「○○川」が土俵を席巻していたのは、男女ノ川と同時代、もしくはその直前であったろうか。
清水川元吉は、青森県北津軽郡三好村(現・五所川原市)の農家に生まれた。隣家は江戸相撲の名大関・柏戸利助の生家で、元吉の父親も地方相撲の強豪だった。大正6(1917)年に初土俵、切れ味鋭い上手投げで昭和7(1932)年に大関昇進を果たした。幕内で3回の優勝を飾っている。横綱の双葉山に4勝5敗、同・玉錦に8勝7敗、男女ノ川に5勝6敗と、当時の強豪と互角に渡り合った名大関だ。
「清水川」の四股名は、故郷を流れる川と、宮相撲で大関をつとめていたときに名乗っていた名前から取った。その川は、東津軽郡平内町を貫いている清水川だろうか。
ほぼ同時代の力士には、関脇に出世した天竜三郎がいる。静岡県浜松市の出身。昭和7(1932年)、力士たちが日本相撲協会の体質改善を要求して、東京府荏原郡大井村(現東京都品川区大井)の中華料理店に立てこもった「春秋園事件」の当事者で、天竜川にちなんだ四股名であることはいうまでもないだろう。男女ノ川も、この騒動に巻き込まれている。
「○○川」は時代を下るにつれてジリ貧になってしまうが、昭和40年前後に最後の輝きを放つ。東京オリンピックが開かれた昭和39(1964)年、34連勝中だった大鵬に土をつけたのは前田川克郎だ、さらに、3年後の昭和42年、再び34の勝ち星を重ねた大鵬の連勝街道を阻んだのが浅瀬川健次だった。天明2(1782)年、4年間無敗をつづけていた谷風に土をつけたのは小野川であった。
谷風に配するに小野川、双葉山に男女ノ川、大鵬に前田川、浅瀬川…。「○○川」は、時代を問わず脇役が似合いなのだろうか。脇役に甘んじてもいいから、関取「○○川」の出現を切に祈る。そう願いながら、空しく長い歳月が流れ去った。国技には不似合いな四股名を名乗る外国人力士に、「○○川」への改名をお願いしたいぐらいの気持ちである。