涼宮(ハルヒがおとなしい。
憂(鬱(そうでも溜(息(を漏(らすわけでも、実を言うと退(屈(そうにも見えないのだが、ここ最近どこか奇(妙(な静けさを感じさせ、その正体不明なおとなしさが俺なんかにはけっこう不気味だ。
もちろん、ただ物理的に静かにしているわけではなく、ましてや情(緒(的におしとやかになったわけでもない。すでに形成された性格をちょっとやそっとで変えちまうほどハルヒは自分に疑いを持っておらず、大体そんなことになったらまた俺が困るハメになりそうなので今さら矯(正(してやろうとも思わないが、何というか、年中放射しているだろうキルリアン写真的なオーラが燃えさかる赤から橙(色(に変色しているような微(妙(なおとなしさをまとわりつかせているのである。
クラスの連中で、こいつの雰(囲(気(がいつもと違(うなどと気づいているヤツは一人か多くても二人だろう。そのうちの一人が誰(かは確実に名指しできる。つまり俺だ。入学以来俺の背後に居座り続け、放課後になっても面(を付き合わせているおかげで気づけたようなもんだから俺以外の誰も気づかなかったとしても無理はない。おとなしいとはいえ森(羅(万(象(に向かって挑(戦(し続けているような目つきは健在だし、いったん動き出せば満足するまで止まらない行動力もそのままだし。
先月の終わり頃(におこなわれた校内百人一首大会では惜(しくも二位に留(まったが、今月の頭にやった校内マラソン大会では堂々の優勝を飾(り、ちなみに百人一首の一位は長(門(、マラソンの二位も長門だった。ようするにSOS団の団長と読書係が文武そろってワンツーフィニッシュを決めるという、いったいこの団は何をしたいのか全校生徒があらためて首をひねったことだろうが、かく言う俺もそのうちの一人だ。
一つだけ理解可能なことがあるとしたら、これまでの経験上、ハルヒがこんな顔と空気を作り上げている時は次はどんな悪(巧(みを思いつくべきか考えていると見て間(違(いないってことである。そして考えついた瞬(間(に実にいい笑(顔(へと切り替(わることも絶対確実だ。
そうじゃなかったときが思い出せないからな。あったっけ? 俺の脳内にある歴史の教科書にハルヒが恒(常(的におとなしくしたまま引っ込んでいたなんていう年表が。
一時的な平(穏(は、次に来る大(津(波(を予言する確かな前兆に他(ならない。いつもがそうだったようにさ。
さて──。
寒気もピークに達する真冬の終(盤(、今は二月の初頭である。
いろいろあった去年から年を越(えて、すでに一ヶ月が経過している。時間が加速しているような気がするのは、年明けしょっぱなの一月にだってそれなりなことをやっていた自覚があるからだろう。
ここでいったん時間を巻き戻(させてもらいたい。ハルヒがいま何を企(ててんのかは知らんが、とりあえず俺は俺で自分に折り合いをつける必要があったのである。一年の出来事を振(り返るには二月はまだ早すぎるが、しかし俺がやらざるをえなかった、むしろやる気満々だった事件の顚(末(を語ることにする。
その時、俺が抱(いてたスローガンはただ一つ。
──やり残していたことをすませよう。できるだけ速(やかに。
決意したのは冬合宿の最中だが、行動に移すまでにはしばらく時間が必要だった。
それは一月二日、いつもの駅前から始まるエピソードだ。
………
……
…
吹雪(の中で遭(難(して謎(な館(に閉じこめられるというアレな事件の起きた合宿旅行は年明け二日目に終(了(日(を迎(え、SOS団冬合宿ツアー一行は遥(か山の彼方(にあった旅行先から帰(還(を果たした。
「ふうっ、ただいま」
ハルヒが我が町へ挨(拶(を送り、夕日に目をすがめた。
「やっぱりホッとするわね。雪山もよかったけど嗅(ぎ慣れた空気が一番だわ。ちょっと湿(っぽいけどさ」
俺たちとは違うルートで帰った多(丸(氏兄弟と新(川(・森(さんコンビの姿はすでにない。そんなわけで懐(かしき地元の駅前で荷を下ろしたのは、長旅などものともしない超(合金のような心身を持つハルヒと鶴(屋(さん、別れを惜しんだ妹にしがみつかれている朝(比(奈(さん、いつものように無表情に立つ長門と、どこか疲(れた笑みをたたえた古(泉(に、やはり疲れぎみの俺および荷物化しているシャミセンだけだ。まあこんだけいれば充(分(だろうという気はする。
「今日はこれで解散ね」
ハルヒは存分に楽しみ終えた顔をして、
「みんなゆっくり休むといいわ。明日は近所のお寺と神社に初(詣(に行くからね。朝九時にここに集合するように。あ、鶴屋さんはどうする?」
旅行から帰ってきた次の日にまたどこかに行こうとするバイタリティにはほとほと感服するが、問題は俺を代表とする普(通(の人間の体内には永久機関など内蔵されていないということである。しかしハルヒと同レベルのエネルギー源をどこかに隠(し持つらしい鶴屋さんは、
「ごめんよっ! あたしは明日からスイス行きさっ。おみやげ買ってくるから、頼(むっ、賽(銭(箱(にあたしのぶんの小銭をいれといてくれっかな!」
財(布(から出したジャラ銭を朝比奈さんに手(渡(し、続いて、
「これはお年玉だっ!」
妹にも硬(貨(を握(らせ、
「じゃねーっ。また新学期にっ」
手を振りながら笑顔のまま駅前を後にした。感心するくらいにサバサバした歩き姿で、どうしたらあんな娘(になるよう育てることができるのか、後学のためにも鶴屋さんのご両親に話をうかがいに行きたい。
ハルヒは笑顔の絶えない上級生が雑居ビルの角を曲がって消えるまで手を振り続けていたが、
「そいじゃ、ま、あたしたちも帰りましょ。みんな、気をつけてね。家に帰るまでが合宿よ」
これ以上何かあっては俺と古泉の身体(が保(たないだろうが、さすがに駅から自宅までの道のりで変なものに出くわしたりはせんだろう。
俺は長門を見る。謎(館(での不調はすっかり消し飛び、普(段(の何考えてんだか解(らん表情ナッシング状態に戻っている。──と、目が微(動(して俺の視線と触(れあった。うなずいたように思えたのは多分錯(覚(ではない。
次に朝比奈さんを見る。旅行中は終始脳天気に振る舞(い、あまりの脳天気さに謎館ではちょっと不安にもなったりしたが、いま思うとそれでよかったのだ。彼女の本当の出番はこれからだ。思いを込(めて視線を送ってみたのだが、残念ながら朝比奈さんは俺のサイン入り視線に気づくことなく妹と同年代の友人のようにじゃれている。
「では明日ね! 遅(れちゃダメよ。それからちゃんとお年玉をガメてきなさいよ。屋台の列はきっと参道をどこまでも延(びているに違(いないから」
そう言ったハルヒや朝比奈さんたちと別れ、俺は妹の手とシャミセン入りのキャリーボックスを引いてバスに乗り込んだ。
「みくるちゃーん、またねー!」
昇(降(口(にへばり付く妹を引きはがして座席に連れて行く間、朝比奈さんは何度も振り返って、片手をにぎにぎしていた。申しわけありませんが俺はいま手を振る気にはなりません。ハルヒと古泉相手ならバイバイと大声で叫(ぶのだが。
さて、家に戻(ってシャミセンと妹から解放された数分後、俺はついさっき別れたばかりのメンバーのうち二人のもとへ電話連(絡(を入れた。
何のためか?
年内にやっときゃよかったとしみじみ後(悔(するハメになったことを、一刻も早くすませようというわけだ。自分の怠(惰(が原因であのような冷や汗(をかくのは金輪際ゴメンであり、ゆえに余(裕(をかましていた昨年末の自分にヤキの一つでもいれたいところだったが、行くべきはそれよりもうちょっと前の自分のもとだ。例の謎館事件はどうやら長門と古泉の機転で最悪な結果だけは避(けることができたものの、ああいうのがもう一度やってこないという保証はなく、むしろありそうな雰(囲(気(がむらむらとする。旅行中は何かと問題がありそうだったので躊(躇(していたが団員がバラけた今はその限りでない。鶴屋さんの別(荘(で推理ゲームしたりスゴロクしたりする合間に決意する時間は充分にあった。
俺は行かねばならない。長門と朝比奈さんとともに、もう一度あの時間に。
そう、十二月十八日の未明へ──。
冬合宿の疲れを癒(す間もなく、俺が電話した先はまず第一に朝比奈さんである。ついさっき別れたばかりの相手から電話されて軽く驚(いた様子の彼女だったが、
『どうしました? キョンくん』
「一(緒(に行って欲しいところがあるんですよ。今からなんですが」
さらに驚いた声が、
『ええ……? どこですか?』
「去年の十二月十八日です」
驚きと困(惑(が混ざったように、
『えっえっ……? それ、どういうこと……?』
「俺と長門を過去に連れて行って欲しいんです。今から二週間ほど過去に、三人で時間遡(行(しなきゃならないんです」
『そんなぁ、あたしがTP……いえ、そのう、使用は勝手にできません。厳しい審(査(とたくさんの人の許可がいるんですよ?』
賭(けてもいいが、その許可はすんなり通る。俺の頭の上に浮かんだ妄(想(スクリーンの中で大人版朝比奈さんがウインクし、ついでに投げキッスまでくれた。
「朝比奈さん、今すぐあなたの上司かそれに近いような人に連絡して言ってください。俺があなたと長門を連れて十二月十八日の早朝に戻りたがっている、とね」
いやに自信満々だったせいだろう、朝比奈さんはしばらくハテナマークが受話器から漏(れ出そうな勢いで沈(黙(し、
『ちょっと、ちょっと待ってて』
もちろん待つ。未来とどうやって連絡するのか興(味(津(々(だが、こちらに伝わるのは朝比奈さんの静かな息(遣(いだけだった。十秒に満たないそのBGMが、
『信じられません……』
茫(然(とした声に移り変わった。
『……通っちゃいました。そんな、どうして……? こんな簡単に……』
それは未来の行方(が俺の双(肩(にかかっているからだ──とは言わず、というか電話で長話をする気にならず、
「長門のマンションで落ち合いましょう。三十分で行けますか?」
『あ……待って。一時間ください。もう一度確(認(したいし、あっ、あと長門さんの部屋じゃなくてマンションの玄(関(で待ち合わせたいんだけど……』
俺は快(諾(すると電話を切り、朝比奈さんが可愛(く驚いている姿を想像してひとしきりニヤついた後、顔の筋肉と気を引き締(め直した。これから行こうとしている時間帯では和(やかに笑っていられるシーンなど上映していない。そいつは俺が一番よく知っているはずだった。
もう一人、こっちには連絡しなくても解(ってくれてそうな気もするが、一応確認しとかないとな。俺は再び受話器を持ち上げた。
一時間後──。
早く来すぎた。調子に乗ってチャリを飛ばしすぎたぜ。豪(勢(な分(譲(マンションのエントランスで寒さに凍(えながら十五分間の足(踏(み運動をしていた俺のもとに、ふわふわした人(影(がぱたぱたと駆(けよってきた。着(替(えるヒマか思いつく余裕のどちらかがなかったようで、合宿帰りに着ていた服そのままだ。俺もそうだが。
「キョンくん」
朝比奈さんはまだ狐(につままれたような表情でいる。
「わけがわかんないです。どうしてキョンくんの依(頼(がこんなに簡単に通過するんですか? しかも長門さんも一緒にって、必ず三人でって逆に命令されました……。でも詳(細(を問い合わせても極(秘(って返ってくるだけなんです。それに……、あなたの指示に全部従えって言われてます。なぜなの?」
「説明しますよ。長門の部屋で」
そう言うと同時に俺は玄関のパネルに長門の部屋番号を入力してベルボタンを押した。すぐに反応がある。
『…………』
「俺だ」
『入って』
あっさりと解(錠(されたドアをくぐって、おっと、朝比奈さんを忘れてはいかんな。何だかまだ茫然としていらっしゃる。手招きすると、ハッとしたように付いてきた。どこかおっかなびっくりなのはここに来るたびに見せる彼女の習性みたいなものだ。エレベーターの中でも朝比奈さんの頭の周囲でクエスチョンマークがぐるぐる回っているようで、少し緊(張(した顔のまま、やっぱり茫然としている。
その表情は長門が部屋の扉(を開き、俺たちを招き入れてくれてもなお続いていた。
長門にはヒマも余(裕(もあったようだ。自宅だというのに見慣れたセーラー服に着替えている。物(凄(く安心する格好だと反射的に思っちまったのは別に俺がセーラー服フェチだからではなく、こいつがちゃんと理解してくれているという安(堵(感(があったからだ。
あの時、俺は髪(の短い制服姿の誰(かがナイフを手づかみしている光景を見ながら意識を失った。ならばこれから行こうとする長門が他(の衣(装(をまとっていてはあの時の俺が困るかもしれない。俺が長門を誰かと間(違(えたりはしないとは思うが、セーラー服はこいつのトレードマークみたいなものだった。
「…………」
無言でリビングを指差し仕草だけで座るよう告げながら、長門はキッチンに消えてお茶の用意を開始した。
では、この間に朝比奈さんに前々回のあらすじをさらっとお伝えしておこう。
「信じられません……」
朝比奈さんはつぶらな瞳(を見開いて呟(いた。
「歴史がまるごと変えられていたなんて、そんな、あたし全然気づきもしませんでした……」
無理もない。何と言ってもあの三日間で正しい記(憶(を持っていたのは俺だけで、その俺にしたところで長門のヒントとあっちのハルヒの無(遠(慮(な行動力がなければ何もできなかったんだ。
「世界規模の時空改変と未来からの直接介(入(……そんなことが同時におこなわれるなんて」
小声を震(わせながら朝比奈さんは質素な部屋の空中で視線を泳がせていた。リビングルームのコタツテーブルには湯飲みが三つ載(っている。長門が淹(れてくれたお茶であるが、朝比奈さんは俺の説明と、ところどころに差し挟(まれる、
「そう」
という長門の合いの手にずっと仰(天(するあまり、まったく手つかずのまますでに冷めていることだろう。
「…………」
長門は俺の斜(め向かいで無表情に朝比奈さんを見つめたのち、問いたげな眼(差(しを俺に向け、また朝比奈さんを見た。
長門が何が言いたいのか解るように思う。俺が朝比奈さんに説明したのは、長門がエラーパワーを爆(発(させたせいで十二月十八日に世界を一変させてしまい、ただし仕(込(んでくれていた脱(出(プログラムを首(尾(よく作動させることで俺だけが四年前の七夕に行って、そこでバグる以前の長門に協力を仰(いで十二月十八日にとって返し、しかしこれまた異常をきたした朝(倉(涼(子(に刺(殺(未(遂(の目に遭(って、けれども気絶する前に俺は俺と長門と朝比奈さんの姿を見かけ、その未来から来たであろう自分たちによって世界は元通りになった、らしい──という、これだけだと何のことやら解らないような解説に注(釈(を付け加えたものである。
しかも全部ってわけでもないんだ。四年前の七月七日、そこでもう一人の朝比奈さんが待っててくれたことは言わなかった。教えていいものかどうか自信がない。今の朝比奈さんは何も知っていない、ということはあの大人の朝比奈さんが意図的に隠(しているとしか思えない。この時代の朝比奈さんは未来と定時連(絡(くらいは取ってるらしいから、それが重要なことなら朝比奈さん(大)じゃなくてもとにかく誰か上司なりエライ人なりが教えてやっていてもいいはずだ。未来人の情報交(換(システムがどうなっているのか俺に解(るわけはないが、彼女の言葉の片(鱗(から少しはうかがえる。「詳(細(を問い合わせても極(秘(って返ってくるだけなんです」とは、さっき聞いたセリフだ。
朝比奈さんは知らないんじゃない。知ることがないようにされている。
理由は解らないさ。だがそう考えるとしっくりくる。未来人にしてはうっかりすぎる──とはこれまでに何度も抱(いた感想だ。あやうく無限ループしかけた八月、吹雪(の中に忽(然(と現れた館(……最低この二つは事前に朝比奈さんが未来的な忠告をしてくれていたら防げただろう。そうしなかったのは何故(か?
合点がいきかけてきた。
朝比奈さん(大)はすべて知ってないとおかしい。そのすべての事件はかつての彼女──今の朝比奈さん──が通っていった線路上にあるものだからだ。だからか、あの事件群を発生前に回(避(するようなことがあっては未来の彼女の歴史が変わってしまう。規定事(項(とは、たとえどんなことでも規定された項(目(はクリアして通らないといけないってことか。いずれ暴走するのが解っていながら、結局どうしようもなかった長門のように。
でも、それでは今の朝比奈さんに気の毒すぎやしないか? 何か起こるたびにいちいちビックリする回数はひょっとしたら現代人の俺より多いぞ。だいいち、朝比奈さんが何のためにこの時代にいるのかあやしくなっている感じすらしてくる。ハルヒの監(視(だけなら防犯カメラにでもさせときゃいい。
何かあるんだ、本当の目的が。朝比奈さん本人は知らない、でももっと未来の本人は知っているような目的が──。
考え込む俺に、フリーズドライされたような声が、
「あなたに頼(みがある」
長門のものなら、たいがいの依(頼(を聞いてやるつもり充(分(だ。
「その時間のわたしに何も言わないで欲しい」
何もって、「よう」とか「やあ」でもダメか?
「できれば」
長門は表情のない目で滅(多(にない内面表現をおこなっていた。黒い瞳に浮(いているのは強い願いに違(いなく、俺は長門の願いを断るくらいなら水(面(に映った月をすくい上げる作業のほうを選(択(する。
「わかったよ。お前が言うならそうするさ」
無造作なショートカットがゆっくりとうなずいた。
細かい時空間座標は長門の指示によるもので、忠実に実行したのが朝比奈さんだ。悪いが宇宙人と未来人の連合部隊ともなると、古泉の組織がどれほど巨(大(だろうと勝ち目はなさそうだな。戦う気があるのかどうかは知らんけど。
俺と長門、朝比奈さんの三人は靴(を履(くために玄(関(先(に行き、その狭(い空間で互(いの肩(を寄せ合うようにひしめき合った。先月、朝比奈さん(大)と時間遡(行(したときに靴を忘れてしまった教訓がここで生かされたというわけだ。彼女のハイヒールが四年越(しで置いてあるのは長門の性格からして確実だが、この朝比奈さんに返すわけにもいかないので黙(っておこう。
「ええと、昨年の十二月十八日の……何時でしたっけ?」
その問いには長門が秒単位で答え、朝比奈さんはうなずいた。
「行きますね。キョンくん、目を閉じていて」
そして──。
時間移動。何度か経験したアレが来た。嘔(吐(寸前までいきそうなグルグル目眩(。目を閉じているのに光が瞬(いているような感覚だ。まるで上空に向かって落ちているような、得も言われぬ不快指数の急(上(昇(、説明しがたい空間把(握(能力の喪(失(。制(御(を失ったジェットコースターに乗って何十周としているような、心身ともに平常を逸(脱(、俺の三半規管が限界に達する寸前──。
俺の足の裏は大地の感(触(を取り戻(し、地球の重力が心地(よく身体(に作用していた。
「来た」
長門が囁(くように言って、俺は目を開ける。
そして驚(いた。
校門の真ん前にいる自分を発見したからである。
思い出して欲しい。四年前の七夕にタイムジャンプした俺が長門(待機モード)の采(配(通りに朝比奈さん(大)に連れ添(われて十二月十八日に時間移動したとき、俺は暗がりから長門が世界を変えちまう光景を見守り、それから街灯の下に出ていった。
そのまっただ中に今の俺たちは出現していた。
ちょうど、その『俺』は、世界の変容を終えて自分も変化させた眼鏡(付き長門に相対して何か喋(っている。俺のジャケットを肩に引っかけた朝比奈さん(大)の後ろ姿も見える。マズいんじゃないか、これは。いくらなんでも近すぎる。
「心配ない」
我が長門が抑(揚(のないセンテンスを刻んだ。
「彼らにはわたしたちが見えていない。不可視遮(音(フィールドを展開済み」
つまり俺から見えている『俺』と朝比奈さん(大)と長門(眼鏡)からは、こっちの姿はサイレント透(明(人間になっているということだろう。この件で長門に嚙(まれる必要がなかったのは本人がついてきているからか。なぜか残念な気もするが。
朝比奈さんがパチパチと瞬(きをして、
「あのう……あの女の人は誰(なんですか? 大人の女性ですけど、どうしてここにいるの?」
なにぶん後ろ姿である。朝比奈さんが解(らないのも当然で、まさかそこに自分の未来存在がいるなんて想像できるほうが発想の飛(躍(が過ぎるというものだ。教えていいものか俺が悩(んでいるうちに、そんな思(惑(を吹(っ飛ばすようなことが起こった。知ってはいたものの、こうして客観的に見ていてさえも鳥(肌(が立つ。
暗がりから湧(いたとしか思えない唐(突(さで人(影(が疾(った。俺たちの横をかすめた人影が朝倉涼子の形をしていると見て取った直後、朝倉は俺にぶつかるようにして、いや事実ぶつかっていた。腰(だめにナイフを構えて勢いよく。
朝比奈さん(大)が何かを叫(び、その甲(斐(なく『俺』は刺(された。記(憶(のままに。
「うげ……」
いかにも痛そうだった。あの時は気づかなかったが、朝倉は刺したナイフをぐりぐりねじっていやがる。本気の殺意だ。一(片(の躊(躇(もなく『俺』を殺しにかかっていた。異常バックアップ、朝倉涼子は完全な殺人未(遂(犯(だ。
『俺』が崩(れ落ちた。
「え……ひゃっ!? キョンくんが!」
朝比奈さんも叫んでくれた。駆(け出そうして「あ……!」、すぐに透明な壁(にぶつかり悲痛な顔で振(り仰(ぐ。どうやら瞬(間(的に俺がそばにもいるということを忘れたようだ。彼女は倒(れた『俺』しか目に入っていない。ありがたいような、そうでないような。
「長門さん!」
朝比奈さんのセリフに、長門は緩(やかにうなずいて、
「フィールドを消去する。……完(了(」
朝比奈さんが走り出し、同時に長門自身も動き出していた。夜風よりもすみやかに移動した長門は、一瞬後に朝倉の振り上げたナイフの刃(をつかんでいる。朝倉が恐(懼(と憎(悪(のミックスボイスで叫ぶのを耳にしながら、俺も自分のもとへ向かった。やれやれ、ひどい有様だ。
朝比奈さん(小)が泣きながら『俺』に取りすがっている。心配してくれているのは嬉(しいが、そんなに揺(すると早死にさせちまいますよ……。
目(頭(が熱くなることに、必死に『俺』に呼びかける彼女はすぐそばにいる女性に注意を払(うことを忘れている。本当にありがとうと叫びたい。
沈(痛(な顔で目を落としていた朝比奈さん(大)が面(を上げ、俺を見つめた。
「来てくれたんですね」
少し遅(れてしまいましたが。時間的にではなく、俺の気分的に。
「…………な……」
そう声を漏(らしたのは記憶通りの長門だった。心臓に微(痛(の走る姿だ。眼鏡をかけているそっちの長門は、尻(餅(をついて驚きにまみれた表情でいる。見開いた黒い瞳(が倒れ伏(す『俺』から朝倉へ、そして自分と同じ姿のセーラー服へ移動し、最後に俺に向けられた。
「どうし……て……」
長門との約束だ。なので、もう一人の長門、つまり世界を改変したばかりのこっちの長門にかける言葉を俺は持たない。俺がするべきこと、言うべきことは一つだった。
三年前の長門が作ってくれた短針銃(を拾い上げ、俺は自分を見下ろした。例のセリフを言うために俺は口を開き、記憶にある通りの言葉を投げかけた。これで合っていると思うが、だいたい似たようなセリフなら多少の違(いは許容範(囲(だろう。その『俺』はわずかに開いていた瞼(を完全に閉じ、くたりと首を横向けた。死んだかもしれんと思えるくらいの見事な気絶シーンだが、そろそろ止血しないとマジで死にそうだぞ。
さて、ここからは完全に俺たちの出番だ。これ以降に何が起こったのかは俺にもまだ未知なのである。
まず俺が目にしたのは、朝倉を止めてくれた長門の行動だ。
「…………」
長門のつかんだナイフが煌(めきながら砂と化す。飛び退(こうとした朝倉だが、足が地に接着したように動かない。長門が小さな早口を述べた。
「そんな、なぜ? あなたは……」
朝倉の姿も煌めき始めていた。
「あなたが望んだんじゃないの……今も……どうして……」
凝(然(とした朝倉は最後まで疑問を口にしながら、やがてナイフにつられるようにサラサラと解け崩れる。ほぼ同時に、
「あ?……くう」
朝比奈さん(小)が『俺』の身体(につっぷすように前のめりになっている。柔(らかく閉じられた目と薄(く開いた唇(はどう見ても寝(顔(であり、力の抜(けた愛らしい上級生の首筋に朝比奈さん(大)の手が軽く乗っていた。
「眠(らせました」
大人の朝比奈さんが悲しそうに幼い自分の髪(をなでつけた。
「ここにわたしがいることを悟(られてはいけないの。そうしておかないとダメなんです」
俺の朝比奈さんはスヤスヤと寝息を立てて、気絶した『俺』の腕(を枕(にしている。
「この子にはわたしは内(緒(」
三年前の七夕の時、あの公園のベンチで見たのと同じ寝顔だった。理(屈(も同じ、やはり朝比奈さん(大)は過去の自分に自分の姿を見せたくないらしい。後ろ姿ならオッケーでも間近で見れば確かに朝比奈さんは朝比奈さんにしか見えないからな。
俺が朝比奈さん(小)と『俺』の意識不明状態を見下ろしていると、
「…………」
長門が片(膝(をついて屈(み込み、ナイフでえぐられた『俺』の脇(腹(に手を添(えた。そのおかげで間違いない。ともかく出血は収まり、『俺』の蒼(白(な顔が少しはまともに見えてくる。傷を治してくれたのはやはりこいつだったのか。
長門は停(滞(なく立ち上がると、血がついた指先をぬぐおうともせずに手を差し出して言った。
「かして」
俺は黙(って短針銃を持ち上げた。どうにも手持ちぶさたで困ってたんだ。いざとなると抵(抗(が勝(る。どの長門にだってこんなもんを向けて撃(ちたくはない。
淡(々(と銃を手にした長門は、座り込んで怯(えた顔を維(持(している眼鏡(の長門へ銃口を突(きつけ、あっさり引き金を引いた。
「…………」
何の音もせず、何かが発射された軌(跡(も見えなかったが、
「…………」
長門(眼鏡)はゆっくりと瞬(きをした後、さらにゆっくりと立ち上がった。棒のような立ち姿は俺がよく知っている長門の姿勢だ。入部届けを手(渡(したり、困ったように俺の裾(を引いたり、はにかんだ薄い微(笑(の主とは違う。
俺の思考を裏付けるように、その長門は自然な動作で眼鏡を外し、裸(眼(で俺を凝(視(してから無感情な目をもう一人の自分に据(え付けて言った。
「同期を求める」
二人の長門がじっと互(いを見つめ合っている光景。俺は今回を含(めて何度か『俺』を見たことがある。朝比奈さんが大小二人いる場面も網(膜(に投(影(済みだ。だが、長門が二つになって相対するところは初めてであり、妙(な感(慨(を持たされた。どことなく壮(観(だ。
「同期を求める」
撃たれたほうの長門が繰(り返した。対して、撃ったほうの長門は即(答(した。
「断る」
俺だって不意をつかれたが、眼鏡を手に持つ長門はもっとだったらしい。眉(をミリ単位で動かして、
「なぜ」
「したくないから」
啞(然(とした。長門の口からここまで明(瞭(な意志が出てきたことがあったか? 理屈じゃない。明確な拒(絶(の言葉は感情から出るものに違(いない。
「…………」
言われたほうの長門は考え込むように沈(黙(して、
「…………」
やはり沈黙したまま夜風に髪をなぶられていた。
俺と未来から来たほうの長門がポツリと、
「あなたが実行した世界改変をリセットする」
「了(解(した」
と、そっちの長門はうなずいたが、俺にだけ解(るようなやや躊(躇(した声で、
「情報統合思念体の存在を感知できない」
「ここにはいない」
長門は淡々と告げて、
「わたしはわたしが現存した時空間の彼らと接続している。再改変はわたし主導でおこなう」
「了解した」と過去の長門。
「再改変後、」
俺の長門は言葉を続ける。
「あなたはあなたが思う行動を取れ」
元に戻(ったばかりの長門は、ほんの少し頭を傾(げて俺を見る。その表情と目に浮(かぶ不可視の情報を俺は確かに読みとった。俺ほど長門の言いたいことを解っている人間は他(にいない。
この長門はあの長門だ。あの日、夜の病院に現れた、あの長門が今のこいつなんだ。自分の処分が検討されていると言って俺を怒(らせた、あいつだ。
俺と未来から来た長門が同期を拒(否(した理由も解る。長門は自分がその時すべきことを今の自分に教えたくないんだ。
なぜなら──なぜならだって? 言うまでもないじゃないか。
ありがとう──、あの時聞いた長門の言葉がすべての答えだからだ。
「キョンくん」
立ちつくしていた俺に、朝比奈さん(大)が控(えめな声をかけた。
「この子……わたしをお願いできますか?」
彼女は重そうに、すうすうと安らかに眠(る朝比奈さん(小)の上体を起こしてやっている。俺はすぐさま手を貸して、彼女が言うがままに小(柄(な朝比奈さんをいつかのように背負ってあげた。柔(らかくて温かいのも覚えている通りである。
「もうすぐ大規模な時空震(が発生します」
朝比奈さん(大)は両(腕(を抱(くように、恐(れの入り交じった生(真(面(目(な顔で、
「長門さんが先ほどやったやつより、もっと規模が大きくて複雑な時空修正なの。今度はまともに目を開けてもいられないと思うわ」
あなたがそう言うのなら信じますが、でも、どう違うんです?
「最初の改変は過去と現在を変化させただけ。それに加えて時間を正しい流れに戻す作業が必要なんです。思い出して。あなたがどこで目覚めたかを」
十二月二十一日の夕方、俺は病院のベッドで意識を回復した。
「ええ。ですから、そうなるようにしないといけないの」
俺のブレザーを肩(に羽織った裸足(の朝比奈さん(大)は、どこか物(憂(げに寄り添(ってきた。朝比奈さん(小)をかついだ俺の肩に手を触(れさせ、首を巡(らして長門に視線を送る。俺とここまで来たほうの長門が静かに歩いて来た。もう一人はそこに立ったまま、そして倒(れた『俺』もそのままだった。
朝比奈さん(大)はもう片方の手で長門の腕に触れて、
「お願いします、長門さん」
長門は小さくうなずき、最後の別れだと言わんばかりに自分を見つめる。もう一人の長門も何も言わない。寂(しそうな印象を受けたのは俺の気のせいかもしれないが心配もいらない。俺はあの時俺が言ったセリフを覚えていた。そこでぶっ倒れている『俺』がこれからお前に言うべき言葉だ。そいつは間違いなくそう言う。だから安心して見(舞(いに来てくれ。お前の親玉にくそったれと伝えんのを忘れるなよ。
「目を閉じて、キョンくん」
朝比奈さん(大)が囁(く。
「時間酔(いするといけませんから」
忠告に従って俺は目を固くつむった。
次の瞬(間(、俺は世界が捩(れる様を感じ取った。
「うわっ──」
無重力状態でぐるぐる回っているような感覚はもう何度も体験していたし、もう慣れたような気分でもあったのだが、今回のぐるぐるはちょっとケタが違(っていた。それまでが遊園地のジェットコースターだとしたら、これは無(秩(序(噴(射(する宇宙船の中でシートベルトを締(め忘れた状態というか、しかし俺の身体(に加重がかかっているわけでないから実際に振(り回されているわけでもないが、これは酔う。外がどうなっているのか見たいものの、目を開けた途(端(に本格的に酩(酊(しそうで恐(怖(が募(り、瞼(の裏の暗(闇(でチカチカ瞬(く光だけが俺の感知できるすべての映像だった。背中の朝比奈さん(小)の体温と、肩に置かれている朝比奈さん(大)の掌(の感(触(が大いに頼(もしい。
──と、閉じた瞼の上からでも感じる剣(呑(な光が目を刺(激(した。
見たいという欲求を抑(えきれず、俺は目を開けて赤き光の正体を知った。回転する赤色灯は緊(急(車両に許された特権だ。
あれは……?
北(高の校門に救急車が止まっている。野次馬な生徒たちが遠巻きにする中、救急隊員たちが誰(かを乗せたタンカを持ってやってくる。タンカに付き従うように同じスピードで歩いている姿二つは、生(涯(忘れんであろう名前を持つ女子生徒たちだった。ハルヒは青ざめた恐(い顔で、朝比奈さんは泣きべそ顔でタンカの主を追い、少し遅(れて笑(みを消(滅(させた古泉が姿を見せる。
タンカはすぐさま救急車に運び込まれ、隊員と二言三言会話したハルヒも乗り込んだ。赤色回転灯にサイレンがプラスされ、救急車が走り出す。目元を覆(う朝比奈さんの横で古泉が真(剣(な顔で携(帯(電話をかけていた。長門はいない。だが、いないのが当然のような気もする。
俺の浮(遊(感(はまだ続いていた。正直、身体がどこにあるのかもよく解(らん。
朝比奈さん(大)の吐(息(が身体のどこかに感じられた。
「キョンくん、このままあなたの元時間に跳(びます」
見ている映像がフェードアウトしていく。サービスカットは終(了(ということかな? 俺は目を閉じる。いいものを見させてもらった。俺の記(憶(にはない三日間の断(片(、そうだよなハルヒ、団員の心配をするのは団長の使命だったっけ。
また、あのぐるぐるする感覚が始まった。酔い止め薬が欲しいね。次は絶対用意しておくからな。
「あなたが出発した時間に座標軸(を合わせます。そのわたしをよろしくね。目を覚ますまでしばらくかかりますから……。ふふ、チュウまでなら許します」
悪戯(っぽい声を残し、朝比奈さん(大)が遠ざかる気配がした。
そして──。
目を開けた時、俺は長門の部屋のリビングで朝比奈さんを背負って立っていた。
正面に長門が立っていて、
「出発した時間から六十二秒後」
俺を見上げながら言った。
「戻(ってきた」
自分たちの時間と世界に。
ふうっと息を吐(きつつ、朝比奈さんを肩から下ろす。確かにキスしたくなる寝(顔(の最有力候補だが、あの朝比奈さんの言葉を本気にするほど俺はピュアではなかった。もっともここが長門の部屋じゃなくて、また長門が監(視(するようにじいっと見ていなければ後ろ暗さを放(り出していたかもしれない。いや、んなことはないが。しないって。
テーブルの湯飲みをとって残っていたお茶を一口含(む。時間旅行に出かける前にはもう生(温(くなっていたが、やけにうまい。風(呂(上がりの麦茶並みだ。部室で飲む朝比奈さんのお茶にも匹(敵(するぜ。
「やれやれ」
ようやく去年の積み残しを片づけることができた気分だ。もうやり残してたことはないよな。世界再改変はこうして終了、年をまたいだ冬合宿からも帰ってきた。あとは初(詣(くらいしか思いつかない。まあ、どうせそのうちハルヒが何か思いつくんだろうが、それまで少しは落ち着いていられるだろう。
ちなみに天使のような未来人はなかなか目覚めなかった。どういう眠(らせ方をされたのか不明だが、満腹で暖かい部屋にいるシャミセンなみに幸せそうな寝顔をされると起こすのも気の毒だ。長門に頼んで客間に布(団(を敷(いてもらい、そこに朝比奈さんを寝かすと毛布と掛(け布団を上からかぶせる。
「長門、朝比奈さんが目を覚ますまでよろしく頼む」
長門は深々とした目を眠る客人に注いでいたが、俺を一(瞥(してこっくりうなずく。
目覚める時に居合わせていたいのはやまやまだが、実は俺も疲(労(困(憊(の極地にある。合宿と時間旅行の疲(れを自宅の風呂と自室のベッドで癒(さないと明日の九時までには起きれそうになく、あくまで有限でしかない財(布(の中身が自然現象のように減っていくのも打ち止めにしたかった。五人分の正月料金はちょっとした痛打と言えるぜ。
いっそ三年寝(太(郎(状態が始まった七夕のあの日のように朝比奈さんの隣(に布団を出してもらってもよかったし、モノも言わずに身を投げ出してそのまま即(座(に就(寝(する自信もあったが、何とはなしにそんなこと誰も望んでいないような気がしてならなかった。
未来人が宇宙人宅で一眠りするのも、たまにならあっていいさ。
「また明日会おう」
「了(解(した」
長門は安定感のある無表情で見送ってくれた。静(謐(な二つの瞳(が前(髪(の下で揺(れることなく視線を俺に固定している。
「今日はご苦労さんだったな。いろいろ迷(惑(をかけてすまん」
朝比奈さんもだが、最大の功労者はこの長門と四年前の七夕にここにいた長門だ。
「いい」
いつもの長門は表情を変えないまま、
「わたしが原因」
俺は扉(が閉まる瞬(間(まで宇宙人製端(末(の顔を見つめていた。微(笑(でも浮(かべやしないかと思ったからだが、残念ながら──または安心したことに小(柄(な白い顔は普(通(に無表情だった。ただまあ、少しは何かある気配がしたのは俺の熟練の眼力のたまものだ。
マンションを出た俺はチャリをゆっくり走らせ、自宅に戻るなりベッドに倒(れ込んで眠った。
疲れ切った末の睡(眠(状態の中で何故(かむやみに楽しい夢を見たような気がした。目覚めて三十秒後に夢の記(憶(は消え去ったが、残存する雰(囲(気(が教えてくれている。
未来人と宇宙人が仲むつまじくお茶を点(てている、そんな感じのヤツだったと思うのさ。
そういうわけで俺としては朝比奈さんの重みとともに肩(の荷を下ろしたつもりでいて、そのぶん割と和(やかに一月は過ぎていく予定だった。
ところが問題が一つばかり残っていたのである。
寝顔の愛らしさにすっかり忘れていたが、眠り続けていた朝比奈さんはまさに眠っていたがために、俺や長門や朝比奈さん(大)があの十二月十八日でしたことをほとんど見聞きしていなかった。彼女からすれば突(然(俺に言われて時空改変の事実を知り、半信半疑のまま過去に遡(行(したと思ったら、そこで『俺』の無(惨(なやられっぷりに動転し、そのまま強制的に眠らされて、目が覚めたら元の時間に戻っていた──ということになる。
俺からすれば充(分(に役目を果たしてくれたわけだし、彼女にしかできなかったことだと思っていたのだが、朝比奈さんはそう考えなかったらしい。今にして思えば確かに冬期休(暇(が明けてしばらく、朝比奈さんはどこか上の空で考え込みがちだったような。
そのことが朝比奈さんに誘(われてデートモドキをした日曜日、眼鏡(の少年をあわや交通事故から救い出したあの日の彼女の憂(鬱(に繫(がったわけで、どちらかと言えばこれは朝比奈さん(大)の秘密主義が原因だ。朝比奈さんを泣かせるようなヤツは問答無用で殴(り倒されるべきだが、考えてみれば俺が原因で泣いてくれたほうが多いのか? 今度ハルヒとボクシングジムに体験入学してスパーリングでもやってみるか。適度に殴り殴られが楽しめるだろう。
ともかく、茶葉の買い出しに二人で行った日曜日の一幕のおかげで俺はSOS団の未来について少しは考えるようになり、同時に朝比奈さんの憂鬱をなんとか取り払(うことにも成功した。彼女がどこまで察したのかは正直言って解(らない。だが、あの分かり合えた感じでは詳(細(説明は不要だろう。少なくとも今の朝比奈さんには。
俺がハルヒにジョン・スミスの名を封(印(しているのと、朝比奈さんに大人版朝比奈さんの存在を言わないのは同じような意味を持つんだ。そいつはいざという時のための切り札なのさ。
その時が来たら──。
ま、その時なんか来て欲しくはないけども。
…
……
………
そして二月に入り、話は冒(頭(に戻(る。
年度末ともなれば学校の雰囲気も色々変わるもので、たとえば三年生の姿を見かけることはほとんどなくなった。今(頃(彼らの大半は受験の準備かまっただ中にいるはずで、そのせいか職員室の空気も妙(にピリピリムードである。再来年の我が身を思えば他人(事(ではない。今年の三年生が奮起して市立のライバル校に合格率で勝ってくれないと、また校長が臨時補習だの創立記念日を潰(した模(擬(試験だのとハリキリかねず、二年後の自分の姿などまだ遠い空の向こうに置いておきたい俺にとっては鬱(陶(しいだけだ。
受験といえばそろそろ中学生を相手にした特別クラスの推(薦(入試も始まる頃で、我が校にも二つくらいある。そういえば古泉のいる九組は理数クラスだった。あいつの後(ろ盾(組織のごり押しなのか元々の古泉が持つ学力のおかげなのかは知らんが、よくまあ転入できたものだと感心するね。俺なら数学と理科をメインディッシュにしたコースなど取る気にもならんからな。
とりあえず将来の自身に降りかかる大学受験なる煉(獄(から目をそらして、残りわずかとなった高一生活がもうちょっと間延びせんものかとカレンダーを意識的に見ないようにしている俺だったが、例の十二月十八日から戻ってきてからはノンビリとした心構えを構築している。
何しろ時空の修正以上に懸(案(な事(柄(など俺には思いつかず、それも無事果たし終えたからには、少しは休ませてくれてもいいだろう。長門はすっかり元通り、朝比奈さんの笑(顔(も復活、ハルヒは何かおかしいが、どうせすぐに騒(ぎ出す。
ここまで来たらもはや問題はないはずで、むしろ考えたくもない。なのに、どうでもよさそうな些(事(を掘(り出して勝手に問題にしてしまう野(郎(が部室に行くと一人いて、それはハルヒとともに蚊帳(の外に置き去りにしていた唯(一(の団員、時空改変には役立たずの超(能(力(者(、古泉一(樹(の姿をしてこう言った。
「あなたが何度か遡(って赴(いた十二月十八日未明は二種類存在したんですよ」
雪山謎(館(事件以降、俺のこうむった時間移動について聞きたがり屋となった古泉は、祖父母に昔話を求める良くできた孫のように何度も水を向けてきていた。どうやらこいつはタイムトラベラー志願の気があるようで、なにやら俺をうらやましがっているようでもある。鶴屋さんの別(荘(から帰る電車の途(上(でも「僕も連れて行ってもらうわけにはいきませんか」とか「僕の姿を過去のあなたが見なければそれでいいはずです」などとも言っていたが、耳を貸さなかったのは言うまでもない。
俺は長門のこともあって内心忸(怩(たるものを感じていたから、すべてが終わってもずっと口を濁(し続けていたのだが、古泉の知的欲求からくるしつこさに辟(易(して部室で二人きりになった時にあたりさわりなく教えてやることにした。
すると案の定、嬉(しそうに解説を始めやがった。
「いいですか、異常動作を起こした長門さんが世界を改変したのが十二月十八日未明でしたね。僕を始め涼宮さんと朝比奈さんまでもが一(般(人(になってしまった世界です。あなたはその世界で三日間を過ごし、長門さんの脱(出(プログラムで三年……いや、もう四年前ですね……に移動する。そこでまだ正常な長門さんに出会って、それから再び十二月十八未明に舞(い戻った」
そうだとも。ついでに言っておくと、それからもう一度行ったぞ。
「解っています。ですが、よく考えてください。十二月十八日の早朝……長門さんが世界改変を実行したこの時間をX時点と言い換(えましょう。あなたが四年前の七夕からX時点に時間遡(行(したとき、そのX時点は元のX時点ではなかったはずです」
どういうことだ? そんなはずはないだろう。同じ時間がいくつもあるはずはない。
「いいえ、そうとしか思えないんです。簡単な理(屈(ですよ。X時点での世界改変がなくなってしまえば、そもそも涼宮さんの消失も僕たちの一般人化もなかったわけです。そうしたら、あなたが過去に戻る理由もなくなってしまう」
タイムパラドックスってやつだ。そのくらい身をもって知ってるさ。
「しかし世界を元に戻すにはあなたが過去に行くことが必(須(条件です。行かなければ世界は改変されたままになります。そしてあなたはちゃんと過去に行って世界を直して来ましたよね? でないとこの時間軸(は存在しません」
俺はちらちらと扉(の内側に視線を送る。誰(でもいいから早くこいつを邪(魔(してくれ。
「図に描(いて説明しましょう。少しは理解の助けになるかもしれません」
遭(難(以来、図形好きにでもなったのか、古泉は水性フェルトペンを手に取るとホワイトボードに歩み寄った。ボードの下から上へと向かう縦線を引きながら、
「この上向きの線が過去から未来へ向かう時間の流れだとします。そして──」
と、ボード中央で線を止め、線の頭頂部に丸い点を付けてXと書き入れる。
「これが最初のX時点です。ここで長門さんは自分を含(む世界を改変させ、あなたの記(憶(にある通りの時間が生まれます」
古泉はペンの動きを再開させた。直線の続きではない。右に向かう急カーブを描(いて、出発地点のXへと戻ってくる円を完成させる。朝顔の双(葉(から一枚の葉をむしり取ったみたいな図ができあがった。
「この円があなたの記憶にある十八日以降の歴史です。脱出プログラムで四年前の七夕に遡行し、そこから十八日未明にジャンプする。そこで長門さんを正常化できればよかったのですが、そうではなかったんでしたよね」
朝倉涼子がいたからな。ただしそこにいたのは朝倉だけじゃない。未来から来た別の俺と長門と朝比奈さんもいて、ちゃんと世界をなんとかしてやった。今の俺からすれば一ヶ月ほど前のことだ。
「そうでしたね。あなたは自分自身を救ったわけです。それが──」
点Xから動き出した古泉ペンは、今度は左向きの円を描き出した。
「──こちらの時間となります。今この世界に続いてる時間ですよ。僕や涼宮さんの記憶通り、十八日にあなたが階段落ちして気を失い、二十一日になるまで目覚めなかったというほうのね。そして先月、自分を救いに行ったというあなたの時間の動きでもあります」
左に周回した円を描き終えても古泉は手を止めなかった。Xを通過する直線の続きをボードの上へと伸(ばしていき、上限に達したところでペンを置いた。ボードから半歩下がって俺を眺(め、俺はじっくりとその図形を見る。
横に寝(かせた8の字、ようは∞マークのど真ん中を縦線が貫(いている様子を思い浮(かべると話は早い。すべての線が重なり合っている中央の交点がX時点である。
理数系科目に対して怯(懦(を公言してはばかりない俺の頭でも、じんわりと古泉の言いたいことが解(ってきた。
一つ目、右回りの円が俺の記憶にある時間だ。いろいろ大(騒(ぎの末に、俺はX時点に行って眼鏡(娘(な長門が世界を変えるところに立ち会い、おまけに朝倉に刺(された。
二つ目、左回りの円には俺の記憶にはない部分がある。刺されて意識を失い、病院のベッドで目覚めるまでの三日間がそっちの円に入っていた。
そしてどちらの円も同じ点Xをスタート地点にしている……。
「X時点は二つあることになります」
古泉が答えを言った。
「世界改変を発生させたX時点と、改変された世界を再改変した──そうですねX'地点とでも言いますか」
ペンを置いた古泉は興味深げに自分の絵図を眺め、
「XをなかったことにしたらX'が発生しません。だから元のXは消去されているわけではない。おそらく、二つのX時点は時間的に重なっているのだと思われます。重ね撮(り……そう、上書きされたんですよ。古いデータの上に新しいデータを重ねて記録するように、一周目のXとそこから派生した改変世界は、X'と二周目の時間軸によって覆(い隠(されているんです。しかし完全に消えてはいない。それはそこにあるんです」
「理解の及(びもつかねえよ」
うそぶきながら俺は朝比奈さん(大)のセリフを思い出していた。
もっと規模が大きくて複雑な時空修正──か。
「立体交差のあるサーキットを真上から見た様子に近いでしょうか。交差部分は二次元的には繫(がっているように見えるでしょうが、もう一次元を足してやると段差が生じる。縦と横だけの世界では同じ位置にあるものの、奥行きという部分で異なるんですよ」
俺はこめかみを押さえる。古泉はこう言っているが、未来人が聞いたらどう思うだろう。あるいは宇宙人ならば。
「もう一つ可能性があるんですが、言ってもいいでしょうか」
この際だ、何でも聞いてやろうじゃねえか。
「あなたにはなくて僕たちにある記憶……十八日にあなたが階段から落ちて昏(睡(し、二十一日に目覚めるまでの三日間ですが、本当はそんな時間などなかったのかもしれません」
あってもなくてもどうでもいいな。どうせ俺は寝ていたんだから。
「そうです。あなたのおっしゃるとおりなんですよ。以前僕が言ったことを覚えていますか? 世界が五分前にできあがったという可能性を消去することはできない、というやつです。もしかしたら、あなたが救急車で運ばれて三日間昏(倒(したという事実はなかったのかもしれません。十八日の再改変後、二十一日の夕方にあなたが目を覚ますその瞬(間(まで、時間は存在しなかったとも考えられます。だとしたら僕や涼宮さんにある三日間の記憶は模造記憶です。僕たちはその記憶を持たされて二十一日の夕方に再構築された……」
何でも聞くとは言ったが、いくらなんでもトンデモだな──とは言えない。不可能じゃないんだ。過去を一年分まるごと書き換(えることさえできた。それを思えばたかだか三日だ。
「それとはまた別の話ですが、涼宮さんが見たという幻(の女の正体も今なら解りますよ」
誰(だ。俺を突(き落としたのは。
「長門さんです」
おかしいことを言う。その時、長門はお前たちと階段を下りている最中だったんじゃなかったか? 俺が最(後(尾(だったと聞いたが。
「ええ、僕たちの記(憶(ではそうなっています。長門さんがあなたの背を直接押したわけではありません。ですが、あなたが昏睡するという歴史を作り出したのは長門さんです。涼宮さんは無意識のうちに気づいたんでしょう。もちろん長門さんだと解(ったはずはありませんし、事実として犯人はいなかった。それでも涼宮さんには解ったんです。こうなったのは誰かがそうしたからであり、どこかに犯人がいると」
古泉は明るい笑(みを見せた。
「その直感が謎(の女生徒の姿を生み出したんです。存在するはずのない幻の女をね」
そこまで行くともう勘(ではすまされないな。長門主導の世界再改変、長門はいくらでも都合よく記憶を捏(造(できたはずだ。なのにハルヒは何かがおかしいことをその時点で気づいたわけだ。誰かが何かをしている、あるいは、した。
「仮説ですよ。あなたの疑問に答えようとする試みから生まれた思考実験です」
爽(やか野(郎(はパイプ椅(子(に腰(を下ろし、ひょいと両手を広げた。
「実際問題、時間の成り立ちと移動の仕組みなど僕に解るはずがありません。ですが、朝比奈さんは未来から来てこの時間で何かをしている。さて、ここで僕からの質問です。もしあなたが過去に行き、大(惨(事(となるような事件を未然に防ぐことが可能な立場に置かれたら、あなたは手を出しますか?」
俺は夜の七夕と朝比奈さん(大)を想(った。違(う学校に行っていたハルヒと古泉、書道部員の朝比奈さん、眼鏡(付き長門が揃(った中で、俺はパソコンのエンターキーを押した途(端(に二度目の時間遡(行(をした。あの公園のベンチには以前の俺、中学生のハルヒを手伝って校庭に地上絵を描(く『俺』がいた。
あの時、俺が飛び出していっていたらどうなっていただろう。これから起こることをすべて教えてやり、ハルヒに映画なんか撮らせんなとか、長門に迷(惑(ばっかかけてんじゃねえとか、熱意を込(めて忠告していたとしたら。
肩(をすくめるしか手の打ちようがないな。
「さあ、解んねえよ」
そんな機会があったら考える前に身体(が動くさ。俺は自分の頭をあんまり信用していないが、やるべきことは身体が覚えている。今までそうやって何とかしてきたんだから、今度もやってくれるだろう。期待してるぜ、俺。
「まあ何だ。いくらなんでもそうそうタイムトラベルすることはないだろうよ。さすがに行き先に思い当たるふしがなくなった」
「残念です。今度は僕も連れて行って欲しいと思っているものですから」
そんな夜中に小腹の空(いたシャミセンみたいな目をしても無(駄(だぜ。朝比奈さんに頼(めよ。それも今いる朝比奈さんじゃなく、朝比奈さん(大)のほうにさ。どこに行ったら会えるのかは解らないが。俺に明言できるのは酔(い止めを常備しておけということくらいだ。
古泉があきらめ顔で首を振(って一人軍人将(棋(を再開させ、俺が読みかけていたマンガ雑誌に意識を戻(してやっと部室に静(寂(が戻ってよいことだと思いかけたとき、
「お待たせ!」
どかん、とドアを蹴(り飛ばす勢いで騒(動(の原材料が登場した。セーラー服の裾(と黒(髪(を元気よくなびかせるこの部屋の最高権力者、ハルヒはコンビニ袋(を抱(えて無駄な熱量を誇(る笑みで、
「近くの駄(菓(子(屋になかったから坂の下まで降りちゃったわ。あー、寒かった」
部室の隅(にある電気ストーブに手をかざした団長に続いて、長門と朝比奈さんの姿が現れた。二人ともハルヒと同じものを手に提(げている。
「…………」
長門が黙(然(とドアを閉め、
「あの、これで何をするんですか?」
朝比奈さんが不思議そうに首を傾(けるのに対し、ハルヒは直情径行に、
「決まってるじゃないの。みくるちゃん、今日が何日か知らないの? っていうか、知らないで買い出しに行ってたの?」
「二月三日です。でも、それが何か……?」
「節分よ、節分」
ハルヒはコンビニ袋からさらなる袋と、パック詰(めされた食料を取り出して、
「嘆(かわしいわね、みくるちゃん。子供の頃(はちゃんとやってたでしょ? 今日は節分、そいで節分と言えば豆まきと恵(方(巻(じゃないの!」
恵方巻は確か地域限定の行事だが、とにかく細かい季節的イベントにこだわりのある団長なのである。今やSOS団は『世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団』ではなく、『シーズン毎(にオンタイムな行事をしめやかに実行する組織』として機能していると言ってもあながち間(違(いではない。
「何それ、ベルヌーイ曲線?」
ハルヒは目ざとくホワイトボード上の古泉画を見つけ、顔見知りの童子に声をかける不(審(者(を見つめる目で俺の辿(った時間の流れを見つめた。
「じゃないわね。どういう計算式がその図から成り立つの?」
「ただのイタズラ書きですよ」
古泉がさり気なく立ち上がってボードの軌(跡(を黒板消しでなぞった。
「暇(つぶしの落書きです。考(慮(にも値(しません」
よく言うぜ。
「あっそう」
簡単に納(得(したハルヒは、そんなんどうでもいいとばかりに俺に袋を放(ってよこした。乾(いた音を立ててそれは俺の手に収まる。炒(り豆がたんまり入ったパッケージ。
今日は節分であり、であるからには豆を撒(かねばならない──とハルヒが思い出したのは今日の昼休み中だった。その時、ハルヒは自責の念とともにこう叫(んだ。
「なんか忘れてる気がしたのよ。そうだわ、節分よ!」
おおかた谷(口(の弁当箱に入っていた太巻きを見て気づいたのだろう。とうの谷口は蓋(を開けるなり「おいおいこれだけかよ。他(にオカズはねーのか」と毒づいていて不満を漏(らし、「作ってくれた食い物にイチャモンをつけるな」と反射的なツッコミを入れた俺ですら内心、製作者にまったく共感できないのは息子(と同様だった。せめてハルヒの目を引かないように切ってから詰めておいて欲しかった。
「外来文化ばっかりもてはやしていてはダメよ。土着の風習を尊重してこそすべてのイベントを楽しむ権利が発生するの。だって廃(れちゃったらもったいないじゃない。それだけ楽しみが減るんだから。古典に親しむことを忘れた人間はどんどん変な方向に走っていってしまうんだわ!」
お前が言うな。ひょっとして、こいつは自分ではまともな道を歩いているつもりなのか? どう考えても全力で獣(道(をそれも逆走しているとしか思えないが。
「何言ってんの? あたしはいつだって王道を目指しているのよ。そのためにはしないといけないことはすべてすんの。キョン、あんた今日が節分だって忘れてたでしょ? 許し難(いわ」
自分だって忘れていたくせに、いや、だからこそと言うべきか、HRが終(了(するやハルヒはさっそく準備に挑(みかかった。と言っても必要なのは豆と太巻きだけである。買い出しには自らをもって任じ、幸いにも俺は担任岡(部(に呼び出されて進路指導という名目の説教を受けており、古泉は運よく掃(除(当番、そのためハルヒは荷物持ちとして長門と朝比奈さんをただちに招集し、三人で放課後の学校を意(気(揚(々(と出て行って、そして今帰ってきたという筋書きだ。
太巻きは縁(起(のいい方角を向いて喰(えばしまいだが、豆は別の目的を課せられている。
「で、どこに撒こうというんだ?」
俺は袋を開けて豆を口に放り込みながら尋(ねた。お茶(請(けにはもってこいだな。
「部室に撒いたら掃除が大変だし、第一もったいないぜ」
「どこでもいいわ」
ハルヒは爛(々(と輝(く目を動かして、
「そうね、校舎の渡(り廊(下(のてっぺんから中庭に向かって撒くのがいいんじゃない? 地面に落ちたぶんも鳥のエサになるから片づけ無用だもんね」
それに、とハルヒは付け足した。
「ちょうど福(娘(にうってつけの人材は揃(ってるんだし、景気よくやんないと」
SOS団団長のIa型超(新星爆(発(のような瞳(が向けられた先には、豆(袋(の説明書きを熱心に読んでいる朝比奈さんと、早くも長テーブルに着いて物(騒(なタイトルのミステリ本を読みふける長門がいた。
なるほどね。
もし学内福娘コンテストを開(催(すればぶっちぎりの優勝と審(査(員(特別賞が与(えられるだろう二人であったが、それを差し置いてもこの手の追(儺(儀(式(にはぴったりなコンビと言える。朝比奈さんは演出的に、長門は実務的な意味で。
問答無用でハルヒに引きずられる朝比奈さんの後を追うようにして校舎最上階の渡り廊下までやってきた俺たちは、そこで下された命令に従って気前よく豆をばらまくことになったわけだが、これも命令により撒き手は女子団員三人組に限定されていた。俺と古泉は彼女たちが手にしている升(に黙(々(と豆を補給する係で、ハルヒの指示にしては珍(しくそのほうが誰(にとっても幸せな効果を発揮したのは間(違(いない。
当初は何事が始まったのかと殺(虫(剤(の噴(霧(を恐(れるゴキブリのように隠(れていた生徒たちだったが、一分としないうちに男子生徒どもが中庭にわらわらと群れ始め、朝比奈さんや長門の投げる豆を、おひねりを奪(い合うように右往左往している。ハルヒの豪(腕(が生み出す散(弾(銃(のような豆攻(撃(は主に回(避(する方向で彼らの行動も一(致(しているようだ。
「しまったわ」
ハルヒは心から残念そうに言いつつ、
「これ、みくるちゃんに巫女(さんの格好させてたらお金を取れるイベントになったかも。参加料一人百円でもけっこう稼(げそうよね?」
そんな衣(装(を着せられて校舎を練り歩くことになったら朝比奈さんがますます人気者になってしまうだろうが。俺の心配の種をこれ以上増やさないためにもコスプレは部室内限定でいい。
「ふ、福はうちーっ、ええと、それっ。福はうちー」
俺は懸(命(に豆を投(擲(する朝比奈さんと黙(って掌(から豆をこぼしている長門を眺(め、当然の帰結として二人の巫女装束を脳内投(影(してから重々しくハルヒに答えた。
「一人五百円にしよう」
ちなみにかけ声は「福は内」の一言のみに限られている。そのわけは、
「あたしはね、『泣いた赤(鬼(』を読んで以来、鬼を見かけたら優(しくしてあげようって心に決めてるのよ。もう、すっごい泣いたわ『泣いた赤鬼』。あたしなら立て札見た瞬(間(に大喜びで赤鬼さんちに行ってお茶とお菓(子(を遠(慮(なくもらったのに……」
すっかり鬼サイドに感情移入したハルヒは俺に厳然とした眼光を向け、
「いい? あんたも青鬼に会ったら親切にしてあげるのよ。鬼を外に追いやろうなんて絶対不許可よ。SOS団は人以外の人にも広く門戸を開放しているんだからね」
中(途(半(端(な方(避(けを主張し、こうして福とやらをどんどん内側に取り込み続けるのはいいが外に放出するものが何もないとすると、いずれ目一(杯(に膨(らんだ見えざる袋的なモノがパチンと音を立てて破(裂(するような予感があるものの、青鬼に関しては俺もハルヒに同感だ。
それは俺がまだ感受性豊かなガキの頃(に涙(した思い出のせいかもしれないし、長門が節分用豆パックのオマケについてきたチャチな鬼の面を頭の横につけているからかもしれない。部室でハルヒが語った昔話を読書しながら聞いていた長門は、なぜか紙製の鬼(面(に興味を持ったようにひっそりと手にして走査レーザーみたいな視線を注いでから自分の頭につけた。
ハルヒ言うところの人以外の人ってフレーズが心に触(れたのかもな──これは俺の妄(想(だが。
朝比奈さん長門コンビによる校内豆まきサービスが終(了(した後、俺たちは部室に戻(って太巻きを一気食いすることになった。今年の恵方をネットで調べ、ハルヒは全員に食料を配布すると、
「食べ終わるまで喋(っちゃダメだからね。ほら、みんな立って。あっちを向いて食べましょう」
五人が同じ方角を向いて一列に並び、黙って冷えた巻きずしをムシャムシャ頰(張(るという異様な風景が数分間続けられ、ハルヒと長門はほとんど数口で完食したが、小動物のように両手で恵方巻を持った朝比奈さんは目を白黒させながら過食をしいられ、俺は晩飯に同じものが出てこないことをひたすら祈(っていた。
残った豆は深皿に空けられて、朝比奈さんの淹(れてくれたお茶とともに主に俺とハルヒの腹の中に消えることになり、節分ってこんなに腹のふくれる行事だったのかと認(識(を新たにしたしだいである。
これでハルヒの気が晴れたかと思いきや、どうしたことか、翌日には再びおとなしくなってしまった。最初にも言ったが深刻な憂(鬱(ではなく節分を思い出しただけで快晴になるようなシロモノなのはすでに証明されたとおりだが、それだけにこの微(妙(な静けさの意味がつかめず何やら不(穏(だ。どうやらハルヒのこのおとなしさは俺にだけ解(る種類のようで、ザコキャラ谷口や国(木(田(はともかくハルヒの精神的専門家と豪(語(する古泉ですら気づいていないらしい。
どうも変だ。
そう思って首をひねくっていたのだが、俺もおちおちハルヒの動向ばかりを気にするわけにはいかなくなった。
もっと直接的な変なことが起きたからである。こっちはハルヒのような雰(囲(気(的なものに留(まらず、目に見える形をもって発生した。
時間移動に関(わるようなことはもう当分ないだろうと古泉には言ったばかりだし、俺もそのつもりでいたのはすでに述べたとおりだ。とりあえず過去に遡(ってそこで何かするようなこととはしばらく無(縁(でいたかったわけである。何度もやるもんじゃない。ましてや理由が解らないまま行くもんではないことは確かだ。
哀(れな俺のそんな願いを聞き届けてくれたのか、まあ、その通りにはなったとも。
今回、時間を跳(んでしまったのは俺ではない。俺はこの現在時間を一歩も動いたりはしなかった。だが、それでも時間を巡(る騒(ぎに巻き込まれることになったのである。
その人は文芸部部室の掃(除(用具入れの中に現れた。