広瀬いくとの発掘!B面ドラゴンズ史

64年前の連続無失点記録ピッチャー・大矢根博臣の足跡

2020年10月26日

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大矢根博臣選手 1960年 ©中日新聞社 


 10月22日、ナゴヤドームでおこなわれた対DeNA(21回戦)にて、大野雄大投手が球団記録を塗り替える45イニング連続無失点の大記録を樹立した。

 この記録更新によりクローズアップされたのが、これまで64年間の長きにわたって記録を保持し続けた“大矢根博臣”というOBの名前だ。杉下茂でも、権藤博でも、川上憲伸でもなく、大矢根。よほどのオールドファンでなければピンと来ないのではないだろうか。おそらく経歴諸々をネット検索した方もおられると思うが、何しろ大昔の選手なので詳しい話はあまり出てこない。しかし40回1/3連続無失点なんて偉業を成し遂げたくらいだから、生半可な投手でないのは明らかだ。
 かつてドラゴンズのOB会副会長も務めたというこの投手。せっかくの機会なので、この場を借りてあらためてその足跡を振り返ってみたい。

熱心な勧誘に折れ、プロ入りを決意

中日に入団してきたド根性男 大矢根博臣 ©中日新聞社


 生まれは四国の香川県三豊郡仁尾町。刃物の産地として有名なこの町で、大矢根家も明治の時代から刃物製造業を営んでいた。その中の三男坊として生まれた博臣が野球を始めたのは高校に入ってからのことだった。香川といえば古くから野球の盛んな土地柄ではあるが、ちょうど小学生の頃に戦争が激化したため、野球どころではなかったという。

 香川県立観音寺一高では常に県予選でシードされる程度の評価は得ていたものの、最後まで甲子園には届かなかった。2年夏の県予選で準決勝まで進んだのが最高。なまじ運動神経が良く足も速かったことから、担ぎ出されるようにして参加したクラス対抗のリレー大会で腰に全治三ヶ月の重症を負い、まともに練習せぬまま夏を迎えたという。ちなみにこのときの志度商業戦に勝っていれば、決勝では中日でチームメイトとなる空谷泰擁する松山商業と対戦することになっていた。後に大矢根は、「今でもあの時のことが悔しくて悔しくてたまりません」と述懐している。
 それでも県内では屈指の好投手として知られた大矢根の元には、プロからの勧誘が盛んにかけられた。だが本人の希望はあくまで大学進学であり、慶大と早大が近隣でキャンプを張った際には志願して参加したほどだった。洋松ロビンスからの誘いこそ頑として断ったが、その後、中日の二軍監督を務めていた宮坂達雄の熱意にほだされた父親からプロ入団を促され、封建的な家庭で育った大矢根はついつい「中日に入ります」と返事をしてしまったそうだ。

目立たない存在からエースへと成長

中日の投手陣(左より)大矢根博臣、伊奈勉、杉下茂、石川克彦、中山俊文、空谷泰 昭和30年 ©中日新聞社


 そんな経緯で大矢根がプロの門を叩いたのは1954年のことだった。しかし甲子園の出場経験がない大矢根の注目度は低く、世間の関心はもっぱら名門・松山商業のエースとして夏の甲子園優勝を成し遂げた同期の空谷泰に向けられた。また翌年にはやはり夏の甲子園優勝投手の中京商業・中山俊丈が入団した。

 こうしたスター候補生に囲まれて、大矢根は目立たないながらも二軍で爪を研ぎ、着実にプロとしてステップアップを果たしていく。2年目に6勝を挙げると、3年目には早くも20勝をマーク。件の完投記録を樹立したのもこのシーズンのことだ。

 そして4年目の1957年、10月12日の対阪神(甲子園)で球団史上2人目のノーヒットノーランを達成した。当時の雑誌に目を通すと、大矢根の写真と共に「中日のエース」との文言が誌面を躍っている。力の衰えてきた杉下に代わる新エースとして、大矢根は世間にも認められるほどの存在へと成長を遂げたのである。

大矢根博臣の無安打無得点達成を報じる1957年10月13日付の中日スポーツ ©中日新聞社


 しかし、元々はストレートに時折りカーブを織り交ぜる程度の平凡な投手だったのが、どうして3年目に突如として花開いたのか。その秘訣が、決め球のシュート習得だった。
 ある時期、自信を失くしかけていた大矢根に対して「ヤネ、自分の決め球を作るんだ」と進言したのは他でもない、エース杉下だった。大矢根のきっぷの良さに惚れ込んでいた杉下は密かにスクリューを伝授。だがどうしてもうまくいかず、代わりに編み出したのが“沈むシュート”、今で言うところのツーシームを猛練習の末にモノにしたのだった。

腰痛で成績下降

 右打者のヒザ元に、食い込むように沈んでいくシュートは対戦相手を翻弄した。当時、無敵を誇った巨人・水原茂監督をして「あのシュートにぶつかると、うちの連中はみんなイヤーな顔をする。困ったもんだわい」と言わしめたことが、その威力の凄まじさを物語る。
 1958年にはキャリアハイの24勝(13敗)をマーク。極端に打線が弱く、また投手の駒不足に喘いでいた過渡期のチームにあって、その活躍ぶりはまさしく孤軍奮闘。押しも押されもせぬエースとして君臨した。
 ただ、この頃から体には異変が表れていた。1959年の春キャンプ中盤に腰を痛めると、シーズンに入っても一向に治る気配はない。トレーニング過多が祟ったのか、もしくは先述の高校時代の故障が再発したのか。何しろ原因が分からないうえに、痛みは突然ピリッと来るというから完全に感覚が狂ってしまった。結局この年は12登板5勝どまり。翌年こそ15勝と持ち直したが、もし腰痛がなければ更なる飛躍が期待されただけに勿体なかった。

名古屋から一番遠い地へ

大矢根博臣 西鉄へ 1961年 ©中日新聞社


 1960年オフには交通事故を起こし、自身も大怪我を負った。不幸中の幸いにして野球の動作に関わる箇所は問題がなかったが、やはり精神的なショックの方が大きかった。「名古屋にはおられない」とトレードを志願し、名古屋から一番遠い福岡の西鉄ライオンズへと移籍したのだ。
 ちょうど同じ時期に中日は濃人渉監督が就任し、岡嶋博治、伊奈努、さらに井上登、森徹といった生え抜きのスターを次々と放出。ファンや政財界から猛烈なバッシングを浴びるという“事件”が起こり、しばしば大矢根も同じ文脈で語られることがあるが、大矢根の移籍はこれとは全くの別件である。
 細かいことを気にしない西鉄の豪放磊落なチームカラーは大矢根の心の傷を癒すには良い環境だったようだが、それでも前と同じようにというわけにはいかなかった。2年間でわずか2勝しか挙げられず、1962年限りで現役引退。この時まだ27歳だった。

 引退後は東海ラジオ放送の野球解説者を務めた後、名古屋市内でクラブを経営。そしてこのほど、大野の記録更新に伴い『中日スポーツ』の名物コラム「龍の背に乗って」にてコメントが掲載された。名古屋市内でプロ野球観戦を楽しみにしながら、穏やかに暮らしているという。

 64年の時を経て掘り起こされた、かつてのエースの大記録。ちなみにシーズン24勝以上をあげた中日の投手は、服部受弘、杉下茂、権藤博、小川健太郎、そして大矢根の5人しかいない。今回の記録のみならず、もっと語られるべき投手であろう。

中日ドラゴンズ・OBの 大矢根博臣さん=名古屋市名東区 2016年 ©中日新聞社


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