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当ブログは主に「帝國陸海軍関連の軍跡(遺構・戦跡・石碑など)」・「英霊顕彰施設」を紹介していますが、
それ以外の記事も混在しているので、左欄「カテゴリー」からお進みください。●●文字数調整●太平洋戦争●
なお、紹介する軍跡は資料不足から漏れ・誤認等もあると思いますのでお気付きの点があれば、ご教示頂ければ幸いです。

鳴尾海軍航空基地/川西航空機㈱鳴尾工場・製作所

兵庫県西宮市には鳴尾海軍航空基地川西航空機㈱鳴尾工場・製作所がありました。
鳴尾海軍航空基地 管制塔(兵庫)
▲鳴尾海軍航空基地 管制塔

【探索日時】
平成21年12月8・9日、22年9月7日

【更新情報】
平成22年11月16日:『空襲目標計画』(米軍戦略爆撃調査団)の図面追加
平成27年5月15日:大幅改訂





鳴尾海軍航空基地は現在、一般に鳴尾飛行場の名称で呼ばれています。

鳴尾海軍航空基地の場所
鳴尾海軍航空基地は兵庫縣武庫郡鳴尾村(現、兵庫県西宮市)に設営されていました。
鳴尾海軍航空基地(昭和」23年8月)(兵庫)
▲国土地理院所蔵 USA-M84-1-59(昭和23年8月30日)
①滑走路 ②滑走路延伸予定 ③管制塔(現存)
④航空隊本部(兵舎地区:黄色) ⑤戦闘指揮所 ⑥通信所
⑦発電所 ⑧搭乗員待機 ⑨兵器整備場(プール) 
⑩送信所 ⑪飛行機運搬路 ⑫海岸弾薬庫 ⑬掩体壕 
⑭高射砲陣地(陸軍) ⑮ 〃 ⑯大阪陸軍燃料本部尼崎出張所
⑰電波標定機(陸軍) ⑱照空灯陣地(陸軍) ⑲川西航空機㈱鳴尾製作所
⑳水没部分

鳴尾航空基地(現在)(兵庫)
▲現在の地図に施設を転写(アルファベットは遺構)
 ※遺構は下記の本文参照


航空基地の概要
海軍の要地防空、川西航空機㈱鳴尾製作所の試験飛行兼用として設営されました。
・用地:1,260,000㎡
・建物:4,000㎡(800名収容)
・滑走路:100×1200mコンクリート舗装 2本
・誘導路:120×2,000、10×1,000、25×900m砂利敷転圧
※『Outline Report of The Naval Air and Seaplane Base Under The jurisdiction of The Osaka Minor Station』によると「掩体0」となっていますが、国土地理院所蔵の昭和22年8月20日の空撮(USA-M417-43)を見ると、飛行機運搬路西端(南甲子園3付近)にコの字型の掩体壕が少なくとも5基程有ったようです。
鳴尾海軍航空基地(兵庫)
▲『飛行場水上機基地平面図』

鳴尾海軍航空基地 航空機・爆弾一覧(兵庫)
▲『航空機・兵器引渡し目録』


遺構について※青字は地図にリンクしています。
① 鳴尾海軍航空基地
(遺構場所など、上掲地図参照)
昭和5(1930)年12月、川西航空機㈱が神戸市和田山通から兵庫縣武庫郡鳴尾村(現、西宮市高須町)に竣工した工場に本社を移転、水上機の開発・製造を開始、昭和17(1942)年4月15日、陸上機「紫電」の試作が開始され事に伴い、今後の陸上機試験飛行のため、また要地防空の必要性から、昭和18(1943)年4月、海軍は鳴尾川を挟んだ西側一帯にあった阪神競馬場、濱甲子園阪神パーク、國際庭球場などを飛行場用地として買収、勤労奉仕隊の協力を得て設営を開始、10月、鳴尾海軍航空基地を開設しました。

昭和19(1944)年1月15日、鳴尾海軍航空基地において第三四五海軍航空隊が編成、12月15日、岩國海軍航空基地から第三三二海軍航空隊の戦闘機隊が鳴尾に進出、阪神地区及び主要航空機生産工場の防空にあたるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

9月25日、米第6軍第1軍団が和歌山市二里ヶ浜に上陸、26日、大阪市内の住友銀行ビルに司令部を設置し近畿地方に進駐を開始、航空基地は米軍に接収され、甲子園兵器廠(甲子園デポー/自動車整備工場)に転用され滑走路上には倉庫が建設されます。

昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により我が国は主権を回復、航空基地跡は米軍より返還され大蔵省(現、財務省)管理下に移管された後、昭和34(1959)年から西宮市、昭和35(1960)年、㈻武庫川学院、昭和37(1962)年、日本住宅公団(現、都市再生機構)等に払い下げられ現在に至ります。
鳴尾海軍航空基地『武庫川学院七十年史』昭和20年8月19日(兵庫)
▲昭和20(1945)年8月19日、米軍による空撮(北側上空から)

A 管制塔
昭和10(1935)年、鳴尾競馬場(昭和12年、阪神競馬場に改称)の改修工事の際に観覧席の一部として大林組により建設されました。
昭和18(1943)年、川西航空機㈱による買収、飛行場設営に際し管制塔に転用されます。
大東亜戦争停戦に伴い米軍の接収を経て大蔵省に移管、㈻武庫川学院に払い下げられ校舎として使用、平成16(2004)年、文化財として復元改修が実施され「芸術館」として現在に至ります。
鳴尾海軍航空基地 管制塔(兵庫)
▲北から(裏側)
 事前に連絡すれば内部の見学も可能な用です。

鳴尾海軍航空基地 管制塔 (2)(兵庫)
▲北東から
 樹木が邪魔で全景は撮影できません。

航空基地時代は黒色の迷彩塗装が施されていました。
鳴尾海軍航空基地『武庫川学院七十年史』(兵庫)
▲戦後の管制塔


B 防波堤跡
海面上に残骸が遺ります。
鳴尾海軍航空基地 東側 旧堤防(兵庫)


C 滑走路南東端
水没した滑走路の残骸が遺ります。
分かりにくいですが、海面に瓦礫が何となく出ています。
鳴尾海軍航空基地 滑走路南東端 北から(兵庫)


D 滑走路南西端
砂浜に残骸が散乱しています。
鳴尾海軍航空基地 滑走路残骸(阪神パーク基礎含む)(兵庫)
▲この辺りには浜甲子園阪神パーク(遊園地)があったので、その残骸も混在している様です。
厚みが30cm程の板状の物が滑走路と思うのですが・・・

鳴尾海軍航空基地 南西側 旧堤防(兵庫)
海上に点々と遺るのが航空基地時代の海岸線(防波堤)です。

鳴尾海軍航空基地 北側 誘導路 北から(兵庫)
▲北側誘導路(臨港線)を転用した道路


② 川西航空機㈱ 鳴尾工場・鳴尾製作所
昭和3(1928)年11月5日、川西航空機㈱が神戸市和田山通の川西機械製作所内で創立(川西龍三取締役)、昭和5(1930)年12月、兵庫縣武庫郡鳴尾村(現、西宮市高須町)の鳴尾ゴルフ倶楽部の敷地72,600坪を買収、竣工した工場に本社を移転、水上機の開発・製造を開始します。
昭和14(1939)年、北側のゴルフ倶楽部等35,000坪を買収、敷地を拡張します。
昭和17(1942)年4月15日、水上戦闘機「強風」を改修した仮称一号局地戦闘機(後の局地戦闘機「紫電」)が海軍航空本部の試作認可を受け、昭和18(1943)年7月24日、試作機が海軍に領収、8月10日、量産が指示されます。
陸上飛行機の生産が開始された事により昭和18(1943)年12月、鳴尾川を挟んだ西側一帯に設営された鳴尾海軍航空基地を試験飛行に使用開始します。
昭和19(1944)年7月、本社機能のある鳴尾工場から生産部門を分離、「鳴尾製作所」が開設されます。
昭和20(1945)年3月、川西航空機㈱は防諜上の見地から「神武秋津社」と改称、6月9日0740、鳴尾製作所にB-29爆撃機44機が来襲、爆死23名、行方不明6名、重傷231名、製作所は73%が破壊され操業停止、分散疎開工場で生産を続行します。
7月9日、川西航空機㈱は全事業を第二軍需工廠に譲渡、鳴尾製作所は第一製造廠と改称されます。
8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えます。

17日、航空機の製造停止、生産設備の川西航空機㈱への返還が示達され、生産を民需転換し家庭用品、玩具の生産を担当、さらにバイクの製造を開始します。
昭和42(1967)年4月、新明和工業㈱(昭和35年5月28日、社名を改称)は本社を西宮市小曽根町に移転、昭和52(1977)年、鳴尾製作所の跡地を含む周辺に武庫川団地の建設が開始され、現在に至ります。
川西航空機㈱鳴尾製作所(Japanese Air Target Analyses)(兵庫)
▲昭和20年5月29日の工場配置図
 『Japanese Air Target Analyses空襲目標計画』(米軍戦略爆撃調査団)

有名な紫電改)製造した川西航空機㈱の本社機能のあった鳴尾製作所ですが、残念ながら遺構は皆無です。
辛うじて防潮壁の一部、鳴尾製作所から鳴尾海軍航空基地に接続する誘導路跡、鐵道省線(現、JR)から分岐し武庫川沿いに南下した側線の痕跡が遺ります。

防潮壁
自動車学校の外側に10mほどが遺ります。
川西航空機鳴尾製作所 防潮壁 (3)(兵庫)
▲全景

川西航空機鳴尾製作所 防潮壁(兵庫)
▲反対から

川西航空機鳴尾製作所 防潮壁 (4)(兵庫)
▲海側
 現在は防波堤が造られ見通せません

川西航空機鳴尾製作所 防潮壁 (2)(兵庫)
▲支柱
  コンクリートの表面が剥離して鉄骨がむき出しです

川西航空機鳴尾製作所 防潮壁 (5)(兵庫)
▲支柱近影
 当時筋筋があったのか疑問も遺ります


川西航空機㈱鳴尾製作所・鳴尾工場 誘導路終点 南から(兵庫)
▲誘導路跡終点付近の道路(高架下の道路)
 右側が川西航空機㈱鳴尾製造所跡

昭和18(1943)年夏、工員と資材を輸送するため武庫川駅-洲先駅(現、武庫川団地前駅)間を着工、昭和18(1943)年11月に完成、次いで阪神國道線(現、国道2号線に敷設された路面電車)武庫大橋駅-武庫川駅間が昭和19(1944)年8月に完成、省線西宮駅-甲子園口駅経由-武庫大橋駅間が11月に完成します。
昭和20(1945)年6月9日、阪神大空襲により鳴尾製作所とともに甚大な被害を受け、停戦を迎えました。

昭和23(1948)年、武庫川駅-洲先駅間が旅客営業を再開しますが、それ以外の部分は随時廃線となり、順次線路の撤去、敷地の売却、開発が行われました。
川西航空機㈱鳴尾製作所 阪神 国鉄分岐部 南から(兵庫)
▲中央の緑の家と白い建物の間(白い工事幕が張られている部分)が側線跡

川西航空機㈱鳴尾製作所 阪神 旧国道付近 線路跡 南から(兵庫)
▲写真左側の駐車場が側線跡    

川西航空機㈱鳴尾製作所 阪神 旧国道付近 線路跡 北から(兵庫)
▲旧国道付近(武庫川橋)の側線跡に残る線路


④ 大阪陸軍燃料本部 尼崎出張所
昭和13(1938)年4月、共同企業㈱より輸入燃料貯蔵用に建設、昭和15(1940)年8月1日、陸軍燃料廠設置に伴い陸軍に譲渡され、陸軍燃料廠 尼崎出張所となります。
昭和20(1945)年4月28日、陸軍燃料廠が陸軍燃料本部に改編された事に伴い、大阪陸軍燃料本部 尼崎出張所に改称、6月9日、阪神大空襲により甚大な被害を受け、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。

昭和30(1955)年、跡地に白石工業が進出、平成18(2006)年に撤退します。
近年まで石灰置き場として使用されていた燃料槽防弾壁2基が遺されていましたが、残念ながら破壊されてしまい遺構は皆無です。


⑤ 上鳴尾高射砲陣地
鳴尾海軍航空基地北東端(現、古川町)に陸軍の獨立高射砲第十一大隊(小木節三中佐)第四中隊(中隊長不明)の陣地(西宮市立中、浜甲子園中、消防署付近に砲座、道路を挟んで北側に兵舎、弾薬庫)がありました。
大隊は大阪湾を北上し阪神工業地帯に向かう敵機を迎撃すべく展開していました。

『高射戦史』によると「上鳴尾・12高(三式十二糎高射砲)×6」となっていますが、航空写真の砲座を見ると八八式七糎野戦高射砲の様で、下記の第一中隊の陣地と記述が逆になっているようです。

遺構は何も遺されていません。


⑥ 武庫川高射砲陣地
大阪陸軍燃料本部 尼崎出張所の北側(現、丸島町)に獨立高射砲第十一大隊第一中隊(中隊長不明)陣地がありました。
現在の日本ヒューム尼崎工場、神戸日野自動車の敷地が陣地だった様です。
上記第四中隊とともに阪神工業地帯に向かう敵機を迎撃すべく展開していました。

『高射戦史』によると「武庫川・7高×6」となっていますが、航空写真の砲座は三式十二糎高射砲の様です。
当陣地は7高から12高への換装に際し7高の砲座を残し、その外周に12高の砲座を新たに設定していた様です。

その様な特徴的な陣地ですが、残念ながら遺構は何も遺されていません

鳴尾海軍航空基地には海軍の防空砲台(阪神「甲子園駅」北東に十二糎高角砲4門、阪神「洲先駅」(現、武庫川団地前駅)付近に二十五粍単装機銃3門)があった様ですが、詳細は不明です。
また、甲子園球場のアルプススタンドにも高射砲(機銃?機関砲か?)があった様ですが、詳細不明です。


⑰ 電波標定機
上掲、国土地理院所蔵の米軍空撮(USA-M84-1-59 昭和23年8月30日撮影)を見ると、電波標定機の物と思われる円形の痕跡が見えます。
資料が無く、部隊等詳細は不明です。

現在は工場地帯になっており、遺構は何も遺されていません


⑱ 照空灯陣地
上掲、国土地理院所蔵の米軍空撮(USA-M84-1-59 昭和23年8月30日撮影)を見ると、大阪陸軍燃料本部 尼崎出張所の北側(現、丸島町)に照空灯の物と思われる陣地が見えます。
資料が無く、部隊等詳細は不明です。

現在はゴルフ練習像の駐車場になっており、遺構は何も遺されていません


川西航空機㈱鳴尾工場・鳴尾製作所
大正6(1917)年12月21日、元海軍機關大尉・中島知久平が群馬県大田町(現、太田市)に飛行機研究所を設立、航空機の製作に着手します。
しかし、資金の欠乏から出資者の米穀肥料商・石川茂兵衛を通じ神戸財界の有力者・川西清兵衛と交渉、大正7(1918)年5月、東京市日本橋区(現、八重洲口)の日本毛織東京支店内に合資会社日本飛行機製作所(代表取締役:川西清兵衛、取締役所長:中島知久平、資本金75万円)を設立します。
川西航空機㈱ 川西清兵衛(兵庫)
▲川西清兵衛

大正8(1919)年2月、中島式四型機の試験飛行に成功、4月、陸軍から同五型20機を受注、発動機の製造も開始します。
11月30日、中島所長が独断で米国製発動機100台の購入を決定した事から、川西取締役との間に意見の相違
が生じ、川西代表取締役以下、石川茂兵衛、川西清司(清兵衛長男)、川西龍三(同次男)各取締役、坂東舜一事務長、後藤勇吉飛行士、關口英二、戸川不二男、宮崎達男、佐藤徳太郎各技師など清兵衛に連なる人脈は総退陣、大正9(1920)年1月、日本飛行機製作所は閉鎖されます。

2月、清兵衛は神戸市に川西機械製作所を設立(川西龍三社長)、日本毛織向けの紡績機械製造を開始しますが、關口技師らの再度の航空機製作の嘆願を受け、同所内で川西式飛行機の設計を許可、12月30日、川西一型機が完成、大正10(1921)年5月、第二回民間飛行大會において航続距離部門1等、速度部門2等を獲得します。
清兵衛は再度の航空機事業への進出を決定し、日本飛行機製作所を共に去った15名を正式採用し、川西機械製作所飛行機部(坂東舜一部長)を設立します。

7月、川西機械製作所は、わが国初の厚翼低翼単葉機の川西二型(海軍技術研究所で風洞実験を実施した事から海軍との繋がりが生じる)、大正11(1922)年3月、同三型、同五型(水上機、四型は欠)を製造、大正11(1922)年8月、清兵衛は大阪木津川河口の埋立地に試験飛行のため木津川飛行場と格納庫を建設、大正12(1923)年6月、日本航空㈱(川西龍三社長、資本金200万円)を設立、航空輸送事業に参入します(昭和6年6月、日本航空輸送㈱に販路を譲渡し解散)。

大正12(1923)年11月、六型(複葉三座水上機)が完成、山階宮武彦王殿下より「春風號」の名を賜わり、大正13(1924)年7月23日、木津川飛行場を出発、31日、本土一周に成功します。
11月、川西七A型(水上機)が完成、初の量産(10機)を実施、大正14(1925)年8月、「水陸輸送用飛行機の設計」(逓信省航空局)に同B型(水陸脚交換機)を応募、大正15(1926)年1月、同八型(水上機)が完成、9月、財団法人海防議會に2機納入(昭和2年に本土一周に成功)、8月、日本航空より十型(複葉5名乗り旅客機)2機を受注します。

大正15(1926)年4月、海軍省が三菱内燃機製造㈱、中島飛行機製作所㈱、愛知時計電機㈱に発注した艦上戦闘機の試作競合に自費で参加(川西機械は民間機製作のため指名が無かった)、昭和2(1927)年7月、川西一一型が完成、正式発注機体では無いため選考対象外でありながら、性能試験の結果は採用された三式艦上戦闘機(中島)を凌駕する数値を記録します。

昭和2(1927)年5月20日、米国のチャールズ・リンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功、この快挙に触発された帝國飛行協會から太平洋横断の可能な機体製作を依頼され、昭和3(1928)年8月25日、川西十二型を作成しますが、完成直前の2月29日、海軍の協力を得て太平洋横断の長距離飛行訓練を行っていた後藤勇吉飛行士が墜死してしまい、また横断機の逓信省航空局からの堪航証明が下りず、10月、遂に太平洋横断計画は中止されます。

横断計画推進中、昭和3年3月、川西機械製作所は海軍省より初めて一三式水上練習機2機、プロペラ8個を受注した事から、航空機製造に専念すべく昭和3(1928)年11月5日、川西機械製作所から飛行機部を分離独立させ川西航空機㈱(川西龍三社長、川西清兵衛相談役、資本金500万円)を設立、兵庫縣鳴尾村字大東(現、兵庫県西宮市高須)に2,400,000㎡の本社工場建設用地を買収、兵庫縣及び鳴尾村から武庫川の土砂採取、土砂運搬用の軽便軌道敷設、水上飛行機の滑走台設置、護岸工事施工のための公有水面使用等の許可が受理され工場建設を開始、12月、川西航空機㈱は海軍指定工場に指定され、一三式水上練習機の量産(以降、暫くは海軍設計の航空機の製作を実施)を開始します。
川西航空機㈱ 社章(兵庫)
▲川西航空機㈱の社章
 設立当初の社章は中央の飛行機がありません。

川西航空機㈱ 一三式水上練習機(兵庫)
▲川西航空機㈱が海軍省より初めて受注した一三式水上練習機

昭和5(1930)年1月、三式陸上練習機の製造(9月完成、引き続き量産)を開始、12月、鳴尾工場が竣工し、神戸市和田山通の川西機械製作所内から本社を移転、昭和6(1931)年1月、九〇式ニ號飛行艇の製造(昭和7年3月完成、量産)、九〇式三號水偵(10月完成、量産)を製造、5月、水上機の試験飛行を実施するため、鳴尾工場の海岸に川西航空機㈱鳴尾水上飛行場を建設します。
川西航空機㈱鳴尾工場 昭和5年10月(兵庫)
▲昭和5年10月、竣工間際の鳴尾工場(海上から)

昭和7(1932)年3月、三式ニ號練習機(10月完成、量産)を製造、同月、陸海軍が軍用機の国内開発と生産力増強政策を推進した事から七試水上偵察機の試作を受注、昭和8(1933)年5月、海軍に納入、愛知時計電機㈱と競合の結果、昭和9(1934)年5月、川西航空機㈱製が九四式水上偵察機として制式採用されます。
川西航空機㈱ 九四式水上偵察機(兵庫)
▲川西航空機㈱から初めて制式採用された九四式水上偵察機

昭和7年5月、九〇式ニ號水偵(12月完成、量産)、8月、九一式飛行艇(昭和8年7月完成、量産)、11月、九三式中間練習機、九一式水偵(ともに昭和8年12月完成、量産)を製造します。
川西航空機㈱鳴鳴尾工場 昭和7年(兵庫)
▲昭和7年の鳴尾工場

昭和8(1933)年3月、川西八試大型飛行艇(昭和9年1月、試作中止)、川西八試水偵(昭和9年1月試作完成、不採用)の試作を受注します。

昭和9(1934)年1月18日、川西九試大艇(昭和11年7月14日完成、「九七式飛行艇」として制式採用、量産)、川西九試夜間水偵(10月試作完成、不採用)の試作を受注、8月、発動機工場が完成します(昭和15年11月、海軍の指示により発動機製造は中止)。
川西航空機㈱ 九七式飛行艇(兵庫)
▲純国産初の4発飛行艇、九七式飛行艇

昭和11(1936)年10月、川西十一試夜間水偵(昭和12年6月試作完成、製造中止)の試作を受注、昭和12(1937)年1月、九九式飛行艇(昭和15年7月完成)、2月、川西十一試水上中間練習機(昭和13年4月試作完成、製造中止)、3月、川西十二試三座水偵(昭和13年9月試作完成、製造中止)、川西十二試初歩水上練習機(昭和13年7月試作完成、「零式水上初歩練習機」として制式採用、量産)、12月、九五式水偵(昭和14年3月完成、量産)、昭和13(1938)年5月、九七式輸送飛行艇(昭和14年7月完成、量産)を製造します。

昭和13(1938)年8月、機体関係第一次生産力拡張実施を示達されます。
21日、川西十三試大型飛行艇(昭和15年12月29日試作完成、「二式飛行艇」として制式採用、量産)の試作を受注します。
詫間海軍水上機基地 二式飛行艇(香川詫間)
▲名機として名高い二式飛行艇

9月、『工場事業場管理令』 ( 昭和十三年五月四日勅令第三百十八號 ) に基づき川西航空機㈱は海軍管理工場に指定され、海軍航空本部からの増産示達に際し、工場用地拡張、生産設備増強、工作機械増設、人員増員、資金融資など援助、斡旋を受ける事ができるようになり、12月、『航空機製造事業法』((昭和十三年三月三十日法律第四十一號)に基づき航空機製造事業を許可され、補助金の公布が受けられ様になります。

昭和14(1939)年6月、鳴尾工場の北側に隣接する鳴尾ゴルフ倶楽部等35,000坪を買収、敷地を拡張します。
川西航空機㈱鳴尾工場(兵庫)
▲西上空から見た鳴尾工場
 写真左側の黒い部分がゴルフ場

同月、兵庫縣武庫郡本庄村(現、神戸市東灘区)の海岸に「甲南製作所」の設置を決定、工場用地189,000㎡を買収(昭和16年1月7日、海面の埋め立て開始、5月24日、建設開始、昭和17年4月1日、稼働)

7月、補機(発動機用燃料ポンプ)、航空機用動力銃架の製造を開始、川西十四試高速水偵(昭和16年9月完成、「紫雲」として制式採用、量産)の試作を受注します。
川西航空機㈱ 紫雲(兵庫)
▲紫雲

12月、工作機械の入手難から大阪府布施市(現、東大阪市)の川沿鐵工所を買収、工機工場を設立、一般工作機械に加え航空機用工作機械の製造を開始します。

昭和15(1940)年3月、原価計算制度、経理等の監査に関し統一的に規定し、軍需工場の合理的経営を促進すべく制定された『軍需品工場事業場検査令』(昭和十四年十月十六日勅令第七百七號)に基づき、海軍監査工場に指定されます。
9月、川西十五試水上戦闘機(昭和17年5月完成、「強風」として制式採用、量産)の試作を受注します。
川西航空機㈱ 強風(兵庫)
▲強風

1月、補機関係第一次、11月、機体関係第二次生産力拡充実施を示達、噴射ポンプ及び各種動力銃架が正式兵器に採用、12月、銃架関係第一次生産力拡充実施を示達されたため、同月、兵庫縣武庫郡良元村(現、宝塚市)に「寳塚製作所」(工作機械の製造)の設置を決定、昭和16(1941)年1月、工場用地695,000㎡を買収(昭和16年5月、建設開始、12月、稼働)します。
4月、建設中の甲南、寳塚両製作所の施設を官設民営工場とする事を決定します。

8月、度重なる生産設備の拡張に伴う工員不足から『國民徴用令』(昭和十四年七月八日勅令第四百五十一號)に基き第一次現員徴用を実施(現従業員を徴用)、次いで第一次新規徴用(社外からの応徴士が入社)が実施されます。
爾後、新規製作所開設に伴い新規応徴士の受入、及び社宅、厚生施設など受入体制を拡張していきます。
同月、『銀行等資金運用令』(昭和十五年十月十九日勅令第六百八十一號)に基づき第一回融資命令が発令されます(10月、資本金3,000万円に増資)。

9月、補機関係第二次生産力拡充実施を示達され、12月、原毛不足で遊休化していた日本毛織姫路工場を転用し「姫路製作所」を開設(昭和17年7月、稼働)、昭和17(1942)年1月、銃架関係第二次、2月、補機関係第二次(追加)、8月、機体関係第三次、12月、銃架関係第三次、補機関係第三次生産力拡充実施を示達されます。

各製造所には鳴尾工場から甲南に二式飛行艇の生産部門、寳塚に補機、銃架関連の生産部門、姫路に紫電、(のち紫電改)の生産部門が移行され、それぞれ完成を待たずして順次生産を開始します。

4月15日、仮称一號局地戦闘機(昭和17年12月27日完成、「紫電」として制式採用、量産)の試作を受注、5月、『重要事業場労務管理令』(昭和十七年二月二十五日勅令第百六號)に基づき重要工場に指定、5月13日、『企業整備令』(勅令第五百三號)が公布され、民需から軍需に生産転換する工場の指導に当たります。
停戦時、川西航空機㈱の協力工場は発動機、プロペラ、脚等の航空機部品工場、素材、機能部品、構造部品等の専門工場、民需から転換した各工場が大阪、兵庫、京都、徳島、香川、福井、石川などの府県に340社指定され、板金部品の40%、機械加工部品の50%を供給していました。
川西航空機㈱ 紫電(兵庫)
▲水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化した「紫電」
 元々水上機だったため中翼構造であり陸上機化した際に脚が長くなり離着陸時に脚の損傷が多発します。

5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』(昭和十七年法律第八號・勅令第五百三十一號)が公布、甲南、寳塚両製作所に適用(海軍が川西航空機㈱から用地を買上げる。後に鳴尾海軍航空基地の施設も対象に)され、両製作所は官設民営となります。

10月、第二回融資命令が発令、同月、二式飛行艇の輸送飛行艇への改造(昭和18年11月完成、「晴空」として制式採用、量産)を受注します。

昭和18(1943)年3月15日、仮称一號局地戦闘機改の試作に着手(12月31日完成、「紫電改」として制式採用、量産)、5月、中島製の陸上爆撃機「銀河」の双発夜間戦闘機への改造(昭和19年5月、試製「極光」として完成、制式採用され量産)、8月、川西十八試甲戦闘機試製「陣風」(昭和19年10月、試作中止)の試作を受注します。
紫電二一型(紫電改)
▲海軍最強戦闘機の呼び声も高い名機「紫電改」

5月3日、女子労働力の活用、勤労報国隊の整備拡張のため『昭和十八年度國民動員實施計畫』が閣議決定したのを受け、兵庫縣青少年團では男女中等学校卒業者による勤勞報國隊を結成、9月10日、川西航空機㈱は県下各高等女学校出身の女子勤勞報國隊の受入を開始します(12月28日まで)。

9月13日、次官会議において「女子勤勞動員ノ.促進ニ關スル件」が決定、全国で新規学校卒業者、14歳以上の未婚者、不要不急学校の女子生徒により女子勤労挺身隊が結成され、12月28日、川西航空機㈱で兵庫縣女子勤勞挺身隊の入所式が挙行され、生産に加わります。

10月、陸上機の生産が開始された事に伴い試験飛行のため、鳴尾川を挟んだ西側一帯に設営された鳴尾海軍航空基地の運用を開始します(今までは伊丹飛行場を利用)。
12月、第三回融資命令が発令されます。

昭和18(1943)年末になると戦局は次第に悪化、海軍は変転する戦局に対応するため作戦用兵上、各航空機製造会社に対し逐次生産命令の変更を要求します。
川西航空機㈱は昭和15(1940)年、海軍の生産命令に従い鳴尾工場、甲南製作所で飛行艇の生産設備を充足させますが、昭和18(1943)年以降、飛行艇の生産数は大幅削減され、水上戦闘機の増産に転換、さらに水上偵察機が削減の後、製造中止、昭和19(1944)年、陸上戦闘機の増産とともに水上戦闘機の製造中止、飛行艇の生産削減、双発夜間戦闘機の製造が示達され、作業計画の見直しと作業手順の変更を実施しますが、経験の浅さからくる生産管理の未熟さ、熟練工員の不足から、生産は遅延がちになります。

昭和19(1944)年1月10日、木製大型飛行艇「蒼空」の試作に着手(停戦により未完)、同月、『軍需會社法施行令』 ( 昭和十八年十二月十六日勅令第九百二十八號 ) に基づき川西航空機㈱は軍需会社に指定、2月、川西龍三社長は生産責任者、各製作所長は生産担当者に任命されます。
同月、『企業整備令』に基き遊休化した各種工場の利用を命ぜられ、8月、社内の全教育機関を休止、生産に転換しさらなる増産に当たります。

昭和19年1月8日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』が、3月7日、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』が閣議決定され、中等学校3年生以上の軍需工場などへの通年動員が開始されます。
4月上旬、兵庫県下で学徒動員が開始され、5月、川西航空機㈱に學校報國隊が入所、生産に加わります。

7月、本社機能のある鳴尾工場から生産部門を分離、「鳴尾製作所」が開設されます。

7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、9月、軍需省より学校、企業整備で休止中の工場等の遊休設備を利用し、生産設備、倉庫等の分散疎開が示達され、11月、川西航空機㈱疎開本部が設置され疎開予定先と交渉、学校約80ヶ所、工場・倉庫約100ヶ所に疎開を開始します。
また、既存各製作所においても可燃建物の解体、防空壕、防火用水、掩体、防空監視哨などを急造、臨時災害復旧本部を組織し空襲に備えます。
12月、姫路製作所鶉野(うずらの)工場が兵庫縣加西郡(現、加西市)の姫路海軍航空基地に隣接して開設、創業を開始します。
同月、『國民徴用令』に基づき女子勤務員が入所します。

昭和20(1945)年1月、京都府福知山市に鳴尾製作所の防護工場(横穴式、覆土式の生産工場と福知山海軍航空基地の格納庫内の組立工場からなる「福知山工場」)の建設を開始、甲南製作所盾津工場(大阪陸軍飛行場に設置)を開設、2月、寳塚製作所の補機部が篠山、同兵器部が三田、小林(おばやし)、生瀬、甲子園各分工場を開設し生産設備、人員を分散疎開させます。
川西航空機㈱福知山 覆土式工場(兵庫)
▲福知山工場の覆土式工場

川西航空機㈱福知山 覆土式工場内部(兵庫)
▲福知山工場の覆土式工場内部

3月、川西航空機㈱は防諜上の見地から「神武秋津社」と改称します。
4月、鳴尾製作所福知山工場、同小松島工場、6月、同徳島工場を開設、さらに機体工場の分散疎開のため六甲山麓の鹿塩、甲陽園、山芦屋、加西市北条に横穴式、覆土式工場を建設し疎開を促進、各製作所を中心に各疎開工場、各協力工場を鳴尾、甲南、姫路、福知山、四国、北陸、補機、兵器の8区画に再編成、空襲の激化、敵の本土上陸に際しても生産が分断される事無く生産体制を維持できる体制を整備、「最後まで一機でも」を合言葉に増産を続けます。

3月19日、米機動部隊艦載機の空襲を受け、鳴尾海軍航空基地が損傷してしまいます。
5月11日1000、甲南製作所がB-29爆撃機82機の空襲を受け、爆死138名、行方不明9名、重傷125名、製作所は大損害を受けてしまいます。
甲南製作所では第一波の空襲後に工場外に避難していた従業員が、炎上する工場の消火に戻った直後に第二波が来襲、大きな犠牲が出てしまいました。
川西航空機㈱甲南製作所の最期(兵庫)
▲空襲で壊滅した甲南製作所

6月9日0740、鳴尾製作所にB-29爆撃機44機が来襲、爆死23名、行方不明6名、重傷231名、製作所は73%が破壊され操業停止、22日午前、姫路製作所がB-29爆撃機78機の空襲を受け、爆死69名、行方不明16名、重傷101名、製作所は大損害を受け操業停止(川西龍三社長が視察に訪れていましたが避難して無事でした)、7月24日1033、寳塚製作所がB-29爆撃機77機の空襲を受け、爆死83名、重傷39名、製作所は大損害を受けてしまいますが、各製造所は分散疎開した123ヶ所の疎開工場で生産を続行します。
川西航空機㈱寳塚製作所の最期(兵庫)
▲空襲で壊滅した寳塚製作所

6月25日、「今時大戦の帰趨を決する航空機の増産を一層促進するには、一切の利潤を廃止するのが最良」とする『敵ノ空襲下ニ於ケル航空機ノ生産維持培養ノ為特定航空機工場ニ對スル緊急措置要項』(昭和20年3月2日、閣議決定)に基づき軍需省は川西社長に対し川西航空機㈱の国営化を示達、川西社長は「国家の危急なる時期に国営に移管する事は混乱を来し却って生産を阻害、従業員の生産意欲を増進させるのは民間企業に任せるのが最良」と言う自論から難色を示しますが、閣議決定で決した事から社長の陳情は却下されます。

7月9日、近畿地方軍需管理局(三越百貨店内)において軍需大臣・豐田貞次郎海軍大将から川西社長に対し『工場事業場使用収用令』(昭和十四年十二月二十九日勅令第九百一號)に基づき供用令書(従業員の引き継ぎ)、使用令書(工場設備の移管)が公布され、川西航空機㈱は全事業を第二軍需工廠に譲渡します。
第二軍需工廠長官には㈱川西機械製造所(真空管など通信兵器、電装兵器製造)、川西倉庫㈱の社長を兼務していた川西社長に代わり川西航空機㈱の日常業務を統括していた予備役海軍中将・前原謙治副社長が就任します。

第二軍需工廠の発足に伴い各製造所はそれぞれ鳴尾→第一製造廠、布施→第十一支廠、福知山→第二製造廠、福知山海軍航空基地内→第二十一支廠、徳島→第三製造廠、小松島→第三十一支廠、姫路→第四製造廠、甲南→第五製造廠、甲南疎開→第五十一支廠、寳塚補機部→第六製造廠、寳塚兵器部→第七製造廠と改称されます。

川西航空機㈱は原会社と呼称され、川西社長以下数名が残留、本社事務所を川西航空木材工業(鳴尾村)に移転、枯渇していたアルミ材料の代替品とするべく強化木材、合板の製造を通じ航空機増産に寄与すべく操業を続けます。

7月、第二軍需工廠は特殊攻撃機「梅花」(設計途中に停戦)の設計を受注、8月、地対空無線誘導飛行体(仮称「奮龍」、8月12日、伊豆山に開設された設計室に向かうも、途中で停戦)の機体設計を受注、生産設備の空襲被害、従業員やその家族の罹災、資材の不足、技術の低下など悪条件が重なり、生産高が急激に低下するも「最後まで一機でも」と増産を続ける中、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の総従業員数は現員徴用35,702名(内女子6,649名)、新規徴用9,498名、本徴用2,825名(672名)、学徒8,341名(5,020名)、女子挺身隊(5,121名)、軍応援隊3,136名、合計64,623名(17,463名)でした。

17日、軍需大臣・豐田貞次郎海軍大将より前原謙治・第二軍需工廠長官に対し、航空機の製造停止、生産設備の川西航空機㈱への返還、疎開・疎開工場建設の中止、資材の民需転換、学校報国隊・女子挺身隊・応徴士の復帰、貸与書類・図書の焼却など残務処理が示達されます。
学校報国隊・女子挺身隊・応徴士に賃金、退職金、旅費、配給物資を支給し即日勤務解除、8月23日、第二軍需工廠は閉庁式及び川西航空機株式会社供用並びに解除式を挙行、原會社残務整理委員(高橋四郎常務取締役)を任命し閉鎖されました。

10月1日、企画室を発足、民需転換計画を立案、鳴尾工場(製作所の名称は廃止)では鉄道車両、自動車車体、三輪自動車、小型発動機等の製造を計画(他工場は割愛)しますが、昭和21(1946)年1月、鳴尾、姫路、甲南各工場が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から賠償工場に指定されてしまったため、指定を逃れた食堂、工員寮、倉庫を転用し家庭用品の製造を開始します。

12月、本社事務所を独身寮「昭和寮」に移転、昭和21(1946)年2月、組織を刷新し鳴尾工場は第一班に所属し、家庭用品、玩具の生産を担当、6月から9月にかけGHQより民需転換、賠償指定機械の使用が許可され生産を開始します。
9月、鳴尾製作所跡に明和自動車製作所が設立されます。

昭和22(1947)年2月、川西航空機㈱は明和興業㈱と改名、昭和24(1949)年11月、新明和興業㈱が設立、明和興業㈱は解散し清算会社となり、昭和27(1952)年4月、各工場の賠償指定が解除(鳴尾製作所敷地は米軍の物資集積所として一時接収)され、昭和35(1960)年4月1日、新明和興業㈱により明和興業㈱は吸収合併され、5月28日、社名を新明和工業㈱に改称、現在は飛行艇、ダンプカー、ゴミ収集車、立体駐車場、水中ポンプ等、多種多様な製品を製造しています。
US-2 救難飛行艇 (2)
▲US-2 救難飛行艇

鳴尾製作所の跡地は昭和27(1952)年4月、新明和興業㈱は旧鳴尾製作所機械工場に本社を移転、9月、鳴尾工場はオートバイの製造を開始します。
昭和37(1962)年2月、オートバイ部門(昭和38年3月、オートバイの生産中止)が宝塚工場に移転、昭和38(1963)年6月、鳴尾工場内の自動車整備部門が分離(昭和41年5月、関西車両サービス㈱として独立、昭和48年、神戸市に移転)、9月、ポンプ部門が宝塚工場に移転、昭和42(1967)年4月、本社を西宮市小曽根町に移転します。
周辺にあった他社事業所も次第に工業用地としての機能低下、工業立地を制限する法令の制定(所謂「工場三法」)も相まって逐次移転、昭和49(1974)年、西宮市は日本住宅公団による住宅都市構想に合意、昭和52(1977)年、武庫川団地の建設が開始され、現在に至ります。


鳴尾海軍航空基地 展開部隊
第三四五海軍航空隊(光部隊)
昭和19(1944)年1月15日、呉鎭守府所轄(原駐在地:松山海軍航空基地(愛媛))の常設航空隊として、鳴尾海軍航空基地で開隊(立見孝六郎中佐)、第一航空艦隊(角田覺治中将)に編入されます。
開隊時の飛行機定数は乙戦72機(補用18)、機種は紫電を予定していましたが、紫電の供給が遅れたため整備と錬成は進みませんでした。
2月1日、第一航空艦隊麾下の第六十二航空戦隊(杉本丑衛少将)に編入され、機動基地航空部隊(第一航空艦隊司令長官指揮)第六十二航空戦隊に部署され、9月末日を目標に戦力整備にあたります。
16日、第一航空艦隊は聯合艦隊(古賀峯一大将)に編入、隊は第五基地航空部隊(第一航空艦隊司令長官指揮)第六十二航空戦隊に部署されます。

5月5日、第六十二航空戦隊は聯合艦隊に編入、9月を終了目標に錬成を実施します。
この頃から徐々に紫電が配備され、紫電隊は明治海軍航空基地(愛知)に移駐、零戦隊は鳴尾において錬成を開始します。

6月15日、第六十二航空戦隊は解隊、第二航空艦隊(福留繁中将)に改編、隊は第二航空艦隊に編入され、第六基地航空部隊に部署、引き続き錬成にあたります。

29日、第二航空艦隊は7月上旬以降本州西部、南西諸島、台湾に展開配備を下令され、隊は8月上旬、九州南部に前進を下令されます。

7月10日、第三四五海軍航空隊は解隊されます。


第三三二海軍航空隊(虹部隊)
昭和19(1944)年8月1日、呉鎭守府所管の特設航空隊として呉海軍航空隊(成富武光大佐)岩國派遣隊(艦戦隊)を改編、岩國海軍航空基地において編成(柴田武雄中佐)、呉鎭守府部隊に編入されます。
隊は岩國海軍航空基地に配備され、作戦に関し防衛總司令官の指揮下に入り呉地区及び阪神地区の防空にあたります。
開隊時の飛行機定数は甲戦48、丙戦12でしたが、実数は零戦45機、月光2機、九〇式機上練習機1機、二式中間練習機1機でした。

10月25日、B-29爆撃機78機が第二十一海軍航空廠(大村)に来襲、隊の零戦16機は岩國を発進しますが、会敵できませんでした(第二十一海軍航空廠、大村市街の被害甚大)。
11月6日、隊の零戦20機(竹田進中尉)は聯合艦隊司令長官の作戦指揮下に入り、比島方面への進出が下令されます。
7日、比島派遣隊は岩国を発進、鹿屋、高雄経由し11月中旬、クラーク航空基地に前進、南西方面部隊(南西方面艦隊司令長官指揮)第一聯合基地航空部隊(第二航空艦隊司令長官指揮)二〇一空部隊(第二〇一海軍航空隊司令指揮)に部署されます(セブ航空基地に展開しますが、1週間の戦闘で被害甚大)。

同日、隊の零戦(斜銃装備)8機(君山守彦中尉)、月光6機(林正寒大尉)が厚木海軍航空基地に派遣(厚木派遣隊)、横須賀鎭守府部隊三〇二空部隊指揮官の指揮下に入り、関東地区防空(邀撃戦は行わず、上空哨戒を担当)にあたります。

11日、岩国地区にF‐13偵察機(B-29爆撃機の偵察機型)1機が飛来、隊の零戦12機、雷電8機、月光2機が岩國を発進、追撃しますが捕捉できませんでした。

12月15日、厚木派遣隊は原隊復帰を下令され、岩國に帰還します。
隊は戦闘機隊を鳴尾海軍航空基地に進出させ、防衛總司令官(東久邇宮稔彦王大将)指揮下に編入、阪神地区の防空、主要航空機生産工場(主に川西航空機㈱、川崎航空機㈱)の防空を下令され、18日、零戦9機、雷電11機(鳴尾派遣隊:山下政雄少佐)が鳴尾(進出途中、山本勝雄少尉が雷電の事故により散華)、月光(機数不明、中島孝平大尉)が伊丹飛行場に進出、第十一飛行師團(北島熊男少将、大正)の指揮下に入ります。
隊主力の関西進出に伴い呉地区の戦力が払底したため、呉鎭守府司令長官・澤本頼雄大将は内海西部で訓練中の六〇一空(鈴木正一中佐)、松山海軍航空基地で新編予定の三四三空(源田實大佐)に防空任務を依頼します。

22日、B-29爆撃機78機が名古屋北西地区に来襲、鳴尾派遣隊の雷電6機、零戦6機(合計24機の資料あり)は二一〇空(明治)の零戦16機、紫電11機、彗星5機、月光5機、飛行第十師團、同第十一師團隷下飛行戦隊とともに邀撃、1機を撃墜、全体で3機を撃墜します(三菱重工業㈱名古屋発動機製作所、小破)。

昭和20(1945)年1月3日、B‐29爆撃機97機が大阪を経て名古屋に来襲、隊の零戦6機、雷電2機は二一〇空の零戦12機、月光6機、彗星9機、飛行第十師團、同第十一師團隷下飛行戦隊とともに邀撃し、1機を撃墜します。

14日、B‐29爆撃機60機が大阪を経て名古屋に来襲、隊の零戦、雷電が邀撃し、1機を撃破します。

23日、B‐29爆撃機80機が川崎航空機㈱明石工場に来襲、隊の雷電7機は第十一飛行師團隷下飛行戦隊と邀撃、2機を撃破しますが、高見隆三中尉が散華してしまいます。

2月4日、B‐29爆撃機79機が神戸、松坂、大垣に来襲、隊は神戸に来襲した30機を第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃します。

5日、岩國の本隊が錬成隊を残置し鳴尾に進出します。

3月初旬、零戦隊は狭隘で錬成に不向きな鳴尾から伊丹に、次いで雷電4機と錬成搭乗員16名も伊丹に移駐し、錬成にあたります。

13日2357、B‐29爆撃機295機が大阪に来襲(第一次大阪大空襲)、伊丹派遣隊の月光5機は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃しますが、炎上する大阪市街地から噴き上がる火煙に阻まれ戦果は全体で2機撃墜、13機撃破でした(大阪市街21k㎡焼失。死者3,987名、行方不明者678名)。

16日、B‐29爆撃機331機が神戸に来襲(第二次神戸大空襲)、伊丹派遣隊の月光は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに計27機で邀撃、3機を撃墜します(神戸市街7.5k㎡焼失。死者2,598名)。

19日、米第38機動部隊の艦載機1,100機が阪神地区の航空基地、航空機工場、艦船攻撃に来襲、陸海軍とも不利な戦闘での兵力損耗を避けるため邀撃を回避します(鳴尾海軍航空基地、伊丹飛行場滑走路損傷)。

4月2日、伊丹で錬成にあたっていた零戦、雷電が鳴尾に帰還します。

22日、聯合艦隊司令部は各鎭守府麾下航空隊の雷電を第五航空艦隊(宇垣纏中将、鹿屋)の作戦指揮下に入れ、九州方面に来襲するB-29爆撃機の邀撃にあてる事を下令します。
25日、隊の雷電16機(9機?)は鹿屋海軍航空基地に前進、三〇二空(横須賀鎭守府)の雷電19機、三五二空の雷電8機(佐世保〃)とともに第五航空艦隊指揮下の第一基地機動航空部隊(第五航空艦隊司令長官指揮)に編入され、「龍巻部隊」を編成します。

27日 B‐29爆撃機123機が出水、宮崎、國分、都城、鹿屋、串良各海軍航空基地に来襲、隊の雷電隊は他隊と計21機で邀撃し、1機撃墜(全体計2機撃墜)しますが、1機損失してしまいます。

28日、B‐29爆撃機129機が同航空基地に来襲、隊の雷電隊は他隊と計27機で邀撃し、1機撃墜(全体計5機撃墜)しますが、2機損失してしまいます。

29日、B‐29爆撃機121機が同航空基地に来襲、隊の雷電隊は他隊と計27機で邀撃し、3機撃墜しますが、鹿屋において給油中を襲われ7機が炎上、2機が大破してしまい可動機は15機になってしまいます。

30日、B‐29爆撃機66機が鹿屋、鹿屋東、國分、大分、富高、佐伯各海軍航空基地に来襲、隊の雷電隊は他隊と計11機で邀撃しますが戦果、被害ともにありませんでした。

5月5日、明治の二一〇空夜戦隊が解隊され、三三二空夜戦隊に編入されます。
同日、徳山、岩国両市にB‐29爆撃機が来襲、岩国残置の錬成隊(零戦)が邀撃し1機を撃破します。

10日、B‐29爆撃機343機が第三海軍燃料廠、大浦油槽所、岩國陸軍燃料廠、興亞石油㈱麻里布製油所、徳山石炭集積場に来襲、岩國の零戦3機が邀撃し1機を撃墜します。

12日、鹿屋の龍巻部隊は戦力回復のため解散し原隊に復帰、隊の雷電隊は鳴尾に帰還します。
同日、三〇二空夜戦隊(菅原英雄中佐、厚木)の月光12機、彗星8機が伊丹に進出、阪神地区の防空にあたります。

14日、B-29爆撃機524機が三菱重工業㈱第十製作所(旧名古屋金属工業所)に来襲、伊丹の夜戦隊は第十、十一飛行師團隷下飛行戦隊と計109機で邀撃し11機を撃墜します。

18日、B‐29爆撃機82機が川西航空機㈱甲南製作所に来襲し、鳴尾、伊丹から零戦、雷電、彗星、月光計25機、第十一飛行師團隷下飛行戦隊が邀撃します。

21日、三〇二空夜戦隊の月光12機、彗星8機が厚木に帰還、伊丹の夜戦部隊は月光4機、彗星7機に減じます。

25日、隊は呉鎭守府所属から第三航空艦隊第七十二航空戰隊(山本親雄少将)に編入、天航空部隊(第五航空部隊司令長官指揮)第七基地航空部隊(第三航空艦隊司令長官指揮)に部署され、引き続き鳴尾において阪神地区の防空にあたります。

6月1日、B-29爆撃機509機、P-51戦闘機148機が大阪に来襲(第二次大阪大空襲)、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃し、10機を撃墜しますが、零戦3、雷電2機を損失してしまいます(大阪市西部8.2k㎡焼失、死者3,112名)。

5日、B-29爆撃機530機が神戸に来襲(第四次神戸大空襲)、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃し、11機撃墜の戦果を挙げますが、渡邉清實大尉が鳴尾上空で散華してしまいます(神戸市東部11.3k㎡焼失、死者3,184名)。

7日、B-29爆撃機449機、P-51戦闘機144機が大阪、尼崎に来襲(第三次大阪大空襲)、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃します(大阪市東部5.7k㎡焼失、死者2,759)。

9日、川西航空機㈱鳴尾工場・同製作所、川崎航空機㈱明石工場、愛知航空機㈱船方工場にB-29爆撃機144機が来襲、隊は零戦、雷電、月光、彗星計20機で邀撃し、鳴尾上空での1機を含め5機を撃墜します(各航空機工場大破)。

15日、B-29爆撃機516機、P-51戦闘機444機が大阪に来襲(第四次大阪大空襲)し、隊の零戦18、雷電9は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃しますが密雲に阻まれ会敵できず、鳴尾の雷電2、零戦5が地上撃破されてしまいます(大阪市北西部、尼崎4.9k㎡焼失。死者477名)。

19日、B-29爆撃機137機が東海地区に来襲し、隊の一部が邀撃しますが、江崎良則大尉が和歌山南方上空において散華してしまいます。

22日、B-29爆撃機360機が近畿、中国地区に来襲し、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃しますが、福岡将信予中尉が散華してしまいます。

26日、B-29爆撃機216機、P-51戦闘機144機が住友金属工業㈱、大阪陸軍造兵廠、川崎航空機㈱明石工場に来襲(第五次大阪大空襲)、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃します。

7月6日、7日、B-29爆撃機23機が明石に来襲、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃します(明石6.3割焼失。死者360名)。

10日、P-51戦闘機100機が阪神地区に来襲、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃しますが、嶋田孝中尉が明石上空で散華してしまいます。

8月3日、第七十二航空戰隊から第三航空艦隊第五十三航空戰隊(高次貫一少将)に編入され、引き続き鳴尾において阪神地区の防空にあたります。

5日、B-29爆撃機261機が西宮、芦屋、神戸各市に来襲、隊は第十一飛行師團隷下飛行戦隊とともに邀撃しますが、戦果を挙げることはできず、17機を地上撃破されてしまいます。

15日1200、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
17日、戦闘行動の中止が下令され、逐次復員を開始します。


近畿海軍航空隊
昭和20(1945)年7月15日、横須賀鎭守府所管の乙航空隊として奈良県山邊郡朝和村(現、天理市)の大和海軍航空基地において開隊(佐藤治三郎大佐)、原駐地は大和海軍航空基地に指定され、第三航空艦隊(寺岡謹平中将、木更津)に編入されます。
隊は第七基地航空部隊(第三航空艦隊司令長官指揮)に部署され、鳴尾を始め近畿地区の各海軍航空基地の管理を担当するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。


停戦時の航空機
 ( )内は破損機
・零戦 : 37 (4)
・彗星 : 8
・九三式陸上中間練習機 : 21 (1)
・九〇式機上作業練習機 : 1
・紫電 : 1
・月光 : 0(1)
・零式輸送機 : 1
・二式陸上中間練習機 : 1
・雷電 : 18 (2)
・天山 : 1
・白菊 : 3


主要参考文献
「飛行場水上機基地平面図(鳴尾・姫路・大和・徳島・小松島・串本各基地)」 (アジア歴史資料センター)

「昭和20年8月31日 鳴尾基地兵器目録」 ( 〃 )

『戦史叢書 19 本土防空作戦』 (昭和43年 防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社)

『高射戦史』 (昭和53年 下志津(高射学校)修親会)

『空の彼方 海軍基地航空部隊要覧(3)』 (平成21年5月 渡辺博史 楽學庵)

『写真で見る武庫川学院』 (平成21年11月 武庫川学院創立70周年式典部会)

『新明和工業株式会社 社史1』 (昭和54年10月 新明和工業株式会社社史編集委員会)

『鳴尾村史:1889-1951』 平成17年3月 西宮市鳴尾区有財産管理委員会)

『西宮市史 三巻』 (昭和42年  西宮市役所)

『本庄村史 歴史編』 (平成20年2月 本庄村史編纂委員会)

『阪神電気鉄道百年史』 (平成17年12月 阪神電気鉄道)

・Yahoo!の地図

・Googleの地図

-ウェブサイト-
武庫川女子大学 

・『Japanese Air Target Analyses』 米軍戦略爆撃調査団空襲目標計画

騎馬武者が行く!

航空戦史 雑想ノート【海軍編】
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はじめまして、こんばんは。
コメントありがとうございます。また、お褒め頂きまして光栄です。
当時の事は資料が少なく、間違っているかも知れませんが、間違いなど見付けられましたらご指摘頂けたら嬉しく思います。
川西航空機跡には嘗て防空壕等も残っていた様ですが、現在は何も遺っていないのが残念です。
同じく鳴尾海軍航空基地にもほぼ何も遺っていないですね。

話は変わりますが、「いせ」の一般公開行かれたのですね!私も行きました!

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盡忠報國

Author:盡忠報國
大阪在住の探索者。

明治開国以降、幾多の国難に立ち向かった先人達の足跡に触れ感じるため各地(西日本が多いです)を探索しています。
軍跡(軍事関連遺構)は当時を知る生きた教科書です。

精強帝國陸海軍が各地に築いた国防・軍事施設、及び祖国の弥栄を願い国難に殉じた英霊の志に触れるべく訪問した顕彰・慰霊施設を紹介しています。

戦後極端に盛られ歪められた歴史を公平に記述し、英霊の名誉回復、真の姿を知る一助になる事を目指し記述しています。


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