川西航空機㈱ 甲南製作所
飛行艇US-2の製造で知られる新明和工業㈱航空機事業部 甲南工場は川西航空機㈱ 甲南製作所の跡地にあります。
▲甲南工場に遺る飛行機総組立工場
【探索日時】
平成27(2015)年12月25日
<川西航空機㈱ 甲南製作所 概略>
支那事変の長期化に伴う、海軍航空本部よりの「機体関係第一次生産力拡張実施」示達に対応するため、昭和17(1942)年4月1日、開設され、主に二式飛行艇を製造します。
▲昭和20(1945)年1月18日の甲南製作所
<遺構について>
現在、甲南工場内に以下の建屋、水上機製造工場の特徴とも言える滑走台が遺ります。
▲遺構の配置
A 総組立工場
昭和20(1945)年8月6日の空襲に際し焼夷弾、通常爆弾により小破、昭和25(1950)年9月3日、ジェーン台風により大破してしまいますが、12月25日から再生され、現在も使用されています。
▲対岸から見た総組立工場
▲近影
▲現在使用されていませんが東側の扉は二式飛行艇の出し入れができる様に全て開く様になっています
▲北から
B 熱処理工場
C 滑走台
当時はこの北側にも2基、合計3基ありました。
この上を名機・二式飛行艇が滑走していたと思うと感慨深いです。
▲対岸から
▲近影
<川西航空機㈱ 甲南製作所 略史>
昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、事変が長期化するなか、昭和13(1938)年8月、川西航空機㈱は海軍航空本部より「機体関係第一次生産力拡張」を示達されます。
昭和14(1939)年6月、本社機能のある鳴尾工場を拡張するとともに、武庫郡本庄村(現、神戸市東灘区)の青木海岸に用地を選定、阪千秋・兵庫県知事に本庄村地先海面の埋め立てを提出します。
7月21日、本庄村会は「同出願ニ付対策ノ件」を審議、村会議員12名(深江7、青木3、西青木1名)に対応を一任折衝を開始します。
11月17日、川西航空機㈱は兵庫県知事に「公用水面埋立並ニ民有地地上及浚渫願」を提出、昭和15(1940)年1月17日、知事から本庄村会に「公用水面埋立ノ件」の答申書が出され、2月14日、村会は村有排水路の移設・新設、深江浦漁業組合との円満な漁業権締結など提示した全希望条件が記載されている事から満場一致で可決、川西航空機㈱は工場用地、福利厚生施設用地の買収を開始します。
▲二式飛行艇
昭和16(1941)年1月7日、川西航空機㈱は海岸埋立を着工(予算130万円、公用水面92,547㎡の埋立、砂浜・民有地45,039㎡を地上げ)し、5月24日、建物の建設を開始、昭和17(1942)年4月1日、一部の建物が竣工、鳴尾工場から二式飛行艇の生産部門が移管され甲南製作所(濱田榮参事)が開所します。
5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』(昭和十七年法律第八號・勅令第五百三十一號)が公布され、甲南製作所に適用(海軍が川西航空機㈱から用地を買上げ)され官設民営化が決定します。
昭和19(1944)年1月、『軍需會社法施行令』 ( 昭和十八年十二月十六日勅令第九百二十八號 ) に基づき川西航空機㈱は軍需会社に指定、2月、川西龍三社長は生産責任者、各製作所長は生産担当者に任命されます。
昭和19年1月8日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』が、3月7日、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』が閣議決定され、中等学校3年生以上の軍需工場などへの通年動員が開始、4月上旬、兵庫県下でも学徒動員が開始され、5月、甲南製作所に本庄國民學校高等科、神戸女子藥學專門學校、さらに県外の濱松工業專門學校徳島縣立撫養高等女學校、同富岡高等女學校で編成された學校報國隊が入所、生産に加わります。
7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、9月、軍需省より学校、企業整備で休止中の工場等の遊休設備を利用し、生産設備、倉庫等の分散疎開が示達され、11月、川西航空機㈱疎開本部が設置され疎開予定先と交渉、甲南製作所は総務課を神戸女子藥學專門學校、會計課を増谷高等女學校、業務課を田中公會堂に、工場を大阪陸軍飛行場内の盾津工場、苦楽園、山芦屋の半地下工場、梅田の阪急ビルに、工具や部品は近隣の学校、倉庫に疎開します。
昭和20(1945)年3月、川西航空機㈱は防諜上の見地から「神武秋津社」、甲南製作所は同第二製作所に改称します。
5月18日1000、第二製作所に大阪湾方向よりB-29爆撃機82機が二波に分かれ来襲、第一波来襲後、場外に非難していた従業員が後片付けに戻ったところに第二波が来襲、500£爆弾計461発が投下され146発が場内に着弾、56発が建物を直撃、75発が寄宿舎に着弾し爆死138名、行方不明9名、重傷125名、製作所は大損害を受けてしまいます。
続いて6月5日、B-29爆撃機350機が垂水区から西宮市に来襲、製作所は爆死15名、8名が負傷、寄宿舎3棟が焼失、8月6日、西宮市に来襲、500£爆弾5発が場内に着弾します。
▲空襲で甚大な被害を受けた川西航空機㈱ 甲南製作所
7月9日、川西航空機㈱は全事業を第二軍需工廠(予備役海軍中将・前原謙治副社長)に譲渡し国営化、第二製作所は第五製造廠(濱田参事)、疎開工場は同第五十一支廠(小阪明)に改称、甚大な被害を受けながらも「最後まで一機でも」を合言葉に生産を続行するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
17日、軍需大臣・豐田貞次郎海軍大将より前原謙治・第二軍需工廠長官に対し、航空機の製造停止、生産設備の川西航空機㈱への返還、疎開・疎開工場建設の中止、資材の民需転換、学校報国隊・女子挺身隊・応徴士の復帰、貸与書類・図書の焼却など残務処理が示達されます。
学校報国隊・女子挺身隊・応徴士に賃金、退職金、旅費、配給物資を支給し即日勤務解除、8月23日、第二軍需工廠は閉庁式及び川西航空機株式会社供用並びに解除式を挙行、原會社殘務整理委員(高橋四郎常務取締役)を任命し閉鎖されました。
10月17~11月25日、甲南製作所は米軍戦略爆撃調査団の調査を受けた後、昭和21(1946)年1月、賠償工場に指定され、大蔵省財務局の管理下に入り(昭和17年5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』が適用され、海軍省が川西航空機㈱から敷地を購入し国有地化されたため)ます。
12月21日、日本機械輸入協会より米軍払下げ車両修理の委託を受け、昭和22(1947)年1月、大蔵省より甲南製作所の総組立工場を借用し操業を開始します。
昭和24(1949)年3月、『戦時補償特別措置法』の適用を受け、甲南製作所は明和興業㈱(川西航空機㈱から改称)に払い下げられ(昭和27年4月、賠償指定解除)、同社甲南工場として再生、不要遊休地の北側一角、福利厚生施設を売却します。
9月、ダンプカーの製造を開始しますが、昭和25(1950)年9月3日、ジェーン台風により防潮堤が決壊、工場は浸水し操業不能になったため、神戸市東灘区に移転(神戸工場)します。
12月、明和興業㈱は朝鮮戦争に伴う米極東空軍調達部より航空機用燃料槽、アルミ製フィンを受注、昭和25(1950)年12月25日、甲南工場を再生し製造に当たります。
昭和32(1957)年1月、甲南工場は伊丹工場とともに新設された航空機製作所に包括され、昭和38(1963)年3月、防衛庁に試験飛行艇UF-XS、次いで昭和43(1968)年8月、PX-S飛行艇を納入(昭和45年10月、PS-1として制式採用)するなど、現在も飛行艇生産を行っています。
<主要参考文献>
『新明和工業株式会社 社史1』 (昭和54年10月 新明和工業株式会社社史編集委員会)
『本庄村史 歴史編』 (平成20年2月 本庄村史編纂委員会)
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▲甲南工場に遺る飛行機総組立工場
【探索日時】
平成27(2015)年12月25日
<川西航空機㈱ 甲南製作所 概略>
支那事変の長期化に伴う、海軍航空本部よりの「機体関係第一次生産力拡張実施」示達に対応するため、昭和17(1942)年4月1日、開設され、主に二式飛行艇を製造します。
▲昭和20(1945)年1月18日の甲南製作所
<遺構について>
現在、甲南工場内に以下の建屋、水上機製造工場の特徴とも言える滑走台が遺ります。
▲遺構の配置
A 総組立工場
昭和20(1945)年8月6日の空襲に際し焼夷弾、通常爆弾により小破、昭和25(1950)年9月3日、ジェーン台風により大破してしまいますが、12月25日から再生され、現在も使用されています。
▲対岸から見た総組立工場
▲近影
▲現在使用されていませんが東側の扉は二式飛行艇の出し入れができる様に全て開く様になっています
▲北から
B 熱処理工場
C 滑走台
当時はこの北側にも2基、合計3基ありました。
この上を名機・二式飛行艇が滑走していたと思うと感慨深いです。
▲対岸から
▲近影
<川西航空機㈱ 甲南製作所 略史>
昭和12(1937)年7月7日、北支事変(9月2日、支那事変と改称)が発生、事変が長期化するなか、昭和13(1938)年8月、川西航空機㈱は海軍航空本部より「機体関係第一次生産力拡張」を示達されます。
昭和14(1939)年6月、本社機能のある鳴尾工場を拡張するとともに、武庫郡本庄村(現、神戸市東灘区)の青木海岸に用地を選定、阪千秋・兵庫県知事に本庄村地先海面の埋め立てを提出します。
7月21日、本庄村会は「同出願ニ付対策ノ件」を審議、村会議員12名(深江7、青木3、西青木1名)に対応を一任折衝を開始します。
11月17日、川西航空機㈱は兵庫県知事に「公用水面埋立並ニ民有地地上及浚渫願」を提出、昭和15(1940)年1月17日、知事から本庄村会に「公用水面埋立ノ件」の答申書が出され、2月14日、村会は村有排水路の移設・新設、深江浦漁業組合との円満な漁業権締結など提示した全希望条件が記載されている事から満場一致で可決、川西航空機㈱は工場用地、福利厚生施設用地の買収を開始します。
▲二式飛行艇
昭和16(1941)年1月7日、川西航空機㈱は海岸埋立を着工(予算130万円、公用水面92,547㎡の埋立、砂浜・民有地45,039㎡を地上げ)し、5月24日、建物の建設を開始、昭和17(1942)年4月1日、一部の建物が竣工、鳴尾工場から二式飛行艇の生産部門が移管され甲南製作所(濱田榮参事)が開所します。
5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』(昭和十七年法律第八號・勅令第五百三十一號)が公布され、甲南製作所に適用(海軍が川西航空機㈱から用地を買上げ)され官設民営化が決定します。
昭和19(1944)年1月、『軍需會社法施行令』 ( 昭和十八年十二月十六日勅令第九百二十八號 ) に基づき川西航空機㈱は軍需会社に指定、2月、川西龍三社長は生産責任者、各製作所長は生産担当者に任命されます。
昭和19年1月8日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』が、3月7日、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』が閣議決定され、中等学校3年生以上の軍需工場などへの通年動員が開始、4月上旬、兵庫県下でも学徒動員が開始され、5月、甲南製作所に本庄國民學校高等科、神戸女子藥學專門學校、さらに県外の濱松工業專門學校徳島縣立撫養高等女學校、同富岡高等女學校で編成された學校報國隊が入所、生産に加わります。
7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、9月、軍需省より学校、企業整備で休止中の工場等の遊休設備を利用し、生産設備、倉庫等の分散疎開が示達され、11月、川西航空機㈱疎開本部が設置され疎開予定先と交渉、甲南製作所は総務課を神戸女子藥學專門學校、會計課を増谷高等女學校、業務課を田中公會堂に、工場を大阪陸軍飛行場内の盾津工場、苦楽園、山芦屋の半地下工場、梅田の阪急ビルに、工具や部品は近隣の学校、倉庫に疎開します。
昭和20(1945)年3月、川西航空機㈱は防諜上の見地から「神武秋津社」、甲南製作所は同第二製作所に改称します。
5月18日1000、第二製作所に大阪湾方向よりB-29爆撃機82機が二波に分かれ来襲、第一波来襲後、場外に非難していた従業員が後片付けに戻ったところに第二波が来襲、500£爆弾計461発が投下され146発が場内に着弾、56発が建物を直撃、75発が寄宿舎に着弾し爆死138名、行方不明9名、重傷125名、製作所は大損害を受けてしまいます。
続いて6月5日、B-29爆撃機350機が垂水区から西宮市に来襲、製作所は爆死15名、8名が負傷、寄宿舎3棟が焼失、8月6日、西宮市に来襲、500£爆弾5発が場内に着弾します。
▲空襲で甚大な被害を受けた川西航空機㈱ 甲南製作所
7月9日、川西航空機㈱は全事業を第二軍需工廠(予備役海軍中将・前原謙治副社長)に譲渡し国営化、第二製作所は第五製造廠(濱田参事)、疎開工場は同第五十一支廠(小阪明)に改称、甚大な被害を受けながらも「最後まで一機でも」を合言葉に生産を続行するなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
17日、軍需大臣・豐田貞次郎海軍大将より前原謙治・第二軍需工廠長官に対し、航空機の製造停止、生産設備の川西航空機㈱への返還、疎開・疎開工場建設の中止、資材の民需転換、学校報国隊・女子挺身隊・応徴士の復帰、貸与書類・図書の焼却など残務処理が示達されます。
学校報国隊・女子挺身隊・応徴士に賃金、退職金、旅費、配給物資を支給し即日勤務解除、8月23日、第二軍需工廠は閉庁式及び川西航空機株式会社供用並びに解除式を挙行、原會社殘務整理委員(高橋四郎常務取締役)を任命し閉鎖されました。
10月17~11月25日、甲南製作所は米軍戦略爆撃調査団の調査を受けた後、昭和21(1946)年1月、賠償工場に指定され、大蔵省財務局の管理下に入り(昭和17年5月22日、『兵器等製造事業特別助成法』が適用され、海軍省が川西航空機㈱から敷地を購入し国有地化されたため)ます。
12月21日、日本機械輸入協会より米軍払下げ車両修理の委託を受け、昭和22(1947)年1月、大蔵省より甲南製作所の総組立工場を借用し操業を開始します。
昭和24(1949)年3月、『戦時補償特別措置法』の適用を受け、甲南製作所は明和興業㈱(川西航空機㈱から改称)に払い下げられ(昭和27年4月、賠償指定解除)、同社甲南工場として再生、不要遊休地の北側一角、福利厚生施設を売却します。
9月、ダンプカーの製造を開始しますが、昭和25(1950)年9月3日、ジェーン台風により防潮堤が決壊、工場は浸水し操業不能になったため、神戸市東灘区に移転(神戸工場)します。
12月、明和興業㈱は朝鮮戦争に伴う米極東空軍調達部より航空機用燃料槽、アルミ製フィンを受注、昭和25(1950)年12月25日、甲南工場を再生し製造に当たります。
昭和32(1957)年1月、甲南工場は伊丹工場とともに新設された航空機製作所に包括され、昭和38(1963)年3月、防衛庁に試験飛行艇UF-XS、次いで昭和43(1968)年8月、PX-S飛行艇を納入(昭和45年10月、PS-1として制式採用)するなど、現在も飛行艇生産を行っています。
<主要参考文献>
『新明和工業株式会社 社史1』 (昭和54年10月 新明和工業株式会社社史編集委員会)
『本庄村史 歴史編』 (平成20年2月 本庄村史編纂委員会)
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