平成16年11月26日宣告
平成13年合(わ)
主文 主 文
被告人を無期懲役に処する。未決勾留日数中700日をその刑に算入する。
押収してある洋包丁1丁(平成13年押第1808号の1)を没収する。訴訟費用は被告人の負担とする。
理 由
(罪となるべき事実)
被告人は,
第1 業務その他正当な理由による場合でないのに,平成13年4月30日午前9時30分ころから同日午前10時35分ころまでの間,東京都台東区内の路上において,洋包丁1丁(刃体の長さ約15.8センチメートル。平成13年押第1808号の1)を携帯し,
第2 同日午前10時35分ころ,同区内の路上において,A(当時19歳)に対し,殺意をもって,その前胸部,腹部等を所携の前記洋包丁で数回突き刺すなどし,よって,同日午前11時52分ころ,同都文京区内所在のB病院において,同人を下大静脈・門脈左枝・左腎静脈損傷に基づく失血により死亡させて殺害したものである。
(証拠の標目)略
(弁護人の主張に対する判断等)
第1 刺突行為の態様及び殺意の有無について
1 弁護人は,判示第2の殺人の事実について,被告人は,Aに対し,所携の洋包丁で突き刺すなどした記憶がなく,自らの行為が同女を死に至らしめる蓋然性の高い行為であることを認識しておらず,殺意と評価できる認識及び認容が存在しなかったのであり,仮に一定の攻撃意思が存在したとしても,同女の抵抗を抑えるための暴行の故意の限度にとどまるものであるから,殺人罪は成立せず,傷害致死罪が成立するに過ぎない旨主張する。
2 そこで,検討すると,関係各証拠によれば,次のような事実が認められる。すなわち,
(1) 被告人は,東京都墨田区内の首都高速道路下で野宿していたが,平成13年4月30日の朝,レッサーパンダの頭部をかたどった帽子(以下「レッサーパンダの帽子」という。)を被り,黒縁で黄緑色のファッションレンズの眼鏡を掛け,ニッカーボッカーの作業用ズボンを穿き,作業用上衣の上に毛皮のハーフコートを着て,サンダルを履き,洋包丁1丁(以下「本件包丁」という。)をベルトの左前に差して携帯した上,雨が降っていたので,傘を差して出掛けたこと
(2) 被告人は,同日午前9時30分ころ,同都台東区内のC橋の歩道上において,D(当時28歳)に近づき,本件包丁を示したが,Dが,被告人から身を守ろうとして傘で防御し,悲鳴を上げたので,その場から逃走したこと
(3) その後,被告人は,同区内の通称E通りの歩道上をF駅方面からN橋方面に向かって歩いていたところ,白色のビニール傘を差して前方を歩くA(当時19歳)の後ろ姿を見掛けたこと,被告人は,Aを追尾して同女に近づいたところ,同女が被告人の方を振り向いたこと
(4) 被告人は,同日午前10時35分ころ,E通りの歩道上において,Aに対し,その背部を本件包丁で1回突き刺し,E通りを右折する形で同女を路地(以下「本件路地」という。)に連れ込み,同女を仰向けに転倒させてその上に馬乗りになり,その前胸部や腹部等を本件包丁で繰り返し突き刺すなどし,さらに,その頸部を両手で絞めたこと,その際,本件路地に面したマンション2階に居住するG及びHや,E通りで信号待ちのために停車中のタクシーの運転手のIが,Aの悲鳴を聞くなどして被告人らの様子に気付き,「おまえ,何やってんだ。警察を呼ぶぞ」などと大声で叫んだことから,被告人は,Aの頸部を両手で絞めるのをやめ,同女の身体に突き刺さった本件包丁を引き抜いて,その場から逃走したこと
(5) Aは,同都文京区内の病院に意識不明のまま救急車で搬送されて緊急手術を受けたが,同日午前11時52分ころ,同病院において,下大静脈・門脈左枝・左腎静脈損傷に基づく失血により死亡したこと
(6) Aは,①右乳房部に,長さが約4.8センチメートル,深さが上創端より約6.5センチメートル,下創端より約2.7センチメートルで,創底が皮下組織内にとどまる右下方に向かう刺創,②心窩部に,長さが約3センチメートル,深さが約14センチメートルで,肝臓及び下大静脈を貫通し,門脈左枝を切截するやや右方に向かう刺創,③臍部に,長さが約4センチメートル,深さが約12センチメートルで,腹腔内に達し,左腎静脈を完全に切断し,約20ないし30センチメートルの小腸が脱出したやや左方に向かう刺創,④左上腰背部に,長さが約2.6センチメートル,深さが約2.3センチメートルで,創底が脊柱起立筋内にとどまる刺創,⑤左手首屈側に防御創と推測される長さが約7センチメートルの切創の合計5か所の刺切創を負っていたこと,上記④の刺創の創洞は,ほぼ水平に走行(刺入)しており,Aが,立っていた状態で,後方から背部を突き刺されたとしても矛盾しないものであること,また,Aの頸部には,変色点が多数集簇しており,同女が身に着けていたネックレスによって強く圧迫されたと推測される痕跡が残っていたこと
(7) 本件包丁は,被告人が,同年4月28日ころ,同都台東区内のJ公園前の露店で購入したものであり,全長が約27.8センチメートル,刃体の長さが約15.8センチメートルであったこと
(8) 血痕の付着した本件包丁と白色のビニール傘が本件路地から約215メートル離れたK川沿いの植え込み内において,血痕の付着した毛皮のハーフコートが本件路地から約385メートル離れたK川沿いの植え込み内において,レッサーパンダの帽子とファッションレンズの眼鏡が本件路地から約415メートル離れたK川沿いの植え込み内において,血痕の付着した作業用上衣,ニッカーボッカーの作業用ズボン及びビニール袋に入れられたサンダル1足が被告人の就寝場所であるL公園の植え込み内において,それぞれ発見されたこと
(9) 被告人には,平成6年11月2日,M地方裁判所において,通行中の34歳の女性にモデルガンを突き付けて敢行した強盗未遂及び強制わいせつの罪により,懲役3年,5年間保護観察付き執行猶予に処せられた前科があることなどの事実が認められる。
3(1) なお,前記2の(6)の④の左上腰背部刺創の生成時期について,弁護人は,被告人が本件路地に入る前にはAの背部を突き刺していない旨主張している。
そして,タクシー運転手のIは,当公判廷において証人として尋問を受けた際,被告人がAの首の部分に左腕を巻き付けるようにしてくっつき,被告人とAが,アベックのような感じで,N橋方面からF駅方面に向かって六,七メートルくらい歩いてきて,E通りを左折して本件路地に入っていくのを見たが,その際,被告人が本件包丁を持っているのは見ておらず,Aが背中を刺されて叫んで逃げようとするような素振りもなかった旨証言している。
しかしながら,Iの上記証言は,前記2の(3)認定のように,被告人がAを追尾してE通りをF駅方面からN橋方面に向かって歩いていたことと明らかに食い違うものである(ちなみに,この点については,被告人も,捜査段階及び公判段階を通じて,E通りを左折して本件路地に入ったとは一切供述しておらず,一貫してE通りを右折して本件路地に入った旨供述しているところである。)。また,Iの上記証言は,Aが,何ら抵抗するような素振りもなく,前記2の(1)認定の異様な格好をした見ず知らずの被告人とアベックのような感じで,六,七メートルくらい一緒に歩いていたということ自体が考え難いものである上,被告人がAの背部を本件包丁で突き刺した後に同女の両肩を掴んで同女を本件路地に連れ込む状況について,Iが,その一部を見てアベックと思い込み,勘違いを起こしている可能性も否定できないところである。実際にも,Iは,当公判廷において,被告人らの胸から上はビニール傘で見えなかった旨証言しており,また,捜査段階において,被告人らが本件路地に入るまでは,殺人事件になるなどとは思ってもいなかったので,二人の様子を注意してよく見ていたわけではなかった旨供述しているのである。これらの事情に照らすと,Iの上記証言は,信用することが困難であるといわざるを得ない。
そして,被告人自身が,捜査段階及び公判段階を通じて,本件路地に入った後にAの背部を本件包丁で突き刺した旨の供述を一切していないことのほか,被告人がAを本件路地に連れ込む状況や,Aが本件路地に連れ込まれて程なく仰向けに転倒させられていることなどに鑑みると,被告人が本件路地に入った後にAの背部を突き刺すような機会があったとは窺われないのである。したがって,被告人が本件路地に入る前にAの背部を突き刺していない限り,同女の背部に刺創が生じる機会はなかったというべきであり,被告人が本件路地に入る前にAの背部を本件包丁で突き刺したことは,十分に認めることができる。
(2) また,被告人は,当公判廷において,Aの頸部を絞めた記憶がない旨供述しているが,G,H及びIが,いずれも被告人がAの頸部を両手で絞める仕種をしていた旨供述していることや,前記2の(6)認定のように,同女の頸部には絞められた痕跡が残っていたことなどに照らすと,被告人がAの頸部を両手で絞めたことは,明らかというべきである。
4 そして,前記2認定のように,①被告人が犯行に使用した凶器は,全長が約27.8センチメートル,刃体の長さが約15.8センチメートルの鋭利な洋包丁であり,その大きさ,形状等に照らし,十分な殺傷能力を有するものであること,②被告人が刺突した部位は,前胸部や腹部等の生命に対する危険性の極めて高い人体の枢要部であること,③被告人は,Aが抵抗したにもかかわらず,深い刺創ができるほどの強い力で,身体の枢要部を数回にわたって突き刺すなどしているのみならず,仰向けに転倒した同女に馬乗りになって刺突した後に,同女の頸部を両手で絞める行動にも出ていることなどの事情を総合すれば,被告人は,確定的な殺意をもって,Aに対する刺突行為等に及んだことが,強く窺われるのである。
5(1) ところで,被告人は,捜査段階において,次のように,Aに対する刺突行為を記憶していることや殺意があったことを認める趣旨の自白供述をしている。
すなわち,
ア 私が本件包丁を買ったのは,自分の身を守るためと,女性をそれで脅して女性にいたずらをするためであった。
イ 私は,4月30日の朝,女性にいたずらをしてみたいという気持ちになり,本件包丁をベルトに差し,私の寝場所から地下鉄のF駅に行き,若い女性を探した。なお,女性にいたずらをすると言っても,強姦しようとは思っておらず,本件包丁で脅して,ちょっと胸を触ったり,お尻を触ったりしてみたいという気持ちであった。
ウ 私は,若い女性が見付からなかったので,寝場所に戻ろうとしたところ,C橋の上で若い女性を見付けたので,いたずらをしようと思い,本件包丁を右手に持って,女性に近づいた。しかし,女性が,傘を私の方に向けて防ぎ,大声を出したことや,自分の好みのタイプでなかったことから,女性にいたずらをするのをやめた。私は,寝場所に向かう途中,バス停で女性に出会ったが,女性が30歳を越えていて若くなかったので,いたずらをしようとは思わなかった。
エ 私は,同日午前10時ころ,再び女性にいたずらをしたくなり,本件包丁をベルトに差し,寝場所を出て,E通りをF駅方面からN橋方面に向かって歩いていると,傘を差して前方を歩いている女性の後ろ姿が見えたので,その後を歩いていった。私は,女性を強姦しようという考えはなかったが,好みのタイプであれば,女性の胸やお尻を触りたいという気持ちはあった。私は,女性に近づくと,女性が振り返った。私は,女性の顔を見たところ,とてもかわいくて,自分の好みのタイプであったので,女性を自分のものにしたいと思った。しかし,女性が物凄く変な顔をして私を睨み付けてきたので,私は,馬鹿にしていると思い,また,女性には彼氏がいると思って,腹が立ち,女性を殺して自分のものにしたいと考えた。
オ 私は,自分の傘を道に捨て,本件包丁を右手に持って,女性の背中の真ん中付近を1回刺した。女性は,「ギャー」と大きな声を出したが,私は,右手に本件包丁を持ったまま,両手で後ろから女性の両肩を掴み,E通りを右に曲がって,女性を本件路地に連れていき,仰向けに倒した。
カ 女性は,「助けて,助けて」と大声で言っていたが,私は,女性の体の上に跨り,右手に持った本件包丁で女性の胸や腹を何回か刺した。その際,女性は,左手や右手で抵抗していた。その後,私は,本件包丁を女性の腹に刺したまま,両手で女性の首を絞めた。私は,女性の首を絞めている時,女性がかわいい顔をしているので,女性を自分のものにしたい,死んだ女性を持っていきたいという気持ちも,少しの間,頭に浮かんだ。また,私は,女性の首を絞めている時,女性に対し,「ごめんね」と言ったが,それは,女性に悪いことをして申し訳ないと考えたからではなく,思わずそういう言葉が出ただけであった。
キ 私は,女性の首を絞めている時,上の方から,「警察を呼ぶぞ」という男の声が聞こえたので,捕まってはいけないと思い,すぐに本件包丁を女性の体から引き抜いて右手に持ち,また,女性の傘も持って,走って逃げた。私は,捕まりたくなかったので,逃げる途中,本件包丁と傘をK川の土手に捨て,少し後に,毛皮のコート,レッサーパンダの帽子,眼鏡等も土手に捨てた。また,私は,公園の手洗い場所で,血の付いた自分の手を洗った。私は,寝場所に戻り,着替えをして,サンダルを運動靴に履き替え,脱いだ服を植え込み内に突っ込み,サンダルもビニール袋に入れて植え込み内に突っ込んだ。
ク 私は,寝場所にいると警察に捕まると思ったので,自分の黒色バッグを持って,Oの方に行った。その後,私は,P駅の近くで何日間か寝泊まりし,手配師に声を掛けられて,埼玉県内で建設作業員として働くことになり,警察に捕まらないために,偽名を使うことにした。
被告人は,捜査段階において,以上のような趣旨の自白供述をしている。
(2) これに対し,被告人は,公判段階においては,その終盤(主に第33回公判期日以降)に至って,次のような否認供述をしている。すなわち,
ア 私が本件包丁を買ったのは,やくざや酔っ払いから絡まれて因縁を付けられた時に,それを見せれば自分の身を守れると思ったからである。
イ 私は,4月30日の朝,別に目的もなかったが,その辺をぶらぶらと歩こうと思い,寝場所を出てF駅の方に歩いていった。その時,私が本件包丁をベルトに挟んだのは,護身用のためであって,女性にいたずらをしようという気持ちがあったからではない。
ウ 私は,C橋で女性に本件包丁を見せたが,それは,ただ脅かしてびっくりさせようと思ったからであって,お尻や胸を触るようなエッチなことをしようとか,友達になろうと思ったからではない。私は,その時,女性が悲鳴を上げたかどうかについては覚えていない。私は,寝場所に向かう途中,バス停でも女性を見掛けたが,脅かそうとか,友達になろうとかは思わなかった。
エ その後,私は,別に目的はなかったが,本件包丁をベルトに挟み,再び寝場所を出て,E通りをF駅方面からN橋方面に向かって歩いていると,傘を差して前方を歩いている女性の後ろ姿を見付け,その後を歩いていった。私は,女性が振り向いた時に,ちらっと見えた顔が優しそうでかわいかったので,女性と友達になりたいと思った。その時,女性が私を睨み付けてきたこともなく,また,私が,馬鹿にされたと感じて腹が立ったとか,女性に彼氏がいると思ったこともなかった。私は,本件路地の先にあるQ公園のベンチに座って女性と話をしたいと思ったが,女性にエッチなことをしようとは思っていなかった。
オ 私は,女性に声を掛けても断られるので,脅して話を聞かせようと思い,女性の横に近づいていって,本件包丁を左手に持って女性に示した。その時,私は,女性の顔は見ていない。私は,女性に対し,本件包丁を持った左手で本件路地の方に右折するように指示したところ,女性は,逆らうことなく,声も出さずに,私と一緒に本件路地に入っていった。私は,本件路地を抜けて,Q公園に行くつもりであった。私は,本件路地に入る前には女性の背中を刺しておらず,いつ女性の背中に傷ができたのかは分からない。
カ 私が,本件路地に入る際に女性の肩を右手で掴んだところ,女性は,私の手を振り払い,その後も,ちょっと暴れたように思う。私は,女性が仰向けに倒れるところは見ているが,女性を押し倒してはいない。私は,女性を刺したことを覚えておらず,上から男の声が聞こえたので,気が付いたら,女性の上に乗っており,本件包丁が女性の体に刺さっていた。私は,気が付いたら,女性の首に手を掛けていたが,女性の首を絞めてはいない。私は,女性に対し,「ごめんね」と言ったかも知れないが,はっきりとは覚えていない。
キ 私は,上から男の声が聞こえた時に,なぜ逃げたのかは分からない。私は,逃げる途中に,本件包丁,毛皮のハーフコート,レッサーパンダの帽子等を捨てたが,なぜ本件包丁や気に入っていたレッサーパンダの帽子等を捨てたのかは分からない。
ク 私は,女性を殺して自分のものにしようとか,女性の死体を寝場所に運んで保存しようなどとは思っていなかった。私は,捜査段階において,そのような供述をしたのかどうかは覚えていないが,私の捜査段階における供述調書にそのような記載があるのは,私を取り調べたR警部補が何回も言ったので,私が思い込んでしまって,そのように書かれたのかも知れない。私は,簡易鑑定を行ったS医師に対し,女性の死体を冷凍するなどして自分のそばに置きたいという趣旨の話をしたのかどうかは覚えていないが,もし言ったとすれば,テレビドラマでそのようなシーンを見たことがあるので,ただ思い付きで言ったのかも知れない。
ケ 私が,捜査段階や公判段階の最初と供述を変えたのは,公判段階の最初のころは,警察官や検察官の作成した供述調書と違うことを言ってはいけないと思っていたこと,公判審理を経ていくうちに,R警部補が作成した書類が事実と全く違うということが分かったこと,ある人に公判段階で出会って励まされ,もう一度やり直したいという気持ちになったことなどから,亡くなった被害者のためにも,本当のことを言わないと駄目だという気持ちになったからである。ある人とは,事件後に手紙をやり取りしたり,面会をしている女性であり,私は,将来,その女性と結婚しようと約束している。
被告人は,公判段階の終盤において,以上のような趣旨の否認供述をしている。
もっとも,被告人は,公判段階の終盤においても,「私は,女性が暴れたのを覚えており,女性の体のどこを刺したのかは覚えていないが,女性を刺したことは覚えている」,「私は,気が付いたら,女性の首を絞めていたが,強くは絞めていない」,「私は,女性がどのような状態で仰向けになったのかは覚えていない」などとも供述しており,数多くの供述の変遷が認められる。
6 そこで,前記5の(1)掲記の被告人の捜査段階における自白供述と,同(2)掲記の被告人の公判段階の終盤における否認供述のいずれが信用できるのかについて検討する。
(1) まず,被告人の捜査段階における前記自白供述は,前記2認定のAの創傷の状況や被告人の遺留品の状況等の各事実と符合し,事態の自然な流れに沿うものである。すなわち,
ア 被告人は,F駅方面からN橋方面に向かって歩くAの背中を本件包丁で1回刺し,E通りを右折して同女を本件路地に連れ込み,同女を仰向けに倒してその上に馬乗りになり,本件包丁で同女の胸部や腹部を何回か刺した後,同女に対し,「ごめんね」と言いながら,その首を両手で絞めたところ,上の方から男の声がしたので,走って逃げた旨供述しているが,その供述は,被告人にしか語り得ない内容も含まれている上,その内容も詳細で,Aの頸部も含めた身体の創傷の状況など前記2認定の各事実と合致しており,一連の過程も事態の流れに沿う自然かつ合理的なものである。
イ 被告人がAの首を絞めながら言ったという「ごめんね」という言葉は,取調官が創作して被告人に押し付けたとは考え難い性質のものである上,被告人は,その言葉を言った理由について,思わずそういう言葉が出ただけであって,申し訳ないと考えて言ったものではないなどと述べているのであるから,「ごめんね」という言葉が,被告人が自らの記憶に基づいて取調官に供述したものであることは,十分に認めることができる。
ウ 被告人は,女性を本件包丁で脅してその胸やお尻を触るなどのいたずらをしようと考え,台東区内を徘徊している時に,Aに出会った旨供述しているが,この点も,前記2認定のように,被告人が,Aに出会う前に,別の若い女性に本件包丁を示して近づいていることや,平成6年に,通行中の女性にモデルガンを突き付けるなどの脅迫を加えてその乳房や陰部を弄ぶなどした強制わいせつの前科があるという事実によって裏付けられている。
エ 被告人は,Aがかわいくて自分の好みのタイプであったので,自分のものにしたいと思ったが,Aが物凄く変な顔をして私を睨み付けてきたので,私は,馬鹿にされたと思い,また,Aには彼氏がいると思って,腹が立ち,Aを殺して自分のものにしたいと考えた旨供述しており,その述べるところは,その意味が必ずしも一義的に明確ではない部分はあるものの,被告人にしか語り得ない内容や表現を含んでおり,被告人が衝動的かつ短絡的にではあってもAに殺意を抱いた動機を説明するものとして自然なものであるということができる。
オ 「自分のものにする」という言葉は,被告人が語らない限り,取調官が創作して被告人に押し付けることが困難な性質の表現であり,実際にも,取調官のR警部補及びT検事は,この言葉をどのように理解したらよいのかについて戸惑いを覚えていることが窺われるのであって,この言葉が被告人から自発的に述べられたものであることは明らかである。そして,このような被告人の述べたとおりの表現が記載されていることなどに鑑みると,取調官が一方的に押し付けたのではなく,被告人が自発的に供述したことが供述調書に記載されていることが窺われるのである。
カ 被告人は,Aに対する強姦目的の存在については明確に否定するなど,自らの記憶と相違することはその旨をきちんと述べている。
キ 被告人は,公判段階においても,途中までは,Aに対する殺意があったこと,本件路地に入る前に,本件包丁で同女の背中を刺したこと,同女を押し倒して馬乗りになり,その胸部や腹部を刺したこと,同女の頸部を絞めながら,同女に対し,「ごめんね」と言ったことを認めるなど,同女に対するわいせつ目的を否定する点を除いては,被告人の捜査段階における上記自白供述とほぼ同趣旨の供述をしている。
これらの事情に照らすと,被告人の上記自白供述は,十分に信用することができる。
(2) これに対し,弁護人は,被告人の前記自白供述には任意性がなく,証拠能力が存しない旨主張するが,被告人の上記自白供述に任意性が認められ,証拠能力が存することは,第30回公判期日の証拠採用決定において詳細に説示したとおりである。
(3) また,弁護人は,被告人の前記自白供述について,仮に任意性が認められるとしても,信用性を疑わせる次のような事情がある旨主張している。すなわち,
ア 弁護人は,被告人の上記自白供述は,被告人とAが,アベックのような感じで,N橋方面からF駅方面に向かって歩いてきて,E通りを左折して本件路地に入っていったというIの証言と矛盾しており,信用できない旨主張する。
しかしながら,Iの上記証言自体が信用することが困難なものであることは,前記3の(1)で説示したとおりであり,弁護人の上記主張は,その前提を欠くものであって,失当である。
イ さらに,弁護人は,被告人が,自閉症等の広汎性発達障害を有しており,その障害に照らすと,「自分のものにしたい」とか,「ごめんね」というような言葉を自ら発するとは考え難く,また,「自分のものにしたい」という言葉については,R警部補に対する供述調書では,「殺してでも自分のものにしたい」となっているのに対し,T検事に対する供述調書では,「殺して自分のものにしたい」と変化しているのであるから,これらの言葉を含む被告人の上記自白供述は,取調官が被告人に押し付けた結果,被告人の記憶に貼り付けられたものである旨主張する。
しかしながら,前記(1)で説示したように,これらの言葉は,被告人が自発的に述べたと認められる上,被告人が,捜査段階において,強姦目的の存在を明確に否定するなど,自らの記憶と相違することはその旨をきちんと述べていることなどに鑑みると,被告人が取調官に押し付けられてその言いなりに供述していたとは考え難い。また,上記のような表現の差異についても,取調官が被告人に押し付けてその記憶に貼り付けたものであれば,むしろ,被告人が貼り付けられた記憶に従って一貫した表現をするはずであるということもできるのであり,その表現の差異もさほど大きいとはいえないのであるから,そのような表現の差異があるからといって,被告人の上記自白供述の信用性が減殺されるものではないというべきである。
ウ その他,弁護人は,被告人の上記自白供述が信用できない理由を縷々主張するけれども,いずれもその自白供述の信用性に疑念を抱かせるものではないといわなければならない。
(4) 他方,被告人の公判段階の終盤における前記否認供述は,前記2認定の各事実と齟齬し,不自然さや不合理さが目立つものである。すなわち,
ア 被告人は,①C橋でDに本件包丁を示したのは,ただ脅かしてびっくりさせようと思ったからである,②本件包丁をAに示したが,その時,同女の顔は見ていない,③本件路地に入る前にはAの背中を刺しておらず,いつ同女の背中に傷ができたのかは分からない,④Aを刺したことを覚えておらず,上から男の声が聞こえたので,気が付いたら,Aの上に乗っており,本件包丁が同女の体に刺さっていた,⑤気が付いたら,Aの首に手を掛けていたが,同女の首を絞めてはいない,⑥上から男の声が聞こえた時に,なぜ逃げたのかは分からない,⑦逃げる途中に,なぜ本件包丁や気に入っていたレッサーパンダの帽子等を捨てたのかは分からないなどと述べるのであるが,いずれもAの創傷の状況など前記2認定の各事実と符合せず,内容的にも甚だ不自然なものであるといわざるを得ない。
イ 被告人は,公判段階の途中までは,捜査段階における前記自白供述と概ね同趣旨の供述をしていたのに対し,公判段階の終盤に至って,これを大きく変更しているが,その理由について,公判段階の最初のころは,警察官や検察官の作成した供述調書と違うことを言ってはいけないと思っていたなどと説明している。しかしながら,被告人が,Aに対するわいせつ目的の点については,公判段階の当初から否認していることなどに鑑みると,被告人の説明する供述変遷の理由は,納得ができるものではなく,供述変遷の理由について合理的な説明はなされていない。
ウ 被告人の上記否認供述は,公判段階の終盤に至っても,前記5の(2)掲記のように,数多くの変遷が認められるところ,被告人の表現能力や質問の理解能力の点を考慮しても,その変遷は,甚だ不自然なものであるというほかない。
エ 被告人は,公判段階の当初から,重要な事項について尋ねられると,それまでの供述状況と打って変わって,かなり言い淀んだ末に,「覚えていない」と供述したりするなど,自己防衛的な供述態度が見受けられるところ,公判段階の終盤に至って,それらの事項について尋ねられた際には,「覚えていない」「捜査段階における供述は,取調官から押し付けられたストーリーである」などと強く否定するようになり,その傾向が顕著になってきている。
そして,被告人は,当公判廷において,公判段階の途中で知り合った女性と結婚する約束をした旨も供述しており,検察官から,「その女性が現れて,結婚の約束をしたことから,できるだけ早く刑務所から出たいと思うようになったということか」などと質問され,これを肯定する趣旨の供述もしているところである。
オ 弁護人は,被告人には,情動反応による本件刺突行為時の記憶の欠損が生じていたところ,被告人が,公判回数を経るうちに真実を述べようと考えるようになり,公判段階の終盤に至って,ようやく自らの記憶に従って供述するようになったものである旨主張しているが,後記第2の4の(1)認定のように,被告人に情動反応による記憶の欠損が生じていたとは認められない上,前記エ認定のような被告人の供述態度等に鑑みると,その供述の変遷は,自己防衛的な発想に基づくものであることが強く窺われるのであって,弁護人の上記主張は,採用することができない。
これらの事情に照らすと,被告人の上記否認供述は,信用することができないといわざるを得ない。
7 以上検討したように,①被告人は,Aに対し,十分な殺傷能力を有する本件包丁を用いて,深い刺創ができるほどの強い力で,生命に対する危険性の極めて高い人体の枢要部である前胸部,腹部等を数回にわたって突き刺すなどしているのみならず,仰向けに転倒した同女に馬乗りになって,上記刺突行為を行った後に,同女の頸部を両手で絞めていること,②被告人には,衝動的なものではあるが,Aに殺意を抱くに足る動機があったといえること,③被告人は,Aに対する自らの一連の行為について,十分に記憶していることなどの事実に加え,④被告人が,捜査段階及び公判段階の当初において,Aに対する殺意があったことを認める供述をしていることも合わせ考えると,被告人が,遅くともAの前胸部や腹部を本件包丁で突き刺した時点においては,同女に対する確定的な殺意を有していたことは,十分に認めることができる。
したがって,被告人の判示第2の行為について,殺人罪が成立することは明らかであるから,傷害致死罪が成立するに過ぎない旨の弁護人の前記主張は,理由がない。
第2 責任能力の有無について
1 弁護人は,判示第2の殺人の犯行当時,被告人は,軽度の精神遅滞に加え,自閉症等の広汎性発達障害であったために,Aに本件包丁を示したところ,同女から思わぬ反応をされたことによって,情動反応が生じていたのであるから,心神喪失又は心神耗弱の状態にあった旨主張する。
2 この点に関し,捜査段階で被告人の精神状況につき簡易鑑定を行って精神衛生診断書を作成した医師Sと,児童青年精神医学を専門とする医師Uは,それぞれ次のような意見を述べている。すなわち,
(1) S医師は,前記精神衛生診断書において,①被告人は,軽度の精神遅滞と認められ,性格としては対人交流の乏しさが特徴的であるが,問診時の態度や応答等に照らし,実際はその知能指数よりも能力的に高い印象を受け,精神病性の感情表出態度や病的体験を示唆する所見は認められない,②被告人は,母親の葬式において,その死体を保存しておきたいという願望を抱いているが,被告人の情緒面での支えであった母親の喪失に耐えきれずに抱いた願望として了解可能であり,責任能力には問題がないという趣旨の診断をしている。
また,S医師は,当公判廷において証人として尋問を受けた際にも,①被告人には軽度の精神遅滞が認められる,②被告人が法廷でずっと下を向いたままであることなどに照らすと,被告人は,自閉傾向があるということはできるが,自閉症とまでは認められない,③被告人には,本件殺人の犯行当時,記憶の欠損が認められず,情動反応が生じていたとは考えられないとして,本件殺人の犯行時の被告人の責任能力には問題がない旨証言している。
(2) U医師は,当公判廷において証人として尋問を受けた際,被告人には軽度の精神遅滞が認められるのみならず,被告人が,①対人交流を形成することが困難であること,②話し言葉,特に対面した上での話し言葉をコミュニケーションの上で保ち得ないこと,③難しい言葉を連ねて詩を作るなどの限られた分野については,深い興味や関心を有することなどに照らすと,被告人は,自閉症等の広汎性発達障害の可能性が高く,このような障害を有する被告人が,本件路地に入って以降は,記憶が大幅に欠損していることも合わせ考えると,被告人は,本件殺人の犯行当時,本件路地に入って以降は,予測できない状況に直面して,情動反応が生じていたと解することができ,心神喪失又は心神耗弱の状態にあったと考えられる旨証言している。
3 そこで,検討すると,被告人の生育歴や生活態度等について,次のような事実が認められる。すなわち,
(1) 被告人が平成13年5月22日に受けたWAIS-R知能検査の結果は,言語性知能指数が55,動作性知能指数が72,全検査知能指数が59となっており,また,被告人がそれ以前に受けた知能検査の結果等に照らしても,被告人は,軽度の精神遅滞であると診断されること
(2) 被告人は,小中学校は普通学校を卒業したが,中学校の先生の勧めで高校は養護学校に進学したこと
(3) 被告人は,養護学校のころから,放浪癖が見受けられるようになり,就職した後も家出を繰り返していたこと
(4) 被告人は,以前に勤めていた有限会社Vにおいては,言われたことは繰り返しきちんとやるが,言われた以上のことはできず,状況に応じた判断ができなかったこと
(5) 被告人は,子供のころから,人とのコミュニケーションがうまく取れず,下を向いていて,言葉を発することが少なかったこと
(6) 被告人は,辞書を用いて,むやみに難しい言葉を用いて文章を書いたり,自分の好きなアイドル歌手の名前,その曲名,気に入った歌の歌詞等を丹念にノートに書くなど,自分の興味のあることについては,こだわりを持って取り組む傾向が見受けられること
(7) 被告人は,本件各犯行当時,4月末であるにもかかわらず,自分が気に入ったレッサーパンダの帽子や毛皮のハーフコートを身に着けるという些か奇妙な格好で,人目も気にせず,町中を歩いていること
(8) 被告人は,当公判廷においても,被告人席で,最初から最後まで下を向いた状態を続けて顔を上げることをせず,被告人質問の際にも,かなり小さく聞き取りづらい声で話す一方で,自分の好きなアイドル等の話になると,途端に積極的に答える傾向が存することなどの事実が認められる。
これらの事実に照らすと,被告人が,自閉症等の広汎性発達障害に該当するかどうかはともかくとして,少なくとも自閉傾向を有していることは,十分に認めることができる。
4(1) しかしながら,前記第1の5の(1)掲記のように,被告人は,捜査段階において,本件殺人の犯行当時の状況について詳細に供述しており,前記第1の6の(1)で説示したように,その供述が十分に信用することができるのであるから,被告人は,本件路地に入ってAに対する刺突行為等を行ったことを含め,自らの一連の行為について,十分に記憶を保持しており,不自然な記憶の欠落や欠損は存しないことが認められるのであって,本件路地に入って以降の被告人に情動反応が生じていたとは考えられない。
(2) また,被告人が捜査段階で供述している本件殺人の犯行に至る経緯は,その意味が必ずしも一義的に明確ではない部分があるものの,「自分のものにしたい」という言葉の意味について,被告人が,「自分のそばにいてほしいということである」旨述べていることなどに照らすと,被告人が,「自分のそばにいてほしい」とか,「自分の思うようにしたい」という気持ちを「自分のものにしたい」という言葉で表現することも十分に考えられるところである。そして,被告人が,かわいいと感じたAを自分の思うようにしたいと思って,衝動的に自分のものにしたいというような感情を抱き,一方で,Aが物凄く変な顔をして睨み付けてきたと感じ,同女に馬鹿にされたと思い,また,同女には交際相手がいると思って腹が立ったという相反する感情が相俟って,同女を殺害しようと考えたというのも,それなりに了解可能なものであって,必ずしも不合理であるということはできない。
(3) さらに,被告人は,いたずらをしようとの思いから若い女性を物色し,通行中のAを認めて追尾し,同女に近づいたところ,前記のように,同女の対応に立腹するなどして,同女の背部を1回突き刺した上,同女を人目に付かない本件路地に連れ込んでいるのであって,その行動は,合目的的なものである。そして,被告人は,本件路地において,Aを仰向けに転倒させてその上に馬乗りになり,殺意をもって,その前胸部,腹部等を本件包丁で繰り返し突き刺すなどした上,その頸部を両手で絞める行為に及んだが,男性から声を掛けられたため,直ちにAの頸部を絞めるのをやめて,その場から逃走しているのであって,その行動も,事態の流れに沿う自然なものとして理解することができる。また,その後も,被告人は,逃走の途中に本件包丁や血の付いた衣服等を投げ捨てたり,犯行現場に近い当時の就寝場所から離れて,埼玉県内の建設会社で偽名を用いて稼働するなどしているのであって,自らの犯行の発覚を防ごうという意図に基づく合理的な行動をとっているのである。
(4) S医師は,前記2の(1)掲記のように,被告人は,自閉傾向があるということはできるが,自閉症とまでは認められず,本件殺人の犯行当時,記憶の欠損が認められず,情動反応が生じていたとは考えられないとして,本件殺人の犯行時の被告人の責任能力には問題がない旨の意見を述べている。
これらの事情を総合すると,被告人が,判示第2の殺人の犯行当時,是非善悪を弁別し,その弁別に従って行動する能力を失った心神喪失の状態になかったことはもとより,その能力が著しく減退した心神耗弱の状態にもなく,完全な責任能力を有していたことが強く窺われるというべきである。
5(1) これに対し,弁護人は,前記2の(2)掲記のU医師の意見を基に,本件殺人の犯行当時,被告人には,情動反応が生じていたのであるから,完全な責任能力を有していなかった旨主張している。
しかしながら,U医師の上記意見は,被告人の本件殺人の犯行時の記憶に大幅な欠損が生じていることを前提にしているところ,前記4の(1)認定のように,被告人は,本件殺人の犯行時の記憶を十分に保持していると認められるのであるから,U医師の上記意見及びこれと同趣旨の弁護人の上記主張は,その前提を欠くものであって,失当といわざるを得ない。ちなみに,U医師も,被告人が,自閉症等の広汎性発達障害であることを前提にしても,本件路地に入った以降の自らの行動に関する記憶の大幅な欠損が認められないのであれば,被告人に情動反応が生じていたということはできず,その場合には,被告人の責任能力にも問題が生じない旨の意見を述べているところである。
(2) また,弁護人は,①被告人は,自閉症等の広汎性発達障害を有するのであるから,「自分のものにしたいと思った」というような抽象的な言葉を自分から使うことはあり得ず,②前記2の(1)掲記のS医師の意見及びこれと同趣旨の検察官の主張は,被告人が,「自分のものにしたいと思った」と述べたことを前提に,「Aの死体を氷漬けにして保存しようと思った」という猟奇的な死体保存願望を本件殺人の犯行動機としているにもかかわらず,被告人には完全な責任能力があるというのであるから,極めて不合理である旨主張している。
しかしながら,「自分のものにしたいと思った」とか,「Aの死体を氷漬けにして保存しようと思った」という言葉は,S医師や取調官が創作して被告人に押し付けたとは考え難い性質の表現であり,被告人が自らS医師や取調官に自発的に供述したことは,十分に認めることができる。
そして,その意味について 被告人は,捜査段階において,「自分の好みのタイプのかわいい女性であれば,生きていなくても,氷漬けのような状態でも,そばにいてくれたらいいなと思ったこともあった。しかし,そんなことを思ったこともあったというだけであり,いつもそんなことを考えていたわけではない。また,本当に女性を氷漬けにして,自分のそばに置いておこうと考えたことはなかった。母を氷漬けにしてそばに置いておくことができないことは分かっており,女性を氷漬けにして自分のものにすることも実際にはできないことだと分かっていた」旨述べているのであって,このような被告人の供述に照らせば,被告人が従来からいわゆる死体保存願望のようなものを有していたとまではいうことができず,単に本件殺人の犯行時にそのようなことが被告人の頭にちらっと浮かんだ程度に過ぎないものと考えることもできるのである。ちなみに,被告人が,当公判廷において,男性が妻の遺体を冷凍庫で保存しているというシーンをテレビドラマで見たことがある旨供述していることなども合わせ考えれば,「Aの死体を氷漬けにして保存しようと思った」という発想が,瞬間的に頭に浮かぶことも考えられないではないというべきである。
してみると,被告人は,現実にAの遺体を氷漬けにして保存しようと考えていたのではく,前記4の(2)で検討したように,Aに自分のそばにいてほしいという気持ちを「自分のものにしたいと思った」という言葉で表現したものとも理解することができ,S医師が述べるような母親に対する思慕の情,延いては,より広く女性一般に対する歪んだ思慕の情の現れと理解することもできるのである。そして,被告人の動機がそのようなものであったとするならば,弁護人の指摘するような猟奇的な動機ということができないことは明らかである。
さらに,被告人が本件殺人の犯行を衝動的に短時間で行ったものであることなどに鑑みれば,被告人は,その犯行当時に,実際には,「自分のものにしたいと思った」という発想は浮かんだものの,「Aの死体を氷漬けにして保存しようと思った」という発想までは浮かばなかったにもかかわらず,逮捕後に,S医師や取調官から,「自分のものにしたいと思った」という言葉の意味について尋ねられ,事後的にその意味を考えて説明したのが,「Aの死体を氷漬けにして保存しようと思った」ということであったとも考えることができるのである。そして,このように考えたとしても,被告人が,「自分のものにしたいと思った」「Aの死体を氷漬けにして保存しようと思った」という言葉を自発的に述べたことには変わりなく,また,「自分のものにしたいと思った」という言葉の意味について,前記4の(2)で検討したように,Aに自分のそばにいてほしいという気持ちをそのような言葉で表現したものとも理解することができるのであるから,いずれにせよ,弁護人の指摘するような猟奇的な動機には当たらないというべきである。
したがって,弁護人の上記主張は,理由がないというほかなく,採用することができない。
(3) その他,弁護人は,S医師の前記意見及びこれと同趣旨の検察官の主張が不合理であるとする理由や,被告人に完全な責任能力が認められない理由を縷々主張するけれども,いずれも被告人に完全な責任能力が認められるとの判断に疑念を抱かせるものではないといわなければならない。
6 以上検討したように,①被告人が,本件殺人の犯行当時の記憶を十分に保持しており,意識障害や情動反応が生じていたことを窺わせる事情は,何ら存在しないこと,②本件殺人の犯行における被告人の具体的な行動は,その前後も含め,全体として合理性及び合目的性が認められること,③本件殺人の犯行に至る経緯も,十分に了解可能なものであり,被告人の平素の人格から解離したような異常な状況は,窺うことができないこと,④被告人は,知能指数が59程度の軽度の精神遅滞ではあるが,日常生活に支障があるということはできず,当公判廷において,自己防衛的な態度をとることも可能であること,⑤本件殺人の犯行時の被告人の責任能力には問題がない旨のS医師の前記2の(1)掲記の意見等を総合すると,被告人が,仮に弁護人の主張するような自閉症等の広汎性発達障害に該当するとしても,判示第2の殺人の犯行当時,是非善悪を弁別し,その弁別に従って行動する能力を失った状態になかったことはもとより,その能力が著しく減退した状態にもなく,完全な責任能力を有していたことは,十分に認定することができる。したがって,被告人にはその犯行時に完全な責任能力がなかった旨の弁護人の前記主張は,採用することができない。
(累犯前科)
被告人は,(1)平成6年11月2日にM地方裁判所で強盗未遂及び強制わいせつの罪により懲役3年(5年間保護観察付き執行猶予,平成7年7月17日にその猶予取消し)に処せられ,平成12年5月14日にその刑の執行を受け終わり,(2)その刑についての仮出獄中に犯した詐欺罪により平成11年7月26日にX地方裁判所で懲役10月に処せられ,平成13年3月5日にその刑の執行を受け終わったものであって,以上の各事実は,前科調書及び判決書謄本2通によってこれを認める。
(法令の適用)略
(量刑の理由)
1 本件は,被告人が,不法に洋包丁1丁を携帯し(判示第1),通行中の見ず知らずの19歳の女性に対し,殺意をもって,その前胸部,腹部等をその包丁で数回突き刺すなどして殺害した(判示第2)という事案である。
2 本件殺人の犯行について見ると,被告人は,若い女性の胸を触るなどのいたずらをしたいと考え,女性を物色して歩いていたが,歩道上で通りすがりの被害者を認めて追尾し,被害者に近づいたところ,被害者が,被告人の方を振り返った。被告人は,被害者がかわいくて自分の好みであったので,自分のものにしたいというような感情を抱くとともに,被害者が,変な顔をして自分を睨み付けてきたと感じて,自分を馬鹿にしていると思い,また,被害者には交際相手がいると思って,憤激の念が込み上げてきた。そこで,被告人は,被害者の背中を所携の本件包丁で1回突き刺し,被害者を人気のない路地に連れ込み,悲鳴を上げるなどして抵抗する被害者を転倒させ,その上に馬乗りになった。そして,被告人は,被害者に対し,遅くともこのころには確定的な殺意を抱いて,その前胸部や腹部等を本件包丁で繰り返し突き刺し,さらに,その身体に本件包丁を突き刺したまま,その頸部を両手で絞める行為に及んだが,男性から声を掛けられたため,被害者の頸部を絞めるのをやめて,その場から逃走した。その後,被害者は,直ちに救急車で病院に搬送されて緊急手術を受けたが,1時間余り後に,下大静脈・門脈左枝・左腎静脈損傷に基づく失血により死亡するに至ったものである。
このように,被告人は,初対面の被害者に対し,いきなりその背中を刃体の長さ約15.8センチメートルの鋭利な本件包丁で背後から1回突き刺して路地に連れ込んだ上,仰向けに転倒させてその身体に馬乗りになり,身体の枢要部である前胸部や腹部等を本件包丁で力を込めて繰り返し突き刺しているのみならず,その頸部を両手で絞めることもしているのであって,上記犯行は,強固な確定的殺意に基づく冷酷かつ残忍な犯行というほかない。被告人は,被害者が,変な顔をして睨み付けてきたと感じて,馬鹿にされたと思ったというのであるが,被害者は,近づいてきた面識のない男性が,4月末であるのに,毛皮のコートを着て,異様なレッサーパンダの帽子を被るなどしていたことから,驚いて表情を変えたとしても,それは当然であり,もとより被害者に何らの落ち度はないというべきである。被告人は,わいせつ目的で被害者に近づき,前記のような経緯から,短絡的に本件殺人の犯行に至ったものであって,その動機には全く酌量の余地はない。しかも,被告人は,男性の声が聞こえるや,被害者の身体に刺さった本件包丁を引き抜いてその場から逃げ出し,その逃走途中において,血の付いた本件包丁や着衣等を捨てるなどの罪証隠滅行為を行った上,これまでの就寝場所を離れ,偽名を使って隣県の建設会社に就職するなどしており,犯行後の行動も芳しくない。
3 そして,上記犯行の結果は,貴重な人一人の生命を奪うという誠に重大なものである。被害者は,交際中の男性のブラジリアン柔術の試合を応援に向かう途中に,異様な格好をした被告人から,突然に襲い掛かられ,必死の抵抗にもかかわらず,その身体を繰り返し刺突されるなどして,その場で意識を失い,搬送先の病院において,その後程なく絶命するに至っているのであり,その間の被害者の身体的な苦痛や恐怖感は,計り知れないものがあったというべきである。被害者は,未だ19歳の短期大学2年生であり,将来の希望である服飾関係の仕事に就くために,大学で服飾関係の勉強をするとともに就職活動に励み,家族や友人らとの関係も良好で,最後の学生生活を楽しんでいたのである。それにもかかわらず,被害者は,20歳の誕生日を1か月後に控え,正に人生もこれからという時に,何の落ち度もないのに,たまたま被告人と出くわしたが故に,その手に掛かって非業の死を遂げ,突然にその一生を終えねばならなかったのであって,その無念さは,察するに余りある。さらに,被害者の父親は,「裁判を通じ,殺意の有無や責任能力が論じられています。私にはよく分かりません。ただ悲しいことに,あの事件のせいで,娘は,この世に存在しません。あんなに元気で,心優しく,友達の多かったあの娘がです。時が過ぎても,この悲しみは癒やされることがないでしょう。あなた自身への憎しみは,なぜか薄れています。でも,罪は許されません。償ってください。私も,やがて老い,あの世へ旅立つでしょう。でも,死への恐れはなぜかないのです。なぜならば,私の娘が,19のままであの世にいると信じたいからです。そして,再会したいのです」などと述べ,また,被害者の母親は,「本当にちょっとでも何かが変わっていれば,Aは,その男に遭遇せず,殺されることもなかったはずだと思うと,悔やんでも悔やみ切れません」「Aは,本当に心の優しい子だったのです」「私は,友達のような関係にまで成長したAと,これからもずっと一緒にいられると思っていましたし,まさかこんなに早く,20歳になる直前に,Aを失うことになるなんて,考えてもいなかったのです」「今の私にもはっきりと言えることは,この犯人を二度と社会に出さないでほしいということです」などと述べているところである。このように,被害者の両親は,その将来を楽しみにしていた最愛の娘を理不尽にも殺害され,深い苦悩と悲しみに苛まれているのであって,被告人に対する激しい憤りの念を訴え,被告人に厳重な処罰を望んでいるのも当然というべきである。しかるに,被告人は,被害者の遺族に対し,具体的な慰謝の措置を何ら講じていないのである。
4 しかも,被告人は,当公判廷において,被害者に対するわいせつ目的はなく,被害者を転倒させたこともなく,被害者を本件包丁で刺突した記憶はないなどと不合理な弁解を弄し,自分に不利益と思われる事柄について尋ねられると,覚えていない旨の供述を繰り返した上,捜査段階における自らの供述が取調官から押し付けられたものであるとして,取調官の批判を繰り返すなどしている。さらに,被告人は,結婚することもなく亡くなった被害者やその遺族の心情に思いを致す言葉を添えることもないまま,当公判廷において,自分がある女性と結婚したいと思っている旨を述べるなどしているのである。これらの事情に照らすと,被告人が,自ら犯した罪の重さを真摯に認識しているかどうかは疑問があるといわざるを得ない。また,本件は,レッサーパンダの帽子を被るなどの異様な格好をした男性が,白昼,人や車の通行も多い浅草界隈の路上において,包丁を携帯して歩き回り,通りすがりの若い女性をその包丁で刺殺したというものであって,社会一般や付近住民に与えた不安感も看過することはできない。さらに,被告人は,女性にいたずらをする際に使用する目的で,1時間余りにわたって,鋭利な本件包丁を携帯して徘徊し,本件殺人の犯行の少し前にも,わいせつ目的で,通行中の女性に本件包丁を示すこともしているのであって,本件包丁の不法携帯の犯行も軽視することはできない。加えて,被告人は,前記累犯前科のほか,平成5年に手斧の不法携帯の罪により罰金刑に処せられ,平成7年に窃盗罪により懲役10月に処せられた前科があり,前刑終了後,2か月も経たないうちに本件各犯行に及んでいるのである。
5 したがって,以上の諸点に照らすと,本件の犯情は極めて悪く,被告人の刑事責任は誠に重大であるといわなければならない。
6 他方において,被告人のために酌むべき事情も存在する。すなわち,被告人は,被害者を死亡させる行為を行ったのが自分であることや,本件包丁の不法携帯の犯行自体については,事実を認めている。本件殺人の犯行は,計画的なものではなく,偶発的な側面を有するものである。被告人は,公判の最終段階に至り,十分とはいえないものの,被害者やその遺族に対する謝罪の言葉を述べるようになり,一応の反省の態度も見受けられる。加えて,被告人は,軽度の精神遅滞である上,自閉傾向を有することは明らかであり,それらの点が,被告人が本件各犯行に及んだ経緯に影響を与えたことは否めないところである。
7 しかしながら,本件殺人の犯行は,何の落ち度もない見ず知らずの19歳の女性を刺殺したという誠に重大かつ悪質な通り魔殺人の事案であることに鑑みると,以上のような被告人に有利な事情を最大限に斟酌しても,被告人に対しては,永く贖罪の途を歩ませるために,主文のとおり無期懲役に処するのが相当であると判断した次第である。
平成16年11月26日東京地方裁判所刑事第3部
裁判長裁判官 服 部 悟
裁判官 大 西 達 夫
裁判官 一 場 修 子