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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

神鋼兵器工業㈱ 大垣工場

岐阜県大垣市に所在する神鋼造機㈱は神鋼兵器工業㈱ 大垣工場の後身です。
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 C 南西から(岐阜大垣)
▲神鋼兵器工業㈱ 大垣工場の建屋

【探索日時】
平成26年2月6日





神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 概略
明治27(1894)年1月20日、実業家・寺田甚与茂が大阪府南郡岸和田町(現、岸和田市)において岸和田紡績㈱を設立します。
明治36(1903)年2月7日、泉州紡績を合併し堺工場、明治43(1910)年2月6日、野村分工場、大正元(1912)年10月7日、春木分工場、大正12(1923)年7月23日、和泉紡績を合併し津工場を設立、昭和9(1934)年3月31日、堺工場を廃止します。
昭和8(1933)年5月18日、スフ生産のため大垣市青柳町に大垣工場建設を決定、昭和9(1934)年7月26日、子会社として岸和田人絹㈱(寺田甚吉社長)を設立、昭和10(1935)年7月25日、岸和田人絹㈱大垣工場の操業を開始します。

昭和13(1938)年9月26日、岸和田人絹㈱は大日本紡績㈱(小寺源吾社長、現、ニチボー㈱)に譲渡され、大垣工場は大日本紡績㈱ 南大垣工場と改称します。

昭和16(1941)年2月21日、大日本紡績㈱は『蠶絲業統制法』の施行(3月12日)を前に経営合理化のため、南大垣工場の帝國人造絹絲㈱(久村清太社長、現、帝人㈱)への譲渡契約を締結、7月1日、帝國人造絹絲㈱ 大垣工場と改称します。

昭和18(1943)年5月、経営合理化のため大垣工場は閉鎖、㈱神戸製鋼所に売却され㈱神戸製鋼所 大垣工場と改称します。
当時、㈱神戸製鋼所 本社工場(神戸)では主に海軍用機関(ディーゼル、発動艇用小型内燃機)を製造していましたが、陸軍の要求増大(戦車、大発動艇、オートジャイロ、潜航艇用発動機製造)に伴い陸海軍間の調整が困難になった事から、第五機械工場より陸軍機関関連の製造設備を移設し陸軍専管の大垣工場を設立ます。

昭和19(1944)年2月、大垣工場は明石工場(兵庫:砲弾弾体製造)、上井工場(倉吉:鉄薬莢製造)とともに分離独立し神鋼兵器工業㈱を設立、神鋼兵器工業㈱大垣工場となり生産にあたるなか、昭和20(1945)年8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、無傷で停戦を迎えました。

停戦に伴い神鋼兵器工業㈱は全従業員を全員解雇し、復帰希望者を募り再雇用し残務整理を実施、昭和21(1946)年4月、大垣工場は伯耆(旧上井)工場とともに振興工業㈱と改称しKN型ジャガード機(織機)の製造を開始しますが資材払底、資金不足から明石、倉吉(旧敷島紡績㈱倉吉工場)両工場は閉鎖されます。
昭和25(1950)年1月25日、伯耆工場と分離し振興造機㈱に改称、6月、織機に加え油性試験機の開発、製造、昭和26(1951)年2月、鉄道のディーゼル動車用機関の製造を開始、昭和39(1964)年8月、神鋼造機㈱に改称し現在に至ります。


遺構について
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場の後身にあたる神鋼造機㈱、及び敷地の一部を譲渡したフタムラ化学㈱の敷地内に当時の建物数棟が遺りますが、敷地内からの見学は不可のため外周からの見学になります。

神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 全体(岐阜大垣)
▲神鋼兵器工業㈱ 大垣工場の敷地と遺構配置

A 事務所
正門から見えます。
非常に凝った意匠を施しており、是非とも近くで見たいものです。
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 A(前)・D(奥) 西から(岐阜大垣)
▲あちこちに円を用いたモダンな意匠です

神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 A 北西から(岐阜大垣)
▲別角度から


B 機械工場
鉄筋コンクリート製で現存最大の建物です。
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 B(岐阜大垣)


C 鋳造工場
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 C 南西から(岐阜大垣)
▲三連の建屋で隣接のホームセンターから見えます

神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 C 南東から(岐阜大垣)
▲別角度から


D 食堂
上記Aの後ろにあり、正門から辛うじて見えます。
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 A(手前)・D(奥)(岐阜大垣)
▲手前がA、(奥)がD


E 素材倉庫
外周から見えます。
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 E(岐阜大垣)


G 事務所
外周から見えます。
神鋼兵器工業㈱ 大垣工場 G(岐阜大垣)


F 治具工場
鉄筋コンクリート製の建物ですが、建物が低いうえ開放された東側は増築が邪魔で外周から殆ど見えません。

※平日に行くと駐車場の車が邪魔、守衛の目が気になる等色々不便なので、休日に行く事をお勧めします。
僕は平日に行って失敗したため、B・D・E・Gは知人からお借りした写真を掲載しています。


主要参考文献
『神戸製鋼80年』 (昭和61年9月 80年史編纂委員会 神戸製鋼所)

『神戸製鋼100年』 (平成16年 創立100周年記念事業実行委員会 神戸製鋼所)

『当社の沿革と化学繊維工業の概観 創立三十周年記念』 (昭和29年6月 帝国人造絹糸㈱)

『ニチボー75年史』 (昭和41年2月 ニチボー㈱)
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大阪在住の探索者。

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軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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