直言
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直言 ~
玉榮 剛(たまえつよし)
沖永良部徳洲会病院(鹿児島県)院長
2019年(令和元年)5月6日 月曜日 徳洲新聞 NO.1183
はじめまして。4月1日付で沖永良部(おきのえらぶ)徳洲会病院の院長を拝命しました玉榮と申します。生まれは沖縄県ですが、中学校より沖縄を離れ、熊本市、福岡市、久留米(くるめ)市、対馬(つしま)島、佐世保市などを渡り歩き2002年に沖縄へ戻った後、09年に中部徳洲会病院に入職、徳洲会へ仲間入りさせていただきました。
正直、強い希望があって徳洲会を選んだわけではありません。しかし、入ってみると職員一人ひとりの意識の高さや、誇りをもって仕事をしている姿に驚かされました。医局をはじめ、あらゆる部署で夢を語る姿がとても印象的で、逆にとまどい、私には、どんな夢があるのか、何をやるべきなのかを自問するようになっていました。
私の尊敬する親友に、あるミュージシャンがいます。中学校からの同級生で、高校に入りバンドを組んで遊んでいました。そんな彼から高校卒業の時、別れ際だったでしょうか、突然、「東京に行ってミュージシャンになるけど、おまえどうする?」と聞かれました。それに対し私は「正気か?」と、今考えてみると、きわめて当たり前の返事をしたような気がします。しかし、彼は卒業後、真剣に夢を追い続け、まったくの独学で作曲の理論を勉強・研究し、25歳からピアニストに転向。その後、沖縄に戻った彼は立派なミュージシャンとなり、数々の曲で地元のみならず全国的にも有名になり、沖縄では異例の数万人規模のライブを開けるバンドを率いるまでになりました。
当初、彼の成功に懐疑的だった私は、驚きと尊敬の念を抱き、さらに夢を追い続けることに対し、羨望(せんぼう)の気持ちを隠さざるを得ませんでした。
沖永良部島に応援に行くようになったのは6年ほど前からです。それ以前にも対馬島や徳之島にお邪魔していたこともあり、ある程度、離島の医療を知っていたつもりでしたが、沖永良部島では患者さんが「島を離れるなら死んだほうがまし!」と、かたくなに島外での治療を拒否されることもしばしばあり、島民の方々の愛島精神の強さに驚くばかりです。その一方で、局所麻酔での小手術のようなものであっても、島内で治療を完結できた時には、大変な喜びを精いっぱい表現されます。そんな姿を目の当たりにすると、驚きとともに、一医療人として単純に嬉しく、新人に戻ったような感動を覚えます。
昨年、外科常勤医として沖永良部病院に赴いた際に「島でできることは島で」という目標を掲げました。確かに医療資源は限られており、まだ院内で対応できないことのほうが多いかもしれません。しかし、幸いにも多様な専門分野の先生方やスタッフから応援をいただいており、種々の知識、技術を拝借し、島内で完結できることも増えてきていると感じています。
当院は17年12月に念願だった新築移転を果たしました。徳洲会のなかでも離島病院の新築移転は初めてのケースでした。18年5月には、旧病院が完全に解体され駐車場となり、文字どおり完全に新病院に生まれ変わりました。それとともに、我々スタッフも生まれ変わらなければならないと考えます。応援スタッフのお力も必要ですが、我々自身も成長し、「島でやれること」の拡大・拡充が不可欠です。それが我々に与えられた“絶えることのない命題”であり、我々の夢ではないかと考えるようになりました。
さて、先の親友の後日談です。彼は数年前、そのバンドを脱退し、新たな夢を追い続けていますが、あるイベントで彼の曲が演奏されていました。元のバンドが毎回トリで演奏するほど沖縄県内では有名な曲なのですが、許諾を得ず演奏されているということです。著作権は彼にあり、マージンなども請求できる立場にあるはずです。それを問うと「聴いている人が楽しんでいるから良いんじゃない?」と平然と答えるのです。あまりの欲のなさに啞然(あぜん)としましたが、これこそ医療人として私たちが目指すべき姿ではないかと考えるのは言いすぎでしょうか? 患者さんに接していくうえで、我々の一番の報酬は患者さんやご家族の喜ばれる姿であり、何の打算もあり得ません。そして、ひとりでも多くの笑顔を得るために絶えず努力し、新たなことに挑戦し続けなければなりません。
皆で頑張りましょう。