作品マーケット「マルシェル」でお買い物

カフェレーサーの魂

 
 
あんまし「美学」て言い回しは好きでは
ないんだけどね。
それを「俺の美学は」云々で使う野郎は
大抵はイタタのキモいナルちゃんだから。
 
しかし、仮にカフェレーサーの美学がある
とするならば、それは、究極のナンチャッ
テなのだろう。
コースを走る競技用の純レーサーではな
い。
あえて例えるならば、1980年代に世界で
初めて登場した「レーサーレプリカ」が
カフェレーサーの最終形だろう。
乗っていた連中は、疑似レーシングを好む
連中であって、決してカフェにたむろし
てロックンロールを聴くような男たちでは
なかったのだが、マシンの設定コンセプト
は1960年代のカフェレーサーと同方向で
車作りが為されていた。コース専用競技
車両に保安部品を着けたような車。
 
現代では、一般的にカフェレーサーという
と、1960年代のイギリスロンドンのエース
カフェに集まったカフェレーサーの車両
コンセプトを焼き直す事が為されている。
 
ただ、肝心な事を多くの人たちは忘れて
いる。
それは、TON-UPということだ。
つまり100マイル=時速160km以上で爆走
することが本物のカフェレーサー
乗りには
必須だったのだ。
1960年代の市販オートバイで160km/hを
出すのは至難の技だった。200km/hオー
バーなどは夢の夢だった。
それが1980年代末期には250cc以下の二輪
でもノーマルで出てしまうような性能に
なった。
大排気量でも不可能だった事がライトウエ
イトの250でサッと出てしまうようになっ
たのが1980年代だった。
しかし、80年代レプリカ乗りは最高速を
出すよりも、低速コーナーの連続する場所
を減速させずにミズスマシのように回る
だけに躍起になっていた。
旋回速度のみは異様に高い。
しかし、加速もフルブレーキングも無い。
同速度走行同速度旋回のようなことをやっ
ていた。てんでレーシーではない。
 
そのうちブームは去った。
ブームは単なる流行なので、ローリング
族は流行りが過ぎたら走らなくなる。
バイクが好きで好きで、走りが好きでたま
らぬ、ということではなかったからだ。
 
その間、攻撃的な走りをしない層によって
細々とバイクは乗り続けられて来た。
子育てや家庭事情で一時的に乗る事を停止
していた人たちの多くがまた数年後には
二輪に乗り始めた。これはリターンでは
ないように思える。バイクをやめたので
はなく、停止していたのだから。
バイクをやめた人は本当にやめてしまって
いる。乗る事に興味が無くなったのだ。
 
今の250は200km/hをオーバーしない。
できない。せいぜい、180出るか出ないか
だろう。
公道で出すことは違法だが、出るバイクか
どうかというのは結構マシン判断の重要な
ファクターとなってくる。スポーツバイク
ならばなおさらだ。
しかし、現在は、速度が出るバイクなら
ば、大排気量を選べばよい、というお膳立
てができている。300km/hを超えてしまう
オートバイさえ世の中には多く存在する。
 
そうした時代の中で、あえてカフェレー
サースタイルを求める人たちは、かつての
TON-UPを目指した魂とは別な次元での
事をマシンに求めている。
それは、かつての若者たちが求めたその
姿への憧憬だろう。「叛逆の挑戦者」の
ような。かつてそれは反骨であり、反抗で
あり、反権威であった。
そして、価値観までも枠に嵌めようとする
権力に抵抗する反権力であった。
 
つまり、ロックなのだ。
ロックの魂が同居していないカフェレー
サーというのはあり得ない。
ロッカーズが乗るのがカフェレーサーなの
だから。暴走族が乗るのが集合管直管が
定番だったように。
 
カッコだけではなく、反骨心のスピリット
を持つカフェレーサー乗りが今の時代どれ
くらいいるのだろう。
実測でTON-UPが出るカフェバイクに乗っ
ているかどうかよりも、魂の在り方のほう
が大切な事のように思える。
特に、現代人のほうがシビアだ。
60年代にタイムリーにカフェレーサーに
乗っていたロッカーズは、ごく自然にタイ
ムリーな事をやっていただけだが、今の
時代においてはオールドスタイルとして、
今様ではない事をあえてやるからだ。
そこには、60年代時代のナチュラルとは
別な大切な意識性が今は逆に問われる。
やはり、魂がどうかだと私は思いますよ。
でないと、単なるコスプレになっちゃう。
それは、60年代ロッカーズへの敬意から
彼らの生き方と走りをなぞる現代カフェ
乗りではなく、敬意なきナンチャッテに
なってしまう。
ハートがどうか、マインドがどうか、スピ
リットがどうか、マンシップがどうかだと
思いますよ。特に
カフェレーサーに乗るのは。
 
現行の標準メーカー仕様で「カフェ」を
名乗るコンセプトのラインナップには、
個人的には疑問を持っている。
見た目のスタイル、形だけを真似て、それ
をカフェでござい、てのは何か大切な物が
ガボンと欠落してるように思えるのよね。
だって、別段、敬意が無いでしょ?
抵抗し反抗した英国の若きロッカーズ
たち
に対して。
敬意もないのに、彼らが乗っていたバイク
を作って、というのは・・・。
やはり、カッコだけの中身無しになるので
はないかなあ。カフェレーサーに関する
歴史について、人への敬意も克己も無い
のだから。
どうせそのモデルに乗るなら、本物の彼ら
がどんな思いで生きて、何を求めて走って
いたのか、彼らは何だったのか、自分は
どこに行くのか、それに心を砕かないと、
本物は見えて来ないのではないかなあ。
どのジャンルでもそれ言えてると思うよ。
いわんや武芸においてをや。
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