| 汎用的な方法で計測・伝送・提示可能な情報メディアとしての触覚 | 触原色 (Haptic Primary Colors) |
汎用的な方法で計測・伝送・提示可能な情報メディアとしての触覚
現在の視聴覚メディアは、基本的に視聴者の身体運動を伴わない受動的なメディアです。現在、視聴覚のみを伝える受動的なメディアの発展は飽和状態にあり、その限界も見え始めています。そのようななか、現在の視聴覚メディアを革新的に進展させる新しいメディアが世界中で追求されつつあります。従来の視聴覚メディアをインタラクティブな能動的な視聴覚メディアに発展させることに加え、更に根本的に変革して、バーチャルリアリティやロボットなどを用いた能動的な身体運動をともなう 「身体性」に基づく革新的な情報メディアを生み出して行くことが求められているのです。
この「身体性」を伝えるには「触覚」の伝送が必要不可欠となりますが、 特定の状況で使えるアドホック(ad-hoc)な触覚伝送技術は開発されているものの汎用的に利用可能な触覚伝送技術は未だ存在しません。すなわち、視覚や聴覚に匹敵するような汎用的な方法で、触覚を記録し、伝送して再生することができないのです。さらに言えば、視覚、聴覚、触覚を能動的に統合し身体的な経験を記録・伝送・再生する技術が確立されていません。
身体的経験の記録・伝送・再生技術の、従来の受動的な視聴覚体験の伝送技術との最も本質的な違いは、身体運動による人と外界環境とのインタラクションの結果として生じる触覚情報による、身体的経験の自己帰属感の存在です。すなわち、触覚情報の伝送を可能とすることが、身体的経験の伝送の実現において最も重要な鍵となるのです。
現在の触覚伝送技術の研究においては、触覚伝送の技術は数多く提案されているものの、特殊な状況を再現するものであったり、様々な素子を組み合わせた大型かつ複雑な装置であったりしています。現在の触覚技術の産業応用においては、スマートフォンやエンターテイメント機器において、ピエゾアクチュエータ等を用いた振動提示モジュールが広く用いられていますが、ここで伝送される感覚情報は、単純な振動に留まり、実物体から得られるような細やかな触感や、身体運動によって生じる全身の運動感を伝送するには至っていません。触覚は目や耳などの特定の身体部位のみで知覚される視覚や聴覚とは異なり、全身に分布する多種多様な触覚受容器の反応が身体運動の中で統合されて知覚される複合的な感覚であるため、振動や力などの単独の触感覚要素の単なる組み合わせでは再現が不可能です。そのため触覚技術の本格的な産業応用を実現するためには、視覚における撮像モジュール(例えばCCD)と提示モジュール(例えばLCD)に相当するような、人が感じている感覚情報と等価な情報を汎用的に記録・再生できるモジュールと、単なり組み合わせではない本質的かつ汎用的な提示法が必要不可欠となるのです。
視覚において、アドホックな方法ではなく、汎用的な方式で、記録のための撮影モジュールや再生のための提示モジュールが存在する理由は、実は、この記録・伝送・再生が、人間の視覚特性に基づくものであるからです。
人間の視覚は、電磁波のうち光と呼ばれる0.40~0.75μmというきわめて限られた領域を検出するにすぎません。自然の色には、様々の波長の光が混じっています。これを、すべて記録し、伝送して提示する方式では、原理的には可能であっても、実際には装置として実現できないのです。視覚情報の記録・伝送・提示を可能にしているのが、人間の錐体細胞の波長選択制の特性を利用した三原色原理に基づく方式です。すなわち、自然の色と全く同じスペクトル構成のものを使わなくとも、RGB(赤緑青)を担うそれぞれの錐体細胞に、自然の色とスペクトルが異なる光を用いても、自然の色を加えたのと同一の発火パターンを励起させれば、あるいは、人間の目に同一のRGBの光を提示すれば、人間にとっては、まったく同じ色に見えてしまうという事実を利用しているのです。
従って、自然の色を三原色に分解し、その値を記録し、伝送して、それを、三原色で合成すれば、簡単かつ合理的に視覚情報を伝送し再現できます。また、それを、記録しておいて再生することもできるのです。記録したモノを取り出して、加工したり編集したりすることもできます。全く新しい映像をつくりだすことさえ可能です。印刷物やテレビなど、ありとあらゆる視覚情報はまさにこの原理を利用しているのです(図1)。視覚情報がメディアとなっている状態と言えます。この三原色原理は、人間の感覚特性に基づいた方法で有り、それ故に、汎用的な方法になりえて現在に至っているのです。
それでは、触覚においても同様なことは可能でしょうか。もし、可能であれば、触覚においては、どのような原理に基づいて、計測・記録し、それを伝送して、人に提示すればよいのでしょうか(図2)
それを解決するための提案が、「触原色(Haptic Primary Colors)」原理です。「触原色」原理は、視覚の三原色が眼球の錐体細胞の波長特性に基づいているのと同様に、触覚の生理学的知見に基づき、分解し、伝送し、提示しようとする技術概念です(図3)。それが可能となれば、触覚を汎用的な方式で、計測・記録し、伝送して、再生・提示することができるようになります。それにともない、CCDやLCDに匹敵するセンシングと提示のモジュールや素子を作製することが可能となって産業応用も進むことになります。つまり、触覚が視覚や聴覚に匹敵する情報メディアとなるのです。
図1
図2
図3
| 汎用的な方法で計測・伝送・提示可能な情報メディアとしての触覚 | 触原色 (Haptic Primary Colors) |
触原色 (Haptic Primary Colors)
人間の感覚は「特殊感覚」と「体性感覚」とに分けられます。特殊感覚 (specific sensation) とは、視覚であれば眼球、聴覚であれば耳などのように対応した特別な感覚器が存在する感覚のことを指しています。「加速度」という感覚も、五感のうちには数えられていませんが、耳(その中の前庭:三半規管と卵形曩・球形曩)という感覚器が対応しているという意味で特殊感覚に分類されます。
一方、体性感覚 (somatic sensation) とは、体分節性の感覚という意味で、大きく分けると皮膚に由来する皮膚感覚 (cutaneous sensation) と、内部の筋とか腱に由来する姿勢や運動の感覚である固有受容感覚 (proprioception) とに分かれます。固有受容感覚は自己受容感覚とも訳されています。そして実は、この皮膚感覚と固有受容感覚という体性感覚の全体こそ、広い意味での触覚と呼ばれているものです。
ちなみに、狭い意味で触覚といった場合には、本来的には、温・冷・痛などの感覚も含まれる皮膚感覚の中の、接触覚とか圧覚を意味しています。この接触覚や圧覚は皮膚の中にあるメルケル細胞、マイスナー小体、パチニ小体やルフィニ終末などの感覚器に対応しています。皮膚全体がへこんだり引っ張られたりした場合にその変形や振動が感覚器に伝わり感覚が生じるのです。
また、能動的触覚といって、自ら体を動かして触れることで、皮膚だけでなく筋の筋紡錘、腱のゴルジ受容体などの感覚受容器が刺激されて起きる固有受容感覚との総合的な感覚もあります。このように見てくると、触覚というものが一つの感覚器に対応した、触れているかいないかといった単純な感覚ではなく、固有受容感覚まで含めた、幅広い感覚の総合であることがわかります。
さて、人間が広義の触覚によって、ある物体、例えば鉄の玉を認識するプロセスを考えてみましょう。まず触れることで人間は形状を知るわけですが、直に指で触らず、指に厚手の手袋をはめて、それを介して鉄の玉に触れても、腕、手、指の関節がどう動いてどんな形になったということから「球」と推測できます。このことからも明らかなように、大まかな形状の認識は皮膚ではなく、筋紡錘やゴルジ受容器などの固有受容感覚によっています。また大まかな形状に加え、硬さとか、バネのような反撥力を感じたり、水の中で腕を動かしたりするときの抵抗感などの感覚なども、固有受容感覚に由来するのです。
皮膚感覚はもっと細かい、「テクスチャー」と呼ばれる表面の細かい形状パターンを認識するものです。この感覚は、厚い手袋をした状態では生じず、直に触ることが必要です。この感覚は先述した能動的触覚によってさらに認識精度が向上します。因みに、この固有受容と皮膚感覚が一体となった運動をともなう触覚のことを、ハプティクス (触運動知覚:haptic perception, haptics) と呼んでいます。持って触れることだけでは鉄とまでは判別できないわけですが、それが金属だろうと認識できるのは、テクスチャーに加え温冷を感じる皮膚感覚によっているのです。
以降、この皮膚感覚を触覚とよび議論します。
人間が直接ある物体を指の表面で触った時の感覚を伝えるために、人間の指の表面に、実際の物体と全く同じ物体を提示しなければならないのであれば、触覚を情報メディアとして扱うことはできないわけです。視覚の場合、例えば物体の色は実際のスペクトルと異なっていても、人間のRGBのそれぞれを担う錐体細胞が同一の発火をすれば同じ色に見え、この原理こそが、テレビやカラー写真やカラーの印刷物を可能としていることは先に述べたとおりです。それが、色の三原色というものです。同じことが触覚でもいえないでしょうか。つまり、触原色というものが存在するのかということです。
その存在を裏付ける事実が、人間の触覚において明確に異なる種類の感覚器が存在していることにあります。メルケル細胞、マイスナー小体、パチニ小体やルフィニ終末がそれにあたります。また、温冷痛に反応する自由神経終末も存在します。神経生理学研究の成果として、メルケル細胞とルフィニ終末は圧力と剪断力、マイスナー小体は低周波振動、パチニ小体は高周波振動を検知することが知られている。また、物体に接触した際には、メルケルとルフィニで変位、マイスナーで速度、パチニで加速度を検知しているといわれています(図4)。
図4 Å.B. Vallbo and R.S. Johansson: Properties of cutaneous mechanoreceptors in the human hand related touch sensation, Human Neurobiology, vol.3, pp.3-14, 1984.より改変
実物体には、凹凸形状、摩擦、熱、弾性といった多くの物理特性があります。これを、すべて再現する必要があれば、実物をもってこなければならなくなり、情報メディアとしての提示は不可能です。しかし、皮膚感覚が生じる状況を考察するならば、物体を触ると皮膚表面に、力と振動と温度変化が生じ、それが伝わって、これらの感覚器が反応して触覚が生じることがわかります。そうであれば、物体の凹凸形状、摩擦、熱、弾性といった物理特性がどうであれ、感覚器が、その物体を触った時と同一に反応すれば同じ触覚が人間に生じることになります。これは、まさに、視覚の場合と同じです。
その際、感覚器に同一の発火を引き起こすには大別して二つの方法があります。
第一の方法は、生理空間に基底を求める方式です。電気刺激で基底となる感覚器そのものを選択的に発火させるという方法です。電極をすべての感覚器の場所に埋め込んで刺激するという侵襲的な方法は実用的でないことから、皮膚表面からの経皮電気刺激で、しかも選択的に感覚器を刺激するのです。この方法については、陽極刺激によってマイスナー小体のみを選択刺激可能であり、陰極の電気刺激で皮膚電極を介してメルケル細胞を刺激して、圧覚に似た感覚を伝えることが可能です。しかし、パチニ小体を選択的刺激することができないし、温冷も選択的に刺激できません。また、逆に本来は痛覚を生じないような刺激でも、痛覚を伴ってしまうことがあります。従って、生理空間の基底を直接選択的に刺激する方法では、汎用的な刺激を与えるにいたっていないのが現状です。
第二の方法は、視覚のRGBを基底とする方法と等価な方法で、物理空間で基底を選択する方式です。メルケル細胞とルフィニ終末が圧力と剪断力、マイスナー小体が低周波振動、パチニ小体が高周波振動、自由神経終末は、温、冷、痛に応答することから、実物体を触ったときの人間の皮膚表面での、圧力と剪断力、すなわちベクトル力としての「力」、低周波から高周波までの「振動」と、「温度」が、実際に触っていないときでも、同一に提示されれば、人間は、同じ感覚を得ることになります。これが、人間の能動的な運動により、変化して行きますが、それを人間の動きに追従して忠実に再現すればよいことになります。これは、視覚において、光のすべてのスペクトラムを再現せず、RGBに対応したスペクトラムのみを基底として用い、その基底に基づく合成で、ほとんどすべての視覚情報を再現している方式と類似の方式です。すなわち、物体の有する凹凸形状、摩擦、熱、弾性といった物理特性をすべて再現するのではなく、その物体との接触によって皮膚表面に生じる、「力」、「振動」、「温度」の三つの物理量を基底として、それらの時間変化を記録し、伝送して、それらの基底を基に様々な触感を合成するのです。
この「力」、「振動」、「温度」の三つの物理量を基底とする第二の方法が、触原色原理の基本形です。また、この基本形に、「電気」を付加する、あるいは「力」を「電気」で置き換える方法も有効です。
図5