1.ヴィンセントの呟き
「いや、どう考えても、アホすぎないか?」
「ヴィンセント殿下、その本音は人前では絶対におっしゃいませんように」
「言うわけないだろ」
「……それならよいのですが、あまりにも本気の声だったので、他の場面でもついぽろっと口からこぼれるのではないかと不安になりまして」
差し出がましい真似をいたしました、と頭を下げる、本当に差し出がましい皮肉屋の乳兄弟を眺め、ため息をついた。こいつは無駄口を叩かない。
そんなことはないと言いたいところだが、ありえる。
なぜならオレはこの件についてもう四六時中といっていいほど頭を悩ませているのだ。授業に集中しているときも友人と語り合っている最中にも、毎晩の夢にすら見る。
はああああああ、とため息をついてオレは髪を掻き乱した。
「本当ならオレはいまの時間をエリザベスとの親睦に使っているはずだった」
「妄想はほどほどになさいまし」
「妄想じゃない!」
ギリッと奥歯を噛みしめながら背後の優男を睨みつける。ゆるく後ろへ流した銀髪に、伏せた瞼からは濃灰の瞳がのぞいている。ちくしょう、オレの付き人のくせに無駄に整った顔しやがって。
放課後という王宮から離れたフリータイムをこんな空き教室でハロルドと潰す羽目になっている現状は、到底納得のいくものではない。
「大はしゃぎして芝居までやらせてる貴族連中は、作者が不敬罪で逮捕されるとか、自分たちが一緒に牢に入るとか、考えないのか」
「考えてないから金を出しているんでしょう」
「少し考えればわかるだろ。お前だってわかるだろ? ハロルド」
ハロルドは肩をすくめて首を振った。だから、考えてないんですよ、と無言の答えが聞こえる。
ささくれた心を癒やすためズボンのポケットから懐中時計を取りだした。
銀時計の蓋の裏にはエリザベスの肖像画が嵌め込まれている。先日の入学パーティの際に最新版に更新済みだ。これまでの歴代の肖像画も特注で作らせた小箱に並べ、いつでも眺められるように大切に保管している。
はぁ……あのときのエリザベスは、金の巻き毛に大人びたエメラルドグリーンのリボンをかけて、それはもう可愛らしかった。エリザベス……。
心の中で語りかけた言葉は声に出ていないはずなのに、ハロルドがやや引いた顔で見ていた。
「その時計の肖像画、エリザベス様が知ったらドン引きでしょうね」
「いや、確実に何も思わない」
「殿下……」
きっぱりと断言すると可哀想なものを見る目で見られた。これはこれで腹が立つな。
しかし、自分でも悲しいが、エリザベスは本当に何も思わないだろう。婚約者が自分の似姿を懐中時計に忍ばせているという事実、ただそれだけだ。婚約者なのだから当然ですわ、とか言って納得して終わり。オレがリザのことを好きだとか、愛しているとか、いつでも一緒にいたいと思っているなんて考えてもみないに違いない。
エリザベスは、オレとの関係は政略結婚による許嫁、ただそれだけだと信じている。
彼女はそれほどに自分の立場に忠実だった。
エリザベスとの出会いはオレたちが八歳の頃にまでさかのぼる。
親によって決められた結婚相手。名前だけを知らされていた相手に、はじめて会った八歳の誕生パーティ。
正直オレは、会いたくなかった。王太子という立場にピンと来ていなかったオレは勉強の時間を抜け出して母上に叱られることがたびたびで、自分の生まれを嘆いていた。婚約者だってきっと母上によく似た、目のつりあがった口やかましい女が来るのだろうと勝手に想像していた。
しかし、それは間違いだった。
現れたエリザベスは国一番の職人が細工を施したのかと思うほど繊細で可愛らしく、口数は少ないがそれでいて意志の強さを感じさせる紫の瞳を持っていた。
「お初にお目にかかります、ヴィンセント殿下。ラ・モンリーヴル公爵が娘、エリザベスにございます。未熟者ではありますが、よき国を保てるよう誠心誠意お仕え致します」
そう言って曇りのない視線でまっすぐにオレを見つめ、スカートの裾を持ちあげると左足を一歩後ろへ、飾り立てた髪が崩れぬよう、顎を引きながら腰を落とす――まだ八歳のエリザベスは、王とその息子の目前で完璧な礼をして見せた。
「…………」
オレは何も言えなかった。言うべき台詞を知らなかったのだ。
真っ赤になって硬直したオレに代わり父上が挨拶を述べてくれた。エリザベスは華奢な身体でドレスの重みを支え、礼の姿勢を維持しつづけた。その間、髪に飾られたティアラや生花は最も美しい角度を保ったままぴくりとも揺れない。
完膚なきまでに叩きのめされた。
その夜、オレは自室で一人泣いた。
あんな可憐な少女に、完璧な婚約者に、自分のような男が好かれるわけがないと思い、それが悲しくて涙が止まらなかった。
そして気づいた。これは一目惚れだ、と。
その日からオレは心を入れ替え、彼女に見合う男になるため必死に勉強した。
両親はそれはもう喜んだ。エリザベスに出会ってからの変化だということはわかりきっているから、オレの恋心はバレバレだった。
開き直ったオレは父上に国一番の画家が描くエリザベスの肖像画をねだり、その対価としてこれまで遅れていた王教育を一気に巻き返した。
身体に染み込むまでマナーの練習。学問のみならず行政・経済などを含めた帝王学。
それもこれもすべてはエリザベスのため。
婚約者とはいえ王族と高位貴族は互いに忙しく、オレたちは数か月に一度会えればいいほうだった。
会うたびにエリザベスは美しく気高く成長していく。恋心は募る。
オレは王立アカデミアの入学パーティを待ち焦がれて暮らした。十五歳になれば、エリザベスと同じ場所で学園生活を送れるのだ。
自由になる時間はすべてエリザベスにつぎ込みたいから、それまで以上に勉学に取り組んだ。成績や生活態度に瑕疵があればエリザベスとすごす時間が減る。すべてのことを素早く、完璧に、面倒事など起こさぬように。
怒涛の勢いで三年間の予習を終わらせ、必要なマナーを己に叩き込み、さあこれで麗しの学園生活――と思った矢先。
あのわけのわからない恋愛小説が発売されたのだった。