プロローグ

 すずみやハルヒがおとなしい。

 ゆううつそうでもためいきらすわけでも、実を言うと退たいくつそうにも見えないのだが、ここ最近どこかみような静けさを感じさせ、その正体不明なおとなしさが俺なんかにはけっこう不気味だ。

 もちろん、ただ物理的に静かにしているわけではなく、ましてやじようちよ的におしとやかになったわけでもない。すでに形成された性格をちょっとやそっとで変えちまうほどハルヒは自分に疑いを持っておらず、大体そんなことになったらまた俺が困るハメになりそうなので今さらきようせいしてやろうとも思わないが、何というか、年中放射しているだろうキルリアン写真的なオーラが燃えさかる赤からだいだいいろに変色しているようなみようなおとなしさをまとわりつかせているのである。

 クラスの連中で、こいつのふんがいつもとちがうなどと気づいているヤツは一人か多くても二人だろう。そのうちの一人がだれかは確実に名指しできる。つまり俺だ。入学以来俺の背後に居座り続け、放課後になってもつらを付き合わせているおかげで気づけたようなもんだから俺以外の誰も気づかなかったとしても無理はない。おとなしいとはいえしんばんしように向かってちようせんし続けているような目つきは健在だし、いったん動き出せば満足するまで止まらない行動力もそのままだし。

 先月の終わりごろにおこなわれた校内百人一首大会ではしくも二位にとどまったが、今月の頭にやった校内マラソン大会では堂々の優勝をかざり、ちなみに百人一首の一位はなが、マラソンの二位も長門だった。ようするにSOS団の団長と読書係が文武そろってワンツーフィニッシュを決めるという、いったいこの団は何をしたいのか全校生徒があらためて首をひねったことだろうが、かく言う俺もそのうちの一人だ。

 一つだけ理解可能なことがあるとしたら、これまでの経験上、ハルヒがこんな顔と空気を作り上げている時は次はどんなわるだくみを思いつくべきか考えていると見てちがいないってことである。そして考えついたしゆんかんに実にいいがおへと切りわることも絶対確実だ。

 そうじゃなかったときが思い出せないからな。あったっけ? 俺の脳内にある歴史の教科書にハルヒがこうじよう的におとなしくしたまま引っ込んでいたなんていう年表が。

 一時的なへいおんは、次に来るおおなみを予言する確かな前兆にほかならない。いつもがそうだったようにさ。

 さて──。

 寒気もピークに達する真冬のしゆうばん、今は二月の初頭である。

 いろいろあった去年から年をえて、すでに一ヶ月が経過している。時間が加速しているような気がするのは、年明けしょっぱなの一月にだってそれなりなことをやっていた自覚があるからだろう。

 ここでいったん時間を巻きもどさせてもらいたい。ハルヒがいま何をくわだててんのかは知らんが、とりあえず俺は俺で自分に折り合いをつける必要があったのである。一年の出来事をり返るには二月はまだ早すぎるが、しかし俺がやらざるをえなかった、むしろやる気満々だった事件のてんまつを語ることにする。

 その時、俺がいだいてたスローガンはただ一つ。

 ──やり残していたことをすませよう。できるだけすみやかに。

 決意したのは冬合宿の最中だが、行動に移すまでにはしばらく時間が必要だった。

 それは一月二日、いつもの駅前から始まるエピソードだ。

 ………

 ……

 …



 吹雪ふぶきの中でそうなんしてなぞやかたに閉じこめられるというアレな事件の起きた合宿旅行は年明け二日目にしゆうりようむかえ、SOS団冬合宿ツアー一行ははるか山の彼方かなたにあった旅行先からかんを果たした。

「ふうっ、ただいま」

 ハルヒが我が町へあいさつを送り、夕日に目をすがめた。

「やっぱりホッとするわね。雪山もよかったけどぎ慣れた空気が一番だわ。ちょっと湿しめっぽいけどさ」

 俺たちとは違うルートで帰ったまる氏兄弟とあらかわもりさんコンビの姿はすでにない。そんなわけでなつかしき地元の駅前で荷を下ろしたのは、長旅などものともしないちよう合金のような心身を持つハルヒとつるさん、別れを惜しんだ妹にしがみつかれているあささん、いつものように無表情に立つ長門と、どこかつかれた笑みをたたえたいずみに、やはり疲れぎみの俺および荷物化しているシャミセンだけだ。まあこんだけいればじゆうぶんだろうという気はする。

「今日はこれで解散ね」

 ハルヒは存分に楽しみ終えた顔をして、

「みんなゆっくり休むといいわ。明日は近所のお寺と神社にはつもうでに行くからね。朝九時にここに集合するように。あ、鶴屋さんはどうする?」

 旅行から帰ってきた次の日にまたどこかに行こうとするバイタリティにはほとほと感服するが、問題は俺を代表とするつうの人間の体内には永久機関など内蔵されていないということである。しかしハルヒと同レベルのエネルギー源をどこかにかくし持つらしい鶴屋さんは、

「ごめんよっ! あたしは明日からスイス行きさっ。おみやげ買ってくるから、たのむっ、さいせんばこにあたしのぶんの小銭をいれといてくれっかな!」

 さいから出したジャラ銭を朝比奈さんにわたし、続いて、

「これはお年玉だっ!」

 妹にもこうにぎらせ、

「じゃねーっ。また新学期にっ」

 手を振りながら笑顔のまま駅前を後にした。感心するくらいにサバサバした歩き姿で、どうしたらあんなむすめになるよう育てることができるのか、後学のためにも鶴屋さんのご両親に話をうかがいに行きたい。

 ハルヒは笑顔の絶えない上級生が雑居ビルの角を曲がって消えるまで手を振り続けていたが、

「そいじゃ、ま、あたしたちも帰りましょ。みんな、気をつけてね。家に帰るまでが合宿よ」

 これ以上何かあっては俺と古泉の身体からだたないだろうが、さすがに駅から自宅までの道のりで変なものに出くわしたりはせんだろう。

 俺は長門を見る。なぞやかたでの不調はすっかり消し飛び、だんの何考えてんだかわからん表情ナッシング状態に戻っている。──と、目がどうして俺の視線とれあった。うなずいたように思えたのは多分さつかくではない。

 次に朝比奈さんを見る。旅行中は終始脳天気に振るい、あまりの脳天気さに謎館ではちょっと不安にもなったりしたが、いま思うとそれでよかったのだ。彼女の本当の出番はこれからだ。思いをめて視線を送ってみたのだが、残念ながら朝比奈さんは俺のサイン入り視線に気づくことなく妹と同年代の友人のようにじゃれている。

「では明日ね! おくれちゃダメよ。それからちゃんとお年玉をガメてきなさいよ。屋台の列はきっと参道をどこまでもびているにちがいないから」

 そう言ったハルヒや朝比奈さんたちと別れ、俺は妹の手とシャミセン入りのキャリーボックスを引いてバスに乗り込んだ。

「みくるちゃーん、またねー!」

 しようこうぐちにへばり付く妹を引きはがして座席に連れて行く間、朝比奈さんは何度も振り返って、片手をにぎにぎしていた。申しわけありませんが俺はいま手を振る気にはなりません。ハルヒと古泉相手ならバイバイと大声でさけぶのだが。



 さて、家にもどってシャミセンと妹から解放された数分後、俺はついさっき別れたばかりのメンバーのうち二人のもとへ電話れんらくを入れた。

 何のためか?

 年内にやっときゃよかったとしみじみこうかいするハメになったことを、一刻も早くすませようというわけだ。自分のたいが原因であのような冷やあせをかくのは金輪際ゴメンであり、ゆえにゆうをかましていた昨年末の自分にヤキの一つでもいれたいところだったが、行くべきはそれよりもうちょっと前の自分のもとだ。例の謎館事件はどうやら長門と古泉の機転で最悪な結果だけはけることができたものの、ああいうのがもう一度やってこないという保証はなく、むしろありそうなふんがむらむらとする。旅行中は何かと問題がありそうだったのでちゆうちよしていたが団員がバラけた今はその限りでない。鶴屋さんのべつそうで推理ゲームしたりスゴロクしたりする合間に決意する時間は充分にあった。

 俺は行かねばならない。長門と朝比奈さんとともに、もう一度あの時間に。

 そう、十二月十八日の未明へ──。

 冬合宿の疲れをいやす間もなく、俺が電話した先はまず第一に朝比奈さんである。ついさっき別れたばかりの相手から電話されて軽くおどろいた様子の彼女だったが、

『どうしました? キョンくん』

いつしよに行って欲しいところがあるんですよ。今からなんですが」

 さらに驚いた声が、

『ええ……? どこですか?』

「去年の十二月十八日です」

 驚きとこんわくが混ざったように、

『えっえっ……? それ、どういうこと……?』

「俺と長門を過去に連れて行って欲しいんです。今から二週間ほど過去に、三人で時間こうしなきゃならないんです」

『そんなぁ、あたしがTP……いえ、そのう、使用は勝手にできません。厳しいしんとたくさんの人の許可がいるんですよ?』

 けてもいいが、その許可はすんなり通る。俺の頭の上に浮かんだもうそうスクリーンの中で大人版朝比奈さんがウインクし、ついでに投げキッスまでくれた。

「朝比奈さん、今すぐあなたの上司かそれに近いような人に連絡して言ってください。俺があなたと長門を連れて十二月十八日の早朝に戻りたがっている、とね」

 いやに自信満々だったせいだろう、朝比奈さんはしばらくハテナマークが受話器かられ出そうな勢いでちんもくし、

『ちょっと、ちょっと待ってて』

 もちろん待つ。未来とどうやって連絡するのかきようしんしんだが、こちらに伝わるのは朝比奈さんの静かないきづかいだけだった。十秒に満たないそのBGMが、

『信じられません……』

 ぼうぜんとした声に移り変わった。

『……通っちゃいました。そんな、どうして……? こんな簡単に……』

 それは未来の行方ゆくえが俺のそうけんにかかっているからだ──とは言わず、というか電話で長話をする気にならず、

「長門のマンションで落ち合いましょう。三十分で行けますか?」

『あ……待って。一時間ください。もう一度かくにんしたいし、あっ、あと長門さんの部屋じゃなくてマンションのげんかんで待ち合わせたいんだけど……』

 俺はかいだくすると電話を切り、朝比奈さんが可愛かわいく驚いている姿を想像してひとしきりニヤついた後、顔の筋肉と気を引きめ直した。これから行こうとしている時間帯ではなごやかに笑っていられるシーンなど上映していない。そいつは俺が一番よく知っているはずだった。

 もう一人、こっちには連絡しなくてもわかってくれてそうな気もするが、一応確認しとかないとな。俺は再び受話器を持ち上げた。

 一時間後──。

 早く来すぎた。調子に乗ってチャリを飛ばしすぎたぜ。ごうせいぶんじようマンションのエントランスで寒さにこごえながら十五分間のあしみ運動をしていた俺のもとに、ふわふわしたひとかげがぱたぱたとけよってきた。えるヒマか思いつく余裕のどちらかがなかったようで、合宿帰りに着ていた服そのままだ。俺もそうだが。

「キョンくん」

 朝比奈さんはまだきつねにつままれたような表情でいる。

「わけがわかんないです。どうしてキョンくんのらいがこんなに簡単に通過するんですか? しかも長門さんも一緒にって、必ず三人でって逆に命令されました……。でもしようさいを問い合わせてもごくって返ってくるだけなんです。それに……、あなたの指示に全部従えって言われてます。なぜなの?」

「説明しますよ。長門の部屋で」

 そう言うと同時に俺は玄関のパネルに長門の部屋番号を入力してベルボタンを押した。すぐに反応がある。

『…………』

「俺だ」

『入って』

 あっさりとかいじようされたドアをくぐって、おっと、朝比奈さんを忘れてはいかんな。何だかまだ茫然としていらっしゃる。手招きすると、ハッとしたように付いてきた。どこかおっかなびっくりなのはここに来るたびに見せる彼女の習性みたいなものだ。エレベーターの中でも朝比奈さんの頭の周囲でクエスチョンマークがぐるぐる回っているようで、少しきんちようした顔のまま、やっぱり茫然としている。

 その表情は長門が部屋のとびらを開き、俺たちを招き入れてくれてもなお続いていた。

 長門にはヒマもゆうもあったようだ。自宅だというのに見慣れたセーラー服に着替えている。ものすごく安心する格好だと反射的に思っちまったのは別に俺がセーラー服フェチだからではなく、こいつがちゃんと理解してくれているというあんかんがあったからだ。

 あの時、俺はかみの短い制服姿のだれかがナイフを手づかみしている光景を見ながら意識を失った。ならばこれから行こうとする長門がほかしようをまとっていてはあの時の俺が困るかもしれない。俺が長門を誰かとちがえたりはしないとは思うが、セーラー服はこいつのトレードマークみたいなものだった。

「…………」

 無言でリビングを指差し仕草だけで座るよう告げながら、長門はキッチンに消えてお茶の用意を開始した。

 では、この間に朝比奈さんに前々回のあらすじをさらっとお伝えしておこう。



「信じられません……」

 朝比奈さんはつぶらなひとみを見開いてつぶやいた。

「歴史がまるごと変えられていたなんて、そんな、あたし全然気づきもしませんでした……」

 無理もない。何と言ってもあの三日間で正しいおくを持っていたのは俺だけで、その俺にしたところで長門のヒントとあっちのハルヒのえんりよな行動力がなければ何もできなかったんだ。

「世界規模の時空改変と未来からの直接かいにゆう……そんなことが同時におこなわれるなんて」

 小声をふるわせながら朝比奈さんは質素な部屋の空中で視線を泳がせていた。リビングルームのコタツテーブルには湯飲みが三つっている。長門がれてくれたお茶であるが、朝比奈さんは俺の説明と、ところどころに差しはさまれる、

「そう」

 という長門の合いの手にずっとぎようてんするあまり、まったく手つかずのまますでに冷めていることだろう。

「…………」

 長門は俺のななめ向かいで無表情に朝比奈さんを見つめたのち、問いたげなまなしを俺に向け、また朝比奈さんを見た。

 長門が何が言いたいのか解るように思う。俺が朝比奈さんに説明したのは、長門がエラーパワーをばくはつさせたせいで十二月十八日に世界を一変させてしまい、ただしんでくれていただつしゆつプログラムをしゆよく作動させることで俺だけが四年前の七夕に行って、そこでバグる以前の長門に協力をあおいで十二月十八日にとって返し、しかしこれまた異常をきたしたあさくらりようさつすいの目にって、けれども気絶する前に俺は俺と長門と朝比奈さんの姿を見かけ、その未来から来たであろう自分たちによって世界は元通りになった、らしい──という、これだけだと何のことやら解らないような解説にちゆうしやくを付け加えたものである。

 しかも全部ってわけでもないんだ。四年前の七月七日、そこでもう一人の朝比奈さんが待っててくれたことは言わなかった。教えていいものかどうか自信がない。今の朝比奈さんは何も知っていない、ということはあの大人の朝比奈さんが意図的にかくしているとしか思えない。この時代の朝比奈さんは未来と定時れんらくくらいは取ってるらしいから、それが重要なことなら朝比奈さん(大)じゃなくてもとにかく誰か上司なりエライ人なりが教えてやっていてもいいはずだ。未来人の情報こうかんシステムがどうなっているのか俺にわかるわけはないが、彼女の言葉のへんりんから少しはうかがえる。「しようさいを問い合わせてもごくって返ってくるだけなんです」とは、さっき聞いたセリフだ。

 朝比奈さんは知らないんじゃない。知ることがないようにされている。

 理由は解らないさ。だがそう考えるとしっくりくる。未来人にしてはうっかりすぎる──とはこれまでに何度もいだいた感想だ。あやうく無限ループしかけた八月、吹雪ふぶきの中にこつぜんと現れたやかた……最低この二つは事前に朝比奈さんが未来的な忠告をしてくれていたら防げただろう。そうしなかったのは何故なぜか?

 合点がいきかけてきた。

 朝比奈さん(大)はすべて知ってないとおかしい。そのすべての事件はかつての彼女──今の朝比奈さん──が通っていった線路上にあるものだからだ。だからか、あの事件群を発生前にかいするようなことがあっては未来の彼女の歴史が変わってしまう。規定こうとは、たとえどんなことでも規定されたこうもくはクリアして通らないといけないってことか。いずれ暴走するのが解っていながら、結局どうしようもなかった長門のように。

 でも、それでは今の朝比奈さんに気の毒すぎやしないか? 何か起こるたびにいちいちビックリする回数はひょっとしたら現代人の俺より多いぞ。だいいち、朝比奈さんが何のためにこの時代にいるのかあやしくなっている感じすらしてくる。ハルヒのかんだけなら防犯カメラにでもさせときゃいい。

 何かあるんだ、本当の目的が。朝比奈さん本人は知らない、でももっと未来の本人は知っているような目的が──。

 考え込む俺に、フリーズドライされたような声が、

「あなたにたのみがある」

 長門のものなら、たいがいのらいを聞いてやるつもりじゆうぶんだ。

「その時間のわたしに何も言わないで欲しい」

 何もって、「よう」とか「やあ」でもダメか?

「できれば」

 長門は表情のない目でめつにない内面表現をおこなっていた。黒い瞳にいているのは強い願いにちがいなく、俺は長門の願いを断るくらいならみなに映った月をすくい上げる作業のほうをせんたくする。

「わかったよ。お前が言うならそうするさ」

 無造作なショートカットがゆっくりとうなずいた。

 細かい時空間座標は長門の指示によるもので、忠実に実行したのが朝比奈さんだ。悪いが宇宙人と未来人の連合部隊ともなると、古泉の組織がどれほどきよだいだろうと勝ち目はなさそうだな。戦う気があるのかどうかは知らんけど。



 俺と長門、朝比奈さんの三人はくつくためにげんかんさきに行き、そのせまい空間でたがいのかたを寄せ合うようにひしめき合った。先月、朝比奈さん(大)と時間こうしたときに靴を忘れてしまった教訓がここで生かされたというわけだ。彼女のハイヒールが四年しで置いてあるのは長門の性格からして確実だが、この朝比奈さんに返すわけにもいかないのでだまっておこう。

「ええと、昨年の十二月十八日の……何時でしたっけ?」

 その問いには長門が秒単位で答え、朝比奈さんはうなずいた。

「行きますね。キョンくん、目を閉じていて」

 そして──。

 時間移動。何度か経験したアレが来た。おう寸前までいきそうなグルグル目眩めまい。目を閉じているのに光がまたたいているような感覚だ。まるで上空に向かって落ちているような、得も言われぬ不快指数のきゆうじようしよう、説明しがたい空間あく能力のそうしつせいぎよを失ったジェットコースターに乗って何十周としているような、心身ともに平常をいつだつ、俺の三半規管が限界に達する寸前──。

 俺の足の裏は大地のかんしよくを取りもどし、地球の重力が心地ここちよく身体からだに作用していた。

「来た」

 長門がささやくように言って、俺は目を開ける。

 そしておどろいた。

 校門の真ん前にいる自分を発見したからである。

 思い出して欲しい。四年前の七夕にタイムジャンプした俺が長門(待機モード)のさいはい通りに朝比奈さん(大)に連れわれて十二月十八日に時間移動したとき、俺は暗がりから長門が世界を変えちまう光景を見守り、それから街灯の下に出ていった。

 そのまっただ中に今の俺たちは出現していた。

 ちょうど、その『俺』は、世界の変容を終えて自分も変化させた眼鏡めがね付き長門に相対して何かしやべっている。俺のジャケットを肩に引っかけた朝比奈さん(大)の後ろ姿も見える。マズいんじゃないか、これは。いくらなんでも近すぎる。

「心配ない」

 我が長門がよくようのないセンテンスを刻んだ。

「彼らにはわたしたちが見えていない。不可視しやおんフィールドを展開済み」

 つまり俺から見えている『俺』と朝比奈さん(大)と長門(眼鏡)からは、こっちの姿はサイレントとうめい人間になっているということだろう。この件で長門にまれる必要がなかったのは本人がついてきているからか。なぜか残念な気もするが。

 朝比奈さんがパチパチとまばたきをして、

「あのう……あの女の人はだれなんですか? 大人の女性ですけど、どうしてここにいるの?」

 なにぶん後ろ姿である。朝比奈さんがわからないのも当然で、まさかそこに自分の未来存在がいるなんて想像できるほうが発想のやくが過ぎるというものだ。教えていいものか俺がなやんでいるうちに、そんなおもわくっ飛ばすようなことが起こった。知ってはいたものの、こうして客観的に見ていてさえもとりはだが立つ。

 暗がりからいたとしか思えないとうとつさでひとかげはしった。俺たちの横をかすめた人影が朝倉涼子の形をしていると見て取った直後、朝倉は俺にぶつかるようにして、いや事実ぶつかっていた。こしだめにナイフを構えて勢いよく。

 朝比奈さん(大)が何かをさけび、そのなく『俺』はされた。おくのままに。

「うげ……」

 いかにも痛そうだった。あの時は気づかなかったが、朝倉は刺したナイフをぐりぐりねじっていやがる。本気の殺意だ。いつぺんちゆうちよもなく『俺』を殺しにかかっていた。異常バックアップ、朝倉涼子は完全な殺人すいはんだ。

『俺』がくずれ落ちた。

「え……ひゃっ!? キョンくんが!」

 朝比奈さんも叫んでくれた。け出そうして「あ……!」、すぐに透明なかべにぶつかり悲痛な顔であおぐ。どうやらしゆんかん的に俺がそばにもいるということを忘れたようだ。彼女はたおれた『俺』しか目に入っていない。ありがたいような、そうでないような。

「長門さん!」

 朝比奈さんのセリフに、長門はゆるやかにうなずいて、

「フィールドを消去する。……かんりよう

 朝比奈さんが走り出し、同時に長門自身も動き出していた。夜風よりもすみやかに移動した長門は、一瞬後に朝倉の振り上げたナイフのをつかんでいる。朝倉がきようぞうのミックスボイスで叫ぶのを耳にしながら、俺も自分のもとへ向かった。やれやれ、ひどい有様だ。

 朝比奈さん(小)が泣きながら『俺』に取りすがっている。心配してくれているのはうれしいが、そんなにすると早死にさせちまいますよ……。

 がしらが熱くなることに、必死に『俺』に呼びかける彼女はすぐそばにいる女性に注意をはらうことを忘れている。本当にありがとうと叫びたい。

 ちんつうな顔で目を落としていた朝比奈さん(大)がおもてを上げ、俺を見つめた。

「来てくれたんですね」

 少しおくれてしまいましたが。時間的にではなく、俺の気分的に。

「…………な……」

 そう声をらしたのは記憶通りの長門だった。心臓につうの走る姿だ。眼鏡をかけているそっちの長門は、しりもちをついて驚きにまみれた表情でいる。見開いた黒いひとみが倒れす『俺』から朝倉へ、そして自分と同じ姿のセーラー服へ移動し、最後に俺に向けられた。

「どうし……て……」

 長門との約束だ。なので、もう一人の長門、つまり世界を改変したばかりのこっちの長門にかける言葉を俺は持たない。俺がするべきこと、言うべきことは一つだった。

 三年前の長門が作ってくれた短針じゆうを拾い上げ、俺は自分を見下ろした。例のセリフを言うために俺は口を開き、記憶にある通りの言葉を投げかけた。これで合っていると思うが、だいたい似たようなセリフなら多少のちがいは許容はんだろう。その『俺』はわずかに開いていたまぶたを完全に閉じ、くたりと首を横向けた。死んだかもしれんと思えるくらいの見事な気絶シーンだが、そろそろ止血しないとマジで死にそうだぞ。

 さて、ここからは完全に俺たちの出番だ。これ以降に何が起こったのかは俺にもまだ未知なのである。

 まず俺が目にしたのは、朝倉を止めてくれた長門の行動だ。

「…………」

 長門のつかんだナイフがきらめきながら砂と化す。飛び退こうとした朝倉だが、足が地に接着したように動かない。長門が小さな早口を述べた。

「そんな、なぜ? あなたは……」

 朝倉の姿も煌めき始めていた。

「あなたが望んだんじゃないの……今も……どうして……」

 ぎようぜんとした朝倉は最後まで疑問を口にしながら、やがてナイフにつられるようにサラサラと解け崩れる。ほぼ同時に、

「あ?……くう」

 朝比奈さん(小)が『俺』の身体からだにつっぷすように前のめりになっている。やわらかく閉じられた目とうすく開いたくちびるはどう見てもがおであり、力のけた愛らしい上級生の首筋に朝比奈さん(大)の手が軽く乗っていた。

ねむらせました」

 大人の朝比奈さんが悲しそうに幼い自分のかみをなでつけた。

「ここにわたしがいることをさとられてはいけないの。そうしておかないとダメなんです」

 俺の朝比奈さんはスヤスヤと寝息を立てて、気絶した『俺』のうでまくらにしている。

「この子にはわたしはないしよ

 三年前の七夕の時、あの公園のベンチで見たのと同じ寝顔だった。くつも同じ、やはり朝比奈さん(大)は過去の自分に自分の姿を見せたくないらしい。後ろ姿ならオッケーでも間近で見れば確かに朝比奈さんは朝比奈さんにしか見えないからな。

 俺が朝比奈さん(小)と『俺』の意識不明状態を見下ろしていると、

「…………」

 長門がかたひざをついてかがみ込み、ナイフでえぐられた『俺』のわきばらに手をえた。そのおかげで間違いない。ともかく出血は収まり、『俺』のそうはくな顔が少しはまともに見えてくる。傷を治してくれたのはやはりこいつだったのか。

 長門はていたいなく立ち上がると、血がついた指先をぬぐおうともせずに手を差し出して言った。

「かして」

 俺はだまって短針銃を持ち上げた。どうにも手持ちぶさたで困ってたんだ。いざとなるとていこうまさる。どの長門にだってこんなもんを向けてちたくはない。

 たんたんと銃を手にした長門は、座り込んでおびえた顔をしている眼鏡めがねの長門へ銃口をきつけ、あっさり引き金を引いた。

「…………」

 何の音もせず、何かが発射されたせきも見えなかったが、

「…………」

 長門(眼鏡)はゆっくりとまばたきをした後、さらにゆっくりと立ち上がった。棒のような立ち姿は俺がよく知っている長門の姿勢だ。入部届けをわたしたり、困ったように俺のすそを引いたり、はにかんだ薄いしようの主とは違う。

 俺の思考を裏付けるように、その長門は自然な動作で眼鏡を外し、がんで俺をぎようしてから無感情な目をもう一人の自分にえ付けて言った。

「同期を求める」

 二人の長門がじっとたがいを見つめ合っている光景。俺は今回をふくめて何度か『俺』を見たことがある。朝比奈さんが大小二人いる場面ももうまくとうえい済みだ。だが、長門が二つになって相対するところは初めてであり、みようかんがいを持たされた。どことなくそうかんだ。

「同期を求める」

 撃たれたほうの長門がり返した。対して、撃ったほうの長門はそくとうした。

「断る」

 俺だって不意をつかれたが、眼鏡を手に持つ長門はもっとだったらしい。まゆをミリ単位で動かして、

「なぜ」

「したくないから」

 ぜんとした。長門の口からここまでめいりような意志が出てきたことがあったか? 理屈じゃない。明確なきよぜつの言葉は感情から出るものにちがいない。

「…………」

 言われたほうの長門は考え込むようにちんもくして、

「…………」

 やはり沈黙したまま夜風に髪をなぶられていた。

 俺と未来から来たほうの長門がポツリと、

「あなたが実行した世界改変をリセットする」

りようかいした」

 と、そっちの長門はうなずいたが、俺にだけわかるようなややちゆうちよした声で、

「情報統合思念体の存在を感知できない」

「ここにはいない」

 長門は淡々と告げて、

「わたしはわたしが現存した時空間の彼らと接続している。再改変はわたし主導でおこなう」

「了解した」と過去の長門。

「再改変後、」

 俺の長門は言葉を続ける。

「あなたはあなたが思う行動を取れ」

 元にもどったばかりの長門は、ほんの少し頭をかしげて俺を見る。その表情と目にかぶ不可視の情報を俺は確かに読みとった。俺ほど長門の言いたいことを解っている人間はほかにいない。

 この長門はあの長門だ。あの日、夜の病院に現れた、あの長門が今のこいつなんだ。自分の処分が検討されていると言って俺をおこらせた、あいつだ。

 俺と未来から来た長門が同期をきよした理由も解る。長門は自分がその時すべきことを今の自分に教えたくないんだ。

 なぜなら──なぜならだって? 言うまでもないじゃないか。

 ありがとう──、あの時聞いた長門の言葉がすべての答えだからだ。

「キョンくん」

 立ちつくしていた俺に、朝比奈さん(大)がひかえめな声をかけた。

「この子……わたしをお願いできますか?」

 彼女は重そうに、すうすうと安らかにねむる朝比奈さん(小)の上体を起こしてやっている。俺はすぐさま手を貸して、彼女が言うがままにがらな朝比奈さんをいつかのように背負ってあげた。やわらかくて温かいのも覚えている通りである。

「もうすぐ大規模な時空しんが発生します」

 朝比奈さん(大)はりよううでくように、おそれの入り交じったな顔で、

「長門さんが先ほどやったやつより、もっと規模が大きくて複雑な時空修正なの。今度はまともに目を開けてもいられないと思うわ」

 あなたがそう言うのなら信じますが、でも、どう違うんです?

「最初の改変は過去と現在を変化させただけ。それに加えて時間を正しい流れに戻す作業が必要なんです。思い出して。あなたがどこで目覚めたかを」

 十二月二十一日の夕方、俺は病院のベッドで意識を回復した。

「ええ。ですから、そうなるようにしないといけないの」

 俺のブレザーをかたに羽織った裸足はだしの朝比奈さん(大)は、どこかものげに寄りってきた。朝比奈さん(小)をかついだ俺の肩に手をれさせ、首をめぐらして長門に視線を送る。俺とここまで来たほうの長門が静かに歩いて来た。もう一人はそこに立ったまま、そしてたおれた『俺』もそのままだった。

 朝比奈さん(大)はもう片方の手で長門の腕に触れて、

「お願いします、長門さん」

 長門は小さくうなずき、最後の別れだと言わんばかりに自分を見つめる。もう一人の長門も何も言わない。さびしそうな印象を受けたのは俺の気のせいかもしれないが心配もいらない。俺はあの時俺が言ったセリフを覚えていた。そこでぶっ倒れている『俺』がこれからお前に言うべき言葉だ。そいつは間違いなくそう言う。だから安心していに来てくれ。お前の親玉にくそったれと伝えんのを忘れるなよ。

「目を閉じて、キョンくん」

 朝比奈さん(大)がささやく。

「時間いするといけませんから」

 忠告に従って俺は目を固くつむった。

 次のしゆんかん、俺は世界がねじれる様を感じ取った。

「うわっ──」

 無重力状態でぐるぐる回っているような感覚はもう何度も体験していたし、もう慣れたような気分でもあったのだが、今回のぐるぐるはちょっとケタがちがっていた。それまでが遊園地のジェットコースターだとしたら、これはちつじよふんしやする宇宙船の中でシートベルトをめ忘れた状態というか、しかし俺の身体からだに加重がかかっているわけでないから実際にり回されているわけでもないが、これは酔う。外がどうなっているのか見たいものの、目を開けたたんに本格的にめいていしそうできようつのり、まぶたの裏のくらやみでチカチカまたたく光だけが俺の感知できるすべての映像だった。背中の朝比奈さん(小)の体温と、肩に置かれている朝比奈さん(大)のてのひらかんしよくが大いにたのもしい。

 ──と、閉じた瞼の上からでも感じるけんのんな光が目をげきした。

 見たいという欲求をおさえきれず、俺は目を開けて赤き光の正体を知った。回転する赤色灯はきんきゆう車両に許された特権だ。

 あれは……?

 きた高の校門に救急車が止まっている。野次馬な生徒たちが遠巻きにする中、救急隊員たちがだれかを乗せたタンカを持ってやってくる。タンカに付き従うように同じスピードで歩いている姿二つは、しようがい忘れんであろう名前を持つ女子生徒たちだった。ハルヒは青ざめたこわい顔で、朝比奈さんは泣きべそ顔でタンカの主を追い、少しおくれてみをしようめつさせた古泉が姿を見せる。

 タンカはすぐさま救急車に運び込まれ、隊員と二言三言会話したハルヒも乗り込んだ。赤色回転灯にサイレンがプラスされ、救急車が走り出す。目元をおおう朝比奈さんの横で古泉がしんけんな顔でけいたい電話をかけていた。長門はいない。だが、いないのが当然のような気もする。

 俺のゆうかんはまだ続いていた。正直、身体がどこにあるのかもよくわからん。

 朝比奈さん(大)のいきが身体のどこかに感じられた。

「キョンくん、このままあなたの元時間にびます」

 見ている映像がフェードアウトしていく。サービスカットはしゆうりようということかな? 俺は目を閉じる。いいものを見させてもらった。俺のおくにはない三日間のだんぺん、そうだよなハルヒ、団員の心配をするのは団長の使命だったっけ。

 また、あのぐるぐるする感覚が始まった。酔い止め薬が欲しいね。次は絶対用意しておくからな。

「あなたが出発した時間に座標じくを合わせます。そのわたしをよろしくね。目を覚ますまでしばらくかかりますから……。ふふ、チュウまでなら許します」

 悪戯いたずらっぽい声を残し、朝比奈さん(大)が遠ざかる気配がした。

 そして──。

 目を開けた時、俺は長門の部屋のリビングで朝比奈さんを背負って立っていた。

 正面に長門が立っていて、

「出発した時間から六十二秒後」

 俺を見上げながら言った。

もどってきた」

 自分たちの時間と世界に。

 ふうっと息をきつつ、朝比奈さんを肩から下ろす。確かにキスしたくなるがおの最有力候補だが、あの朝比奈さんの言葉を本気にするほど俺はピュアではなかった。もっともここが長門の部屋じゃなくて、また長門がかんするようにじいっと見ていなければ後ろ暗さをほうり出していたかもしれない。いや、んなことはないが。しないって。

 テーブルの湯飲みをとって残っていたお茶を一口ふくむ。時間旅行に出かける前にはもうなまぬるくなっていたが、やけにうまい。上がりの麦茶並みだ。部室で飲む朝比奈さんのお茶にもひつてきするぜ。

「やれやれ」

 ようやく去年の積み残しを片づけることができた気分だ。もうやり残してたことはないよな。世界再改変はこうして終了、年をまたいだ冬合宿からも帰ってきた。あとははつもうでくらいしか思いつかない。まあ、どうせそのうちハルヒが何か思いつくんだろうが、それまで少しは落ち着いていられるだろう。

 ちなみに天使のような未来人はなかなか目覚めなかった。どういうねむらせ方をされたのか不明だが、満腹で暖かい部屋にいるシャミセンなみに幸せそうな寝顔をされると起こすのも気の毒だ。長門に頼んで客間にとんいてもらい、そこに朝比奈さんを寝かすと毛布とけ布団を上からかぶせる。

「長門、朝比奈さんが目を覚ますまでよろしく頼む」

 長門は深々とした目を眠る客人に注いでいたが、俺をいちべつしてこっくりうなずく。

 目覚める時に居合わせていたいのはやまやまだが、実は俺もろうこんぱいの極地にある。合宿と時間旅行のつかれを自宅の風呂と自室のベッドでいやさないと明日の九時までには起きれそうになく、あくまで有限でしかないさいの中身が自然現象のように減っていくのも打ち止めにしたかった。五人分の正月料金はちょっとした痛打と言えるぜ。

 いっそ三年ろう状態が始まった七夕のあの日のように朝比奈さんのとなりに布団を出してもらってもよかったし、モノも言わずに身を投げ出してそのままそくしゆうしんする自信もあったが、何とはなしにそんなこと誰も望んでいないような気がしてならなかった。

 未来人が宇宙人宅で一眠りするのも、たまにならあっていいさ。

「また明日会おう」

りようかいした」

 長門は安定感のある無表情で見送ってくれた。せいひつな二つのひとみまえがみの下でれることなく視線を俺に固定している。

「今日はご苦労さんだったな。いろいろめいわくをかけてすまん」

 朝比奈さんもだが、最大の功労者はこの長門と四年前の七夕にここにいた長門だ。

「いい」

 いつもの長門は表情を変えないまま、

「わたしが原因」

 俺はとびらが閉まるしゆんかんまで宇宙人製たんまつの顔を見つめていた。しようでもかべやしないかと思ったからだが、残念ながら──または安心したことにがらな白い顔はつうに無表情だった。ただまあ、少しは何かある気配がしたのは俺の熟練の眼力のたまものだ。

 マンションを出た俺はチャリをゆっくり走らせ、自宅に戻るなりベッドにたおれ込んで眠った。

 疲れ切った末のすいみん状態の中で何故なぜかむやみに楽しい夢を見たような気がした。目覚めて三十秒後に夢のおくは消え去ったが、残存するふんが教えてくれている。

 未来人と宇宙人が仲むつまじくお茶をてている、そんな感じのヤツだったと思うのさ。



 そういうわけで俺としては朝比奈さんの重みとともにかたの荷を下ろしたつもりでいて、そのぶん割となごやかに一月は過ぎていく予定だった。

 ところが問題が一つばかり残っていたのである。

 寝顔の愛らしさにすっかり忘れていたが、眠り続けていた朝比奈さんはまさに眠っていたがために、俺や長門や朝比奈さん(大)があの十二月十八日でしたことをほとんど見聞きしていなかった。彼女からすればとつぜん俺に言われて時空改変の事実を知り、半信半疑のまま過去にこうしたと思ったら、そこで『俺』のざんなやられっぷりに動転し、そのまま強制的に眠らされて、目が覚めたら元の時間に戻っていた──ということになる。

 俺からすればじゆうぶんに役目を果たしてくれたわけだし、彼女にしかできなかったことだと思っていたのだが、朝比奈さんはそう考えなかったらしい。今にして思えば確かに冬期きゆうが明けてしばらく、朝比奈さんはどこか上の空で考え込みがちだったような。

 そのことが朝比奈さんにさそわれてデートモドキをした日曜日、眼鏡めがねの少年をあわや交通事故から救い出したあの日の彼女のゆううつつながったわけで、どちらかと言えばこれは朝比奈さん(大)の秘密主義が原因だ。朝比奈さんを泣かせるようなヤツは問答無用でなぐり倒されるべきだが、考えてみれば俺が原因で泣いてくれたほうが多いのか? 今度ハルヒとボクシングジムに体験入学してスパーリングでもやってみるか。適度に殴り殴られが楽しめるだろう。

 ともかく、茶葉の買い出しに二人で行った日曜日の一幕のおかげで俺はSOS団の未来について少しは考えるようになり、同時に朝比奈さんの憂鬱をなんとか取りはらうことにも成功した。彼女がどこまで察したのかは正直言ってわからない。だが、あの分かり合えた感じではしようさい説明は不要だろう。少なくとも今の朝比奈さんには。

 俺がハルヒにジョン・スミスの名をふういんしているのと、朝比奈さんに大人版朝比奈さんの存在を言わないのは同じような意味を持つんだ。そいつはいざという時のための切り札なのさ。

 その時が来たら──。

 ま、その時なんか来て欲しくはないけども。

 …

 ……

 ………



 そして二月に入り、話はぼうとうもどる。

 年度末ともなれば学校の雰囲気も色々変わるもので、たとえば三年生の姿を見かけることはほとんどなくなった。いまごろ彼らの大半は受験の準備かまっただ中にいるはずで、そのせいか職員室の空気もみようにピリピリムードである。再来年の我が身を思えば他人ひとごとではない。今年の三年生が奮起して市立のライバル校に合格率で勝ってくれないと、また校長が臨時補習だの創立記念日をつぶした試験だのとハリキリかねず、二年後の自分の姿などまだ遠い空の向こうに置いておきたい俺にとってはうつとうしいだけだ。

 受験といえばそろそろ中学生を相手にした特別クラスのすいせん入試も始まる頃で、我が校にも二つくらいある。そういえば古泉のいる九組は理数クラスだった。あいつのうしだて組織のごり押しなのか元々の古泉が持つ学力のおかげなのかは知らんが、よくまあ転入できたものだと感心するね。俺なら数学と理科をメインディッシュにしたコースなど取る気にもならんからな。

 とりあえず将来の自身に降りかかる大学受験なるれんごくから目をそらして、残りわずかとなった高一生活がもうちょっと間延びせんものかとカレンダーを意識的に見ないようにしている俺だったが、例の十二月十八日から戻ってきてからはノンビリとした心構えを構築している。

 何しろ時空の修正以上にけんあんことがらなど俺には思いつかず、それも無事果たし終えたからには、少しは休ませてくれてもいいだろう。長門はすっかり元通り、朝比奈さんのがおも復活、ハルヒは何かおかしいが、どうせすぐにさわぎ出す。

 ここまで来たらもはや問題はないはずで、むしろ考えたくもない。なのに、どうでもよさそうなり出して勝手に問題にしてしまうろうが部室に行くと一人いて、それはハルヒとともに蚊帳かやの外に置き去りにしていたゆいいつの団員、時空改変には役立たずのちようのうりよくしや、古泉いつの姿をしてこう言った。

「あなたが何度かさかのぼっておもむいた十二月十八日未明は二種類存在したんですよ」

 雪山なぞやかた事件以降、俺のこうむった時間移動について聞きたがり屋となった古泉は、祖父母に昔話を求める良くできた孫のように何度も水を向けてきていた。どうやらこいつはタイムトラベラー志願の気があるようで、なにやら俺をうらやましがっているようでもある。鶴屋さんのべつそうから帰る電車のじようでも「僕も連れて行ってもらうわけにはいきませんか」とか「僕の姿を過去のあなたが見なければそれでいいはずです」などとも言っていたが、耳を貸さなかったのは言うまでもない。

 俺は長門のこともあって内心じくたるものを感じていたから、すべてが終わってもずっと口をにごし続けていたのだが、古泉の知的欲求からくるしつこさにへきえきして部室で二人きりになった時にあたりさわりなく教えてやることにした。

 すると案の定、うれしそうに解説を始めやがった。

「いいですか、異常動作を起こした長門さんが世界を改変したのが十二月十八日未明でしたね。僕を始め涼宮さんと朝比奈さんまでもがいつぱんじんになってしまった世界です。あなたはその世界で三日間を過ごし、長門さんのだつしゆつプログラムで三年……いや、もう四年前ですね……に移動する。そこでまだ正常な長門さんに出会って、それから再び十二月十八未明にい戻った」

 そうだとも。ついでに言っておくと、それからもう一度行ったぞ。

「解っています。ですが、よく考えてください。十二月十八日の早朝……長門さんが世界改変を実行したこの時間をX時点と言いえましょう。あなたが四年前の七夕からX時点に時間こうしたとき、そのX時点は元のX時点ではなかったはずです」

 どういうことだ? そんなはずはないだろう。同じ時間がいくつもあるはずはない。

「いいえ、そうとしか思えないんです。簡単なくつですよ。X時点での世界改変がなくなってしまえば、そもそも涼宮さんの消失も僕たちの一般人化もなかったわけです。そうしたら、あなたが過去に戻る理由もなくなってしまう」

 タイムパラドックスってやつだ。そのくらい身をもって知ってるさ。

「しかし世界を元に戻すにはあなたが過去に行くことがひつ条件です。行かなければ世界は改変されたままになります。そしてあなたはちゃんと過去に行って世界を直して来ましたよね? でないとこの時間じくは存在しません」

 俺はちらちらととびらの内側に視線を送る。だれでもいいから早くこいつをじやしてくれ。

「図にいて説明しましょう。少しは理解の助けになるかもしれません」

 そうなん以来、図形好きにでもなったのか、古泉は水性フェルトペンを手に取るとホワイトボードに歩み寄った。ボードの下から上へと向かう縦線を引きながら、

「この上向きの線が過去から未来へ向かう時間の流れだとします。そして──」

 と、ボード中央で線を止め、線の頭頂部に丸い点を付けてXと書き入れる。

「これが最初のX時点です。ここで長門さんは自分をふくむ世界を改変させ、あなたのおくにある通りの時間が生まれます」

 古泉はペンの動きを再開させた。直線の続きではない。右に向かう急カーブをえがいて、出発地点のXへと戻ってくる円を完成させる。朝顔のふたから一枚の葉をむしり取ったみたいな図ができあがった。

「この円があなたの記憶にある十八日以降の歴史です。脱出プログラムで四年前の七夕に遡行し、そこから十八日未明にジャンプする。そこで長門さんを正常化できればよかったのですが、そうではなかったんでしたよね」

 朝倉涼子がいたからな。ただしそこにいたのは朝倉だけじゃない。未来から来た別の俺と長門と朝比奈さんもいて、ちゃんと世界をなんとかしてやった。今の俺からすれば一ヶ月ほど前のことだ。

「そうでしたね。あなたは自分自身を救ったわけです。それが──」

 点Xから動き出した古泉ペンは、今度は左向きの円を描き出した。

「──こちらの時間となります。今この世界に続いてる時間ですよ。僕や涼宮さんの記憶通り、十八日にあなたが階段落ちして気を失い、二十一日になるまで目覚めなかったというほうのね。そして先月、自分を救いに行ったというあなたの時間の動きでもあります」

 左に周回した円を描き終えても古泉は手を止めなかった。Xを通過する直線の続きをボードの上へとばしていき、上限に達したところでペンを置いた。ボードから半歩下がって俺をながめ、俺はじっくりとその図形を見る。

 横にかせた8の字、ようは∞マークのど真ん中を縦線がつらぬいている様子を思いかべると話は早い。すべての線が重なり合っている中央の交点がX時点である。

 理数系科目に対してきようを公言してはばかりない俺の頭でも、じんわりと古泉の言いたいことがわかってきた。

 一つ目、右回りの円が俺の記憶にある時間だ。いろいろおおさわぎの末に、俺はX時点に行って眼鏡めがねむすめな長門が世界を変えるところに立ち会い、おまけに朝倉にされた。

 二つ目、左回りの円には俺の記憶にはない部分がある。刺されて意識を失い、病院のベッドで目覚めるまでの三日間がそっちの円に入っていた。

 そしてどちらの円も同じ点Xをスタート地点にしている……。

「X時点は二つあることになります」

 古泉が答えを言った。

「世界改変を発生させたX時点と、改変された世界を再改変した──そうですねX'地点とでも言いますか」

 ペンを置いた古泉は興味深げに自分の絵図を眺め、

「XをなかったことにしたらX'が発生しません。だから元のXは消去されているわけではない。おそらく、二つのX時点は時間的に重なっているのだと思われます。重ねり……そう、上書きされたんですよ。古いデータの上に新しいデータを重ねて記録するように、一周目のXとそこから派生した改変世界は、X'と二周目の時間軸によっておおかくされているんです。しかし完全に消えてはいない。それはそこにあるんです」

「理解のおよびもつかねえよ」

 うそぶきながら俺は朝比奈さん(大)のセリフを思い出していた。

 もっと規模が大きくて複雑な時空修正──か。

「立体交差のあるサーキットを真上から見た様子に近いでしょうか。交差部分は二次元的にはつながっているように見えるでしょうが、もう一次元を足してやると段差が生じる。縦と横だけの世界では同じ位置にあるものの、奥行きという部分で異なるんですよ」

 俺はこめかみを押さえる。古泉はこう言っているが、未来人が聞いたらどう思うだろう。あるいは宇宙人ならば。

「もう一つ可能性があるんですが、言ってもいいでしょうか」

 この際だ、何でも聞いてやろうじゃねえか。

「あなたにはなくて僕たちにある記憶……十八日にあなたが階段から落ちてこんすいし、二十一日に目覚めるまでの三日間ですが、本当はそんな時間などなかったのかもしれません」

 あってもなくてもどうでもいいな。どうせ俺は寝ていたんだから。

「そうです。あなたのおっしゃるとおりなんですよ。以前僕が言ったことを覚えていますか? 世界が五分前にできあがったという可能性を消去することはできない、というやつです。もしかしたら、あなたが救急車で運ばれて三日間こんとうしたという事実はなかったのかもしれません。十八日の再改変後、二十一日の夕方にあなたが目を覚ますそのしゆんかんまで、時間は存在しなかったとも考えられます。だとしたら僕や涼宮さんにある三日間の記憶は模造記憶です。僕たちはその記憶を持たされて二十一日の夕方に再構築された……」

 何でも聞くとは言ったが、いくらなんでもトンデモだな──とは言えない。不可能じゃないんだ。過去を一年分まるごと書きえることさえできた。それを思えばたかだか三日だ。

「それとはまた別の話ですが、涼宮さんが見たというまぼろしの女の正体も今なら解りますよ」

 だれだ。俺をき落としたのは。

「長門さんです」

 おかしいことを言う。その時、長門はお前たちと階段を下りている最中だったんじゃなかったか? 俺がさいこうだったと聞いたが。

「ええ、僕たちのおくではそうなっています。長門さんがあなたの背を直接押したわけではありません。ですが、あなたが昏睡するという歴史を作り出したのは長門さんです。涼宮さんは無意識のうちに気づいたんでしょう。もちろん長門さんだとわかったはずはありませんし、事実として犯人はいなかった。それでも涼宮さんには解ったんです。こうなったのは誰かがそうしたからであり、どこかに犯人がいると」

 古泉は明るいみを見せた。

「その直感がなぞの女生徒の姿を生み出したんです。存在するはずのない幻の女をね」

 そこまで行くともうかんではすまされないな。長門主導の世界再改変、長門はいくらでも都合よく記憶をねつぞうできたはずだ。なのにハルヒは何かがおかしいことをその時点で気づいたわけだ。誰かが何かをしている、あるいは、した。

「仮説ですよ。あなたの疑問に答えようとする試みから生まれた思考実験です」

 さわやかろうはパイプこしを下ろし、ひょいと両手を広げた。

「実際問題、時間の成り立ちと移動の仕組みなど僕に解るはずがありません。ですが、朝比奈さんは未来から来てこの時間で何かをしている。さて、ここで僕からの質問です。もしあなたが過去に行き、だいさんとなるような事件を未然に防ぐことが可能な立場に置かれたら、あなたは手を出しますか?」

 俺は夜の七夕と朝比奈さん(大)をおもった。ちがう学校に行っていたハルヒと古泉、書道部員の朝比奈さん、眼鏡めがね付き長門がそろった中で、俺はパソコンのエンターキーを押したたんに二度目の時間こうをした。あの公園のベンチには以前の俺、中学生のハルヒを手伝って校庭に地上絵をえがく『俺』がいた。

 あの時、俺が飛び出していっていたらどうなっていただろう。これから起こることをすべて教えてやり、ハルヒに映画なんか撮らせんなとか、長門にめいわくばっかかけてんじゃねえとか、熱意をめて忠告していたとしたら。

 かたをすくめるしか手の打ちようがないな。

「さあ、解んねえよ」

 そんな機会があったら考える前に身体からだが動くさ。俺は自分の頭をあんまり信用していないが、やるべきことは身体が覚えている。今までそうやって何とかしてきたんだから、今度もやってくれるだろう。期待してるぜ、俺。

「まあ何だ。いくらなんでもそうそうタイムトラベルすることはないだろうよ。さすがに行き先に思い当たるふしがなくなった」

「残念です。今度は僕も連れて行って欲しいと思っているものですから」

 そんな夜中に小腹のいたシャミセンみたいな目をしてもだぜ。朝比奈さんにたのめよ。それも今いる朝比奈さんじゃなく、朝比奈さん(大)のほうにさ。どこに行ったら会えるのかは解らないが。俺に明言できるのはい止めを常備しておけということくらいだ。

 古泉があきらめ顔で首をって一人軍人しようを再開させ、俺が読みかけていたマンガ雑誌に意識をもどしてやっと部室にせいじやくが戻ってよいことだと思いかけたとき、

「お待たせ!」

 どかん、とドアをり飛ばす勢いでそうどうの原材料が登場した。セーラー服のすそくろかみを元気よくなびかせるこの部屋の最高権力者、ハルヒはコンビニぶくろかかえて無駄な熱量をほこる笑みで、

「近くの屋になかったから坂の下まで降りちゃったわ。あー、寒かった」

 部室のすみにある電気ストーブに手をかざした団長に続いて、長門と朝比奈さんの姿が現れた。二人ともハルヒと同じものを手にげている。

「…………」

 長門がもくぜんとドアを閉め、

「あの、これで何をするんですか?」

 朝比奈さんが不思議そうに首をかたむけるのに対し、ハルヒは直情径行に、

「決まってるじゃないの。みくるちゃん、今日が何日か知らないの? っていうか、知らないで買い出しに行ってたの?」

「二月三日です。でも、それが何か……?」

「節分よ、節分」

 ハルヒはコンビニ袋からさらなる袋と、パックめされた食料を取り出して、

なげかわしいわね、みくるちゃん。子供のころはちゃんとやってたでしょ? 今日は節分、そいで節分と言えば豆まきとほうまきじゃないの!」

 恵方巻は確か地域限定の行事だが、とにかく細かい季節的イベントにこだわりのある団長なのである。今やSOS団は『世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団』ではなく、『シーズンごとにオンタイムな行事をしめやかに実行する組織』として機能していると言ってもあながちちがいではない。

「何それ、ベルヌーイ曲線?」

 ハルヒは目ざとくホワイトボード上の古泉画を見つけ、顔見知りの童子に声をかけるしんしやを見つめる目で俺の辿たどった時間の流れを見つめた。

「じゃないわね。どういう計算式がその図から成り立つの?」

「ただのイタズラ書きですよ」

 古泉がさり気なく立ち上がってボードのせきを黒板消しでなぞった。

ひまつぶしの落書きです。こうりよにもあたいしません」

 よく言うぜ。

「あっそう」

 簡単になつとくしたハルヒは、そんなんどうでもいいとばかりに俺に袋をほうってよこした。かわいた音を立ててそれは俺の手に収まる。り豆がたんまり入ったパッケージ。

 今日は節分であり、であるからには豆をかねばならない──とハルヒが思い出したのは今日の昼休み中だった。その時、ハルヒは自責の念とともにこうさけんだ。

「なんか忘れてる気がしたのよ。そうだわ、節分よ!」

 おおかたたにぐちの弁当箱に入っていた太巻きを見て気づいたのだろう。とうの谷口はふたを開けるなり「おいおいこれだけかよ。ほかにオカズはねーのか」と毒づいていて不満をらし、「作ってくれた食い物にイチャモンをつけるな」と反射的なツッコミを入れた俺ですら内心、製作者にまったく共感できないのは息子むすこと同様だった。せめてハルヒの目を引かないように切ってから詰めておいて欲しかった。

「外来文化ばっかりもてはやしていてはダメよ。土着の風習を尊重してこそすべてのイベントを楽しむ権利が発生するの。だってすたれちゃったらもったいないじゃない。それだけ楽しみが減るんだから。古典に親しむことを忘れた人間はどんどん変な方向に走っていってしまうんだわ!」

 お前が言うな。ひょっとして、こいつは自分ではまともな道を歩いているつもりなのか? どう考えても全力でけものみちをそれも逆走しているとしか思えないが。

「何言ってんの? あたしはいつだって王道を目指しているのよ。そのためにはしないといけないことはすべてすんの。キョン、あんた今日が節分だって忘れてたでしょ? 許しがたいわ」

 自分だって忘れていたくせに、いや、だからこそと言うべきか、HRがしゆうりようするやハルヒはさっそく準備にいどみかかった。と言っても必要なのは豆と太巻きだけである。買い出しには自らをもって任じ、幸いにも俺は担任おかに呼び出されて進路指導という名目の説教を受けており、古泉は運よくそう当番、そのためハルヒは荷物持ちとして長門と朝比奈さんをただちに招集し、三人で放課後の学校をようようと出て行って、そして今帰ってきたという筋書きだ。

 太巻きはえんのいい方角を向いてえばしまいだが、豆は別の目的を課せられている。

「で、どこに撒こうというんだ?」

 俺は袋を開けて豆を口に放り込みながらたずねた。おちやけにはもってこいだな。

「部室に撒いたら掃除が大変だし、第一もったいないぜ」

「どこでもいいわ」

 ハルヒはらんらんかがやく目を動かして、

「そうね、校舎のわたろうのてっぺんから中庭に向かって撒くのがいいんじゃない? 地面に落ちたぶんも鳥のエサになるから片づけ無用だもんね」

 それに、とハルヒは付け足した。

「ちょうどふくむすめにうってつけの人材はそろってるんだし、景気よくやんないと」

 SOS団団長のIa型ちよう新星ばくはつのようなひとみが向けられた先には、まめぶくろの説明書きを熱心に読んでいる朝比奈さんと、早くも長テーブルに着いてぶつそうなタイトルのミステリ本を読みふける長門がいた。

 なるほどね。

 もし学内福娘コンテストをかいさいすればぶっちぎりの優勝としんいん特別賞があたえられるだろう二人であったが、それを差し置いてもこの手のついしきにはぴったりなコンビと言える。朝比奈さんは演出的に、長門は実務的な意味で。



 問答無用でハルヒに引きずられる朝比奈さんの後を追うようにして校舎最上階の渡り廊下までやってきた俺たちは、そこで下された命令に従って気前よく豆をばらまくことになったわけだが、これも命令により撒き手は女子団員三人組に限定されていた。俺と古泉は彼女たちが手にしているますもくもくと豆を補給する係で、ハルヒの指示にしてはめずらしくそのほうがだれにとっても幸せな効果を発揮したのはちがいない。

 当初は何事が始まったのかとさつちゆうざいふんおそれるゴキブリのようにかくれていた生徒たちだったが、一分としないうちに男子生徒どもが中庭にわらわらと群れ始め、朝比奈さんや長門の投げる豆を、おひねりをうばい合うように右往左往している。ハルヒのごうわんが生み出すさんだんじゆうのような豆こうげきは主にかいする方向で彼らの行動もいつしているようだ。

「しまったわ」

 ハルヒは心から残念そうに言いつつ、

「これ、みくるちゃんに巫女みこさんの格好させてたらお金を取れるイベントになったかも。参加料一人百円でもけっこうかせげそうよね?」

 そんなしようを着せられて校舎を練り歩くことになったら朝比奈さんがますます人気者になってしまうだろうが。俺の心配の種をこれ以上増やさないためにもコスプレは部室内限定でいい。

「ふ、福はうちーっ、ええと、それっ。福はうちー」

 俺はけんめいに豆をとうてきする朝比奈さんとだまっててのひらから豆をこぼしている長門をながめ、当然の帰結として二人の巫女装束を脳内とうえいしてから重々しくハルヒに答えた。

「一人五百円にしよう」

 ちなみにかけ声は「福は内」の一言のみに限られている。そのわけは、

「あたしはね、『泣いたあかおに』を読んで以来、鬼を見かけたらやさしくしてあげようって心に決めてるのよ。もう、すっごい泣いたわ『泣いた赤鬼』。あたしなら立て札見たしゆんかんに大喜びで赤鬼さんちに行ってお茶とおえんりよなくもらったのに……」

 すっかり鬼サイドに感情移入したハルヒは俺に厳然とした眼光を向け、

「いい? あんたも青鬼に会ったら親切にしてあげるのよ。鬼を外に追いやろうなんて絶対不許可よ。SOS団は人以外の人にも広く門戸を開放しているんだからね」

 ちゆうはんほうけを主張し、こうして福とやらをどんどん内側に取り込み続けるのはいいが外に放出するものが何もないとすると、いずれ目いつぱいふくらんだ見えざる袋的なモノがパチンと音を立ててれつするような予感があるものの、青鬼に関しては俺もハルヒに同感だ。

 それは俺がまだ感受性豊かなガキのころなみだした思い出のせいかもしれないし、長門が節分用豆パックのオマケについてきたチャチな鬼の面を頭の横につけているからかもしれない。部室でハルヒが語った昔話を読書しながら聞いていた長門は、なぜか紙製のめんに興味を持ったようにひっそりと手にして走査レーザーみたいな視線を注いでから自分の頭につけた。

 ハルヒ言うところの人以外の人ってフレーズが心にれたのかもな──これは俺のもうそうだが。



 朝比奈さん長門コンビによる校内豆まきサービスがしゆうりようした後、俺たちは部室にもどって太巻きを一気食いすることになった。今年の恵方をネットで調べ、ハルヒは全員に食料を配布すると、

「食べ終わるまでしやべっちゃダメだからね。ほら、みんな立って。あっちを向いて食べましょう」

 五人が同じ方角を向いて一列に並び、黙って冷えた巻きずしをムシャムシャほおるという異様な風景が数分間続けられ、ハルヒと長門はほとんど数口で完食したが、小動物のように両手で恵方巻を持った朝比奈さんは目を白黒させながら過食をしいられ、俺は晩飯に同じものが出てこないことをひたすらいのっていた。

 残った豆は深皿に空けられて、朝比奈さんのれてくれたお茶とともに主に俺とハルヒの腹の中に消えることになり、節分ってこんなに腹のふくれる行事だったのかとにんしきを新たにしたしだいである。

 これでハルヒの気が晴れたかと思いきや、どうしたことか、翌日には再びおとなしくなってしまった。最初にも言ったが深刻なゆううつではなく節分を思い出しただけで快晴になるようなシロモノなのはすでに証明されたとおりだが、それだけにこのみような静けさの意味がつかめず何やらおんだ。どうやらハルヒのこのおとなしさは俺にだけわかる種類のようで、ザコキャラ谷口やくにはともかくハルヒの精神的専門家とごうする古泉ですら気づいていないらしい。

 どうも変だ。

 そう思って首をひねくっていたのだが、俺もおちおちハルヒの動向ばかりを気にするわけにはいかなくなった。

 もっと直接的な変なことが起きたからである。こっちはハルヒのようなふん的なものにとどまらず、目に見える形をもって発生した。

 時間移動にかかわるようなことはもう当分ないだろうと古泉には言ったばかりだし、俺もそのつもりでいたのはすでに述べたとおりだ。とりあえず過去にさかのぼってそこで何かするようなこととはしばらくえんでいたかったわけである。何度もやるもんじゃない。ましてや理由が解らないまま行くもんではないことは確かだ。

 あわれな俺のそんな願いを聞き届けてくれたのか、まあ、その通りにはなったとも。

 今回、時間をんでしまったのは俺ではない。俺はこの現在時間を一歩も動いたりはしなかった。だが、それでも時間をめぐさわぎに巻き込まれることになったのである。

 その人は文芸部部室のそう用具入れの中に現れた。

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