2.動きだした物語
『聖なる乙女は夜空に星を降らせる』、通称『乙星』。
星の加護を受けた少女が男爵令嬢となり、その美しさと純真さから最後には王太子妃となる物語。
筋書き自体はよくあるものである。時代に合わせて変化はするものの、似たような小説はこれまでいくらでもあった。
この小説が斬新な点は、ヒロインが最終的に結ばれる相手が王太子という未婚男性中で最も身分の高い相手であること、そして物語中の王太子は実際の王太子、つまりオレによく似た姿に描写され、しかも王太子の婚約者としてエリザベスにそっくりな姿の少女が出てくるところである。
たったこれだけの仕掛けで、貴族たちもそうでない者も、他の小説にはないリアリティを備えていると感じたらしい。それがバカ売れの原因だった。
……頭が痛い。
ちなみに作者自身はこれが不敬罪や侮辱罪にあたることを理解していたようだ。ハロルドにひそかに調べさせた結果、本に記された著者名は偽名で、版元に問い合わせても知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
さて、これだけなら無視すればすむ。むしろ、たわけた小説を口実にオレとエリザベスの仲が疎遠ではないことを見せびらかしてやることもできた。
そうならなかったのは――、
「ユリシー・メリーフィールド嬢!」
外から聞こえてきた声がいままさに思い浮かべていた相手の名を呼んで、オレは顔をあげた。
窓から階下の庭を覗き込むと、そこにはいまおそらく学園内でもっとも有名な人物――ユリシー嬢が、数人の女子生徒に囲まれて立っていた。
ユリシー嬢のドレスが控えめなものなのに対し、他の令嬢たちは刺繍やレースのついた豪華なものだ。伯爵以上の階級の娘たちだろう。
「あなた、調子にのりすぎていませんこと?」
「心ない噂のせいでエリザベス様がどれほど御心を痛められているか……」
「なのにあなたときたら、エリザベス様の厚意に胡坐をかいて、ヴィンセント殿下を紹介しろなどとおっしゃったとか?」
自分の名前が出てきてドキッとする。
ハロルドと顔を見合わせると窓辺からそっと姿を隠した。彼女たちはオレとハロルドがこの教室にいるのに気づいてないのだ。
君子危うきに近寄らず。こういうのは何も聞かなかったことにするのが一番いい。
しかし、教室を出ようとしたオレを、ユリシー嬢の一言が止めた。
「そんな、私はただ、小説の偶然を一緒に楽しめたらと……」
ほほう、この女、エリザベスやオレがあの小説を楽しめると思っているのか。
ぴくりと眉がつりあがってしまったのをハロルドに視線で咎められた。くれぐれも声を出すなという目つきだ。ということはオレが、我を忘れて叫びだしそうな顔をしているということでもある。ハロルドは無駄なことを口に出さないのと同じく、意味のない行動はしない。
まぁそりゃそうだろう。
だってオレが悪夢を見てうなされるほど心労を重ねている原因が、ユリシー嬢なのだから。
ユリシー嬢は、裕福な商家の母親と、メリーフィールド男爵家当主の父親を持ち、幼い頃は平民として育った。その素直な性格は彼女の愛嬌のある表情を作りだす。そして、夜空を思わせる深い藍色の髪と、瞳。
そういった彼女の特徴は、『乙星』の主人公とまったく同じだった。
オレやエリザベスが意図して似せられたのとは違って、ユリシー嬢のこの一致は完全に偶然であっただろう。妾を持つ貴族などはありふれていて、髪や目の色もとんでもなく稀少ということもない。
しかし大多数の人間はそうは思わなかった。
自分たちの世代に大ヒット小説の主要登場人物が三人も現れたのだ(二人は作者が狙ったんだから当たり前だ)、これは何か心躍るロマンスが展開されるに違いないというのが、他人の噂が大好きな貴族たちの予想だった。
……結果、何が起こったか。
案の定、エリザベスは接触を避けるようになった。オレともユリシー嬢とも関わらず、穏やかに学園生活を終えようというのが彼女の方針らしい。
彼女と同じ校舎で距離を縮める機会を見計らっていたオレの心は、儚く砕け散った。
ランチタイムに、広間でエリザベスやユリシー嬢と行き合ったとき、エリザベスは軽く会釈をしてそそくさと友人の令嬢たちにまぎれてしまう。もちろん男一人でそんなところに割って入るわけにいかないからオレは食事を取りにいく。
そしてユリシー嬢の前を通りすぎたときなど、周囲がそわそわと期待に満ちた目で見てくるたびにぶん殴りたくなる。
アホか!!! オレから話しかけるわけが、ないだろう!!!
一応ユリシー嬢も、男爵令嬢の身でいきなり王太子に話しかけることが無礼だということくらいはわきまえているらしく、視線を無視しつづければどこかへ消える。
しかしそれだけでもオレを苛立たせるには十分だ。
だって本当ならオレとエリザベスは仲睦まじく午前の授業の様子など語り合いながら食事をするはずだったのだから。これは事実であって、妄想じゃないぞ、ハロルド。
そんな経緯で、令嬢たちの台詞から推察するに、ユリシー嬢はオレを紹介するようエリザベスに要求したらしい。
……ぶん殴ってやろうか。
「あなたいま言ったこと聞いてたの!? エリザベス様は御心を痛めてらっしゃるのよ!」
「王太子殿下はエリザベス様の婚約者なの! どうしてあなたみたいな人に紹介したいと思うのよ!!」
うむ、正論。
しかしお前たちもお前たちで、そっとしておきたいというエリザベスの心を汲みとってやってくれ。黙って無視していればいいものを、そうやって動くことで結果的にエリザベスが不利になるだろ。おそらく彼女たちもまた公爵令嬢とのつながりがほしい微妙な立場なのだろうな。
「そ、そんな……私、そんなつもりでは」
ユリシー嬢の声が震えはじめた。ぐすっと鼻をすする音が聞こえる。まさか泣かれるとは思っていなかったらしい令嬢たちが息を飲むのが聞こえた。
あーぁ、とオレは頭を抱えた。
貴族は、基本的には人前で感情を現さないのがよいとされている。もちろん笑顔は作るが、心の底からの喜びを無防備にさらけ出すことはない。怒りや悲しみも同様。そういった感情の変化をイヤミったらしくもったいぶった言葉で伝えることはあっても、表情には出さない。先ほどの令嬢たちのように。
特に、涙を流す、という行為は相手に負けたことを表す。
貴族が人前で泣くことは絶対にない――平民出身で、日頃からそのような教育を受けていない者でなければ。
「申し訳ありません、申し訳……私、そんな……」
涙ながらに謝罪を繰り返すユリシー嬢に、完全に悪者になったのを悟った令嬢たちは気まずい思いをしているようだった。
しかしいまさら優しい言葉をかけて励ますわけにもいくまい。彼女たちに残された道は静かに立ち去るのみ。
やれやれこれで終わりか、とため息をつきかけたオレの耳に、慌ただしい足音が聞こえた。
「お前ら、何をしている!!」
「あぁ――……」
飛び込んできた威勢のいい声にうめき声をあげると、ハロルドの鋭い視線が突き刺さった。
別にいいだろ、と手を振る。どうせ誰の耳にも聞こえていない。
突然登場した男は、貴族にあるまじき大声で状況を詰問していて、オレの声はかき消された。
この声はエドワード・ノーデンだ。これで話がさらにこじれることは確定した。
どうやらオレやエリザベスがじっとしていても、事態は動きだしてしまったようだった。