
川端龍子の「源 義経(ジンギス・カン)」を見る
昭和36年3月4日(1961年。
59年前の3月4日)、
川端龍子(75歳)が、戦前(昭和13年に)描いた 「源 義経(ジンギス・カン)」 について、次のように書いています。
・・・この一作に思う場合、こうしたものをよくぞ描きおいたものをとの気分もあるのだった。 武者絵に何の経験もない私が、何の臆面もなくこうしたものを描き得たということ・・・描かしめたということは、やはり時代の趨勢がそうなさしめたことではある。・・・ (川端龍子「制作日記」より ※『画人生涯筆一管』に収録)
龍子の「源 義経(ジンギス・カン)」の義経は、鎧兜に身をかためていますが、今や白馬を降り、4頭の駱駝に囲まれています。キッと前を睨み、大陸への野心を燃やしているかのようです。これは、“義経がジンギス・カンになろうとする瞬間”を描いたもののようです。横幅7mを越える大きな絵。当地の川端龍子記念館(東京都大田区中央四丁目2-1 map→ HP→)が所蔵しています。
“義経がジンギス・カンになろうとする瞬間”というと首を傾げる方もいらっしゃるかも知れませんが、義経が大陸に渡ってジンギス・カンになったという「義経=ジンギス・カン」伝説は、室町時代頃からあり、信じる人が結構いたようなのです。林 羅山、新井白石、水戸光圀、ハインリッヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト)、末松謙澄、小谷部全一郎らが信じ言及したようです。
小シーボルトが『蝦夷見聞記』で次のように書いています。
・・・アイヌにほとんど神のように崇められ、「オキクルミカムイ」と名付けられた人物は、義経である・・・(中略)・・・泰衡軍司令官は、既に一一八八年(文治四)に、弟義経を打ち滅ぼすべし、という頼朝将軍の命令を受けたことがある。しかし、これに成功しなかったため、泰衡は頼朝の寵愛を失った。ところが次の年に、 泰衡は同じ命令をもう一度受けた。しかし、これにも成功しなかったことから、日本の道義に従って泰衡は自殺すべき立場にあった。そこで泰衡は、義経が命を失ったという噂を立てた。このため、義経の死が事実であると日本の史書に記述された、という推測が行われている。泰衡が将軍の宮廷に持ってきた首が、本当に義経のものであるかどうかも、やがて疑われるところとなった。
そのうえ、義経とその忠実な家来である「弁慶」が、実際に蝦夷に滞在したことを、暗示させる証拠が一致している。また単純なアイヌ民族の伝承にも、自然なものとして残っていることからも、ただの誤解とは思われない。・・・(小シーボルト『蝦夷見聞記』より)
義経は、平治元年(1159年)、源 義朝(の九男として生まれますが(源 頼朝は異母兄)、義朝が敗死したため京都の鞍馬寺に預けられ、その後、岩手県の平泉の藤原秀衡(
に庇護されました。治承4年(1180年)、兄の頼朝が平家打倒の兵を挙げるとそれに加わり(21歳)、当地(東京都大田区)産ともされる名馬・磨墨と池月との先陣争いで知られる宇治川の戦いでも戦功がありました。そして、平家滅亡(寿永4年。1185年)。義経はその最大の功労者でした。ところが、兄の頼朝は義経が力を持つのを恐れ、義経を朝敵に仕立て、義経捕縛の命令を発します。よって、義経は再び平泉の藤原家に頼ることとなりますが、秀衡はすでに死去し(1187年)、泰衡の代になっており、頼朝からの圧力に屈した泰衡が義経を襲撃、自害に追い込んだとするのが一般に語られるところの歴史です(1189年。義経30歳)。
ところが、興味深いことに、義経が姿を消した年(1189年)あたりから、大陸でジンギス・カンの存在感が増すようなのです。
義経が大陸へ逃れる経路に当たる北海道には、義経石、弁慶岬、義経山、義経神社といった「義経=ジンギス・カン」伝説にもとづく場所があるようです。明治15年、北海道に鉄道が敷かれ最初に走った機関車が 「弁慶」「静(静御前:義経の妾)」。北海道では「義経=ジンギス・カン」伝説が自明のこととして受け入れられていたのでしょうか。 大正13年に出版された小谷部全一郎の 『成吉思汗ハ源義經也』 (Amazon→)は、当時ベストセラーになったとか。
義経が衣川では死なずに北海道に落ち延び、さらには大陸にわたってジンギス・カンになったなんてことがあり得るのでしょうか? おそらく正統な日本史では否定しているのでしょうが、その確たる反証はなんでしょう?
ジンギス・カンは、義経より3年遅れて1162年に生まれたとされます(異説あり)。1206年に、モンゴルの全部族を統一してモンゴル帝国の初代皇帝になりました(43歳?)。鎌倉幕府成立(1192年)の14年後ですね。井上 靖がジンギス・カンの生涯を描いた『蒼き狼』は、「歴史小説かくあるべし」との観点から、大岡昇平によって徹底批判されました。
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龍子の「源 義経(ジンギス・カン)」に話を戻すと、描かれた昭和13年(龍子53歳)は、日中戦争開戦(昭和12年)の翌年です。南京を陥落し、昭和13年には青島を占領、南京に傀儡政権「中華民国維新政府」を作りました。大陸への野心に燃えた日本人には、義経がジンギス・カンになって“大陸を支配するストーリー”がとても受けたことでしょう。戦後になってからの龍子の日記にある「何の臆面もなく」 「時代の趨勢がそうなさしめた」 というくだりはそこらへんの事情をいっているのでしょう(反省はない?)。 『源 義経(ジンギス・カン)』 は、「大陸策」という四連作の一つで(他に「朝陽来」「香炉峰」「花摘雲」)、一種の戦争画といっていいのでしょう。
龍子が『源 義経(ジンギス・カン)』 が描いた1年後の昭和14年には、満映(満州映画協会。この年<昭和14年>から大杉 栄ら3名を殺害したとされる甘粕正彦が理事長)の映画「成吉思汗(」の原作を依頼された尾﨑士郎(41歳)が、取材のため、モンゴルに渡っています。翌昭和15年、新潮社から『成吉思汗』(Amazon→ ※デジタルライブラリー/尾﨑士郎『成吉思汗物語』(昭和18年)→)。を出しています。映画になったのでしょうか? フィルムは残っているでしょうか? 3年後の昭和18年、蒙古聯合自治政府が後援して大映が映画「成吉思汗」を公開していますが、尾﨑の『成吉思汗』とは関係ないようです。
平成元年に公開された映画「226」(Amazon→)で、クーデター失敗後の
磯部浅一(
(演:竹中直人)に「・・・なあに、源 義経が蒙古に渡ってジンギス・カンになったというからな。俺も大陸に飛んで、もう一暴れするよ・・・」と言わせています。当時、このように「義経=ジンギス・カン」伝説が引かれることが多かったのかもしれません。磯部の回想録にある「逃走して支那へ渡ろふと思つて 柴大尉(柴五郎)に逃げさせてくれとたのんだ位ひであつた、どこ迄も生きのびて仇うちをせねば気がすまなかつた」あたりを、映画用の台詞に脚色したのでしょうか。
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戦後も「義経=ジンギス・カン」 伝説は、けっこう熱いです。
昭和33年、高木彬光((38歳)が「宝石」に 『成吉思汗の秘密』を連載。高木は初めて自分から雑誌への連載を申し出たというので、相当自信があったのでしょうね。名探偵・神津恭介(
が、入院中の暇つぶしに、義経がジンギス・カンであることを証明するというもので、説得力があり、面白く、思わず「源 義経=ジンギス・カン」 伝説の支持者になってしまいそう・・・
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伊藤孝博 『義経北行伝説の旅 (んだんだブックス)』 |
高木彬光 『成吉思汗の秘密(新装版) (光文社文庫) 』 |
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元木泰雄 『源 義経 (歴史文化ライブラリー) 』(吉川弘文館) |
白石典之 『チンギス・カン ~“蒼き狼”の実像~ (中公新書)』 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
・ 井上 靖の『氷壁』を読む→
■ 参考文献:
●『画人生涯筆一管』(川端龍子 東出版 昭和47年発行)P.334-335 ●『川端龍子(現代日本の美術13)』(集英社 昭和51年発行)図版23、P.88-90、P.117 ●『小シーボルト蝦夷見聞記(東洋文庫)』(H・Y・シーボルト 訳注:原田信男ほか 平成8年発行)P.64-68 ●『馬追原野(復刻)』(辻村もと子 長沼町教育委員会 平成5年発行)P.190
■ 参考サイト:
・ ウィキペディア/●源 義経(平成31年1月29日更新版)→ ●治承・寿永の乱(平成30年12月29日更新版)→ ●ジンギス・カン(平成31年1月30日更新版)→ ●義経=ジンギスカン説(平成25年3月2日更新版)→ ●義経神社(平成25年2月4日更新版)→ ●日本の鉄道史(平成25年2月20日更新版)→ ●満州国(平成27年3月1日更新版)→ ●中華民国維新政府(平成26年2月12日更新版)→ ●満州映画協会(平成30年9月20日更新版)→●映画「成吉思汗」(平成27年3月10日更新版)→ ●磯部浅一(平成29年7月2日更新版)→
・ 東京文化財研究所/川端竜子(龍子)→
※当ページの最終修正年月日
2019.3.5
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