第二章

 次の日、登校した俺を待っていた最初の物体は、ばこの中のふうとうだった。

「やっぱりか」

 だれにももくげきされないようにばやくブレザーのポケットにねじ込み、俺は急いでくつえるとトイレに急いだ。秘密の手紙を開けるのはトイレの個室というのがお約束だ。

 封を開け、折りたたまれたへんを取り出す。二枚あった。

 一枚目にはまぎれもなく彼女の字で、そこにはこう書いてある。


『○○町××番─△△号にある交差点を南に進むと、近くにそうされていない裏道があります。今日、午後六時十二分から十五分までの間、その裏道と市道が交差する地点に図の通りのものを置いてください。

 P.S.必ず、朝比奈みくるとともに』


 俺に読めたのはそこまでだ。文章の最後に見たこともない記号のれつが署名みたいに書いてあったのだが、これが何を意味するものかはわからない。ひょっとしてサインだろうかと思いつつ、しかし文面も意味不明なものにはちがいなく、俺は首をひねった。

「何の指令だ? これは」

 そして俺の首は二枚目を見たたんにもっとねじれることになった。

「何だこりゃ?」

 おそろしく不可解なものが図解されていた。簡略化されたお世辞にも上手とは言えない手書き地図と、どうやら地点を表す×印までは理解できる。ただし、その×印に置けと言っている物体の絵と説明は、じようだんでなければ完全なイタズラだとしか思えないものだった。

「意味が解らないぞ、朝比奈さん」

 今日の午後六時十二分から三分以内にそれをそこにけろって?

 こんなことをして何になるんだ?

 文面を暗記するまで読み返し、俺は手紙を封筒に戻してかばんの奥底へとしまった。万が一にもハルヒに見つかってはならん。こればっかりは俺にもイイワケのタネが見つからないからな。

 俺はトイレから出ると、考え込みながら階段を上った。

 だが、これで少しは見えてきた。朝比奈さんが八日後から送り込まれてきたのはこのためなんだろう。この時間帯で何かをやる必要があったためで、それは今、学校にいるほうの朝比奈さんではダメだったということなのだ。でもどうしてダメなんだ?

 果てしなき疑問とかくとうしつつ教室に辿たどり着いた俺をむかえたのは、例によって変におとなしいハルヒの顔だった。

 ハルヒはちらっと俺を見上げ、

「シャミセンの具合はどう?」

「あー」

 そう言えばそうだったな。

「まあまあだ」

「あっそう」

 冷えたに座った俺は、さり気なくハルヒの横顔をうかがった。

 何も気づいてはなさそうだ。つまらなそうにほおづえをついて、どことなく心ここにあらずっぽくくちびるを結んではいるものの、最近はしばらくこんな調子である。何を考えているのかは知らないが、俺は俺で深く考えているヒマはなかった。

「なあ、ハルヒ」

「なによ」

「実はそのシャミセンなんだが、今日も医者に連れて行く必要があるんだ。しばらく通院させなきゃならんとかでさ。だから、今日も部室のほうには行けそうにない。すまないんだが……」

 てっきり目をいてにらまれるかと思いきや、

「いいわよ、別に」

 何と、あっさり許可してくれるとは。そんなにシャミセンのことが心配なのか。

「なんて顔すんのよ」

 ハルヒはたまげた様子の俺を見てぶたゆるめた。

「無断でサボるのはダメだけど、ちゃんとした理由があるんなら、あたしだって物の解っている団長だからうるさいことは言わないわ」

 物が解っていてうるさいことの言わないハルヒなんぞ今まで見たことがあったかなとおくをひっくり返し、ひょっとしてこれが初の体験ではないかと考えていると、

「そのうちおいに行ってあげるから、シャミセンには元気出すように言っておいてよね。でもシャミセンがねえ、あんたの妹、ねこでもいやがるような猫っかわいがり方をしてんのね」

 どうでもよさそうに言って手首の上に載せたあごをちょっとらした。ものげにだまり込むハルヒがあまり自然ではないのは確かだが、今回はありがたい。俺には朝比奈問題という宿題ができちまっているからな。

 まあ、だが何だろうこの気分。後ろの席のヤツが黙って窓の外を見ているだけで変ななつかしさとしんせんさを同時に感じてしまうってのもどうなんだろう。起きている時間の半分でいいから、こんなハルヒでいてくれたらねえ。

「おはよう!」

 れいがなり終えないうちに担任岡部がさつそうと入ってきた。

 解ってるさ。

 ハルヒのゆううつは長くは続かない。気づいてみれば未来人から聞いた初めての具体的予言だな。朝比奈さんの話によれば、これからこいつは宝探しに俺たちを巻き込み、またぞろあちらこちらと連れ歩くことになっている。起きている時間のもう半分はそんなハルヒでいい。

 良くも悪くも、それで安心するようになってる俺がいた。



 昼休み、俺は大急ぎで弁当をかき込むと部室に向かった。

 教室にいないってことはここにいるだろうと思った通り、長門は長テーブルの指定席で読書にはげんでいた。

「長門、朝比奈さんはどうだった?」

 俺が連れて行った手前、気にしておいたほうがいいと思ったのである。

「…………」

 長門は落としていた視線の先を俺へと固定し、質問の意味をはかるようにちんもくしてから、

「どう、とは?」

めいわくじゃないよな」

「ない」

 そいつはよかった。俺は長門と朝比奈さんがパジャマパーティをしている姿を想像する。心が豊かになる思いだ。

「でも」

 長門はへいたんな声で、

「わたしといると落ち着かないらしい」

 みがきたてのこうのような目が、またハードカバーに落とされた。

 俺は黙り込んだ長門を見つめ、白い顔に何か表情がいていないかと探し求めた。残念そうにしてないかとか、さびしげであったりしていたら──、と思ったのだが、無表情な長門からはどんな感情もすくい取ることができなかった。

 朝比奈さんの落ち着かなさはわかる。というか、たいていの人間は長門と二人きりで密室に閉じこめられたら落ち着きをなくすだろう。俺やハルヒや古泉以外の人間ならだいたいそうだろうし、まあ鶴屋さんはだいじょうぶだろうが、いやいや問題はそんなことではない。

 朝比奈さんのビクつきを長門が理解して、その態度をこうして述べたというところに何かのちがいがあるんじゃないか。

「俺も朝比奈さんも、お前には世話になりっぱなしだからな。気をつかうんだよ」

「おたがさま

 長門は目を上げずに、

「わたしも力を借りた」

 だが、一番何かしてくれているのは長門だろ。俺は何度もお前に命を救われたし、たいていの事件でたよりになってくれたのもそうなんだ。朝比奈さんや古泉が役立たずとは言わないが、お前がいなけりゃどうにもならなかったことのほうが多いぜ。

「わたしが原因のこともあった」

 ありゃ仕方のなかったことだ。だれが悪いってんなら俺と情報統合思念体とやらに責任を押しつければいい。お前一人が背負い込むことじゃないんだ。あの事件のおかげで俺はようやくこの現実をまるごとひっくるめて飲み込むことができたんだからな。ポニーテールのハルヒも見れた。俺が何か変わることができたとしたら、あの経験が大きくものを言っている。

「そう」

 つぶやくように言って長門はページをめくった。らしがひゅうといて部室の窓ガラスをしんどうさせる。俺は電気ストーブのスイッチを入れながら、

「お前の親玉はどうしてるんだ? ちゃんと急進派を押さえ込めているんだろうな」

「情報統合思念体の意思統一は不完全。でも今は主流派がメイン」

 なるほど、意識生命宇宙人にもばつとうそうがあるんだな。

「お前は主流派に属してんのか」

「そう」

 朝倉は急進派のせんぺいだった。待てよ、二つだけか? ほかにもあるのか、ナントカ派ってのが。

「わたしの知りる限り、おんけん派、革新派、せつちゆう派、さく派が存在する」

 それぞれ違うわけだ。朝倉は俺を殺してハルヒをげきするなんてハタ迷惑なことを思いつき、長門はそんな朝倉をしようめつさせた。上の方ではまだガチャガチャやってそうだな。

 俺が天空での神々のどつき合いを視覚化していると、

「他派の思惑はわたしには伝えられない」

 長門はゆっくり首をもたげて本から視線をはなした。

「でも、わたしはここにいる」

 ふくのない声が、この上なくたのもしくひびいた。

「誰の好きにもさせない」



 部室からもどちゆう、おなじみの二人組とすれ違った。

「やっ、キョンくん!」

 鶴屋さんがバタバタと手をっている。その横にいるお方が、

「あの、ねこさんはだいじょうぶですか?」

 心配そうに声をかけてきた。

「病院に行ったって聞きましたけど」

 朝比奈さんだ。この時間にいる、つうの朝比奈さん。まだ自分があらためて時間こうするとはまるで知っていない。

「お薬は飲んでます?」

 ああ、そうか。ハルヒは部室から電話してきて、そこには朝比奈さんもいただろうからやりとりは知っているわけだ。

「そんなにヒドくはないんですが、養生の必要はありそうですね」

 俺は混乱しそうな頭を軽く振った。二人の朝比奈さんは外見上の違いが当然ながらまったくない。気をいたら長門の部屋にいるはずの彼女が学校までやってきた、なんてさつかくおちいりそうになるし、そうなっていたとしても俺には気づけないだろう。朝比奈さんが言わない限り。

「シャミがストレス性だつもうしようなんて信じらんないよっ」

 鶴屋さんががおで、

「でも変な病気になるよりそっちのほうがまだいいかなっ。きっと運動不足だよっ。キョンくんの家にはネズミもいないよね! うっとこの庭にはたまに出るのさ野ネズミが! いっぺん連れてきたらどうだいっ? いい気晴らしになると思うよっ」

「様子見て治らなければそうしますよ」

 寒い季節だ、あまり出歩こうとはしないだろうが、春になればシャミセンも喜ぶだろう。桜でもいていれば、どうせハルヒが花見だなんだと言ってガーデンパーティをもよおす気もする。

「キョンくん、今日は部室には来るんですか?」

 朝比奈さんが心細げにいてきて、俺は今日の自分の予定をあっちの朝比奈さんにたずねておけばよかったと思いながら、

「ちょっと今日もシャミセン連れて動物病院ですね。ハルヒにはもう言いましたが」

「そうなの?」

 心からシャミセンを案じているように、

「早くよくなるといいなぁ」

 やや心苦しいが、俺は深刻そうな顔を作ってうなずいた。

「そのうちでにきてやってください。そうすりゃ治るんじゃないかな。あいつもオスですからね」

 こうばい部のジュースを買いに行くという二人と別れ、俺は一年五組に戻った。だんぼう器具のない教室は、さっきまでいた文芸部室より寒っぽい。生徒のく息と体温で暖めるしかないが、もっとも純度の高い熱源となりそうなハルヒの姿は例によってない。

 だんしようの輪に加わるべく、俺は谷口と国木田が固まっているあたりに歩き出した。



 さて、放課後だ。

 俺はさっさと学校を後にした。手紙にあった時間にはゆうだが、朝比奈さんを一人にしておくのはどうにも心配で、朝比奈さん(大)の指示に従うのだとしたら用意しなければならない道具もある。

 いったん、自宅にとって返すと物置にあったカナヅチとすんくぎかばんほうり込み、ママチャリにまたがって長門のマンションにダッシュする。耳が痛くなるくらい寒い真冬日だが、一人で俺を待ってくれている朝比奈さんを思えば気にもならん。それにさ、ちょっとしたお楽しみが待っているのは俺にとってほぼ規定こうだ。夏休み以来、俺が念願していたワンシーンのおとずれさ。

 こうしてみようにハイな気分になっているのも部室での長門との会話がを引いているからだった。

 何があろうと長門は俺や朝比奈さんを守ってくれるだろうし、俺も長門や朝比奈さんを守ってやりたいと思う。ハルヒは俺たち団員を自分の所有物みたいに思っているようだから、だれかがちょっかいを出してきたら暴れ回ってその手をひねり上げるだろうし、古泉は自分の身くらいは自力でなんとかしそうだ。へたり込む古泉なんか想像できないが、もしあいつがうずくまっているようなら手を貸してやらんでもない。きっとハルヒはそう命令する。俺の都合なんか考えずにね。かまやしないさ。SOS団の一員になって一年弱、今さらへっぴりごしになるほど俺の学習機能はイカれていない。

「よっと」

 俺は後輪を意味なくドリフトさせて自転車を止め、マンションげんかんのコンソールパネルに向かった。長門の部屋ナンバーをプッシュする。

『……はぁい』

 流れ出てきた朝比奈さんの声にあんしながら、

「俺です。何もありませんでした? なかったらいいんですが」

『ええ……はい、何も……。あ、すぐ下りますね。ちょっと待っててください』

 俺としては長門の部屋まで上がってしばらくまったりとしたかったのだが、朝比奈さんはインターホンをすぐに切ってしまった。

 その場であしみして待っていると、五分ほどして制服姿の朝比奈さんがエントランスホールに姿を現した。片手にうわきをげて。

 朝比奈さんは俺を見てホッとしたような顔をして、しかしなぜかな表情にもどり、寒さに身をふるわせながら俺のもとに小走りでけよってくる。

くつは長門さんに借りました。あと、これ部屋のかぎなんですけど」

 朝比奈さんの指が小さな鍵をつまんでいる。

「これ、長門さんに返しておいてもらえませんか?」

 ん? どういうことです? しばらくめてもらうんですから靴と同じように借りておけばいいと思いますが。

「そのことなんですけど……」

 朝比奈さんはあごを引くようにうつむき加減に俺を上目で見て、

「あたし、長門さんとこを出たほうがいいような気がするんです」

 どうして。

「なんて言ったらいいんでしょう……」

 冷たい風がわせようとするくりいろかみを手で押さえ、

「長門さん、あたしと二人で部屋にいると、ちょっと落ち着かないようなんです」

 思わず朝比奈さんをぎようしてしまった。

 似たようなセリフを長門からも聞いた。いや、それ以前に朝比奈さんにもわかる長門の落ち着かないりってものに想像がおよばないぜ。

「ええと」

 朝比奈さんは子供が大人に何かを説明するように、

「ほんと、なんとなくなんです。夜、ているときに……あ、部屋は別で、あたしはあの和室で寝てたんですけど、そのまくらもとに長門さんが立っててじっと見下ろしている……」

 そんな、けて出たゆうれいみたいな。

「……気がするだけですが、でも、長門さんがあたしを意識しているような」

 白い息をたなびかせつつ、朝比奈さんは俺の胸あたりを見ている。

「部室で、みんなといるときは感じませんでしたが、長門さんの家で二人だと強く感じるんです。先月もあったでしょう? 過去に行って戻ってきたとき、あたしが目を覚ましたらキョンくんはいなくて、その時も寝てたあたしをずっとだまって見ていたような気がするんです」

 それはどういう意味がめられているんでしょうか。ちがっても長門が朝比奈さんに危害を加えるようなことはないと思いますが。

「うん、わかっています。長門さんにそんな意識はないの。あたしが勝手に感じているだけなんですけど……。でも、わかるんです。長門さんはあたしが気になるみたい」

 どうもめつれつだな。俺には解りませんが。

 朝比奈さんはとがめるような目つきをした。せきりようかんまじえた口調で、

「長門さんは、あたしみたいなことをしてみたいんです」

「?」と俺。

「キョンくんとあたふたしたりするようなこと。あたしはいつもそうでしょう? 長門さんはずっとあたしたちを見ていたんです。あの七夕の日も、未来がなくなった夏休みも……」

 去年の思い出には常にSOS団の刻印がどこかにある。中でも一番の働き者だったのが長門だった。

「長門さんが過去を変えてしまったのも、どこかそんな思いがあったからなんじゃないかな。長門さんはいつも見守る側だったから、あたしみたいに助けられるばかりじゃなかったから」

 朝比奈さんはふーっとてのひらに息をきかけ、うん、とうなずいた。

「そう考えるとなつとくできるんです。あたしが長門さんから感じること。ひょっとしたら長門さんはあたしに成りかわりたいと思っているのかも……」

 またしてももうそうが走りけた。いつものように俺が部室に行くと、そこにはメイド服を着て待機していた長門がいて、いそいそとお茶をれてくれるという度しがたい妄想だ。そしてニコニコと俺の前に湯飲みを置き、ぼんかかえて味をいてくる……。

 そういうポジションに長門がいたら、それはそれで悪くない。しかしテーブルのすみっこで本を読んでいる長門はどこに行くんだ?

「長門さんは自分でも解ってないんだと思うの。だからあたしはここにいないほうがいいんです。長門さんを混乱させそうだから」

 朝比奈さんのひとみしんだった。長門の部屋にいるのがイヤだっていうことじゃなく、彼女は長門にはいりよしているのだ。バグがまった長門がどうなるかはすでに知っている。それがどうして積もったのかもだ。その結果、あいつは自分に制限を課した。同期のきよ。自分なりにそれを防ごうとしている。長門の理想は朝比奈さんなのか? 自分とちがってほとんど何も知らずに行動しなければならない立場。真逆のポジションにいる未来人。

 何て皮肉だ。朝比奈さんは無知で苦しみ、長門は知りすぎる自分に苦しんでいた。

 俺は長門の部屋があるあたりを見上げた。

「そうですね……」

 朝比奈さんの考えは正しいのかもしれない。何と言っても今までの知り合いを思い起こしてみるとあつとう的にかんするどいのは女性じんのほうだった。ハルヒと鶴屋さんは少々鋭すぎるが。

 長門には長門のよさがあって、それでじゆうぶんなのだが、本人の自覚がない場合は難しい。こんこんと言い聞かせるのも白々しいしな。

 可能性として朝比奈さんが気を回しすぎているってこともある。長門はどうでもいいのかもしれん。たまたま読む本がなくて朝比奈さんをまんぜんと見ているだけのほうがありそうだ。しかし朝比奈さんがそんなに気になるのなら、無理にとは俺も言わない。

「わっかりました。長門には俺から言っておきますよ。今晩の宿については後で考えましょう」

 最終的には俺んちでもいいが、ほかにあてがないわけでもなかった。

「それより見て欲しいもんがあるんですよ。新しい手紙がばこに入ってましてね」

 俺が差し出した手紙を、朝比奈さんはテスト直前にアンチョコを見るように読んでいたが、

「あ、これ……」

 指令文章の最後を指差した。

「命令コードです。最優先の」

 あの記号ともサインともつかぬ一行だ。てことはこれは未来の言語か。

「いいえ、言葉じゃなくて……その、コードです。あたしたちの使っているとくしゆな強制効果のあるやつ。この指令は何があってもすいこうされねばならないっていう」

「こんなことをですか?」

 俺は文面を思い出して言った。

「このイタズラに何の意味があるんです」

「それは……」

 朝比奈さんもこんわく顔で首をかしげた。

「あたしには、ぜんぜん……」

「もし、これを無視して何もしなければどうなります?」

「無視することはできません」

 きっぱり、朝比奈さんは言い切った。

「そのコードを見た以上、あたしはそうなるように行動しないといけません」

 そして俺に不安そうな目を向けて、

「それに、キョンくんならちゃんとしてくれるでしょう?」



 俺たちは手紙の指示の通りの場所にやって来た。移動手段は自転車であり、朝比奈さんを荷台に乗せての二人乗りだったのは言うまでもない。ともかく、その場所は市内でも自転車で行けるきよにあった。

 適当にブラブラして時間をつぶし、うでけいが記す時刻は午後六時十分を過ぎたところだ。予定では十二分から十五分の三分間に今俺が手に持っているものを設置することになっている。

 うらさびしいのはとうにが落ちているからだけではない。そこは住宅地からはややはなれたところにある、人通りもまばらな道だった。その道からさらにわきみちが派生して、そっちはそうされていない。私道ではなさそうだが、どこかへの早道にでもなっていなければわざわざ足をみ入れそうにない風情ふぜいである。手書き地図の×印はその道が市道と交わるギリギリ、アスファルトから数センチのあたりにつけてあった。

 通行人がほとんどないのは幸いだ。これから俺がすることはタチのよくないこうも同然というか、ハッキリ言ってイタズラなので。

 用意するものはカナヅチ、くぎかんの三つだけ。何をするのか、だいたいの予想はつくだろ?

「そろそろやりますか」と俺は言った。

「そうですね」うなずく朝比奈さん。

 電信柱のかげかくれていた俺は、ささっと目標地点にけよると、カナヅチで釘を地面に打ち付け始めた。けっこうかたい。釘を半ばまでめり込ませるには力強くひっぱたく必要があったが、さりとて大きな音を立てるのもマズく、歩行者にもくげきされたりすんのはもっとマズい。

 急ぎの作業は三十秒もかからなかったと思う。

 俺は地面にき立った釘に空き缶をかぶせて、朝比奈さんの待つ電柱へとかんした。それからもう少し離れた暗がりに身をひそめる。

 さて、何がどうなるのか。このけがどんな作用をもたらすのか、じっくり観察させてもらおうと思ったわけだ。

 さほど待つこともなかった。時刻は午後六時十四分。

 俺の隠れている道の反対側から、男性とおぼしきかげゆるい歩調で歩いてくる。ロングコートを着てショルダーバッグをげている姿が見て取れた。俺たちに気づいている様子はない。

 男性は下を向いて歩いている感じで、あまり元気のあるようには思えない。その歩調がピタリと止まった。顔の向きは地面に落ちている空き缶の方角といつしている。

「はぁ……」

 ためいきが聞こえた。ポイ捨てに心を痛める善良な人間かと思ってたら、つかつかとジュース缶に近寄った男性は、思いきりのいいフォームで足をりかぶり、止める間もなくトゥーキックを放った。

 むろん、空き缶はどこのゴールネットにも突きさることはなく、それどころかその場を一歩も動いたりはせず──。

「げっ!? ぐあああっ!」

 男の影が足を押さえてたおれ込んだだけである。

「何だこりゃあっ、いてえってててっ!」

 まさにしちてんばつとうだんまつのごとき痛がりようだった。

「くそっ、だれだ、こんなもんを……いっ、たたたた」

 俺と朝比奈さんは顔を見合わせた。

 仕掛けの目的はこれですか?

 さあ……?

 目線で語り合ってから、俺たちは同時にうなずき、暗がりから出た。さも通りがかっただけだという線で行こう。

「だいじょうぶですか?」

 つまさきを両手でかかえてあおけになっている男に、朝比奈さんが声をかけた。俺はさり気なく朝比奈さんの横に並び、うめき続ける男を見下ろす。

「ああ?」

 ゆがめた顔は全然見知らぬ、二十代半ばの細身の男である。ロングコートの下はスーツにネクタイ姿で、つうのサラリーマンふうだ。

「手を貸しましょうか」

 と俺は言った。良心を高速連打されながら。

「うう……たのむ。ありがとう」

 男性は俺の手をつかんでようやく立ち上がり、顔をしかめて片足を上げた。

「くそぉ、誰だ、こんなようなイタズラをしたのは……」

「ヒドイっすね」

 俺は地面にしゃがみ込むと空き缶を持ち上げた。見事にへこんでいる。固定していた釘もななめにかしいでいた。よほどきようれつなシュートを決めたかったものと見える。

「危ないな」

 もっともらしいことをコメントしながら釘を引きく。男性のりのおかげで割合簡単に抜くことができた。しよういんめつのためにもポケットに収めておこう。

 男性は片足を上げたり下ろしたりしていたが、そのたびに顔を歪めてあきらめたように舌を打った。

「まいったな。折れてはなさそうだが……。足首をひねったか?」

「あの、」と朝比奈さん。「病院に行ったほうが……」

「そうしたほうがよさそうだ」

 男性はケンケンで飛びねながら、車の行きう市道へと向かいかけて危なっかしくよろめいた。

かたを貸しますよ」

 俺は男性がけないように寄りいながら、

「救急車を呼びます?」

「ああ、それはいい。タクシーで行くことにするさ。大げさにするのも何だしな。すまないがキミ、通りまでこうしていていい?」

「ええ、かまいませんが」

 何と言っても俺のせいなのだ。本当は謝りたいくらいだよ。

 俺の肩につかまってひょこひょこ歩くその男性は、街灯の明かりの下で見るとなかなかの男前だった。

「仕事がちょっと行きまってて」

 道のちゆうで彼はイイワケじみたことを言った。

「クサクサした気分を晴らそうとかんを蹴ったのが悪かった。ごう自得さ」

「いやぁ、あんなもんを置いておいたヤツが一番悪いと思いますよ」

「それもそうだ。一体どんな悪ガキだ。今時あんなことをするなんて」

 その彼は俺と、ちょこちょことついてくる朝比奈さんを比べるように見て、ふっと微笑ほほえみをらした。

「あの、キミの彼女か?」

 返答にまること約二秒、

「ええ、まあ」

 ここはうそでもそう言っておこう。

「そうか」

 男性は簡単になつとくしたようで、痛みをこらえる顔にもどった。

 交差点に出た俺たちはタイミングよく通りがかった空席タクシーを手を振って止め、この寒いのにあぶらあせを垂らす男性を後席に押し込むところまで手伝った。

「ありがとう、キミたち。悪かった」

 いえいえ、どちらかと言えば俺のほうが悪い。ちなみにこの朝比奈さんは無実なので、もし真相をどっかで知ったとしてもお礼参りは何年後かの彼女のほうへ頼みますよ……と胸中で頭を下げているうちにタクシーは走り去り、残された俺は朝比奈さんにたずねてみた。

「これでよかったんでしょうか」

「うーん……」

 朝比奈さんはこころもとなくいきを漏らし、自分の身体からだいた。

 午後六時半になっていた。



 俺たちに課せられた重大な制約がある。

 それは、俺とこの朝比奈さんがいつしよにいるところをもう一人の朝比奈さんとハルヒに見られてはいけない、ということだ。ハルヒならまだイイワケのしがいもあるが、朝比奈さん(現在の彼女だ)がもう一人の自分を見て単なるそっくりさんだと納得するほど頭の回らない人だとは思いがたい。集団下校している現在のSOS団メンツとはちわせしてしまったりしたら、これはもう最悪の事態と言える。

 ただ朝比奈さん(八日後のほう)によれば、彼女はこの期間に自分のドッペルゲンガーを見たことはないのだから、俺たちがそこらをほっつき歩いていても平気というくつだが、どこで何がくるうかわからないし、ここで努力した結果が未来に反映されているとすると、俺はこの時間でがんばるべきで、タカをくくってはいられない…………ということなのか?

 解らんな。どうしてこんなややこしいことになるんだ。せめて時間を移動してきたのが朝比奈さん(八日後)ではなく(大)のほうならスムーズにいくのだが。

 俺はかたわらの小さい上級生をながめた。

 北高のセーラー服姿が寒そうに身体をこわらせている。風の強い二月の夜に上着も羽織らずにじっとしているのはツライだろうな。同じく制服でこうしている俺もこごえそうだ。

「行きますか」

 俺はめていたママチャリのほうへ手をりながら言った。朝比奈さんはこっくりとうなずいて、

「……でも、どこにですか? キョンくんのところ?」

 そうしたいのは山々だが、口止めをたのむ人間は少ないほうがよく、妹の口が孫を前にしたばあさんのさいひもよりもユルユルなのは兄としてようく解っている。

「長門以外にあなたを受け入れてくれそうな人んとこです。おそらくあの人なら何もかずにめてくれるでしょう」

 不思議そうに見てくる朝比奈さんをうながして俺はチャリンコにまたがり、荷台にちょこんと横座りした軽い二年生を乗せて目的地へと走り出した。



 俺が自転車を止めた場所はSOS団の人間ならだれもが見覚えのあるところだ。

 むろん、朝比奈さんにも。

「ここ……あの、まさか」

 荷台から下りた朝比奈さんは、目を丸くしてその家の門を見上げていた。

 俺はチャリのスタンドを立て、ついでにかぎをかけてから、

「この人なら何とでもしてくれますよ。朝比奈さんの助けになってくれないなんてことはないっす」

「で、でも、秘密をばらすわけには──」

「その辺は俺にまかしといてください」

 きよだいで古風な門の横に、そこだけ近代的なインターホンがオブジェのように張り付いていた。これを押す前に最低限のことだけは示し合わせておくか。

「朝比奈さん、ちょっと耳を」

「はい」

 なおに顔をかたむけ、かみはらって形のいい耳をあらわにする。ハルヒがガジガジんでいたシーンを思い出し、俺もそうしたくなったが場をわきまえることを俺は知っていた。

「で、ですね。こういうふうにしようと思うんですが……」

 こそこそとささやく俺のセリフに朝比奈さんは目をパチパチさせ、

「えっ、でも、あたしそんな演技できそうにありませんよう」

 泣きそうな声でうつたえかける。

「難しいです、それ……」

 でしょうね。本気で演じようとするならば。

 しかしその必要はないと俺はんでいる。朝比奈さんはいつもの朝比奈さんをやってくれていればいいのである。きっと誰も気にしないでいてくれるだろうからな。

「とりあえず、そういうことにしておいてください。うまくいくと思いますよ」

 俺は楽観的に微笑ほほえみかけ、インターホンのボタンを押した。

「…………」「…………」

 俺と朝比奈さんはだまって応答を待つ。目当ての人が返答してくれる確率は低いだろうから、取り次ぎの言葉を頭で練る。口の中でリハーサルをやること三回、一分近くってもリアクションがなく、まさか家中で留守にしてんのかとおんな空気がただよいだしたところで、

「ちょい、待つっさ!」

 せいのいい声が門の内側から直接ひびき、続いてゴトンと音がした。さらにギコギコときしみ声を上げながら木造の門が開き始め、

「やあ! こんな時間にどしたい? みくるにキョンくんっ。んーっ? ホントに二人だけなのかなっ。あれあれ、お安くないなあ! あやかりたいっ」

 と、鶴屋さんが満面のがおで言った。



 鶴屋さんのしようだん学校で見ているものとは一風変わっていた。

 カジュアルなだんふう和服を身にまとい、その上から厚いはんてんを羽織っていて、長い髪は首の後ろで無造作にひっつめてある。古い日本家屋庭園にぴったりとはまり込む格好だった。

 鶴屋家の敷地しきち内に俺たちを入れてくれた鶴屋さんは、持っていた角材みたいなかんぬきを閉めた門の内側にけ、

「んでも、ほんっとめずらしいねっ。キョンくんとみくるが寒中散歩大会かい? ハルにゃんはいつしよじゃないのっ?」

「これには色々とワケがありましてね……。ところで鶴屋さん、俺たちが来たことがどうしてわかったんですか?」

 インターホンはちんもくするばかりだったのだが。

「うん、門の上の方に防犯カメラがついてんだよ。お客さんが誰かなんて一発さ! で、見たらお二人さんだし、あたしが出たほうがいいと思ってさ。マズかったかい?」

 鶴屋さんはをカラコロと鳴らし、おもげんかんまで長く続く神社のけいだいみたいな道を歩きながら、ひたすらな笑顔を向けてきた。

「うん? みくる? なにかな、元気がないみたいだけど」

「実はそのことなんですが」

 俺はせきばらいをして、準備していたセリフを言うことにした。

「お願いがあるんです。この朝比奈さんを、しばらく鶴屋さんの家に置いてあげてくれませんか」

「ふえっ? そりゃいいけどさ」

 ふふーん、と鼻から通りける笑い声をらし、鶴屋さんは朝比奈さんの顔をのぞき込んだ。

「うん、みくる……だよねえ」

 びくりとする朝比奈さん。鶴屋さんのかがやかしいひとみがキュッと細まった。気づかれたか?

「ま、いっや。何か事情があるんだね? みくるが自分ちに帰れないようなさっ」

 話が早くて助かりますよ。

「いつまで置いときゃいいのかなぁ?」

「最長で八日ほど」と俺。

 今日から数えて八日が経過したら元通り、朝比奈さんは一人にもどる計算である。

「いいですか?」

「うん、かまわないよ。あっ、そだ。どうせだしはなれを使っていいよ。あのべつそうにあったのと似たようなのがここにもあんのさ。今はだれも住んでなくて、あたしがたまーにめいそうすんのに使ってるいおりだけどさっ。静かでいいところだっ」

 俺はほとんど森と言ってもいいくらいのしげみに囲まれる鶴屋家宅を見回した。やたら色々なものがありそうな広さである。そういや昔ながらのくらがあるとも聞いたな。

 俺が感心とあきれとせんぼうの感覚を味わっていると、鶴屋さんがくちびるれいな半円を形作らせて朝比奈さんを見つめていた。

「にしても、みくる、どした? 変だなーっ。そんなビクってすることないのになぁっ。うん」

 鶴屋さんはうつむく朝比奈さんのあごを指でつっついて、

「みくるっぽくないなぁ」

 ぎようぜんとした朝比奈さんが何か言う前に、俺はばやく割り込んだ。

「その人は、朝比奈さんのふたの妹で朝比奈みちるさんです」

「双子? 妹? みちるちゃん?」

「そう……なんですよ。生まれたとき以来、生き別れになってまして……」

「へえーっ?」

「何かこう、ややこしい事情があってですね、朝比奈さん……つまりみくるさんのほうは妹がいることを知らないんですよ、これが」

「はぁーっ。でも何でこのみちるちゃん、北高の制服着てんのさ」

「ああ、」

 しまった。それ考えてなかった。

「何と言ったらいいのか……。ああ、そうです、そのみちるさんはですね、姉を一目見たさに北高にもぐり込もうとしたんですよ。それで制服をあるところから調達しまして、しかし結局果たせずに引き返し、たまたま俺と出くわし、たまたま俺が話を聞いて、えーと、そっからは……」

 かたたたかれた。

「いいよっ」

 鶴屋さんはそこけに楽しげな笑顔で、

「説明は言うのも聞くのもめんどいからねっ。その子がみくるの妹ってんならみくるも同然さっ。めるだけでいいのかいっ?」

「それから朝比奈さんには彼女のことをないしよにしておいて欲しいんですが」

「モチのロンさっ。わかってるよ」

「あのう……」

 朝比奈さんが会話に取り残されることをおそれるように、

「本当にいいんですか? つ、鶴屋さん」

「うん。めがっさいいよ。さ、みちる、こっちこっち、離れに案内するよっ」

 鶴屋さんは朝比奈さんの手を取り、引きずらんばかりの勢いで日本庭園に足を運び、その直前、俺に向かって思わず心を射止められそうなウインクを放った。



 離れは招待された雪山別荘にあったものとほとんど同じ造りをしていた。鶴屋さんの説明によると、この離れを元にして別荘のほうが建てられたそうで、ようはこちらがコピー元、本家のようだ。実に住みごこのよさそうな和室のワンフロアである。

 たたみにちょんと正座した朝比奈さんは、まるで質素な庵に置かれたフランス人形のようだった。

 鶴屋さんがヒーターをつけてくれたおかげで部屋の空気も暖まりだし、みように動きたくない気分になってきた。

 鶴屋さんはとこにディスプレイされているじくの説明をしたり、とんの入っている押し入れの場所を教えてくれたりしていたが、やがて「あったかいお茶持ってくるねっ」と言っておもに姿を消した。

「何とかなりそうですね」と俺は言った。

「うん、助かります。鶴屋さんにはいつかちゃんとお礼しなきゃ」

 ここでは朝比奈みちるということになっている朝比奈さんは神妙にしゆこうして、

「みちるかあ。それも、いい名前ですね」

 やっと微笑ほほえみを見せてくれる。

 俺は畳の上に足をばし、古めかしい電灯をながめた。そして朝比奈さんの名前について考えた。

 湯飲みとポットと衣類をめたカゴをかかえた鶴屋さんがもどってくるまで。



 鶴屋さんは俺をもばんさんさそってくれたが、二日連続の外食はおふくろげんそこなう可能性があり、そんなわけで俺は帰宅するむねを告げた。朝比奈さんの居場所が落ち着いたせいで気がけている。このままダラダラとしてたら今夜こそがいはくを決意してしまいそうでもあった。

 朝比奈さんをはなれに残し、外に出た俺を鶴屋さんがお見送りとしようして追ってきて、こう言った。

「あれ、みくるのようでみくるじゃないね。っていうか、みくるじゃないようでみくるって感じかな? そうだね、今日学校で会ったみくるそのままじゃあないんだね?」

 ふただと説明したはずっすよ、せんぱい

「あっはは。そうだね。そうしとこうか」

 俺から一歩半ほど前に出て、鶴屋さんはデカい門へと歩いていく。

 れるひっつめがみの後ろ姿を見ているうちに、どうしてもきたく思った。

「鶴屋さん」

「なんだい?」

「あなたはどこまで知ってるんです? 朝比奈さんや長門──SOS団の連中がどこかつうじゃないって、あなたは言ってましたよね」

「まーねー」

 ぴょんと小さくねて、髪の長い上級生はくるっとり返った。口全体で笑うがおは星明かりだけでもじゆうぶんに明るい。

「キョンくん、よくは知らないよっ。まぁなーんかちがうよねーってことくらいさっ。すっくなくともあたしとかキョンくんとか、普通に普通の人たちじゃあないないばーだよね」

 そんだけ解ってりゃ充分だ。なのに、鶴屋さんは余計なことを訊いてきたことはないし、朝比奈さんが何者かなんてことを調べようともしていない。

「どうしてです?」

 鶴屋さんははんてんそでに手首を引っ込めて、かはは、と笑った。

「あたしはねっ、楽しそうにしてる人を見ているだけで楽しいのさっ。自分の作ったご飯を美味おいしそうにぱくぱく食べてくれてる人とかさ、幸せそうにしている全然知らない人とかを眺めるのがあたしは好きなんだっ。うん、だからあたしはハルにゃんを見てるととっても幸せな気分になるよっ。だって、なんだか解んないけど、ものごっつい楽しそうじゃん!」

 そこに混ざろうとは思わないんですか。見てるだけじゃさびしくなんないですか?

「うーん、あたしはさ、映画とかてすっげーおもしろいっとかよく思うけど、だからって映画作ろうとは思わないんだよね。観てるだけで充分なのさっ。ワールドシリーズやスーパーボウルだって観戦するのはとても気分よくおうえんできっけど、うわーっあたしもアレやりたいっ! とか言って混じってプレイしようとは思わないんだよ。あの人たちはものげっついがんばってあっこにいるんだなぁって、そんだけで気持ちいいんだ。だいたいあたしには向いてないっさ! だったらあたしは自分にできる別のことをするよ!」

 ある意味でハルヒとは対極の思想だな。あいつは面白そうなものには例外なく首をっ込み、何が何でも自分でやっちまおうとするやつだから。

 鶴屋さんは大きな目をくるくると動かしながら、

「それと同じっ。あたしはみくるもハルにゃんも有希っこも古泉くんもキョンくんも見てて面白いのさ! みんながなんかやってるのを眺めてるのが好き! そいでから、そんなみんなを横で見ている自分も好きなのさ!」

 何のてらいもない笑顔と声だった。この人は本心から出る言葉を発している。そばにいるだけで何だか俺まで楽しくなってくるような空気がにじみ出ていた。

「だからあたしは自分の立場が気に入ってるのだっ。きっとハルにゃんもわかってんだと思うよ。あたしをごういんに引っ張り込もうとしないもんね。全部で五人、その数がいっちゃんまとまってるっさ」

 またぴょんと跳ねて、鶴屋さんは門へ向き直った。長い髪がたなびく。

「この世のすべてのことを考えて答えを出すのはムリムリっ。あたしは自分で手いつぱい、だからさっ?」

 首をねじって俺に流し目を送り、

「キョンくん、がんばるにょろよ。人類の未来はキミのかたにかかってんだからねっ!」

 そう言って鶴屋さんは口元をぴくぴくさせつつ、しばらく俺の顔を見つめていたが、やがてえきれなくなったようにケラケラと笑い出した。じや欠片かけらもない子供のような笑い声に、俺はこのかいな先輩の言葉をじようだんのように感じていた。

 ひーひーとおなかを押さえてじりをぬぐった鶴屋さんは、

「ま、みくるだけはちゃんとフォローしてやってよね! でも、おいたをしちゃダメにょろよ。そんだけは禁止さ! おいたならハルにゃんにやっちゃえばいいっさ! かんだけど、うん、許してくれると思うよ!」

 きっとこのセリフだけは本気だったのだろう。なぜだか解らないが、そんな気分になった。別に本当に何かをしたいわけではなかったけどな。



 鶴屋さんにグッドナイトと告げて自転車を走らせ始めた俺だったが、しばらくもしないうちにブレーキをかけるとあいなった。

「今晩は」

 道の暗がりに一人のろうが出てきて俺の行く手をさえぎったからである。

「あなたもご苦労なことです。僕としましては、鶴屋さんを巻き込むことはあまり賛成できませんね。安全と言えばこれほど安全な場所がないのも確かですが」

 二日ぶりに見る無難なみ、それは古泉一樹のさわやかハンサムスマイルだ。

「よ、ぐうだな」

「そうとも言えます。思えば僕とあなたの最初のせつしよくから奇遇は始まっていると言えるでしょう。いや、あなたと涼宮さんのほうがスタート地点としてもっと早いですね」

 古泉はあいさつするように手を挙げながら近寄ってきた。お前、ずっと夜道のすきかくれて待っていたのか。変質者とちがわれて通報されても文句言えんぞ。

 ふっ、と古泉は軽くしようを飛ばし、

「面白いことをしているようですが、僕はまたハズレクジですか?」

 俺はためいきせんたくし、息を白くするに任せた。

「これは俺と朝比奈さんの問題だ。お前の出番はない。おとなしく《神人》とやらをっていればいいだろ」

「それも最近はごですからね。こうして散歩などをしたくもなるというものです」

 真冬の夜に犬も連れずに散歩しているのは、アイデアにまったクリエイターくらいのもんだろうよ。それにしたってぐうぜんじゃねえよな、お前がここにいるのはよ。

「これが偶然ならば、あまりにできすぎていると言わざるを得ませんね」

「何の用だ」

 といてから、質問内容をへんこうする。

「いや、用ならなんとなく解る。お前はどこまで知ってんだ?」

「朝比奈さんが二人いるというところくらいですか」

 古泉はしれっと重要な事実をコメントし、

「それで、鶴屋さんにはどう説明したのですか? ふたでしょうか。まさか本当のことを言ったわけではありませんよね」

「どっちでもよさそうだったぜ」

「でしょうね。あの鶴屋さんのことですから」

 当たり前のように言ってくれるじゃないか。いったい鶴屋さんとはどういう人なんだ。全部解っているようで、俺たちからみようきよを保っている、あの明るいせんぱい女子は。

「上の方からのお達しで、鶴屋さんには手を出すな、と言われています」

 古泉はじやつかんな形にくちびるを修正して、

「彼女はギリギリ無関係です。本来僕たちと交差することもなかったはずですが、何かの手違いで少しれあってしまったのですよ。さすがは涼宮さん、といったところでしょうか」

 どこからが手違いだ。朝比奈さんのクラスに鶴屋さんがいたことか。それとも草野球のすけしてやってきたあたりか。

「僕たちは彼女にかんしようしない。その代わり、彼女も僕たちに必要以上のかかわりを持たない。それが『機関』と鶴屋家の間で取りわされたルールです」

 ほうもない裏話をそんなあっさりと言うなよな。

 くく、と古泉はのどの奥で笑い、

「もっと言えば、鶴屋家は『機関』の間接的なスポンサー筋の一つに数えられます。ただし我々のことなどどうでもいいのか、やることなすことすべてに無関心をつらぬき通していますけどね。かえって助かりますからいいんですが、鶴屋さんはその鶴屋家の次代当主になる方ですよ」

 鶴屋さん、あなた……。今まで俺たちはとんでもない人と親しげに口をきいていたようだ。心の底から知りたい。何者なんだ?

「ただの女子高生ですよ。僕たちと同じ県立校に通う、大きな家に住む高校二年生です。もしかしたら、僕たちの知らないところでじやあくな存在と戦っているとか、難解な事件を解決しているといったことがあるのかもしれませんが、我々には関係のないことです」

 ついさっき鶴屋さんから聞いたばかりの話はまだおくせんめいだった。彼女は俺たちと深く交わらないことでかいな気分を感じていると言った。俺たちもそうなのだろう。鶴屋さんは今まで通りの鶴屋さんとして接しているほうがいいにちがいない。彼女が何者で、何をしているのかなんてたいしたことじゃなかった。ハルヒがハルヒであるように、鶴屋さんは鶴屋さんだ。いつも元気でにこやかでするどどうさつりよくを持つ朝比奈さんの友達。SOS団のめいもん。そのあたりが一番おさまりがいいんだろうな。

 しかし朝比奈さんとの出会いはどこまで偶然だったんだ。未来人にも読めない過去があったのか? ハルヒが何だかわからないものだったように……。

 と、それで思い出したぜ。

「古泉、おまえはこの前、朝比奈さんなどどうにでもできると言ったな。ありゃ、どういうことだ」

「未来は変えることができるからです」

 まるで俺の質問を予期していたように、

「あなたは未来人が過去を自在に干渉できると考えて、過去に対する未来の優位性を確信しているのかもしれませんが、未来など実にあやふやなものなんですよ」

 過去の歴史を学んだ上で時間こうしたら、都合よく改変することだってできるだろう。実際に俺はそうしたんだ。おかしくなった世界と長門を元にもどしに行ったんだから。

 古泉は微笑ほほえむ。

「それを過去からしてもよかったのです。もし未来をあらかじめ知ることができたなら、その時点で未来を変えることだってできるでしょう」

「未来をどうやって知るんだよ。できっこないだろうが」

「本当にそう思いますか?」

 古泉のみが少しばかりあく的に見えるようになってきた。本人がわざとそうしているんだろう。時々こいつは無意味にあくしゆになる。

「僕はちようのうりよくしやということになっています。いささか地域と能力を限定されていますけどね。でも、ほかにもいないと言い切れますか? 僕みたいな対《神人》専用ではなく、もっと解りやすい超能力者がいないと、たとえば予知能力を持つような人間はどこにもいないと、そしてそんな人間が我々『機関』の一員にいないと、あなたはどうして断言できるのでしょう?」

 かろやかな笑みに戻り、

「僕はそんなものがいない、と一言も言った覚えはありませんよ」

 てめえ。

「もちろん、あるとも言ったことはありませんね」

 どっちなんだよ。こればかりはどっちでもいいとは言えんぞ。

「正直言って僕にも解りません。言ったでしょう、僕はまつたんの人間なんです。すべてを知っているわけではありません。それは朝比奈さんもそうでしょう」

 そこはなつとくだ。朝比奈さんほど気の毒な立場のエージェントはいない。

「彼女が知らされていないのはゆえあってのことですよ。なぜなら、未来人が明確な意図を持って動いていることが解ったとしたら、後はその動きをぶんせきすればいいんです。彼女が自分の未来にとって不都合な行動を意図的にするわけはありませんからね。朝比奈さんが未来人の割にうかつに見えるのは、ほとんど何も知らないからです。あえて知らされていないとしか思えません。それは過去人である我々が分析できないようにする、未来からのたいこうですよ。彼女の存在は今のこの時空に必要ですが、彼女の存在から未来を推測されるのは困るというわけです。その意味で彼女はかんぺきな時間ちゆうざいいんと言えます。現に僕は彼女にきようを感じないし、いざというときにはこちらのごまとして動かせるようにも思っています」

 古泉はかたをすくめる得意のポージング。

「おそらくそれが未来側のねらいです。過去の人間にはそう思わせておけ、というおもわくなんでしょう。だから『機関』もうかうかと手を出せない。手を出した結果、まさに未来の狙い通り、となってしまえばシャクにさわりますからね。未来のあやつり人形になるのはごめんですよ」

 じゃあ何か、お前らは朝比奈さんたちと対立してるのか。

「敵対とまではいきませんが。一言でまとめると、小康状態でしょうね」

 身体からだが冷えてきた。物理的に。

「たとえ話をしましょう。ここにAという国とBという国があります。どちらかと言えばたがいを目障りに感じていますが、直接ほこを交えたことはありません。そこにAに敵対する勢力Cと、Bに敵対する勢力Dが登場します。AにとってCは共存不可能な相手であり、直接的な敵です。BにとってのDも同じです。そのCとDが同盟を結び、協力関係になってしまいました。一つだけならまだしも、二つを相手するとなると自軍の勢力ではこころもとない限りです。そこで敵の敵は使いようによっては味方、という古くからの言い伝えが登場し、AとBはしぶしぶながら砂上のろうかくのようなきようとうはかることになったと、そういったことでしょうか」

 古泉は俺の顔をしんそうに見ながら、

「聞いてますか?」

「ああ、すまん」

 と、俺はサドルに足をかけて、

「Dとやらが出てきたあたりで耳に入らなくなってた。俺が覚えられるのは三つまでで、あとは、たくさんでじゆうぶんだ」

「耳には届いているはずですよ。聞く聞かないは脳がせんたくし、処理する仕事のはんちゆうです」

 に返すな。俺はボケてんだよ。たまにはまんざいでもしてみたらどうだ。笑いのセンスをみがかねえといくら顔が良くてもモテねえぞ。

 古泉はニヤリと笑った。お前は何種類の笑顔を持ってんだ。

「僕だって時とじようきようと相手に応じてセリフや表情を変化させますよ。ただ、あなた相手だとね、どうしてもこのような会話になってしまうと言いますか」

 なんなヤツだな。

「自分でもそう思いますが、しばらくはこんな調子ですね」

 なぜか遠い目をした古泉は、

「いつかそのうち、完全に対等な友人となったあなたと昔話を笑い話として語る日が来て欲しいものです。任務や役割など関係のない、ただの一人間としてね」

 そう言って満足したか、

「では、また部室で」

 敬礼じみた挙手をして俺に背を向けると、さも散歩の続きというような歩き方でのんびりとやみの中に消えた。



 家にもどった俺は大急ぎで晩飯をって自分の部屋に引っ込んだ。

 まずしたことは長門への電話れんらくである。朝比奈さんを鶴屋さんの家に移動させたことを告げなくてはならない。長門のことだからひょっとしたらもう知ってるかもしれん。古泉に気づかれているくらいだからな。

 スリーコールで長門は電話に出た。かけてきたのがだれかを知っているしように、もしもし一つ言わない。

『…………』

「長門、俺だ。手短に話す。朝比奈さんのことなんだが」

 朝比奈さんが語ったことを要所を押さえて話してやる。長門はひたすら『…………』と俺の説明を聞いていたが、

『わかった』

 未練もなさそうにたんたんと言い、さらにこう付け加えた。

『それでいいと思う』

「そうか。安心したよ」

『なぜ?』

 なぜってお前。俺は長門が残念がりやしないかとしていたんだよ。一方的にたよっていったのはこっちなのに、また一方的に出て行くってのは身勝手すぎるしさ。

ゆう

 長門は落ち着いた声で言った。

『彼女の意見は理解できる』

 やや間があって、

『わたしは彼女のようになりたいとは思わない。でも、彼女がそう思う心情はとう

 どう妥当なんだ?

『わたしが彼女の立場ならば、同じことを想起したと思うから』

 ええと、朝比奈さんが長門に対して心配するようなことを、長門は朝比奈さんの立場になって想像できるということか?

 しばらくちんもくが続いた。やがて、

『だと、思う』

 細い声が耳に届いた。録音機能を作動させておきゃよかったと思うくらいの、心地ここちよさをあたえるひびきだ。

 その後、二言三言の会話があって俺は電話を置いた。どうやら俺が心配するまでもなく宇宙人と未来人はたがいをくみ取れるようになっているらしい。おそらく二人が自分で思っている以上にだ。

 なぜかニヤケながら横に視線をやる。シャミセンがベッドの上でねむっている。まるで人間みたいに俺のまくらに頭をせ、スピスピといきを立てていた。万一ハルヒがやって来たときに備えてところどころ毛をってやろうかと考えていると、別のことに思い当たった。

「シャミセンのりようようを口実にできるのはいつまでだ?」

 くのを忘れていた。あの朝比奈さんは俺がいつ部活を欠席して、いつ出てくるようになったのかを知っているはずだ。それがわかれば今週の俺のスケジュールをある程度つかむ指針になる。しかし一週間後からやってきた彼女は手ぶらでけいたいを持っていない。電話するなら鶴屋さんのところだが、古泉のあんな話を聞いたせいか、今連絡するのは何となく気が引ける。どこまで本音を語っているのかは知らん。あいつのことだからまた適当なことをもっともらしく言って俺の顔色をうかがっているだけかもしれない。まあ、そっちのほうがいいとも言える。

 俺はリモコンでエアコンをねらいながらベッドにもたれかった。

 明日、ばこの中身を見てから、その日の行動予定を決めるとしよう。

 目をつむったままむにゃむにゃと口を動かすねこながめ、そうしているうちにうっかり寝入ってしまい、から上がってきたばかりの妹にたたき起こされることになった。

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