するのもよく解るっさ。みくると二人ではんがいなんか歩くじゃん? そすっと二百メートルおきにナンパされるんだよね。もうメンドイったらないさっ。みくるパワーってやつかなっ」

 鶴屋パワーも入ってると思いますけど。

「みくるはスキのあるむすめに見えちゃうからなぁ。それがあたしはちょっぴり心配なのさっ。いい男とくっつけば少しは安心なんだけどっ」

 それだと俺が安心できませんね。いらんことを想像してはんもんする毎日を送ることになりそうですよ。

「はっははっ。キミぃ、キョンくんが安心できる方法があるにょろ?」

 あるにょろ、と言われても思いつかないが、朝比奈さんは鶴屋さんの言葉に照れているのか顔を赤らめて手をパタパタとっていた。何とも言いようのない表情をしているのは、いちおうここにいるのは朝比奈みくるさんではなく、みちるさんであるという設定を守っているつもりだからだろう。俺はもうどうでもよくなっているし鶴屋さんだってそうだろうが、まあそうしておこう。俺の言い出したことだ。

 明日用の打ち合わせはこんなもんでいいか。俺は鶴屋さんが入れたしぶいお茶を飲みながら、朝比奈さんをながめた。子亀を見つめてケースをちょんちょんとつついている姿に思わず笑みをこぼしつつ、さて、この朝比奈さんをいつまでここに置いておけばいいのかと考える。このまま行けば朝比奈さん(小)と入れ違いにこの時間帯にとどまることになりそうだが、本当にそれでいいのか、それとも八日後──いや、もう三日後だな──にもどす必要があるのか。

 俺はふうとうにナンバリングされた数字を思い起こす。♯3、♯4、そして♯6。数の数え方が変化して、未来では四の次が六になっているんでもない限り、♯5の手紙がどこかにあるはずだ。欠けたピースはまだ俺のもとに届いていない。

 ♯6の手紙はこの朝比奈さんにはないしよだ。おそらく俺の口から言うことはないだろう。そこにはこう書いてあった。


『すべてが終わったとき、七夕の夜にわたしとあなたが出会った、あの公園のベンチに来てください』


 鶴屋家のお茶は部室で味わうものより高級な風味がする。俺が持ってきたかめについて必要以上の質問をしてこない鶴屋さんのはいりよがありがたい。寄りうようにしてケースをのぞき込む二人の上級生を見ながら俺は思考をめぐらせる。

 すべてが終わったとき──。つまり朝比奈さんが八日後からやって来たこの件は朝比奈さん(大)には規定こうなのだ。遠からず解決するのはちがいない。

 わたしとあなたが──。この『わたし』は朝比奈さん(大)であって、(小)でも(みちる)さんでもない。今から四年前の七夕。俺はそこで二回も同じ人に対面した。

 口元がムズムズしてきた。朝比奈さんにハッキリ言ってしまうべきだろうか。意味不明な手紙の数々を俺のばこに入れているのは未来のあなたなのです、と。どこまで朝比奈さん(大)は読んでいるんだ? どうやってもそれは規定事項になっちまうのか?

 そして、この朝比奈さんはどこまで気づいているんだろう。未来からの指示、それに従う俺。そんな俺は朝比奈さんに口をにごしてばかりいる。これは正しいことなのか……。

 俺は小刻みに頭を振った。

 どうもいかんね。下手の考え休みに似たりってやつだ。これもあの変なろうが変なことを言い去りやがったこうしようだな。どれが正しいもへったくれもあるもんか。長門の教えてくれた訓辞その一である。

 未来のことを考えて思いなやんでいてもしかたがない。未来における自分の責任は現在の自分が負うべきだ。そんときはせいぜい過去の自分をのろってやるさ。で、今の俺は未来の自分から呪われないよう最善をくすのみだ。考えているヒマはない。

 ただ動くのみだ。



 しばらくして俺は鶴屋家をおいとまし、自宅に戻った。ベッドでているシャミセンの寝顔がひたすら平和だ。こいつがこんな顔してねむれている限り、この世界もへいおんでいてくれるだろう。まあ、どんな目にってもこいつがみんしようになるとは思えないが。

「すべては明日か……」

 明日には片が付く。ハルヒの不思議探し二日連続招集に、亀の放流。俺のすべきことはそれだけであるはずだった。それくらいなら別段難しくはない。見つからない宝を求めて穴をったり、見知らぬ人を病院送りにしたり、石を移動させたり、おく装置を拾ってどこかに送ったり──っと、まだそれがあったな。忘れる前にやっておかねばならん。

 俺はコンビニで買ってきたサラの封筒に、♯3に記されていた住所と名前を手書きすると例の記憶ばいたいを入れ、こんだければ世界のどこにでも届くだろうと思われるぶんの切手を貼り付けて再びコートを羽織った。もちろんこっちの名前は書かない。

 郵便ポストにとうかんした後は、もう郵送事故のないよういのるだけだった。そこまでは俺もめんどう見切れないぜ、朝比奈さん(大)。

 俺はたのまれたことをしゆよく果たしているはずさ。そのうち絶対聞かせてもらう。すべてが終わったとき、あの七夕のベンチで。

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