第一章

 節分から数日を経たその日の夕方だ。

 放課後、部室のとびらを開いた俺を待っていたのは冷え切った空気と無人の室内だけだった。朝比奈さんのむかえもなければ、テーブルのかたすみに長門のこぢんまりした姿もなく、ハルヒも当分来そうにない。今日はあいつが進路指導を受ける番になっていていまごろ職員室で担任岡部を困らせるような進路を希望していることだろう。お前は将来何になりたいのかと聞かれて「支配者」とか「宇宙大統領」とかなことを真顔で言っている気がする。まかりちがってそんなもんになってもらっては困るので岡部きようにはこんこんとさとすやり方でハルヒにまともな人生設計をうながす努力を期待したい。頭ごなしに言い聞かせたりしたら意地でも曲がらなくなるクロム族元素のような性格をあいつは持っているからな。

 俺はかばんをテーブルに置くと、だれもいないせいもあって寒々しい部室にぬくもりをあたえるべく電気ストーブのスイッチを入れた。旧式電気ストーブは熱を発散させるまで相当のタイムラグを要する。

 ほかに暖を取れそうなものは朝比奈さんがかすヤカンの湯気と、彼女のれてくれるホットティーくらいものだ。早く飲みたいものだと待ちわびながら俺が近くのパイプを引き寄せたとき、

 がたん──。

「何だ?」

 部屋の隅からだ。俺が反射的にそちらを見ると、たいていどこのクラスにもあるスチール製の長方形、すなわち掃除用具入れがちんしている。自分の耳を信じる限り、音源はその中だ。

 何かのひようにホウキだかモップがずれたんだろうと思っていると、

 カタ──。

 今度はひかえめな音がして、俺は一人つぶやいた。

「よせよな」

 こんなことを感じたおくはないか? 家族が出かけて誰もいない自宅に帰ったとき、自分一人しかいないはずなのに、どうも人の気配がしてならない。何となくカーテンの後ろがゆらゆられているような、誰かがひそんでいるような、確認したくても本当に誰かがいたらおそろしいのでほうっておいていたりして、たいていの場合はまさしく気のせいで終わる。

 今回もそうだろうと俺はんだ。これが部室ではなく留守役をおおせつかった自分の家ならビクッとしたままだったかもしれないが、ここは学校でまだも落ちていない。何をビクビクすることがあろうか。

 俺は何の気なしに掃除用具入れに近寄り、大した期待もなく扉を開け、たちどころに絶句した。

「…………え?」

 掃除用具入れにホウキとモップとチリトリ以外のものが入っていたからである。あまりの意外性に、思いが口をついて疑問文となった。

「……何をやってんですか? そんなところで」

 当然の疑問を口にした俺を見たその人は、

「あ……キョンくん」

 朝比奈さんだった。彼女はなぜかあんの表情をかべ、

「待っていてくれたんですね。よかったぁ。どうしようと思ってたんですけど、これで安心しました。ええと、それで、その、……あたしはどうすればいいの?」

「へ?」

「え?」

 彼女はパチクリと目を開いて俺を見上げ、

「あのぅ……。今日のこの時間でよかったんですよね? 確かにここで合ってたと……」

 せいそう道具と仲よくスチール箱に入っているそのお方、自信なさげに俺を見上げるがらなセーラー服姿を見つめるうちに、俺のイヤな予感が高度成長期の工場地帯から出るえんとつけむりのようにわき上がった。

「朝比奈さん……?」

 どうしたことだ、そう用具入れの中でかくれんぼか? まさか。そんなはずはない。

 胸中に立ち上る煙がばいえんになりかけた、その時、

 こんこん──。

 部室のドアがノックされ、俺と朝比奈さんは同時にビクリとしてそっちを向いた。俺が返答しようと口を開きかけた時、

「あっ、えっ?……あ、だめ……!」

 ネクタイが引っ張られた。思わず前のめりになった俺を、朝比奈さんはさらにき寄せるようにして掃除用具入れに引きずり込み、手をばしてスチールのとびらをパタンと閉じた。

 うわ、何だこれは。どういうことなんだ。

「しーっ、キョンくん、だまって。何も言わないで」

 朝比奈さんが口に人差し指を当てたのを、のぞき窓からの細い明かりがかろうじて照らす。そう言われなくとも俺は何も言えなかっただろう。考えてもみて欲しい。

 掃除用具入れはつうにいって人間が入るようにできていない。一人でもじゆうぶん定員オーバーなのに二人も入っているわけで、だれかというと俺と朝比奈さんだ。そして朝比奈さんはハルヒが目をつけるだけのことはあるグラマーな曲線美の持ち主である。当然の流れとして俺と朝比奈さんは密着せざるをえず、事実、密着している。制服しでもわかるやたら温かくてやわらかいものが俺の胸の下あたりに押しつけられているのだ。

 俺がぼう心地ここちでいると、部室のドアが開く音がして誰か入ってきた。が、なんとなくどうでもよかった。だんぼう器具のない冬の山小屋で暖め合っているがごとく、朝比奈さんが俺にくっついて息を殺しているのである。何だか解らないが抱きついてくれてもいる。こんな幸せなことがこの世のどこにあるだろう。

 イヤな予感なんぞクソ食らえだ。煤煙はいまやみ切ったオゾンとなって俺をさわやかないやしの夢心地にさそい……、いやもう言葉はいらん。永久に続いて欲しい時間だった。

 しかしそんな俺のとうすいも、部室に来たその人の声によって中座をなくされた。

「あれ? 誰もいない……。ストーブはついてるのに。あ、これ、キョンくんのかばんだ。トイレかな」

 俺はいまだネクタイをにぎっている朝比奈さんを見下ろした。朝比奈さんも俺を見上げた。

 次に俺は首をねじって背後を見ようとした。掃除用具入れの細いスリットがゆいいつの光源であり窓でもあった。人間の首は半回転するようになっていないが、それでも目のはしに外の風景がかすめて見える。

「…………!」と俺は声に出さずにおどろきを表現した。

 そこにも朝比奈さんがいた。

 ストーブに向かって手をかざしていたその朝比奈さんは、うふふんと鼻歌を歌いながら移動して俺の視界から消え、ハンガーにかかったメイド服を持って再登場し、それからセーラー服のリボンをしゅるりと外してパイプの背もたれに引っかけ、さらにセーラーのファスナーを全開にすると、ごそごそとぎ始めた。

「…………!」と俺は三点リーダーを連続させる。

 その朝比奈さんは脱いだ制服の上も椅子に置いて、今度はスカートのこしに手を当てたあたりで、俺の顔にも手が当たった。

「…………!」

 こっちの朝比奈さんが両手で俺の顔をはさんで、ごういんに前を向かせた。暗がりの中にあっても解るほど、この朝比奈さんは顔を紅潮させている。そのくちびるが動いた。

 み・な・い・で。

 どくしんじゆつを発揮することもなくそう見えたので、おそまきながら俺は自分がかなりいただけないこうに走っていたことに気づき、謝罪を述べようとしてあわてて口を押さえ、そして改めて現状をにんしきした。


 朝比奈さんが二人いる。


 ちょっと待ってくれ。どっちかが大人バージョンならまだ解る。そういうことはたびたびあったから、ここに彼女が現れてもそんなに驚くこともない。

 しかし今はどうだ。そっくり同じ、見た目にまったくうり二つの朝比奈さんがうすっぺらいスチール扉をへだてて中と外にセットで存在し、一人は俺と息とはだれ合うきよで正面から抱きつき、一人は部室での正式しようであるメイド服にえる真っ最中ときやがった。

 どちらも本物の朝比奈さんだ。俺は長門の表情と朝比奈さんのしんがんを見分けるすべなら誰よりも高度なスキルを持つと自負している。その判断を信じるなら二人は同じ人だとしか言いようがなく、同一人物が同じ空間に同時に存在し、ということは──。

 時間移動だ。

 どちらか一方、おそらく俺とせまい空間を共有しているほうの朝比奈さんが、こことは別の時間、それもごく最近から来たんだ。二人の朝比奈さんは全然ちがわなさすぎる。一卵性そうせいでももうちょっと何かあるだろう……。

 だが、とっさにそう考えたのもつかの間のことだった。考えるよりも感じるほうが誰しも先立つものとしては自明の理であろう。

 なんたって、内側の朝比奈さんは目をギュッと閉じて俺を離さないし、外側の朝比奈さんが立てるきぬれの音が生々しく俺の想像力をげきするしで、早くも俺のうちぼりそとぼりは完全にめ立て工事しゆうりようの合図を待つまでになっている。さなゆきむらがいなかった場合のおおさかなつじんなみにどうしようもない。こんなツープラトン精神こうげきらっては何も反応するなというほうが無理だ。

 脳のどこかがドバドバとやく的な物質をぶんしてふらふらになりそうだった。どうにかしてください。

 このままでは身近にいる朝比奈さんを力の限りきしめるか、ここから飛び出していって着替え中の朝比奈さんの腰をかせるかしただろうが、ギリギリのところで救い主が現れた。

 ドアの開く音が俺を正気にもどす。

「…………」

 そいつは無言で立っているようだ。ドアを閉める音がしない。

「あ、長門さん」

 朝比奈さんのき通った声が聞こえる。

「ちょっと待ってくださいね。お茶、すぐにれますから」

 俺は再び首をねじった。

 メイドスカートのすそひるがえったしゆんかんを目の端がとらえたが、スリットからはそこまでで限界だ。なので着替えを終了させた朝比奈さんがパタパタとコンロにけよる姿をのうに再生する。

「…………」

 長門が入ってくる物音がしない。たいてい音を立てずに歩くやつだが、ドアが長門に付き合って無言で閉まるわけはなく、つまり長門は入り口付近でずっと立ち続けているらしかった。

「あの……どうしました?」

 朝比奈さんの不安そうな声。またしても俺の想像である。長門は片手に鞄、片手をドアノブにかけたまま、そう用具入れをじっと見つめているに違いない。

「…………」

「あの、」

「話がある」

 長門の声だ。

「えっ?」と朝比奈さんがおどろきの声。

「ついてきて」

「ええっ?」と朝比奈さんはさらに驚き、

「ど、どこに行くんですか? そ……え……?」

「この部屋でなければどこでもいい」

「で、でも、何の話でしょうか……。ここではダメなんですか?」

「ここでは話せない」長門の声がたんたんと言った。

「ええ……あたしに、ですか? 本当に?」

「そう」

「わっ? あの、長門さん? きゃっ、そんな引っ張らなくても……」

 後は無言だった。朝比奈さんがたたらをむ足音がして、すぐにドアが閉まった。二つの気配が部室とうの奥へと遠ざかっていく。

 長門、感謝するぜ。

 バン、と音高く俺は掃除用具入れからだつしゆつした。次いで朝比奈さんがまろび出てくる。

「ふわわぁ」

 ゆかひざをついて朝比奈さんはあんともろうの末ともつかぬ声をらした。

「びっくりしたぁ」

 俺以上にびっくりしたとは思えないが、

「朝比奈さん」と俺は言う。「何です、これ? どうなってんですか? あなたはいつの朝比奈さんです?」

 朝比奈さんは低い位置にある顔をもたげて俺を見つめ、まばたきを連続させてから、

「え? キョンくん、知ってるんじゃないんですか?」

 何を。俺の知るどんなすべがあると言うんでしょう。

「だって、」

 朝比奈さんはせっかく乗り込んだ救命ボートに穴が空いているのに気づいたちんぼつせんの客室乗務員のような表情で、

「この時間に行けって言ったの、キョンくんじゃないですか」



 待ってくれ。

 俺は頭を回転させる。かつて俺は似たようなことは言った。確かに言った。それは一月二日であり、俺は去年の十二月十八日にもどる必要があったからだ。戻って、帰ってきた。

 そこまではいいだろう。その後だ。少なくとも俺は未来にんでいくよう朝比奈さんに指示した覚えはない。して欲しいとチラリとも思ったことがない。

 てぇことは……。

 未来だ。この朝比奈さんは未来から来たのだ。

「いつから来たんですか?」

「はぁ……」

 朝比奈さんはキョトンとして、うでけいに目を落とした。

「えーと、一週間と一日……八日後の、午後四時十五分ですけど」

「何の理由で?」

わかりません」

 そんな、あっさり言われても。

「本当に解らないんです。あたしはキョンくんに言われたとおりにしただけだもの。あたしが聞きたいです。どうしてキョンくんのしんせいはこんな簡単に通っちゃうの?」

 朝比奈さんは、少しハルヒ気味にくちびるとがらせた。その表情も可愛かわいらしいのだが、しみじみ比べている場合ではない。俺は部室のとびらに意識を向けながら、

「俺が指示したんですか? 八日後の俺がそんなことを?」

「はい。何かあわてていましたけど、行けば解るからって。あと、そっちで待ってる俺によろしく、って言ってました」

 何を言ってるんだ、八日後の俺は。

 理解に苦しむ。朝比奈さんを過去に戻していったい何をさせるって? よろしくなんてたのまれても困る。

 いや、待て。またまたおかしいことになっている。この朝比奈さんは八日後から来たと言った。そいで、メイドしようえて長門に連れて行かれた朝比奈さんは現行時間の彼女でいい。

 えー……? じゃあどういうことになるんだ。朝比奈さんが二人。ここは部室。もう一人は長門に校舎の裏かどこかに連行されて、まさかヤキを入れられているわけではないだろうが……。

「非常階段に連れて行かれて、なんだか難しいお話を聞かされたの」

 朝比奈さんは首をかしげながら、

「神様の存在を数論を用いて証明する方法と、その否定を観念論的におこなうにはどうしたらいいか……だったかなぁ。長門さんが一方的にしやべってて、ぜんぜん解りませんでしたが、あれって何だったのかと……あ」

 そこまで言って言葉を切った。

「……そっか」

 朝比奈さんがハッとするのと期を同じくして、俺の脳内にあるカラータイマーがてんめつレッドに変わった。そうだ、このままではマズいことになる。

 長門のでんばなしが長引くことを願いつつ、

「朝比奈さん、あなたはこの一週間で未来からやって来た自分に会ったことがないんですね?」

「ええ、うん……」

 しんみようにうなずきながら朝比奈さんも少しは慌てている。なら急がねばならないだろう。

 この朝比奈さんを、あの朝比奈さんに会わせるわけにはいかないのだから。

 長門は気づいたんだ。そう用具入れに俺と朝比奈さんがいることを感じ取り、だから時間かせぎの手段に出てくれたのだ。ここからメイド版朝比奈さんを連れ出したのは、俺とこの朝比奈さんがだつしゆつする時間稼ぎ以外にない。

 おっつけハルヒと古泉もここに来る。たまには休めばいいのにさけが故郷の川に戻ってくるように部室を目指すのがSOS団構成員の習性だった。俺もそうだからよく解る。そして朝比奈さんがぶんれつしているのをハルヒが見たとして、ふただというイイワケが通用する確率がいかばかりか俺には判断できない。朝比奈さんにアドリブを期待するほうがちがいだ。

 一刻も早くここからこの朝比奈さんを引きはがさないと、のちのちエライ目にいそうな気配だった。

「出ましょう、朝比奈さん」

 俺は自分のかばんをつかみ、部室のドアをうすく開けてろうの様子をうかがった。だれもいない。手招きすると朝比奈さんはちょこまかと近寄って、おそるおそる廊下に視線を飛ばした。カウントダウンがすでに発動している。条件は二つ、現在時間の朝比奈さんにこの朝比奈さんを見せてはならないってことと、ハルヒに朝比奈さんが二人いるところをもくげきされてはならないってことだ。いっそ変装させようかと俺はハンガーラックに目をやって、かえって目立ちそうな衣装しかないことを再にんしきしてあきらめた。幸いこの朝比奈さんは制服姿だ。木の葉は森にかくすべきである。

 朝比奈さんのうでを取って、俺は部室から急ぎ足で出た。せかせか歩きながら、

「八日後ってのは間違いないんですね?」

「うん、キョンくんが八日前の午後三時四十五分に行けって言いましたから」

 朝比奈さんのはばもいつもより長い。部室とうの階段を一段飛ばしで下りる。担任岡部がハルヒの説教に手間取っていることをいのるぜ。

「じゃあ、あなたはこの一週間にあることを知ってるんですね?」

 一階に辿たどり着いた俺は、少し迷ってから中庭を横断するルートをせんたくした。わたり廊下から校舎に行く道はハルヒと正面しようとつする可能性があるし、ばこに向かうにはこっちのほうが早い。

 朝比奈さんは口で息をしながら、

「ええ、まあ」

「過去に行かないといけないような事件でもあったんですか」

「思い当たるフシがないんです。いきなりキョンくんに引っ張って行かれて、あの掃除用具入れに」

 押し込んで、今日に行け、と命じたというわけか。我ながら意味不明な行動だ。何を考えていやがったんだ? だったら俺もいつしよにここまで来たらいいじゃないか。一人で考える手間が省けていい。

 見知った誰にも会わないうちに下駄箱までとうちやくした俺は、そこでハタと立ち止まった。

「どこに行けばいいんだ?」

 学校から出るべきなのは鉄板だが、朝比奈さんをかくまってくれそうなところとはいったいどこだ。

 と言うかだな、何をすればいいんだ? このまま何もしないで八日後に帰ってもらうってわけには──。

「いきません」

 朝比奈さんはさびしげなうわづかい。

「あたしもそう思って連絡取ってみたんですけど、ダメだって。いつもどっていいのかもごく、あたしには不明なんです」

 つまりこの八日後から来た朝比奈さんは、今日なり明日なりに何かをしなければならないのだ。それはまあ、いいとしよう。

 で?

 だから、その何って部分が一番知りたいんじゃないか。どうして八日後の俺は彼女にメモ書きの一切れでも持たせなかったんだ?

 俺が未来の自分をなじっていると、朝比奈さんは二年生用の下駄箱に向かってテテテという感じでけていき、俺も学校指定のうわきをスニーカーに履きえようとして、

「朝比奈さん!」

 急いで未来人の姿をさがし求める。朝比奈さんは高い位置にある自分の下駄箱をびして開けているところだった。

「はい?」と朝比奈さんはその姿勢のままり返り、

「何ですか?」

 何ですか、ではありませんよ。

「そのくつは今ここにいるあなたのもんです」

「あっ……そう、か……」

 下駄箱のふたをパタンと閉めて、朝比奈さんは目と口を開かせた。

「あたしがこれ履いてっちゃったら、ここのあたしが帰るときに困りますね。そういや、靴がなくなって困った覚えはないです……」

 それだけじゃない。この朝比奈さんのことだから、自然にいだ上履きを下駄箱にしまってしまうだろう。するとどうなる。あの朝比奈さんがいざ帰ろうと蓋を開けたら、まさに自分が履いているのとすんぶんたがわない上履きが出てくるって計算だ。

「そ、そうですね」

 朝比奈さんはうろたえつつ、

「でも、じゃあ、どうやって帰ったら……」

 上履きのまま出るしかないな。ちょっとずかしいが気にしても仕方がない。まさか誰かの靴を拝借するわけにもいかんし。それに今は「どうやって」よりも「どこに」のほうがかんじんだ。

 俺は胸の奥でタイコを鳴らしつつ自分の下駄箱にとって返し、蓋を開けた。

 そして見つけた。

 なんだかなつかしい気のする未来からのメッセージ。

「……さすが、手回しがいいな、朝比奈さん」

 俺のうすぎたない靴の上に、ファンシーなふうとうが乗っかっていた。



 俺と朝比奈さんはすように冷たい山風を浴びながら坂道を下っている。

 同じように下校する北高生がチラホラといて、手ぶらで上履きという学校帰りには似つかわしくないスタイリングの朝比奈さんをチラチラと見ているような気がするのは俺の気の回しすぎだろうか。

 俺のみぎどなりで朝比奈さんのくりいろかみがふわふわとれているが、表情は髪のようにかろやかではなく、雪を降らせる直前のくもり空に近かった。

 ついでに俺の顔色もえなくなっているにちがいない。なんたって部室からトンズラせざるを得なかったわけで、いかなる理由があろうと無断で部活(部じゃないから団活か)を休むと団長のげんが急角度でかたむき出すことになっており、笑えるイイワケかよっぽどの用事を考案しておかないとハルヒ特製バツゲームのじきとなるのは規定こうだ。

 だからと言って朝比奈さんを放置することは様々な意味で危なっかしい。寒い夜空の下を行く当てもなくさまよう朝比奈さんを見かけたらだれだって保護したくなる。そんな保護者が人格者ばかりであるという保証はなく、だったら俺が保護しておく。

「ごめんなさい」

 しょぼくれ気味でも可愛かわいい声が、

「あたし、まためいわくばかり……」

「いやぁ、全然」

 みなまで聞かずはつらつと答える俺。

「あなたをここにつかわしたのは俺なんでしょう? なら、悪いのはその俺だ」

 それと朝比奈さん(大)だ。どっちも未来の俺たちにしては不親切すぎるぞ。そんなに過去がきらいか、未来人は。

 俺は手をっ込んだポケットの中で封筒をにぎりしめた。

 あても送り主の署名もない封筒に入っていた便せんには、

『どうか今あなたのそばにいる朝比奈みくるをお願いします』

 と、だけしか書いてなかった。ちようめんな字に覚えがある。去年の春、これと同じ書体の呼び出し文によって昼休みに部室にさそわれた俺は、ちようぜつグラマー美人となった朝比奈さん(大)に会ってホクロの位置ともっと重要なヒントをもらった。差出人は彼女で間違いない。

 しかしお願いされてもなぁ。何しちゃってもいいのかい、朝比奈さん(大)。許可されているのはチュウまでじゃなかったっけ。

 ちなみにこの手紙は今俺のそばにいる朝比奈さんにも開示ずみだ。彼女にも見せていいブツのはずである。朝比奈みくるをお願い──という一文でわかるだろう。これが俺だけにてられた秘密指令なら、その部分は朝比奈みくるではなく『わたし』となっているだろうからだ。

 便せんを持って食い入るように見ていた朝比奈さんは、「どういうことでしょう……?」とつぶやき、将来的に自分が書くことになるのだとはまるで気づいていない──らしい。

 だが、うすうす感づいていてもおかしくはないんだ。二度目の十二月十八日、あの時、彼女はそこに俺でも長門でも朝倉でもない第四の人間がいるのを見た。すぐにねむらされたが、そうされたがゆえに朝比奈さんはその女性に何らかのいわくを感じたはずだ。

 そして先月、ハルヒの近所に住んでる眼鏡めがね少年をワンボックスカーから助けてやった時、しょぼんとした朝比奈さんを見てられなくて歯切れの悪いなぐさめを述べた俺から読みとった情報も彼女の中にきっとある。今の朝比奈さんがどこまで気づいたかは解らないが、古泉の言うとおり、SOS団の連中は全員が少しずつ変化しつつあるようだ。

 古泉いわく、ハルヒがへい空間を生み出すひんが減っている。

 また古泉いわく、長門の宇宙人的ふんが減少しているようでもある。

 そう言う古泉、お前だって以前とはちょっと違うだろ。なあ、副団長殿どの

 俺の見た感じ、ハルヒはじよじよにだが周囲にけ込み始めているように思える。文化祭での臨時ボーカルもそうだし、コンピュータ研とのゲーム対戦、年末年始の冬合宿など、高校一年の初っぱなに取りつく島もなかったころと比べるとほとんど別人のようによく笑うし、無関係な他人ともちゃんとした意思つうができてるもんな。

 ──宇宙人、未来人、異世界人、ちようのうりよくしやがいたら、あたしのところまで来なさい。

 ──宇宙人や未来人や超能力者を探し出していつしよに遊ぶことよ!

 まるで実現したと知っているかのようだ。

 それもこれも全部まとめて成長なんだと思いたい。

 もっとも、俺がどれだけ成長したかは自分では解らないが。



 半時ほどの時を経て、俺が朝比奈さんを上がり込ませたのは俺の自宅だった。

「そっかー」

 朝比奈さんは上がり口でうわきをぎながら、

「キョンくんが部室に来なかったのは、こういうことだったんですね」

 のんに感心する声を出している。

 そりゃあ朝比奈さんを彼女自身の部屋にもどすわけにはいかないから、そうなっては行くべきところがほかに見あたらず、どこかに朝比奈さんみたいな時間ちゆうざいいんがいて下宿しているのだとしたら身を寄せてもいいんじゃないかと思ったが、

「そんな人がいるのかもしれませんが、あたしには知らされてません」

 ドッグレースを終えたばかりのウイペットのような顔で言われては引き下がるしかない。朝比奈さんの悲しみは深く、事態はちゆうのど真ん中にせんしている。ようするにわけが解らないのだが積極的に解りたいとも今は思えず、そんな俺たちのこんわくとは関係なしに朝比奈さんに飛びついたのは妹である。

「あ、みくるちゃんだ!」

 ベッドの下にげ込んだシャミセンを引きずり出そうとしていた妹は、俺が自室のドアを開けるやいなわきもふらずに朝比奈さんに体当たりして北高男子生徒すいぜんの美少女をよろめかせた。

「お、おじゃまします」

「わぁ。あれ? キョンくんとみくるちゃんだけ? ハルにゃんは?」

 妹はきらきらした目で朝比奈さんを見上げ、俺は小学五年生十一歳のえりくびをつかんだ。

「ハルヒならまだ学校だ。それから俺の部屋に勝手に入るな」

 何度言ってもなのは解っている。おかげで見つかって欲しくないブツのかくし場所に苦労するんだ、これが。

「だってシャミが出てこないんだもん」

 妹は朝比奈さんのスカートのすそをつかんだまま、にへらと笑い、

「有希は? 古泉くんは? 鶴屋さんは? 来ないの?」

 とにかく耳に届いたあいしようをすぐさま採用してしまうのは俺がキョンくんなどと呼ばれていることからも明らかだろう。人生のせんぱいそんすうしようとするがいねんを持たない小学生、それが我が妹である。だれか俺をお兄ちゃんと呼んでくれ。たまにでいいから。

「あ。デート? ねえ」

 俺は妹をたたき出し、これまでになくカッチリととびらを閉めた。

「さてと」

 朝比奈さんと向き合って座り込み、

「この一週間の出来事をかいつまんで教えてください」

「うーん」

 迷うような仕草をして朝比奈さんは、

「八日前の……今日ですけど、あたしが部室に行くと誰もいないのにストーブがついてて」

 それはさっき見た。

えをしていると長門さんが来て、非常階段のおどに……」

 それもちゆうまでは見た。

「戻ってきたらキョンくんのかばんがなくて、古泉くんがいました」

 タッチの差だったわけだ。

「三十分くらいして涼宮さんも来ました」

 けっこう長い進路相談だったな。だったらあわてることもなかったか。

「涼宮さん、ちょっとおこってたみたい」

 進路の件でもめてたんだろう。あいつの志望する将来を記したエントリーシートはどこにも用意されていない。あったら俺でも欲しくなる。

こわい目をして窓をにらんでました。それからお茶を三ばいおかわりして──あっ」

 部屋のかたすみにいるばくれいでも見たように朝比奈さんは目を見開き、

「涼宮さん、キョンくんがいないのに気づいて……」

 気づいて?

「電話を、」

 そのセリフと俺のけいたい電話が鳴り出すのが同時だった。

 しまった。

 よく考えたら今朝比奈さんが語っているのは彼女にとっては録画だが、俺には現時間でのじつきようちゆうけいだ。ゆうちように聞いている場合ではなかったのだ。無断欠席のイイワケをまだ思いついていない。せめてマナーモードにしておけばよかった。出ないとかえってあやしまれる。が、その前にいておこう。

「朝比奈さん、俺はこのとき電話に出ました?」

「うん、出たみたいです」

 じゃあ、出たほうがいいな。

「もしもし」

『どこにいんのよ』

 ぶしつけなハルヒの声はどこかイラだっている様子である。俺は正直に答えた。

「自分の部屋」

『なんでよ。サボり?』

「急用ができたんだ」

 この辺からうそを交えないと。

『何よ、急用って』

「あー……」

 ちょうどシャミセンがのそりとベッドの下からい出てきたのが目にまる。

「あれだよ、シャミセンが病気になったんで動物病院に連れてった」

『あんたが?』

「ああ、家には妹しかいなくてな。俺にれんらくしてきた」

『へぇ。何の病気?』

「えー……円形だつもうしよう

 適当に放ったセリフを聞いて、なぜか朝比奈さんが口元を押さえた。

『シャミセンが脱毛症ですって?』

「ああ。医者の話ではストレスから来るものらしくてだな、現在自宅静養中だ」

ねこにストレス感じる精神なんかあんの? だいたい自宅静養って、それ、シャミセンにはいつものことじゃん』

「まあそうなんだが、ほら、うちの妹が構い過ぎるのがよくないらしいんだ。だから俺の部屋を妹立ち入り禁止地区に指定してシャミセン保護区にすることにした」

『ふーん』

 なつとくしたかどうか、ハルヒは鼻を鳴らして押しだまり、次にこう言った。

『あんた、今誰かといつしよにいる?』

「…………」

 俺は携帯電話を耳からはなして通話時間をカウントする画面表示を見つめた。

 なんでわかるんだ? 朝比奈さんは一言もしやべってないし、うっかり声をらさないように両手で自分の口を押さえているのに。

「誰もいやしねえよ」

『あら、そうなの? あんたの口調がおかしいから、てっきりそう思ったんだけど』

 かんするどいところは相変わらずだ。

「シャミセンだけだ。なんなら代わろうか?」

『いいわよ別に。お大事にって言っといて。じゃあね』

 意外にあっさりと切れた。

 俺はベッドに携帯をほうり出し、朝比奈さんのひざにすり寄るねこの模様をながめながら、さてどこの毛を丸くってやろうかと考えた。まかりちがってハルヒがいに来るようなことがあれば困るからな。

「この後、ハルヒはどうしてました?」

 シャミセンの耳の後ろをこしこししていた朝比奈さんは、思い出し顔になって、

「うーんと、五時過ぎまで部室にいて、それからみんなで帰ったの。涼宮さんは……そうだなぁ、なんとなく物静かでした。部室でもずっと雑誌読んでただけだったし……」

 ハルヒの気味の悪いおとなしさが、ついに朝比奈さんにも解るまでになっていたか。

 ほかの連中はどうだったのだろう。長門が事態を解ってくれているのは確かだが。

 朝比奈さんの指使いに引かれるように、シャミセンはのどを鳴らしながらセーラースカートのひざぞうに前足を乗せた。そのまま膝の上をせんきよしたシャミセンの背に手を置いて、

「いつもと違うところはなかったような……。ごめんなさい、よく覚えてないんです」

 しようがないでしょうね。俺だって一週間前の古泉の表情なんて細かく覚えていない。問われればいつもの調子だった、としか言いようがないな。

「他には? 明日とか明後日あさつてとか」

 ゴロゴロと鳴くシャミセンの尻尾しつぽを軽くつかんでいた朝比奈さんはし目で、

「どこまで言っていいのかな」

 俺の未来スケジュールを教えてくれたらそのまま実行するつもりだが。

「ええと、次の祝日に宝探しをみんなでします」

 宝探しだ?

「うん。涼宮さんが宝の地図を持ってきて、それでみんなであなりに」

 穴掘りぃ?

「そう。鶴屋さんが涼宮さんにあげたんです。実家のくらを整理してたらご先祖さまが書いた変な地図が出てきたって、こう、」

 空中に白魚のような指を泳がせ、

すみで絵がいてある古い地図でした」

 鶴屋さん……、あなたまたやっかいなものをハルヒにくれてやったものですね。しかも穴掘りだと? 平安京の使じゃあるまいし、いったいどこを掘ったんだ?

「やま」

 朝比奈さんの返答は簡潔をきわめていた。

「鶴屋さんの私有地にある山です。学校の帰り道に坂のちゆうから見える丸いやつ」

 聞いているだけでくたびれる。おんしゆう彼方かなたにじゃあるまいし、山登りの後でくつさく作業とは、このクソ寒い二月にするにはたいかん遠足なみにたわけた行事だ。断っておくが鶴屋家の持ち山ってとこにサプライズポイントはないぜ。べつそうに私設ゲレンデがずいしていたくらいだから地元の山脈一つくらいはゆうで持っていなさるだろう。

 俺はためいきかくそうともせずに、

「んで、宝は見つかりました?」

「え……いいえ」

 答える前に口ごもったような気もしたが、朝比奈さんはプルプルと首をった。

「昔の宝物はどこにもまってなかったの」

 聞かなきゃよかった。せっかくの祝日にもかかわらず、どうやら俺は見つかるはずのない宝を求めてトレジャーハンターの真似まねごとをしなくてはならないらしい。ぼねで終わることをあらかじめ知っている作業ほどむなしいことはない。

「その次の土曜日と日曜日にも……」

 まだ掘るんですか? いっそ鶴屋家の庭先をボーリングしたほうが何か出てくるんじゃないでしょうか。温泉とか。

「いえ、土日はあれをしました。ええと、市内のパトロール」

 なるほど、あれか。この世の不思議を探すためにそこらをウロウロするというSOS団のメイン活動であるところの、あれだ。そう言えば久しくやってないが、それにしたって、

「二日連チャンでやることもないだろうに」

「ええ……でも、いえっ。そうです」

 朝比奈さんは何故なぜか目をらし、

「月曜日も学校がお休みでしたから……」

 言われてみて思い出した。来週の月曜は特別クラスのすいせん入試がじつされるってんで学生どもは登校しなくていいんだった。

「不思議なことが見つかったんですか?」

 そのせいで朝比奈さんが一週間前に来たのかと思ったが、

「いいえ」

 しゆんじゆんなくくりいろかみが横に振られた。

「いつもと同じ。お茶飲んで、お昼ご飯食べて……」

 ますます首をひねっちまう事態だ。聞く限り朝比奈さんが時間こうする理由も俺がそんなことを命じる動機もどこにもない。これが一年後とか、せめて月単位のスパンならまだわからんでもないが、来週から今週に来て何かちがいがあるか?

 俺は転げ回るシャミセンの腹のじゆうもうをわしわししている朝比奈さんをそれとなく観察した。

 今回、たったの一週間でいいなら長門の力を借りずして長門方式が使える。去年の七夕から四年前の七夕に移動した俺と朝比奈さんは、三年間の時間とうけつを経て元の時間帯に復帰した。その教訓をいかせばいいのだ。この朝比奈さんをだれの目にも止まらないところに一週間おいておくだけで、そのうち彼女は元いた時間に追いつくこととなる。コールドスリープの必要もなく、へいがいと言えば一週間分年長になるだけだが、そのくらいなら大して違わん。

 しかしなぁ、それじゃ本当に意味がなくなるんだよな。何かあるはずなんだ。朝比奈さんがここにいるのは八日後の俺のわざで、そして手書きされた朝比奈さん(大)のメッセージ……。

「俺の様子はどうでした? それらしいことをしたり言ったりしてなかったですか」

「うーん……」

 朝比奈さんはうっとりと目を閉じたシャミセンの肉球をぷにぷにと押すばかりである。

 切り口を変えよう。

「八日後の俺、そいつがあなたに時間旅行するよう言ったじようきようを教えてください」

「それならよく覚えてます。あたしには今日のことでしたから」

 ねこから手を放し、朝比奈さんは空中に縦線を何本か描いた。

「中庭で有料イベントをしてたんです。SOS団しゆさいのクジ引き大会」

 なんじゃそら。

「アタリを引いた人に……その、ごう賞品っていう一人五百円のアミダクジです。涼宮さんが拡声器で人寄せをして……」

 おおかた部費の足しにしようとしたのだろう。

 朝比奈さんはしやべりにくそうに説明する。

「あたしが商品をわたす役だったの。参加者がいっぱいいてちょっとこわかった……」

 節分イベントのしゆがえしをくわだてたのだろうか。

「朝比奈さん、その時どんな格好をしてました? もしかして巫女みこさん?」

「え。どうして解ったの?」

 ハルヒのやりそうなことだったからな。目立つためにはまずしようから始めるのがハルヒのりゆうである。とにかく目立ったもの勝ちだと思っている。朝比奈さんはつうの状態でもかなり人目を引く目鼻立ちを持っているが、そうしよくを加えることによって説明不能な不思議パワーがやく的に増大するのだ。パラメータ的にはりよくってやつだ。

「あたしがアタリの人に賞品を渡して、あくしゆして記念写真をってたら」

 朝比奈さんはずかしそうに、シャミセンのほおの毛をつまんでいる。

「キョンくんがいきなりあたしの手を引いて部室に連れていきました。大急ぎで制服にえるようにって、よく解らなかったけどその通りにして、そしたらそう用具入れに入るように言われて、八日前の三時四十五分にべって。そこに俺が待っているから、後はそいつの言うとおりにすればいいからって」

 模様をなぞるようにねこの背中を人差し指でこすりつつ、朝比奈さんはうつむいた。

「TPDDの使用許可はすぐに下りました。あり得ないくらいにすぐだったわ。まるであたしがしんせいするのを待っていたみたい」

 どうやらそうらしい。朝比奈さん(大)にはあらかじめ解っていたことで違わないだろう。解らんのは、どうして八日後の俺が未来人の計画に一枚んでいるのかってことだ。あのグラマラス美女の朝比奈さんが、この俺の朝比奈さんと時間をへだてた同一人物だってのは解る。しかしくつと感情は別物だ。小さい朝比奈さんに理由の知れない時間移動を何回させれば気がすむんだ? そろそろ教えてやってくれよ、朝比奈さん(大)。

 でないと俺がすっきりさわやかにすべてをゲロしちまうぜ。

 俺の目の前にいる朝比奈さんは、またもやうつ気味な表情になっていた。先月の一時期と同じ、非力さを恥じるようなかげが額にいているが、非力であることなら俺だって負けてはいない。今だって、これから誰をたよろうかと考えているくらいだからな。

「ふう」

 俺と朝比奈さんが同時に息をき、シャミセンが退たいくつそうに欠伸あくびをした。その時、

「キョンくんー、あけてー」

 ドアの向こうから妹が声を張り上げた。その声の通りにしてやると、ジュースとカステラのったトレイを危なっかしく持ってひょこひょこ入って来る。おふくろが気をかせたのだと言うのだが、三人ぶんあるところを見るとこいつはこのまま居座るつもりらしい。おそまきながら気づいた。朝比奈さんと自室で二人という絶好の状況に置かれていたのに、まったくそれらしいふんを味わっていないじゃないか。今からでも出て行かないかと眼力を利かせてみたものの、妹は俺をいつだにせず朝比奈さんのとなりにちゃっかりと座り込み、

「シャミ、カステラ食べる?」

 ちぎったケーキ地を猫のはなづらに持っていく妹を見て、朝比奈さんはやっとやわらかいがおを作った。

 妹もたまには役に立つ。このじやさを成長とともに失わないよう、兄としていのるばかりだ。



 猫を間にはさんだ妹がひとしきり朝比奈さんとじゃれるという時間が過ぎ、俺と朝比奈さんはようやく我が家からだつしゆつした。

 うでけいは午後六時十五分を差している。空はすっかり暗く、立春はまだ来月だ。

「どうしましょう、キョンくん」

 隣を歩いている朝比奈さんが白い息を吐きながらつぶやく。歩き方がおぼつかないのは、余ってた俺のくつを貸しているからだ。うわきよりはマシだろうと思ったからだが、シンデレラにあつらえるには大きすぎたかな。

「そうですねえ」と俺も息を吐いた。

 このまま朝比奈さんを自宅にとどめ置きたい気分でもあったし、そのほうが妹も喜ぶだろうが、何をどう考えたって不自然きわまりない。特に俺の両親は彼女が自宅に帰れない事情を聞きたがるだろう。これも万が一、うわさがヒレをまんさいさせてハルヒの耳に届くようなことになれば、現実的な危機が俺の身におとずれることは確実だ。シャミセンの毛はったとしてもまた生えてくるが、朝比奈さんの存在を消し去るわけにはいかない。朝比奈さん俺ん宿しゆくはく計画はもうそうに留めておいたほうがよさそうだ。

 がらな上級生の歩みはしやこうしがちである。うでれるまで接近してはビクッとしてはなれるという仕草がこのおよんですら愛らしい。合わない靴のせいだけではなさそうだ。無意識に頼られているのだとしたら俺もちょっとうれしいのだが、これまた嬉しがってばかりはいられない。朝比奈さんに寄りかかられてすべてを受け止めることができるほどきようじんな自信は俺の内部に発生していない。たおれたドミノは次のドミノを倒し、最後の一枚に行き着くのだ。

 では、こんな時に頼るべき最後のドミノはだれかと考えたら、思いつく候補者はそれほど多くなかった。

 まずハルヒは完全に除外だ。どうしてかなどとくヤツがいたら俺はそいつの頭をイレイザーヘッドにしてやって何らじることはないだろう。

 現時点にいるもう一人の朝比奈さんは論外だ。ダブルでおろおろするツインズが一組増えるだけで解決にはほど遠くなる。何よりタイムパラドックスについてこれ以上考えるつもりはない。

 古泉にはまだしも多少のしんらいかんを持ってやってもいいが、あいつの所属する『機関』とやらが未来人をどうあつかうかは未知数であり、そんな得体の知れない組織に朝比奈さんを預けたら何をしやがるかわからない。新川さんや森さんと多丸兄弟は善人にしか見えなかったが、彼らが古泉のしようするようなしたでしかないとしたら、その上でさいはいしているろうどもにぜんぷくの信頼を寄せるには信用度がちと足りないね。

 従って、単純な消去法により一人の名前が浮かび上がる。すでに俺たちのことを解ってくれているなる存在にしてSOS団のかげの実力者。正体不明な親玉をトップにいただいているにしても古泉のところほどそくぶつ的ではない存在……。

 残ったのはあいつだけだ。

 そういうわけで、どこに向かうべきかと考えたら、やっぱそこしかないわけだ。

 つまり、長門の出番である。こうなりゃきたとかまたかとか言う以前の問題だ。未来人と宇宙人はワンセットとして考えたほうがいいのかもしれん。未来から過去に来るプロセスには必ず長門の部屋に向かうようルート設定されてるんじゃないかね。

 それに──、と俺は思った。

 この朝比奈さんを現時間での自分の目に留まらないよう、そっちの朝比奈さん(現)を部室からさそい出してくれたあいつのことだ。ひょっとしたら事情まで説明してくれるかもしれない。

「長門さんのところにですか?」

 しかし朝比奈さんは俺を見上げ、たんに足取りをゆるくした。俺は元気づけるように、

「あいつならだいじようですよ。部屋は余ってたし、一週間くらいならめてくれるでしょう」

 何なら俺もを持ち込みたいくらいだ。イイワケさえ思いつけたらな。

「でも……」

 視線を落とし気味に、

「長門さんと二人でいるのは、ちょっと……その。一週間も……ですか?」

 ビビる必要はないでしょう。長門が朝比奈さんに危害を加えるなんざありえません。今までだってさんざん世話になったし、この前は連れだって時間旅行した仲じゃないですか。

「それは解ってますけど……」

 不思議なことに、このとき朝比奈さんは俺をとがめるような目でチラリと見て、

「あたしがいつしよにいたら長門さんはあんまりおもしろくないんじゃないかな……」

「へ? 何でです?」

 長門がどんなものを面白いと思うかどうか、なぜ朝比奈さんに解るんだ? あいつなら自分の十センチ横でラリッた薬中がはだかおどりしてようがピクリともしないと思うのだが。

 俺が答えを期待して見つめていると、朝比奈さんはぷくりとほおふくらませ、すぐに前を向いてねるように言った。

「……いいです。もう」



 最小限の言葉で言いたいことが伝わるというのが長門のいいところであり、この時もそうだった。マンションのエントランスですっかりもんが慣れ親しんだナンバーキーとベルボタンを押した俺の耳に届いたのは、

『…………』

 いつものような無言のリアクションだ。

「俺だ。朝比奈さんもいる。ちょっとワケがあって、」

『入って』

 何回やったかな、この会話。俺が朝比奈さんを大小かまわず連れ込んだのは、えーと、これで四回目か。一回目は四年前の七夕で、二回目もその日、三回目は先月の二日だった。

 朝比奈さんがちょっぴり不安そうなのも毎度おなじみの光景で、それはエレベーターから七階の通路を歩いている最中も変わらない。俺のすそをギュッとにぎりしめているところがたとえようもなく小動物チックで、この人を守らないと言うなら守るべきものなど地球を粉末にして調べたとしても出てこないだろう。

「…………」

 長門は部屋のとびらを半分開けて身を乗り出すように待っていた。制服姿なのもすっかり見慣れている。こいつの私服でいるのを見たのは夏合宿が最初で冬合宿が最後だ。俺たちを見つめる目には特に言いたげな意見はかんでいないようだったが、朝比奈さんは早くもよわごしになっている。

「あの……すみません、長門さん……。なんだか困るとここに来ているみたいで……」

 実際その通りなのだが。

「いい」

 長門は冷然とうなずいた。

「どうぞ」

 朝比奈さんのおっかなびっくり感は、長門の対応に慣れ親しむ指針として、太陽系からバーナード星系までへのきよが横たわっているようだ。俺が背に手を当ててうながし、ようやく足をみ入れる。先月、この部屋の客間でねむったとは思えないほどのえんりよがちなふんだった。

「おじゃまします……」

 かつての長門宅の殺風景さ加減は、ひとえに必要最小限のものしかないという事実に裏打ちされていた。今では最初に昨春に俺が呼ばれたときはなかったカーテン、ペイズリーがらの冬用のものがリビングの大窓にかかっていた。それだけでもけっこう印象が変わるものだ。かべの横にはクリスマス以来放置されたツイスターゲームが丸めて立てかけられていたりもして、とは言うもののテレビもなければじゆうたんもないのは見たままだ。通されたリビングにあるのはコタツになるがとんのないえ置きテーブルだけである。ぜひしんしつながめてその有りようを確かめたいものだと思うが、見ないほうがいいような予感もする俺だった。もし、その部屋がファンシーな壁紙やレースにふちられた壁掛けにいろどられ、てんがい付きのベッドのまくらもとに羊のぬいぐるみでもあった日には俺は長門に関するあらゆるいつさいの前提条件をゼロにして一から情報構築を再開しなければならない。そこに至って俺がコメントすべき言葉はメソポタミア文明れいめいさかのぼっても存在しないだろうと思われる。明日になったら朝比奈さんからの伝聞情報として聞き出しゃいい。

 今は別のことをかなきゃならん。

「なあ長門、お前はこの朝比奈さんが未来……」ってのはどっちにしろ当たり前か。「じゃなくて、八日後の未来から来たもう一人の朝比奈さんだってことを知ってるな?」

 俺は居間のコタツテーブルわきに座りながら言った。

「知っている」

 長門は俺の正面に正座しつつ、まだ立ったままの朝比奈さんへ目を向けた。ぴくっとした朝比奈さんは、あわてて俺の横にちょこんと座り、うつむいた。

「朝比奈さんは自分がこの時間にんできた理由がわからないそうだ」と俺が説明した。「話によるとその時間の俺が行くように言ったようなんだが……。ひょっとして長門、お前には事情が解っているのか?」

 たとえ解っていないのだとしても、こいつなら未来の情報を教えてくれる可能性は高い。だから、

「解らない」

 と、あっさり言われても俺はどうようしなかった。なに、これから解ってくれたらいい。あの同期というやつとかでさ。

 しかし長門は俺の期待をあっさりと裏切ってくれた。

「できない。現在のわたしは、過去未来を問わずいかなる時空連続体に存在する自分の異時間同位体と同期することが不可能」

 なぜ、と俺が言う前に、

「禁止処理コードをしんせいしたから」

 まだ解らん。なぜだ。

「わたしの自律活動にをきたす可能性があると判断した」

 それがふういんだとすると、お前の親玉がやったのか。

「情報統合思念体は同意しただけ」

 長門の無表情はどこかえとしていた。

「わたしの意志」

 長門は電報を復唱するような声で言った。

「解除コードは暗号化され、わたしではないインターフェイスの管理下に置かれている。わたしの意志では解除できない。そのつもりもない」

 えーと、ようは長門は未来の自分とは情報こうかんできず、もう未来の出来事を知るすべはないと。当然、八日後から朝比奈さんが来た理由も不明だと。じゃあ俺はどうしたらいいんだ?

「あなたの判断で行動すればいい」

 しんな黒いひとみに俺の姿が小さく映っている。

「わたしがそうしているように」

 俺はあごを垂らすしかない。長門が自意識を語っている。ひょっとして俺は今、長門に説教を受けているのか?

「同期機能を失うことで自律機動をより自由化する権利を得た。わたしは現時点におけるわたしの意志のみによって行動する。未来にそくばくされることはない」

 長門にしてはおしゃべりだった。何がそうさせているんだ。

「未来における自分の責任は現在の自分が負うべきと判断した」

 長門は俺を見つめている。

「あなたもそう。それが」

 長門はゆっくりと言葉をいだ。

「あなたの未来」



 俺は目を閉じて考えた。

 仮に予知能力があったとして八日後までの自分の行動を全部知ることができたとしよう。ついでの仮定として、その結果をどうやっても変えられないということも知ったとしよう。どうやっても未来を変えられず、何をやっても結局はそこに行き着くとして、だからと言って仕方がないとあきらめるのは正しいことだろうか。

 あれこれといた結果、どうしようもなくてそうなってしまうのと、だったらしょーがねーやと始めから何もしないのと、行き着くところは同じだとして、それで何もかも同じだと言えるか?

 長門は足搔いたはずだ。こいつは自分がエラーを起こすことを知っていた。そうならないように努力したであろうことは疑問形にする労力もしいぜ。もしや知っていたことが原因だったのかもしれないが、どうあれ結果的にああなっちまった。だれが悪いとかいう次元の話じゃねえ。悪いのは俺だ。長門が変化しているのを感じながらそれ以上何も考えなかった俺が原因なんだ。少しはハルヒにもかたわりさせてやりたいが、こればっかりは誰にも背負わせたくない精神的荷物だ。

 先月、未来の長門は過去の長門に向かって言った。

 ──したくないから。

 自分がやるべきことをあらかじめ知らせたくはなく、知りたくもなかったからだ。

 長門は自分が取るべき行動を取ることを知っていた。自分をしんらいしていたのだ。

 あらためて決意するまでもない、俺だってそうしたじゃないか。

 俺は未来から来た自分の声を聞き、過去に行ってそこにいた自分に同じことを言った。今後どうするかなんて聞いていないし、どうすべきかなんて言っていない。

 ──どうにかなることはもう解ってるんだ。

 そして俺はどうにかしてやった。だから俺は今ここにいる。

「だいじょうぶ」

 長門の声で我に返った。黒い無感情な瞳がいつもよりかがやいて見える。

「わたしの最優先任務はあなたと涼宮ハルヒの保全」

 朝比奈さんも入れてやって欲しいね。オマケで古泉もな。雪山のやかたではけっこうお前に肩入れするようなことを言ってたぞ。

 長門はうなずいた。

「敵性存在が意図を持ってかんしようしてきた場合には」

 たとえば、どんなやつだ?

「情報統合思念体と起源を異にする広域帯宇宙存在。かつて、わたしたちを異空間にかんきんした」

 雪山さんそう事件のろうだな。

「それらは情報統合思念体と遠くはなれた──」

 長門は言葉を探すように口を閉じてから、

「──位置、に存在していた。たがいの存在をかくにんしてはいたが、せつしよくはなかった。そう理解は不可能と結論されていたから。しかし、彼らも気づいた」

 何に。

「涼宮ハルヒに」

 久々に味わうこの気分を何と表現しようか。誰も彼もがハルヒを特別視して、あいつのいを見守り、時にはちょっかいまで出す。

「雪山のそうなんはそいつらの手引きによるものか……」

「そう。わたしにをかけ、独力での危機かいを困難なものとした」

 そのころ、お前の親玉は何をしていたんだ。ひるか?

「有機たんまつの機能では情報統合思念体の総意を完全に読みとることはできない」

 しかし、と長門は二ミリほど首をかたむけ、

「それらが発信したコミュニケーション手段の一種だと認識したように感じる」

 どういう話し合いだよ。俺たちをまるごと閉じこめやがって。そんなアプローチは現代社会では通用せんぞ。

「それらは我々とは完全に異質であり、思考プロセスの理解は不能とされる。それらも我々の思考を理解することはできないと推測されている」

 どうやってもかよ。そいつらがハルヒをどう思ってんのか俺はきたいけどな。

「完全な情報伝達は無理」

 だろうな。ハローの代わりに吹雪ふぶきを持ってくるような能なしどもらしいし。

「少しならば可能かもしれない」

 長門は縦方向に首を動かし、

「それらがわたしと類似機能を持つヒューマノイドインターフェイスを創出すれば、不完全であるが言語をかいしたコンタクトを取ることが可能となる。確率は高い」

 まさか、もうどっかその辺にいるんじゃなかろうな。

「ありえる」

 ありえて欲しくないが、出てこないほうが不思議になっているこの感じも何としたもんだろうね。

「あ……」

 呼気のような声をらしたのは朝比奈さんだ。

「まさか……」

 朝比奈さんは何かに気づいたような、しかもおどろくべきことに思い当たったような顔で長門を見た。長門も朝比奈さんを見た。俺は二人を見て、未来人と宇宙人が見つめ合っている様子に少し驚いた。

「どうしました?」

「いえ、なんでもないです。ほんと、何でも……」

 あわただしく表情を動かしている朝比奈さんにあっけにとられていると、すっくと長門が立ち上がった。

 俺たちを見下ろすように、

「お茶を用意する」

 そう宣言してキッチンに向かいかけ、ちゆうで立ち止まって振り向いた。

「それとも」

 何を言うのかと俺が口を開けて待っていたら、疑問形の短い単語が降ってきた。

「晩ご飯?」



 長門の今日の晩飯メニューはかんりのレトルトカレーだった。五人分はありそうなデカい缶をそのままなべで温めるだけという調理には、何とも言えない長門らしさが感じられる。ここにハルヒがいたら、せっかくのカレーに余計なものをドバドバとほうり込むだろうと想像して、俺はこれまた何とも言えない気分になった。うまさと楽しさのどっちを優先すべきかと。

 そういやすっかり晩飯時だったんだな。

 朝比奈さんが居間に座ったままもじもじとしているのは、長門がじっとしているように命じたせいだった。手伝いを申し出た朝比奈さんに、

「お客さん」

 と告げた長門は、もくもくと夕食の用意を開始した。だなからカレー缶を取り出し、キャベツを一玉千切りにしただけだったが。

 やがて深皿にきたてご飯を山盛りにし、レトルトカレーをぶっかけるというシンプルな中にもごうかいさ感のあるメインディッシュと、これまた大盛りのキャベツオンリーサラダが俺と朝比奈さんの前にはいぜんされてきた。きようしゆくしきりの朝比奈さんはぺこぺこと頭を下げつつ皿を見下ろし、山脈のようになっている大量のカレーライスに胃痛を飲み下すような表情で固まってひとつぶあせをタラリと流した。

 長門は自分の席に着くと、

「食べて」

「い、いただきます」

 もちろん俺も手を合わせる。カレーのにおいをいだたんに鳴り始めていたぶくろが待ちわびていたからな。手料理でないのは少々残念だったが、レトルトもたまにはいいもんだし、無音でカレーの山を切りくずす長門のいっぷりとぎよう良く食べる朝比奈さんの姿をながめながらの食事もおつなものだ。話がはずむわけではまったくないものの(ハルヒがいれば一人でしやべくってくれるのだが)、しよくたくの風景としてはこれ以上を望むべくもない。

 その後、目を白黒させる朝比奈さんが残した半分以上のカレーを長門と共同で山分けし、食後にこれも長門がれてくれたお茶を飲んだところで、

「ごちそうさん。じゃ、まあ俺はこのへんで」

「えっ。キョンくんもまるんじゃないんですかぁ?」

 お茶を上品に飲みながらみぞおちを押さえていた朝比奈さんがドングリ目を見開き、長門までが湯飲みに口を付けたままじっとした目線を送り込んできた。

「いや、俺は……」

 ここで「それもいいですね」とか言ってしまった場合のもうそうがバサードラムジェットエンジン暴走中の宇宙船ばりの速度で頭をけめぐった。長門から借りたパジャマを着た朝比奈さんが湯上がりのかみをバスタオルででつけながらはにかんでて、その横で長門が頭から湯気を立てて牛乳をこくこくと飲んでいたりするシーンがフラッシュしては消えていき、和室にいた二組のとんの思い出へとおくこうし、関係ないのに何故なぜか脳内スクリーンにアップでハルヒのアカンベーが出てきたあたりで我に返った。

「今夜は帰りますよ。明日、学校終わりに寄ります」

 それから部屋の持ち主にも、

「いいか? 長門」

 こくりとする長門。俺はなおも不安そうな朝比奈さんにうなずきかけ、

「それまでここでじっとしておいてください。ま、何とかなりますって」

 気休めじゃないぜ。いざとなったら長門に時間とうけつしてもらえばいいのだ。一度目の七夕のときにはそうして三年後までもどってきたのだから一週間なら楽勝だろう。加えて俺には別の予感もある。朝比奈さんが意味もなく時間遡行してきたはずはなく、八日後の俺がそうしろと言ったのには何か理由があったはずだ。未来のことなのに「あった」と表現するのも変だが、その確信はるがない。まだポケットに入っている例の手紙が教えてくれている。

 だろう? 朝比奈さん大人バージョンさん。

 この件にあなたがからんでいるのはちがいのないことですよね。



 いじましいまでに欲をそそる朝比奈さんのおどおど顔に別れを告げ、俺は真冬の夜空を見上げながらについた。

 その途上で考えることと言えば、長門の能力制限告白のことである。古泉、お前の予感は正しいのかもしれないぞ。長門がつうの女子高生になり、情報統合思念体とはえんの存在として文芸部室の一員になる日も遠くないのかもしれない。そしたら、俺も困ったことが起こるたびに長門の力を借りに行かなくてもすむ。余計な負担をあたえずにすむ。いつしよに困ることのできる普通の仲間になれる。

 長門の力がなければ、当然今よりもっと困り果てることだってあるだろう。

 だが、それがどうしたというんだ?

 去年の十二月、ハルヒや古泉がいなくなったり朝比奈さんが俺を知らなかったりした、あのおかしくなった世界を元に戻したことにこうかいはない。だが、少しは未練も残ってるんだ。朝倉がおでんを持ってきたあの日の帰りぎわ──。

 あのひかえめなしようをもう一度見たかった。

 それがこの世界でもありえることなら、ぜひそのほうがいいのさ。

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