川崎航空機工業株式會社 岐阜工場
岐阜県各務原市に所在する川崎重工業株式会社 岐阜工場の前身は、川崎航空機工業株式會社 岐阜工場でした。
当工場はB29邀撃に活躍した二式複戦(屠龍)、三式戦(飛燕)、五式戦を生産した事で知られています。
▲今は無き川崎航空機工業㈱岐阜工場 本館
【探索日時】
平成22年7月23日、平成28年4月10日
<各務原陸軍飛行場周辺の施設配置>
▲昭和20(1945)年4月5日、空撮(国土地理院 97F16-C1-13)
▲現在の地図に転写 配置は昭和20(1945)年の停戦時
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
② 〃 (東飛行場)
③ 第十教育飛行隊(北側)・第四航空教育團岐阜第二航空教育隊(南側)
④ 第四航空教育團司令部・同岐阜第一航空教育隊・第四十教育飛行隊
⑤ 各務原陸軍航空廠
⑥ 各務原陸軍病院
⑦ 各務原憲兵分隊
⑧ 各務原陸軍航空廠 技能者養成所
⑨ 川崎航空機工業㈱ 岐阜工場
⑩ 三菱重工業㈱ 名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱ 岐阜工場 柿澤寮
⑫ 〃 雄飛寮
※緑文字が当記事の紹介遺構
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
⑨ 川崎航空機工業㈱岐阜工場
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫ 〃 雄飛寮
大正10(1920)年10月1日、航空機製造を開始した株式會社川崎造船所は、岐阜県稲葉郡蘇原村の誘致、一部敷地の無償提供を受け、不足分を買収し三柿野に飛行機組立工場用地(200,200㎡)を確保、新工場、工員宿舎建設を着工します。
大正12(1922)年4月10日、各務原分工場が竣工し、開所式が挙行され、昭和2(1927)年2月2日、各務原分工場は飛行場隣接地32,530㎡を買収し拡張します。
昭和12(1937)年4月1日、各務原分工場は各務原工場に昇格、11月18日、㈱川崎造船所は川崎航空機工業株式會社を設立、各務原分工場は川崎航空機工業㈱各務原工場に、昭和14(1939)年2月1日、岐阜工場に改称されます。
昭和15(1940)年11月、航空機需要の増大に伴い、飛行場東端の二十軒に第一整備工場を開設、昭和17(1942)年7月、隣接する各務原陸軍航空廠より8,100㎡の敷地を借用し組立工場を建設、昭和18(1943)年1月、分工場(各地の遊休工場借用)を開設します。
昭和20(1945)年4月、戦局は急迫し米軍の本土空襲がせまるなか分工場、地下工場を建設、工場疎開を開始しますが、6月22日、26日、B29による空襲により工場は大損害を受け操業を停止、新たな疎開工場を模索するなか、停戦を迎えます。
10月8日、各務原に進駐した米軍により、11月8日、岐阜工場は接収、12月1日、岐阜工場は民需転換が許可され、分散工場で操業を開始、4日、岐阜工場の立入が許可されます。
昭和44(1969)年4月1日、川崎重工業㈱岐阜工場となり現在に至ります。
※詳細は後述
工員寮は戦後の従業員整理に伴い売却された様で、現在は一般住宅になっています。
岐阜工場は現在も川崎航空機工業㈱として存続していますが、敷地内の見学は受け付けておらず、外周からの見学に限定されます。
▲遺構の配置
ア 本館
建設時期は不明ですが、大正9(1919)年測図の地図に描かれている事から、大正12(1922)年4月10日、川崎造船所㈱各務原分工場が開所した際に建設された様です。
当初は全て3階建てでしたが、昭和20(1945)年6月22日、B29の空襲を受け東側に被弾、1t爆弾は3階から1階まで貫通し戦後の修復の際、3階部分が撤去されたため東側が2階建てになっています。
▲被弾した東側部分
▲東側部分は2階建てになっています
▲玄関部分
▲玄関上には「川」を図案化した社章が輝きます
▲旗竿受けは鳥を元にした意匠
平成29(2017)年2月、本館の新築移転に伴い惜しくも破壊されてしまいました。
イ 事務所
用途不明です。
▲外周フェンス越しから
▲陸橋から
ウ 事務所
用途不明です。
▲外周フェンス越しから
▲陸橋から
エ 機械工場
戦時中は同じ大きさの建屋が東側にもあった様です。
外周から本館越しに屋根だけが僅かに見えます。
本館が破壊されたため、現在は見通せる???
オ 事務所
用途不明です。
外周からは手前の増築、植栽が邪魔で見えず、陸橋からしか見えません。
▲よく見ると当時の建物に良く見られる煉瓦基礎です
カ 組立工場付属屋
事務所建ての様ですが、どの角度からも全く見えません。
キ 組立工場
昭和20(1945)年6月22日の空襲で屋根、外壁は尽く破壊されてしまいますが、戦後残された骨組みを利用しオーバーホール工場として再生されます。
本館の裏にあり見えませんでしたが、本館が破壊されたため現在なら見える???
ク 鋳造工場
塀が高く外周からも見えません。
ケ 鍛工場
塀が高く外周からも見えません。
コ 慰霊碑
昭和20(1945)年6月22日の空襲で爆死した63名の方を慰霊すべく建立されました。
元々は岐阜工場の防空壕があった川崎山山麓にありましたが、昭和42(1967)年6月22日、川崎神社境内(現在地)に合祀し、移設されました。
<川崎航空機工業㈱岐阜工場 沿革>
明治11(1878)年4月、川崎正藏氏は貿易商として何度も海難事故に遭遇した経験から近代的造船業の重要性に着目、大蔵大輔・松方正義、駅逓頭・前島密、貿易商・森村市左衛門各氏の支援を得て東京築地南飯田町(現、中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地に川崎築地造船所を創業します。
明治14(1881)年3月、神戸東出町に川崎兵庫造船所を開設、明治19(1886)年5月19日、官営兵庫造船所の払い下げを受け兵庫造船所と合わせ川崎造船所として設立、9月、築地造船所を閉鎖します。
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発、造船所は造船、修理が殺到し、造船事業を拡張しますが、明治29(1896)年10月15日、個人経営に限界を感じた川崎翁は株式会社化を決定し故郷の先輩でもあり、事業の恩師でもある松方正義氏の3男・松方幸次郎氏を後継者に指名(川崎翁の実子3名は他界、養子2名は幼児)し、株式會社川崎造船所が設立されます。
明治39(1906)年9月、運河分工場を開設(大正2年、兵庫工場に改称)します。
大正3(1914)年7月28日、第一次世界大戦が勃発、航空機が兵器として登場し偵察、爆撃に運用されます。
大正5(1916)年1月、航空機の将来性に着目した松方社長は、海軍より置鮎紅三郎大尉を招聘し、4月、航空機産業視察のためフランスに派遣します。
3月25日、松方社長は鋼材輸入交渉のため渡米した際に現地で自動車産業を、欧州で航空機産業を視察、自動車・航空機事業始業のため準備に入ります。
大正7(1918)年4月、兵庫工場造機設計部に自動車掛を新設、7月7日、自動車科、飛行機科(両科とも藤田香苗科長が兼務)を新設します(自動車科は陸軍省より自動貨車の試作を受注しますが、成績不良により量産化に失敗、大正9年閉鎖)。
8月22日、仏滞在中の松方社長がサルムソン社より2A2型偵察機、AZ9型発動機の製造権を獲得するとともに完成機3機を購入し、11月、帰国します。
大正8(1919)年7月、陸軍航空部より2A2型偵察機の試作を示達されますが、経験不足から試作は捗らず技術視察のため技術者、さらに社長自らが渡欧し技術取得し解決を図ります。
大正10(1920)年10月1日、岐阜県稲葉郡蘇原村の誘致、一部敷地の無償提供を受け、不足分を買収し三柿野に飛行機組立工場用地(200,200㎡)を確保、新工場を着工します。
大正11(1921)年9月7日、飛行機科は兵庫工場から本社直属になり、飛行機部(竹崎友吉技師)が発足、飛行機部各務原分工場(井上敬吉主任)を開設します。
11月、3年4ヶ月を費やし試作機2機が完成、列車、牛車で各務原陸軍飛行場に運搬、9日、試験飛行が行われ、陸軍に乙式一型偵察機として制式採用され、45機の量産が示達されます。
▲乙式一型偵察機
大正12(1922)年4月10日、各務原分工場が竣工(鉄骨2棟1,990㎡、木造4棟310㎡)し、開所式が挙行されます。
10月10日、独ドルニエ社と技術提携し、大正13(1924)年2月6日、陸軍航空部からの要請を受け、ドルニエ社に全金属製爆撃機の設計を委託、12月、試作機の製作を開始、大正15(1926)年3月24日、試作機川崎ドルニエDoNが完成、昭和2(1927)年8月、八七式重爆撃機として制式採用されます。
▲八七式重爆撃機
大正15(1926)年3月25日、陸軍航空本部(陸航本)より偵察機の競争試作を受注、三菱航空機㈱、㈱石川島飛行機製作所と競合ののち、昭和3(1928)年2月11日、川崎製が八八式偵察機(八八式軽爆撃機)として制式採用されます。
▲八八式偵察機
昭和2(1927)年2月2日、飛行機部は飛行機工場(神戸)に改編、各務原分工場は飛行場隣接地32,530㎡を買収し拡張します。
3月、世界恐慌により㈱川崎造船所の経営が悪化、従業員3,300名を解雇(総数16,000名)するとともに、松方社長、川崎武之助取締役は私財500,000、200,000円を夫々提供、工場財団抵当設定のため兵庫工場を分離し川崎車兩㈱を設立するとともに、5月26日、松方社長は責任を取って辞任、鹿島房次郎(元神戸市長)氏が新社長に就任します。
3月、戦闘機試作を受注、三菱航空機㈱、中島飛行機製作所㈱と競合ののち、昭和6(1931)年10月15日、川崎KDA-5型が九二式戦闘機として制式採用されます。
▲九二式戦闘機
昭和2(1927)年4月、海軍水上偵察機の試作、昭和4(1929)年3月、艦上偵察機の試作を行いますが、前者は発動機ナセル、凌波性、後者はフラップの動作性能の不備から不採用となり、以降陸軍機製造に特化します。
昭和7(1932)年9月、単発爆撃機の試作を受注、昭和8(1933)年8月、九三式単発軽爆撃機として制式採用されます。
▲九三式単発軽爆撃機
昭和8年6月、試作戦闘機キ-五の試作を受注しますが、着陸時の横不安定から不採用となります。
▲キ-五
昭和9(1934)年9月、試作戦闘機キ-一〇の試作を受注、昭和10(1935)年9月18日、九五式戦闘機として制式採用されます。
12月、試作戦闘機キ-二八の試作を受注、三菱重工業㈱(キ-一八)、中島飛行機㈱(キ-二七)と競合ののちキ-二八は格闘能力に劣るとされ不採用、キ-二七が九七式戦闘機として制式採用されます。
▲キ-二八
昭和10(1935)年10月、試作軽爆キ-三二の試作を受注、三菱重工業㈱(キ-三〇)と競合しますが、昭和13(1938)年2月15日、両社ともに採用されキ-三二は九八式軽爆撃機として制式採用されます(キ-三〇は九七式軽爆撃機)。
▲九八式軽爆撃機
㈱川崎造船所は時局の進展に伴う航空機需要の増大に対応すべく随時工場の拡張、従業員の増員を図って来ましたが、神戸の飛行機工場の機体・発動機工場が狭隘になってきたため、昭和11(1936)年6月、根本荘行飛行機工場総務部長は航空機生産を現在の3倍にする拡張計画(機体工場を各務原に全て移転し、さらに敷地を拡張し拡大、飛行機工場は全て発動機生産に充当)を立案、鑄谷正輔社長の同意を得て、2期(第1期:昭和12年8月、第2期:昭和13年末まで)に分け各務原分工場の拡張を開始します。
当初、陸航本は根本案に対し難色を示しますが、拡張は川崎造船所の自発的なもので、且つ全責任を持つ事で承認、10月、拡張用地を買収し第1期拡張工事を開始します。
昭和12(1937)年4月1日、各務原分工場は各務原工場(工場長代理・東條壽飛行機部長)に昇格、6月17日、開所式を挙行、社宅、寮、病院、福利厚生施設の建設を進め、9月15日、職・工員1,200名の転勤が完了します。
7月7日、北支事變(支那事變)が発生、10月、陸航本から陸軍機の緊急増産、及び工場・生産設備の拡張が示達されたため第2期工事を促進するとともに、新たに第3期拡充計画を策定します(昭和13年12月、完了)。
11月18日、陸航本からの生産要求に弾力的に応じるため、㈱川崎造船所は各務原分工場、飛行機工場を分離、川崎航空機工業株式會社(鑄谷正輔社長兼務)を設立、飛行機工場は神戸工場に、12月4日、各務原分工場は各務原工場に改称します(昭和14年12月1日、㈱川崎造船所は川崎重工業㈱に改称)。
12月、試作複座戦闘機キ-四五の試作を受注しますが、発動機の不具合、陸軍内の用兵思想の不一致から試作3機で打ち切られます。
12月、試作双発軽爆撃機キ-四八の試作を受注、昭和15(1940)年5月、九九式双発軽爆撃機として制式採用されます。
▲九九式双発軽爆撃機
昭和13(1938)年3月30日、『航空機製造事業法』(昭和十三年三月三十日法律第四十一號)が施行され、航空機工業に対する保護政策が強化されます。
4月、陸航本から非公式に工場拡張要請が示達され、7月、明石市郊外に1,800,000㎡の用地を買収、第4期拡張計画として発動機・機体工場を着工します。
昭和14(1939)年2月1日、各務原工場は岐阜工場(東條壽所長)に改称、5月1日、就業時間8時間から10時間とし二交代制とします。
6月、陸相・板垣征四郎大将より第一次生産能力拡充(小型機換算で月産140機、試作機年2機種)が示達され、川崎航空機は目標達成のため整備機(量産機)は建設中の明石工場を充当し、試作機部門は岐阜に集約拡充、従業員の増員で対応します。
岐阜工場では第1期工事で昭和12年8月、第一試作工場、12月、第一研究室(風洞実験室)、第3期拡充工事で昭和14年8月、材料実験、第二研究室(材料、機体結構・装備研究)、第4期拡充工事で昭和15年11月、飛行場東端に第一整備工場、12月から昭和16年、第四事務所、第三研究室(構造研究)、実大模型工場、現図工場、第二試作工場が竣工します。
昭和14年8月、輸送機キ-五六(立川飛行機㈱ロ式輸送機の転換製作)の試作を受注、昭和15(1940)年11月、一式貨物輸送機として制式採用されます。
昭和16(1941)年から昭和17(1942)年にかけ立川飛行機からキ-三六(九八式直協機)、キ-五五(九九式高練)の製作転換受け夫々472機、311機を生産します。
▲一式貨物輸送機
昭和15(1940)年2月、試作戦闘機キ-六〇の試作を受注しますが、陸軍内における重戦の思想が不明確だった事から試作3機で打ち切られます。
▲キ-六〇
2月、試作戦闘機キ-六一の試作を受注、設計主務・土居武夫技師、補佐・大和田信技師のもと昭和16(1941)年12月12日、試作機が完成、各務原で試験飛行を実施、直ちに三式戦闘機(飛燕)として量産が示達され、昭和17(1942)年8月20日、量産を開始します(制式制定は昭和18年10月9日)。
▲三式戦闘機(飛燕)
5月、東大航空研究所指導のもと高速度研究機キ-七八(研3)の研究試作を開始、昭和17(1942)年12月、試作機が完成しますが、整備の難しさ、発動機の不具合から打ち切られます。
▲キ-七八(研3)
10月、打ち切られたキ-四五の性能向上型であるキ-四五改の試作が完成、昭和16(1941)年9月10日、二式双発戦闘機(屠龍)として制式採用されます。
▲二式双発戦闘機(屠龍)
10月、高速度戦闘機キ-六四の研究試作を開始、昭和18(1943)年2月、試作機が完成しますが、発動機、プロペラの不調、戦局の急迫から打ち切られます。
昭和16(1941)年6月、陸相・東条英機大将より第二次生産能力拡充(小型機換算で昭和18年3月月産220機、19年月産275機)が示達され、川崎航空機は目標達成のため第4期拡張計画(明石工場建設)の完了と、第5期拡張計画(岐阜、明石両工場の拡張)で対応します。
岐阜工場では整備、部品両工場の拡大、第一工員食堂を生産工場へ転換、風洞模型工場の分離、設計部事務所増築、新食堂、応徴士(徴用工)宿舎、同工員育成施設の新築を実施します。
9月、陸軍初の試作急降下爆撃機キ-六六の試作を受注しますが、用兵思想の不明確から試作6機で打ち切られます。
▲キ-六六
11月、陸航本より中島海軍G-5大型陸上攻撃機をキ-八五として転換製作を示達されますが、昭和18(1943)年5月、開戦に伴う戦闘機増産により工場が使用できなくなった為、試作は中止されます。
代替としてキ-九一4発遠距離爆撃機の試作が示達され、昭和19(1944)年4月、実大模型審査を受けますが、戦局の急迫から昭和20(1945)年2月、中止されます。
12月15日、『國民徴用令』(昭和十四年七月八日勅令第四百五十一號)に基き第一次新規徴用を実施、応徴士500名が入所します(以降第二十九次まで)。
昭和17(1942)年4月、陸航本部長・土肥原賢二大将より生産能力拡充内示を受け、川崎航空機は目標達成のため第6期拡張計画(昭和19年3月月産825機、試作機年3機、新工場・試験飛行場建設)を策定し新工場用地の選定を開始します。
7月、陸航本より川崎航空機工業㈱は二式複戦、三式戦夫々120機の特別繰上げ生産を示達されたため、急速に対応すべく『兵器等製造事業特別助成法』(昭和十七年法律第八號・勅令第五百三十一號)に基づき、隣接する各務原陸軍航空廠より8,100㎡の敷地を借用し組立工場を建設し対応します。
8月、試作単座戦闘機キ-八八の試作を受注しますが、昭和18(1943)年10月、陸航本は新機構が多く実用化が困難な事から機種統合整理の対象とし中止を示達します。
9月、三式戦の性能向上型(二型)の設計に着手、昭和18(1943)年1月、試作機が完成、昭和19(1944)年9月28日、量産を開始します。
▲国内に現存する唯一の三式戦二型
10月17日、予てから新設工場用地の選定を行っていたところ、船山克己宮崎県知事からの誘致もあり、郡是製糸㈱宮崎工場を新設都城工場建設拠点として買収します(昭和19年4月、操業開始)。
10月、陸航本より正式に第三次生産能力拡充(昭和19年3月月産550機、昭和20年3月575機、4月以降超大型機50機を含む750~925機)が示達され、川崎航空機は目標達成のため第6期拡張計画を予定通り進め、且つ人員の確保、24時間操業で対応します。
12月、二式複戦を単座化に設計変更したキ-九六の試作を受注しますが、昭和18(1943)年9月、陸軍内における重戦の思想が固定されず、また単戦との空戦で優位に立てなかった事から試作3機で打ち切られます。
▲キ-九六
昭和18(1943)年1月、第三次生産能力拡充示達に対応し、且つ空襲に対する疎開工場とすべく既存の遊休工場を転用する事を決定、岐阜工場は各転用工場を分工場、従業員宿舎(本荘、長良、富士、三里、朝日、板祝、鯖江各分工場、忠節、木曽川両錬成場、真清寮)として直接運営、明石工場では協力工場として活用します。
7日、川崎航空機工業㈱は東洋紡㈱一宮工場を借用し、一宮分工場を開設(昭和20年1月、一宮工場に改称)します。
4月、与圧キャビンを持った高高度双発戦闘機キ-一〇八の研究機試作が示達され、昭和19(1944)年7月、試作機が完成、8月、さらに高高度での性能を改善すべく、キ-一〇八改の試作を開始、昭和20(1945)年5月までに2機が完成しますが、試験中に停戦を迎えます。
▲キ-一〇八
6月、B-29爆撃機を邀撃すべく二式複戦を基礎とし五十七粍砲を搭載した双発襲撃機キ-一〇二乙の試作を開始、昭和19(1944)年3月、試作機が完成、審査の結果、7月、制式採用され、量産が開始されます。
▲キ-一〇二
12月11日、『女子勤勞動員ノ促進ニ關スル件』(9月13日、次官会議)に基づき、女子勤労挺身隊2,443名が生産に加わります。
昭和19(1944)年1月17日、『軍需會社法施行令』(昭和十八年十二月十六日勅令第九百二十八號)に基づき川崎航空機工業㈱は軍需会社に指定、鑄谷社長は生産責任者、各工場長は生産担当者に任命されます。
4月11日、近隣学校の教室、講堂を借用し學園作業場(学校工場)の開設を開始、13日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』(1月8日、閣議決定)、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』(3月7日、閣議決定)により學校報國隊752名が入所、生産に加わります。
1月、B-29爆撃機に対抗すべくキ-一〇二乙に排気タービンを装着したキ-一〇二甲の試作を開始、6月、試作機が完成し審査の結果、制式採用され昭和20(1945)年初旬、量産が開始されます。
4月、三式戦は月産200機に到達しますが、部品不足、工員の質低下、地上勤務者の未習熟等に加え、発動機の部品故障等により可動率が低下したため、昭和19(1944)年5月、機体の改修を開始、生産数は月産120機に低下してしまいます。
また、三式戦二型も発動機(ハ一四〇)の生産が大幅に遅延し、昭和20(1945)年1月時点で発動機の無い首無し機体は364機(一型134、二型230)に達してしまいます。
▲岐阜工場で生産される三式戦
8月、急迫する戦局に軍需省は川崎航空機工業㈱に三菱四式重爆の転換製作、10月、首無し三式戦の発動機を空冷(ハ一一二)に換装したキ-一〇〇の試作が示達され、昭和20(1945)年2月、五式戦闘機として制式採用され、改修が開始されます。
三式戦二型は374機製作されますが、275機が五式戦に改修(五式戦はさらに120機が生産)され、生産された99機も岐阜工場の空襲で破壊され60機の納入に留まります。
▲五式戦闘機
7月、第一陸軍航空技術研究所の大森丈夫航技少佐、第二陸軍航空技術研究所の小笠滿治少佐により特攻攻撃に代わる戦法として無線操縦誘導弾機の開発が提唱され、イ號一型乙の試作が示達、9月、試作機が完成、5日に設立された陸海技術運用委員會において実験が開始されますが、横安定のロケット機能が不良で審査は捗らず、昭和20(1945)年6月、仮想空母・戦艦に対し命中率75%の判定を得、150機を生産しますが、実用化されないまま停戦を迎えます。
▲イ號一型乙
▲母機(九九双軽)に搭載されたイ號一型乙
7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、9月、軍需省は生産設備、倉庫等の分散疎開を示達、川崎航空機工業㈱は、林間工場、地下工場の建設、転用工場の獲得を開始します。
12月、B-29爆撃機の夜間空襲に対抗すべくキ-一〇二を基礎とした夜間戦闘機キ-一〇二丙の試作を受注、昭和20(1945)年6月26日の空襲により完成間近の試作機2機が破壊されてしまい、そのまま停戦を迎えます。
昭和20(1945)年3月、陸航本は生産設備の破壊により生産が停滞した三菱四式重爆の代替として、且つ整備が容易で離着陸性能に優れたキ-一一九軽爆撃機の試作を示達、6月、実大模型審査を通過し、地下工場での生産を考慮し機械部品、鍛造部品を極力避けた細部設計を行うなか、停戦を迎えます。
4月、稲葉郡須衛、芥見、可児郡帷子、武儀郡美濃に林間工場を開設、大日本紡績㈱岐阜工場を田神分工場、近江絹糸㈱中津川工場を中津川分工場として借用し生産設備を疎開、さらに福井精練加工㈱勝見支工場に福井分工場、土岐郡瑞浪、賀茂郡太田和知に地下工場の建設を開始しますが、昭和19(1944)年12月7日に発災した東南海地震の影響による電装機器部品の不足に加え、交通機関の寸断による疎開の遅延、熟練工の相次ぐ出征により生産力は低下していきます。
4月3日、B29爆撃機1機が各務原に来襲、岐阜工場西側の持田が投弾され住民6名爆死、10戸が破壊されます。
6月22日、B29爆撃機44機が来襲、岐阜工場が目標にされ、職員・工員63名が爆死、本工場は甚大な被害を受けてしまいます。、
26日、B29爆撃機101機が来襲、幸い死傷者はありませんでしたが、工場は壊滅し操業を停止します。
▲6月26日の空襲で破壊された機体工場
岐阜工場は機能を分工場に移転、破壊を逃れた材料、部品、治具類を岐阜県下の国民学校、民家、道路、林間等に疎開し生産を続行しますが、7月9日、B29爆撃機120機が岐阜市に来襲、市内分工場、疎開作業場が焼失、29日、B29爆撃機260機が一宮市に来襲、一宮分工場が全焼してしまいます。
東條所長以下幹部は第二次疎開計畫を策定、越美南線沿線、高山線沿線(下麻生、上麻生)、揖斐地区(谷侵、長瀬)、養老地区、さらに林間工場建設のため移転先交渉を進めるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の従業員は32,590名でした。
16日以降、応徴士、学校報国隊、女子挺身隊の勤労が解除・解散、自発退職者の対応を行い、各地の疎開工場から設備・工作機械・仕掛品・成品を移設し直すとともに工場内整理、部品材料整理等を開始、9月1日、岐阜工場本部を各務原クラブハウス(福利厚生施設)に移転します。
2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により『一般命令 第一号』が公布、我が国の軍需生産は禁止され、生産禁止品目が発表、10月10日、我が国の航空機生産・加工が禁止され、11月18日、『航空禁止令』が公布されます。
10月8日、米第6軍第25歩兵師団第27歩兵連隊が各務原に進駐、各務原陸軍飛行場、及び陸軍施設を接収、11月8日、岐阜工場が接収されます。
11月、東條専務取締役所長が辞任、田中勘兵衛所長が岐阜工場所長に就任します。
12月1日、岐阜工場は米第6軍より民需転換が許可され、鈑金(台所用品、国鉄向信号箱)、鉄工(製粉機、スーツケース)、木工(家具、組立式住宅)、電機(鍍金、電気工事)各工場、岩戸モータース(自動車修理)、病院、購買所、住宅(不動産売買)の8部門を設立、分散工場で操業を開始、4日、岐阜工場の立入が許可されます。
8日、川崎航空機工業㈱は借用していた分工場を全て所有社に返還、同日、『會社ノ解散ノ制限等ニ關スル件』(11月24日、勅令第六百五十七號)に基づき川崎航空機工業㈱は制限会社に指定され所有機械、器具、材料等の移動を禁止されます。
昭和21(1946)年1月20日、GHQにより川崎航空機工業㈱の全工場が賠償工場に指定され、5月31日、川崎航空機工業㈱から川崎産業㈱に改称(鑄谷正輔社長、12月20日、砂野仁取締役に交替)、昭和22(1947)年3月、岐阜工場は岐阜事務所、昭和24(1949)年2月2日、岐阜製作所に改称し、昭和23(1948)年5月5日、モノコック構造バスの生産を開始します。
昭和25(1950)年3月1日、『企業再建整備法』に基づき、企業再建を開始、川崎産業㈱は第二会社・㈱川崎都城製作所、5月1日、同・川崎機械工業㈱、㈱川崎岐阜製作所を設立し川崎産業㈱を解散、昭和26(1951)年3月31日、㈱川崎都城製作所を解散、10月29日、㈱川崎岐阜製作所から岐阜設備工業㈱を分離設立、昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和の発効に伴い川崎機械工業㈱、㈱川崎岐阜製作所の賠償指定が解除されます。
昭和26(1951)年10月10日、米極東空軍の保有機を我が国の旧航空機会社に修理委託すべく、米国防省派遣のダグラス社調査団が岐阜、明石両製作所を視察します。
昭和27(1952)年1月、大蔵省に隣接する旧各務原陸軍航空廠の米軍接収解除、及び使用許可を申請、3月8日、GHQは我が政府に航空機・兵器の製造許可を指令、4月28日、サンフランシスコ講和の発効に伴い航空機の生産許可権限は通産省に移譲されます。
6月、製作所内に航空機企画室を設置、軽飛行機の製作、米軍機のオーバーホール、国防用ジェット機に関する研究を開始します。
昭和28(1953)年9月21日、精算中の㈱川崎都城製作所は川崎航空機工業㈱に改称、昭和29(1954)年2月1日、川崎航空機工業㈱が川崎機械工業㈱、㈱川崎岐阜製作所を吸収合併し、昭和44(1969)年4月1日、川崎重工業㈱、川崎航空機工業㈱、川崎車両㈱が合併し川崎重工業㈱を設立、岐阜製作所は川崎重工業㈱岐阜工場となり、現在も各種航空機を製造する我が国屈指の航空機メーカーの一つとして現在に至ります。
<主要参考文献>
『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』 (昭和62年11月 川崎重工業株式会社 航空機事業本部)
『戦略爆撃調査団報告書』
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当工場はB29邀撃に活躍した二式複戦(屠龍)、三式戦(飛燕)、五式戦を生産した事で知られています。
▲今は無き川崎航空機工業㈱岐阜工場 本館
【探索日時】
平成22年7月23日、平成28年4月10日
<各務原陸軍飛行場周辺の施設配置>
▲昭和20(1945)年4月5日、空撮(国土地理院 97F16-C1-13)
▲現在の地図に転写 配置は昭和20(1945)年の停戦時
① 各務原陸軍飛行場(西飛行場)
② 〃 (東飛行場)
③ 第十教育飛行隊(北側)・第四航空教育團岐阜第二航空教育隊(南側)
④ 第四航空教育團司令部・同岐阜第一航空教育隊・第四十教育飛行隊
⑤ 各務原陸軍航空廠
⑥ 各務原陸軍病院
⑦ 各務原憲兵分隊
⑧ 各務原陸軍航空廠 技能者養成所
⑨ 川崎航空機工業㈱ 岐阜工場
⑩ 三菱重工業㈱ 名古屋航空機製作所各務原格納庫
⑪ 川崎航空機工業㈱ 岐阜工場 柿澤寮
⑫ 〃 雄飛寮
※緑文字が当記事の紹介遺構
<遺構について> ※青字は地図にリンクしています
⑨ 川崎航空機工業㈱岐阜工場
⑪ 川崎航空機工業㈱岐阜工場 柿澤寮
⑫ 〃 雄飛寮
大正10(1920)年10月1日、航空機製造を開始した株式會社川崎造船所は、岐阜県稲葉郡蘇原村の誘致、一部敷地の無償提供を受け、不足分を買収し三柿野に飛行機組立工場用地(200,200㎡)を確保、新工場、工員宿舎建設を着工します。
大正12(1922)年4月10日、各務原分工場が竣工し、開所式が挙行され、昭和2(1927)年2月2日、各務原分工場は飛行場隣接地32,530㎡を買収し拡張します。
昭和12(1937)年4月1日、各務原分工場は各務原工場に昇格、11月18日、㈱川崎造船所は川崎航空機工業株式會社を設立、各務原分工場は川崎航空機工業㈱各務原工場に、昭和14(1939)年2月1日、岐阜工場に改称されます。
昭和15(1940)年11月、航空機需要の増大に伴い、飛行場東端の二十軒に第一整備工場を開設、昭和17(1942)年7月、隣接する各務原陸軍航空廠より8,100㎡の敷地を借用し組立工場を建設、昭和18(1943)年1月、分工場(各地の遊休工場借用)を開設します。
昭和20(1945)年4月、戦局は急迫し米軍の本土空襲がせまるなか分工場、地下工場を建設、工場疎開を開始しますが、6月22日、26日、B29による空襲により工場は大損害を受け操業を停止、新たな疎開工場を模索するなか、停戦を迎えます。
10月8日、各務原に進駐した米軍により、11月8日、岐阜工場は接収、12月1日、岐阜工場は民需転換が許可され、分散工場で操業を開始、4日、岐阜工場の立入が許可されます。
昭和44(1969)年4月1日、川崎重工業㈱岐阜工場となり現在に至ります。
※詳細は後述
工員寮は戦後の従業員整理に伴い売却された様で、現在は一般住宅になっています。
岐阜工場は現在も川崎航空機工業㈱として存続していますが、敷地内の見学は受け付けておらず、外周からの見学に限定されます。
▲遺構の配置
ア 本館
建設時期は不明ですが、大正9(1919)年測図の地図に描かれている事から、大正12(1922)年4月10日、川崎造船所㈱各務原分工場が開所した際に建設された様です。
当初は全て3階建てでしたが、昭和20(1945)年6月22日、B29の空襲を受け東側に被弾、1t爆弾は3階から1階まで貫通し戦後の修復の際、3階部分が撤去されたため東側が2階建てになっています。
▲被弾した東側部分
▲東側部分は2階建てになっています
▲玄関部分
▲玄関上には「川」を図案化した社章が輝きます
▲旗竿受けは鳥を元にした意匠
平成29(2017)年2月、本館の新築移転に伴い惜しくも破壊されてしまいました。
イ 事務所
用途不明です。
▲外周フェンス越しから
▲陸橋から
ウ 事務所
用途不明です。
▲外周フェンス越しから
▲陸橋から
エ 機械工場
戦時中は同じ大きさの建屋が東側にもあった様です。
外周から本館越しに屋根だけが僅かに見えます。
本館が破壊されたため、現在は見通せる???
オ 事務所
用途不明です。
外周からは手前の増築、植栽が邪魔で見えず、陸橋からしか見えません。
▲よく見ると当時の建物に良く見られる煉瓦基礎です
カ 組立工場付属屋
事務所建ての様ですが、どの角度からも全く見えません。
キ 組立工場
昭和20(1945)年6月22日の空襲で屋根、外壁は尽く破壊されてしまいますが、戦後残された骨組みを利用しオーバーホール工場として再生されます。
本館の裏にあり見えませんでしたが、本館が破壊されたため現在なら見える???
ク 鋳造工場
塀が高く外周からも見えません。
ケ 鍛工場
塀が高く外周からも見えません。
コ 慰霊碑
昭和20(1945)年6月22日の空襲で爆死した63名の方を慰霊すべく建立されました。
元々は岐阜工場の防空壕があった川崎山山麓にありましたが、昭和42(1967)年6月22日、川崎神社境内(現在地)に合祀し、移設されました。
<川崎航空機工業㈱岐阜工場 沿革>
明治11(1878)年4月、川崎正藏氏は貿易商として何度も海難事故に遭遇した経験から近代的造船業の重要性に着目、大蔵大輔・松方正義、駅逓頭・前島密、貿易商・森村市左衛門各氏の支援を得て東京築地南飯田町(現、中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地に川崎築地造船所を創業します。
明治14(1881)年3月、神戸東出町に川崎兵庫造船所を開設、明治19(1886)年5月19日、官営兵庫造船所の払い下げを受け兵庫造船所と合わせ川崎造船所として設立、9月、築地造船所を閉鎖します。
明治27(1894)年8月1日、明治二十七八年戰役(日清戦争)勃発、造船所は造船、修理が殺到し、造船事業を拡張しますが、明治29(1896)年10月15日、個人経営に限界を感じた川崎翁は株式会社化を決定し故郷の先輩でもあり、事業の恩師でもある松方正義氏の3男・松方幸次郎氏を後継者に指名(川崎翁の実子3名は他界、養子2名は幼児)し、株式會社川崎造船所が設立されます。
明治39(1906)年9月、運河分工場を開設(大正2年、兵庫工場に改称)します。
大正3(1914)年7月28日、第一次世界大戦が勃発、航空機が兵器として登場し偵察、爆撃に運用されます。
大正5(1916)年1月、航空機の将来性に着目した松方社長は、海軍より置鮎紅三郎大尉を招聘し、4月、航空機産業視察のためフランスに派遣します。
3月25日、松方社長は鋼材輸入交渉のため渡米した際に現地で自動車産業を、欧州で航空機産業を視察、自動車・航空機事業始業のため準備に入ります。
大正7(1918)年4月、兵庫工場造機設計部に自動車掛を新設、7月7日、自動車科、飛行機科(両科とも藤田香苗科長が兼務)を新設します(自動車科は陸軍省より自動貨車の試作を受注しますが、成績不良により量産化に失敗、大正9年閉鎖)。
8月22日、仏滞在中の松方社長がサルムソン社より2A2型偵察機、AZ9型発動機の製造権を獲得するとともに完成機3機を購入し、11月、帰国します。
大正8(1919)年7月、陸軍航空部より2A2型偵察機の試作を示達されますが、経験不足から試作は捗らず技術視察のため技術者、さらに社長自らが渡欧し技術取得し解決を図ります。
大正10(1920)年10月1日、岐阜県稲葉郡蘇原村の誘致、一部敷地の無償提供を受け、不足分を買収し三柿野に飛行機組立工場用地(200,200㎡)を確保、新工場を着工します。
大正11(1921)年9月7日、飛行機科は兵庫工場から本社直属になり、飛行機部(竹崎友吉技師)が発足、飛行機部各務原分工場(井上敬吉主任)を開設します。
11月、3年4ヶ月を費やし試作機2機が完成、列車、牛車で各務原陸軍飛行場に運搬、9日、試験飛行が行われ、陸軍に乙式一型偵察機として制式採用され、45機の量産が示達されます。
▲乙式一型偵察機
大正12(1922)年4月10日、各務原分工場が竣工(鉄骨2棟1,990㎡、木造4棟310㎡)し、開所式が挙行されます。
10月10日、独ドルニエ社と技術提携し、大正13(1924)年2月6日、陸軍航空部からの要請を受け、ドルニエ社に全金属製爆撃機の設計を委託、12月、試作機の製作を開始、大正15(1926)年3月24日、試作機川崎ドルニエDoNが完成、昭和2(1927)年8月、八七式重爆撃機として制式採用されます。
▲八七式重爆撃機
大正15(1926)年3月25日、陸軍航空本部(陸航本)より偵察機の競争試作を受注、三菱航空機㈱、㈱石川島飛行機製作所と競合ののち、昭和3(1928)年2月11日、川崎製が八八式偵察機(八八式軽爆撃機)として制式採用されます。
▲八八式偵察機
昭和2(1927)年2月2日、飛行機部は飛行機工場(神戸)に改編、各務原分工場は飛行場隣接地32,530㎡を買収し拡張します。
3月、世界恐慌により㈱川崎造船所の経営が悪化、従業員3,300名を解雇(総数16,000名)するとともに、松方社長、川崎武之助取締役は私財500,000、200,000円を夫々提供、工場財団抵当設定のため兵庫工場を分離し川崎車兩㈱を設立するとともに、5月26日、松方社長は責任を取って辞任、鹿島房次郎(元神戸市長)氏が新社長に就任します。
3月、戦闘機試作を受注、三菱航空機㈱、中島飛行機製作所㈱と競合ののち、昭和6(1931)年10月15日、川崎KDA-5型が九二式戦闘機として制式採用されます。
▲九二式戦闘機
昭和2(1927)年4月、海軍水上偵察機の試作、昭和4(1929)年3月、艦上偵察機の試作を行いますが、前者は発動機ナセル、凌波性、後者はフラップの動作性能の不備から不採用となり、以降陸軍機製造に特化します。
昭和7(1932)年9月、単発爆撃機の試作を受注、昭和8(1933)年8月、九三式単発軽爆撃機として制式採用されます。
▲九三式単発軽爆撃機
昭和8年6月、試作戦闘機キ-五の試作を受注しますが、着陸時の横不安定から不採用となります。
▲キ-五
昭和9(1934)年9月、試作戦闘機キ-一〇の試作を受注、昭和10(1935)年9月18日、九五式戦闘機として制式採用されます。
12月、試作戦闘機キ-二八の試作を受注、三菱重工業㈱(キ-一八)、中島飛行機㈱(キ-二七)と競合ののちキ-二八は格闘能力に劣るとされ不採用、キ-二七が九七式戦闘機として制式採用されます。
▲キ-二八
昭和10(1935)年10月、試作軽爆キ-三二の試作を受注、三菱重工業㈱(キ-三〇)と競合しますが、昭和13(1938)年2月15日、両社ともに採用されキ-三二は九八式軽爆撃機として制式採用されます(キ-三〇は九七式軽爆撃機)。
▲九八式軽爆撃機
㈱川崎造船所は時局の進展に伴う航空機需要の増大に対応すべく随時工場の拡張、従業員の増員を図って来ましたが、神戸の飛行機工場の機体・発動機工場が狭隘になってきたため、昭和11(1936)年6月、根本荘行飛行機工場総務部長は航空機生産を現在の3倍にする拡張計画(機体工場を各務原に全て移転し、さらに敷地を拡張し拡大、飛行機工場は全て発動機生産に充当)を立案、鑄谷正輔社長の同意を得て、2期(第1期:昭和12年8月、第2期:昭和13年末まで)に分け各務原分工場の拡張を開始します。
当初、陸航本は根本案に対し難色を示しますが、拡張は川崎造船所の自発的なもので、且つ全責任を持つ事で承認、10月、拡張用地を買収し第1期拡張工事を開始します。
昭和12(1937)年4月1日、各務原分工場は各務原工場(工場長代理・東條壽飛行機部長)に昇格、6月17日、開所式を挙行、社宅、寮、病院、福利厚生施設の建設を進め、9月15日、職・工員1,200名の転勤が完了します。
7月7日、北支事變(支那事變)が発生、10月、陸航本から陸軍機の緊急増産、及び工場・生産設備の拡張が示達されたため第2期工事を促進するとともに、新たに第3期拡充計画を策定します(昭和13年12月、完了)。
11月18日、陸航本からの生産要求に弾力的に応じるため、㈱川崎造船所は各務原分工場、飛行機工場を分離、川崎航空機工業株式會社(鑄谷正輔社長兼務)を設立、飛行機工場は神戸工場に、12月4日、各務原分工場は各務原工場に改称します(昭和14年12月1日、㈱川崎造船所は川崎重工業㈱に改称)。
12月、試作複座戦闘機キ-四五の試作を受注しますが、発動機の不具合、陸軍内の用兵思想の不一致から試作3機で打ち切られます。
12月、試作双発軽爆撃機キ-四八の試作を受注、昭和15(1940)年5月、九九式双発軽爆撃機として制式採用されます。
▲九九式双発軽爆撃機
昭和13(1938)年3月30日、『航空機製造事業法』(昭和十三年三月三十日法律第四十一號)が施行され、航空機工業に対する保護政策が強化されます。
4月、陸航本から非公式に工場拡張要請が示達され、7月、明石市郊外に1,800,000㎡の用地を買収、第4期拡張計画として発動機・機体工場を着工します。
昭和14(1939)年2月1日、各務原工場は岐阜工場(東條壽所長)に改称、5月1日、就業時間8時間から10時間とし二交代制とします。
6月、陸相・板垣征四郎大将より第一次生産能力拡充(小型機換算で月産140機、試作機年2機種)が示達され、川崎航空機は目標達成のため整備機(量産機)は建設中の明石工場を充当し、試作機部門は岐阜に集約拡充、従業員の増員で対応します。
岐阜工場では第1期工事で昭和12年8月、第一試作工場、12月、第一研究室(風洞実験室)、第3期拡充工事で昭和14年8月、材料実験、第二研究室(材料、機体結構・装備研究)、第4期拡充工事で昭和15年11月、飛行場東端に第一整備工場、12月から昭和16年、第四事務所、第三研究室(構造研究)、実大模型工場、現図工場、第二試作工場が竣工します。
昭和14年8月、輸送機キ-五六(立川飛行機㈱ロ式輸送機の転換製作)の試作を受注、昭和15(1940)年11月、一式貨物輸送機として制式採用されます。
昭和16(1941)年から昭和17(1942)年にかけ立川飛行機からキ-三六(九八式直協機)、キ-五五(九九式高練)の製作転換受け夫々472機、311機を生産します。
▲一式貨物輸送機
昭和15(1940)年2月、試作戦闘機キ-六〇の試作を受注しますが、陸軍内における重戦の思想が不明確だった事から試作3機で打ち切られます。
▲キ-六〇
2月、試作戦闘機キ-六一の試作を受注、設計主務・土居武夫技師、補佐・大和田信技師のもと昭和16(1941)年12月12日、試作機が完成、各務原で試験飛行を実施、直ちに三式戦闘機(飛燕)として量産が示達され、昭和17(1942)年8月20日、量産を開始します(制式制定は昭和18年10月9日)。
▲三式戦闘機(飛燕)
5月、東大航空研究所指導のもと高速度研究機キ-七八(研3)の研究試作を開始、昭和17(1942)年12月、試作機が完成しますが、整備の難しさ、発動機の不具合から打ち切られます。
▲キ-七八(研3)
10月、打ち切られたキ-四五の性能向上型であるキ-四五改の試作が完成、昭和16(1941)年9月10日、二式双発戦闘機(屠龍)として制式採用されます。
▲二式双発戦闘機(屠龍)
10月、高速度戦闘機キ-六四の研究試作を開始、昭和18(1943)年2月、試作機が完成しますが、発動機、プロペラの不調、戦局の急迫から打ち切られます。
昭和16(1941)年6月、陸相・東条英機大将より第二次生産能力拡充(小型機換算で昭和18年3月月産220機、19年月産275機)が示達され、川崎航空機は目標達成のため第4期拡張計画(明石工場建設)の完了と、第5期拡張計画(岐阜、明石両工場の拡張)で対応します。
岐阜工場では整備、部品両工場の拡大、第一工員食堂を生産工場へ転換、風洞模型工場の分離、設計部事務所増築、新食堂、応徴士(徴用工)宿舎、同工員育成施設の新築を実施します。
9月、陸軍初の試作急降下爆撃機キ-六六の試作を受注しますが、用兵思想の不明確から試作6機で打ち切られます。
▲キ-六六
11月、陸航本より中島海軍G-5大型陸上攻撃機をキ-八五として転換製作を示達されますが、昭和18(1943)年5月、開戦に伴う戦闘機増産により工場が使用できなくなった為、試作は中止されます。
代替としてキ-九一4発遠距離爆撃機の試作が示達され、昭和19(1944)年4月、実大模型審査を受けますが、戦局の急迫から昭和20(1945)年2月、中止されます。
12月15日、『國民徴用令』(昭和十四年七月八日勅令第四百五十一號)に基き第一次新規徴用を実施、応徴士500名が入所します(以降第二十九次まで)。
昭和17(1942)年4月、陸航本部長・土肥原賢二大将より生産能力拡充内示を受け、川崎航空機は目標達成のため第6期拡張計画(昭和19年3月月産825機、試作機年3機、新工場・試験飛行場建設)を策定し新工場用地の選定を開始します。
7月、陸航本より川崎航空機工業㈱は二式複戦、三式戦夫々120機の特別繰上げ生産を示達されたため、急速に対応すべく『兵器等製造事業特別助成法』(昭和十七年法律第八號・勅令第五百三十一號)に基づき、隣接する各務原陸軍航空廠より8,100㎡の敷地を借用し組立工場を建設し対応します。
8月、試作単座戦闘機キ-八八の試作を受注しますが、昭和18(1943)年10月、陸航本は新機構が多く実用化が困難な事から機種統合整理の対象とし中止を示達します。
9月、三式戦の性能向上型(二型)の設計に着手、昭和18(1943)年1月、試作機が完成、昭和19(1944)年9月28日、量産を開始します。
▲国内に現存する唯一の三式戦二型
10月17日、予てから新設工場用地の選定を行っていたところ、船山克己宮崎県知事からの誘致もあり、郡是製糸㈱宮崎工場を新設都城工場建設拠点として買収します(昭和19年4月、操業開始)。
10月、陸航本より正式に第三次生産能力拡充(昭和19年3月月産550機、昭和20年3月575機、4月以降超大型機50機を含む750~925機)が示達され、川崎航空機は目標達成のため第6期拡張計画を予定通り進め、且つ人員の確保、24時間操業で対応します。
12月、二式複戦を単座化に設計変更したキ-九六の試作を受注しますが、昭和18(1943)年9月、陸軍内における重戦の思想が固定されず、また単戦との空戦で優位に立てなかった事から試作3機で打ち切られます。
▲キ-九六
昭和18(1943)年1月、第三次生産能力拡充示達に対応し、且つ空襲に対する疎開工場とすべく既存の遊休工場を転用する事を決定、岐阜工場は各転用工場を分工場、従業員宿舎(本荘、長良、富士、三里、朝日、板祝、鯖江各分工場、忠節、木曽川両錬成場、真清寮)として直接運営、明石工場では協力工場として活用します。
7日、川崎航空機工業㈱は東洋紡㈱一宮工場を借用し、一宮分工場を開設(昭和20年1月、一宮工場に改称)します。
4月、与圧キャビンを持った高高度双発戦闘機キ-一〇八の研究機試作が示達され、昭和19(1944)年7月、試作機が完成、8月、さらに高高度での性能を改善すべく、キ-一〇八改の試作を開始、昭和20(1945)年5月までに2機が完成しますが、試験中に停戦を迎えます。
▲キ-一〇八
6月、B-29爆撃機を邀撃すべく二式複戦を基礎とし五十七粍砲を搭載した双発襲撃機キ-一〇二乙の試作を開始、昭和19(1944)年3月、試作機が完成、審査の結果、7月、制式採用され、量産が開始されます。
▲キ-一〇二
12月11日、『女子勤勞動員ノ促進ニ關スル件』(9月13日、次官会議)に基づき、女子勤労挺身隊2,443名が生産に加わります。
昭和19(1944)年1月17日、『軍需會社法施行令』(昭和十八年十二月十六日勅令第九百二十八號)に基づき川崎航空機工業㈱は軍需会社に指定、鑄谷社長は生産責任者、各工場長は生産担当者に任命されます。
4月11日、近隣学校の教室、講堂を借用し學園作業場(学校工場)の開設を開始、13日、『緊急學徒勤勞動員方策要項』(1月8日、閣議決定)、『決戰非常措置要項ニ基ク學徒動員實施要項』(3月7日、閣議決定)により學校報國隊752名が入所、生産に加わります。
1月、B-29爆撃機に対抗すべくキ-一〇二乙に排気タービンを装着したキ-一〇二甲の試作を開始、6月、試作機が完成し審査の結果、制式採用され昭和20(1945)年初旬、量産が開始されます。
4月、三式戦は月産200機に到達しますが、部品不足、工員の質低下、地上勤務者の未習熟等に加え、発動機の部品故障等により可動率が低下したため、昭和19(1944)年5月、機体の改修を開始、生産数は月産120機に低下してしまいます。
また、三式戦二型も発動機(ハ一四〇)の生産が大幅に遅延し、昭和20(1945)年1月時点で発動機の無い首無し機体は364機(一型134、二型230)に達してしまいます。
▲岐阜工場で生産される三式戦
8月、急迫する戦局に軍需省は川崎航空機工業㈱に三菱四式重爆の転換製作、10月、首無し三式戦の発動機を空冷(ハ一一二)に換装したキ-一〇〇の試作が示達され、昭和20(1945)年2月、五式戦闘機として制式採用され、改修が開始されます。
三式戦二型は374機製作されますが、275機が五式戦に改修(五式戦はさらに120機が生産)され、生産された99機も岐阜工場の空襲で破壊され60機の納入に留まります。
▲五式戦闘機
7月、第一陸軍航空技術研究所の大森丈夫航技少佐、第二陸軍航空技術研究所の小笠滿治少佐により特攻攻撃に代わる戦法として無線操縦誘導弾機の開発が提唱され、イ號一型乙の試作が示達、9月、試作機が完成、5日に設立された陸海技術運用委員會において実験が開始されますが、横安定のロケット機能が不良で審査は捗らず、昭和20(1945)年6月、仮想空母・戦艦に対し命中率75%の判定を得、150機を生産しますが、実用化されないまま停戦を迎えます。
▲イ號一型乙
▲母機(九九双軽)に搭載されたイ號一型乙
7月、我が国はマリアナ諸島を失陥、米軍による本土空襲の本格化が予測されるなか、9月、軍需省は生産設備、倉庫等の分散疎開を示達、川崎航空機工業㈱は、林間工場、地下工場の建設、転用工場の獲得を開始します。
12月、B-29爆撃機の夜間空襲に対抗すべくキ-一〇二を基礎とした夜間戦闘機キ-一〇二丙の試作を受注、昭和20(1945)年6月26日の空襲により完成間近の試作機2機が破壊されてしまい、そのまま停戦を迎えます。
昭和20(1945)年3月、陸航本は生産設備の破壊により生産が停滞した三菱四式重爆の代替として、且つ整備が容易で離着陸性能に優れたキ-一一九軽爆撃機の試作を示達、6月、実大模型審査を通過し、地下工場での生産を考慮し機械部品、鍛造部品を極力避けた細部設計を行うなか、停戦を迎えます。
4月、稲葉郡須衛、芥見、可児郡帷子、武儀郡美濃に林間工場を開設、大日本紡績㈱岐阜工場を田神分工場、近江絹糸㈱中津川工場を中津川分工場として借用し生産設備を疎開、さらに福井精練加工㈱勝見支工場に福井分工場、土岐郡瑞浪、賀茂郡太田和知に地下工場の建設を開始しますが、昭和19(1944)年12月7日に発災した東南海地震の影響による電装機器部品の不足に加え、交通機関の寸断による疎開の遅延、熟練工の相次ぐ出征により生産力は低下していきます。
4月3日、B29爆撃機1機が各務原に来襲、岐阜工場西側の持田が投弾され住民6名爆死、10戸が破壊されます。
6月22日、B29爆撃機44機が来襲、岐阜工場が目標にされ、職員・工員63名が爆死、本工場は甚大な被害を受けてしまいます。、
26日、B29爆撃機101機が来襲、幸い死傷者はありませんでしたが、工場は壊滅し操業を停止します。
▲6月26日の空襲で破壊された機体工場
岐阜工場は機能を分工場に移転、破壊を逃れた材料、部品、治具類を岐阜県下の国民学校、民家、道路、林間等に疎開し生産を続行しますが、7月9日、B29爆撃機120機が岐阜市に来襲、市内分工場、疎開作業場が焼失、29日、B29爆撃機260機が一宮市に来襲、一宮分工場が全焼してしまいます。
東條所長以下幹部は第二次疎開計畫を策定、越美南線沿線、高山線沿線(下麻生、上麻生)、揖斐地区(谷侵、長瀬)、養老地区、さらに林間工場建設のため移転先交渉を進めるなか、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
停戦時の従業員は32,590名でした。
16日以降、応徴士、学校報国隊、女子挺身隊の勤労が解除・解散、自発退職者の対応を行い、各地の疎開工場から設備・工作機械・仕掛品・成品を移設し直すとともに工場内整理、部品材料整理等を開始、9月1日、岐阜工場本部を各務原クラブハウス(福利厚生施設)に移転します。
2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により『一般命令 第一号』が公布、我が国の軍需生産は禁止され、生産禁止品目が発表、10月10日、我が国の航空機生産・加工が禁止され、11月18日、『航空禁止令』が公布されます。
10月8日、米第6軍第25歩兵師団第27歩兵連隊が各務原に進駐、各務原陸軍飛行場、及び陸軍施設を接収、11月8日、岐阜工場が接収されます。
11月、東條専務取締役所長が辞任、田中勘兵衛所長が岐阜工場所長に就任します。
12月1日、岐阜工場は米第6軍より民需転換が許可され、鈑金(台所用品、国鉄向信号箱)、鉄工(製粉機、スーツケース)、木工(家具、組立式住宅)、電機(鍍金、電気工事)各工場、岩戸モータース(自動車修理)、病院、購買所、住宅(不動産売買)の8部門を設立、分散工場で操業を開始、4日、岐阜工場の立入が許可されます。
8日、川崎航空機工業㈱は借用していた分工場を全て所有社に返還、同日、『會社ノ解散ノ制限等ニ關スル件』(11月24日、勅令第六百五十七號)に基づき川崎航空機工業㈱は制限会社に指定され所有機械、器具、材料等の移動を禁止されます。
昭和21(1946)年1月20日、GHQにより川崎航空機工業㈱の全工場が賠償工場に指定され、5月31日、川崎航空機工業㈱から川崎産業㈱に改称(鑄谷正輔社長、12月20日、砂野仁取締役に交替)、昭和22(1947)年3月、岐阜工場は岐阜事務所、昭和24(1949)年2月2日、岐阜製作所に改称し、昭和23(1948)年5月5日、モノコック構造バスの生産を開始します。
昭和25(1950)年3月1日、『企業再建整備法』に基づき、企業再建を開始、川崎産業㈱は第二会社・㈱川崎都城製作所、5月1日、同・川崎機械工業㈱、㈱川崎岐阜製作所を設立し川崎産業㈱を解散、昭和26(1951)年3月31日、㈱川崎都城製作所を解散、10月29日、㈱川崎岐阜製作所から岐阜設備工業㈱を分離設立、昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ講和の発効に伴い川崎機械工業㈱、㈱川崎岐阜製作所の賠償指定が解除されます。
昭和26(1951)年10月10日、米極東空軍の保有機を我が国の旧航空機会社に修理委託すべく、米国防省派遣のダグラス社調査団が岐阜、明石両製作所を視察します。
昭和27(1952)年1月、大蔵省に隣接する旧各務原陸軍航空廠の米軍接収解除、及び使用許可を申請、3月8日、GHQは我が政府に航空機・兵器の製造許可を指令、4月28日、サンフランシスコ講和の発効に伴い航空機の生産許可権限は通産省に移譲されます。
6月、製作所内に航空機企画室を設置、軽飛行機の製作、米軍機のオーバーホール、国防用ジェット機に関する研究を開始します。
昭和28(1953)年9月21日、精算中の㈱川崎都城製作所は川崎航空機工業㈱に改称、昭和29(1954)年2月1日、川崎航空機工業㈱が川崎機械工業㈱、㈱川崎岐阜製作所を吸収合併し、昭和44(1969)年4月1日、川崎重工業㈱、川崎航空機工業㈱、川崎車両㈱が合併し川崎重工業㈱を設立、岐阜製作所は川崎重工業㈱岐阜工場となり、現在も各種航空機を製造する我が国屈指の航空機メーカーの一つとして現在に至ります。
<主要参考文献>
『川崎重工 岐阜工場50年の歩み』 (昭和62年11月 川崎重工業株式会社 航空機事業本部)
『戦略爆撃調査団報告書』
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