次の日、登校した俺を待っていた最初の物体は、下駄(箱(の中の封(筒(だった。
「やっぱりか」
誰(にも目(撃(されないように素(早(くブレザーのポケットにねじ込み、俺は急いで靴(を履(き替(えるとトイレに急いだ。秘密の手紙を開けるのはトイレの個室というのがお約束だ。
封を開け、折りたたまれた紙(片(を取り出す。二枚あった。
一枚目には紛(れもなく彼女の字で、そこにはこう書いてある。
『○○町××番─△△号にある交差点を南に進むと、近くに舗(装(されていない裏道があります。今日、午後六時十二分から十五分までの間、その裏道と市道が交差する地点に図の通りのものを置いてください。
P.S.必ず、朝比奈みくるとともに』
俺に読めたのはそこまでだ。文章の最後に見たこともない記号の羅(列(が署名みたいに書いてあったのだが、これが何を意味するものかは解(らない。ひょっとしてサインだろうかと思いつつ、しかし文面も意味不明なものには違(いなく、俺は首をひねった。
「何の指令だ? これは」
そして俺の首は二枚目を見た途(端(にもっと捩(れることになった。
「何だこりゃ?」
恐(ろしく不可解なものが図解されていた。簡略化されたお世辞にも上手とは言えない手書き地図と、どうやら地点を表す×印までは理解できる。ただし、その×印に置けと言っている物体の絵と説明は、冗(談(でなければ完全なイタズラだとしか思えないものだった。
「意味が解らないぞ、朝比奈さん」
今日の午後六時十二分から三分以内にそれをそこに仕(掛(けろって?
こんなことをして何になるんだ?
文面を暗記するまで読み返し、俺は手紙を封筒に戻して鞄(の奥底へとしまった。万が一にもハルヒに見つかってはならん。こればっかりは俺にもイイワケのタネが見つからないからな。
俺はトイレから出ると、考え込みながら階段を上った。
だが、これで少しは見えてきた。朝比奈さんが八日後から送り込まれてきたのはこのためなんだろう。この時間帯で何かをやる必要があったためで、それは今、学校にいるほうの朝比奈さんではダメだったということなのだ。でもどうしてダメなんだ?
果てしなき疑問と格(闘(しつつ教室に辿(り着いた俺を出(迎(えたのは、例によって変におとなしいハルヒの顔だった。
ハルヒはちらっと俺を見上げ、
「シャミセンの具合はどう?」
「あー」
そう言えばそうだったな。
「まあまあだ」
「あっそう」
冷えた椅(子(に座った俺は、さり気なくハルヒの横顔をうかがった。
何も気づいてはなさそうだ。つまらなそうに頰(杖(をついて、どことなく心ここにあらずっぽく唇(を結んではいるものの、最近はしばらくこんな調子である。何を考えているのかは知らないが、俺は俺で深く考えているヒマはなかった。
「なあ、ハルヒ」
「なによ」
「実はそのシャミセンなんだが、今日も医者に連れて行く必要があるんだ。しばらく通院させなきゃならんとかでさ。だから、今日も部室のほうには行けそうにない。すまないんだが……」
てっきり目を剝(いて睨(まれるかと思いきや、
「いいわよ、別に」
何と、あっさり許可してくれるとは。そんなにシャミセンのことが心配なのか。
「なんて顔すんのよ」
ハルヒはたまげた様子の俺を見て目(蓋(を緩(めた。
「無断でサボるのはダメだけど、ちゃんとした理由があるんなら、あたしだって物の解っている団長だからうるさいことは言わないわ」
物が解っていてうるさいことの言わないハルヒなんぞ今まで見たことがあったかなと記(憶(をひっくり返し、ひょっとしてこれが初の体験ではないかと考えていると、
「そのうちお見(舞(いに行ってあげるから、シャミセンには元気出すように言っておいてよね。でもシャミセンがねえ、あんたの妹、猫(でも嫌(がるような猫っかわいがり方をしてんのね」
どうでもよさそうに言って手首の上に載せた顎(をちょっと揺(らした。物(憂(げに黙(り込むハルヒがあまり自然ではないのは確かだが、今回はありがたい。俺には朝比奈問題という宿題ができちまっているからな。
まあ、だが何だろうこの気分。後ろの席のヤツが黙って窓の外を見ているだけで変な懐(かしさと新(鮮(さを同時に感じてしまうってのもどうなんだろう。起きている時間の半分でいいから、こんなハルヒでいてくれたらねえ。
「おはよう!」
予(鈴(がなり終えないうちに担任岡部が颯(爽(と入ってきた。
解ってるさ。
ハルヒの憂(鬱(は長くは続かない。気づいてみれば未来人から聞いた初めての具体的予言だな。朝比奈さんの話によれば、これからこいつは宝探しに俺たちを巻き込み、またぞろあちらこちらと連れ歩くことになっている。起きている時間のもう半分はそんなハルヒでいい。
良くも悪くも、それで安心するようになってる俺がいた。
昼休み、俺は大急ぎで弁当をかき込むと部室に向かった。
教室にいないってことはここにいるだろうと思った通り、長門は長テーブルの指定席で読書に励(んでいた。
「長門、朝比奈さんはどうだった?」
俺が連れて行った手前、気にしておいたほうがいいと思ったのである。
「…………」
長門は落としていた視線の先を俺へと固定し、質問の意味を推(し測(るように沈(黙(してから、
「どう、とは?」
「迷(惑(じゃないよな」
「ない」
そいつはよかった。俺は長門と朝比奈さんがパジャマパーティをしている姿を想像する。心が豊かになる思いだ。
「でも」
長門は平(坦(な声で、
「わたしといると落ち着かないらしい」
磨(きたての硬(貨(のような目が、またハードカバーに落とされた。
俺は黙り込んだ長門を見つめ、白い顔に何か表情が浮(いていないかと探し求めた。残念そうにしてないかとか、寂(しげであったりしていたら──、と思ったのだが、無表情な長門からはどんな感情もすくい取ることができなかった。
朝比奈さんの落ち着かなさは解(る。というか、たいていの人間は長門と二人きりで密室に閉じこめられたら落ち着きをなくすだろう。俺やハルヒや古泉以外の人間ならだいたいそうだろうし、まあ鶴屋さんはだいじょうぶだろうが、いやいや問題はそんなことではない。
朝比奈さんのビクつきを長門が理解して、その態度をこうして述べたというところに何かの違(いがあるんじゃないか。
「俺も朝比奈さんも、お前には世話になりっぱなしだからな。気を遣(うんだよ」
「お互(い様(」
長門は目を上げずに、
「わたしも力を借りた」
だが、一番何かしてくれているのは長門だろ。俺は何度もお前に命を救われたし、たいていの事件で頼(りになってくれたのもそうなんだ。朝比奈さんや古泉が役立たずとは言わないが、お前がいなけりゃどうにもならなかったことのほうが多いぜ。
「わたしが原因のこともあった」
ありゃ仕方のなかったことだ。誰(が悪いってんなら俺と情報統合思念体とやらに責任を押しつければいい。お前一人が背負い込むことじゃないんだ。あの事件のおかげで俺はようやくこの現実をまるごとひっくるめて飲み込むことができたんだからな。ポニーテールのハルヒも見れた。俺が何か変わることができたとしたら、あの経験が大きくものを言っている。
「そう」
呟(くように言って長門はページをめくった。木(枯(らしがひゅうと吹(いて部室の窓ガラスを振(動(させる。俺は電気ストーブのスイッチを入れながら、
「お前の親玉はどうしてるんだ? ちゃんと急進派を押さえ込めているんだろうな」
「情報統合思念体の意思統一は不完全。でも今は主流派がメイン」
なるほど、意識生命宇宙人にも派(閥(闘(争(があるんだな。
「お前は主流派に属してんのか」
「そう」
朝倉は急進派の尖(兵(だった。待てよ、二つだけか? 他(にもあるのか、ナントカ派ってのが。
「わたしの知り得(る限り、穏(健(派、革新派、折(衷(派、思(索(派が存在する」
それぞれ違うわけだ。朝倉は俺を殺してハルヒを刺(激(するなんてハタ迷惑なことを思いつき、長門はそんな朝倉を消(滅(させた。上の方ではまだガチャガチャやってそうだな。
俺が天空での神々のどつき合いを視覚化していると、
「他派の思惑はわたしには伝えられない」
長門はゆっくり首をもたげて本から視線を離(した。
「でも、わたしはここにいる」
起(伏(のない声が、この上なく頼(もしく響(いた。
「誰の好きにもさせない」
部室から戻(る途(中(、おなじみの二人組とすれ違った。
「やっ、キョンくん!」
鶴屋さんがバタバタと手を振(っている。その横にいるお方が、
「あの、猫(さんはだいじょうぶですか?」
心配そうに声をかけてきた。
「病院に行ったって聞きましたけど」
朝比奈さんだ。この時間にいる、普(通(の朝比奈さん。まだ自分があらためて時間遡(行(するとはまるで知っていない。
「お薬は飲んでます?」
ああ、そうか。ハルヒは部室から電話してきて、そこには朝比奈さんもいただろうからやりとりは知っているわけだ。
「そんなにヒドくはないんですが、養生の必要はありそうですね」
俺は混乱しそうな頭を軽く振った。二人の朝比奈さんは外見上の違いが当然ながらまったくない。気を抜(いたら長門の部屋にいるはずの彼女が学校までやってきた、なんて錯(覚(に陥(りそうになるし、そうなっていたとしても俺には気づけないだろう。朝比奈さんが言わない限り。
「シャミがストレス性脱(毛(症(なんて信じらんないよっ」
鶴屋さんが笑(顔(で、
「でも変な病気になるよりそっちのほうがまだいいかなっ。きっと運動不足だよっ。キョンくんの家にはネズミもいないよね! うっとこの庭にはたまに出るのさ野ネズミが! いっぺん連れてきたらどうだいっ? いい気晴らしになると思うよっ」
「様子見て治らなければそうしますよ」
寒い季節だ、あまり出歩こうとはしないだろうが、春になればシャミセンも喜ぶだろう。桜でも咲(いていれば、どうせハルヒが花見だなんだと言ってガーデンパーティを催(す気もする。
「キョンくん、今日は部室には来るんですか?」
朝比奈さんが心細げに訊(いてきて、俺は今日の自分の予定をあっちの朝比奈さんに尋(ねておけばよかったと思いながら、
「ちょっと今日もシャミセン連れて動物病院ですね。ハルヒにはもう言いましたが」
「そうなの?」
心からシャミセンを案じているように、
「早くよくなるといいなぁ」
やや心苦しいが、俺は深刻そうな顔を作ってうなずいた。
「そのうち撫(でにきてやってください。そうすりゃ治るんじゃないかな。あいつもオスですからね」
購(買(部のジュースを買いに行くという二人と別れ、俺は一年五組に戻った。暖(房(器具のない教室は、さっきまでいた文芸部室より寒っぽい。生徒の吐(く息と体温で暖めるしかないが、もっとも純度の高い熱源となりそうなハルヒの姿は例によってない。
談(笑(の輪に加わるべく、俺は谷口と国木田が固まっているあたりに歩き出した。
さて、放課後だ。
俺はさっさと学校を後にした。手紙にあった時間には余(裕(だが、朝比奈さんを一人にしておくのはどうにも心配で、朝比奈さん(大)の指示に従うのだとしたら用意しなければならない道具もある。
いったん、自宅にとって返すと物置にあったカナヅチと五(寸(釘(を鞄(に放(り込み、ママチャリにまたがって長門のマンションにダッシュする。耳が痛くなるくらい寒い真冬日だが、一人で俺を待ってくれている朝比奈さんを思えば気にもならん。それにさ、ちょっとしたお楽しみが待っているのは俺にとってほぼ規定事(項(だ。夏休み以来、俺が念願していたワンシーンの訪(れさ。
こうして妙(にハイな気分になっているのも部室での長門との会話が尾(を引いているからだった。
何があろうと長門は俺や朝比奈さんを守ってくれるだろうし、俺も長門や朝比奈さんを守ってやりたいと思う。ハルヒは俺たち団員を自分の所有物みたいに思っているようだから、誰(かがちょっかいを出してきたら暴れ回ってその手を捻(り上げるだろうし、古泉は自分の身くらいは自力でなんとかしそうだ。へたり込む古泉なんか想像できないが、もしあいつがうずくまっているようなら手を貸してやらんでもない。きっとハルヒはそう命令する。俺の都合なんか考えずにね。かまやしないさ。SOS団の一員になって一年弱、今さらへっぴり腰(になるほど俺の学習機能はイカれていない。
「よっと」
俺は後輪を意味なくドリフトさせて自転車を止め、マンション玄(関(のコンソールパネルに向かった。長門の部屋ナンバーをプッシュする。
『……はぁい』
流れ出てきた朝比奈さんの声に安(堵(しながら、
「俺です。何もありませんでした? なかったらいいんですが」
『ええ……はい、何も……。あ、すぐ下りますね。ちょっと待っててください』
俺としては長門の部屋まで上がってしばらくまったりとしたかったのだが、朝比奈さんはインターホンをすぐに切ってしまった。
その場で足(踏(みして待っていると、五分ほどして制服姿の朝比奈さんがエントランスホールに姿を現した。片手に上(履(きを提(げて。
朝比奈さんは俺を見てホッとしたような顔をして、しかしなぜか真(面(目(な表情に戻(り、寒さに身を震(わせながら俺のもとに小走りで駆(けよってくる。
「靴(は長門さんに借りました。あと、これ部屋の合(い鍵(なんですけど」
朝比奈さんの指が小さな鍵を摘(んでいる。
「これ、長門さんに返しておいてもらえませんか?」
ん? どういうことです? しばらく泊(めてもらうんですから靴と同じように借りておけばいいと思いますが。
「そのことなんですけど……」
朝比奈さんは顎(を引くようにうつむき加減に俺を上目で見て、
「あたし、長門さんとこを出たほうがいいような気がするんです」
どうして。
「なんて言ったらいいんでしょう……」
冷たい風が舞(わせようとする栗(色(の髪(を手で押さえ、
「長門さん、あたしと二人で部屋にいると、ちょっと落ち着かないようなんです」
思わず朝比奈さんを凝(視(してしまった。
似たようなセリフを長門からも聞いた。いや、それ以前に朝比奈さんにも解(る長門の落ち着かない素(振(りってものに想像が及(ばないぜ。
「ええと」
朝比奈さんは子供が大人に何かを説明するように、
「ほんと、なんとなくなんです。夜、寝(ているときに……あ、部屋は別で、あたしはあの和室で寝てたんですけど、その枕(元(に長門さんが立っててじっと見下ろしている……」
そんな、化(けて出た幽(霊(みたいな。
「……気がするだけですが、でも、長門さんがあたしを意識しているような」
白い息をたなびかせつつ、朝比奈さんは俺の胸あたりを見ている。
「部室で、みんなといるときは感じませんでしたが、長門さんの家で二人だと強く感じるんです。先月もあったでしょう? 過去に行って戻ってきたとき、あたしが目を覚ましたらキョンくんはいなくて、その時も寝てたあたしをずっと黙(って見ていたような気がするんです」
それはどういう意味が込(められているんでしょうか。間(違(っても長門が朝比奈さんに危害を加えるようなことはないと思いますが。
「うん、わかっています。長門さんにそんな意識はないの。あたしが勝手に感じているだけなんですけど……。でも、わかるんです。長門さんはあたしが気になるみたい」
どうも滅(裂(だな。俺には解りませんが。
朝比奈さんは咎(めるような目つきをした。寂(寥(感(を交(えた口調で、
「長門さんは、あたしみたいなことをしてみたいんです」
「?」と俺。
「キョンくんとあたふたしたりするようなこと。あたしはいつもそうでしょう? 長門さんはずっとあたしたちを見ていたんです。あの七夕の日も、未来がなくなった夏休みも……」
去年の思い出には常にSOS団の刻印がどこかにある。中でも一番の働き者だったのが長門だった。
「長門さんが過去を変えてしまったのも、どこかそんな思いがあったからなんじゃないかな。長門さんはいつも見守る側だったから、あたしみたいに助けられるばかりじゃなかったから」
朝比奈さんはふーっと掌(に息を吐(きかけ、うん、とうなずいた。
「そう考えると納(得(できるんです。あたしが長門さんから感じること。ひょっとしたら長門さんはあたしに成りかわりたいと思っているのかも……」
またしても妄(想(が走り抜(けた。いつものように俺が部室に行くと、そこにはメイド服を着て待機していた長門がいて、いそいそとお茶を淹(れてくれるという度し難(い妄想だ。そしてニコニコと俺の前に湯飲みを置き、盆(を抱(えて味を訊(いてくる……。
そういうポジションに長門がいたら、それはそれで悪くない。しかしテーブルの隅(っこで本を読んでいる長門はどこに行くんだ?
「長門さんは自分でも解ってないんだと思うの。だからあたしはここにいないほうがいいんです。長門さんを混乱させそうだから」
朝比奈さんの瞳(は真(摯(だった。長門の部屋にいるのがイヤだっていうことじゃなく、彼女は長門に配(慮(しているのだ。バグが溜(まった長門がどうなるかはすでに知っている。それがどうして積もったのかもだ。その結果、あいつは自分に制限を課した。同期の拒(否(。自分なりにそれを防ごうとしている。長門の理想は朝比奈さんなのか? 自分と違(ってほとんど何も知らずに行動しなければならない立場。真逆のポジションにいる未来人。
何て皮肉だ。朝比奈さんは無知で苦しみ、長門は知りすぎる自分に苦しんでいた。
俺は長門の部屋があるあたりを見上げた。
「そうですね……」
朝比奈さんの考えは正しいのかもしれない。何と言っても今までの知り合いを思い起こしてみると圧(倒(的に勘(の鋭(いのは女性陣(のほうだった。ハルヒと鶴屋さんは少々鋭すぎるが。
長門には長門のよさがあって、それで充(分(なのだが、本人の自覚がない場合は難しい。こんこんと言い聞かせるのも白々しいしな。
可能性として朝比奈さんが気を回しすぎているってこともある。長門はどうでもいいのかもしれん。たまたま読む本がなくて朝比奈さんを漫(然(と見ているだけのほうがありそうだ。しかし朝比奈さんがそんなに気になるのなら、無理にとは俺も言わない。
「わっかりました。長門には俺から言っておきますよ。今晩の宿については後で考えましょう」
最終的には俺んちでもいいが、他(にあてがないわけでもなかった。
「それより見て欲しいもんがあるんですよ。新しい手紙が下(駄(箱(に入ってましてね」
俺が差し出した手紙を、朝比奈さんはテスト直前にアンチョコを見るように読んでいたが、
「あ、これ……」
指令文章の最後を指差した。
「命令コードです。最優先の」
あの記号ともサインともつかぬ一行だ。てことはこれは未来の言語か。
「いいえ、言葉じゃなくて……その、コードです。あたしたちの使っている特(殊(な強制効果のあるやつ。この指令は何があっても遂(行(されねばならないっていう」
「こんなことをですか?」
俺は文面を思い出して言った。
「このイタズラに何の意味があるんです」
「それは……」
朝比奈さんも困(惑(顔で首を傾(げた。
「あたしには、ぜんぜん……」
「もし、これを無視して何もしなければどうなります?」
「無視することはできません」
きっぱり、朝比奈さんは言い切った。
「そのコードを見た以上、あたしはそうなるように行動しないといけません」
そして俺に不安そうな目を向けて、
「それに、キョンくんならちゃんとしてくれるでしょう?」
俺たちは手紙の指示の通りの場所にやって来た。移動手段は自転車であり、朝比奈さんを荷台に乗せての二人乗りだったのは言うまでもない。ともかく、その場所は市内でも自転車で行ける距(離(にあった。
適当にブラブラして時間を潰(し、腕(時(計(が記す時刻は午後六時十分を過ぎたところだ。予定では十二分から十五分の三分間に今俺が手に持っているものを設置することになっている。
うら寂(しいのはとうに陽(が落ちているからだけではない。そこは住宅地からはやや離(れたところにある、人通りもまばらな道だった。その道からさらに脇(道(が派生して、そっちは舗(装(されていない。私道ではなさそうだが、どこかへの早道にでもなっていなければわざわざ足を踏(み入れそうにない風情(である。手書き地図の×印はその道が市道と交わるギリギリ、アスファルトから数センチのあたりにつけてあった。
通行人がほとんどないのは幸いだ。これから俺がすることはタチのよくない行(為(も同然というか、ハッキリ言ってイタズラなので。
用意するものはカナヅチ、釘(、空(き缶(の三つだけ。何をするのか、だいたいの予想はつくだろ?
「そろそろやりますか」と俺は言った。
「そうですね」うなずく朝比奈さん。
電信柱の陰(に隠(れていた俺は、ささっと目標地点に駆(けよると、カナヅチで釘を地面に打ち付け始めた。けっこう硬(い。釘を半ばまでめり込ませるには力強くひっぱたく必要があったが、さりとて大きな音を立てるのもマズく、歩行者に目(撃(されたりすんのはもっとマズい。
急ぎの作業は三十秒もかからなかったと思う。
俺は地面に突(き立った釘に空き缶をかぶせて、朝比奈さんの待つ電柱へと帰(還(した。それからもう少し離れた暗がりに身を潜(める。
さて、何がどうなるのか。この仕(掛(けがどんな作用をもたらすのか、じっくり観察させてもらおうと思ったわけだ。
さほど待つこともなかった。時刻は午後六時十四分。
俺の隠れている道の反対側から、男性とおぼしき影(が緩(い歩調で歩いてくる。ロングコートを着てショルダーバッグを提(げている姿が見て取れた。俺たちに気づいている様子はない。
男性は下を向いて歩いている感じで、あまり元気のあるようには思えない。その歩調がピタリと止まった。顔の向きは地面に落ちている空き缶の方角と一(致(している。
「はぁ……」
溜(息(が聞こえた。ポイ捨てに心を痛める善良な人間かと思ってたら、つかつかとジュース缶に近寄った男性は、思いきりのいいフォームで足を振(りかぶり、止める間もなくトゥーキックを放った。
むろん、空き缶はどこのゴールネットにも突き刺(さることはなく、それどころかその場を一歩も動いたりはせず──。
「げっ!? ぐあああっ!」
男の影が足を押さえて倒(れ込んだだけである。
「何だこりゃあっ、痛(えってててっ!」
まさに七(転(八(倒(、断(末(魔(のごとき痛がりようだった。
「くそっ、誰(だ、こんなもんを……いっ、たたたた」
俺と朝比奈さんは顔を見合わせた。
仕掛けの目的はこれですか?
さあ……?
目線で語り合ってから、俺たちは同時にうなずき、暗がりから出た。さも通りがかっただけだという線で行こう。
「だいじょうぶですか?」
爪(先(を両手で抱(えて仰(向(けになっている男に、朝比奈さんが声をかけた。俺はさり気なく朝比奈さんの横に並び、呻(き続ける男を見下ろす。
「ああ?」
歪(めた顔は全然見知らぬ、二十代半ばの細身の男である。ロングコートの下はスーツにネクタイ姿で、普(通(のサラリーマンふうだ。
「手を貸しましょうか」
と俺は言った。良心を高速連打されながら。
「うう……頼(む。ありがとう」
男性は俺の手をつかんでようやく立ち上がり、顔をしかめて片足を上げた。
「くそぉ、誰だ、こんな幼(稚(なイタズラをしたのは……」
「ヒドイっすね」
俺は地面にしゃがみ込むと空き缶を持ち上げた。見事にへこんでいる。固定していた釘も斜(めに傾(いでいた。よほど強(烈(なシュートを決めたかったものと見える。
「危ないな」
もっともらしいことをコメントしながら釘を引き抜(く。男性の蹴(りのおかげで割合簡単に抜くことができた。証(拠(隠(滅(のためにもポケットに収めておこう。
男性は片足を上げたり下ろしたりしていたが、その度(に顔を歪めて諦(めたように舌を打った。
「まいったな。折れてはなさそうだが……。足首をひねったか?」
「あの、」と朝比奈さん。「病院に行ったほうが……」
「そうしたほうがよさそうだ」
男性はケンケンで飛び跳(ねながら、車の行き交(う市道へと向かいかけて危なっかしくよろめいた。
「肩(を貸しますよ」
俺は男性が転(けないように寄り添(いながら、
「救急車を呼びます?」
「ああ、それはいい。タクシーで行くことにするさ。大げさにするのも何だしな。すまないがキミ、通りまでこうしていていい?」
「ええ、かまいませんが」
何と言っても俺のせいなのだ。本当は謝りたいくらいだよ。
俺の肩に捉(まってひょこひょこ歩くその男性は、街灯の明かりの下で見るとなかなかの男前だった。
「仕事がちょっと行き詰(まってて」
道の途(中(で彼はイイワケじみたことを言った。
「クサクサした気分を晴らそうと缶(を蹴ったのが悪かった。自(業(自得さ」
「いやぁ、あんなもんを置いておいたヤツが一番悪いと思いますよ」
「それもそうだ。一体どんな悪ガキだ。今時あんなことをするなんて」
その彼は俺と、ちょこちょことついてくる朝比奈さんを比べるように見て、ふっと微笑(みを漏(らした。
「あの娘(、キミの彼女か?」
返答に詰(まること約二秒、
「ええ、まあ」
ここは噓(でもそう言っておこう。
「そうか」
男性は簡単に納(得(したようで、痛みをこらえる顔に戻(った。
交差点に出た俺たちはタイミングよく通りがかった空席タクシーを手を振って止め、この寒いのに脂(汗(を垂らす男性を後席に押し込むところまで手伝った。
「ありがとう、キミたち。悪かった」
いえいえ、どちらかと言えば俺のほうが悪い。ちなみにこの朝比奈さんは無実なので、もし真相をどっかで知ったとしてもお礼参りは何年後かの彼女のほうへ頼みますよ……と胸中で頭を下げているうちにタクシーは走り去り、残された俺は朝比奈さんに尋(ねてみた。
「これでよかったんでしょうか」
「うーん……」
朝比奈さんは心(許(なく吐(息(を漏らし、自分の身体(を抱(いた。
午後六時半になっていた。
俺たちに課せられた重大な制約がある。
それは、俺とこの朝比奈さんが一(緒(にいるところをもう一人の朝比奈さんとハルヒに見られてはいけない、ということだ。ハルヒならまだイイワケのしがいもあるが、朝比奈さん(現在の彼女だ)がもう一人の自分を見て単なるそっくりさんだと納得するほど頭の回らない人だとは思いがたい。集団下校している現在のSOS団メンツと鉢(合(わせしてしまったりしたら、これはもう最悪の事態と言える。
ただ朝比奈さん(八日後のほう)によれば、彼女はこの期間に自分のドッペルゲンガーを見たことはないのだから、俺たちがそこらをほっつき歩いていても平気という理(屈(だが、どこで何が狂(うか解(らないし、ここで努力した結果が未来に反映されているとすると、俺はこの時間でがんばるべきで、タカをくくってはいられない…………ということなのか?
解らんな。どうしてこんなややこしいことになるんだ。せめて時間を移動してきたのが朝比奈さん(八日後)ではなく(大)のほうならスムーズにいくのだが。
俺はかたわらの小さい上級生を眺(めた。
北高のセーラー服姿が寒そうに身体を強(張(らせている。風の強い二月の夜に上着も羽織らずにじっとしているのはツライだろうな。同じく制服でこうしている俺も凍(えそうだ。
「行きますか」
俺は停(めていたママチャリのほうへ手を振(りながら言った。朝比奈さんはこっくりとうなずいて、
「……でも、どこにですか? キョンくんのところ?」
そうしたいのは山々だが、口止めを頼(む人間は少ないほうがよく、妹の口が孫を前にした婆(さんの財(布(の紐(よりもユルユルなのは兄としてようく解っている。
「長門以外にあなたを受け入れてくれそうな人んとこです。おそらくあの人なら何も訊(かずに泊(めてくれるでしょう」
不思議そうに見てくる朝比奈さんをうながして俺はチャリンコにまたがり、荷台にちょこんと横座りした軽い二年生を乗せて目的地へと走り出した。
俺が自転車を止めた場所はSOS団の人間なら誰(もが見覚えのあるところだ。
むろん、朝比奈さんにも。
「ここ……あの、まさか」
荷台から下りた朝比奈さんは、目を丸くしてその家の門を見上げていた。
俺はチャリのスタンドを立て、ついでに鍵(をかけてから、
「この人なら何とでもしてくれますよ。朝比奈さんの助けになってくれないなんてことはないっす」
「で、でも、秘密をばらすわけには──」
「その辺は俺にまかしといてください」
巨(大(で古風な門の横に、そこだけ近代的なインターホンがオブジェのように張り付いていた。これを押す前に最低限のことだけは示し合わせておくか。
「朝比奈さん、ちょっと耳を」
「はい」
素(直(に顔を傾(け、髪(を払(って形のいい耳を露(にする。ハルヒがガジガジ嚙(んでいたシーンを思い出し、俺もそうしたくなったが場をわきまえることを俺は知っていた。
「で、ですね。こういうふうにしようと思うんですが……」
こそこそと囁(く俺のセリフに朝比奈さんは目をパチパチさせ、
「えっ、でも、あたしそんな演技できそうにありませんよう」
泣きそうな声で訴(えかける。
「難しいです、それ……」
でしょうね。本気で演じようとするならば。
しかしその必要はないと俺は踏(んでいる。朝比奈さんはいつもの朝比奈さんをやってくれていればいいのである。きっと誰も気にしないでいてくれるだろうからな。
「とりあえず、そういうことにしておいてください。うまくいくと思いますよ」
俺は楽観的に微笑(みかけ、インターホンのボタンを押した。
「…………」「…………」
俺と朝比奈さんは黙(って応答を待つ。目当ての人が返答してくれる確率は低いだろうから、取り次ぎの言葉を頭で練る。口の中でリハーサルをやること三回、一分近く経(ってもリアクションがなく、まさか家中で留守にしてんのかと不(穏(な空気が漂(いだしたところで、
「ちょい、待つっさ!」
威(勢(のいい声が門の内側から直接響(き、続いてゴトンと音がした。さらにギコギコと軋(み声を上げながら木造の門が開き始め、
「やあ! こんな時間にどしたい? みくるにキョンくんっ。んーっ? ホントに二人だけなのかなっ。あれあれ、お安くないなあ! あやかりたいっ」
と、鶴屋さんが満面の笑(顔(で言った。
鶴屋さんの衣(装(は普(段(学校で見ているものとは一風変わっていた。
カジュアルな普(段(着(ふう和服を身にまとい、その上から厚い半(纏(を羽織っていて、長い髪は首の後ろで無造作にひっつめてある。古い日本家屋庭園にぴったりとはまり込む格好だった。
鶴屋家の敷地(内に俺たちを入れてくれた鶴屋さんは、持っていた角材みたいな閂(を閉めた門の内側に掛(け、
「んでも、ほんっと珍(しいねっ。キョンくんとみくるが寒中散歩大会かい? ハルにゃんは一(緒(じゃないのっ?」
「これには色々とワケがありましてね……。ところで鶴屋さん、俺たちが来たことがどうして解(ったんですか?」
インターホンは沈(黙(するばかりだったのだが。
「うん、門の上の方に防犯カメラがついてんだよ。お客さんが誰かなんて一発さ! で、見たらお二人さんだし、あたしが出たほうがいいと思ってさ。マズかったかい?」
鶴屋さんは下(駄(をカラコロと鳴らし、母(屋(の玄(関(まで長く続く神社の境(内(みたいな道を歩きながら、ひたすらな笑顔を向けてきた。
「うん? みくる? なにかな、元気がないみたいだけど」
「実はそのことなんですが」
俺は咳(払(いをして、準備していたセリフを言うことにした。
「お願いがあるんです。この朝比奈さんを、しばらく鶴屋さんの家に置いてあげてくれませんか」
「ふえっ? そりゃいいけどさ」
ふふーん、と鼻から通り抜(ける笑い声を漏(らし、鶴屋さんは朝比奈さんの顔を覗(き込んだ。
「うん、みくる……だよねえ」
びくりとする朝比奈さん。鶴屋さんの輝(かしい瞳(がキュッと細まった。気づかれたか?
「ま、いっや。何か事情があるんだね? みくるが自分ちに帰れないようなさっ」
話が早くて助かりますよ。
「いつまで置いときゃいいのかなぁ?」
「最長で八日ほど」と俺。
今日から数えて八日が経過したら元通り、朝比奈さんは一人に戻(る計算である。
「いいですか?」
「うん、かまわないよ。あっ、そだ。どうせだし離(れを使っていいよ。あの別(荘(にあったのと似たようなのがここにもあんのさ。今は誰(も住んでなくて、あたしがたまーに瞑(想(すんのに使ってる庵(だけどさっ。静かでいいところだっ」
俺はほとんど森と言ってもいいくらいの茂(みに囲まれる鶴屋家宅を見回した。やたら色々なものがありそうな広さである。そういや昔ながらの蔵(があるとも聞いたな。
俺が感心と呆(れと羨(望(の感覚を味わっていると、鶴屋さんが唇(に綺(麗(な半円を形作らせて朝比奈さんを見つめていた。
「にしても、みくる、どした? 変だなーっ。そんなビクってすることないのになぁっ。うん」
鶴屋さんはうつむく朝比奈さんの顎(を指でつっついて、
「みくるっぽくないなぁ」
凝(然(とした朝比奈さんが何か言う前に、俺は素(早(く割り込んだ。
「その人は、朝比奈さんの双(子(の妹で朝比奈みちるさんです」
「双子? 妹? みちるちゃん?」
「そう……なんですよ。生まれたとき以来、生き別れになってまして……」
「へえーっ?」
「何かこう、ややこしい事情があってですね、朝比奈さん……つまりみくるさんのほうは妹がいることを知らないんですよ、これが」
「はぁーっ。でも何でこのみちるちゃん、北高の制服着てんのさ」
「ああ、」
しまった。それ考えてなかった。
「何と言ったらいいのか……。ああ、そうです、そのみちるさんはですね、姉を一目見たさに北高に潜(り込もうとしたんですよ。それで制服をあるところから調達しまして、しかし結局果たせずに引き返し、たまたま俺と出くわし、たまたま俺が話を聞いて、えーと、そっからは……」
肩(を叩(かれた。
「いいよっ」
鶴屋さんは底(抜(けに楽しげな笑顔で、
「説明は言うのも聞くのもめんどいからねっ。その子がみくるの妹ってんならみくるも同然さっ。泊(めるだけでいいのかいっ?」
「それから朝比奈さんには彼女のことを内(緒(にしておいて欲しいんですが」
「モチのロンさっ。解(ってるよ」
「あのう……」
朝比奈さんが会話に取り残されることを恐(れるように、
「本当にいいんですか? つ、鶴屋さん」
「うん。めがっさいいよ。さ、みちる、こっちこっち、離れに案内するよっ」
鶴屋さんは朝比奈さんの手を取り、引きずらんばかりの勢いで日本庭園に足を運び、その直前、俺に向かって思わず心を射止められそうなウインクを放った。
離れは招待された雪山別荘にあったものとほとんど同じ造りをしていた。鶴屋さんの説明によると、この離れを元にして別荘のほうが建てられたそうで、ようはこちらがコピー元、本家のようだ。実に住み心(地(のよさそうな和室のワンフロアである。
畳(にちょんと正座した朝比奈さんは、まるで質素な庵に置かれたフランス人形のようだった。
鶴屋さんがヒーターをつけてくれたおかげで部屋の空気も暖まりだし、妙(に動きたくない気分になってきた。
鶴屋さんは床(の間(にディスプレイされている掛(け軸(の説明をしたり、布(団(の入っている押し入れの場所を教えてくれたりしていたが、やがて「あったかいお茶持ってくるねっ」と言って母(屋(に姿を消した。
「何とかなりそうですね」と俺は言った。
「うん、助かります。鶴屋さんにはいつかちゃんとお礼しなきゃ」
ここでは朝比奈みちるということになっている朝比奈さんは神妙に首(肯(して、
「みちるかあ。それも、いい名前ですね」
やっと微笑(みを見せてくれる。
俺は畳の上に足を伸(ばし、古めかしい電灯を眺(めた。そして朝比奈さんの名前について考えた。
湯飲みとポットと衣類を詰(めたカゴを抱(えた鶴屋さんが戻(ってくるまで。
鶴屋さんは俺をも晩(餐(に誘(ってくれたが、二日連続の外食はお袋(の機(嫌(を損(なう可能性があり、そんなわけで俺は帰宅する旨(を告げた。朝比奈さんの居場所が落ち着いたせいで気が抜(けている。このままダラダラとしてたら今夜こそ外(泊(を決意してしまいそうでもあった。
朝比奈さんを離(れに残し、外に出た俺を鶴屋さんがお見送りと称(して追ってきて、こう言った。
「あれ、みくるのようでみくるじゃないね。っていうか、みくるじゃないようでみくるって感じかな? そうだね、今日学校で会ったみくるそのままじゃあないんだね?」
双(子(だと説明したはずっすよ、先(輩(。
「あっはは。そうだね。そうしとこうか」
俺から一歩半ほど前に出て、鶴屋さんはデカい門へと歩いていく。
揺(れるひっつめ髪(の後ろ姿を見ているうちに、どうしても訊(きたく思った。
「鶴屋さん」
「なんだい?」
「あなたはどこまで知ってるんです? 朝比奈さんや長門──SOS団の連中がどこか普(通(じゃないって、あなたは言ってましたよね」
「まーねー」
ぴょんと小さく跳(ねて、髪の長い上級生はくるっと振(り返った。口全体で笑う笑(顔(は星明かりだけでも充(分(に明るい。
「キョンくん、よくは知らないよっ。まぁなーんか違(うよねーってことくらいさっ。すっくなくともあたしとかキョンくんとか、普通に普通の人たちじゃあないないばーだよね」
そんだけ解ってりゃ充分だ。なのに、鶴屋さんは余計なことを訊いてきたことはないし、朝比奈さんが何者かなんてことを調べようともしていない。
「どうしてです?」
鶴屋さんは半(纏(の袖(に手首を引っ込めて、かはは、と笑った。
「あたしはねっ、楽しそうにしてる人を見ているだけで楽しいのさっ。自分の作ったご飯を美味(しそうにぱくぱく食べてくれてる人とかさ、幸せそうにしている全然知らない人とかを眺めるのがあたしは好きなんだっ。うん、だからあたしはハルにゃんを見てるととっても幸せな気分になるよっ。だって、なんだか解んないけど、ものごっつい楽しそうじゃん!」
そこに混ざろうとは思わないんですか。見てるだけじゃ寂(しくなんないですか?
「うーん、あたしはさ、映画とか観(てすっげー面(白(いっとかよく思うけど、だからって映画作ろうとは思わないんだよね。観てるだけで充分なのさっ。ワールドシリーズやスーパーボウルだって観戦するのはとても気分よく応(援(できっけど、うわーっあたしもアレやりたいっ! とか言って混じってプレイしようとは思わないんだよ。あの人たちはものげっついがんばってあっこにいるんだなぁって、そんだけで気持ちいいんだ。だいたいあたしには向いてないっさ! だったらあたしは自分にできる別のことをするよ!」
ある意味でハルヒとは対極の思想だな。あいつは面白そうなものには例外なく首を突(っ込み、何が何でも自分でやっちまおうとする奴(だから。
鶴屋さんは大きな目をくるくると動かしながら、
「それと同じっ。あたしはみくるもハルにゃんも有希っこも古泉くんもキョンくんも見てて面白いのさ! みんながなんかやってるのを眺めてるのが好き! そいでから、そんなみんなを横で見ている自分も好きなのさ!」
何のてらいもない笑顔と声だった。この人は本心から出る言葉を発している。そばにいるだけで何だか俺まで楽しくなってくるような空気がにじみ出ていた。
「だからあたしは自分の立場が気に入ってるのだっ。きっとハルにゃんも解(ってんだと思うよ。あたしを強(引(に引っ張り込もうとしないもんね。全部で五人、その数がいっちゃんまとまってるっさ」
またぴょんと跳ねて、鶴屋さんは門へ向き直った。長い髪がたなびく。
「この世のすべてのことを考えて答えを出すのはムリムリっ。あたしは自分で手一(杯(、だからさっ?」
首をねじって俺に流し目を送り、
「キョンくん、がんばるにょろよ。人類の未来はキミの肩(にかかってんだからねっ!」
そう言って鶴屋さんは口元をぴくぴくさせつつ、しばらく俺の顔を見つめていたが、やがて耐(えきれなくなったようにケラケラと笑い出した。邪(気(の欠片(もない子供のような笑い声に、俺はこの愉(快(な先輩の言葉を冗(談(のように感じていた。
ひーひーとお腹(を押さえて目(尻(をぬぐった鶴屋さんは、
「ま、みくるだけはちゃんとフォローしてやってよね! でも、おいたをしちゃダメにょろよ。そんだけは禁止さ! おいたならハルにゃんにやっちゃえばいいっさ! 勘(だけど、うん、許してくれると思うよ!」
きっとこのセリフだけは本気だったのだろう。なぜだか解らないが、そんな気分になった。別に本当に何かをしたいわけではなかったけどな。
鶴屋さんにグッドナイトと告げて自転車を走らせ始めた俺だったが、しばらくもしないうちにブレーキをかける仕(儀(とあいなった。
「今晩は」
道の暗がりに一人の野(郎(が出てきて俺の行く手を遮(ったからである。
「あなたもご苦労なことです。僕としましては、鶴屋さんを巻き込むことはあまり賛成できませんね。安全と言えばこれほど安全な場所がないのも確かですが」
二日ぶりに見る無難な笑(み、それは古泉一樹の爽(やかハンサムスマイルだ。
「よ、奇(遇(だな」
「そうとも言えます。思えば僕とあなたの最初の接(触(から奇遇は始まっていると言えるでしょう。いや、あなたと涼宮さんのほうがスタート地点としてもっと早いですね」
古泉は挨(拶(するように手を挙げながら近寄ってきた。お前、ずっと夜道の隙(間(に隠(れて待っていたのか。変質者と間(違(われて通報されても文句言えんぞ。
ふっ、と古泉は軽く微(笑(を飛ばし、
「面白いことをしているようですが、僕はまたハズレクジですか?」
俺は溜(息(を選(択(し、息を白くするに任せた。
「これは俺と朝比奈さんの問題だ。お前の出番はない。おとなしく《神人》とやらを狩(っていればいいだろ」
「それも最近はご無(沙(汰(ですからね。こうして散歩などをしたくもなるというものです」
真冬の夜に犬も連れずに散歩しているのは、アイデアに詰(まったクリエイターくらいのもんだろうよ。それにしたって偶(然(じゃねえよな、お前がここにいるのはよ。
「これが偶然ならば、あまりにできすぎていると言わざるを得ませんね」
「何の用だ」
と訊(いてから、質問内容を変(更(する。
「いや、用ならなんとなく解る。お前はどこまで知ってんだ?」
「朝比奈さんが二人いるというところくらいですか」
古泉はしれっと重要な事実をコメントし、
「それで、鶴屋さんにはどう説明したのですか? 双(子(でしょうか。まさか本当のことを言ったわけではありませんよね」
「どっちでもよさそうだったぜ」
「でしょうね。あの鶴屋さんのことですから」
当たり前のように言ってくれるじゃないか。いったい鶴屋さんとはどういう人なんだ。全部解っているようで、俺たちから微(妙(な距(離(を保っている、あの明るい先(輩(女子は。
「上の方からのお達しで、鶴屋さんには手を出すな、と言われています」
古泉は若(干(真(面(目(な形に唇(を修正して、
「彼女はギリギリ無関係です。本来僕たちと交差することもなかったはずですが、何かの手違いで少し触(れあってしまったのですよ。さすがは涼宮さん、といったところでしょうか」
どこからが手違いだ。朝比奈さんのクラスに鶴屋さんがいたことか。それとも草野球の助(っ人(してやってきたあたりか。
「僕たちは彼女に干(渉(しない。その代わり、彼女も僕たちに必要以上の関(わりを持たない。それが『機関』と鶴屋家の間で取り交(わされたルールです」
途(方(もない裏話をそんなあっさりと言うなよな。
くく、と古泉は喉(の奥で笑い、
「もっと言えば、鶴屋家は『機関』の間接的なスポンサー筋の一つに数えられます。ただし我々のことなどどうでもいいのか、やることなすことすべてに無関心を貫(き通していますけどね。かえって助かりますからいいんですが、鶴屋さんはその鶴屋家の次代当主になる方ですよ」
鶴屋さん、あなた……。今まで俺たちはとんでもない人と親しげに口をきいていたようだ。心の底から知りたい。何者なんだ?
「ただの女子高生ですよ。僕たちと同じ県立校に通う、大きな家に住む高校二年生です。もしかしたら、僕たちの知らないところで邪(悪(な存在と戦っているとか、難解な事件を解決しているといったことがあるのかもしれませんが、我々には関係のないことです」
ついさっき鶴屋さんから聞いたばかりの話はまだ記(憶(鮮(明(だった。彼女は俺たちと深く交わらないことで愉(快(な気分を感じていると言った。俺たちもそうなのだろう。鶴屋さんは今まで通りの鶴屋さんとして接しているほうがいいに違(いない。彼女が何者で、何をしているのかなんてたいしたことじゃなかった。ハルヒがハルヒであるように、鶴屋さんは鶴屋さんだ。いつも元気でにこやかで鋭(い洞(察(力(を持つ朝比奈さんの友達。SOS団の名(誉(顧(問(。そのあたりが一番おさまりがいいんだろうな。
しかし朝比奈さんとの出会いはどこまで偶然だったんだ。未来人にも読めない過去があったのか? ハルヒが何だか解(らないものだったように……。
と、それで思い出したぜ。
「古泉、おまえはこの前、朝比奈さんなどどうにでもできると言ったな。ありゃ、どういうことだ」
「未来は変えることができるからです」
まるで俺の質問を予期していたように、
「あなたは未来人が過去を自在に干渉できると考えて、過去に対する未来の優位性を確信しているのかもしれませんが、未来など実にあやふやなものなんですよ」
過去の歴史を学んだ上で時間遡(行(したら、都合よく改変することだってできるだろう。実際に俺はそうしたんだ。おかしくなった世界と長門を元に戻(しに行ったんだから。
古泉は微笑(む。
「それを過去からしてもよかったのです。もし未来をあらかじめ知ることができたなら、その時点で未来を変えることだってできるでしょう」
「未来をどうやって知るんだよ。できっこないだろうが」
「本当にそう思いますか?」
古泉の笑(みが少しばかり偽(悪(的に見えるようになってきた。本人がわざとそうしているんだろう。時々こいつは無意味に悪(趣(味(になる。
「僕は超(能(力(者(ということになっています。いささか地域と能力を限定されていますけどね。でも、他(にもいないと言い切れますか? 僕みたいな対《神人》専用ではなく、もっと解りやすい超能力者がいないと、たとえば予知能力を持つような人間はどこにもいないと、そしてそんな人間が我々『機関』の一員にいないと、あなたはどうして断言できるのでしょう?」
軽(やかな笑みに戻り、
「僕はそんなものがいない、と一言も言った覚えはありませんよ」
てめえ。
「もちろん、あるとも言ったことはありませんね」
どっちなんだよ。こればかりはどっちでもいいとは言えんぞ。
「正直言って僕にも解りません。言ったでしょう、僕は末(端(の人間なんです。すべてを知っているわけではありません。それは朝比奈さんもそうでしょう」
そこは納(得(だ。朝比奈さんほど気の毒な立場のエージェントはいない。
「彼女が知らされていないのはゆえあってのことですよ。なぜなら、未来人が明確な意図を持って動いていることが解ったとしたら、後はその動きを分(析(すればいいんです。彼女が自分の未来にとって不都合な行動を意図的にするわけはありませんからね。朝比奈さんが未来人の割にうかつに見えるのは、ほとんど何も知らないからです。あえて知らされていないとしか思えません。それは過去人である我々が分析できないようにする、未来からの対(抗(措(置(ですよ。彼女の存在は今のこの時空に必要ですが、彼女の存在から未来を推測されるのは困るというわけです。その意味で彼女は完(璧(な時間駐(在(員(と言えます。現に僕は彼女に脅(威(を感じないし、いざというときにはこちらの手(駒(として動かせるようにも思っています」
古泉は肩(をすくめる得意のポージング。
「おそらくそれが未来側の狙(いです。過去の人間にはそう思わせておけ、という思(惑(なんでしょう。だから『機関』もうかうかと手を出せない。手を出した結果、まさに未来の狙い通り、となってしまえばシャクに障(りますからね。未来の操(り人形になるのはごめんですよ」
じゃあ何か、お前らは朝比奈さんたちと対立してるのか。
「敵対とまではいきませんが。一言でまとめると、小康状態でしょうね」
身体(が冷えてきた。物理的に。
「たとえ話をしましょう。ここにAという国とBという国があります。どちらかと言えば互(いを目障りに感じていますが、直接矛(を交えたことはありません。そこにAに敵対する勢力Cと、Bに敵対する勢力Dが登場します。AにとってCは共存不可能な相手であり、直接的な敵です。BにとってのDも同じです。そのCとDが同盟を結び、協力関係になってしまいました。一つだけならまだしも、二つを相手するとなると自軍の勢力では心(許(ない限りです。そこで敵の敵は使いようによっては味方、という古くからの言い伝えが登場し、AとBはしぶしぶながら砂上の楼(閣(のような共(闘(を図(ることになったと、そういったことでしょうか」
古泉は俺の顔を不(審(そうに見ながら、
「聞いてますか?」
「ああ、すまん」
と、俺はサドルに足をかけて、
「Dとやらが出てきたあたりで耳に入らなくなってた。俺が覚えられるのは三つまでで、あとは、たくさんで充(分(だ」
「耳には届いているはずですよ。聞く聞かないは脳が選(択(し、処理する仕事の範(疇(です」
真(面(目(に返すな。俺はボケてんだよ。たまには漫(才(でもしてみたらどうだ。笑いのセンスを磨(かねえといくら顔が良くてもモテねえぞ。
古泉はニヤリと笑った。お前は何種類の笑顔を持ってんだ。
「僕だって時と状(況(と相手に応じてセリフや表情を変化させますよ。ただ、あなた相手だとね、どうしてもこのような会話になってしまうと言いますか」
難(儀(なヤツだな。
「自分でもそう思いますが、しばらくはこんな調子ですね」
なぜか遠い目をした古泉は、
「いつかそのうち、完全に対等な友人となったあなたと昔話を笑い話として語る日が来て欲しいものです。任務や役割など関係のない、ただの一人間としてね」
そう言って満足したか、
「では、また部室で」
敬礼じみた挙手をして俺に背を向けると、さも散歩の続きというような歩き方でのんびりと闇(の中に消えた。
家に戻(った俺は大急ぎで晩飯を喰(って自分の部屋に引っ込んだ。
まずしたことは長門への電話連(絡(である。朝比奈さんを鶴屋さんの家に移動させたことを告げなくてはならない。長門のことだからひょっとしたらもう知ってるかもしれん。古泉に気づかれているくらいだからな。
スリーコールで長門は電話に出た。かけてきたのが誰(かを知っている証(拠(に、もしもし一つ言わない。
『…………』
「長門、俺だ。手短に話す。朝比奈さんのことなんだが」
朝比奈さんが語ったことを要所を押さえて話してやる。長門はひたすら『…………』と俺の説明を聞いていたが、
『わかった』
未練もなさそうに淡(々(と言い、さらにこう付け加えた。
『それでいいと思う』
「そうか。安心したよ」
『なぜ?』
なぜってお前。俺は長門が残念がりやしないかと危(惧(していたんだよ。一方的に頼(っていったのはこっちなのに、また一方的に出て行くってのは身勝手すぎるしさ。
『杞(憂(』
長門は落ち着いた声で言った。
『彼女の意見は理解できる』
やや間があって、
『わたしは彼女のようになりたいとは思わない。でも、彼女がそう思う心情は妥(当(』
どう妥当なんだ?
『わたしが彼女の立場ならば、同じことを想起したと思うから』
ええと、朝比奈さんが長門に対して心配するようなことを、長門は朝比奈さんの立場になって想像できるということか?
しばらく沈(黙(が続いた。やがて、
『だと、思う』
細い声が耳に届いた。録音機能を作動させておきゃよかったと思うくらいの、心地(よさを与(える響(きだ。
その後、二言三言の会話があって俺は電話を置いた。どうやら俺が心配するまでもなく宇宙人と未来人は互(いをくみ取れるようになっているらしい。おそらく二人が自分で思っている以上にだ。
なぜかニヤケながら横に視線をやる。シャミセンがベッドの上で眠(っている。まるで人間みたいに俺の枕(に頭を載(せ、スピスピと寝(息(を立てていた。万一ハルヒがやって来たときに備えてところどころ毛を刈(ってやろうかと考えていると、別のことに思い当たった。
「シャミセンの療(養(を口実にできるのはいつまでだ?」
訊(くのを忘れていた。あの朝比奈さんは俺がいつ部活を欠席して、いつ出てくるようになったのかを知っているはずだ。それが解(れば今週の俺のスケジュールをある程度つかむ指針になる。しかし一週間後からやってきた彼女は手ぶらで携(帯(を持っていない。電話するなら鶴屋さんのところだが、古泉のあんな話を聞いたせいか、今連絡するのは何となく気が引ける。どこまで本音を語っているのかは知らん。あいつのことだからまた適当なことをもっともらしく言って俺の顔色をうかがっているだけかもしれない。まあ、そっちのほうがいいとも言える。
俺はリモコンでエアコンを狙(いながらベッドにもたれ掛(かった。
明日、下(駄(箱(の中身を見てから、その日の行動予定を決めるとしよう。
目をつむったままむにゃむにゃと口を動かす三(毛(猫(を眺(め、そうしているうちにうっかり寝入ってしまい、風(呂(から上がってきたばかりの妹に叩(き起こされることになった。