スターフィッシュ

著:ピーター・ワッツ

訳:三音高澄

Peter Watts の長編小説 Starfish (1999) の日本語全訳。

原文は CC BY-NC-SA 2.5 の下に提供されており、翻訳はライセンスを継承している。


目次

序章:〈ケラティアス〉

ベントス

デュエット

圧迫

ニッチ

大掃除

ローマ

幼形成熟

エレベーターボーイ

オートクレーヴ

ウォーターベッド

ドッペルゲンガー

天使

野生

シャドウ

バレエ

ダンサー

短絡

臨界質量

ネクトン

ドライバック

ジャンプスタート

マックレイカー

悲鳴

パピルス

亡霊

引き網

エントロピー

回転木馬

脱皮

アリバイ

隔離

浣腸

変節

ヘッドチーズ

主題と変奏

グラウンド・ゼロ

ソフトウェア

RACTER

エンドゲーム

夜勤

散開

爬虫類

スカイホップ

光の洪水

日の出

エリコ

デトリタス

参考文献

謝辞


スターフィッシュ


スーザン・オシャネクに。

あなたが今も生きている一縷の望みにかけて。

そしてローリー・チャナーに。

私にとっての僥倖は、あなたが確実に生きていることだ。


序章:〈ケラティアス〉

 深淵は、人を沈黙させるもののはずだ。

 陽の光は百万年もの昔からこの海域に届いていない。水圧は数百気圧に達し、海溝はエヴェレスト山を一ダース呑み込もうと曖気ひとつ漏らさない。生命は深海で発生したという説がある。そうかもしれない。安産でなかったことは、今なお残る生命から判断するに間違いない。無明の圧力と慢性的な飢餓で歪み、悪夢を象った怪物ばかりだ。

 船殻の中にいても、深淵は聖堂の穹窿さながらに重く圧しかかる。下らないおしゃべりの場ではない。話すにしても静かにするものだ。が、観光客にはてんで気にする様子がない。

 自分を包む潜水艇の呼吸、カチッ、シュッという声に耳を傾けるのが、ジョエル・キタの習慣だった。そういう音は頼りになる。計器の表示は獣が腹を唸らせて語ったことを裏付けるにすぎない。だが、この〈ケラティアス〉は遊覧船だ。防音は完璧だし、過剰な頭上スペースやリクライニングカウチ、各座席の背に備えつけの小型酒類販売機を完備している。目下聞こえてくるのは、積荷の雑談だけ。

 肩越しにちらりと後ろを見やる。ゼブラカットで二〇代半ばのインド系ツアーガイド、プレテーラ何某が、ぱっと悲しげな笑顔を浮かべた。ガイドは自分が生きた化石であることをわきまえている。船に搭載されたライブラリに張り合えるはずもなく、3Dアニメーションや没入できるサウンドトラックを内蔵しているわけでもない。ただの小道具でしかないのが実情だ。観光客は有用さではなく無用さゆえにガイドの給料を支払う。必需品しか買わないのであれば金持ちになっても意味がない。

 客は八人。コッドピースをまとった齢一世紀に迫らんとする老人は、カメラの操作をいじくり回している。他の客はヘッドセットを装着していた。実行中のプログラムは潜水中の注意を引きつつも、感動的すぎて実際の目的地が肩すかしにならないよう、入念に設計されている。その境界線も近頃は際どいものだ。シミュレーションは必ずと言っていいほど本物の生命より上等で、本物はお粗末だとなじられる。

 あの特製プログラムがもう少し巧みに関心を引きつけてくれたらいいのだが。もっと注意を払うようになれば客だって黙るだろう。どちらにせよチャナーの海の怪物が誇大広告に見合っているかどうかなんて、客にとってはどうでもいいのかもしれない。この手の輩がこんなところまでやってくるのは海の底が感動的だからではなく、費用がお高くつくからだ。

 制御盤にさっと目を走らせる。それにしても過剰だ。空調設備と潜航中の余興装置でパネルの優に半分が埋まっている。うんざりしたジョエルはヘッドセットの配信を適当に選んでアクセスし、メインディスプレイのウィンドウのひとつに信号を送る。

 現代アニメーションの奇跡を介して蘇りしは、一八世紀木版画のクラーケン。粗雑な描画の触手がガレオン船のマストに絡みつき、ざっくりと刻まれた波の下へ引きずり込む。男女両性の関心を最大限に引き出すべくデザインされた女性の声が響く。

「人は昔から海に怪物を登場させてきました――」

 配信を切る。

 コッドピース老が背後に近づいてきて、肩に馴れ馴れしく手を置く。その手を払いのけようとする衝動にジョエルは抗う。これも観光潜水艇の問題点のひとつだ。本物の操縦席はなく、乗客ラウンジの先頭に制御装置一式が据えてあるだけ。積荷から離れられないのだ。

「素晴らしいレイアウトだ」

 とコッドピース老が言う。ジョエルはプロの職務を自らに言い聞かせ、微笑む。

「この仕事は長いのか」

 白髪頭の肌が培養キサントフィルの金色がかった褐色に輝く。ジョエルの笑みは少し曇る。もちろん恩恵についてはあらかた耳にしている。紫外線防護、血中酸素濃度上昇、エネルギー増加。金持ち連中は食費の心配とは無縁だが、必要食事量も削減すると聞く。それでもジョエルの好みからすれば度を越した酔狂でしかない。インプラントは肉か、せめて合成樹脂で作られていなければ。光合成の必要に迫られたら、きっと葉っぱを生やすのだろう。

「なあ……」

「二年になります」

 とジョエルが頷いて答えると、老人は唸り、

「海底サファリがそんな前からあったとは知らなかった」

「私は海底サファリの職員じゃなくて」

 なるべく礼儀正しい口調で、

「フリーランスなんです」

 この白髪の老人は何もわかっちゃいまい。皆が年がら年中同じ主人に忠誠を誓っていた時代の生まれだ。それが悪いことだなんて当時は誰も思っていなかった。

「やるじゃないか」コッドピース老は父親がするように肩をぽんと叩いてきた。

 ジョエルは舵をわずかに左舷へ動かす。船は投光器を消したままリフト南東部の肩から少し離れたところを巡航している。ソナーが描くのは泥と礫岩だらけのなんの変哲もない風景だ。リフトまではあと五分から一〇分ほど。画面上の観光客向けプログラムは第二次世界大戦中に救命艇を襲ったダイオウイカについて語り、証拠として一連の記録写真を表示していく。角ばった吸盤に肉を抉られて拳大の傷が円錐状にくぼんだ、人間の脚を。

「ぞっとするねえ。ダイオウイカには会えるのかな」

 ジョエルは首を振り、

「イカは別のツアーですね」

 プログラムは深海のぞっとする事例を嫌というほど列挙し始める。三〇メートル大のタコの存在を示唆する、フロリダの浜に打ち上げられた肉片。巨大ウナギの幼生。食糧不足で人知れず絶滅した、かつては巨大なクジラを餌食にしていたと思われる仮説上の怪物。

 ジョエルの考えでは九割が駄法螺で、残りの一割も物の数ではない。ダイオウイカとて真の深海に潜りはしないのだから。そんな生物は皆無に近い。なにせ餌がない。何年も海底をあちこち回っているが、本物の怪物に出くわしたことは一度もなかった。

 無論ここは例外だ。制御盤にふれると、外部の高周波スピーカーが奈落の底に向かってすすり泣き始める。

「熱水噴出孔は世界中の海で海嶺地帯に沿って煮えたぎっていて、オオシャコガイや三メートルを超えるチューブワームの群れを育んでいます」

 プログラムがまくしたて、噴出孔社会の記録映像を流す。

「とはいえ海嶺地帯でさえ巨大化するのは濾過摂食者やマックレイカーだけです。魚、人間と同じ脊椎動物はごく稀で、大きさもほんの数センチしかありません」

 画面上で力なく身をくねらせる一匹のゲンゲは、魚というより切断された指に見える。

 プログラムは劇的効果を狙った間を置き、

「ここは例外です。ここ、フアンデフカ海嶺の片隅には特別な何かが、説明のつかない何かがあります。ここには龍が棲んでいるのです」

 ジョエルは再び制御盤を叩く。外部の誘引照明がぱっと輝き、生物発光スペクトル全域を照らす。船内が薄暗くなる。音波に引き寄せられたリフトの住民たちには、食べられる本物の魚の群れが降って湧いたように見える。

「チャナー噴出孔の秘密はわかっていません。へんてこで魅力的な巨大生物がどのようにして生み出されるのかも不明です」

 プログラムの映像表示が消えてゆく。

「ひとつだけわかっていることがあります。ここアキシャル火山の肩で、とうとう怪物の巣が突き止められたのです」

 何かが外殻にぶつかる。客室の音響装置がその音を不自然なほど大きく響かせる。

 ようやく乗客が押し黙った。コッドピース老が何やら呟いて座席へ引き返す。慌てん坊の巨大葉緑体。

「これにてご紹介を終わりとさせていただきます。外部カメラはお手許のヘッドセットにリンクされており、頭をごく普通に動かしていただくと狙いをつけられます。ピント調整と録画は右肘かけのジョイスティックをご活用ください。眺めを直接お楽しみになりたい場合は、船室の舷窓からご覧いただけます。お困りのことがありましたら、ガイドとパイロットにお声がけください。チャナー噴出孔へようこそ、海底サファリは皆様がツアーを最後までお楽しみになられますよう願っております」

 さらに二度の衝突音。左舷前方に灰色が閃く。前照灯の中をしなやかな腹が一瞬よぎり、ヒレが渦を巻く。システムボード上では外部カメラのアイコン群が小刻みに揺れ動いている。

 イナクテモイイ・プレテーラが副操縦席に滑り込んできた。

「外はいつも通りの餌の奪い合いだね」

「中でも外でも。なんの違いもありゃしない」

 とジョエルが小声で答えると、プレテーラは微笑んだ。無言で同意を示す無難な仕草。プレテーラのとびきりの笑顔は縞模様の髪型をちゃらにできそうなくらいだ。その左手の甲の何かが目に留まった。難民の刺青に見えるが本物とも思えない。ファッション・ステートメントという方がありそうだ。

「きみがいなくて平気なんかね」苦々しげにジョエルは訊く。

 プレテーラが後ろを見る。積荷はまた騒ぎ出していた。あれを見て。うわ、歯が折れたぞ。なんちゅう不細工な……。

「ま、なんとかするでしょ」

 舷窓の向こうに何かがぬっと現れる。口は針の山さながら、下顎からぶら下がるひげの先端には光り輝く球がある。関節が外れそうなほど大口を開けた顎がばくりと閉じ、その歯が舷窓を擦るも傷ひとつ残せない。フラットな黒い目が睨みつけてくる。

「あれなに」

「ツアーガイドはきみだろ」

「あんなの見たことない」

「俺もだよ」

 船殻に一筋の電流を流してやると、驚いた怪物は闇の中へさっと逃げていく。断続的な衝突音が〈ケラティアス〉内に反響し、積荷から息を呑む声が繰り返し上がる。

「チャナーまではあとどれくらい?」

 ジョエルは状況画面をさっと見て、

「もう入ってる。左手、だいたい五〇メートルに中規模の熱孔」

「あれは?」

 等間隔に並んだ輝点の列が画面に表示されている。

「測量用の支柱」

 別の列が最初の列に続いて画面を行進する。

「地熱発電計画の。聞いたことあるだろ」

「ちょっと寄っていったら。発電機は感動間違いなしだよ」

「まだないんじゃねえかな。ようやく基礎を築いたところだから」

「だとしても、もっと楽しいツアーになるでしょ」

「近づかないって決まりなんだよ。もし誰かいたらクソほど面倒なことになる」

「誰かって」プレテーラはさっきよりも計算高い微笑みを浮かべる。「あそこに?」

「まあ、いないだろうけど」

 とジョエルは認める。建設が二週間も中断しているのがじれったくてしょうがない。グリッド・オーソリティが大企業なりの重い腰を上げて着手済みの建設を完遂した暁には、適正かつ高額の契約を結ぶつもりだったからだ。

 プレテーラが期待のこもった目を向けてくる。ジョエルは肩をすくめ、

「あそこはかなり不安定でな。ちょいとばかり揺れる恐れがある」

「危険なの?」

「定義による。まず大丈夫だとは思う」

「じゃあやりましょ」プレテーラは陰謀めかして肩にそっとふれてきた。

〈ケラティアス〉が新しい目的地を嗅ぎ回る。ジョエルは誘引照明を消して音波を増幅し、甲高い別れの挨拶を放つ。外の怪物たち――矮小な魚類の脳で金属は食べられないと理解したのに潔く立ち去らなかった魚が、悲鳴を上げて闇の中へ退散し、側線を燃え上がらせる。驚いた積荷はつかのま押し黙り、プレテーラ何某がその空白へするりと踏み込む。

「皆様、本船はリフトの新しい施設を調査するために少々迂回路を取っております。ソナーの配信にアクセスしていただくと、チェッカーボードのような格子状に並んだ音響ビーコンへと近づいているところをご覧になれます。グリッド・オーソリティは、これまで散々噂されてきた地熱発電所を新設する過程でこのビーコンを設置しました。ご存じのように、似たような計画はガラパゴスからアリューシャンに至るまであらゆる海嶺地帯で進行中です。発電所が稼働すれば、従業員は四六時中リフトで生活を送るとのことで――」

 信じられない。ライブラリに一矢報いる絶好のチャンスなのに、プレテーラの話しぶりときたらライブラリそのものじゃないか。ジョエルは中脳で大事に育てていた妄想を粛々と中絶する。今、妄想上のプレテーラというジャンプスーツをまとったら、上機嫌で暗唱される説明を聞く破目になりそうだ。

 外部投光器をつけた。泥。また泥。ソナー画面上ではビーコンの格子が這い寄ってくる。単純にもほどがある星座だ。

 何かが〈ケラティアス〉を捕まえ、向きを変える。船殻のサーミスタが急上昇する。

「熱水です」ジョエルは肩越しに後ろへ告げる。「心配はいりません」

 ぼやけた赤銅色の太陽が右舷に現れる。それは柱に載った松明、ナトリウム電球と超長波の鼓動で奈落を押しのける領土標識だった。グリッド・オーソリティが全方位に向けてマーキングしているのだ。この地獄は我々の縄張りだ、と。

 頭に投光器を載せた塔の列が左舷方向に延びている。それと交差する別の列がまっすぐ前方へ遠のく様は、まるで霧の夜の街灯だ。合成樹脂と金属が織りなす未完成の奇観に照明の光が降りそそぐ。脱線した有蓋貨車めいて海底に横たわる巨大な金属の筐体。玄武岩よりも硬く凍てついた平坦な樹脂の池で待機する涙滴型の無人潜水機たち。硬質の表面から突き出す、関節の下で断ち切られた中空の骨のように縁の鋭い導管群。

 左に並ぶ塔の一本の遙か上で、何やら太った影が照明を襲っている。

 ジョエルはカメラアイコンをチェックした。全て左上方向にズームしている。プレテーラは酸素節約のためか、白髪頭たちがあんぐりと口を開けている間は口上を止めていた。それでいい。客の望みは愚かな魚の暴力なのだから、愚かな魚の暴力を見せてやれ。〈ケラティアス〉は左舷上方へ向かう。

 メスのアンコウだ。投光器への突撃を繰り返しており、〈ケラティアス〉の接近に気づいていない。アンコウの背骨が鞭のようにしなる。背骨の先端にある輝くミミズに似た形の疑似餌が、強烈な冷光を放つ。

 プレテーラが隣に戻ってきて言う。

「あの照明をこてんぱんにやっつけようとしてるみたいね」

 その通り。トランスポンダの先端は巨大魚の打撃で揺れていたが、どこか妙だ。こういう魚は図体こそでかいが大して強くない。考えてみたら、塔はアンコウがふれていないときも前後に揺れているような……。

「ちっ、まずい」

 ジョエルは操縦桿を握った。〈ケラティアス〉は生きているかのように首をもたげる。トランスポンダの輝きが舷窓の底に遠ざかってゆく。闇の帳が落ちかかり、視界を呑み込む。積荷から叫喚が上がるが、構っている暇はない。

 何かが唸るような鈍い音が、四方八方でかすかに響いている。

 スロットル全開、〈ケラティアス〉が上昇する。何かが背後から打ちつけてくる。船尾が左舷に滑り、船首も引き戻される。舷窓の向こう、船室の照明に照らされた暗闇が、突然くすんだ茶色に沸騰する。

 船殻のサーミスタの急上昇が二回、三回。周囲の温度が摂氏四度から二八〇度に転じ、また元に戻る。もっと水圧が低かったら〈ケラティアス〉は荒れ狂う蒸気に沈んでしまっていただろう。今回は過熱水に引っ張られてスピンし、横滑りしただけだ。

 ようやく活路が開ける。〈ケラティアス〉は待ち望んだ冷水の中を上昇する。魚の骸骨が旋回しながら舷窓をよぎる。歯と背骨だけで、肉は跡形もなく蒸発していた。

 ジョエルは肩越しに後ろを見やる。プレテーラの指が座席の背を握り締めていて、その拳は外で踊る骨と同じ色だ。積荷は静まり返っている。

「また熱水?」

 プレテーラが震え声で問う。ジョエルは首を振り、

「海底がぱっくり割れたんだ。この辺りは薄っぺらいからな」

 無理をして軽く笑って、

「ちょっと揺れるかもって言ったろ」

「言ったけどさあ」

 プレテーラが座席から手を放すと、爪の痕が生地にくっきりと残った。顔を寄せて、

「キャビンを少し明るくして。素敵なリビングくらいの感じで」

 とささやくと船尾の方へ向かい、積荷への応対を始める。

「いやあ、実にエキサイティングでしたね。ですがジョエルが言うには、ああいう小さな爆発はしょっちゅう起こるものなんです。何もご心配になられることはありません。不意を衝かれはしますけどね」

 ジョエルはキャビンの照明を明るくする。積荷は静かに座り、じっとしたままヘッドセットに現実逃避していた。プレテーラが忙しく動き回り、客をなだめている。

「もちろん楽しいツアーはまだまだ続きます……」

 ジョエルはソナーのゲインを上げ、船尾方向に焦点を合わせる。光り輝く嵐が状況画面いっぱいに渦を巻く。その下では新鮮な岩が滲み出して尾根となり、グリッド・オーソリティの建設現場の美観を台無しにしていた。

 プレテーラがそばに戻ってきた。

「ジョエル」

「おう」

「従業員はあそこで生活する予定なんだよね」

「うん」

「わお。誰が?」

 ジョエルはプレテーラに目を向ける。

「PRスレッド、見たことないか。超一流の最優秀人材だよ。永遠の夜を押しやって、文明という火に燃料をくべるのさ」

「真面目な話だよ、ジョエル。誰が?」

 ジョエルは肩をすくめた。

「知ったこっちゃねえや」


ベントス


デュエット

圧迫

 ビービ基地の灯りが落ちると、金属の呻き声が聞こえてくる。

 レニー・クラークは寝台に横たわって耳を澄ます。頭上を走るパイプとワイア、卵の殻同然の外殻越しに、三キロメートルに及ぶ暗黒の海が自分を圧し潰そうとしている。リフトが大陸をも動かす力で海底を引き裂いているのが伝わってくる。脆弱な待避所の中でじっとしていると、ビービの装甲がミクロン単位で動く音が、その継ぎ目が発する人間の可聴域ぎりぎりの軋みが聞こえる。フアンデフカ・リフトの神はサディストだ。その名を物理という。

 どんな説得を受けたらこんなことをする気になるのだろう。どうして私はこんな海の底に下りてきたのだろう。自問してみたところで答えは既に知れている。

 バラードが通廊に出る音がする。バラードが羨ましかった。しくじらないし、常に自分の人生を制御しているように見える。こんな場所にいるのに、幸せそうですらある。

 寝台から転び出てスイッチを探る。狭い個室に陰鬱な光があふれた。すぐそばの壁を埋め尽くすのはパイプや点検パネルだ。深度三〇〇〇メートルともなると美意識は機能性に大きく水をあけられてしまう。振り返ると、隔壁の鏡に黒くつるりとした両生類が映り込んでいた。

 今でもこういうことは時々起こる。何をされたのか忘れられるときも、たまにならある。

 あえて意識しようとしなければ、かつて左肺があった場所に潜む機械を感じたりしない。慢性的な胸の痛み、動くと生じる合成樹脂と金属の微妙な慣性にもすっかり慣れた今、気になることはほとんどない。それでも完全に人間だった頃の記憶は感じられるし、亡霊じみた感覚と本物の感覚を取り違えるときもある。

 こんなつかのまの休息は長続きしない。ビービの中は鏡だらけだからだ。その目的は見かけのパーソナルスペースの拡大にある。時折目を瞑って、絶えず投げかけられる鏡像を閉め出そうとしてみても、効果はなかった。瞼をぎゅっと閉じると、その奥でなめらかな白内障のように目を覆っている角膜キャップを感じてしまう。

 個室から通廊に出てラウンジへ向かう。バラードはそこで待っていた。ダイブスキンといつも通りの自信に満ちた雰囲気を身にまとって。

 バラードが立ち上がる。

「そろそろ行くとしましょうか」

「責任者はあなたでしょ」

 とクラークが答えると、バラードは微笑んだ。

「書類上はね。ここには上下関係なんてないんだよ、レニー。ふたりは対等と私は思ってる」

 リフトに来て二日になるが、バラードが微笑む頻度にはやはり驚かされる。ちょっとした挑発にも微笑みが返ってくる。いつも嘘偽りのない笑顔に見えるわけではないけれども。

 何かがビービの外殻にぶつかった。

 バラードの笑顔が曇る。また衝突音が聞こえた。どん、と濡れてこもった音が基地のチタン製の肌を伝う。

「慣れるにもしばらく時間がかかるね」

 どん。

「あの音の大きいったら――」

「照明を消してみたら」

 とクラークは提案してみた。どちらにも消す気がないのはわかっている。ビービ外部の投光器は二四時間体制で燃え盛り闇を払う、電動の焚火だ。窓がないため中からは見えないが、見えざる炎が燃えていると思うだけで、なんとなく安心する――

 どんっ。

 大抵の時間は、だが。

「訓練で聞いたこと、憶えてる?」

 バラードが音に負けじと声を張り、

「言ってたよね、魚は普通ならとても――小さいって……」

 声はだんだん小さくなっていった。ビービがかすかに軋みを上げる。しばらくふたりで耳を澄ます。もう音はしない。

「疲れたんでしょうね。無駄だってわからないもんかな」

 バラードはそう言って梯子に向かい、階下へ下りていく。

 クラークはわずかな苛立ちを覚えながら後を追う。見当違いの魚が虚しく体当たりする音よりも遙かに怖気を震わせる音が、ビービには響いている。疲労した合金が降伏を申し出る音が聞こえ、海が侵入口を探しているのが感じられる。もしも海がそれを見つけたら。太平洋の全重量が圧しかかってきて、自分はゼリー状に粉砕されるだろう。今すぐにでも。

 状況を把握できるだけ外の方がましだ。中にいても待つことしかできない。

 一日一回の外出は溺死に似ている。

 ダイブスキンを密閉し、定員二名がやっとのエアロックの中、クラークはバラードと向かい合って立つ。こんな不可避の接近も許容できるようになってきた。目を覆うガラス質の鎧も多少は助けになる。各部スキンの結合、ヘッドランプの点検、注入器の確認。儀式をひとつずつ反射的にこなすごとに、身の毛もよだつあの瞬間に近づいていく。体内に眠る機械を起動し、変身する瞬間に。

 はっと呑んだ息が失われる瞬間に。

 その瞬間、胸の中のどこかに真空が生まれ、蓄えていた空気が呑み込まれる。残る右の肺が胸郭の中でしぼみ、内臓が収縮する。筋電性の悪魔が副鼻腔と中耳を等張食塩水で満たし、体内の気体がすっかり消え失せるまで、ほんの一呼吸の時間しかかからない。

 感覚はいつも同じだ。不意に圧倒的な吐き気がこみ上げてきて、うずくまろうにも窮屈なエアロックでは直立するほかない。周囲に海水が湧き立ち、顔が水に沈む。ぼやけた視界は角膜キャップの調整で鮮明になる。

 壁に倒れ込み、叫ばせてほしいと願う。エアロックの床が絞首台さながらに開く。レニー・クラークは身悶えながら奈落に落ちてゆく。

 ふたりはヘッドライトをつけ、凍てつく暗闇を抜け出てナトリウム光のオアシスに向かう。〈喉〉のあちこちに建つ機械類はまるで鋼鉄の海藻のようだ。ケーブルと導管の織りなす蜘蛛の巣が海底の全方位に広がっている。高さ二〇メートルを超えるメインポンプ群が屹立し、潜水したモノリスの隊伍が左右の視界を横切っては消えていく。頭上の投光器が、寄せ集まった構造物を終わりなき黄昏に染めていた。

 ここまでガイドしてくれたロープに手を置いて、ふたりはしばらく立ち止まる。

「こんなの慣れっこないわ」バラードが普段の声のパロディめいた耳障りな声で言う。

 クラークは手首のサーミスタをちらっと見て、

「摂氏三四度」

 ざわめくような金属質の声が喉頭から出てきた。呼吸なしで話すのは妙に違和感がある。

 バラードがロープを手放して光の中に突き進む。数秒後、クラークは息もせず後に続く。

 ここには大量のエネルギーがあふれ、その力は持て余されるがままだ。ここでは大陸と大陸が重苦しい戦いを繰り広げている。マグマは凍り、海水は沸騰し、痛みを伴いつつ毎年数センチずつ海底が生まれる。ここ〈龍の喉〉にあって人造の機械がエネルギーを産み出すことはない。海底にしがみついてエネルギーをほんの少しちょろまかし、本土へ輸送するだけだ。

 金属と岩の峡谷を泳いでいると、寄生者のなんたるかがわかってくる。海底を見下ろせば、巨石大の貝や三メートルにもなる真紅のワームが機械の間の海底にひしめき、硫黄に飢えたバクテリア軍団が乳白色のヴェールで海を飾り立てている。

 突然、水中に恐ろしい叫び声があふれた。

 悲鳴には聞こえなかった。巨大なハープの弦がゆっくりと震えるような音だ。しかしバラードは確かに悲鳴を上げていた、扱いにくい肉と金属のインタフェースを通して。

「レニー――」

 振り返った瞬間、自分の腕がありえないほど大きな口の中に消えていくのが見えた。

 曲刀めいた歯に肩を締めつけられる。クラークは半メートル先の鱗で覆われた黒い顔面を見つめる。心の一部は冷静なまま、針と歯と節くれ立った肉とが融合した怪物の中に目を探していたが、発見には至らない。どうやってこちらを視認しているのだろう。

 やがて痛みが到達した。

 腕が肩からねじり取られそうだった。怪物は暴れ、頭を前後に振ってクラークをばらばらに引き裂こうとする。ぐい、ぐいと引っ張られるたびに、神経が悲鳴を上げる。

 ぐったりと身体から力が抜ける。殺す気ならさっさと終わらせて。吐き出したくなったが、スキンに覆われた口と収縮した内臓はそれを許さない。

 痛みを遮断しよう。実践ならいくらでも積んできた。内面に引きこもり、飽くなき生体解剖に身を委ねる。不意に、腕をねじ切ろうとする襲撃者の動きにむらが出始めるのが、遙か遠くから感じられた。そばに別の生き物がいる。腕があり脚がありナイフがあって――ああ、ナイフか。自分も同じものを脚に留めているのに、それをすっかり忘れていた――いつのまにか怪物は去り、縛めが解かれた。

 首の筋肉に動けと命じる。マリオネットを操るようにして、クラークの首が回る。バラードは体格が互角の相手と真っ向勝負し、怪物を素手で八つ裂きにしていた。氷柱を思わせる歯が砕け散る。傷口から闇色の冷水が流れ出し、臨終の痙攣が起こるたびに煙のような軌跡を描いて流血が漂う。

 弱々しく痙攣する怪物をバラードが押しのける。比較的小さな魚の群れが光の中に殺到し、死骸を噛み千切っていく。横腹に並ぶ発光器官が狂気の虹を閃かせる。

 クラークはそれを世界の反対側から眺めていた。痛みは遠くでズキズキと脈搏っている。見ると腕はまだついていたし、指も問題なく動かせる。もっと酷い目に遭ったこともある。

 それにしても。なぜ私はまだ生きているのだろう。

 バラードがそばにやってきた。レンズに覆われた目が発光器官のように輝いている。

「まったくもう」と歪んだささやき声で言う。「レニー、なんともない?」

 その質問の無意味さをクラークはしばし考えた。意外にも傷ついた感じはしない。

「うん」

 たとえ傷ついたとしても自己責任だ。ただ座して死を待っていたのだから。自業自得だ。

 クラークはずっと昔から、自ら報いを求めていた。

 帰還したエアロックの中、水が周囲からも体内からも引いていく。盗まれていた呼吸がようやく解放され、勢いよく内臓を巡り、肺と腸と心に再び命を吹き込む。

 バラードが頭部スキンの密閉を解くと、ウェットルームに声があふれた。

「すごい。すっごい。信じらんない! ね、見たよね。ここだとあんなに大きくなるんだ!」

 顔に手を巡らせて角膜キャップを外す。乳白色の半球が零れ落ち、榛色の大きな瞳が現れ、

「普通ならほんの数センチってところなのに……」

 そうして脱ぎ始め、前腕のスキンを開く間も話し続ける。

「でも脆かったね。ぶっ叩いただけでばらばら! もうびっくり!」

 バラードは基地の中では必ず装備を外す。できればリサイクラーも胸郭から取り出して、必要になるときまでスキンやアイキャップとまとめて隅に放っておきたいくらいなのだろう。

 取り出した方の肺も個室に持ち込んでたりしてね。瓶に保管してある肺を、夜な夜な胸の中に詰め込んで……クラークは空想を弄ぶ。少し意識が朦朧としている。外出時にインプラントが放出する神経抑制剤の名残りだろう。脳のショートを防ぐ代償としては安いものだ。気にしなくたって……。

 バラードが腰までスキンを脱ぐ。左胸のすぐ下の胸郭から電解槽の取水口が突き出ている。

 肉体に埋め込まれた穴のあいた円盤を、クラークはぼんやりと見つめる。あそこから海が流れ込んでくるのか。古い知識に改めて意味が生まれたかのように感じる。自分たちは海を吸い込んで酸素を奪い、海を吐き出しているのだ。

 ちくちくとした痺れが肩から漏れ出し、胸や首に広がってゆく。痺れを払おうと頭を振る。

 急に力が抜け、ハッチにもたれかかった。

 ショック状態、だろうか。失神しかけているんだろうか。

「だって――」

 バラードが口を噤み、たちまち心配そうな表情になる。

「ちょっと、レニー。酷い顔色。大丈夫じゃないならそう言ってくれなきゃ」

 疼痛が頭蓋の底にふれた。

「ううん……平気。どこも折れてない。ちょっと痣になっただけ」

「強がらないで。スキンを脱ぎなさい」

 クラークはやっとのことで立ち上がる。痺れがわずかに遠のいた。

「自分の面倒は自分で見られるよ」

 触らないで。お願いだから私に触らないで。

 バラードが黙ったまま近づいてきて、前腕のスキンを開く。スキンが剥ぎ取られ、紫色の醜い痣が露わになった。バラードが片眉を上げて見つめてくる。

「ほら、ただの痣。ちゃんと手当はするから。ありがとう」

 クラークは手を引っ込め、介抱を拒む。

 バラードは一瞬目を向けてきて、ほんのかすかな微笑みを浮かべた。

「レニー。恥ずかしく思わなくていいんだよ」

「なんのこと」

「助けられたことや、襲われて取り乱していたこと。無理もないよ。大抵は慣れるまでにつらい経験をするものだし。私は運が良かっただけ」

 やっぱり。昔から運が良かったってわけね。あなたみたいな人なら知ってるよ、バラード。一度も失敗したことないんでしょ……。

「恥じる必要なんてないから」バラードが気休めを言う。

「別に恥じてない」

 クラークは正直に告げた。もう何も感じていない。あるのは疼痛と緊張と、自分がまだ生きていることへの漠然とした驚きだけ。

 隔壁が汗をかいている。

 深海がその凍てつく手で金属にふれると、内部では湿気が結露し玉となって壁を流れ落ちていく。蛍光灯の薄暗い光の下、クラークは寝台に腰を下ろしてじっとしていた。どの壁にもすぐ手が届く。天井は低すぎるし、部屋もやたらと狭い。海が基地を圧迫するのが感じられる。

 ここでは待つことしかできない……。

 怪我に塗った同化性軟膏はじんわりと温かく、痛みを和らげてくれる。慣れた手つきで腕の青痣を調べる。医務室の診断ツールは自分が正しかったと証明してくれた。今回は運が良かった。骨は無傷、表皮も破れていない。ダイブスキンを閉じて傷を隠す。

 寝台の上で身動ぎし、壁に顔を向ける。曇りガラスのような目で見つめ返してくる鏡像を観察し、完璧に模倣される一挙手一投足に見惚れる。肉体と幻影が一緒に動く。身体は覆い隠され、表情にはなんの感情も浮かんでいない。

 これが私だ。これが今の私の姿だ。氷河のごとき表面の奥に眠るのは退屈か、欲情か、それとも動揺か。目は不透明な角膜の裏に隠れていて、見分けなどつかない。常に感じている緊張は欠片も見当たらない。怯えていても、スキンの中で失禁していたとしても、誰ひとりそれを見抜けはしない。

 顔を寄せる。鏡像も近づいてくる。白と白、氷と氷、ふたりは見つめ合う。ほんの一瞬、ふたりはビービが水圧と戦争中であることを忘れかける。ほんの一瞬、閉所恐怖と孤独に囚われていることが気にならなくなる。

 いったい何度欲しただろう。この、死んだも同然の目を。

 個室の外の通廊にはビービの鋼鉄の内臓がひしめき、まっすぐ立つのもやっとだった。ほんの数歩でラウンジに辿り着く。

 シャツに着替えたバラードがライブラリの前にいた。

「くる病ね」

「え?」

「ここの魚は微量元素が足りなくて、欠乏症で腐ってる。どれだけ獰猛だろうと関係なし。強く噛みつけば歯の方が砕ける」

 クラークは食品加工機のボタンを押した。機械が唸り出す。

「リフトは食べ物が豊富って思ってたけど。だからあんなに大きくなったんじゃないの」

「餌は潤沢でも質はいまいちってことね」

 どろどろした料理らしき固形物が加工機から皿に搾り出された。しばし皿に目を落とす。魚の気持ちがよくわかる。

「装備をつけたまま食べるの?」

 ラウンジのテーブルにつくと、バラードが尋ねてきた。クラークはまばたきして、

「うん。だめかな」

「ううん、そんなことない。お互いの目を見て話せたらいいなってだけ」

「ごめん。だったら外しても」

「いいよ、気にしないで。それで構わない」

 バラードはライブラリの電源を切った。クラークの向かいに座る。

「で、ここの暮らしはどう」

 クラークはただ肩をすくめ、食事を続ける。

「滞在がたった一年で助かったわ。こんなところに長居したら気が滅入っちゃう」

「気が滅入るくらいで済むならましじゃないかな」

「ああ、文句があるわけじゃないの。やりがいのある挑戦を期待してたし。あなたはどう」

「どう、って」

「ここへ来た理由。目的」

 クラークは答えに詰まり、間を置いてから言った。

「実は、よくわからない。プライバシー、かな」

 バラードが顔を上げる。クラークは無表情に見つめ返す。

「そっ。じゃあお望み通りに」バラードは愛想良く答えた。

 クラークは通廊に消えてゆくバラードを見送る。個室のハッチが閉まる音が聞こえた。

 諦めて、バラード。私はあなたがつき合いたいと思うような人間じゃない。

 朝のシフトが間もなく始まる。食品加工機が例によって不承不承といった体で朝食を吐き出す。通信室のバラードはちょうど通話を終えるところだ。すぐにハッチから姿を現す。

「総務が言うには――」バラードは言葉を切った。「瞳、青いんだ」

 クラークはかすかに笑みを浮かべる。

「前にも見たでしょ」

「まあね。ちょっと驚いただけ。キャップをつけてない姿をしばらく見てなかったから」

 クラークは朝食を手に食卓についた。

「それで、総務はなんて」

「ここは予定通り。残りのクルーが来るのは三週間後、稼動開始は四週間後」

 バラードがクラークの向かいに座り、

「たまに思うんだけど、どうして今すぐ始めないんだろうね」

「たぶん万事抜かりないって確認したいだけじゃないかな」

「それにしたってリハーサルが長すぎる気がする。だって、地熱発電計画はなるべく早く立ち上げたいはず。あんなことがあった後だし」

 あんなこと。ルプローとウィンシャイアで起きたメルトダウンか。

「それとね。ピカールと連絡が取れないの」

 クラークは顔を上げる。ピカール基地が繋留されているのはガラパゴス・リフトだ。取り立てて安定した繋留地でもない。

「あそこのペアには会った? ケン・ルービンとラナ・チャン」

 バラードの問いにクラークは首を振り、

「あっちの方が先に訓練を終えてたから。あなた以外のリフターには会ってない」

「いい人たちよ。ピカールの方はどうかと思って電話したんだけど、誰も出なくて」

「回線が落ちてるとか」

「そんなところだろうって上も言ってた。大したことないって。確認に潜水艇を送るみたい」

 海底が口を開いて呑み込んじゃったのかもね、とクラークは思う。あるいは外殻に脆い装甲板があったのかもしれない。一枚あればそれで充分――

 ビービの上部構造の奥で何かが軋んだ。クラークは辺りを見回す。目を離した隙に壁が迫ってきたような気がする。

「時々ね、ビービを地上気圧で保つ必要がなければいいのにって思う。周囲の水圧と等しくなるまで気圧を上げたらって。外殻の負担も減るし」

 叶わぬ夢だとわかってはいる。ほとんどの気体は三〇〇気圧下で吸い込めば死に至る。ほんの数パーセントの酸素であろうとそれは変わらない。

 バラードが大げさに身震いする。

「九九パーセント水素を吸いたいならご自由にどうぞ。私は今のままで幸せだから」

 にっこりと笑って、

「それに、後で減圧するときにどれだけ時間がかかるかは考えた?」

 制御室から呼び出し音が聞こえてきた。

「地震ね。素敵」

 バラードが通信室に消える。クラークも後を追う。

 琥珀色の線が画面のひとつを震えながら横切っていく。まるで悪夢にうなされているときの脳波のようだ。バラードが言う。

「アイキャップをつけて。〈喉〉が暴れ出した」

 その音ははるばるビービまで届いていた。サー、という不吉でどこか電子的な音が〈喉〉の方角からやってくる。クラークは片手を軽くガイドロープに沿わせつつバラードを追う。目的地を示す遠くの光の染みは何かがおかしい。色が違うし、波打っている。

 光輝く雲の中へと泳いでいくと原因がわかった。〈喉〉が燃えているのだ。

 サファイア色のオーロラが発電機と発電機の間で揺らめいている。列の端は遠くてほぼ見えないが、煙の柱が闇の中で大竜巻となって渦を巻いていた。

 渦の音が深海に満ちている。クラークはガラガラヘビのような音にしばし耳を傾ける。

「なんで! こんなこと起こるはずないのに!」ノイズ越しにバラードが叫ぶ。

 クラークはサーミスタをチェックする。温度が定まらない。水温は数秒ごとに四度から三八度を行きつ戻りつする。幾筋もの水流が生じては消え、見守るふたりを揺さぶる。

「なんで光ってるんだろう」クラークは叫び返す。

「さあね! 生物発光じゃないの! 熱に集まるバクテリア!」

 なんの前触れもなく、騒乱が収まった。

 海が静まり返る。金属に張られた蜘蛛の巣状の燐光がぼんやりと揺らめいて消える。彼方では竜巻がため息をついて散り散りになり、いくつかの旋風に分かれていく。

 赤銅色の光の中、黒い煤の雨が優しく降り始めた。

「スモーカーだ」唐突に訪れた静寂にバラードの声が染み入る。「それもでっかい奴」

 ふたりは間欠泉が噴き出した地点へ向かった。発電機に挟まれた海底に長さ数メートルの新鮮な裂傷が生まれていた。

「こんなはずじゃなかった。だからここに建てたんでしょ! 安定してるはずなのに!」

「リフトは絶対に安定なんてしないよ」

 安定していたら、こんなところにいる意味もない。

 バラードが降りそそぐ塵の中を浮上し、発電機の点検パネルを開く。

「どうやら無事みたい」

 内部を覗き、海底に向かって声を張り、

「ちょっと待って、チャネルを切り替えるから――」

 クラークは腰に留めた円筒形のセンサにふれ、亀裂の奥をじっと見つめる。中に入っていけそうだな、と思う。

 それを実行に移す。

 頭上ではバラードがしゃべっている。

「ついてる。他の発電機も問題なし。あ、二号機の冷却ダクトが詰まってるけど、なんてことない。予備でどうにか――そこから離れなさい!」

 設置中のセンサに片手を置いたまま顔を上げる。出来立ての岩の煙突の中にいる自分を、バラードが見下ろしていた。

「気でも狂ったの? 活動中のスモーカーよ!」

 クラークは改めて竪穴の奥を見る。曲がりくねっているうえ鉱物の靄でよく見えない。

「内部温度を測らなきゃ」

「出なさい! また噴出したら焼かれる!」

 でしょうね、と思いながら言い返す。

「一回爆発したんだし、圧力がまた高まるまでしばらくかかるはず」

 センサのつまみをひねる。小型の爆発ボルトが岩に向かって炸裂し、センサを固定した。

「出なさい、今すぐ!」

「もうちょっとだけ」

 センサを起動させ、海底を蹴って浮上する。穴から出るなりバラードに腕を掴まれ、引かれるままにスモーカーから遠ざかっていく。

 クラークは身を強張らせて手を振り払う。

「私に」

 触らないで! 自制し、その言葉を呑み込んだ。

「出たからいいでしょ。別にこんな――」

「まだ。こっちへ来なさい」バラードは泳ぎ続ける。

 ふたりは光の縁に近づいていた。一方には投光器に照らされた〈喉〉、もう一方には暗闇が広がっている。バラードが振り返る。

「どうかしてる。ビービに戻ってドローンを持ってくればいいでしょ! 遠隔操作で設置できるんだから!」

 クラークは答えない。バラードの遙か後ろで動いている何かに目を凝らし、

「後ろを見て」

 バラードは振り返った。ガルパーウナギがふたりに向かって滑り込んでくる。水中をうねる様は、まるで果てしなく静かに棚引く茶色の煙のようだった。蛇に似た身体が何メートルも闇の中から延びているのに、まだ尻尾が見えてこない。

 バラードの手がナイフに伸びる。数秒後、クラークもそれに倣う。

 ガルパーが大口を開ける。ギザギザした巨大シャベルみたいだ。

 バラードがナイフを構え、突撃しようとする。クラークは手で遮り、

「待って。こっちには来てない」

 ガルパーの頭はおよそ一〇メートル先にある。その尾が闇を振りほどく。

「やっぱり気でも狂ったの?」バラードは怪物を見据えたままクラークの手を払う。

「お腹が空いてないのかも」

 ガルパーの目が見えた。鼻先で爛々と燃えるふたつのつぶらな点が睨みつけてくる。

「こいつらは常に腹ぺこなんだってば。ブリーフィングのたびに居眠りでもしてた?」

 ガルパーが口を閉じて通過する。ふたりの周りに伸び広がり、蛇行した大きな弧を描く。頭を回してこちらを見た。口が開く。

「言わんこっちゃない」バラードはそう言って突進する。

 最初の一振りで横腹に一メートル大の裂傷が開いた。ガルパーは一瞬驚いたかのようにバラードを凝視し、重々しくもがき出す。

 クラークは何もせずにそれを眺めていた。どうして放っておいてあげないんだろう。どうしていつも自分が一番だと証明せずにはいられないんだろう。

 バラードがさらにナイフを振るい、胃袋と思しき腫瘍めいた膨らみを切り裂く。

 中身が解き放たれた。

 傷口から零れ出てきたのは巨大なボウエンギョが二匹と、クラークにも判別できない畸形じみた生物だった。ボウエンギョの片割れはまだ生きていて不機嫌そうだ。目についた獲物に歯を突き立てる。

 背後から、バラードに。

「レニー!」

 ナイフを握る手が小刻みに弧を描いてボウエンギョを捌いていく。顎は噛み締めたままだ。バラードは痙攣するガルパーと衝突し、海底までくるくると沈んでゆく。

 ようやくクラークは動き出した。

 またもガルパーがバラードにぶつかる。クラークは身を低くして海底を進み、バラードを魚から引き離す。

 バラードはなおも深くナイフをねじ込もうとする。ボウエンギョはエラから後ろが解体されていたものの、顎がなかなか砕けなかった。バラードは身をよじるが、それでも頭蓋にナイフが届かない。クラークは背後から近づいて魚の頭を両手で抱える。

 何も考えていない邪悪な瞳がこちらを見つめている。

「殺しなさい!」バラードが呶鳴る。「ああもう、何をぼやっとしてんのよ」

 クラークは目をそらし、手に力を込める。頭蓋は手の中で安物のプラスチックのように崩れていく。

 静寂。

 少しして目を戻す。ガルパーは消えていた。闇の中に逃げて傷を癒すなり死ぬなりするのだろう。しかしバラードはまだそばにいて、怒っていた。

「何考えてんの」

 クラークは両手の拳を開いた。骨の欠片とゼリー状の肉が指から浮かび上がっていく。

「援護するべきでしょ! なんだっていつもいつも――莫迦みたいに受け身なの?」

「ごめんなさい」受け身でうまくいくこともあるよ。

 バラードは背中に手を伸ばした。

「寒い。ダイブスキンに穴をあけられたかも――」

 クラークは背後に回って確認する。

「穴がいくつかある。他はどう。骨が折れたような感じとか」

「ダイブスキンを破るなんて」

 独り言つようにバラードは言い、

「ガルパーに襲われたときは」

 とクラークに振り返る。歪められた声ではあったが、ショックと不安ははっきり伝わった。

「殺されることだってありえた。殺されてたかもしれない!」

 そのとき、バラードのスキンもアイキャップも自信も全て剥ぎ取られたかのように見えた。バラードの奥底に初めて見透かせた弱みには、繊細な網目細工のような亀裂が走っていた。

 あなたでもしくじるんだね、バラード。いつまでも楽しんでいられないって、これでわかったでしょ。

 ねえ、傷ついたでしょ。

 心の片隅でかすかな同情を感じて、クラークは言った。

「大丈夫だよ、ジャネット。それは――」

「このうすのろ!」

 バラードが吐き捨てる。性悪で盲目の老婆めいた目で睨みつけ、

「何もせずにぷかぷか浮かんで! 見殺しにしようとしたでしょ!」

 クラークは心の壁が一瞬で跳ね上がるのを感じた。これはただの怒りじゃない。一時の勢いでもない。私が嫌いなんだ。バラードは私が気に食わないんだ。

 鈍い驚きを覚える。自分は今までそんなことも見えていなかったのか。

 最初からずっと嫌いだったんだ。

ニッチ

 海底に繋留されて浮かぶビービ基地は、赤道を投光器が取り巻く暗灰色の惑星だ。南極に潜水手用のエアロックがあり、北極に潜水艇用のドッキングハッチがある。その間に大梁や繋留索、導管にケーブル、鋼鉄の装甲板とレニー・クラークが並ぶ。

 クラークは外殻の目視点検を進めていた。週に一度の通常業務だ。バラードは中で通信室の機器をテストしている。バディ制の理念に沿っているとは言いがたいが、自分にはこの方が好ましい。ふたりの関係はここ数日で礼儀に適ったものになっていた。時にはバラードがお得意の親睦精神を取り戻すこともある。だが、共に過ごす時間が長くなるほど色々と無理も出てくるものだ。そのうち破綻するのは目に見えている。

 それに、外にいると独りの方がごく自然に思えてくる。

 ケーブルのクランプを検めていたところ、ギザギザした歯のアンコウが照明に体当たりしてきた。体長は二メートルほどで、腹を空かせている。あんぐりと口を開けたまま近くの投光ランプへ一目散に突進するも、結晶質のレンズにぶち当たって歯が数本砕けた。身をよじって尾で外殻を叩くと闇の中へ泳ぎ去り、ほとんど見えなくなる。

 クラークはうっとりとそれを眺める。アンコウは行ったり来たりして突進を繰り返す。

 照明は衝撃を難なく受け止め、襲撃者に損傷を加えていく。魚は何度も何度も身体を照明に打ちつける。ついには疲れ切り、痙攣しながら海底の泥へと沈んでゆく。

「レニー、大丈夫?」

 下顎の中で音声がざわめくのが感じられる。ダイブスキンの送信機を起動して答える。

「なんともないよ」

「音がしたから、念のためにね」

「平気。ただの魚」

「学ぶってことがないのかな」

「そうみたい。また後で」

「また――」

 受信機を切る。

 間抜けで可哀そうな魚。生物発光すなわち餌であると学習するまで何千年紀かかったのだろう。ビービが何年ここに沈んでいれば、電灯は餌ではないと学ぶのだろう。

 ヘッドライトを消したままにすれば、魚たちも放っておいてくれるかもしれない。

 ビービの光暈の先をじっと見つめる。広がる深い闇は見ていて目に痛いくらいだ。ライトもソナーも使わずにあのねっとりとした闇の帳を進んだら、どこまで行けるのだろう。戻ってこれるだろうか。

 ヘッドライトを切る。闇がじりじりと迫ってくるが、ビービの照明はそれを寄せつけない。クラークは暗闇と向かい合い、外殻に蜘蛛のように屈み、

 思い切り蹴って跳び出した。

 暗闇に抱かれる。脇目も振らずに泳いでいたら足が疲れてきた。どれくらい遠くへ来たのかはわからない。

 それでも数光年は泳いだに違いない。海は星々で満ちていた。

 背後では基地がとりわけ明るく輝き、ぼやけた黄色の光線が幾筋も広がっている。その向こう側に、水平線に昇るちっぽけな朝日にも似た〈喉〉が、かろうじて確認できる。

 その他はどこもかしこも、生きた星座が闇を点々と彩っていた。あちらでは数珠になった真珠が二秒間隔で性的な広告を瞬かせ、こちらでは不意に陽動の閃光が放たれ、その残像で目の前が埋め尽くされる。一瞬何も見えなくなったクラークの目を盗んで、何かが逃げていく。そちらではミミズもどきの疑似餌が水流に揉まれて気怠げに揺れ、不可視の糸を辿った先には捕食者の口蓋があった。

 たくさんの、本当にたくさんの生き物がいた。

 急に波が立つのが感じられた。何か大きなものがすぐ近くを通り過ぎたみたいに。ぞくぞくと甘美なスリルが身体中を走り抜ける。

 もう少しでふれるところだった。なんだったんだろう。リフトには退き際を知らない怪物がうようよしている。どれだけ食べたかなんて関係ない。尽きぬ食欲は伸縮自在の腹や蝶番のない顎と同じく、魚たちにとって欠かさざる一部だ。飢えた小人が二倍は大きい巨人を襲い、時に勝利する。深海は砂漠だ。もっとましな好機を待つ贅沢など誰にも許されていない。

 とはいえ砂漠にだってオアシスはあるし、抜け目ない狩人がそれを発見することもある。狩人たちはリフトから湧き立つ栄養不足ながら量は豊富な餌を貪る。子孫は巨大に育ち、やたらと脆い骨の上にはぶくぶくと肉がついていく――

 光を消してたから、独りにしてくれたのかな……。

 ライトをつける。たちまち視界が強烈な光に覆われたが、やがて晴れてゆく。海が単調な黒に戻る。忍び寄る悪夢もない。光条をどこに向けても照らし出される水中は空っぽだった。

 灯りを落とす。ほんの一瞬だけ完全な闇が訪れ、アイキャップが減光に対応する。すると再び星々が現れる。

 とても綺麗だった。海底に横たわって奈落の輝きを眺めていたら、あることに気づいて思わず声を上げて笑いそうになる。陽の光から三〇〇〇メートルも離れていると、闇が生まれるのは灯りをつけているときだけなのだ。

「どうかしてる。三時間以上も姿を消しておいて、それに気づかないなんて。どうして応答しなかったの」

 クラークは身を屈めてフィンを取り外し、

「受信機がオフになってたのかも……ちょっと待って、今――」

「かもって、あれだけ叩き込まれた安全規則をみんな忘れたとでも? ビービを出てから帰るまで受信機は入れたままにするって決まりでしょ!」

「三時間って言った?」

「ソナーにかからないから探そうにも探せないし! ここで帰りを待つしかなかった!」

 てっきり闇の中へ跳び出してほんの数分かと思っていた。ラウンジへ上がると、にわかに寒気を覚えた。

「いったいどこにいたの、レニー」

 後ろに近づいてきたバラードが詰問してくる。声はどことなく悲しげだ。

「きっと、底の方にいたからソナーに映らなかったんだと思う。遠くには行ってない」

 眠り込んでしまったんだろうか。三時間も何をしていたんだろう。

「ちょっとぶらついてただけ。つい時間を忘れちゃって。ごめんなさい」

「言い訳はそれだけ? 二度としないでよ」

 つかのま訪れた静寂を、肉が鉄にぶつかるいつもの音が破る。

「もう我慢できない! 今すぐ照明切るからね!」

 激昂したバラードが通信室に辿り着くまでさらに二回の衝突があった。パチパチとボタンを押す音が聞こえてくる。

 バラードがラウンジに戻ってきた。

「どうよ、これで見えないでしょ」

 どん。どん。

「そうでもないのかも」

 とクラークは言う。リズミカルな襲撃に耳を澄ますバラードはささやくように、

「あいつら、ソナーにも映らないんだ。近づいてくるのが聞こえたときに波長を超近距離に絞ってみたけど、ソナーは魚を無視する」

「浮き袋も持ってないし、反響が返ってこないんじゃ」

「外に出た私たちは、大抵の場合くっきり映ってる。でも魚は映らない。どれだけ感度を高めても見つけられない。まるで幽霊みたい」

「幽霊ではないでしょ」

 クラークはほぼ無意識のうちに音を数えている。八、九……。

 バラードが振り返る。

「ピカールが停止された」声は小さく、張りつめていた。

「どうして」

「オフィスが言うにはただの技術的な問題らしいけどね。あなたがいない間に人事部の友人に電話してみたんだ。ラナが入院したって。どうも――」

 首を振り、

「ケン・ルービンが何かしたって感じだった。たぶん襲ったんだと思う」

 どん、どん、どん、と外から矢継早に音が届く。クラークはバラードに見つめられているのを感じる。沈黙が広がってゆく。

「ま、違うかもしれないけど。みんな性格検査を受けてるんだし。暴力的な傾向があれば、送り込む前に弾けたはず」

 クラークはバラードを眺め、間欠的に振り落とされる拳の音に聞き入る。

「それか、リフトがルービンを変えたのかも。海底で受けるプレッシャーを上が見誤っていたとか、そんなところかな」

 とバラードは儚い笑顔を浮かべ、

「物理的な危険じゃなくて、感情的なストレスの話ね。毎日の仕事でちょっと外に出るだけでも、しばらくすると気が滅入ってくるでしょ。胸に海水は流れ込むし、一度に何時間も無呼吸だし。心臓の鼓動なしで生きるみたいだし……」

 そう言って天井を見上げる。外の音は少し散漫になっていた。

「外もそんなに悪くないよ」

 とクラークは言う。とりあえず圧し潰されはしないし、装甲板が音を上げるのではないかと心配しなくていい。

「きっと変化はいきなり訪れるんじゃなくて、少しずつ忍び寄ってくるんだ。そうしてある日目醒めたときには変わってしまっている。何かが違う、だけどその過程に気づくことはない。ケン・ルービンのように」

 バラードはそう言って視線を寄越し、声を落とす。

「あなたもそう」

「私も……」

 その言葉を反芻し、何か反応が起こるのを待つ。持ち前の無関心の他は何も感じられない。

「そんな心配しなくていいよ。私は暴力的なタイプじゃないし」

「それはわかってる。心配してるのは私の安全じゃない。レニー、あなたの安全よ」

 クラークは何も通さない防護レンズ越しにバラードを見ながら、黙っていた。

「ここに来てあなたは変わった。私を遠ざけて、無用の危険に身を曝して。あなたに何が起きてるのかさっぱりわからない。自殺でもしようとしてるみたい」

「してないよ」クラークは話題を変えようとする。「ラナ・チャンは無事なの?」

 バラードは一瞬探るような目を向けてきたが、察してくれた。

「わからない。詳しく聞けなかった」

 クラークは胸にしこりを感じ、呟いた。

「怒らせるようなことでもしたのかな」

 バラードがぽかんと口を開けて目を瞠る。

「ラナがってこと? 呆れた言い草ね!」

「私はただ――」

「何が言いたいかはわかってる」

 外の音は止んでいた。バラードの気は鎮まらない。背中を丸めて立つ身体はドライバックが着る場違いな服にゆったりと包まれていて、静寂なんて存在しないのだと言いたげに天井を凝視している。クラークに視線を戻して言った。

「レニー、上司ぶりたくはないんだけどさ、そういう態度でいられると私たち両方が危険な目に遭うんだよ。あなた、ここでの暮らしに相当弱ってるでしょ。お願いだから目を醒ましてほしい。さもないと異動を勧告しなきゃいけなくなる」

 ラウンジを去っていくバラードを見送っていて、クラークは悟った。嘘つき。あなたが死ぬほど怯えているのは、私が変わりかけてるからってだけじゃない。

 あなたも変わりかけてるからでしょ。

 事態の発生から五時間後、海底に異変があったことにクラークは気づいた。

 人間が寝ると地球が動くんだな。そんなふうに思いながら地形図を検証する。今にもこの下の地面がぱくりと開くことだってありうるはずだ。

 そのとき何かを感じる暇があるだろうか。

 背後の音に振り返ると、少しふらついたバラードがラウンジに立っていた。同心円を描く目とそれを縁取るくぼみのせいか、その顔が醜く見える。クラークにとって裸眼は奇異なものになりつつあった。

「海底に変動があった。だいたい二〇〇メートル西に新しい露頭」

「おかしいな。何も感じなかったけど」

「発生は五時間前。寝てたからね」

 バラードが鋭い目を上げる。その顔はやつれ、皺が浮いていた。よく考えたら……。

「それなら、目が醒めるはず」

 と通信室に割り込んできて、地形図を確認する。

「高さは二メートル、長さは一二メートル」

 とクラークは読み上げたが、返事はない。バラードがキーボードでいくつかコマンドを入力する。地形図が溶暗し、数列が表示された。

「思った通り。大きな地震は四二時間以上発生してない」

「ソナーは嘘をつかない」

 とクラークが呟くと、バラードが応じて、

「地震計もね」

 短い沈黙が降りる。こうした事態における手順をふたりは承知していた。

「行って確かめないと」

 とクラークは言う。バラードが頷く。

「着替える時間をちょうだい」

 通称は〈イカ〉。ジェット推進する長さ一メートルの円筒は、前照灯と把手を頭と尻にそれぞれ備えている。クラークはビービと海底の間に浮かび、片手で〈イカ〉を入念に点検していた。もう片方の手が握るのは拳銃型ソナーだ。闇の奥へとソナー銃を照準する。超音波が夜闇を駆け、方角を教えてくれる。

「あっち」と指をさして告げる。

〈イカ〉の把手を握り締めたバラードが牽引されていく。少ししてクラークも続く。殿を務める三台目の〈イカ〉は各種センサの詰まったナイロンバッグを運ぶ。

 バラードがほぼ全速力で進んでゆく。ヘルメットと〈イカ〉の照明が双子の灯台のように水を貫く。灯りを消したままのクラークは目的地まで残り半分のところで追いついた。泥塗れの海底の数メートル上方を、ふたり並んで巡航する。

「灯りは」

「いらない。ソナーは暗闇でも使える」

「今度はスリルを味わうために規則を破るってわけ?」

「魚は光るものを狙って――」

「灯りをつけなさい。命令よ」

 クラークは答えず、傍らの光条に目をやった。バラードの〈イカ〉が放つ光は揺るぎなく安定していて、ヘッドランプの光は頭が動くたびに不規則な弧を水中に描き――

「つけろって言ってるで――あっ!」

 ほんの一瞬、ヘッドライトが何かを捉える。バラードは首を巡らせるが、相手は視界から外れてしまう。次の瞬間〈イカ〉の光に照らされて、恐ろしげな威容がぬっと現れた。

 深淵がにやりと笑い、歯列を剥き出しにしている。

 口は光線の幅いっぱいに広がり、左右の闇の中まで続いていた。びっしりと並ぶ円錐形の歯は人間の手ほどの大きさで、ちっとも脆くなさそうだ。

 首を絞められたような声を出してバラードが泥に潜り込む。海底の沈殿物が湧き上がり、雲となって渦を巻く。プランクトンの死骸の奔流に身体が隠れる。

 クラークは動きを止めてじっと待つ。威圧的な笑顔に目が釘付けになる。全身に電気が走るかのようだった。自らをこんなにもはっきりと意識したのは初めてだ。全神経が発火し、同時に凍りつく。ぞっとするような恐怖を感じる。

 しかし自分を完全に制御してもいた。この矛盾に思いを巡らせているうちに、バラードが手放した〈イカ〉は速度を落とし、果てしなく続く歯列の数メートル手前で停止していた。冷静に分析している自分を不思議に思っていると、センサ類を抱えた三台目の〈イカ〉も減速しながら通過し、先行する〈イカ〉の隣に収まる。

 照明に照らされても、にこやかな笑みに変化はない。

 ソナー銃を構えて撃つ。表示を読み、ここが目的地だと気づく。露頭の正体はこれか。

 泳いで近づく。水中に張りついた笑顔は謎めいて魅惑的だ。見れば歯の根元には骨の欠片があり、歯茎から腐肉片が垂れ下がっている。

 振り向いて来た道を戻る。海底の雲は落ち着きかけていた。

 バラード、と合成音声で呼びかける。

 返事はない。

 泥の中に手を伸ばして手探りすると、温かく、ぶるぶると震える何かにふれた。

 目の前で海底が爆発する。

 沈殿物からバラードが現れ、流星のように泥の尾を引いた。急に広がった雲から手が突き出し、握り込まれた物体がきらりと閃く。ナイフを認めて危ういところで身をよじると刃がスキンを掠め、胸郭の神経がかっと燃え上がった。追撃が迫る。今度はナイフを振り切った手を捕らえ、ひねり上げて押し返す。バラードが回りながら沈んでゆく。

「私よ!」クラークの叫びをヴォコーダが甲高いヴィブラートに変換する。

 バラードが浮上する。白い目は虚ろで、ナイフも握ったままだ。

 クラークは手を広げる。

「大丈夫、ここには何もいない! 死骸だよ!」

 バラードが動きを止め、じっと見つめてきた。〈イカ〉たちに視線を移し、光に照らし出された笑みを見つけてすくみ上がる。

「クジラか何かでしょう。死んで時間が経ってる」

「ク、クジラ?」バラードは震え出した。

 恥ずかしく思わなくていいんだよ。言いかけた言葉をクラークは呑み込み、代わりに手を差し伸べてバラードの腕にそっとふれた。あなたならこうするよね。

 火傷でもしたみたいにバラードがびくりと身を引く。

 違ったか……。

「ねえ、ジャネット――」

 バラードが震える手で話を遮る。

「平気。もう帰りた――もう戻りましょうか」

「うん」そう答えたものの、本当は戻りたくなかった。

 一日中ここにいたってよかった。

 バラードはまたライブラリに向かっている。振り返ると同時にその手がさりげなく輝度調整スイッチに伸び、背後から近づいていたクラークが内容を確認する間もなく画面が暗くなる。端末から没入機器がぶらさがっているのが目に入り、怪訝に思う。何を読んでいるか見られたくなかったら、あれを使えば済む話だ。

 だけどそうすると近づく私が見えない、ってわけね……。

「あれはたぶんアカボウクジラ。それにしちゃ歯が多すぎるけど。激レアね。こんな深さまで潜ることはないから」

 あまり興味はないが、クラークはバラードの解説を拝聴する。

「きっと上の方で死んで腐って、それから沈んだんだ」

 バラードの声がわずかに上擦る。ラウンジの反対側をこそこそとうかがいながら、

「確率はどれくらいなんだろう」

「え?」

「だって、この大海原で、あんなに大きなものがたまたま数百メートル先に降ってきたわけでしょ。超低確率に決まってる」

「まあ、そうかもね」

 クラークは手を伸ばして画面を明るくする。淡く輝く画面の半分にテキストが並び、もう半分では複雑な分子模型が回転していた。

「これは?」

 バラードはまたラウンジをちらちらと盗み見ている。

「ライブラリにファイルされてた昔の生物心理学の教科書。拾い読みしてたの。ちょっと齧ったことがあって」

「へえ」

 クラークはバラードを一瞥し、顔を近づけて画面に目を凝らす。何やら化学の専門用語が並んでいる。理解できたのは画像についた見出しだけだ。声に出して読み上げる。

「真の幸福」

「そう。四本の側鎖を持つ三環式化合物」

 バラードは画面を指さし、

「幸せな、本当に幸せな気分になるときは、この物質が働きかけてる」

「発見されたのっていつ頃なの」

「さあ。古い本だから」

 クラークは回転する画像をじっと見つめた。なんだか心が掻き乱される。これ見よがしの莫迦げた見出しの上に浮かぶ分子は、聞きたくないことをささやいてくる。

 おまえは解明済みだ。人間ってのは機械仕掛けなんだな。化学物質と電子だよ。おまえの人格も夢も行動も全て、煎じ詰めればどっかの電圧の変化か、あるいは――さっき言ってた――四本の側鎖を持つ三環式化合物でしかないんだ……。

「そんなわけない」呟きが漏れた。私たちが機械なら、壊れても修理できるはずだ。

「え?」

「つまり私たちはただの、肉でできたコンピュータってことでしょ。顔のある」

 バラードが端末をシャットダウンする。

「そうよ。なかには顔すら失くす人もいるみたいだけど」

 皮肉らしいが、なんら痛痒を感じない。クラークは立ち上がって梯子の方へ向かう。

「どこに行くの。また外に出る気?」

「シフトは終わってないから。二号機のダクトを掃除しようかなって」

「始めるにはもう遅いよ、レニー。半分も掃除できずにシフトが終わっちゃうって」

 バラードがまた目を泳がせている。視線を追ってみると、壁に姿見がかかっていた。

 これといって目ぼしいものはない。

「残業する」クラークは手すりを握り、最上段に足をかける。

「レニー」

 その声は明らかに震えていた。振り返ると、バラードは通信室に向かうところだった。

「その、悪いけど一緒には行けない。テレメトリ機能のデバッグが途中だから」

「わかった」

 緊張が高まるのを感じる。ビービはまた収縮していた。梯子を下りる。

「本当にひとりで大丈夫? 明日にすればいいじゃない」

「平気だから」

「そうだ、受信機は入れておいてね。また見失うのも嫌だから――」

 クラークはウェットルームに着いた。エアロックに入り、儀式を進める。溺れる感覚はもはやなく、あるのは生まれ変わりの感覚だった。

 闇の中で目醒めると、すすり泣く声が聞こえてきた。

 数分間じっと横たわったまま、どうしたものかと困惑していた。泣き声はあちこちからやってくる。静かではあるが、外殻と共鳴して基地中に響き渡っている。他に聞こえるのは自分の心臓の音だけだ。

 不安が湧く。理由はわからない。音が止んでくれることを祈る。

 寝台から転がり出てハッチを探り、開く。通廊は暗く、ラウンジから光が細く漏れている。音は反対方向、深まる闇の奥から聞こえる。音を辿り、パイプと導管だらけの中を進む。

 バラードの個室だ。ハッチは開いている。暗闇の中でエメラルド色の表示が瞬いているが、寝台で背を丸めている人影を隅々まで照らしてはいない。

 バラード、と優しく呼びかける。中に入りたくはなかった。

 影が動いた。どうやら視線を上げたらしい。

「どうして隠すの」影が懇願するように言う。

 クラークは闇の中で眉をひそめた。

「隠すって、何を」

「わかってるくせに! 怖がってることをよ!」

「怖がってる?」

「ここにいること、こんな暗くて恐ろしい海の底に閉じ込められてることを」

「何を言ってるの」クラークは呟く。閉所恐怖が首をもたげ、そわそわしてしまう。

 バラードは鼻で笑うが、無理をしているようだった。

「わかってるくせに。これを競争か何かと思ってるんでしょう、恐怖を表に出さなきゃ勝ちなんだって。でもそんなの的外れだからね、レニー。こんなふうに隠しごとをしてちゃどうにもならない。お互いを信頼できるようにならなきゃ私たちふたりとも――」

 影が寝台の上で身動きする。アイキャップで増強された視覚のおかげで、ようやく細部の見分けがついた。縁が粗い刺繍のようなバラードのシルエット、ごく普通の服の折り目や皺、腰の辺りまで開かれたボタン。クラークは死体を連想した。半ば解剖されたまま手術台の上に身を起こし、自らの解体を嘆いている死体。

「何が言いたいのかさっぱり」

「親切にしようとしたのに。仲良くしようとしたのに、あなたは冷淡で、認めるそぶりも……こんな場所、好きになれるわけないのに。誰にもよ。それくらい認めてくれたって――」

「でも、その……私もこの中にいるのは大嫌い。ビービが私を、握り潰そうとしてくるみたいで。ただ待つことしかできないし」

「うん、うん、よくわかる」

 クラークの告白に多少勇気づけられたのか、バラードが闇の中で頷く。

「どんなに自分に言い聞かせたところで――」

 言葉を切り、

「この中にいるのは、って言ったの?」

 何かおかしなことを言っただろうか。

「外の方がましなわけない。なおさら酷いでしょ! 地滑り、スモーカー、いつだってこっちを食べようとする巨大な魚、そんなの到底――でも、あなたはちっとも気にならないんだね」

 どこか声が非難の色を帯びる。クラークは肩をすくめる。

「いや、気にならないどころか」

 バラードの声はゆっくりとささやきのように小さくなり、

「外へ出るのが好きなんだ。違う?」

 クラークは渋々頷く。

「ええ、そうなんだと思う」

「でもさ……レニー、リフトはあなたを、私たちを殺すかもしれないんだよ。幾通りもの方法で。それが怖くはない?」

「さあ。あまり考えたことない。怖いと言えば怖いけど」

「なら外の何がそんなに幸せなの? わけわかんない……」

 幸せかというと、それもまた少し違うのだが。

「さあね。不思議ってほどじゃないでしょ、危ないことする人ならたくさんいるし。自由落下とか、登山とか」

 バラードは答えない。シルエットがベッドの上で縮こまってゆく。急に手を伸ばし、個室の灯りをつけた。

 突然の光にクラークはまばたきする。アイキャップが適応し、部屋が薄暗くなる。

「嘘でしょ!」バラードが呶鳴る。「寝るときもその格好って、莫迦じゃないの?」

 気にしていなかった。この方が楽に思えるだけだ。

「私が心の内を曝け出している間ずっと、機械の仮面をつけてたんだ! 目も見せないなんて失礼にもほどがあるでしょ!」

 クラークはたじろぎ、後退りする。寝台から立ち上がったバラードが一歩進み出る。

「あんたがスーツをもらう前は人間扱いされてたなんて、信じられない! 大好きな海に遊び相手でも探しにいけばいい!」

 目の前でハッチが音を立てて閉められた。

 レニー・クラークは少しの間、閉じた隔壁を見つめていた。きっと自分は穏やかな表情を浮かべている。それでもその場にじっと佇み、心の結ぼれがほぐれるのを待った。しばらくしてから、ぼそりと呟いた。

「うん。そうするよ」

 エアロックから出るとバラードが待ち構えていた。

「レニー、話をしましょう。大事な話を」

「どうぞ」身を屈めてフィンを取り外す。

「ここじゃなくて私の部屋で」

 クラークは顔を上げる。

「お願い」

 クラークは梯子を上り始める。

「少し休憩でも――」

 見下ろしてやるとバラードは黙り、

「なんでもない。行きましょう」

 ラウンジへ上がる。バラードを先頭に通廊を進み、部屋に入る。バラードはハッチをしっかり閉めると寝台に座り、スペースを空けた。

 クラークは窮屈な空間を眺める。鏡が嵌まった隔壁に予備のシーツがかけられていた。

 バラードがベッドをぽんと叩く。

「ほら、レニー。座って」

 渋々座った。急に優しくして、どういうつもりなのか。こんなふうに振る舞うのは……

 ……あなたの方が上だった頃以来だね。

「――聞きたくないでしょうけど、あなたをリフトから遠ざけなきゃいけない。そもそもこんなところに配属するべきじゃなかった」

 クラークは黙っていた。

「いくつかテストを受けたでしょ。ストレス耐性を測るための。密室、長期の孤立、慢性的な身体の危険、その手の試験を」

 クラークはそっと頷く。それで、と先を促す。

「それでね、そういうテストをする側はどんな人に耐性があるか知ってるはずだって思ったこと、ないかな。というか、知らずにテストするなんてありえないよ」

 クラークの内面が凍りつく。外見に変化はない。

 バラードが少し顔を寄せてきた。

「言ってたよね、自由落下とか登山とか。なぜ人はわざわざ危ないことをするのか、私はそれを調べていたの、レニー。あなたのことがわかってからずっと――」

 私のことがわかった?

「――スリル愛好家の共通点はなんだと思う? みんな死にかけたときだけ生きた心地がするって言ってる。危険を必要としてる。それが快感なの」

 あなたなんかに私がわかるわけが……。

「従軍経験者、長らく人質だった人、色んな理由から死と隣り合わせの場所で長い時間を過ごした人。それから強い強迫観念を持つ人も多くて――」

 誰も私を理解してなんかいない。

「常に崖っぷちに立ってないと幸せになれないんだって。早くからそうなる人も多いんだよ、レニー。ほんの子どもの頃から。あなたの場合、ふれられるのも耐えられないんでしょ――」

 こないで。あっちへ行って。

 バラードが肩に手を置き、優しく尋ねる。

「どれくらい虐待を受けていたの、レニー。何年もでしょう」

 クラークは答えずに手を振り払う。あの人は私を傷つけようとしたわけじゃない。寝台の上で身動ぎし、顔をわずかに背ける。

「やっぱりね。あなたはトラウマに耐性があるどころじゃない。依存してるんでしょ」

 立ち直るのにほんの数秒もかからなかった。スキンとアイキャップのおかげだ。クラークは穏やかな微笑みさえ浮かべてバラードに向き直る。

「虐待。また随分と古風な単語だね。魔女狩りからこっち死語になったと思ってたけど。ジャネット、あなた歴史マニアか何かなの」

「資料を読んだんだけど、依存にはメカニズムがあるの。脳がストレスにどう対応するか知ってる? ありとあらゆる麻薬様物質を血中に放出するんだよ。ベータエンドルフィン、オピオイド。それが頻繁かつ長期にわたると病みつきになってくる。どうしようもないくらいに」

 喉で音が鳴っている。金属を引き裂くような、耳障りな咳のノイズ。一瞬遅れて、これは自分の笑い声だとクラークは気づく。

「でっちあげじゃないってば!」

 バラードが声を張り上げる。

「信じられないなら自分で読んでみてよ! 虐待された子どもが大勢、暴力亭主や自傷や自由落下に依存しながら一生を――」

「それが幸せをくれるんでしょ」

 笑顔のままにクラークは言い、

「喜んでレイプされて、喜んで気絶するまで殴られて……」

「違う、幸せなわけがない! だけど感覚としてはいちばん近いんだと思う。だから幸福とストレスを混同して、手当たり次第にストレスを求めてしまう。それは生理的な依存なんだよ、レニー。あなたは自分から求めているの。いつだってあなたが求めているのよ」

 求めているのは私、か。勉強熱心なバラードは知っているのだ。生命は純然たる電気化学だと。どんな感じか説明しても、散々殴られるよりずっとつらいことがあると説明しても意味はない。実の父親に組み伏せられてレイプされる以上の苦痛は実在する。それは合間の時間、何も起こらない時間だ。放っておいてくれるけれど、それがいつまで続くかはわからない。テーブルに向かい合って座り、痛めつけられた内臓が傷を癒そうと奮闘する間に、無理をして食べる。やがて頭をぽんと叩かれ、向けられた微笑みでそれを知る。長すぎた執行猶予が終わり、迎えがやってくるのだと。それは今夜かもしれない。明日か、明後日かもしれない。

 確かに私は求めている。他にけりのつけようもないでしょ。

「聴いて」クラークは首を振る。「私はね――」

 途端に言葉が出てこなくなる。何が言いたいかははっきりしている。バラードだけが勉強熱心なわけではない。望みが満たされる一生を送ってきたバラードにはわからないのだろうが、レニー・クラークに降りかかった出来事はありふれている。ヒヒやライオンは子を殺し、オスのトゲウオはつがいのメスをいじめる。昆虫でさえレイプをする。それは虐待ではない。ただの生態にすぎない。

 だが、声に出して言うことがなぜかできない。何度も言おうとした挙げ句、口をついて出たのは子どもじみた挑発だけだった。

「あなたは何もわかっちゃいない」

「いいえ、それは違う。レニー、あなたは自分の痛みに依存してる。だから外に出て、殺せるものなら殺してみろとリフトに挑んでばかりいる。そのうち本当に殺されちゃうわ。あなたはここにいるべきじゃない。地上に帰さなきゃいけない」

「私は帰らないよ」

 クラークは立ち上がり、ハッチへ向かう。バラードが手を伸ばしてきた。

「待って、話を最後まで聞いて。理由はそれだけじゃない」

 クラークはなんの関心もなくバラードを見下ろす。

「お気遣いどうも。でも聞く必要なんかない。私は好きなときに出ていく」

「今出ていけば全て筒抜けよ。上は私たちを監視してる! まだ気づいてないの?」

 バラードが声を荒らげる。

「よく聴いて、上はあなたのことを知っていた。あなたみたいな人を探し求めていたの! いくつもテストを実施して、それでもどんな人材が海底に適応できるかわからなかったから、こうやって誰が最初に音を上げるか観察してる! この計画がまだ実験段階にあるのがわからない? 送り込まれた人はみんな、あなたも、私も、ケン・ルービンもラナ・チャンも、みんな血も涙もないテストの道具――」

「で、あなたは落第しかけてる。なるほどね」クラークは呟く。

「上は私たちを利用してるだけ。レニー――出ちゃだめ!」

 バラードの指がタコの吸盤のように掴んできた。クラークはそれを振り払い、ハッチの密閉をゆるめて押し開く。背後でバラードが立ち上がるのがわかった。

「あなたは病気なのよ!」

 バラードが絶叫する。何かがクラークの後頭部を強打する。無様に通廊へ投げ出され、転んだ拍子に片腕をパイプに強く打ちつけてしまう。

 くるりと仰向けになり、両腕を掲げて身を守る。しかしバラードは自分をまたいでラウンジの方へつかつかと歩いていく。

 怖くない。立ち上がって気づいた。ぶたれたのに、怖くない。変だ……。

 どこか近くでガラスが割れる音がした。

 バラードがラウンジでわめいている。

「実験は終わり! さっさと姿を見せなさい!」

 クラークは通廊を抜け、ラウンジへ入る。鏡の破片が大きく尖った鍾乳石のように枠から垂れ下がり、ガラスが床に跳ね散らかっている。

 割れた鏡の奥の壁から、魚眼レンズが部屋の隅々を捉えていた。

 バラードがレンズを覗き込んで言う。

「聞こえた? 莫迦げたゲームにはもうつき合ってやらないから! 芝居はおしまい!」

 石英ガラスのレンズが平然と見つめ返している。

 本当だったのか。クラークはバラードの個室のシーツを思い出す。監視に気づいて、カメラも見つけてたんだ。ねえ、バラード、私たち友達なのに、教えてくれなかったんだね。

 いつから気づいてたの?

 バラードが振り返ってクラークを見た。魚眼レンズに向かって吠える。

「あの子は騙せたみたいだけどね。そりゃそうよ、正気ですらない木偶の坊なんだから! こんなチャチなテスト、私には痛くも痒くもない!」

 クラークは歩み寄り、完全に平板な声で言う。

「木偶の坊だなんて言わないでよ」

「その通りでしょうが! あなたは病んでる! だからここへ送り込まれた! あいつらは病人を必要としていて、病人を頼りにしてるっていうのに、すっかりいかれたあなたにはそれがわからない! 何もかもその仮面の裏に隠して、マゾのクラゲみたいにぷかぷか浮かんで、誰に何を差し出されようと受け取るばかりで――自分からそれを望んで……」

 これまでは確かにそうだった。両手で拳を作りながらクラークは思う。おかしな話だ。後退りするバラードの方へ足を踏み出す。一歩、また一歩。ここに来て初めて、自分でもやり返せると知るなんて。打ち勝つことだってできると学ぶなんて。教えてくれたのはリフトだ。そしてバラードも、今こうして教えてくれている……。

「ありがとう」そうささやき、顔面をぶん殴った。

 バラードが後ろへ吹っ飛び、テーブルに激突する。クラークは静かに歩を進め、氷柱のようなガラスの中に自らの姿を捉える。キャップに覆われた目は輝いているかのようだった。

「ああ。レニー、ごめんなさい」

 クラークはすすり泣くバラードの前に立つ。

「謝らないで」

 自分のことが、各部品に整然とラベルが貼られた分解図面のように思えた。ここには憤怒と憎悪が、他人にぶちまける感情が満ちています。

 床で丸まるバラードを見下ろし、クラークは言った。

「まずはあなたから始めるね」

 しかし治療は準備運動が整いもしないうちに終了した。いきなりラウンジに響いた騒音は甲高く、規則的で、どこか聞き覚えがある。しばらくして音の正体を思い出し、足を下ろす。

 通信室で電話が鳴っている。

 今日、ジャネット・バラードが家へ帰る。

 潜水艇は深海の闇の底に三〇分かけて降下してきた。通信室のモニタの中では、肥大化したオタマジャクシのような船体がビービのドッキング機構の上で停止するところだった。機械と機械がまぐわう音が反響し、次第に薄れてゆく。頭上のハッチが開いた。

 バラードの後任が梯子を下りてくる。既に身体の大部分がスキンに包まれていて、見開かれた不可侵な目に瞳孔はない。グローブを脱いでおり、前腕までスキンが開いている。両の手首に走るかすかな傷痕を認め、クラークは内心でくすりと笑う。

 私の方が適応できなかった場合、ここにいるのはバラードの同類だったのだろうか。

 視界の外の通廊でハッチがシュッと音を立てて開く。シャツ姿のバラードがスーツケースを手に現れる。片目は腫れて閉じていた。何かを言おうとするが新参者を目にして口を閉じる。一瞬だけ視線を向けて軽く会釈し、無言で潜水艇の腹の中に収まる。

 頭上から呼びかける者は誰もいない。挨拶もなければ士気を高める訓話もない。乗組員は事前に説明を受けたのかもしれないし、何を言われずとも理解したのかもしれない。ドッキングハッチが勢いよく閉じた。最後にガチャンと金属音を発して、潜水艇が連結を解く。

 クラークはラウンジを横切ってカメラを覗き込む。砕けた鏡の隙間に手を伸ばし、壁から電源コードを引き千切る。

 もういらないよね。どこか遠くで誰かが頷くのがわかった。

 クラークと新参者、ふたりは死んだような白い目で互いを値踏みする。やがて男が言った。

「ルービンだ」

大掃除

 へえ、あなたが噂の暴漢さんか。

 ルービンがクラークの前に立つ。足許にはダッフルバッグがひとつ。スラヴ系、黒い髪、蒼白い肌、未熟な木工職人が鉋をかけたような顔。一本の太い眉毛が両目に影を落としている。背は一八〇センチほどと高くはない。だが身体つきは逞しい。

 見た目は暴漢らしいね。

 傷が手首のみならず顔にも走り、古傷がうっすらと網目を成している。その手の趣味があるのかもしれないが、意図的な装飾にしては目立たず、再生手術の痕だとしたら露骨すぎる。手術痕を抹消する医療技術は何十年も前からある。ただし、傷が本当に深刻な場合は別だ。

 きっとそうだ。ずっと昔、何かに顔を骨まで抉られたんだ。

 ルービンが手を伸ばし、バッグを拾い上げる。覆われた目は何も語らない。

 暴漢のことならよく知ってる。あなたはまさしくって感じ。

「個室はどこでもいいのかな」

 ルービンが尋ねる。意外にも顔にそぐわぬ声が響いた。心地良いと言ってもいい。

 クラークは頷く。

「私は右側の二番目。他の部屋ならどこでもいい」

 ルービンがそばを通り過ぎる。奥の壁の縁から突き出す短刀めいた鏡の中で、砕けたルービンの鏡像が背後の通廊へと消えていく。クラークはラウンジを横切ってギザギザに尖った壁へ近づく。そのうち片づけをしないと。

 バラードが手を加えてから、この鏡の仕組みが気に入っていた。ジグソーパズルと化した鏡像はずっと独創的で、印象派の絵画のようにも見えたから。ところがいつのまにかイライラさせられるようになっていた。たぶん次の変化が起こり始めているのだろう。

 ヒビが走ったケン・ルービンがこちらを見つめている。衝動的に拳を鏡に叩き込む。欠片が床に降りそそぎ、カチャリと音を立てる。

 暴漢なんでしょう。やってみなさい。やれるもんならね。

「おっと」背後でルービンが声を上げる。「その――」

 姿を映せる鏡はまだ残っている。クラークの顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。振り返って向き合う。

「すまない、驚かせてしまった」ルービンはそっと呟き、退き下がった。

 本当に申し訳なさそうな顔をしていた。

 そうか。あなたは暴漢じゃないんだね。クラークは隔壁に寄りかかる。ともかく私好みのタイプではない。なぜそんなことがわかるのかは曖昧だ。ふたりの間には何か重要な化学反応が欠けていた。ルービンは極めて危険な男だ。自分にとってはそうじゃないというだけで。

 クラークはほくそ笑む。暴力を振るっているとき、ごめんなさいなんて言葉は出てこない。

 言うまでもなく、その言葉が出た時点で手遅れなのだ。

 個室にひとりでいるだけでもうんざりする。まして他人と共有するなんて御免だ。

 レニー・クラークは寝台に横たわり、自分の全身をよく観察する。爪先の向こうからもうひとりの自分が冷ややかに見つめ返してくる。卓上サイズのガラクタ置き場をひっくり返したような、ごちゃごちゃした前部隔壁が鏡像の顔を縁取っていた。

 鏡の裏のカメラも同じものを見ているのだろうが、縁の辺りは歪んでしまうはずだ。そこまで考えて広角レンズに思い至る。グリッド・オーソリティも死角を残したくはないだろう。被検体の動物を監視できなかったら、実験を行う意味などあるまい。

 今も誰かが観察しているのだろうか。それはなさそうだ。少なくとも人間ではなく、疲れも感情も知らない機械を使っているのだろう。被検体が働こうが排泄しようが自慰をしようが関係なく、無慈悲に観察を続ける機械を。興味深い行動が見られたときだけ、生身の人間を呼び出すようプログラムされているはずだ。

 興味深い行動。そのパラメータは誰が定義するのだろう。それは厳密に実験の目的に沿ったものなのか、あるいは誰かが個人的な趣味をこっそり反映させているのだろうか。その誰かさんはレニー・クラークが絶頂を迎えるのと同時に絶頂するのかもしれない。

 ベッドの上で身をよじり、頭板側の隔壁に顔を向ける。スパゲッティの束のような光ケーブルが寝台横の床から湧き上がり、壁の真ん中を這って天井の中に消えている。通信室に向かう地震計の配線だ。空調用の吸気口が漏らすため息が片方の頬に吐きかけられる。その裏では鋼鉄の虹彩が回折格子で分割された光の束を捉え、差圧が一秒当たり何ミリバールかの許容量を超えた瞬間に括約筋を締めようと待機している。ビービは多くの部屋を抱えたマンションであり、緊急時は各部屋が単独で機能する。

 また寝台に寝転がり、デッキへ指を伸ばす。床に置かれたテレメトリ用カートリッジはもうほとんど乾いているが、海水が蒸発してできる細かい塩の筋に表面を覆われていた。これは広域スペクトル対応の基本モデルで、半ダースほどのセンサを搭載する。震度、温度、流量、通常の硫酸塩に有機物。戦棍の突起めいたセンサヘッドのせいで見た目は台なしだ。

 だからこそ今ここにあるのだが。

 把手に指を絡め、カートリッジをデッキから持ち上げる。重い。もちろん海水中では中性浮力が働くが、諸元によれば大気中の重さは九・五キログラム。大部分は頑丈な耐圧ケーシングだ。五〇〇気圧で活動中のスモーカーだろうと触れはしない。

 ろくでもない鏡一枚にお見舞いするには大げさな代物かもしれない。バラードだって素手で取りかかったのだし。

 粉砕防止加工が施されていなかったのは不思議だ。

 不思議だが、好都合ではある。

 腰を上げ、カートリッジをぐっと持ち上げる。鏡像が見つめ返してきた。その目に表情はなく、しかし虚ろでもない。どこか楽しくてたまらないといった感じだ。

「クラークさん、どうした。何か音が――」

「平気」

 クラークは閉じたハッチに向かって言う。個室中にガラスが散っている。枠にしぶとくぶら下がる三〇センチほどの破片は、抜けかけの歯に似ていた。手を伸ばし――太腿から鏡の欠片が零れ落ちる――片手で軽く叩いてやると、デッキにぶつかって砕け散った。

「ただの大掃除だから」

 ルービンの返答はない。通廊を離れてゆく音がする。

 あの男はうまくやれるだろう。既に数日が経つが、慎重に距離を保っている。ふたりを争わせる性的な化学反応は皆無だ。ケン・ルービンがラナ・チャンに何をしたのであれ――ふたりがお互いに何をしたのであれ、ここでは関係ない。ルービンの性向はあまりに明白だ。

 その点に関してはクラークも変わらない。

 立ち上がり、首を傾けて金属製の化粧梁を避ける。足許でガラスがガリガリと鳴る。鏡の奥に新たに現れた隔壁は、蛍光灯の光の中だと油っぽく見えた。畝のある灰色の表面に目立つ特徴はふたつしかない。ひとつ目は一角に押し込まれた爪より小さな球形レンズ。ソケットから取り外し、しばし拇指と人差し指で弄ぶ。ちっぽけなガラスの目玉だ。煌めくデッキにそれを投げ捨てる。

 ふたつ目は、合金の肋材に刻印された文字。〈ハンセン製作所〉。

 ダイブスキンの肩に刻まれたグリッド・オーソリティのロゴを別にすれば、ここに来てから商標を見るのはこれが初めてだ。なんとなく妙な気がした。天井に張り巡らされたケーブルを調べる。なんの変哲もなくただただ白い。ハッチ横の緊急時用ハイドロックスのタンクには深海運用試験日と耐圧仕様が記載されているが、メーカー名はない。

 何か意味があるのだろうか。

 今は独り。ハッチは閉じているし、監視も終わった――自分の鏡像さえ砕け散って修復不能だ。初めて基地の腹の中で本当の安心感を覚えた。どうしたものかよくわからない。

 少しならガードを下げてみてもいいかもしれない。顔に手をやる。

 最初は盲目になったのかと思った。キャップを外した目に個室はとても暗く、壁や調度がぼんやりとした影に沈んでいる。そういえば、バラードが出立してから照明を毎日少しずつ落としてゆき、個室から基地の隅々に至るまで暗くしていたのだった。示し合わせこそしなかったがルービンも同様にしていた。

 自分たちの行動を初めて疑問に思った。意味がないではないか。アイキャップは周囲の光の変化を自動的に補正し、常に明度を最適化して網膜に届ける。どうしてそれと気づけもしない暗闇の中で生きることを選んだのだろう。

 照明をつける。個室に光が満ちた。灰色尽くしの背景の中で鮮やかな色が目に痛い。オレンジ色の蛍光灯を反射するハイドロックスのタンク、赤青緑に瞬く表示、黄色の小さい感嘆符のような隔壁ロッカーの把手。最後に色を認識したのがいつか思い出せない。アイキャップは暗闇からもぼやけた映像を描き出すが、スペクトルの大部分はその過程で失われる。照明がついている今このときだけ、色はその姿を取り戻す。

 気に食わない。未加工の色はこの場にふさわしくない気がする。アイキャップを再装着し、照明をいつもの最小光度に落とす。隔壁が色褪せ、心落ち着く淡い青に染まる。

 これでいい。油断は禁物だ。

 数日後にはビービの全人員が揃う。自分を曝すことに慣れたくはなかった。


ローマ

幼形成熟

 最初は人間とは思わなかった。生きているようにさえ見えなかった。カンビー通りの高架下に捨てられた、汚い襤褸切れの山かと。ジェリー・フィッシャーが改めて目を凝らしたのは、ちょうどその瞬間にスカイトレインが頭上で音を立て、帯状のストロボ光で地上を照らしたからだった。

 見つめる視線の先で、ちらちらと影に見えつ隠れつする双眸が見つめ返してくる。

 動かずにいるうちに電車が頭上の線路を遠ざかってゆく。世界がくすんだ色に戻る。歩道。やむことのないコンクリート屑の霧雨に打たれて灰を被り、窒息しかけている線路下の葛4。商業地区から届くネオンとレーザーを照り返す、低く垂れ込めたおぼろな雲。

 それから目のある物体、高架の柱にもたれる襤褸切れの山。少年。

 若い男の子だ。

 誰かを本当に愛してるときはこうするんだよ、と例のごとくシャドウがささやく。どのみち放っておけばこの子は死んでしまう。

「おい、大丈夫か」フィッシャーはとうとう声をかけた。

 襤褸切れが少し身動きし、すすり泣いた。

「安心しろ。何もしやしないから」

「迷ったんだ」随分変わった声で襤褸切れが言う。

 フィッシャーは一歩前に出た。

「難民か?」

 最寄りの難民地区は一〇〇キロ先だ。警備は厳重だが、脱走者も時々いる。

 目が左右に揺れる。難民じゃない、と。

 まあ、そう答えるしかないわな。警察に突き出されるのが怖いのかもしれん。

「どこに住んでるんだ」フィッシャーは尋ね、答えによく耳を澄ます。

「オーランド」

 声にアジアやインドの訛りはない。子どもだった頃、災害は人を肌の色で判断しないと母親に言い聞かされたが、今のフィッシャーにはもっと分別がある。少年の声は北米人のものだ。とすると難民ではない。つまり、ほぼ確実にこの子を探している人がいる。

 となると少々――

 ちょっと待て。

「オーランドか。迷ったって、パパとママは」

「ホテル」襤褸切れの山が柱から剥がれ、すり足で寄ってくる。「ヴァンシアトル」

 声は半ば口笛めいており、鼻腔を通して話しているかのようだ。もしかしたら――なんと言ったっけ――口唇口蓋裂か何かを患っているのかもしれない。

「どこのヴァンシアトル?」

 少年は肩をすくめた。

「ウォッチは」

「なくした」

 助けてあげなきゃ、とシャドウが言う。

「そっか、うん、よし」

 フィッシャーはこめかみを掻いた。

「近くに住んでるんだ。そこから電話しよう」

 ロウアーメインランドにヴァンシアトルはそれほど多くはない。警察も捜索はしていないだろう。仮にしていたとしても自分が非難されるいわれはないはずだ。この件に関しては。まさか子どもを見殺しにしろとは言うまい。

「俺はジェリーっていうんだ」

「ケヴィンです」

 見た目は九、十歳ぐらい。公共端末の使い方を知っていてもいい年頃だ。しかし違和感がある。高すぎる身長、痩せこけた身体、歩くともつれる手足。脳に傷を負っているのかもしれない。失敗したナノテクベビーの類か。あるいは妊娠中の母親が屋外で過ごしすぎたか。

 タイムシェアしている二間の部屋にケヴィンを連れて上がった。少年は断りもなくカウチに沈む。フィッシャーは冷蔵庫をチェックする。ルートビアを差し出すと、ケヴィンは緊張した笑みを浮かべて受け取った。その隣に座り、安心させようと膝に手を置いてやる。

 誰かに電源プラグを抜かれたかのように、ケヴィンの顔から表情が消え去った。

 続けて、とシャドウ。嫌だとは言ってないよ。

 ケヴィンの服は汚れていた。ズボンに泥がこびりついている。フィッシャーは手を伸ばして泥を摘まみ取り始める。

「この服は脱いだ方がいい。きれいにしなきゃな。ここのシャワーは偶数日しか使えないけど、スポンジで身体を拭くくらいなら……」

 ケヴィンはじっと座っている。飲み物を握る手の骨ばった指がプラスチックをへこませていた。もう片方の手はカウチに置かれたまま動かない。

 フィッシャーは微笑んだ。

「大丈夫。こうするんだよ、誰かを本当に――」

 ケヴィンは床を見つめて震えていた。

 フィッシャーはジッパーを見つけて引っ張り、優しく力を加える。

「大丈夫、大丈夫だ。心配いらない」

 震えが止まり、顔が上がる。

 そこには笑顔があった。

「心配しなきゃいけないのは僕じゃないよ、おっさん」

 ケヴィンは口笛のような子どもの声で言った。

 衝撃が走り、フィッシャーは床に投げ出された。いつのまにか天井を見上げていて、腕の先で指が震え、魔法をかけられたみたいに痺れて重くなる。体内に高圧電線の網が張られたかのように、全神経が歌声を上げていた。

 膀胱がゆるむ。じんわりと湿った熱が股間に広がる。

 自分をまたいで見下ろすケヴィンからは、動きのぎこちなさがすっかり消えていた。片手はカップを握ったまま、もう片方の手で電磁警棒を握っている。

 わざと時間をかけてケヴィンが飲み物を傾ける。茫然と眺めるフィッシャーに向かって液体がくねりながら落ちてきて、バチャバチャと顔面で飛沫を上げる。目がちくりと痛み、炭酸飲料に覆われた視界の中でケヴィンが細長い靄と化す。まばたきは二度目でやっと成功した。

 ケヴィンが片脚を振り上げる。

「ジェラルド・フィッシャー、〈北米太平洋〉刑法一五一条および一五二条に基づき」

 脚が前へと蹴り出される。横腹で痛みが爆発する。

「未成年者への強制猥褻の罪で」

 振り上げて。蹴る。痛み。

「あなたを逮捕する」

 少年は膝をついてフィッシャーを睨みつける。近くで見れば徴は明らかだ。目の深み、肌の毛穴の大きさ、アンドロゲン抑制剤に漬け込まれた大人の身体の見せかけの弾力。

「それから、これとは別件の接近禁止命令違反は言うまでもないな」

 いったい、とフィッシャーはぼんやりした頭で思う。神経に走る余震で全世界が紗に覆われていた。いったい何ヵ月あれば、大人から子どもまで発育を戻せるのだろう。

「あなたには黙秘権が――おっと、そうだった」

 そして、その逆行が元通りになるまではどれくらいかかるのだろう。ケヴィンはまた大人に成長できるのだろうか。

「権利についちゃ、俺よりお詳しいんだったな」

 こんなはずじゃなかった。警察はこんなに有能じゃないし、予算もありゃしないのだ。それより何より、なぜだ。こんなふうに自ら喜んで変身する奴なんかいるわけがない。それもジェリー・フィッシャーを捕まえるためだけに。なぜ。

「助けを呼ぼうか? まあでも、しばらく自分の小便の上で寝てもらえばいいか……」

 ケヴィンの方が自分より傷ついているような気がした。そんなわけがないのに。

 大丈夫、とシャドウがささやく。あなたのせいじゃない。わかってないのよ、こいつら。

 またケヴィンに蹴られたが、ほとんど何も感じられない。何か言おうと、拷問吏の気分が少しでも軽くなりそうな言葉を口にしようとするが、運動神経はまだショートしていた。

 それでも泣くことならできた。きっと配線が違うのだろう。

 今回はいつもと違った。始まりこそ検査、試料採取、打擲と同じだったが、途中で列から離され、身嗜みを整えられ、別室に連れていかれた。ふたりの警備がフィッシャーをテーブルにつかせる。向かい合った男はずんぐりと小柄で、顔は茶色のほくろだらけだ。

「こんにちは、ジェリー」

 男はフィッシャーの傷に気づかぬそぶりで言った。

「私はスカンロン博士だ」

「精神分析医ですか」

「というより、むしろメカニックかな」

 嫌に気取った微笑みはこう語っていた。気の利いたジョークなんだけど、莫迦なきみには難しかったようだね。気に食わない奴だ、とフィッシャーは思った。

 とはいえ昔からこの手のタイプは好都合だった。口を開けば行為能力やら責任能力のことばかり。問われるのは何をしたかではなく、なぜしたかだ。悪魔であるがゆえに行為に及んだのであれば、不利な状況に追い込まれる。ところが同じ行為に及んだ原因が病気であれば、医者がかばってくれることがある。フィッシャーは病人らしく振る舞う術を心得ていた。

 スカンロンが胸ポケットからヘッドバンドを取り出す。

「ジェリー、ちょっと話をしたいんだ。これをつけてくれないか」

 バンドの内側にはセンサパッドがびっしり並んでいた。額にひやりと冷たい。部屋の中を見回しても、モニタや計測器の表示は見当たらない。

「ありがとう」

 スカンロンが警備に頷き、ふたりが去るのを待ってから話を再開する。

「きみは変わり種なんだよ、ジェリー・フィッシャー。きみみたいな人間にはなかなかお目にかかれない」

「他の医者からそう言われたことはありませんね」

「へえ。なんて言われたんだ」

「典型的だ、と。その、一五一条を破った人間は、異口同音に同じ論拠を持ち出すと」

 スカンロンが身を乗り出す。

「まあ知っての通り、それは真実だ。古典的な台詞だよ。『私はあの子に性の目醒めについて教えていたんです、先生』『子どもを導くのが親の役目です、先生』『あの子たちは学校が嫌いですが、それは本人のためなんです』ってね」

「俺はそんなこと言いませんよ。子どもなんていませんから」

「確かに。肝心なのは、小児性愛者が自分は子どもの利益を最優先に考えているとたびたび言い張るところだよ。性的虐待を利他的行為にねじ曲げてしまうんだな、言うなれば」

「それは虐待じゃない。誰かを本当に愛しているときは、そうするんですよ」

 スカンロンは椅子に背を預け、しばらくフィッシャーをじっと見ていた。

「実に興味深いね、ジェリー」

「何がでしょう」

「誰もがその台詞を利用するものなんだ。色々な人間に会ってきたが、その台詞を本当に信じていそうな人は、きみが初めてだよ」

 最終的には罪を見逃してもらえることになった。当然ただで済むわけがないのは承知していた。実験への参加、臓器の提供、自発的去勢を求められるに違いないと。しかし実際にやってきた罠はそのいずれでもなかった。とても信じられなかった。

 こいつらはフィッシャーに仕事を与えようと言うのだ。

「社会奉仕活動のようなものと考えてもらいたい。社会全体への賠償だと。大半の時間は海の中だが、設備や装備は潤沢だ」

「どこの海ですか」

「チャナー噴出孔。アキシャル火山の四〇キロほど北にある。フアンデフカ・リフトの上だ。場所はわかるかな、ジェリー」

「期間は」

「最短一年。そうしたかったら延長も可能だ」

 延長する理由はひとつも思いつかないが、どのみち関係ない。この取引に応じなければ、残りの一生を頭の中に刑務所長を入れたまま送る破目になるだろう。それに考えてみれば、意外と長くはないかもしれない。

「一年間。海の中、か」

 スカンロンがフィッシャーの腕をぽんと叩く。

「ジェリー、時間ならある。よく考えてくれ。今日の午後までに決めてくれればいい」

 やろう、とシャドウが言う。でなきゃ切り刻まれて変えられちゃうよ……。

 しかし慌てて決める気はない。

「それで、俺は一年も海の中で何をするんですか」

 ビデオを見せられた。

「いやいや。こんなの無理ですよ」

「なあに、問題ない」スカンロンが微笑む。「学べばいい」

 そう、フィッシャーは学んだ。

 学習の大半が眠っている間に進んだ。学習を促進する注射を毎晩行う、とスカンロンは言っていた。注射の後、ベッド脇の機械が夢を見せてくれるらしい。夢の内容はちっとも思い出せなかったが、何かが蓄積していたのは確かだった。毎朝、操作卓の前に並んで座る指導員(プログラムではない本物の人間の女性)が示すテキストや図表に、妙な見覚えがあったからだ。何年も前に知ったことを、ただ忘れていただけのように。今では全て頭に入っていた。プレートテクトニクス、沈み込み帯、アルキメデスの原理、二パーセント・ハイドロックスの熱伝導率。アルドステロン。

 異物使用形成術。

 摘出された左肺と、空いたスペースに埋め込まれた機械の技術仕様を思い出す。

 毎日午後になると身体に電極がつけられ、横紋筋に弱い電流が流れた。何が行われているのかはもうわかってきていた。誘導式アイソメトリクスなる用語とその意味を、夢の中で叩き込まれていたからだ。

 手術から一週間が経った朝、熱と共に目醒めた。

「何も心配はいらない。単なる感染の最終段階だ」

「感染?」

「ここに来た日にレトロウイルスを注射した。知らなかったか」

 フィッシャーはスカンロンの腕を掴んだ。

「病気みたいに? そんな――」

「完全に安全なものだよ、ジェリー」

 スカンロンは誤解を解こうとしてか穏やかな笑みを浮かべ、

「なにせウイルスがないと海底に長居はできない。人間の酵素は高圧環境下ではうまく働かないからな。だから飼い馴らしたウイルスに遺伝子を追記して、それを注入した。ウイルスはきみを徹底的に書き換えているところだ。熱が出たんなら完了間近だろう。一日もすれば具合は良くなるはずだ」

「書き換え、って」

「今やきみの酵素の半分が人と魚、ふたつの特徴を備えている。深海魚から抽出した遺伝子だよ。確かヨロイダラだったかな」

 肩をぽんと叩いて寄越し、

「半魚人になった気分はどうだい、ジェリー」

「コリファエノイデス・アルマトゥス」

 フィッシャーはゆっくりと唱えた。スカンロンが眉をひそめる。

「そりゃなんだね」

「ヨロイダラ。主にデヒドロゲナーゼ、ですね」

 スカンロンはベッド脇の機械をちらりと見て、

「さて、どうだったかな」

「そうだ。デヒドロゲナーゼだ。でも活性化エネルギーを下げる微調整が加えられてる」

 フィッシャーはこめかみを叩く。

「全部ここに入ってる。まだチュートリアルは受けてないだけで」

「素晴らしい」スカンロンはそう言ったが、本心ではなさそうだった。

 ある日フィッシャーが入ったタンクはピストンのような構造で、五階分の高さがあった。押さえつけてくる天井は巨大な手さながら、中にあるものをなんでも押し潰せそうだ。ハッチが封鎖され、タンクに海水が注ぎ込まれた。

 スカンロンは変身について事前に警告してくれた。

「気管と頭洞は浸水するが、肺と腸は柔軟だからしぼむだけだ。圧力に耐性がついているのはわかっているね。溺れる感じに少し似ているが、慣れるはずだ」

 確かにそれほど悪くはない。内臓はねじれ、鼻腔は地獄のように燃え上がったが、ケヴィンと再戦するよりは断然こっちを取る。

 タンクの中に浮かんでいると、海水がチューブを通って胸に流れ込んでくる。フィッシャーは吐き気を催す無呼吸の感覚を味わう。

「乱流が発生しているみたいだ。きみの排水口から」

 スカンロンの声が四方から聞こえてくる。壁そのものが話しているかのようだ。

 細かい泡の筋が胸から湧き出ていた。アイキャップのおかげで全てが驚くほど鮮明で、幻覚でも見ているみたいだった。

「なんかちょっと――」

 自分の声ではなかった。言葉を、自分ではない何かが発している。ハーモニクスを知らない安物の機械が。思わず片手を胸にやり、埋め込まれた円盤にふれる。

「――水素が」

 フィッシャーは改めて声を出し、

「問題ない。充分な深さまで潜れば水圧が搾り出してくれる」

「ああ。じっとしていてくれ」

 スカンロンが誰かと話しているが、くぐもってよく聞こえない。胸の中で何かが静かに震えているのが感じられる。泡が膨らんだかと思うとしぼみ、消えてゆく。

 スカンロンが戻ってきた。

「良くなったかね」

「ええ」

 そう答えたものの、自分の気持ちがよくわからなかった。胸に機械を詰め込まれていることも、水を水素と酸素に分離して呼吸しなきゃならないことも、あまり気に入っていない。だが本当に気に食わないのは、顔も知らない技術者が遠隔操作で内臓を弄び、体内に手を突っ込んで断りもなく荒らし回っているというイメージだった。そのせいで――

 侵害されたって気分になるんでしょ。

 シャドウはただの嫌な奴になりもする。そもそもあたしの仕事はあなたに入れ知恵することじゃないし、とでも言いたげに。

「ジェリー、今から照明を落とす」

 暗黒。巨大な機械の音で水がぶぅんと唸っている。

 やがて、青く冷たい閃光が頭上で瞬いているのに気づく。あるべき以上に明るい光を放っているように見える。見つめるうちにタンクの中が霞がかった黒と青の色合いに染まる。

「光増幅は機能しているか」

「はい」

「何が見える」

「全てが。タンクの中。ハッチ。少し青みがかってる」

「その通り。ルシフェリン発光素だ」

「あまり明るくはない。何もかもがなんというか、夕暮れみたいだ」

「まあ、アイキャップがなかったら漆黒の闇だろうな」

 唐突に闇が訪れる。

「あの」

「心配するな、ジェリー。万事順調だ。ちょっと照明を切っただけ」

 フィッシャーは完全な闇の中に佇んだ。視界の隅でもやもやした影が動き回る。

「気分はどうだ、ジェリー。落ちるような感覚とか閉所恐怖はないか」

 気分は安らかと言ってもいいくらいだった。

「ジェリー?」

「いえ。なんでもないです。いい気分だ――」

「深度二〇〇〇メートルの圧力だよ」

「感じないですね」

 そんなに悪い話でもないかもしれない。一年だ。たった一年……。

「スカンロン先生」

 しばらくしてフィッシャーは言った。金属質の新しい声にもだんだん慣れてきた。

「なんだい」

「なぜ俺なんです」

「どういう意味だね、ジェリー」

「俺は能力があったわけじゃない。この訓練を終えても、きっと俺以上にうまくやれる人がごまんといるはずだ。本職のエンジニアとか」

「知識じゃない。人格だ」

 自分の人格ならよく知っている。物心ついて以来、色んな人が教えてくれた。それがどう関係するのかさっぱりわからない。

「つまり、なんなんです」

 答えてもらえるとは思わなかった。しかしついにスカンロンが口を開いたとき、その声には今まで耳にしたことのない何かが滲んでいた。

「前適応だよ」

エレベーターボーイ

 二キロメートル直下にたゆたう太平洋。背後に並ぶ虚ろな目をした精神病の積荷たち。チーズ満載のLサイズピザが操る飛行船。ジョエル・キタはその全てに予想通り満足していた。

 今回はわずかながら事前に予想ができた。今回に限ってグリッド・オーソリティは、ジョエルの人生を予告なしのカオス理論の演習に巻き込んでいなかった。ジョエルではなくレイ・ステリカーが巻き込まれた一週間ほど前から、こうなるのは見えていた。まさにこの操縦席でインストールされたピザを見守っていたレイはきっと、「雇用保障」なる言葉は撞着語法になってしまったと考えていたのだろう。

「一週間、子守りをすることになった」

 あのときレイはそう言った。ジョエルが定例のプリフライトチェックのために潜水艇に乗り込むと、友人は制御盤のそばで待っていた。レイが指さす先では飛行船の操縦席に続くハッチが開いており、数人の技術者がせっせと操縦機器に何かを接続していた。

「あれが現場でしくじるといけないからな。子守りが済んだら俺はおさらば」

「おさらばって、どこに」

 信じられなかった。レイは地熱発電計画が持ち上がるずっと前からフアンデフカを飛び回っていたからだ。それが当たり前だった頃には「従業員」だったことさえあるのに。

「しばらくはゴルダを巡回かな。その後はわからん。じきに全部アップグレードされちまう」

 ジョエルはちらりとハッチの向こうを見上げた。技術者たちはありふれた直方体の箱をいじくっている。一辺三〇センチメートル、厚さはジョエルの手首の二倍ほど。

「ありゃなんだ。オートパイロットか」

「一風変わった、な。離着陸から飛行中の大仕事までなんでもこなすんだとさ」

 良くないニュースだ。人間は三次元空間の情報を統合する能力にかけては、人間に取って代わろうとする機械を常に上回っていた。機械は示された樹木や建物を認識できないわけではないが、物体の角度がほんの数度変わるだけで大混乱に陥る。形状が変わり、コントラストや陰影が移り変わると、ガリウム砒素製の紛い物は空間地図の更新に膨大な時間をかけてしまう。対象物は依然として木のままで別の何かに変わってなどいないし、視点を変えただけだと即座に判断することができない。

 問題が起こらない場所もある。例えば海面だ。それから、各車両に備わるIDトランスポンダで交通が管理されている高速道路。真空浮力で空中に浮かぶ扁平な巨大ドーナツの下面に取りつけられる場合もある。これらは世紀の変わり目のずっと前からオートパイロット向けの環境として重宝されてきた。

 だが離着陸となるとまったく別次元の話だ。現実の物体は高速で通り過ぎていくし、目を光らせておくべきものも山ほどある。数十億年に及ぶ自然選択は、追い越し車線が混み合う時代にもまだ幅を利かせていた。

 これからは違う、ということらしい。

「出ようや」

 レイが離着陸場へ下りていく。ジョエルも後を追って軒下へ出た。青々と茂る葛4の毛布が周囲の建物の屋根を覆っている。いつ見ても黙示録後の世界を思わせる眺めだ――雑草と蔦が荒れ野からうねうねと広がり、滅びた文明の遺跡を絞め殺している。ただし、この特別な雑草は文明を救うとされているのだが。

 遙か遠くの沿岸部に目を凝らすと、幾筋もの煙が難民地区から空へと立ち昇ってゆくのが見えた。もはや文明もこれまで。

「ありゃスマートゲルだ」レイが口を開いた。

「スマートゲル?」

「ヘッドチーズ。培養された脳細胞の切り身。同じものがネットに接続されて、対汚染用のファイアウォールに使われてる」

「んなこた知ってるよ、レイ。信じられねえだけだ」

「まあ信じなって。おまえのとこにもやってくるさ。時間の問題だよ」

「ああ、だろうな」ジョエルはじっくりと考えた。「いつになるかね」

 レイが肩をすくめる。

「少しは考える時間がありそうだな。なんせ噴火は予測できねえ。足許でいきなり爆発しやがる。掃除機を飛ばすより厄介だ。おまえさんの代わりを用意すんのは難しいだろうよ」

 そう言うと、底部に潜水艇が収まる飛行船を振り返り、

「長くはかからんかもしれんがな」

 ジョエルはポケットからダームを取り出した。副作用が軽いリチウムチェイサー入りの三環系薬剤だ。それを黙って差し出す。

 レイはただ吐き出すように言った。

「ありがたいが、ちょいと怒りを感じたい気分なんでね」

 八日後の今、レイ・ステリカーの姿はない。

 つい昨日、レイは最後のシフトを終えて去った。探し出して飲み屋に引きずっていく気でいたのだが、施設内のどこにもレイは見当たらず、ウォッチの呼び出しにも応答はなかった。だから仕事に戻ったジョエル・キタは、積荷を除けば独りだった。四人の変人は黒いスーツに身を包み、目はのっぺりと白いレンズに覆われている。肩に同一のグリッド・オーソリティのロゴが刻印されており、その真下に印刷されているのは名字のタグだ。それぞれ名前こそ異なっていたが、そんな違いなど些細なものに見えた。男、女、大柄、小柄。全てメーカーも型番も同じ製品間の小さな差異に思える。ええ、マーク5はいつもこんな感じのいい子なんですよ。物静かで、引っ込み思案というか。不思議ですよねえ……。

 リフターなら前に見たことがある。一ヵ月ほど前、建設したばかりのビービ基地へ二人組を運んだ。ひとりはほとんど普通に見えた。わざわざ世間話をしたり冗談を飛ばしたり、ゾンビみたいな見た目を埋め合わせようとでもしているみたいだった。名前は記憶にない。

 もうひとりは一言も発しなかった。

 潜水艇の状況画面のひとつがビープ音を発して経過報告を表示する。

 ジョエルは後ろに告げた。

「海底がまた上がった。三五〇〇。もうすぐだ」

「ありがとう」

 肩に〈フィッシャー〉のタグをつけた積荷が言った。他の積荷はじっとしている。

 圧力ハッチが潜水艇の操縦席と客室を分断している。ハッチを密閉すれば後部チェンバーをエアロックとして使えるし、減圧の手間を気にしなければ飽和潜水のための与圧も可能だ。ほんの少しプライバシーが欲しい、特定の乗客に背中を見せたくないというのであれば、ハッチを閉じるだけでいい。もちろんそんな行為は失礼に当たる。乗客の目の前で巨大な鋼鉄の円盤をぴしゃりと閉めても社会的に受け容れられる言い訳はないものか。ジョエルは益体もない考えを巡らせ、ほんの数秒で諦めた。

 今、背部ハッチ――飛行船の操縦席に続くハッチは閉まっている。違和感があった。いつもならハッチは投下直前まで開けっぱなしだった。レイとは旅の長さに関係なくいつも無駄話をしていた――チャナーに向かう場合は三時間だ。

 昨日、飛行開始から一五分が経った頃、レイ・ステリカーは予告もなくハッチを閉めた。それからずっと余計な言葉を口にせず、内線もほとんど使わなかった。今日はもう、上から話しかけてくる相手はいない。

 側面の舷窓から外を覗く。飛行船の表面がほんの数センチ先で視界を遮っていた。炭素繊維の肋材に張り巡らされた金属の布地の灰色が広がり、内部の硬真空で四角くへこんでいる。潜水艇が収まっているのは飛行船中央の楕円形の空洞だ。灰色の表面以外のものを見せてくれる唯一の舷窓は足許にあった。遙か下方の海が見える。

 とはいえ、ここまでくればそれほど離れてはいない。飛行船のバラストバッグがしぼむため息のような音が頭上から聞こえてくる。もっと遠くから船殻を伝わってくる鋭い音は、トリムバッグ内の空気を電弧が加熱する音だ。この行程はまだ通常のオートパイロットの領分だったが、レイは全て自分でやっていた。ハッチが閉まっていなかったら、ジョエルには違いがわからなかっただろう。

 ヘッドチーズの仕事は大したものだった。

 数日前、グレイズ港沖の海中施設への配送中、この目でヘッドチーズを見た。レイがボタンを叩くと箱の蓋が白い水銀のようにスライドしてケーシングのへりの溝に滑り込み、その下の透明なパネルが露わになった。

 パネルの下で澄んだ液体に包まれていたのは波打つ層状のねばねばで、モッツァレラと呼ぶにはいささか灰色が濃かった。茶色がかったガラス片が整然と並び、突き刺さっていた。

「こんなふうに開けちゃいけないんだけどな。知ったこっちゃねえや。こん畜生が光に反応するわけでなし」

「この茶色いのはなんなんだ」

「ガラスに酸化インジウムスズを塗ってある。半導体だよ」

「マジか。で、今も動いてんのか」

「こうして俺らが話してるうちもな」

「マジか。どうやったらこんなもんをプログラムできるんだろう」

 レイはふっと鼻を鳴らした。

「プログラムするんじゃない。教育するんだ。正の強化で学ぶんだってよ、生まれたての赤ん坊みたいに」

 不意にモーメントがなめらかに移動する。ジョエルは現在に引き戻された。飛行船は海上五メートルに静止していた。目的地どんぴしゃだ。もちろん海面には空っぽな海があるばかり。ビービのトランスポンダは海面下三〇メートルにある。狙いをつけられるくらいには浅くて、航行の障害にはならない程度の深さに。あるいはチャナーの伝説的海獣を狩るチャーター船の海中繋留所として使える深さに。

 チーズの言葉が状況画面に表示された。投下しますか?

 決定キーの上で指を揺らし、それから下ろした。ドッキング用の掛け金がガチャリと開く。飛行船がジョエル・キタとその積荷をリールで海へと下ろしてゆく。数秒、陽光が展望窓から斜めに差し込み、潜水艇が固定具の中で震える。波頭が船首舷窓を叩く。

 世界が一度ガクンと揺れ、横ざまに回転し、緑色になる。

 ジョエルはバラストタンクを開放し、肩越しに振り返った。

「さて、潜水するぞ。太陽を拝めるのもここまでだ。見られるうちに楽しんでおけ」

「ありがとう」と〈フィッシャー〉。

 他の三人は動きもしなかった。

 前適応。

 スカンロンがその言葉で何を言わんとしたのか、太平洋の底にいる今もよくわからない。

 海底でくつろげるはずだという意味であれば、適応できている感じはない。道中、誰からも声をかけられなかった。他の三人の間の会話も乏しかったが、フィッシャーに声をかけないのは、とりわけ個人的な含みがあるようだった。なかでもブランダーは、アイキャップやら何やらで判断は難しいものの、自分に視線を注いでいる気がした。まるでどこかで会ったことがあるかのように。意地が悪そうな顔だった。

 基地は何もかもが丸見えだ。パイプ、ケーブルの束、空調ダクト、全てが剥き出しで隔壁に取りつけられている。以前に見たビデオの印象では、もっと明るくて光と鏡に満ちた空間だった。例えば目の前の壁には鏡があったはずだが、今は塗装もされていない灰色の金属隔壁がてらてらとした光沢を放っているだけだ。

 フィッシャーはそわそわと身体を左右にゆする。ラウンジの端ではルービンがライブラリの台にもたれ、なんの興味もない様子でキャップに覆われた目を四人に向けている。自分たちが到着してからの五分間、ルービンが発したのはただ一言だけだった。

「クラークはまだ外だ。じきに戻ってくる」

 床下で何かがカタンと音を立てる。水とナイトロックスがごぼごぼと混ざる音。ハッチが開く音や物音が下から聞こえてくる。

 ラウンジに上がってきたクラークの肩では水滴が玉になっていた。首から下はダイブスキンで黒に染まり、痩せた身体つきは男とも女ともつかない。フードが取られる。頭に撫でつけられた金髪が、見たこともないほど蒼白い顔を縁取っている。口は細い一本線。目は自分と同じくキャップに覆われており、無表情な白い楕円が童顔に並んでいる。

 クラークが新参者を見まわす。ブランダー、ナカタ、カラコ、フィッシャー。四人は見つめ返し、発言を待った。ナカタは何か心当たりがありそうな表情を浮かべたが、レニー・クラークは気づかなかったようだ。誰にも気づいていないようですらある。

 クラークが肩をすくめる。

「二号機のナトリウム灯を交換する。二人ついてきて」

 人間なのかどうかもはっきりしない。しかしどことなく見覚えがある。

 シャドウ、どう思う。俺が知ってる人かな。

 シャドウの答えはなかった。

 そこは窓のない建造物が並ぶ街だった。街灯から陰気な赤銅色の光が降りそそぎ、大量のオオシャコガイ、ねっとりとした灰色の円筒から伸びる茶色がかったロープ状の化け物(チューブワームだ。リフティア・ファッキンデカブツ、とかなんとか)を照らしている。あちこちで無脊椎動物の群れの頭上にそびえる天然の煙突は、玄武岩と珪素と硫黄結晶の柱だ。フィッシャーは〈喉〉を訪れるたびに酷いニキビ面を連想してしまう。

 レニー・クラークの先導で〈大通り〉を素早く下る。フィッシャー、カラコ、遠隔操作で荷物を運ぶ数台の〈イカ〉が後に続く。いくつもの発電機が左右に迫る。闇のカーテンが目の前の道路いっぱいに広がり、きらきらと光り輝く。流れる雲の縁で小魚の群れが身を翻す。

「問題はあれ」

 とレニーが言い、フィッシャーとカラコに振り返る。

「泥のプルーム。大きすぎて向きを変えられない」

 これまで通過した発電機は八台。前方の六台は沈泥に埋もれている。ルービンとブランダーを呼んでも二シフトはかかる。

 その必要がなければいいんだが。とにかくブランダーには来てほしくない。

 レニーがプルームに向かって水をかく。道具を引きずる〈イカ〉たちが背後で静かに駆動音を発する。フィッシャーは覚悟を決めて後を追う。

「温度を測らないと」カラコが大声で言う。「だってその、高温だったらどうするの」

 実はフィッシャーも気になっていた。カラコとナカタがメンドシーノ断裂帯の噂話をしているところを立ち聞きして以来ずっとだ。骨董品物の小型潜水艦の舷窓は、ナカタの聞いた話だとプレキシガラスで、カラコの聞いた話だと耐熱アクリルだったとか。ナカタ曰く、潜水艦はリフト地帯の只中に嵌まった。カラコ曰くそうではなく、海底の上を進んでいたらスモーカーが爆発しただけだという。

 ともあれ、ふたりの意見は舷窓の溶ける速度については一致した。骨が灰と化しさえする温度だ。どちらにせよ大差はない。全身の骨が水圧で粉々だったろうから。

 フィッシャーからすればカラコの言い分はもっともだったが、クラークは返事もしない。ただ煌めく暗色の雲の中に消えてゆくばかりだ。姿が消えた地点で泥が急に輝いて、燐光が立ち上った。光目がけて魚が群がる。

「何も気にしてないのかな。生きようが死のうがどうでもいい、というか……」

 とフィッシャーは呟く。カラコがちらりと目を向けてきて、プルームの方へ泳ぎ出す。

「急いで」とクラークの声が雲の中から届く。

 カラコが濁った壁に潜ると光の飛沫が散り、魚群が渦を巻いた。そのうち数匹はなかなかのサイズだった。

 行きましょう、とシャドウが言う。

 何かが動く。

 フィッシャーは振り返った。だが、遠くにかすんでいく〈大通り〉しか見えない。

 と、大きくて黒い……歪な物体が発電機の後ろから現れた。

「やばい」フィッシャーの脚が自らの意思を持つかのように動く。「こっちに来るぞ!」

 ヴォコーダのおかげで叫び声は嗄れ声にしかならない。

 この莫迦。言われたじゃないか、燐光は小魚を誘う、小魚は大きな魚を誘う、よく観察しないようじゃきみたちはただの置き物だって。

 目の前に迫るプルームは堆積物の壁、海底に流れる川だった。フィッシャーはそこに潜り込んだ。ふくらはぎを軽く噛まれる。

 全てが黒くなり、ときどき閃光が瞬く。ヘッドライトをつけたが、光線は顔の三〇センチ先で流れる泥に呑まれてしまう。

 しかしクラークには見えたらしい。

「消して」

「何も見え――」

「それでいい。相手だって見えないかも」

 ライトを切る。闇の中、脚の鞘から手探りでガス・ビリーを取り出す。

 カラコの声が遠くから聞こえてきた。

「あいつらって目が見えないんじゃ……」

「一部はね」

 つまり、他の感覚を当てにしている。フィッシャーはざっと検討してみた。匂い、音、圧力波、生体電気……視覚に頼るものなどここにはいない。視覚は単なるオプションにすぎない。

 プルームが光以外も遮ってくれるように祈る。

 しかし闇は退きつつあった。暗黒が茶色に変じ、灰色になっていく。〈大通り〉の投光器からかすかに光が差し込んできている。

 アイキャップだ。光を補正しているのだ。すごい。

 それでもまだ遠くまで見えてはいない。まるで泥の霧に包まれているみたいだ。

「思い出して」

 とすぐそばでクラークが言う。

「魚たちは見た目ほどタフじゃない。実害はないと思っていい」

 近くでソナー銃が音を立てる。

「何も返ってこない」とカラコ。

 乳白色の堆積物が辺り一面に渦を巻く。フィッシャーは腕を伸ばす。肘から先は見えない。

「あっ」カラコの声だ。

「どうし――」

「脚になんか脚にでかい――」

「レニー――」フィッシャーは叫んだ。

 背後からぶつかられ、後頭部を叩かれた。棘のある黒い影が闇に消える。

 なんだよ、思ったほどじゃあ――

 何かが脚に噛みつく。視線を下げる。顎、歯列、闇に溶けていく怪物の頭。

 おい嘘だろ――

 鱗に覆われた肉にビリーを押しつける。ゼラチンめいた感触。ズン、という静かな音。肉が膨らみ、そして破裂する。裂目から泡が噴き出す。

 別の何かが背後からぶつかってきた。胸が締めつけられる。フィッシャーはでたらめに攻撃した。泥と灰と黒い血が目の前で大きく膨らむ。

 闇雲に握り締め、ひねる。手の中で折れた歯は自分の前腕の半分ほどの長さだった。手に力を込めると歯が砕け散る。それを捨て、ビリーを振り回して横にいた怪物に押しつけた。肉と圧縮二酸化炭素が再び炸裂する。

 胸の圧迫がゆるんだ。脚に噛みついた奴に動きはない。フィッシャーは身体を沈め、重晶石の煙突の基部へと泳いでいく。

 何も追ってこない。

「全員なんともないね」

 ヴォコーダを通したレニーの平板な声が響く。ああ、とフィッシャーも唸り声で返す。

「栄養失調を神に感謝だね」とカラコ。「あいつらにビタミンが足りてたらやられてた」

 フィッシャーは手を伸ばし、死んだ怪物の顎をふくらはぎから外す。一休みしたかった。

 シャドウ。

 なあに。

 おまえのときもこんな感じだったか。

 ううん。こんなにあっさりしてなかった。

 海底に寝そべって目を閉じようとしたが、できなかった。ダイブスキンがアイキャップの表面に張りついて、瞼を小さな袋小路に閉じ込めている。ごめん、シャドウ。本当にごめん。

 わかってる。大丈夫だから。

 レニー・クラークが医務室に裸で立ち、脚の痣にスプレーをかけている。いや、全裸ではない。目にはまだキャップをつけている。フィッシャーには肌しか見えない。

 それだけではなかった。

 血がぽたぽたと吸水口のすぐ下から横腹へと滴っていた。レニーはぼんやりと血を拭い、皮下注射器を再充填する。

 胸は小さく、膨らみは思春期と言っていいほど。尻も薄い。顔と同じくらい身体も蒼白く、例外は複数の痣と、インプラントに通じる真新しいピンクの縫い目だ。拒食症患者に見える。

 レニーは、フィッシャーが欲しいと思った初めての大人だった。

 レニーが顔を上げ、戸口に立つフィッシャーを見る。

「脱いで」そう言うと作業に戻った。

 フィッシャーはスキンを裂いて剥いてゆく。レニーは脚の処置を終え、横腹の裂傷にアンプルを突き刺す。魔法のように血が固まった。

「魚には気をつけろって言われたけど」

 とフィッシャーは言い、

「えらく脆いって話だったよ。いざとなったら手でぶん殴ればいいって」

 レニーは横腹の傷にスプレーし、余剰分を拭う。

「それだけ教えてもらえたなら運がいいね」

 ダイブスキンの上衣をハンガーから取って身体を滑り込ませ、

「私のときは巨大症のことはほとんど聞かされなかったから」

「莫迦げてる。知ってたに決まってるよ」

「魚があんなに大きくなるのは、ここの噴出孔だけだって。確認できた範囲では」

「なんでだろう。ここの何が特別なんだ」

 レニーは肩をすくめた。

 フィッシャーは腰まで脱いでいた。レニーが見ている。

「レギンスも。噛まれたのはふくらはぎでしょう」

 フィッシャーは首を振り、

「そっちは平気だ」

 レニーが視線を下げる。厚さわずか数ミリのダイブスキンは何も隠せていない。凝視に勃起が萎えるのを感じる。

 白く冷たい視線が顔に戻ってくる。フィッシャーは顔がカッと火照るのを感じ、そこで思い出した。レニーには俺の目が見えない。誰にも見えないのだ。

 ここならほぼ安全だ。

「何よりも厄介なのは打撲」

 間を置いてレニーは言った。

「魚がダイブスキンに穴をあけることはそうないけれど、噛む力は伝わるから」

 フィッシャーの腕にふれ、慣れた手つきで迷いなく傷口の境界を探っていく。痛かったが、嫌ではない。

 レニーが同化性軟膏のチューブからキャップを外す。

「ほら、これを塗り込んで」

 ふれた箇所から痛みが薄れていく。軟膏を塗ったところがひりひりと熱くなる。フィッシャーは恐る恐る手を伸ばし、レニーの腕にふれた。

「ありがとう」

 レニーは無言で身をよじって離れると、屈んで脚のスキンを閉じた。レギンスが身体を滑るように上っていく。生きているみたいだと思い、生きているも同然なのだと思い出す。スキンには反射作用があり、体温に反応して浸透性と熱伝導率が変化する。ホメオスタシスを維持する、とかなんとか。

 スキンは黒くなめらかなアメーバのようにレニーの身体を呑み込んでいくが、中は透けて見えた。白くない漆黒の氷のようでもあるが、それでもレニーはフィッシャーが知る最も美しい生き物だった。レニーは遠い彼方にいる。心の中で誰かがよく見ろとささやいてくる――

 ――あっちへ行け、シャドウ――

 ――しかし自分を抑えられない。もう少しでふれられる。身を屈めてブーツを閉じているレニーの肩、そのすぐ上の空間をフィッシャーの手が愛撫し、曲線を描く背中の輪郭をなぞる。間抜けなダイブスキンさえ邪魔をしなければ、体温を感じ取れるほどの至近距離で――

 立ち上がったレニーに手がぶつかった。見上げた顔の、アイキャップの奥で何かが燃えている。手を引いたがもう手遅れだ。レニーは怒りに身体を強張らせていた。

 ちょっと触っただけじゃないか。何も悪いことはしてない。ちょっと触っただけ――

 レニーが一歩前へ踏み出した。

「二度としないで」

 声はとても平板で、水から出たのにヴォコーダが動くのかと思ってしまうほどだった。

「俺は、その――」

「理由はどうでもいい。二度としないで」

 視界の隅で何かが動いた。

「問題発生かい、レニー。手を貸そうか」ブランダーの声だ。

 レニーが手を振る。

「いいえ」

「ならいいんだ。上にいくよ」ブランダーはがっかりしたようだった。

 また動きが見え、音が遠ざかってゆく。

「本当にごめん」とフィッシャー。

「なんともないから」とレニーは応じ、フィッシャーを掠めてウェットルームへ向かった。

オートクレーヴ

 クラークはナカタと梯子の基部でぶつかりかけた。睨みつけてやるとナカタは脇へ退き、歯を剥き出して従順な霊長類の笑みを浮かべた。

 ブランダーはラウンジでライブラリをつついていた。

「なあ――」

「平気」

 平気ではなかったが、じきに良くなる。こんな怒りは臨界にはほど遠い。ただの反射、メインタンクから一片の火花が散ったようなものだ。怒りは時間が経つにつれて指数関数的に減衰していく。個室に着く頃には、フィッシャーに申し訳ないとすら思いかけていた。

 あの人は悪くない。あの人に傷つけるつもりはなかった。

 ハッチを背にして閉じる。そうしたければ、今なら何かを殴っても構わない。気乗りしないまま標的を求めて部屋を見回し、結局ただ寝台に寝転がって天井をじっと見上げた。

 誰かが金属をコツンと叩いた。

「レニー?」

 クラークは起き上がってハッチを押した。

「ああ、レニー、〈イカ〉に制御チャネルの調子が悪いのがあって。できれば――」

「うん。わかった。今すぐじゃなければ、うん、あー……」

「ジュディ」少し腹を立てたようにカラコが言う。

「そう、ジュディね」

 実は忘れていなかった。近頃ビービが混み合ってきたので、たまに名前を忘れたように見せかけている。忘却は関係を快適な距離に保ってくれる。

 こともある。

「通して」クラークはカラコの横をすり抜ける。「外へ行かなきゃ」

 平穏と言ってもいい場所が、リフトにはいくつかある。

 通常、熱が湧き上がるのは沸騰する泥の柱や鋭く噴出する過熱液体の中だ。三〇〇気圧の環境下で蒸気が生まれるチャンスはないが、水は熱歪みで液体プリズムの塔と化し、溶融ガラスを超える高温で渦を巻く。ここでは事情が違う。ここは枕状溶岩に囲まれていてビービの地獄耳に察知されることもないし、熱は泥の中からそよ風のようにふわりと浮かび上がってくる。きっと地下の岩盤が多孔質なのだろう。

 ここには来られるときに来るようにしていた。道中はビービのソナーにかからないよう海底に張りつく。他のみんなはまだここを知らないし、知らせたくもない。ここへ来たときは、泥が対流に撹拌されて物憂げな渦巻に変わるのを眺めたり、スキンの密閉を解いて顔や腕を三〇度の泉に浸したりする。

 ここでただ眠ることもある。

 揺れる泥を背に仰向けになり、暗闇をじっと見上げる。目を閉じられないときはこうやって眠りに落ちる。闇の奥を見つめているうちに幻が見え始め、夢を見ているのだと知る。

 今は新興の穴居人社会の女司祭長となった自分を見ている。自分はここで深い安らぎを得た最初の人間だが、一方で今なおドライバックの汚れた手で切り開かれ、作り変えられている人たちもいる。クラークは母なる始祖、未加工の新人がその足跡を辿る鋳型だ。海底へ送り込まれた者は常時アイキャップをつけたクラークを認め、それに倣う。

 だが、それは真実ではない。ここではリフトこそが真の創造力であり、人間を無理やり思い通りの形に変える鈍らの液圧プレス機なのだ。他の人が自分と似ているとしたら、それは全員が同じ型に嵌められたからだ。

 それにグリッド・オーソリティも忘れてはいけない。バラードが正しければ、GAはまず私たちの差異がそれほど大きくないことを確かめたのだし。

 もちろん、表面的な違いならいくらでもある。ちょっとした人種の多様性。名ばかりの加害者、名ばかりの被害者、男女比は均等に……。

 笑わずにはいられない。きっと人事部は大量の性機能障害者を一緒くたに混ぜて、それからジェンダー比率の均衡を確かめるのだろう。誰も取り残されないよう確認してくれるなんて、ご親切だこと。

 もちろんバラードは例外だったけれども。

 だが、上も失敗から学ぶくらいのことはするはずだ。三〇〇〇メートルの深みで微睡みながらクラークは思う。次の失敗はどんなものになるだろう。

 不意に刺すような痛みが目に生じ、叫び声を上げようとする。高性能なインプラントが舌と唇の動きを感じ取り、誤訳する。

「ンンンンアアアアアァ……」

 この感覚なら知っている。以前に何度か感じた覚えがある。何も考えずにでたらめな方向へ潜り込む。頭の中の痛みが激しさを増し、耐え難いほどになる。

「アアアアアア――」

 反対方向に身を翻すと少しましになった。ヘッドランプをつけ、思い切り脚を動かす。世界が漆黒から濃淡のない茶色に変わる。視界はゼロだ。四囲で泥が沸騰し、近くで岩がぱっくりと裂ける音がする。

 衝突する寸前、ヘッドランプがそそり立つ露頭を捉えた。衝撃が頭蓋を揺らし、小さな地震のように脊椎を伝っていく。また違う痛みが生まれ、目の中の熱と混ざり合う。わけもわからず障害物を手探りする。身体が、温かい――

 ダイブスキンを貫通するには大量の熱が必要となる。クラス4のスキンは特にそうだ。この手の装備は熱応力に耐えられるように設計されている。

 一方アイキャップは……。

 黒。世界が再び黒くなり、澄んでゆく。ヘッドランプが開けた空間を刺し貫き、優に一〇メートルは離れた泥の上にゆらゆらと足跡を残す。

 それでも視界はまだ波打っている。

 痛みが薄れていく気はするが確信が持てない。無数の神経がずっと悲鳴を上げていたため、その残響さえ酷く苦痛だ。水を蹴りながら頭を抱えると身体が反転し、来し方に顔が向いた。

 秘密の隠れ家は爆発して泥と硫黄化合物の壁と化し、海底から沸騰していた。サーミスタをチェックする。四五度。一〇メートル以上離れているのに。茹で上がった魚の骸骨が熱水の中でくるくると回る。どこか遠くの見えないところから間欠泉の音が聞こえた。

 泉は瞬時に地殻を突き抜けたに違いない。あんな噴出に捕まったらどんな肉体も骨まで沸騰し、いくら精巧な逃走反応と言えど割り込めなかっただろう。戦慄で身体が何度も震える。

 運が良かっただけだ。充分な距離を取れたのは莫迦みたいについていただけだ。今頃は死んでいたかもしれない。死んでたかも死んでたかも死んでたかも――

 胸郭で神経が燃え上がり、身体を丸めた。だが息をせずにすすり泣くことはできない。目を見開いたままでは涙も流せない。この身に宿るルーチンが数年に及ぶ休眠期間を終えてたどたどしくも実行されたが、それが走るべき肉体の方がすっかり変貌してしまっていた。全身が拘束衣の中で目を醒ます。

 ――死んでた死んでた死んでたんだ――

 ささやかながら隔絶した心の一部、緊急時のために温存していた部分が始動する。それは遠く離れた場所から、クラークの激しい反応を訝しんでいた。レニー・クラークが自らの死を意識したのは、これが初めてではない。

 だが、死がこれほど重大な問題に思えたのは、何年かぶりのことだった。

ウォーターベッド

 ダイブスキンを脱ぐのは自らの腹を裂くようなものだ。

 自分でも信じられないほどスキンを頼るようになり、スキンの中から出るのも難しくなっていた。アイキャップはもっと外しがたい。寝台に座って閉じたハッチを見つめていると、シャドウがささやきかけてきた。大丈夫、あなたは独り、安全だよ。三〇分が経ってから、ようやくシャドウを信じる気になった。

 とうとう目を剥き出しにしたが、個室の照明が暗すぎてほとんど何も見えない。薄明ほどの明るさにする。掌のアイキャップは不透明で蒼白く、ゼリーで固めた丸い卵の殻を思わせる。まばたきしても瞼の下にキャップを感じないのは違和感があった。とても無防備な気分。

 それでもこうしなければならない。手順の一部だ。これは自らを曝け出す行為だから。

 個室にいるレニーまでほんの数センチ。隔壁がなければ手を伸ばしてふれられるのに。

 誰かを本当に愛してるときはこうするんだよ、シャドウはずっと昔にそう言った。だから今は自分で自分にそれをする。シャドウの代わりに。

 レニーのことを考えながら。

 時々、リフトにいる本物の人間は自分とレニーだけなのではないかと思う。他は皆ロボットだ。ガラス製のロボットの目、マットブラックのロボットの身体。ふらつきながらプログラムされたルーチンを実行し、自分より大きな機械を稼働させるしか能がない。名前まで機械みたいじゃないか。ナカタ。カラコ。

 だがレニーは違う。ダイブスキンの中に確かに存在する。ガラスに覆われていたとしても、その目はガラスではない。レニーは本物だ。フィッシャーにもふれることができる。

 もちろん、手を出すから面倒に巻き込まれてばかりいるのだ。フィッシャーはふれずにいられない。だがレニーは違うはずだ。こっちがうまくやりさえすればいい。レニーは今まで会ったことのある誰よりもシャドウに似ている。歳は上だけれども。

 あたしが今もいたら年上じゃないよ、とシャドウが呟く。違いはそこだけかもね。

 本当にごめん、レニー。口は動くも声にはならない。シャドウは自分を正してくれない。

 こうするんだよ、あのときシャドウはそう言って泣き始めた。こうしてフィッシャーが泣いているように。達するといつも泣いてしまうように。

 しばらくして痛みで目が醒める。寝台の上で身体を丸めると何かが頬を切りつけた。割れたガラスの欠片だった。

 鏡だ。

 わけがわからず欠片を見つめる。銀色の鏡の破片は先端に黒い血が付着していて、小さな歯に似ている。この個室に鏡はない。

 手を伸ばして枕の後ろの隔壁にふれる。レニーがそこに、すぐ向こう側にいる。しかしこちら側には黒い線が、これまで見落としていた細い枠があった。壁の縁に沿って視線を這わせ、五ミリほどの隙間を見つける。あちこちにガラス片が挟まったままになっている。

 以前は鏡がこの隔壁をすっかり覆っていたのだろう。ちょうどスカンロンのビデオで見たように。残った破片からすると、ただ取り外されたのではない。叩き割られている。

 レニーだ。フィッシャーたちがやってくる前にレニーが基地のガラスを全部割ったのだ。なぜこんな確信が持てるのか自分でもわからないが、いかにもレニー・クラークが誰も見ていないときにやりそうなことに思える。

 自分の姿を見たくなかったのかもしれない。恥ずかしかったのかも。

 話をしに行きましょう、とシャドウが言う。

 無理だよ。

 ううん、できるよ。あたしも手伝うから。

 スキンの上衣を手に取る。スキンは滑るように身体を一周し、端と端が胸の正中線で融合する。まだデッキに散らばったままの袖とレギンスをまたぎ越し、アイキャップに手を伸ばす。

 置いていきなよ。

 だめだ!

 大丈夫。

 無理だ、レニーに見られちまう……。

 見てほしいんでしょ。違う?

 好きになっちゃくれないよ、きっと――

 置いていきなさい。手伝ってあげるって言ったでしょ。

 閉まったハッチにもたれる。目を閉じると、荒い呼吸音が耳の中でうるさく響く。

 さあ。行きなさい。

 室外の通廊は深い黄昏に沈んでいた。レニーの個室の閉じたハッチまで進む。ハッチにふれておずおずとノックする。

 背後から誰かに肩を叩かれた。

「いないぜ」

 ブランダーだった。スキンが首から下を腕と脚まで完全に密閉している。キャップをつけた目は虚ろに硬い。声には例のごとく棘があり、聞き慣れた口調でこう語っていた。なんでもいいから口実を寄越せ、このクズ……。

 もしかしたら、こいつもレニーが欲しいのかもしれない。

 怒らせちゃだめだよ、とシャドウ。

 フィッシャーはぐっと唾を飲み込んだ。

「ちょっと話がしたくてね」

「あいつは外だ」

「わかった。じゃあ……後にするよ」

 ブランダーが手を伸ばして顔を小突いてきた。指がべたべたした感触を残す。

「無駄足だったな」

「なんでもないんだ。大丈夫」

「気の毒に」

 フィッシャーはブランダーを掠めて自室へ向かおうとする。通廊は狭く、身体がふれ合う。

 ブランダーが拳を固める。

「俺に触るんじゃねえよ」

「いや、ちょっとその――ただ……」

 フィッシャーは黙り込み、さっと周りをうかがう。誰もいない。

 見せつけるようにブランダーが拳をゆるめる。

「それと頼むから目を元に戻してくれ。誰も見たくなんてないんだからよ」

 そう言って踵を返し、歩き去った。

 ルービンは外で眠るという。レニーも時々そうしているが、ルービンはフィッシャーたちが到着してから寝台で寝ていない。ヘッドライトを消したまま〈喉〉の照明区画から離れていても平気でいる。前回のシフトでナカタとカラコがそう言っていた。

 だんだん名案に思えてきた。最近はビービにいる時間が少ない方が気楽だから。

 基地は左手遠くでぼんやりと輝く染みになっている。中にいるブランダーが勤務に出るまであと三時間。それまでここにいればいい。基地に入る必要もあまりない。ここにいる誰にも必要などない。喉の渇きに備えて小型の脱塩装置が電解槽につけ加えられていたし、排尿排便の要に駆られたときは、考えたくもないあれこれを大量のフラップと弁が処理してくれる。

 少し腹が空いてきたが、我慢できる。攻撃さえ受けなければ外で満足できた。

 ブランダーはきっと放っておいてはくれない。いったい何に反感を抱いているのやら――

 わかってるくせに、とシャドウが言う。

 だが、あの顔を見れば何を考えているかは察しがつく。ブランダーはフィッシャーがとんでもない大失態をやらかすことを望んでいるのだ。

 他の面々はおおむね我関せずといったところだ。神経質なナカタは全員と距離を取っているし、カラコはフィッシャーがスモーカーの中で生きたまま茹でられようがどうでもいいと言わんばかり。ルービンはじっと座り、感情をくすぶらせたまま床を見ている。ブランダーもルービンには構おうとしない。

 そしてレニー。レニーは山の頂のごとく冷たくて遠い。いや、ブランダーのことで手を借りる気はない。外の怪物と中の怪物のどちらかを選べと言われたら、答えは明らかだ。

 カラコとナカタは基地に戻って外殻を点検している。遠くから届くふたりの声が顎の辺りでざわめいて鬱陶しい。フィッシャーは受信機を切り、露出した玄武岩の枕の陰に座った。

 後になっても眠り込んだことは憶えていなかった。

「よく聴け、このクソ野郎。俺は二シフトぶっ続けだったんだ、おまえが予定の時間に出勤してこなかったせいで。さらに半シフトかけておまえを探した。みんなおまえがピンチだと思った。何かあったに決まってるってな。まさか――」

 ブランダーがフィッシャーを壁に押しつける。

「まさか、何もなかったなんて言わないよな。言えないよな」

 フィッシャーは準備室を見回す。反対側の隔壁から見守るナカタは猫のようにびくびくしていた。ルービンは装備ロッカーを漁り、成り行きに背を向けている。カラコがフィンをラックに入れ、皆をすり抜けて梯子へ向かう。

「カラ――」

 ブランダーがフィッシャーを壁に激しく叩きつける。

 最下段に足をかけたカラコが振り返り、ちらりと目を向ける。薄く笑みを浮かべ、

「こっち見ないでよ、ジェリーくん。これはあなたの問題でしょ」

 と言って階上に消えた。

 ブランダーの顔が数センチ先で静止する。フードは密閉したままだが、口のフラップだけ開けていた。その目は黒いプラスチックに埋め込まれた半透明のガラス玉のようだった。ブランダーが手を固く握り締める。

「どうなんだ、クソ野郎」

「ご……ごめんなさい――」フィッシャーはつっかえながら言う。

「ごめんなさいか」

 ブランダーが肩越しに振り返り、冗談めかしてナカタにも言った。

「ごめんなさいだってよ」

 ナカタが大げさに笑う。

 ルービンは依然として無関心のままロッカーでガチャガチャと音を立てている。エアロックが稼働し始める。

「思えないんだよなあ」

 降って湧いたごぼごぼという音に負けじとブランダーが声を張り上げる。

「ちゃんと反省してるようにはよお」

 エアロックが勢いよく開く。レニー・クラークがフィンを片手に歩み出て、虚ろな目で部屋をさっと見渡す。フィッシャーには目を留めず、無言で乾燥ラックにフィンを運ぶ。

 ブランダーに腹を殴られてフィッシャーは身体を丸め、はっと息を呑んだ。頭がエアロックのハッチに激突する。息ができない。デッキで頬を擦り剥く。ブランダーの足が鼻にふれそうなほど近くにある。

「ちょっと」レニーの声は冷ややかで、これといって興味もなさそうだ。

「ちょっとじゃないぜ、レニー。自業自得だ」

「わかってる」数秒が過ぎる。「それでもよ」

「ジュディはこいつを探しててホウライエソに噛みつかれたんだぞ。殺されてたかもしれん」

「かもね」レニーは酷く疲れているようだった。「じゃあどうしてジュディはいないの」

「俺がいる」

 肺が回復する。フィッシャーは喘ぎながら上体を起こして隔壁にもたれた。ブランダーが睨みつけてくる。ルービンはロッカーから戻っていた。すぐそばで観察している。

 レニーが準備室の中央に立ち、肩をすくめる。

「なんだよ」とブランダー。

「さあね」

 レニーはすげなくフィッシャーを一瞥し、

「ただ……ちょっとしくじっただけでしょ。別に傷つける気は――」

 そこで言葉が止まった。その視線がまっすぐに自分も隔壁も貫いてすぐ外の深淵に、レニーにしか見えない何かに向けられているような気がした。何かはわからないが、レニーはそれがあまり気に入っていないのだ。

「まあ好きにしたら。私には関係ないし」レニーは梯子に向かう。

 レニー、お願いだ……。

 レニーが視界の外へ消え、ブランダーが振り返る。フィッシャーは見つめ返す。永遠とも思える数秒が過ぎ、拳が宙を舞った。

 速すぎてほとんど何も見えなかった。くらくらとよろめき、導管で身体を支えた。左目に光が群がる。まばたきして光を払い、隔壁にすがりつく。全身が痛い。

 ブランダーが拳を開き、指を曲げ伸ばししながら言う。

「レニーは人が良すぎる。俺にとっちゃ、おまえに傷つける気があろうとなかろうとどうでもいいんだ」

ドッペルゲンガー

 ビービ基地の防音性能はエコーチェンバーの中とほぼ同じだ。

 クラークは寝台に座り、壁に耳を澄ませていた。言葉は聞き取れないが、数分前出し抜けに響いた肉と鉄がぶつかる音はくっきりと聞こえた。今はラウンジで会話する低い声がする。水がどこかのパイプをごぼごぼと流れていく。

 階下から物音が聞こえる気がする。

 パイプを適当に選んで耳を当てる。一本目、何も聞こえない。二本目、シューという圧縮ガスの音。三本目、デッキを擦りながらゆっくり進む足音が、かすかに金属質に響く。数秒後、ぶぅんと弱い音が配管を震わせる。

 医療用スキャナの音だ。

 私には関係ない。ふたりの問題だ。ブランダーにはわけがあり、フィッシャーにも――

 あの人に傷つけるつもりはなかった。

 フィッシャーはなんでもない。哀れな倒錯者ではあるが、それは誰の問題でもなく当人の問題だ。あんなふうにブランダーを怒らせるのはとても残念なことだけれども、人生の公平性は保証されていない。それは誰よりもこのレニー・クラークが知っている。どんな感じかはよくわかる。思い出すのはどこからともなく振るわれる拳、間違いを犯したのだと手遅れになるまで気づかなかった百万の些末事だ。誰も助けてくれなかった。それでもどうにか切り抜けてきた。セックスが陽動になったときもある。さもなければ逃げるしかなかった。

 あの人に傷つけるつもりはなかった。

 クラークはかぶりを振る。

 私だって傷つけるつもりはなかった!

 音を認識してからようやく痛みを実感する。魚が投光器を打つような、ごん、という鈍くて硬い音。破けた拳の皮膚から血が滲み、滴はフィルタ越しの視界の中だと黒に近い。ズキズキとした痛みがやってきて、ありがたくも気を紛らわせてくれる。

 もちろん隔壁には傷ひとつついていない。

 ラウンジの会話が止まる。クラークは寝台にじっと座って、手を吸っていた。やがて話し声が再開する。

 そろそろナカタとブランダーとのシフトに出る時間だ。個室を見回し、躊躇する。ハッチを開ける前にするべき大切なことがあるはずなのに、それがなんなのか思い出せない。視線は繰り返し同じ壁に戻り、存在しない何かを探して――

 鏡だ。なぜか自分の姿を確認したくなっている。おかしい。以前こんな気分になったのは思い出せないほど昔のことだ。だがどうということはない。この気持ちが消えるまで座っていればいい。外へ出る必要はない。立ち上がる必要さえない。気分が戻るのを待てばいい。

 迷ったときは、身を隠せ。

「アリス?」

 ハッチは閉まっている。返事はない。

「中にいるよ」

 ブランダーが通廊の出口でラウンジを背に立っていた。

「一〇分以上前から出てない」

 クラークは強めにノックを繰り返す。

「アリス、そろそろ時間」

「道具を用意しとく」ブランダーはそう言って踵を返し、視界から消えた。

 ビービのハッチには安全上の理由から鍵がない。それでもためらいはする。招いてもいない人がプライベートな空間にずかずか入ってきたとき、自分ならどう思うか知っているから。

 でも次のシフトに参加すると言っていた。それにノックもしたんだし……。

 ハッチ中央のホイールを回す。見せかけの密閉がリム周辺でゆるみ、引っ込んでゆく。ハッチを引き開け、中を覗く。

 寝台の上で震えるアリス・ナカタは目を閉じ、スキンも一部脱いでいた。リード線が顔と手首の挿入口から垂れ、枕許の棚に載る明晰夢誘導装置までだらりと伸びている。

 シフトが始まる一〇分前におねんね? 意味がわからない。それにナカタはさっきみんなと階下にいたではないか。フィッシャーと。あんなことの後でよく眠りに就けるものだ。

 歩み寄って装置の表示を読む。レム睡眠の誘導は最大、目醒ましは無効。ナカタは数秒で気を失ったはずだ。やれやれ、この設定なら集団強姦の最中でもぐっすりだろう。

 クラークは満足げに頷いた。巧い手だね。

 渋々ながら覚醒ボタンを押す。ナカタの顔から眠りが流れ出ていく。表情が一変した。アジア系の目がぱちくりとまばたきし、見開かれる。黒い。

 クラークはぎょっとして後退りする。アリス・ナカタはアイキャップを外していた。

「時間よ、アリス」やんわりと告げる。「起こしてごめんね……」

 ナカタも申し訳なさそうにしていた。これまでナカタの微笑みを見たことはなかった。その期間がもっと長ければよかったのに。

 ウェットルームに下りると、ブランダーは広帯域センサをケーシングに密封しているところだった。ナカタならすぐ追いつくとクラークは伝え、乾燥ラックから自分のフィンを探す。

 真正面の医務室のハッチは閉じている。人間にしろ機械にしろ、中から音は漏れてこない。

「ああそうだ。あいつはまだ中にいるよ」

 ブランダーが少し声を張り上げる。

「いやはや、賢明だよ。まだ俺がうろついてるからな」

「あの人にきず――」黙れ! 余計なことを言うな!

「レニー?」

 振り返ると、ブランダーの手が下がった。ブランダーは意外と馴れ馴れしく触りたがる性格で、我を忘れるような姿を見せるときがある。

 だが構わない。ブランダーにも傷つけるつもりはないのだから。

「なんでもない」クラークはそう言ってフィンを掴む。

 ブランダーがセンサをエアロックまで運び、他の小物とまとめて投入する。ごぼごぼ、ガチャガチャという音と共に、道具が奈落の底へと流れていく。

「それにしても――」

 振り返ったブランダーは空虚な目を怪訝そうにしていた。クラークはささやくように、

「フィッシャーに何か恨みでもあるの?」

 この人がどんな反感を抱いてるかなんてわかってるくせに。あなたには関係ないんだから、関わるのはよしなさい。

 ブランダーの表情がセメントのように硬くなる。

「あいつはくそったれの変人だ。小さい子どもを弄んで」

 それは知ってる。

「誰が言ってたの」

「言われなくたって、あの手の輩は一〇キロ離れててもわかる」

「あなたがそう言うならそうなんでしょうね」

 クラークは自分の声に耳を傾けた。冷淡。よそよそしく、うんざりしている。それでいい。

「俺をおかしな目で見やがる。へっ、あんたを見るあいつの目つきに気づいてるか?」

 金属と金属がぶつかって音を立てる。

「ちょっとでも俺にふれたらぶっ殺してやる」

「へえ。まあ、手間はかからないでしょうね。じっとしたまま何を差し出されても受け取るだろうし、だってあの人はとても――受け身だから……」

 ブランダーが鼻を鳴らす。

「なんだってそう気にかける。あいつにぞっとするのはあんたも俺らと一緒だろ。先週、医務室で見たぜ」

 エアロックがシュッと音を立てた。側面に緑のライトが灯る。

「さあね。たぶんあなたの言う通り。あの人の正体はわかってる」

 ブランダーがエアロックを開いて中に入る。クラークはハッチの縁を掴み、

「それだけじゃないんだけどね」

 と独り言のように言った。

「何かが――欠けてる。フィッシャーはしっくりこない」

「俺たちみんなそうだ」ブランダーが不満そうに言う。「そこが肝心なんだろ」

 クラークはハッチを閉じた。中にふたり分の余裕はあるし、他のリフターは普通ペアで外へ出るが、ひとりで通り抜ける方が好きだった。些細なことだ。誰も言及しない。

 責任はない。ブランダーにも、フィッシャーにも。父さんにも。私にも。

 誰にも責任なんかありはしない。

 エアロックから水がほとばしった。

天使

 海底が輝いている。岩に走る亀裂は心落ち着くオレンジの色合いで瞬き、まるで熱い石炭のようで、熱水が湧いているのがわかる。火傷するほど熱い細流はスキン越しにも温かく、サーミスタの数値は流れが変わるたびに跳ね上がる。周囲には緑に光る岩もあれば青く光る岩もある。発光が生物学的なものなのか地球化学的なものなのかはわからない。ただ美しいということはわかる。高みから見下ろす都市の夜景だ。以前映像で見たオーロラに似ているが、もっと鮮明で輝かしい。エメラルド色の山火事だ。

 ある意味ブランダーに感謝したいくらいだった。あの男がいなかったらここを見つけることもなかっただろう。向こうは他の連中と一緒にビービの中でライブラリに没頭するなり個室にこもるなりしているはずだ。安全で、身も乾いたまま。

 だが、ブランダーがいるビービは安全な避難所なんかじゃない。ビービは刑場だ。だから今日のフィッシャーはシフトを終えても外に留まり、海底を泳いで散策していた。そして〈喉〉から離れた場所で真の聖域を発見した。

 眠っちゃだめよ、とシャドウが言う。またシフトを休んだら口実を与えるだけ。

 それがどうした。ここにいれば見つからないだろ。

 ずっと外にはいられないよ。たまにご飯も食べなきゃだし。

 わかってるよ。静かにしてくれ。

 この場所を知る人間は自分だけだ。いつからこうだったのだろう。いったい何百万年の間、このささやかなオアシスは闇の中で穏やかに輝き、ポケット宇宙を独占していたのだろうか。

 レニーもここを気に入るでしょうね。

 ああ。

 ヨロイダラが三〇センチほど上方に現れた。下腹に鮮やかな光が反射してジグソーパズルのようになっている。いきなり魚がのたうち回り、全身が激しく震えた。周囲の水が熱歪みで輝く。小規模の噴出を食らった魚はバランスを失って回転し、ぐったりとなる。肉が数秒で白く変色して端からぼろぼろとほぐれてゆく。

 摂氏四〇八度。フアンデフカのリフトで記録された熱水の最高温度だ。フィッシャーはダイブスキンのコポリマーの温度定格を思い出す。

 一五〇度。

 念のため、水柱の中に浮上する。海底の擾乱から離れてすぐ、一定間隔で体内を叩くビービのソナーをわずかに感じた。

 妙だ。これだけ遠いのだから、信号を感じられるはずもない。目いっぱい強度を高めていない限りは。そんなことをするとしたら――

 時間を確認する。

 うわ。またやってしまった。

〈喉〉に戻ると四号機の部品を取り外している最中だった。みんなが列にスペースを空けてくれる。何度謝ってもレニーは謝罪の言葉を聞こうとしない。一切話したくないのだ。傷ついたが、フィッシャーが責められるはずもない。近いうちに埋め合わせができるだろう。観光に連れていってもいい。

 ブランダーのシフトじゃなくて助かった。あいつはビービにいる。それでも、じきに腹が空いてくるのは避けられない。

 もしかしたら個室にいるかもしれない。もしかしたらただ食べて寝られるかもしれない。もしかしたら――

 ブランダーはひとりでラウンジにいた。フィッシャーが部屋に上がるやいなや、食事からじろりと目を上げる。

 怒らせないようにね。

 もう遅い。こいつは常にキレてるじゃないか。

「その、いくつか誤解を解かなきゃと思うんだけど」

「失せろ」

 フィッシャーはギャレーのテーブルから椅子を引き出す。

「邪魔だ」とブランダー。

「なあ、ここは見ての通り狭い。せめて仲良くしようとするべきじゃないか。あんなのは暴行だ。違法だよ」

「じゃあ俺を逮捕しろ」

「たぶんあんたは、本当は俺に腹を立ててるんじゃない」

 フィッシャーはふと驚いて言葉を止めた。そういうことか。

「俺を誰かと混同して――」

 ブランダーが立ち上がる。フィッシャーは続けて言う。

「たぶん他の誰かが以前あんたに何かをして、それで――」

 ブランダーがゆっくりとテーブルを回り込む。

「俺はおまえを誰とも混同してなんかいねえ。おまえの正体は見え見えだ」

「まさか、そんなわけない。二週間前まで会ったこともなかったのに!」

 そうだ。俺のわけがない、別人だ!

「何があったのかは知らないけど――」

「おまえにはなんの関係もない。あと一言でもしゃべったらぶっ殺す」

 行こう、とシャドウが訴える。放っておこうよ。これじゃ状況を悪化させるだけ。

 しかしフィッシャーは床をしっかりと踏み締めた。突然何もかも明白に思えた。

「俺じゃない」

 と静かに告げる。

「何があったん――ごめん。でもそれは俺じゃなかった、あんたもわかってるはずだ」

 一瞬、思いが通じたのかと思った。ブランダーの顔がゆるみ、無表情な白い目の周りのこぶや眉がわずかにほぐれ、もう少しでその顔に怒り以外の何かが浮かびそうになる。

 だが次の瞬間、何かが動いた。それは差し伸べられていく自分の腕で(シャドウ、やめろ、台無しにする気か)しかしシャドウは話を聞かずに小声で口ずさむばかりで、怒らせちゃだめ怒らせちゃだめ怒らせちゃだめ――

 こうするんだよね。

 ブランダーの喉で唸りが高まってゆく。波濤が海の果てからぐんぐんと伸び上がり、岸辺に押し寄せてくるように。

「……俺に、触るんじゃねえッ!」

 感覚を失うまでは長い時間がかかった。

 まず刺すような痛みがあった。それから瞼の周りで固まった血が割れ、ぼんやり赤い光の線が見えた。顔に手をやろうとした。痛い。

 冷たく濡れたものが肌に心地いい。血の塊がさらに取れる。

「んんんんんん……」

 誰かが目をつついてきた。もがこうにも頭を力なく左右に振ることしかできない。それだけでも痛みが増す。

「動かないで」

 レニーの声だ。

「右のアイキャップが割れてる。角膜を抉ってるかも」

 フィッシャーはおとなしくする。枕ほどにも腫れたように感じられる瞼の間を、レニーの指が押す。いきなり眼球が圧迫され、ぐいと引っ張られる。ずるりと音がして、ざらざらした感覚が瞳に広がる。

 世界が暗くなる。

「待って。灯りをつけるから」

 何もかも赤みがかっていたが、とりあえず目が見えるようになった。

 フィッシャーの個室だった。レニー・クラークが自分の上に身を屈めていて、その手には光沢のある湿った膜の欠片が載っている。

「ついてるね。インプラントが後ろに詰まってなかったら肋軟骨を破られてたよ」

 レニーは壊れたキャップを視界の外へ放り、液体絆創膏のカートリッジを手に取る。

「実際は肋骨が数本折れただけ。打撲もたくさん。脳震盪は軽かったかもしれないけど、医務室で確かめないと。ああ、きっと頬骨も折れてるね」

 買い物のメモでも読み上げているみたいだ。

「なんで――」

 口いっぱいに不快な塩辛さがある。舌で慎重に探る。少なくとも歯はなんともない。

「――医務室じゃないんだ」

「梯子の下に運ぶのは厳しくて。ブランダーに手伝う気はなかったし、他は外にいたし」

 レニーが上腕に泡をスプレーしてくれる。乾くにつれて皮膚が引っ張られる。

「誰も手伝ってくれなかっただろうけど」

「ありがとう……」

「大したことはしてない。ここに引きずってきただけ」

 レニーにふれたくてたまらなかった。

「フィッシャー、あなたってどうしてそうなの」

 しばらく経ってからレニーが尋ねてきた。

「なぜやり返そうともしないの」

「うまくいかないから」

「からかわないで。そんなに大きな身体をしておいて。ちょっと抵抗すればブランダーなんか叩きのめせるでしょ」

 それじゃ状況を悪化させるだけだってシャドウが言うんだ。やり返したところでもっと怒らせるだけだって。

「シャドウって?」

「え?」

「さっき言った――」

「何も言ってないけど……」

 数秒、レニーはじっと見つめてきた。少ししてから立ち上がり、

「まあいいや。上に電話して代わりを呼ぶから」

「いや、大丈夫だ」

「あなたは怪我をしたんだよ、フィッシャー」

 医療チュートリアルが頭の中でささやく。

「下に道具がある」

「それでも一週間は働けない。完治までは二週間以上」

「事故も計画のうちだろ。上がスケジュールを組んだときにさ」

「じゃあそれまでどうやってブランダーから隠れるつもりなの」

「外にいる時間を増やすよ。お願いだ、レニー」

 レニーが首を振る。

「まともじゃないね、フィッシャー」

 ハッチの方を向いて密閉をゆるめ、

「もちろん私の知ったこっちゃないけど――」

 振り返って言う。

「ここが好きなの?」

「え?」

「ここにいると気持ちいい?」

 本来は莫迦げた質問のはずだ。こんなときは特に。でも、なぜかそんな感じがしない。

「まあ、どちらかと言えば」

 やや間を置いてフィッシャーはそう答え、初めてそれを自覚した。

 レニーが頷く。まばたきをすると瞼が白いキャップを覆う。

「ドーパミンの快感だね」

「ドーパ――?」

「中毒になるんだって。ここにいることが――恐怖を感じることが」

 小さく笑みを浮かべ、

「噂だけどね」

 フィッシャーはよく考えてみた。

「気持ちいいっていうより、むしろ慣れただけって感じかな。だろ?」

「なるほど」レニーは向き直ってハッチを押し開いた。「確かにね」

 クロームの外装で真っ黒な一メートル大のカマキリが、医務室の天井から逆さ吊りになっている。それはフィッシャーが基地に来て以来ずっと眠っていた。今、カマキリは顔の上に浮かび、関節付きの風変わりな箸を思わせる多関節のアームをカチカチと鳴らしながら下ろしてくる。時々その触覚のひとつが赤く瞬き、肉が焼灼される臭いが漂う。それが少し気に障る。おまけに頭も動かせない。診察台の神経誘導場で首から上が麻痺しているせいだ。焦点がずれたらどうなるのか気になって仕方がない。抑制エネルギーが肺に、心臓に向けられたら。

 カマキリの動きが止まり、触覚が震える。数秒、完全に静止した末に声を発した。

「こんにちは、えーっと――ジェリー、医師のトロイカです」

 女性の声だ。

「具合はどう?」

 フィッシャーは答えようとするが、頭と首はまだ屍肉同然だった。

「ああ、答えなくて大丈夫。形ばかりの質問だから。すぐ診察データをチェックしますね」

 思い出した。医療設備は必ずしも単独で全ての作業をこなせるわけではない。複雑な処置が求められる場合は人間の応援を呼び出すこともある。

「あらまあ。何があったの? いや、これにも答えなくていいから。知りたくない」

 付属肢が現れ、目の前を前後に行ったり来たりする。

「少しだけ抑制場を切ります。ちょっと痛いかも。痛くても質問に答える以外は動かないで」

 痛みが顔中に広がった。そんなに悪くもない。馴染み深いくらいだ。瞼が痒く、舌は乾いている。まばたきに成功する。口を閉じ、腫れた頬を舌で撫ぜる。ましになっていた。

「上に戻りたくはないの?」

 トロイカ医師が数百キロの彼方から尋ねる。

「これだけ怪我が酷ければ、呼び戻す理由としては充分って知ってるでしょうに」

 フィッシャーはかぶりを振る。

「大丈夫。ここにいられます」

「ああそう」

 カマキリは驚いた様子もなく、

「近頃よく聞く話ね。じゃあ、これから頬骨を接ぎ合わせて、小さい電池を皮下移植します。右目のすぐ下。基本的には骨細胞を活性化させて、治癒過程を加速させるの。幅は数ミリだから、硬い吹き出物みたいな感じがするはず。むずむずしてもいじらないで。傷が治ったらニキビみたいに搾り出せばいいから。わかった?」

「はい」

「よし。じゃあ、抑制場を戻して処置にかかります」

 カマキリが期待するように唸りを上げる。

 フィッシャーは手を挙げた。

「待ってください」

「何か?」

「その……上は何時ですか」

「えっと、五時一〇分。太平洋夏時間で。それが?」

「早朝だ」

「確かに」

「起こしてしまいましたよね。すみません」

「気にしないで」

 機械のアームの指先が気を取られたかのように揺れ、

「何時間も働いてるから。墓場シフトで」

「墓場?」

「二四時間体制ってこと。地熱発電所はあちこちにあるでしょ。あなたたちのおかげでてんてこまいってわけ。それが日常なの」

「ああ。すみません」

「いいのいいの。これが仕事だから」

 後頭部の辺りでぶぅんと音がする。すると顔の筋肉が弛緩するのを感じた。何もかもが無感覚になり、カマキリが捕食するように襲いかかってきた。

 外で身を曝すほど莫迦じゃない。

 曝してもすぐには死なない。だが海水は血液より塩分濃度が遙かに高い。海水が体内に入れば浸透圧で上皮細胞から水分が失われ、しぼんだ粘性の塊と化してしまう。リフターの調整された腎臓は水の再生を加速するが、長期的な解決策にはならないし代償は高くつく。器官の消耗は早まり、尿は油に変わる。密閉しておくに越したことはない。人間の内臓はあまり長く海水に浸っていると、インプラントの有無に関係なく、いわば腐食するのだ。

 しかしそれは自分にとってはまた別の問題だ。フィッシャーには長期的展望などない。

 フェイスシールは長さ五〇センチの単一高分子だ。顎のラインを包む双方向ジッパーのようなもので、疎水性側鎖が歯に相当する。分離は左の手袋の人差し指についた小さな刃で行う。刃をシールに沿って走らせると、口周辺のスキンがするりと開く。

 最初は大して何も感じなかった。海が鼻に殺到して鼻腔を焼きはしまいかと思っていたが、もちろん体内の空洞には等張食塩水が詰め込まれている。唯一の急激な変化は、顔が冷えて裂傷の慢性痛が少し薄れたことだ。もっと深い痛みが片目の下、トロイカ医師が骨をワイアで固定したところで脈搏っている。微小電流がワイアをピリピリと伝い、骨芽細胞を強制的にフル回転させていた。

 しばらくしてからうがいを試してみた。うまくいかなかったので、仕方なく魚のように大口を開け、舌をべろべろと動かす。今度はうまくいった。初めて味わった生の海の味は粗く、身体を膨らませている体内の水より塩辛かった。

 目の前の海底では、近くの噴出孔から流れてくる水流の中で、目のないエビの群れが食事をしていた。エビは身体が透けていて、内臓が中で揺れるガラスの塊みたいだ。

 最後に食事をしてから一四時間は経っているが、ブランダーがまだ中にいるビービに帰るなどありえない。前回帰ったときはあいつがラウンジを見張り、待ち構えていた。

 なんだ。まるでただのオキアミだ。人は年中こんなのを食べてるじゃないか。

 エビは変な味がした。口は冷えて麻痺していたが、それでも腐った卵のような味がぎりぎり感じられる。それ以外は思ったほど悪くない。ブランダーよりはずっといい。

 一五分後に痙攣が起こったときは、あまり自信が持てなかった。

「具合が悪そうね」

 レニーが言う。フィッシャーは手すりにしがみつき、ラウンジを見回した。

「あいつは――」

「〈喉〉。ルービンとカラコとシフトに出てる」

 フィッシャーは手すりにもたれる。

「しばらく見なかったけど、顔の調子はどう?」

 吐き気で朦朧としつつ、レニーに目を凝らす。レニー・クラークが世間話をするなんて。空前絶後だ。理由を考えていたらまた胃が引きつり、床に倒れ込んでしまう。もはや何もこみ上げてこない。酸っぱい胃液がわずかに滴るだけだ。

 目が天井にのたくるパイプを辿る。ほどなくしてレニーの顔が視界をふさぎ、遙か高みから見下ろしてきた。

「どうしたの」レニーは純粋な好奇心から尋ねているようだった。

「エビを食べた」再び吐き気が襲ってくる。

「食べたって――外で?」

 レニーが屈んで引っ張り上げてくれる。両手がデッキの上で引きずられる。硬いものが頭に当たる。降下梯子の手すりだ。

「ああもう」とレニー。

 またもフィッシャーは独り床に転がる。足音が遠ざかってゆく。眩暈がする。何かが首に押し当てられ、シュッと静かな音を立てて刺さった。

 たちまち頭がはっきりする。

 レニーがかつてないほど近くにいた。こちらにふれ、肩に手を置いてさえいる。驚きのあまりその手を莫迦みたいに見つめていると、手はすぐに引っ込められた。

 レニーは皮下注射器を持っていた。胃が落ち着いていく。

「どうしてそんな莫迦な真似をしたの」レニーが静かに尋ねる。

「腹が減ってたんだ」

「調理器に何か問題でも?」

 フィッシャーは答えない。

「ああ、そういうことね」

 レニーはそう言って立ち上がり、皮下注射器から使用済みカートリッジを抜く。

「こんなの続けられっこないよ、フィッシャー。わかってるよね」

「あいつには二週間捕まってないんだ」

「その間あの人はあなたを見てもいない。あなたは向こうがシフトに出ているときだけ戻ってくるから。それにシフトを忘れることが増えてる。それで評判が良くなるわけないでしょ」

 ビービが軋みを上げ、レニーが小首をかしげる。

「なぜ上に連絡して家に帰らせてもらうんじゃだめなの」

 俺が子どもに手を出すからだ。ここを去れば、俺は切り刻まれて別の何かに変えられてしまうからだ……。

 ここにいる意味をくれそうなものが外にあるからだ……。

 きみのせいだ……。

 ひとつでも理由を理解してもらえるか、わからなかった。賭けに出るのはやめにした。

「きみからあいつに話してくれないかな」

 レニーはため息をついた。

「聞く耳持たないよ」

「試しに言ってみるだけでも、せめて――」

 レニーの表情が固くなる。

「もう試した。私は――」

 レニーははっとし、呟いた。

「手は貸せない。私には関係ないから」

 フィッシャーは目を閉じる。泣きそうだった。

「あいつの気は晴れやしない。本気で俺を憎んでる」

「あなたじゃない。あなたはただの――身代わりなんだよ」

「なんだって上は俺たちを一緒にしたんだ。意味がわからない!」

「意味はある。統計的には」

 フィッシャーは目を開く。

「え?」

 レニーは片手で顔を覆う。とても疲れているように見えた。

「フィッシャー、ここじゃ私たちは人間じゃなくて、データポイントの集まりなんだよ。私やあなたやブランダーに何が起ころうがどうでもいいの。平均値が想定範囲に収まっていて、標準偏差が過大にならない限りはね」

 この子に打ち明けましょうよ、とシャドウが言う。

「レニー――」

「なんにせよ」

 レニーが肩をすくめて空気を変える。

「リフトのそばでものを食べるなんてどうかしてる。硫化水素のことは勉強したでしょう」

 フィッシャーは頷く。

「訓練で。噴出孔が吐き出してるんだろ」

「硫化水素は底生生物の中で濃縮する。有毒なの。もう身に染みてるでしょうけど」

 レニーは梯子を下り始め、二段目で足を止めた。

「本気でネイティヴになりたいなら、リフトから離れた場所で食べ物を探してみたら。それか魚を捕るとか」

「魚?」

「魚は動き回ってる。ずっと温泉に浸かってるわけじゃない。たぶん安全かも」

「魚」フィッシャーはもう一度言った。それは考えてもみなかった。

「たぶん、だからね」

 シャドウ、本当にごめん……。

 しっ。ほら、光がとっても綺麗よ。

 フィッシャーは光を眺める。知っている場所だ。太平洋の底に、妖精の国に戻ったのだ。そういえば最近はよくここに来て光と泡を見守り、岩盤が擦れ合う音に耳を澄ませている。

 今もここに留まって、全てが滞りなく動いているのを観察するつもりでいたが、向かわなければならない場所が他にあったはずだ。しばし考えてみるが心当たりは浮かんでこない。どこか別の場所で何かをしていなければならないはずだという感覚だけがある。それも今すぐに。

 どちらにせよここにいるのも厳しくなってきた。上半身のどこかに漠然とした痛みがあり、強まったり弱まったりする。しばらく経ってから気づく。痛いのは顔だ。

 もしかしたら、この綺麗な光が目を傷つけているのかもしれない。

 そんなはずはない。キャップが守ってくれるはずだ。それとも機能していないのか。この前自分の目に何が起きたか思い出したが、そんなことはどうでもよかった。いつでも去ることができるのだから。突然、不思議なほど簡単に、あらゆる問題に答えが出た。

 光が苦痛ならば、ずっと闇の中にいればいい。

野生

「あれ見て」角を曲がったとき、カラコが呟いた。「四号機」

 クラークは目を向けた。四号機は一五メートル先にあり、このシフトは水が少し濁っていたが、それでも黒くて大きい何かが吸水口に張りついているのが見える。その影はケーシングを伝いながら揺らめいて、まるで滑稽なまでに引き伸ばされた黒い蜘蛛のようだ。

 数メートル泳いで進み、カラコに並んだ。ふたりで視線を交わす。

 フィッシャーが上下逆さまになって網にしがみついていた。四日ぶりの目撃だ。

 クラークは道具袋をそっと下ろし、カラコを先導する。二、三メートル進むと吸水口の五メートル圏内に入った。遍在する機械の雑音は肌で感じられるほどに太い。

 フィッシャーはふたりに背を向けており、吸水口のゆるやかな吸引を受けながら左右に揺れている。格子には生き物が付着して毛羽立っていた。小さなシャコガイ、チューブワーム、影絵めいたカニ。フィッシャーはのたうつ塊を引き剥がし、放流するなり眼下の通りへ落とすなりしている。現状およそ二メートル四方が掃除されていた。

 まだ仕事を真剣に考えている姿を見られたのは喜ばしいことだ。

「ねえ、フィッシャー」

 フィッシャーはカラコの声に撃たれたかのように身を翻し、クラークの顔に向けて腕を振るう。すんでのところで腕を上げると、フィッシャーが横を素早くすり抜ける。クラークは水を蹴って体勢を立て直す。フィッシャーは脇目も振らず闇に突き進んでいく。

「フィッシャー」クラークは叫んだ。「止まって。大丈夫だから」

 するとフィッシャーが泳ぎを止め、肩越しに後ろを見た。

「私。それとジュディ。何もしないから」

 フィッシャーが振り返り、顔を向けるのがなんとか見えた。クラークは手を振ってみた。

「さ、フィッシャー。手を貸して」

 カラコが後ろにやってきて、ヴォコーダの音量を絞ってささやく。

「レニー、何してんの。あいつはもう手遅れだってば――」

 クラークも音量を下げる。

「黙って、ジュディ」音量を戻す。「どう、フィッシャー? 給料を稼がないと」

 フィッシャーはおずおずと、餌の約束に釣られた野生動物みたいに光の中に戻ってくる。距離が縮まり、顎のラインがフードの下で上下に動くのが見えた。動きは不規則でぎくしゃくしていて、初めてその動きを学んでいるかのようだ。

 そして、ついにノイズを発した。

「オオ――ケエイ――」

 カラコが戻って道具を回収してきた。クラークが差し出したへらをフィッシャーはぎこちない手つきで受け取り、四号機までついてくる。

「まああるで、むかし。みた――みたいだ」

 カラコが目を向けてくる。クラークは何も言わなかった。

 シフト終了間際、クラークは辺りを見回した。

「フィッシャー?」

 カラコが点検用トンネルから頭を突き出し、

「いないの?」

「最後に見たのはいつだっけ」

 カラコのヴォコーダが数回カチカチと鳴った。機械はいつも「うーん」の解釈を誤る。

「三〇分くらい前」

 クラークはヴォコーダの音量を上げる。

「ねえフィッシャー! まだいる?」

 答えはない。

「フィッシャー、私たちあとちょっとで戻るから。一緒に来たいんなら……」

 カラコが首を横に振った。

シャドウ

 悪夢だ。

 至るところにあふれる光が目を眩ませ、痛みをもたらす。動くこともままならない。何もかも縁が鋭く、どこを見ても境界線がくっきりとしすぎている。音も同様で、金属音や叫び声、あらゆる音が苦痛の悲鳴だった。どこにいるか覚束ない。なぜここにいるかもわからない。

 溺れていた。

「クチノシールヲヒライテアゲテ……」

 胸の中のチューブが虚無を吸い込む。内部が膨らんでぴんと張りつめるが、何も入ってこない。パニックを起こし、じたばたと暴れる。何かがポキッと鳴った。不意の苦痛が遠く彼方の腕で反響し、やがて身体の他の部分へ押し寄せる。叫ぼうとしても中からは何も出てこない。

「クチダッテバ、チッソクシテル――」

 誰かに顔の一部を引っ張られ、一気に体内が満たされる。慣れ親しんだ冷たい塩水ではなかったが、役には立った。燃える胸が楽になる。

「オオマチガイダ――」

 不均一で苦痛な圧迫。何かが自分を押さえつけ、引き止め、ぶつかってくる。甲高いノイズが耳をつんざく。聞き覚えのある音がして――

 ――重力――

 言葉は合っている気がするが、何を意味するのかわからない。全てがくるくると回り、全てが馴染み深く恐ろしいなかで唯一の例外は、ちらりと見えたどこか心落ち着く顔で――

 シャドウ?

 重さが消え、圧迫が消え、氷水が内臓をなだめてくれる。彼女と一緒に渦を巻きながら再び外へ、何年も昔のあの場所へ――

 彼女はやり方を見せてくれていた。叫び声がやんでから部屋へ忍び込んできて、掛布団に潜るなり彼のペニスをしごき始めた。

「パパがね、誰かを本当に愛してるときはこうするんだよって」

 彼女がささやく。彼が恐怖を覚えたのは、ふたりがお互いを好きでもなんでもなかったからだ。ただただ出ていってほしかった。放っておいてほしかった。

「出ていけ。おまえなんか大っ嫌いだ」そう言ったが、怖くて動けなかった。

「大丈夫、だったらあたしにはしてくれなくてもいいから」

 彼女は笑おうとし、彼の言葉をただの冗談にしようとした。

 それから、しごき続けながら言った。

「どうしていつもそうやってあたしにいじわるするの」

「いじわるなんかじゃない」

「すっごくいじわる」

「おまえはここにいちゃいけないんだ」

「友達にもなれないの?」

 彼女が身体を擦りつけてくる。

「いつでも好きなときにこれしてあげ――」

「出ていけ。いつまでもここにいられやしないだろ」

「いられるよ。うまくいったら、って言ってたもん。でもあたしたちが好き同士にならなかったら送り返すかもって――」

「そりゃいいや」

 彼女は泣き出し、ベッドが揺れるほど強く身体を擦りつけてきた。

「好きになってよなんでもするからそうだあれしてあげ――」

 あれとは何かわからなかったのはそのときドアが勢いよく開かれたからで、その後何があったにせよ、ジェリー・フィッシャーは憶えていない。

 シャドウ、本当にごめん……。

 しかし今、彼女は再び彼と一緒になり、冷たく安全な闇の中にいる。ビービが遠くでぼんやりと灰色に輝く。黒い書き割りめいた背景の前に彼女は浮かんでいた。

「シャドウ……」彼の声ではない。

「違う」彼女の声ではない。「レニー」

「レニー……」

 爪ほどに薄い双子の三日月が目に反射していた。二次元の中でもレニーは綺麗だ。

 ぶつ切りの言葉がレニーの喉から響く。

「私が誰かわかる? 言ってることがわかる?」

 フィッシャーは頷き、見えないかもしれないと思って言った。

「ああ」

「あの――最近のあなたは、いわば消えちゃってるんだね、フィッシャー。人間であることを忘れちゃったみたいに」

 フィッシャーは笑おうとしたが、ヴォコーダには処理できなかった。

「行ったり来たり、かな。今は……明晰、って言うんだっけか」

「中に戻ってくるべきじゃなかった」

 機械は言葉からあらゆる感情を剥ぎ取っていた。

「殺してやるって言ってる。近寄らないほうがいいと思う」

「わかった」本当に殺されてしまうかもな、と思った。

「食べ物を持ち出すのはできると思う。誰も気にしないから」

「いいんだ。俺は――釣りでもするから」

「潜水艇を呼んでもいい。外で拾ってくれるし」

「いらないよ。戻りたければ自分で泳いで上まで行ける。遠くはない」

「じゃあ誰か代わりを送ってもらう」

「だめだ」

 沈黙。

「本土までずっと泳いでいくなんて無理だよ」

「ここにいるよ……しばらくは……」

 海底にかすかな揺れが走る。

「正気?」

「ああ」片腕が痛かった。原因はわからない。

 レニーがわずかに向きを変える。目の反射光が少しの間消え失せる。

「ごめんなさい、ジェリー」

「いいんだ」

 レニーのシルエットが身をよじり、ビービに向き直る。

「そろそろ行かないと」

 レニーは動かず、一分近く何も言わずにいた。

「シャドウって誰なの」

 沈黙が広がる。

「……友達だ。子どもの頃の」

「大切な人なんだね」質問ではなかった。「伝言をしようか」

「死んだんだ」本当はずっと前から気づいていたことに、フィッシャーは驚いた。

「そうだったの」

「そんなつもりじゃなかった。でもあの子には実のパパとママがいたんだ。俺の親まで必要ないだろ。あの子は自分の居場所に帰った。それだけだ」

「居場所」レニーの小声はほとんど聞き取れないくらいだった。

「俺のせいじゃない」話すのがつらい。昔はこんなにつらくなかった。

 誰かが自分にふれている。レニーだ。手が肩に置かれていて、そんなことはありえないとわかっているのに、温かな体温がスキン越しに感じられた。

「ジェリー」

「うん」

「どうしてその子は自分の家族といられなかったのかな」

「家族にいたぶられてると言ってた。いつもそう言うんだよ。そうやって取り入るんだ。利用するんだ、いつもそれでうまくいくから……」

 いつもってわけじゃないよ、とシャドウが訂正する。

「それで帰っていった、と」レニーが呟く。

「そんなつもりはなかったんだ」

 レニーのヴォコーダが音を発したが、なんと言ったかわからなかった。

「ブランダーは正しかったんだ。あなたと子どもたちのこと」

 非難されていないのがなんとなくわかった。ただ確認しているだけだ。

「誰かを本当に――愛していたら、することなんだよ」

「ああ、ジェリー。あなた本当におかしくなっちゃってる」

 一連のクリック音が胸の中の機械をそっと叩く。

「私を探してる」

「ああ」

「気をつけて、ね」

「きみもずっといればいい。ここに」

 レニーは沈黙で答え、

「外へ出たらたまに寄ることはあるかも」

 間を置いてからそう言った。水の中を浮上し、背を向ける。

「バイバイ」

 とシャドウが言った。心の中にやってきてから声を出して話したのはこれが初めてだったけれど、レニーが違いに気づいたとは思えない。

 こうして、ひとまずレニーは去った。

 だがレニーはいつでも外へ出てくる。ときには独りで。まだ終わりじゃない。レニーが他のみんなと行き来して、以前の自分がしていた作業をするときは、誰にも見えない場所から見守ろう。レニーの無事を確かめよう。

 守護天使みたいに。なあ、シャドウ。

 遠くで魚の群れがほのかな光を放つ。

 シャドウ……?


バレエ

ダンサー

 一週間後、フィッシャーの代員が潜水艇で下りてきた。もはや通信室を見張る者はいない。機械は観衆なんて気にかけないからだ。出し抜けに金属音がビービ基地に鳴り渡り、ラウンジに独り立つクラークは天井が開くのを待ち受けた。頭上で圧縮ナイトロックスがシュッと音を立て、海水を深海に噴き出す。

 ハッチが開く。緑色の閃光が部屋に流れ込む。梯子を下りてきた男はダイブスキンに身を包んでいて、顔だけが露わになっていた。キャップを装着済みの目は無表情なガラス玉だ。しかし本来ならば死んでいるはずのその目はどうも様子が違う。虚ろなレンズ越しに凝視している何かは、輝いていると言ってもいいくらいだ。隠れた目が共用部をパラボラアンテナさながらに走査し、クラークの目をロックオンする。

「あんたがレニー・クラークか」

 声はあまりにも大きく、あまりにも普通だった。自分たちがささやき声で話していたことをクラークは自覚する。

 もうふたりきりではなくなった。ルービン、ブランダー、カラコが視野の端に現れ、無関心な亡霊のようにさまよい出てきた。ラウンジ周縁に陣取り、待ち構えている。フィッシャーの代員は三人に気づいたそぶりを見せない。

「アクトンだ」とクラークに告げる。「上の世界から贈り物だ。ほら!」

 握り締めた拳を伸ばし、掌を上に開く。現れたのは長さほんの二センチの金属円筒が五つ。アクトンはゆっくりと芝居がかった動きで振り返り、他のリフターにも円筒を見せる。

「ひとりひとつ。胸の吸水口のすぐ横に埋め込む」

 頭上でドッキングハッチが閉まった。その奥で金属が性交を終えた音が響き、往復便の海面への脱出を告げる。一同はしばしその場に佇む。リフター、新参者、人間性をさらに薄める五つの新装備。とうとうクラークは手を伸ばして円筒をひとつ手に取り、平静な声で言った。

「何をするものなの」

 アクトンがパシッと指を閉じ、瞳のない目でラウンジをじろりと見回す。

「それはな、クラークさん。俺たちが死んだ瞬間を教えてくれるのさ」

 アクトンは通信室の操作卓に小円筒をばら撒いた。その背後にクラークが立てば個室は満員だ。カラコとブランダーはハッチから中を覗いている。

 ルービンは姿を消していた。

「計画開始からほんの四ヵ月だっていうのに、欠員がピカールで二名、クストーとリンケで各一名、それからフィッシャーで五人目。世界に言いふらせる記録じゃないよなあ、えぇ?」

 誰も応じない。クラークとブランダーは冷然と立ち、カラコは身体を左右にゆすっていた。アクトンが虚ろに輝く視線で全員をさっと眺める。

「しっかし、あんたらは元気いっぱいだな。くたばったのはフィッシャーひとりだけってのは確かなんだろうな?」

「その道具があれば命が助かるの?」とクラーク。

「いんや。そこまで手厚く面倒を見てくれるわけじゃない。死体発見に役立つだけだ」

 アクトンが操作卓に向き直り、慣れた手つきで操作する。地形図がメインモニタにぱっと表示された。ほうほう、と指で蛍光色の等高線をなぞる。

「中央のこれがビービで、こっちがリフトか――やれやれ、地形が入り組んでるな」

 画面端まで半ばのところにある濃緑色をした長方形の一群を指さす。

「で、これが発電機か」

 クラークは頷く。

 アクトンが小さな円筒をひとつ拾い上げる。

「専用のソフトウェアはもう送ったって言ってたぜ」

 沈黙。

「ま、じきにわかる」

 手の中の円筒を指でいじり、一方の端を押す。

 ビービ基地が大音量で絶叫した。

 クラークはとっさに身を引いた。頭が頭上のパイプにごつりとぶつかる。基地は言葉を失い絶望に打ちひしがれたようにわめき続ける。

 アクトンが操作卓にふれる。ギロチンで処刑されたかのように絶叫が止まった。

 クラークは周りをうかがって動揺した。誰も動じている様子がない。それもそうだ。目が剥き出しだったら何が見えただろうかと、初めて思った。

「さて、音による警報が機能しているのはこれでわかったが、視覚的な信号もある」

 と言ってアクトンが画面を指さす。ちょうど中心のビービを示す蛍光色のアイコンの中で、真紅の点がガラスの中の心臓みたいに脈搏っている。

「胸の筋電位と連動してる。心臓が止まると自動で鳴るってこった」

 クラークは背後のブランダーがハッチから離れるのを感じた。

「俺の作法は時代遅れかもしれんが――」

 アクトンの声が急に小さくなる。他のふたりは気づいていないようだ。

「無礼だと、昔から思ってるんだよ、人が話してる最中に立ち去るのは」

 声に明確な害意はない。その口調は充分に感じのいいものだ。しかしそんなことはどうでもいい。クラークは瞬時にあらゆるサインを読み取る。筋の通った言葉、ひそめた声、臨界に近づく身体のわずかな緊張。よく知る何かが、アクトンのアイキャップの奥で高まってゆく。

「ブランダー」クラークはぼそりと言った。「ふらふらせずに話を最後まで聞いたら?」

 背後で身動きする音が止まり、

 目の前でアクトンがほんの少しだけ力を抜き、

 心の中で、リフトよりも深い何かが寝返りを打った。

「装着はすぐに済む。だいたい五分くらいだ。GA曰く、今後はデッドマンスイッチが標準仕様になるらしいぜ」

 あなたを知ってる。クラークは思う。思い出せないけど、確かに以前どこかで会ったことがある……。

 胃が強張る。アクトンが微笑みかけてきた。秘密の挨拶でも送るかのように。

 アクトンが洗礼を受けようとしている。クラークはそれを楽しみに待つ。

 ダイブスキンを影のようにまとったふたりは、エアロックの中に立っていた。装着したばかりのデッドマンスイッチで胸がむずむずする。初めてこうして海に落ちたときのこと、溺死の試練の間ずっと手を握ってくれていた人のことを、クラークは思い出す。

 その人はもういない。深海に潰され、吐き出された。アクトンもそうなるのだろうか。

 エアロックを水で満たす。

 今となってはこの感覚も官能的になっていた。平らに折り畳まれる内臓。流れ込んでくる海の恋人のような冷たさ、止めようのなさ。摂氏四度の太平洋が胸の配管を巡り、まだ感覚の残る部分に麻酔をかける。水が頭の上まで迫り上がると、水没したエアロックの壁をアイキャップが水晶の精密さで描き出す。

 アクトンはそうもいかないようだ。身体を丸めようとしてクラークに寄りかかってしまう。クラークはアクトンの恐慌を感じ取り、震えもがく身体を観察し、へたり込むことも許されない窮屈な空間の中で崩れ落ちる膝を見つめる。

 もっと余裕が必要ね。内心笑いながら外側ハッチを開放する。ふたりは落下した。

 クラークはなめらかな動きで潜り、弧を描いてビービの重圧から逃れる。投光器の輪を置き去りにし、ヘッドライトを消したまま待ち望んだ暗闇の中へと泳ぎ出す。数メートル下に海底の存在を感じる。自由を取り戻す。

 少ししてアクトンのことを思い出し、来た道を戻る。ビービの投光ランプが闇をくすんだ光で染めていた。膨れ上がり角ばった基地を支える繋留索がぴんと張りつめている。その下面から零れる光は、貧弱なロケットの排気を思わせる。まばゆい光の中、アクトンは海底の上で身動きもせずうつ伏せになっていた。

 クラークは仕方なく近づいていく。

「アクトン」

 動きはない。

「アクトン」光の中に戻ってきてしまった。クラークの影がアクトンを半分に断つ。

 ようやくアクトンが顔を上げる。

「こいつぁ――」

 どうも自分の変調した声に驚いているようだ。喉にふれて言う。

「息を、してない――」

 クラークは黙っていた。

 アクトンがまた顔を下げる。その顔から数センチ先の海底に何かがいる。クラークは近くに寄ってみた。小さなエビに似た生き物が底質の上で震えている。

「なんだこれ」とアクトン。

「海面の生き物。きっと潜水艇にくっついてきたんでしょう」

「でもそいつは……踊ってるじゃないか――」

 見ると、関節のある足がぴくぴくと動き、甲殻が体内の狂ったリズムに合わせて弓なりになっている。酷く儚げな命だ。次かその次の痙攣で砕けてしまうだろう。

「発作ね」

 ややあってクラークは言った。

「ここは本来の居場所じゃない。圧力で神経の発火が加速しすぎてるってところかな」

「どうして俺たちにはそれが起こらないんだ」

 起こってるのかもよ。

「インプラントのおかげ。外に出るときは必ず神経抑制剤がたっぷり放出される」

「ああ。なるほど」

 アクトンがそっと呟き、生き物に優しく手を伸ばす。掌に収め、

 握り潰した。

 クラークは後ろから体当たりした。アクトンが海底で跳ね返り、手がぱっと開く。甲殻の欠片、水っぽい肉が水中で渦を巻く。アクトンが姿勢を立て直し、無言で睨みつけてくる。アイキャップが光の中で黄色に輝く。

「最低」クラークは呟いた。

「本来の居場所じゃないんだろ」

「私たちだってそうよ」

「苦しんでた。あんたがそう言ったんだぜ」

「神経の発火が加速してるって言ったの。神経が運ぶのは苦痛だけじゃない。快楽も運ぶ。あれが無上の歓びから踊っていたんじゃないって、どうしてあなたにわかるの?」

 クラークは海底を踏み切り、深淵の奥に憤然と泳いでゆく。アクトンの身体に手を突っ込んで何もかも引き裂いてやりたかった。血に塗れて絡まる内臓と機械をリフトの怪物どもに捧げてやりたかった。これほどの怒りを覚えたのはいつ以来だろう。理由はわからない。そう自分に言い聞かせる。

 下から水音と金属音が届く。クラークがラウンジのハッチから見下ろした瞬間、エアロックが開いた。ブランダーがアクトンを支えながら出てくる。

 アクトンのスキンは太腿で開かれていた。

 アクトンが身を屈めてフィンを取り外す。ブランダーは既に外していた。梯子を下りていくクラークの方を向いて言う。

「怪物との初対面だ。ガルパーウナギ」

「ああご対面したよ、くそったれの怪物となあ」

 アクトンが小声で言う。何が起こるかクラークが察知した次の瞬間――

 アクトンが襲いかかった。左の拳が一発、二発、三発と大鉈のように振るわれ、ブランダーが血を流して床に倒れる。脚を振り上げるアクトンの前にクラークは割り込み、両手を上げて身を守りながら叫んだ。

「やめてやめてブランダーのせいじゃない!」

 クラークが懇願している相手はアクトンではなく、アクトンの中から現れた何者かだった。なんでもしますから、神様、どうかそれを元の場所へ帰してください――

 それはアクトンの乳白色の目の奥から睨みつけ、呶鳴った。

「このクズはあれが俺に向かってくるのが見えてたんだ! 俺の脚が裂かれるのを黙って見てやがった!」

 クラークは首を振り、

「見えなかったのかも。外がどれだけ暗いかは知ってるでしょ。私は誰よりも長くここにいるけど、いつも忍び寄られてる。アクトン、ブランダーにあなたを傷つける理由なんてない」

 背後でブランダーが立ち上がる音がし、声が肩越しに届く。

「ブランダーは間違いなくそいつを痛めつけてやろうと――」

 クラークは声を遮った。

「ねえ、ここは私に任せて」

 その言葉はブランダー宛てだった。アクトンの目を見据えたまま、

「医務室へ行ってなんともないか確かめた方がいい」

 アクトンが前のめりになり、神経を張りつめさせる。内なる怪物はじっと観察している。

「このクソ野郎――」とブランダー。

「お願いだから、マイク」初めて名前で呼んだ。

 つかのま沈黙が広がる。

「おまえ、いつから首を突っ込むようになったんだ?」背後のブランダーが言う。

 いい質問だ。答えを思いつく前にブランダーが足を引きずる音が遠ざかってゆく。

 アクトンの中の存在が眠りに就いた。

「あなたも医務室に行った方がいい。後でね」

「いんや。そんなに手強くなかった。サイズさえ気にしなきゃやけに脆いんで驚いたよ」

「ダイブスキンを切り裂いたんでしょ。それだけのことができるなら、あなたが思うほど弱くもない。せめて検査はして。脚の傷は深いかもしれない」

「あんたがそう言うなら。ま、俺よりブランダーの方が医務室を必要としてるだろうがね」

 にやりと捕食者の笑みを浮かべ、クラークの脇を通ろうとする。

「それから短気を抑えてもらえるといいんだけど」

 すれ違いざまにクラークは言った。アクトンが立ち止まる。

「ああ。ちょっとあいつを責めすぎちまったかな」

「今度あなたがスモーカーに捕まっても、助けてくれないでしょうね」

「ああ。どうかな、俺は昔からちょっと、なんつうか――」

 クラークは事が起きてから使われる言葉を思い出す。

「衝動的?」

「それだ。でもほんとは悪い奴じゃないんだぜ。慣れてくれさえすれば」

 クラークは黙っていた。

「ともあれ、あんたの友達に謝らなきゃいけないようだな」

 友達。その不愉快な考えを頭から振り払う頃には、そばに誰もいなくなっていた。

 五時間後、アクトンは医務室にいた。開いたハッチを通りしなに覗くと、診察台に座ってスキンを腰まで脱いでいた。様子が変だ。クラークは立ち止まり、ハッチに顔を突っ込んだ。

 アクトンは身体を切り開いていた。吸水口の周りの皮膚が剥かれ、肉と合成樹脂の境目や、血液と不凍液をそれぞれ運搬するチューブが丸見えになっている。片手に握られた器具が空洞の中に消え、回転する先端部がウィーンと静かに唸りを上げる。

 どこかの神経に障り、アクトンはショックを受けたかのように跳び上がった。

「故障したの?」

「おっと。よお」

 アクトンが顔を上げる。クラークは解剖中の胸郭を指さし、

「ガルパーが――」

 アクトンはかぶりを振った。

「いやいや。あいつは足に軽く痣をつけただけだ。ちょいと調節をしようと思ってな」

「調節?」

「ファインチューニングだよ」笑みが浮かぶ。「ここに定住するための」

 うまくない。なんというか、空虚な笑顔だ。筋肉は普通に唇を広げているが、仕草が顔の下半分に限定されている。キャップをつけた目は雪の吹き溜まりさながらに冷たく、なんの起伏もない。今までまったく頓着していなかったのはなぜか、考えているうちに気がついた。リフターの笑顔を見るのはこれが初めてなのだ。

「そんな必要はないはず」

「何が」

 アクトンの笑顔にクラークは苛立ちを覚える。

「ファインチューニング。私たちは自己調整式のはずだから」

「まさしく。俺は自分を調整してるのさ」

「私が言いたいのは――」

「わかってる。俺は機能を――カスタマイズしてるんだよ」

 その手があたかも自律しているかのように胸郭の中を動き、いじり回す。

「設定値を公認スペックからちょいと外してやれば、パフォーマンスが向上するはずだ」

 金属と金属がぶつかり、小人の悲鳴のような音がした。

「向上って、どんなふうに」

 アクトンは手を引き、肉を折り畳んで穴を塞ぐ。

「まだはっきりとはわからん」

 別の器具を胸の縫い目に走らせて身体を密閉する。肩をすぼめてスキンをまとい、同様に密閉。もはやどんなリフターとも見分けがつかない。

「今度外に出るときはあんたに知らせるよ」

 と言って、すれ違いざまに何気なくクラークの肩に手を置いた。

 すくみ上がるのをあと少しで忘れそうなほどだった。

 アクトンが立ち止まる。こちらをじろじろと見ているようだ。ゆっくりとした声で、

「神経質なんだな」

「まあね」

「触られるのが好きじゃない、と」侮辱するように鎖骨を撫でてくる。

 自分も同じ鎧をまとっているのだとクラークは思い出す。ほんの少し気が楽になる。

「いつもってわけじゃなくて」嘘をついた。「一部の人だけ」

 アクトンは皮肉を秤にかけ、反応する価値はないと判断したらしい。手を引っ込める。

「こんなに狭い場所じゃ、ちょいと難儀な癖だな」そう言って顔を背けた。

 狭い? 私には大海原があるんだから! しかしアクトンは既に梯子を上っていた。

 新しいスモーカーがまた爆発していた。〈喉〉の北端のチムニーから熱湯がほとばしり、深海の冷たい塩水と混ざり合って凍りつく。乱流に巻き込まれた微生物が狂ったように冷光を発する。三〇〇気圧の重みで生まれそこねた蒸気の立てる音が水中に満ちている。

 アクトンは海底の一〇メートル上で波打つ青い光に洗われていた。

 クラークは下から静かに浮上する。

「あなたがまだ外にいるってナカタが。爆発を待ってるって」

 アクトンは目を向けようともせず、

「そうだ」

「ついてたね。何日も待つ破目になってたかもしれない」

 クラークは身を翻して発電機の方を向く。

「どうやら一、二分で収まりそうだな」

 クラークは身体をひねってアクトンに向き直る。

「ねえ、爆発はいつだって……」適切な言葉を探す。「渾沌としてるでしょ」

「ああ」

「予測は無理だよ」

「なあ、ポンペイワームは予測できるぜ。シャコガイやカニもだ。俺にできないなんてことがあるか?」

「何を言ってるの」

「あいつらはいつ爆発するかわかってる。周りを観察すればあんたにもわかるはずだ。噴出が始まりもしないうちから反応してるんだよ」

 クラークは辺りを見回した。シャコガイ然としたシャコガイ、ワーム然としたワーム。カニはいつもカニがするように海底をちょこまか動いている。

「どう反応するの」

「なんにせよ筋は通ってる。噴出孔はあいつらを養いもすれば湯通しにもする。数百万年経って徴候を読めるようになってもおかしかない」

 スモーカーがしゃっくりした。プルームが揺れ、周縁部の光が弱まる。

 アクトンが手首に目を落とす。

「悪くない」

「まぐれ当たりでしょ」ヴォコーダが疑念を隠してくれる。

 スモーカーは弱い爆発を二回繰り返し、そうして完全に鎮まった。

 アクトンが近づいてきた。

「送り込まれたばかりの頃、ここはひでえ場所なんだろうって思ってた。奴隷みたいに働いて刑期を終えたら脱出してやるって。でも違った。何を言いたいのかわかるだろ、レニー」

 わかる。だが返事はしない。

「俺もだよ」

 クラークが返事をしたかのように、アクトンは言った。

「本当になんというか……そう、美しいよ、ある意味な。よく知りさえすれば化け物だってそうだ。俺たちみんな、美しい」

 アクトンが優しい人に見えそうだった。

 クラークは反証を求めて記憶を掘り起こす。

「わかってたはずない。変数が多すぎる。計算不可能よ。ここじゃ何も計算なんかできない」

 エイリアンがこちらを見下ろし、肩をすくめる。

「計算できるかって? まず無理だろうな。だが察知することはできる……」

 こんなの時間の無駄だ。クラークは自分に言い聞かせる。仕事にかからなくちゃ。

「……ふたつはまったくの別物なんだよ」

 本の虫だという印象はなかったが、アクトンはまたライブラリに没頭していた。没入機器から漏れる光が頬を染めている。

 最近はライブラリの中で長い時間を過ごしているようだった。外出時間に並ぶほどだ。

 クラークは通りしなに薄型モニタをちらりと見下ろした。何も映っていない。

「化学だろ」ブランダーがラウンジの反対側から声をかけてきた。

 クラークはそちらに目を向ける。

 ブランダーが周りに気づいていないアクトンを拇指で指し示す。

「はまっちまってる。変わってるよな。死ぬほど退屈だろうに」

 バラードもはまってたな……。クラークは隣の端末から予備のヘッドセットを掴む。

「おっと、そりゃ危ない橋だ。アクトン氏は肩越しに覗かれるのがお嫌いだからな」

 ならアクトン氏はプライバシーモードにしてるだろうし、覗けっこないでしょうが。クラークは腰を下ろし、ヘッドセットを被る。アクトンはプライバシーの権利を行使しておらず、同じ回線に楽々と接続できた。没入機器のレーザーが網膜にテキストと化学式を焼きつける。セロトニン。アセチルコリン。神経ペプチドの調整。ブランダーの言う通り、心底つまらない。

 誰かがふれてきた。

 クラークはヘッドセットをひったくらずにそっと外した。今回は少しもすくみ上がっていない。餌をやるつもりはなかった。

 アクトンは椅子をこちらに向け、ヘッドセットを首にかけていた。手はクラークの膝の上。

「共通の趣味があるとわかって嬉しいよ」

 アクトンは穏やかな声で言った。

「驚くことじゃないがね。俺たちはいくらか共有してるからな……化学反応を……」

「そうね」

 アイキャップの加護を頼りにクラークは睨み返す。

「私に下衆アレルギーがあるのが本当に残念」

 アクトンが微笑む。

「当然、うまくいかんだろうさ。歳がまったく合ってない」

 立ち上がってヘッドセットをフックに戻し、

「俺の歳じゃあんたの父親にはなれないもんな」

 ラウンジを横切って梯子を下りていく。

「なんつうクズだ」とブランダー。

「アクトンはフィッシャーより遙かに下劣だね。なのに、あなたが喧嘩を売らずにいられるのが意外」

 ブランダーが肩をすくめる。

「力学が違う。アクトンはただのクズだが、フィッシャーはろくでなしの変態だった」

 言うまでもないけど、フィッシャーは絶対やり返さなかったよ。クラークはその言葉を胸に仕舞っておいた。

 エメラルド色に輝く同心円、その中心にビービ基地は鎮座し、やや弱い光点が点々と画面に散らばっている。亀裂、尖った露頭、果てしなく泥が続く平原、人の造りし機械のユークリッド幾何学的な輪郭、それら全てが音響という共通通貨に還元されていた。

 外にはそれ以外のものも存在している。半ばユークリッド、半ばダーウィン。画面を拡大する。人間の肉は海水と似通っているためエコーを返さないが、骨はばっちり映る。体内の機械はさらに鮮明で、微弱なソナー信号を放っている。クラークはディスプレイに目を凝らし、胸郭に機械を備えた半透明の緑の骨格を指さす。

「あいつかな」とカラコ。

 クラークは首を横に振る。

「あいつかもよ。他はみんな――」

「違う」

 クラークは操作卓にふれた。画面が最大範囲にズームアウトする。

「個室にいないのは確かなんだよね」

「基地を出たのが七時間前。それから戻ってきてない」

「海底に張りついてるだけかも。岩に隠れてるとか」

「かもね」カラコは納得していない様子だ。

 クラークは椅子にもたれかかった。後頭部が個室の後壁にふれる。

「ま、仕事はちゃんとしてるし。オフの時間は好きなところへ行けばいい」

「うん、でもこれで三回目だよ。いっつも遅刻してるし。好き勝手にぶらぶらして――」

「だから?」

 クラークは急に疲れを覚え、拇指と人差し指で眉間を揉んだ。

「ここはドライバックのスケジュールで動いてないんだよ。仕事はこなしてるんだし、怒らせちゃまずい」

「でも、フィッシャーはいつもこっぴどく叱られてたじゃん、ち――」

「フィッシャーの遅刻なんて誰も気にしてなかった」

 とクラークは遮り、

「きっと……口実が欲しかっただけ」

 カラコが背中を丸め、本音を漏らす。

「あいつ嫌い」

「アクトンか。好きになる理由がない。あの人はサイコ。私たちみんなそう。忘れたの?」

「でもあいつはなんか違う。わかるでしょ」

「ルービンはここへ配属される前、ガラパゴスで相方を殺しかけたし、ブランダーには自殺未遂歴がある」

 カラコの態度がどことなく変わる。確証はないが、視線をデッキに落としたらしい。痛いところを突いたみたいね。

 クラークは優しい口調で、

「私たちは気にならないんでしょ。なら、アクトンの何がそんなに特別なの?」

「あ。ちょっと見て」

 状況画面上で、何かが範囲内に侵入した。

 クラークは新規の表示にズームインする。かなり距離があるため解像度は低いが、それでも中心部の堅固な金属質の輝点は見間違えようがない。

「アクトンだ」

「え……距離は」カラコがためらいがちに尋ねる。

「九〇〇メートルくらい。遠くはないね、〈イカ〉を使っていれば」

「使ってないよ。いつも使ってない」

「ふむ。一応は最短コースを辿ってるみたい」カラコを見上げる。「次のシフトまでは?」

「一〇分」

「騒ぐほどじゃないね。一五分の遅刻ってところ。最大でも三〇分」

 カラコが画面を凝視し、

「それにしても、あんなところで何してんだろうね」

「さあね」

 前々から疑問だったが、カラコは本当にここにいるべき人間なのだろうか。そんなふうに見えないときがたまにある。

「あいつと話をしてみてくれないかな」とカラコ。

「アクトンと? なぜ」

「なんでもない。忘れて」

「そう」

 クラークは通信室の椅子から立ち上がる。カラコが戸口から退いて通してくれる。

「その、レニー」

 クラークは振り返った。カラコが言う。

「あなたはどうなの」

「私?」

「ルービンは相方を殺しかけたって言ったよね。ブランダーは自殺未遂。あなたは何をして、つまりその……資格を得たの?」

 クラークはカラコをじっと見つめた。

「その、えっと、もし嫌なら――」

「わかってない」

 クラークは完全に平板な声で言う。

「リフトに適合するかどうかを決めるのは、どれだけ育ってきたかじゃない。どれだけ生き残ってきたかよ」

「ごめん」カラコは完全に感情を欠いた目でばつが悪そうな表情を作ってみせる。

 クラークは少し態度を和らげた。

「私の場合は、主にパンチのやり過ごし方を覚えただけ。自慢するほどじゃない」

 ただ、今も努力しているのは確かだけど。

 どうしてこんなに急激な変化が起きたのかわからない。滞在わずか二週間にして、エアロックはアクトンの外出意欲を抑えきれなくなっている。チェンバーに水があふれ、アクトンの身体にぶるりと震えが走るのが伝わってくる。クラークが動けもしないうちにアクトンが掛け金を叩き、ふたりは外へ落ちてゆく。

 アクトンが基地の下からするりと出た。その軌道はクラーク自身のものと見事なまでにそっくりだった。クラークは〈喉〉へと泳ぎ出す。目には見えないがそばにアクトンの存在を感じる。ヘッドランプはふたりとも消したままだ。クラークにとって消灯は、この地に息づくもっと繊細優美なランタンたちへの敬意の証になっていた。

 アクトンがどういうつもりで消灯しているのかは不明だ。

 背後のビービがくすんだ黄色い染みになってからアクトンは口を開いた。

「時々さ、なんで中に戻るんだろうって思うよ」

 その声に滲んでいたのは幸せなんかじゃないはずだ。いかなる感情であろうと、海底での発声を可能にする機械の拷問に耐えられるわけがないのだから。

「昨日、〈喉〉のそばで寝た」

「運良く食べられなかったんだね」

「そんなに悪い奴らじゃない。つき合い方を知りさえすればな」

 自分の種とつき合うのと同じくらいの繊細さで別の種とつき合っているのだろうか。クラークは疑問を口には出さないでおく。

 しばらくの間、まばらに散った生ける星明りの中を泳いだ。前方で、基地とは別の染みが儚く陰気な光を放っている。どんぴしゃで〈喉〉に向かっていた。往復路を示すガイドロープなんて盲目の原始人みたいなものだと思うようになって、数ヵ月が経つ。ロープの位置を知っていても使うことはない。外では別種の感覚が目醒める。リフターは迷子にならない。

 フィッシャーは例外かもしれない。それにフィッシャーはここへ来るずっと前から迷っていたのだ。

「で、フィッシャーには何があったんだ」

 ひやりと胸に湧いた悪寒が指先に届く頃には、アクトンの声は薄れて消えていた。ただの偶然だ。訊かれても全然おかしくない、普通の質問じゃないか。

「なあ――」

「姿を消したの」

「それくらい教えてもらったよ。もうちょっと察しがいいかと思ってたんだが」

「外で眠り込んで、食べられちゃったのかも」

「そうは思えんがね」

「あらそう。大した専門家ぶりね、アクトン。ここに来てまだ二週間でしょ」

「たった二週間か。もっと長いかと思ってた。外にいると時間が長く感じられるな」

「最初はね」

「フィッシャーが消えた理由は知ってるか」

「いいえ」

「あいつは耐用期間が切れたんだ」

「ああそう」機械が変換した呟きは半ば軋み、半ば呻き声だった。

「俺は真剣だぜ、レニー」

 アクトンの機械音声に変化はない。

「あんた、自分たちがいつまでもここにいさせてもらえると思うか。他に選択肢があっても俺たちみたいな人間を送り込むって?」

 クラークは足を止める。身体が慣性で流れていく。

「何を言ってるの」

「頭を使え、レニー。少なくとも中にいるときは俺より賢いだろ。あんたはこの街の鍵を握ってる――広大な海底を開く鍵を。なのに今になっても犠牲者のつもりでいる」

 ヴォコーダがごぼごぼと解読不能な音を発する。笑い声の誤変換。あるいは唸り声か。

「上はそれを当てにしてんのさ、わかるだろ」

 クラークは泳ぎを再開し、前方でまばゆく輝く〈喉〉を見つめた。

 そこに光はなかった。

 一瞬、方向感覚を失い――迷うはずがない。まっすぐ向かっていたんだから。まさか停電したんじゃ――見慣れた黄色い光の筋を四時方向に見つける。

 こんなふうに道を外れるなんて、ありえない。

「着いたな」とアクトン。

「違う。〈喉〉はずっと向こう――」

 新星が燃え、深淵に目も眩む光があふれた。アイキャップが瞬時に対応し、閃光が薄れてゆく。海はヘッドランプから広がる円錐形の光のせいでくすんだ黒の背景幕に変わっていた。

「やめて。闇が濃くなって何も見えなく――」

「わかってる。すぐに消す。見ろ」

 光線が照らし出していたのは泥から突き出した小さな露頭だった。幅は二メートルもない。ギザギザしたクッキーの抜き型めいた花がその表面に散り、放射状の塊が人工照明の中で赤や青の派手な光を放つ。岩の表面で平らに寝そべっているものもあれば、よじれて凍った石灰質の結び目のようになり、クラークには見えない何かにしがみついているものもある。

 ゆっくりと動いているものもあった。

「ここに連れてきたのは、ヒトデを見せるため?」

 クラークはヴォコーダを使ってそれとなく退屈と軽蔑を滲ませようとしたが、うまくいかなかった。しかし内心ではアクトンのリードに恐怖が混じった驚嘆を覚え、自分が無防備にも誘導されたことに、完全に進路を外されたことに茫然としていた。それに、こんな場所をどうやって見つけたのだろう。ソナー銃では無理だ。〈喉〉にこれだけ近いとコンパスなんてなんの役にも立たないのだから……。

「こんなに間近で見たことないだろ。興味があるかと思ったんだが」

「遊んでる暇はないよ、アクトン」

 アクトンが両手を光の中に伸ばして一匹のヒトデを掴み、ゆっくりと岩から剥がす。繊維のようなものがヒトデの裏側に走っていて、身体を底質に固定している。アクトンは一度に数本ずつ繊維を引きちぎっていく。

 よく見えるようにアクトンがヒトデを掲げてくれた。上面は色石のようで、石灰質の骨針に覆われている。ひっくり返すと、下面ではうねうねした太い糸が何百本も蠢いており、それぞれの腕にみっしり詰まって列を成していた。糸の先端には小さな吸盤がついている。

「ヒトデこそ、究極の民主主義だ」

 クラークは不快な思いで静かに見つめていた。

「こうやって動くんだよ。この管足全体でこいつらは歩き回る。ところが妙なことにヒトデには脳がない。民主主義なんだから当然だな」

 蠢く蛆の列。水中を闇雲に手探りする半透明の蛭の森。

「つまり管足を連携させるものは何もないんだ。全てが独立して動く。普通はなんの問題もない。例えば、食い物に向かう傾向はみんな一緒だからな。とはいえ、管足の三分の一がまったく別の方向に引っ張ろうとするのは珍しいことじゃない。ヒトデは生ける綱引きだ。時々、諦めを知らん本当に頑固な管足の集団がいてな、他の管足たちがそいつらの行きたくない場所に身体を動かすと、頑固者集団は文字通り根本で引き裂かれちまうんだ。でも仕方ない。多数決の原理ってやつだ」

 クラークはおずおずと指を伸ばす。数本の管足が指に絡んできたが、スキン越しだから何も感じない。しがみつく管足は乳白色のガラス繊維のようで、今にも壊れそうな優美さがある。

「だが、どうってことはない。見とけよ」

 アクトンはそう言ってヒトデを半分に裂いた。

 クラークはショックと怒りから身を引いた。しかしアクトンの態度に、光に隠れてかろうじて見える輪郭に何かを感じ、動きを止める。

「心配するな、レニー。殺したんじゃない。繁殖させたんだ」

 アクトンが引き裂いた半身を放る。ヒトデは木の葉のようにはためき、血の気のない内臓の欠片を棚引かせて海底に沈んでゆく。

「こいつらは再生するんだ。知ってたか? ばらばらに引き裂いても、ひとつひとつが欠けた部分を成長させて元通りになる。時間はかかるが、傷は癒える。結果的に増殖させることになるんだ。殺すのは至難の業だぜ。

 理解したか、レニー。ばらばらに引き裂いても強くなって帰ってくるんだ」

「どうしてそんなことを知ってるの」

 クラークは金属質のささやきで尋ねた。

「あなたはどこから来たの?」

 アクトンが黒く凍てついた手をクラークの腕に置く。

「ここだ。ここで俺は生まれたんだ」

 莫迦げているとは思わなかった。実はほとんど話を聞いてもいなかった。クラークの心はどこかまったく別の場所にあって、唐突な理解に怯えていた。

 アクトンにふれられている。自分はそれを嫌がっていない。

 もちろんセックスは電気仕掛けだ。それは昔から変わらない。そんな当たり前の事実が狭苦しいクラークの個室の中で再現される。ふたり同時に寝台に寝るのは難しいのでどうにか策を講じ、アクトンが跪き、次いでクラークも跪いて、ダクトと通気口と光ケーブルの束で裏打ちされた鋼鉄の巣の中で、もぞもぞと互いに身をよじらせる。縫い目と傷をなぞり合い、金属と蒼褪めた肌の襞を舐め、角膜を覆う鎧の奥から見られることなく全てを見る。

 クラークにとって、目のない恋人の氷のような絶頂は新鮮な体験だった。顔を背ける必要も壊れやすい関係への恐れも感じなかったのは、これが初めてだった。最初、アクトンがキャップを取ろうとしたときはそっとふれ、やめてとささやいた。理解してくれたようだった。

 事後は一緒になって寝そべることもできないので、並んで座って互いに身を預け、二メートル先のハッチを見つめた。絞られた照明はドライバックの目には暗すぎるが、クラークとアクトンには蒼白い光に満たされた部屋が見える。

 アクトンが手を伸ばし、壁の空っぽな枠からガラス片を摘み取る。

「前は鏡があったんだな」

 クラークはアクトンの肩に齧りつく。

「あちこちにね。私が――割ったの」

「どうして。鏡があればスペースが少し広がって、大きく見えるだろうに」

 クラークは指で示す。糸ほどに細いちぎれたワイアが数本、枠にあいた穴から垂れている。

「後ろにカメラが設置されてた。それが嫌で」

 アクトンが低く唸る。

「無理もない」

 ふたりはしばらく無言で座っていた。

「外で言ってたでしょう。ここで生まれたって」

 アクトンは口ごもり、それから頷いた。

「一〇日前に」

「どういう意味?」

「わかるはずだ。俺の誕生を目撃しただろ」

 クラークは記憶を振り返る。

「ガルパーに襲われたときに……」

「おしいな」

 目のない冷たい笑みを浮かべ、アクトンがクラークに腕を回す。

「そういえばある意味ガルパーも触媒になってくれたかな。あれは助産師としよう」

 ある光景が脳裏をよぎる。医務室で自らを生体解剖しているアクトン。

「ファインチューニングね」

「ああ」ぎゅっとクラークを抱く。「きみには感謝しなきゃ。アイデアをくれたから」

「私が?」

「きみは俺の母親だ、レン。父親はわけもわからず痙攣してくたばったあの小エビだ。あいつが死んで俺が生まれた。実際は俺が殺したんだが。きみはあまり嬉しそうじゃなかったな」

 クラークはかぶりを振り、

「意味がわからない」

「俺の変化に気づかなかったってのか。俺はここに来た頃と変わらないって?」

「わからない。たぶん、あなたをもっと知らなきゃいけない気がする」

「そうかもな。知らなきゃいけないのは俺も同じだ。なんていうか今の俺は、もっと……目醒めてるって言うのかな。ものの見方が変わった。気づいただろ」

「ええ、でもそれは――」

 外にいるときだけ。

「抑制剤に何かしたんだ……」

「ちょいと投与量を減らした」

 クラークはアクトンの腕を掴んだ。

「カール、薬があるから外に出るたび頭がおかしくならずに済んでるんだよ。下手にいじったらエアロックに水が入るなり発作を起こすかもしれない」

「俺はここ最近ずっといじってたんだぜ、レニー。改善じゃない変化があったか?」

 クラークは答えない。

「肝心なのは活動電位だ。神経は発火する前に一定の電荷を蓄える必要が――」

「この深さだと神経はひっきりなしに発火するでしょうね、カール、お願いだから――」

「しっ」

 アクトンがそっと指を唇に載せてきたが、クラークはふと怒りを覚えてそれを払いのけた。

「私は真剣よ、カール。薬がないと神経はショートして燃え尽きる、私は知って――」

「習ったことしか知らないだろうが。たまには自分で考えてみたらどうだ」

 非難が胸に刺さり、クラークは黙り込んだ。寝台の上に隙間が生まれる。

「俺も莫迦じゃない、レニー」

 アクトンが声を小さくして言う。

「ちょっと設定値を下げただけだ。五パーセント。それで外に出たとき神経の発火に必要な刺激がちょっぴり減る、それだけだ。そうすると……目醒めるんだよ、レン。世界をより意識できるようになって、なんていうか、生きてるって感じが増すんだ」

 クラークは無言でアクトンを見つめる。

「当然、上も口では危険だって言うさ。あいつらはただでさえきみたちを死ぬほど恐れてる。このうえさらに武器を与える気があるわけないだろ」

「私たちなんか怖くもなんともないでしょ、カール」

「怖がってるとも」再び腕をクラークに回す。「試してみたくないか?」

 いきなり裸のまま外に出た気分になった。

「いいえ」

「何も心配するこたないぜ、レン。もう俺をモルモットにして実験してる。胸を開いてくれれば俺が調整してやれる。一〇分で」

「そんな気になれないよ、カール。とにかく今はまだ。たぶん他の人もそう」

 アクトンは首を横に振った。

「あいつら、俺を信用してないだろ」

「無理もないよ」

「違いない」

 アクトンはにやりと笑い、アイキャップと同じくらい鋭く白い歯を見せる。

「ま、信じたとしても何もしないだろうな、きみが問題ないと考えない限りは」

 クラークはアクトンを見た。

「どうして」

「ここの責任者はきみだろ、レン」

「莫迦。そんなこと誰も言わなかったでしょ」

「言う必要はない。明白だからな」

「私はみんなより長くここにいる。ルービンも。だからって気にしてる人はいないよ」

 アクトンは少し眉をひそめる。

「ああ、俺もそう思う。それでもきみは群れのリーダーなんだよ、レン。狼のボス。シャチのケイラ」

 クラークは首を振る。記憶を探り、なんでもいいからアクトンの莫迦げた主張を否定できる材料を探す。何も思いつかない。

 胸がイライラした。

 アクトンが軽く抱き締めてきた。

「気の毒にな、レニー。一生をキャリア犠牲者として生きてきたんじゃ、そんな立場はしっくりこないだろうよ、えぇ?」

 クラークはデッキをじっと見つめる。

「とにかく考えてみてくれ」

 アクトンが耳にささやいてくる。

「今の二倍は生きた心地がするのは保証する」

「それくらいよくあることよ。外に出ればいつだってね。そんなことのために身体の中を滅茶苦茶にする必要なんてない」

 頭の中までいじる必要なんて。

「これは全然違うぜ」

 クラークはアクトンに微笑みかけ、無理強いしてこないことを祈った。どこをどうしたら切開を任せてもらえるなんて思えるのだろう。ひょっとしたら、自分はいつかそれを望むのかもしれない。この人を失う恐怖が他の恐怖を無理やり屈服させるほどに大きくなるのかもしれない。それは初めてのことではないはずだった。

 二倍の生きた心地。笑顔の裏でクラークは考える。私の人生の二倍分か。現状、さほど見込みはなさそうだ。

 背後から光が差している。光は自分の影を海底へと投げかけていた。いつから光が差していたのか思い出せない。つかのま悪寒を感じ――

 ――フィッシャー?――

 常識に思い至る。ジェリー・フィッシャーならヘッドランプを使わない。

「レニー?」

 くるりと自転すると、数メートル先に浮かぶシルエットが見えた。単眼のライトが額から光を放っている。聞こえてきた声未満のざわめきは、ブランダーの咳払いのなり損ないだった。

「ジュディからここにいるって聞いてな」

「ジュディが」質問のつもりだったのだが、ヴォコーダで抑揚が消えていた。

「ああ。どうもあいつは時々おまえを監視してるみたいだな」

 クラークは少し考えてみた。

「私は無害だって伝えて」

「そういうんじゃなくて、たぶん……心配なんだろ……」

 口角の筋肉がぴくぴくと震える。おそらく自分は微笑んでいるのだろう。

「確か私たちのシフトだったよね」少ししてクラークは言った。

 ヘッドライトが上下に動く。

「ああ。シャコガイどもがケツを擦ってもらいたがってる。もっと熟練した労働者に」

 クラークは無重量状態で伸びをする。

「オーケイ。行きましょう」

「レニー……」

 クラークはブランダーを見上げる。

「どうして来たんだ――その、こんなところに」

 ヘッドライトが海底をさっとよぎり、骨と腐肉でできた露頭で止まった。骸骨の微笑みが縫い目のように光の円を横切っている。

「殺すか何かしたのか」

「ええ、私は――」

 勘違いに気づいて口ごもる。クジラのことを言っているのだ。

「ううん。勝手に死んだだけ」

 もちろん独りきりで目醒めた。一応、セックスで外に出られないほど気怠くなったときは、ふたりで寝ようと悪戦苦闘してもいた。だが寝台は狭すぎる。斜めにだらけた姿勢を取るのがせいぜいだった。足を床につけ、隔壁に寄りかかって、アクトンが生けるハンモックのようにクラークを抱くのだ。不幸にもそのまま本格的な眠りに落ちたときは、後で凝りをほぐすのに何時間もかかってしまう。労多くして功少なしだ。

 だから独りきりで目醒めた。そうは言っても恋しく思いはする。

 早朝だ。GAから言い渡されたスケジュールは意味がなくなりつつある――概日リズムは常闇の中で失われ、ゆっくりと時間がずれてゆく――が、相変わらず柔軟性に欠ける予定表によると、シフトが始まるまでは数時間あった。真夜中に起きたことになる。最後に日の出を見てから何ヵ月にもなるのだから、夜なのは言うも愚かなほど当たり前に思えるが、今このときに限っては正しかった。

 通廊でアクトンの個室の方へ振り返りかけて思い出す。もう部屋にはいないのだ。食事や仕事をしてクラークと過ごすほかは、中にいることは皆無だった。関係を持った日以来、自分の部屋で眠ってもいない。アクトンはルービンと同じくらい酷い有様になっていた。

 カラコはラウンジで黙ったままじっと座り、自身の体内時計に従っていた。クラークが通信室へ歩いていくと顔を上げ、そっと口を開く。

「一時間くらい前に出ていったよ」

 ソナーが五〇メートル南東でアクトンを捕捉した。海底の雑像の上でかろうじて反響している。クラークは梯子へ向かう。

「こないだ見せてくれたの。ケンとあたしに」

 後ろからかけられた声にクラークは振り返る。

「スモーカーがね、〈喉〉の隅からずっと離れたところにあってさ。フルートに似てる変な穴があいてて、歌声みたいな音を出してた……」

「へえ」

「何か理由があって、ぜひとも知ってほしかったみたい。妙に興奮してた。あいつ――外にいるとなんかおかしいよ、レニー……」

「ジュディ」クラークは淡々とした声で尋ねた。「どうしてそれを私に?」

 カラコが視線をそらす。

「ごめん。別にどうこうってわけじゃなくて」

 クラークは梯子を下り始める。カラコが後ろから呼びかけてきた。

「とにかく気をつけて、ね」

 到着したとき、アクトンは膝を顎の下に抱えて丸くなり、石の庭園の数センチ上で浮かんでいた。もちろん目は開いている。クラークは手を伸ばし、二層の反射性コポリマー越しに身体にふれた。

 アクトンはほとんど身動ぎもしない。ヴォコーダがカチカチと散発的な音を発する。

 レニー・クラークはそのそばで丸くなる。凍える海水の子宮の中、ふたりは朝まで眠った。

短絡

 私は屈しない。

 至極簡単なはずだ。食事や入浴、空気が必要な一部の仕事を除けば、この軋む卵の殻を離れて外で暮らし、海底を泳ぎ回って一生を過ごすことは可能だろう。ルービンはそうしている。ブランダー、カラコ、そしてナカタでさえもそうなりつつあった。

 クラークは基地の中が自分の居場所ではないと知っている。ここにいる誰もがそうだ。

 それでいて、外が自分に及ぼす害を恐れてもいる。フィッシャーのような末路を迎えるかもしれない。姿を消すなど造作もない。先に熱水や地滑りにやられさえしなければ。

 最近、クラークは自らの命に大きな価値を見出すようになっていた。それはつまり、正気を失いかけているということかもしれない。生に頓着するリフターなどいるだろうか。だが現にここに存在する。リフトはクラークを脅かし始めていた。

 莫迦げてる。丸っきり完全に莫迦げてる。

 誰だって怖いに決まっている。

 怖い。そうとも。カールが怖い。自分をあの人の好きにさせてしまうのが怖い。

 あれから、確か、一週間だろうか――

 いや、二日だ。

 最後に外で寝てから二日。基地の中に自らを幽閉すると決めてから二日。業務で外に出て、シフトが終われば直帰する。誰もクラークの変化に口出ししてこない。気づかれていない可能性もある。勤めを終えてもビービに戻らず海底に散らばって、各人なりに過ごすのだから。素晴らしき凍てつく孤絶の中で。

 だがアクトンは気づいているはずだ。気づいていて、クラークを恋しく思い、後について中へ戻ってくるだろう。あるいは外へ出てくるよう説得を試み、こちらが拒めば喧嘩に持ち込もうとするかもしれない。しかしアクトンは全然サインを示してくれないし、これまで以上に多くの時間を外で過ごしている。もちろん今も姿を目にする機会はある。食事時。ライブラリ。セックスの間は大切な話をしない。そうして海に戻ってゆく。

 アクトンはクラークとなんの協定も結ばなかった。クラークは自分で心に決めた協定を伝えてもいなかった。それなのに、裏切られたような気分だった。

 自分はあの人を必要としている。それが何を意味するのかはわかっていた。目の前の道を埋め尽くす自分自身の足跡は見えているけれど、標識を読むことと進路を変えることはまったく異なる。出ていきたい想いで胸はよじれんばかりだが、あの人に会いたいのか、それとも単に外へ出たいだけなのかは曖昧だった。それでもアクトンが外にいて自分がビービの中にいる限り、レニー・クラークは自らに言い聞かせることができる。主導権を握っているのは私だと。

 それは進歩と言ってもいいはずだ。

 今しも、ハッチをきつく閉じた個室の中で丸まっていると、階下のエアロックがごぼごぼと鳴るのが聞こえた。無線で操縦されたかのようにベッドから立ち上がる。

 ノイズ、鉄に当たる肉、水圧と空圧。声。クラークはウェットルームに向かう。

 アクトンが怪物を中に持ち込んでいた。アンコウだ。体長は二メートル近い。ゼリー状の肉袋に並ぶ歯は、クラークの前腕の半分ほどの長さがある。デッキの上で震え、ビービ内の真空も同然の海面気圧のせいで口から内容物をほとばしらせていた。力なく痙攣する小さな尻尾が身体中から何十本も芽吹いている。

 何か仕事の途中だったカラコとルービンが作業用エアロックから様子を見ている。獲物のそばにアクトンが立つ。その胸郭はまだ膨らんでいる最中で、静かに音を立てていた。

「どうやってエアロックに入れたの」とクラーク。

「それよりも」歩み寄ってきたルービンが言う。「どうしてわざわざ、だろう」

「何、このやたら多い尻尾は」とカラコ。

 アクトンがにやりと笑う。

「尻尾じゃない。つがいだよ」

 ルービンは少しも表情を変えずに、

「そうなのか」

 クラークは顔を寄せてみた。よく見れば尻尾だけではなかった。横腹や背にもヒレがついているもの、エラのあるものがいる。数匹は目を持ってさえいた。小さなアンコウの群れが大きなアンコウに穴をあけようとでもしているみたいだ。顎までしか入っていないものもいたが、他は尻尾まですっぽり埋まっている。

 遙かにおぞましい考えが脳裏に閃く。もう大きい方の魚には口を使う必要がない。この魚は退化した巨大微生物か何かのように、体壁全体で小魚を呑み込んでいる。

「リフトにおける集団セックス」

 とアクトンが言う。

「俺たちが目にしてきたでかい魚は全てメスだ。ここじゃオスは小指サイズの男根なんだよ。これだけ深いとデートの機会も多くないもんだから、オスは最初に出会ったメスにしがみついて、いわば融合するんだ。頭は吸収されて、血流も繋がる。わかるか、こいつらは寄生者だ。オスはメスの横っ腹に侵入して、メスに養ってもらって一生を過ごす。こういうオスは腐るほどいるが、メスはオスよりでかくて強い。オスたちを生きたまま食うことだって――」

「またライブラリに潜ってたのか」とカラコ。

 アクトンはカラコをちらりと見た。デッキに転がる膨れた死骸を仰々しく指さし、

「あいつが俺たち」

 パラサイトのオスを一匹掴み、引き裂いて放る。

「こいつらはその他全員だ。わかるか?」

「なるほど。メタファーか。巧いな」

 アクトンがルービンの方へ一歩踏み出す。

「ルービン、あんたには心底うんざりするぜ」

「そうか」ルービンには脅かされている感じがまったくない。

 クラークは動いた。間に割って入らず、少し横にずれて人間三角形の頂点を形作る。殴り合いになったらどうするかは何も考えていなかった。止められる言葉も念頭になかった。

 不意に、本当に止めたいと思っているのかさえわからなくなった。

「まあまあ、おふたりさん」

 とカラコは乾燥ラックに寄りかかり、

「別の方法で収めなさいな。定規を引っ張り出してチンチンを比べるとかさ」

 三人はカラコを凝視する。

「気をつけて、ジュディ。あなた、相当調子に乗り始めてるよ」

 今度はクラークが凝視されていた。

 私、今なんて言った?

 長い間、何も起きなかった。やがてルービンが低く唸って作業に戻った。アクトンがそれを見つめる。差し迫った脅威がなくなったので、エアロックの中に戻っていく。

 アンコウの死骸がデッキの上で震え、寄生者たちを逆立てた。

「レニー、あいつマジでおかしくなってる」

 エアロックに水が満ちるとカラコが言った。

「放っておいた方がいいかもよ」

 クラークは首を振り、

「放っておくって、どこに?」

 無理をして微笑んでみせた。

 カール・アクトンを探していたのに、代わりに見つけたのはどういうわけかジェリー・フィッシャーだった。長いトンネルの先からこちらを悲しげに見下ろしていて、大海を隔てた彼方にいるように見えた。言葉はなくても悲しみと失望が伝わってくる。きみは嘘をついた。俺に会いに来ると言ったのにそれは噓だった。俺のことをすっかり忘れてしまった。

 違う。忘れてなどいない。忘れようとしてみただけだ。

 もちろん声には出さなかったが、それでもフィッシャーは反応を見せた。感情が移ろい、悲しみが薄れ、湧き上がってきたもっと冷たい何か、それはとても深く古く、クラークには言葉で言い表すことができない。

 何か、純粋なものだ。

 背後から肩に触られた。機敏に身を翻してガス・ビリーを握り締める。

「おい、落ち着け。俺だよ」

 アクトンのシルエットが〈喉〉から届くかすかな光に揺れていた。クラークは力を抜き、何も言わずに相手の胸をそっと押す。

「おかえり。しばらく見なかったな」

「私――あなたを探してた」

「泥の中でか」

「え?」

「そこでぷかぷか浮かんでた。うつ伏せになって」

「その――」

 不安の残滓は感じられるが、何と結びついていたのか思い出せない。

「きっと眠り込んじゃったんだ。夢を見てた。前に外で寝てから随分――」

「四日だよ。寂しかった」

「あら、中に来ればよかったのに」

 アクトンが頷く。

「行こうとしたさ。でも、俺の全てをエアロックに通すことはできないし、通り抜けられる部分は――そうだな、いわば粗悪な代用品だ。憶えてるだろ」

「わからないよ、カール。私がどんな気持ちでいるかわかるでしょ――」

「ああ。それにきみが俺と同じくらい外が好きなのも知ってる。時々、いつまでもここにいられると感じることもある」

 アクトンは選択肢を秤にかけるかのように口ごもり、

「フィッシャーはちゃんとやってるよ」

 ぞくりと悪寒が走った。

「フィッシャー?」

「あいつは今もここにいるぞ、レン。わかるだろ」

「見たことがあるの?」

「頻繁にってわけじゃない。あいつ、とんでもなく臆病だから」

「いつ……だって――」

「独りのときだけだ。それにビービからかなり離れてる」

 クラークは説明できない恐れから辺りを見回す。見えなくて当然だ。いないんだから。いたとしても暗すぎて何も……。

 無理やり気持ちを抑え、ヘッドランプを消したままにする。

「あいつは……どうもきみに夢中みたいだ、レン。でもそんなことはもう知ってるか」

 違う。知らなかった。今もわかってない。

「話しかけてきた?」わけもわからず腹が立っていた。

「いや」

「じゃあどうやって」

 アクトンは答えに詰まった。

「さあな。そんな感じがしただけだ。でもあいつがしゃべったわけじゃない。あれは……なんとも言えんよ、レン。ただここらをぶらついて俺たちを見てるんだ。正気……と言える状態かどうかはわからんが、でも――」

「私たちを見てる」クラークは平静な声で呟く。

「あいつは俺たちの仲も知ってる。たぶん……それで俺との繋がりを感じてるのかもな」

 アクトンはほんの短く黙って、

「あいつを大事に思ってたんだろ」

 来た。始まりはいつだってごく何気ない一言だ。大事に思ってたんだろ、素敵なことじゃないか。次は、そいつに魅力を感じてたんだな。その次は、でもきみが何かしたに違いないよ、でなきゃ殴ったりしないだろうに。さらにその次は、このくそったれの尻軽が――

「レニー。俺は何もふっかけようとしちゃいない」

 クラークは続きを待った。

「何もなかったのは知ってる。仮にあったとしても、脅威でもなんでもない」

 この台詞も前に聞いた覚えがある。

「今考えてみれば、それが昔からの悩みだった。俺はいつだって他人の言葉を手掛かりにしなきゃいけなかった。でも他人は――他人は嘘ばかりつく。そうだろ、レン。だから、あなたを騙してなんかいないと何度言われても、騙そうだなんて思いもしないとまで言われても、それが本当かどうかわからない。わかりっこない。だからこう決めてかかることになる、この女は嘘をついていると。そうやって常に嘘をつかれていると、絶好の口実になるんだよ――その、俺が時々することの」

「カール、えっと――」

「きみが俺に嘘をついてないのはわかる。憎んでさえいない。そこは少し変わってるな」

 クラークは手を伸ばしてアクトンの横顔にふれた。

「きっとそれが正解ね。信じてくれて嬉しい」

「実はな、レン、俺は信じる必要なんてないんだ。わかるんだよ」

「どういう意味なの。わかるって、どうやって」

「確信はないんだが、例の変更が関係してるみたいだ」

 アクトンは返答を待っている。ややあってクラークは言う。

「何を言ってるの、カール。私の心が読めるってこと?」

「違う。そんなんじゃない。なんていうか、あー、きみに共鳴するんだ。あれは――ちょっと説明するのが難しいが――」

 クラークは光り輝くスモーカーのそばに浮かぶアクトンの姿を思い出す。ポンペイワームは予測できるぜ。シャコガイやカニもだ。俺にできないなんてことがあるか?

 波長を合わせたんだ。全てに。真っ赤なワームにさえ同調して、それから――

 フィッシャーにも同調して――

 舌で照明のスイッチを押す。光の円錐が深淵を貫く。周囲を捜索する。何もない。

「他に見た人は?」

「さあ。カラコはソナーで何回か捕捉したんじゃないか」

「戻りましょう」

「やめとく。ここにしばらくいよう。一晩過ごすんだ」

 クラークは虚ろなレンズをひたと見据え、

「お願い、カール。一緒に来て。少し中で眠りましょう」

「あいつは危なくないよ、レン」

「そうじゃなくて」ともかくそれだけが理由ではない。

「じゃあなんだよ」

「カール、神経が生む快感に依存してるとは考えられない?」

「おいおい、レン。リフトは俺たちみんなに快感をくれるんだよ。だからここにいるんだろ」

「頭の中が犯されてるから快感が生まれるの。わざわざ効果を高める必要なんてない」

「レニー――」

「カール」

 クラークは相手の両肩に手を置いた。

「あなたに何が起きてるのかはわからない。わからないけど、私はそれが怖いの」

 アクトンが頷く。

「わかるよ」

「ならお願い、私みたいにして。また中で眠ってみてよ、ほんの少しの間でいいから。起きてる間ずっと海底を這いずり回らないようにして、いい?」

「レニー、俺は中にいるときの俺が嫌いなんだよ。きみだって中にいる俺が嫌いなんだ」

「かもね。わからないけど。でも――こういうときのあなたとどう向き合ったらいいのかわからないのは確か」

「つまり俺が誰かをぶん殴ろうとしてないときって意味か。俺が合理的な人間のように振る舞ってるときか。この話をビービでしてたら、今ごろ物を投げ合ってただろうな」

 少し黙り込み、アクトンは態度を変えた。

「それともそれが恋しいのか」

「違う。そんなわけない」クラークはその発想に驚いて言った。

「なあ、だったら――」

「お願い。ちょっとだけわがままを聞いて。それくらい構わないでしょ」

 答えはない。それでも頼みを聞いてもらえる漠然とした予感があった。

 アクトンの努力を認めなくては。不本意な感じが動きの節々に表れていたが、率先してエアロックをくぐってくれさえした。しかし水が吐き出された瞬間、何かが起きた。空気が体内に流れ込み――別の何かに取って代わった、とでも言おうか。どこがどうとは言えないのだが。どうしてこれまで気づかなかったのだろう。

 クラークはお礼に自室へまっすぐ連れてゆく。アクトンは激しく、一片の慎重さもなく、隔壁に押しつけながら犯してきた。獣の声が外殻に反響する。アクトンが達したとき、クラークは思った。騒音は迷惑になっていないだろうか。

「あんたらのなかに、ここがどうしてこうも不快なのか考えてみた奴はいるか?」

 惑星の合と同じくらい珍しい、素晴らしくも奇妙な機会だった。各自の概日時計が一、二時間ほど流れを共にし、全員を同時に夕食へと引き寄せていた。いや、ほぼ全員だ。ルービンの姿はどこにも見当たらない。もっともルービンが会話に貢献した試しはないのだが。

「どういう意味?」とカラコ。

「あんたはどういう意味だと思う? 周りを見てみろ!」

 アクトンが腕を振り、ラウンジを示す。

「ここは立つのもやっとの広さしかない。どこを見てもパイプとケーブルがありやがる。点検用の隙間で生活してるようなもんだ」

 ブランダーが水で戻したジャガイモを頬張りながら顔をしかめる。

「スケジュールが厳しかったのかも」

 とナカタが意見を提示し、

「肝心なのはなるべく早く全てを稼働させることだった。単に時間がなくて、思ったより快適にできなかったのかもよ」

 アクトンは鼻で笑い、

「おいおい、アリス。天井の高さがまともな図面を引く余裕もなかったってのか」

「どうも陰謀論が持ち上がってきたな」

 とブランダーが言う。

「じゃあ聞かせてくれよ、カール。GAはなんのつもりでわざわざ俺たちの頭が四六時中ぶつかるようにしたんだ。低身長に育種改良したいのかね。なら食事を減らそうか」

 アクトンの神経が張りつめるのがわかった。小さな衝撃波が引き締まった筋肉から放たれ、緊張が波紋となって空中を伝い、クラークの肌に当たって砕けたかのようだった。落ち着かせようとテーブルの下の太腿にさりげなく手を置く。もちろんリスクは承知の上だ。押しつけがましく思われて、もっと怒らせてしまうことはありうる。

 今回は少し力を抜いてくれた。

「上は俺たちを不安にさせようとしてる。わざとストレスで参るように設計したんだよ」

「どうして」再びカラコが問う。緊張しているが、礼儀を欠いてはいない。

「自分たちが有利になるからだ。ぴりぴりした状態で過ごす時間が増えるほど、俺たちが本気になったら何ができるか考える時間が減る」

「できることって?」

「頭を使え、ジュディ。俺たちは電力網を落とせる。シャーロットからポートランドまで」

「電源を変えるだけだろ。深海基地は他にあるんだから」とブランダー。

「その通り。そんで、どこもかしこも俺たちみたいな奴らがスタッフだ」

 とアクトンは片手でテーブルを叩き、

「まったく、勘弁してくれよ。上は俺たちがここにいることを望んでなんかいやしない。憎んでるのさ。俺たちは女房を散々ぶん殴って赤ん坊を朝食にする狂人だからな。正気の人間はここじゃ気が狂っちまうって事情がなかったら――」

 クラークは首を横に振った。

「でもそうしたければ私たちを完全に仲間外れにできるでしょ。全自動にすればいい」

「ハレルヤ」

 とアクトンは両手を掲げて皮肉っぽく拍手し、

「こちらの女性はとうとう答えに辿り着きました」

 ブランダーが椅子にもたれかかり、

「やめろ、アクトン。GAで働くのは初めてか。官僚組織で働いたことはないのか」

 アクトンの視線がぐるりと回り、ブランダーを照準する。

「つまり?」

 ブランダーは嘲笑を浮かべて睨み返す。

「つまりだな、カール、おまえは無駄に深読みしてるってこった。天井が低すぎるだの、内装担当者がクソすぎるだの。で、まだ他に何かあんのか。GAはおまえなんか怖くもなんともねえんだろうよ」

 腕を振ってビービを示し、

「これは緻密な心理戦なんてもんじゃない。ビービは無能のアホが設計したってだけだ」

 立ち上がって皿をギャレーへ運び、

「頭をぶつけるのが嫌なら、外にいりゃあいい」

 アクトンがクラークを見る。顔は完全に表情を欠いていた。

「ああ、望むところだ。嘘じゃない」

 アクトンはライブラリの前で背を丸めている。耳と目に没入機器をつけ、薄型モニタは例によって空白で、検索中の文献は見えなかった。データベース内に個人的な資料があるわけでもなければ、隠す価値のある情報をGAが支給してくれるわけでもないのに。

 こんなときは邪魔をしないほうがいい。アクトンはライブラリの中で狩りをしており、少しでも気を散らされると、追い求めていたファイルがよそ見をした隙に逃げてしまったとばかりに憤慨する。だからふれることはしない。腕をそっと撫でたり、肩の凝りをほぐしてあげたりはしない。もうこれからは。何度か失敗を繰り返し、レニー・クラークは学習していた。

 妙な話だが、実はアクトンは無防備だ。ビービの他の部分から遮断されて目も耳も塞がれ、決して友達とは言えない人たちの接近に気づけない。ブランダーが今にも忍び寄り、背中にナイフを突き立てる可能性はある。だが、誰もちょっかいを出そうとはしない。感覚の亡命のようなものだ。自ら弱みを見せて、誰も自分に立ち向かう度胸がないと大胆不敵にも挑戦しているのだ。そうしてキーボードの前に座り、最初は軽く、やがて刺すように激しく打鍵し――プライベートなデータスフィアにこもる。目も耳も塞がれたアクトンの存在感は、体格に不釣り合いなほどラウンジを支配していた。

「クソッ!」

 アクトンが没入機器を顔から剥ぎ取り、操作卓に拳を振り下ろす。罅も入らない。白い目を燃やしてラウンジをじろりと見回し、ギャレーにいたナカタを見据える。クラークは賢明にもアイコンタクトを避けた。

「データベースが古すぎる! 一度に何ヵ月もこんなドス黒いケツ穴に放り込んでおいて、奴らはネットへのリンクすら寄越さない!」

 ナカタが両手を広げ、びくびくしながら言った。

「ネットは汚染されてる。洗浄済みのダウンロードデータは毎月送ってくれるし――」

「そんなこたわかってるよ」

 突然アクトンの声が不気味なほど静かになる。ナカタは察して黙り込んだ。

 アクトンが立ち上がる。部屋全体がその身体の周りで収縮しているみたいだった。

「もう行くよ」間を置いてそう言う。梯子へ一歩進み、一瞥をくれる。「来るか?」

 クラークは首を振る。

「お好きにどうぞ」

 たぶんカラコならいいだろう。これまで何度か口説かれたから。

 誘いには応じなかった。しかし状況は変わりつつある。もはやカール・アクトンはふたりだけではない。昔はふたりだった。クラークのパートナーはひとり残らず本当は二人組だったのだ。必ず存在する主人格は魅力的な身体を持っていたが、その顔と名前は前触れなく変貌するため重要ではなかった。それと同時に、連続性を持ち、爛々と輝く一対の目の奥に潜み、決して変わらない内なる怪物も常に存在していた。その怪物が変化したときどうすればいいのか、正直言ってわからない。

 今やまったく新しいものが、外なる怪物がいた。これまでのところは暴力の徴候を示していない。エックス線視力を持っているようにも思えるが、もっと手強い可能性もある。

 レニー・クラークはこれまでずっと内なる怪物と寝ていた。今に至るまで、それは代替案がないからだと思っていた。

 カラコの個室のハッチを軽く叩く。

「ジュディ、いる?」

 いるはずだ。ビービの他の場所にはいないし、ソナーも外にいる痕跡を捉えていない。

 返事はない。

 待てばいい。

 いや、もう充分待った。

 自分だったらどう感じるか――

 あの子は私じゃない。

 ハッチは閉じていたが、密閉はされていない。数センチ引き開けて中を覗く。

 巧いこと策を講じたらしい。アリス・ナカタとジュディ・カラコは狭い寝台の上で二本のスプーンのように重なり、睦み合っていた。ふたりの目が閉じた瞼の下でぴくぴくと動く。ナカタの夢想機がそばで見張りに立ち、コードをふたりの身体に絡みつかせている。

 クラークはハッチをそっと閉じた。

 いずれにせよ莫迦げた考えだった。あの子に何がわかるって言うの。

 それにしても、ふたりはいつから仲良くしていたんだろう。考えてもみなかった。

「きみのボーイフレンドが来てない」

 ルービンが通信を入れてきた。

「七号機の冷却材を補給する予定だったんだが」

 クラークは地形図を呼び出す。

「いつから?」

「〇四〇〇」

「わかった」

 三〇分の遅刻だ。珍しい。最近のアクトンは集団関係の名の下に渋々クラークに譲歩して、わざわざ時間を守っていたのに。

「ソナーにも映らない。海底に張りついてるのかも。ちょっと待って」

 クラークは通信室から顔を出し、

「ねえ、誰かカールを見た?」

「ちょっと前に出てったぜ」

 ウェットルームからブランダーが叫び返す。

「七号機のメンテナンスだろ」

 クラークはルービンとの通信に戻る。

「基地にもいない。ブランダーが言うにはもう出たって。もっと探してみる」

「わかった。とりあえずデッドマンスイッチは起動していない」

 ルービンがそれを吉凶いずれと見ているのかは不明だった。

 視野の隅に動きを感じ、クラークは目を上げる。ナカタがハッチのそばに立っていた。

「見つかった?」

 クラークはかぶりを振る。ナカタが言う。

「医務室にいたよ、出る直前に。開胸してた。調節するんだって――」

 そんな、嘘でしょ。

「外でパフォーマンスが向上するって言ってた。でも説明はしてくれなかった。後で教えるからって。うまくいかなかったのかも」

 外部カメラで基地の下の映像を表示する。映像が一瞬ちらついてから鮮明になる。泥の平原に広がって波打つ光の円を、繋留索のナイフみたいに尖った影が横切っている。円の縁の近くで黒い人影がうつ伏せになり、両手で頭を抱えていた。

 近距離用の音響装置を作動させる。

「カール! カール、聞こえる?」

 反応があった。首がひねられ、投光器に顔が向く。アイキャップが特徴のない白い光をカメラに向かって反射する。身体が震えていた。

「ヴォコーダが」

 とナカタが言う。スピーカーから音がした。機械的な小さい音が繰り返し響く。

「言葉に詰まってるんだ――」

 クラークは既にウェットルームにいた。

 ヴォコーダの内容は理解できた。同じ言葉を頭の中で何度も何度も繰り返していたからだ。

 ああ。ああ。ああ。ああ。ああ。

 目立った運動障害はない。アクトンは自力で中に戻ってこられた。とはいえ、クラークが助けようとしたとき身体は硬直していた。装備を外し、クラークに続いて無言で医務室へ入る。

 ナカタが如才なくふたりの背後でハッチを閉じた。

 アクトンは石のような無表情で診察台に座った。クラークは手順を心得ていた。スキンを脱がせ、アイキャップを外す。瞳孔の自律反応と反射弓をチェック。針を刺して所定の試料を採取する。血液ガス、アセチルコリン、GABA、乳酸。

 クラークは隣に腰を下ろす。アクトンのアイキャップを外したくはなかった。その奥を見たくなかった。少しして口を開く。

「抑制剤をどれくらい減らしたの」

「二〇パーセント」

「まあ」

 と意識して軽い口調で言い、

「ともかくこれで限界がわかったね。少しずつ通常値に戻していきましょう」

 それとわからないくらいかすかに首が振られる。

「どうして?」

「手遅れだ。俺は閾値を超えちまった。元に戻る気がしない」

「そう」

 クラークはおずおずと相手の腕に手を置く。反応はない。

「気分はどんな感じ?」

「見えない。聞こえない」

「聞こえてるみたいだけど」

「俺がどう感じてるかを訊いたんだろ」無表情のままアクトンが言う。

「じゃあ次はこれ」

 フックから核磁気共鳴ヘルメットを取る。アクトンはそれを頭に装着されるがままだ。

「何かおかしければ、これで――」

「何かがおかしいのは確かだよ、レン」

「待って」

 ヘルメットが画面に診断結果を書き出す。クラークも他のリフターと同様に夢をハイジャックする機械で医学の専門知識を頭に詰め込まれていた。それでも生データは理解できない。要約が表示されるまで一分近くかかった。

「シナプスのカルシウム量が激減してる」

 クラークは安堵を隠しながら言う。

「そりゃそうだよね。ニューロンが過剰発火したら、そのうち使い果たしちゃうわ」

 アクトンは画面を無言で見ている。

「カール、大丈夫」

 クラークは耳許に顔を寄せ、肩に手を置いた。

「自己修復するから。抑制剤を通常値に戻すだけでいい。需要が減って、供給は増える一方。どこも傷ついてない」

 アクトンがもう一度首を振った。

「そんなふうにはいかないよ」

「カール、診断を見て。すぐ元気になるから」

「俺に触らないでくれないか」少しも動くことなく、アクトンはそう言った。

臨界質量

 ちらっと見えた拳が目を打った。よろめいて隔壁に後退ると、突き出たリベットかバルブに後頭部がぶつかった。世界が爆発する残照に沈む。

 この人は理性を失っている。クラークはぼんやりとした頭で思う。私の勝ちだ。膝から崩れ落ち、壁をずるずると滑り落ちて、重い音と共にデッキに座り込む。これは誇りの問題だと考えて、沈黙を貫き通した。

 逆鱗にふれるようなことをしただろうか。思い出せない。アクトンの拳がここ数分間の記憶を頭から叩き出してしまったみたいだ。どうでもいい。昔からお馴染みのダンスだ。

 しかし今回はそばに誰かの気配がした。複数の叫び声が、乱闘の音が聞こえる。肉が骨に金属にぶつかる不快な音が鳴っているが、今回に限っては、それは自分のものではないようだ。

「このクソ野郎! 玉をもいでやる!」

 ブランダーだ。加勢してくれている。相変わらずの女性思い。クラークは笑い、塩辛さを味わう。当然だ。ブランダーはガルパーを巡って喧嘩した件でもアクトンを赦していない……。

 視界が徐々に、ひとまず片目は鮮明になってゆく。目の前すぐ右に足が、左にもう一本足があり、視線を上げていくと二本の足がカラコの股で合流した。アクトンとブランダーもクラークの個室の中にいた。驚いたことに全員が部屋に収まっている。

 口が血塗れのアクトンが包囲されていた。喉にはブランダーの手。その手首をアクトンの手が掴んでいる。見守るうちにもう片方の手が振るわれ、ブランダーの顎を掠める。

「やめて」クラークはもごもごと呟く。

 カラコがアクトンのこめかみを素早く二度叩く。アクトンの頭が横に弾かれ、唸り声が上がるが、ブランダーを握る手はゆるまない。

「やめてって言ってるでしょ!」

 今度は声が届いた。乱闘が鎮まり、一時中断する。拳は振り上げられたまま、掴み合ったままだが、全員がクラークに視線を注いでいる。

 アクトンさえも。クラークは視線を上げ、その目の奥に潜むものを見つめる。アクトン自身の他に見つめ返してくるものは見えない。前はいたのにね。そんな気がしてた。きっとあなたはアクトンを負け戦に向かわせて、どこかへ消えちゃうんだって……。

 クラークは隔壁に身を預けながらゆっくりと立つ。カラコがそばに来て支えてくれた。

「こんなに注目してもらえるなんて光栄ね。お立ち寄りにも感謝したいところだけれど、ここからはふたりでなんとかなるから」

 カラコがかばうように肩に手を置いてくる。

「こんな仕打ちを我慢する必要ない」

 その目はキャップ越しにも敵意が剥き出しで、じっとアクトンを見据えていた。

「あたしたちの誰ひとりとしてね」

 アクトンの口角の一方が上がり、血に濡れた嘲笑を浮かべる。

 クラークはすくむことなくカラコの接触に耐えた。

「わかってる。踏み込んでくれてありがとう。でもお願い、しばらくふたりだけにして」

 ブランダーはアクトンの喉を握った手をゆるめない。

「とても名案とは――」

「そのふざけた手を放してふたりだけにしてって言ってるの!」

 ふたりが引き下がる。クラークはその後ろ姿を睨み、ハッチを閉じて締め出す。

「まったくお節介なお隣さんね」とぼやいてアクトンに向き直った。

 唐突に訪れたプライバシーにアクトンの身体から力が抜け、見る間に怒りも虚勢も何もかも蒸発していく。

「どうしてそんなにろくでなしなのか教えて?」

 アクトンは寝台にへたり込んだ。デッキを見つめ、目を合わせようとしない。

「これだけ悲惨な目に遭ったんだからわかるだろ」

 クラークは隣に座った。

「ええ。拳で何もかもすっかり伝わった」

「きみを助けようとしてるんだ。きみの全てを」

 アクトンが顔を上げて抱き締めてきた。身体を震わせ、頬を頬に押し当て、クラークの肩の後ろの隔壁に顔を向ける。

「ああレニー、本当にすまない。俺は、こんなクソみたいな世界で、きみだけは傷つけたくないと思ってるんだ――」

 クラークは無言でアクトンを撫でる。言いたいことはわかる。ふたりはいつだって理解し合っている。こうしていても、どちらを責める気にもなれない。

 この人は心の中で独りぼっちだと考えてるんだ。全て自分のしたことだと。

 ありえない考えが脳裏をよぎる。本当はその通りなのかもしれない……。

「俺にはずっと中にいるなんて無理だ」

「良くなるはずだよ、カール。何事も最初はつらいものよ」

「ああ、レン。わかってないんだな。まだ俺をジャンキーか何かと思ってる」

「カール――」

「依存が何か理解してないと思ってるんだろ。区別がつけられてないって?」

 クラークは答えない。

 アクトンは悲しげに小さく笑う。

「気が狂っちまうよ、レン。きみが無理強いしてるんだ。なんだってこんな俺を望む?」

「それが本来のあなただからよ、カール。外のあなたはあなたじゃない。外は歪んでるの」

「外なら俺はろくでなしじゃない。外なら誰からも憎まれない」

「違う」

 クラークはアクトンを抱き締めた。

「怒りを制御することが別の何かに変わること、常に麻薬を打つことなら、私はオリジナルのあなたに賭けてみたい」

 アクトンが目を向けてくる。

「こんなのは嫌なんだ。いいかげんにしてくれ、レン。自分をぼこぼこにした奴にうんざりするってことがないんだな」

「ひどいこと言うね」クラークは静かに言った。

「俺はそうは思わない。外で見たものは多少思い出せるんだよ、レン。まるで自分から――つまりさ、レニー、きみの中いっぱいに憎しみがあふれてるんだ……」

 アクトンがこんなふうに話すのは外でさえ聞いたことがない。

「あなたの中にも少しはあるんでしょう」

「ああ。憎しみが俺を変えた。憎しみは俺を……尖らせた」

「確かに尖ってるね」

 アクトンはかぶりを振る。

「いいや、違う。きみには敵わない」

「自分を卑下しないで。私が基地にキレてるところなんて見たことないでしょ」

「そこだよ、レン。俺はいつも憎しみを爆発させて、こんなふうに莫迦げたことで浪費する。でもきみは――憎しみを溜め込んでる」

 アクトンの表情が変わったが、どう変わったのかはわからなかった。懸念、だろうか。それとも心配か。

「時々、きみがルービンよりも怖くなる。暴言は吐かないし相手を殴りもしない。声を張り上げるだけで一大イベントだもんな。だから憎しみは蓄積していくばかりだ。それは利点でもあるのかもしれない」

 無理に笑みを浮かべ、

「憎悪は素晴らしい燃料源だ。もし万が一にも――活性化したら、誰にもきみを止められないだろう。でも今のところは……有毒ってだけだ。自分がどれほどの憎しみを内に秘めているのか、きみはちっともわかってない」

 これは……哀れみ?

 急に心の中の何かが冷めた。

「セラピストごっこはやめて、カール。神経の発火が加速したからって千里眼が身につくわけない。私をろくに知りもしないくせに」

 当然だ。知っていたら私と一緒になったりしない。

「この中ではな」

 アクトンは微笑んだが、蒼褪めた奇妙な表情からは奥に隠れたものが透けていた。

「外にいるときの俺にはなんでも見える。ここじゃ俺は盲目だ」

「あなたは盲人の国にいるの」クラークはそっけなく言った。「それは欠点じゃない」

「そうかい。目を抉られるとしたらここに留まるか? 少しずつ脳が腐って人間から間抜けな猿に変わっちまう場所にいたいと思うか?」

 クラークはよく考えてみた。

「私が最初から猿だったら、いたいと思うかも」

 おっと、ふざけ半分に聞こえただろうか。

 アクトンがちらりと視線を寄越す。別の何かも眠そうに片目を開けて見ている。

「少なくとも俺は、犠牲者を演じてもエンドルフィンは得られない」

 アクトンはゆっくりと言った。

「もうちょっと注意して見下す相手を選んだ方がいいぜ、本当に」

「そっちこそ、自分が何を話しているか理解できる貴重なときに、宗教じみた説教をするのは控えるべきね」

 アクトンがベッドから立ち上がって睨みつけてきた。ゆっくりと拳が開く。

 クラークは動かなかった。全身が完全に固まっていた。意識してゆっくり頭を上げ、アクトンの半ば閉じた目をまっすぐ見つめる。

 それは今や完全に目醒めていた。もうアクトンはまったく見えない。全てが正常に復した。

「無駄よ。昔のよしみで少し試してあげたけど、今度私に手をかけたら本当にあなたを殺す」

 内心、自分の声の強さに驚いた。まるで鉄のようではないか。

 永遠にも思える間、ふたりはお互いを見つめていた。

 アクトンの身体が踵を返し、ハッチをゆるめる。それは個室から出ていった。通廊で待っていたカラコが無言で道を譲る。エアロックが稼働し始める音が聞こえるまで、クラークは身動ぎもせずじっとしていた。

 あの人は私のはったりに乗らなかった。

 もうおしまいだと確信できたのは、これが初めてだった。

 アクトンはクラークを見ない。

 言葉を交わしてから数日が経った。シフトのスケジュールすら分かれていた。今夜、眠れずにいると、奈落から戻ったアクトンがラウンジに侵略的海洋生物のように上がってくる音が聞こえた。時々、そんなふうにして中へ入ってくるようになった。基地に人気がないときや、全員が外にいるか個室にこもっているときに。ライブラリを前に座り、没入機器を介して果てしなき人工現実の街路に潜ったときなど、一挙一動が死に物狂いだ。中にいるときは必ず息を止めなくてはならないかのようだった。一度、頭からヘッドセットをむしり取って、胸が爆発でもするみたいに外へ逃げてゆくのを見かけた。放置されたヘッドセットを手に取ってみると、検索結果が没入機器に表示されたままになっていた。化学の文献だった。

 別のとき、外へ向かう途中だったアクトンが振り返り、通廊に立つクラークを見た。微笑みを浮かべ、口を開きさえした。すまない。そう聞こえたが、それだけじゃなかったかもしれない。アクトンは中に留まらなかった。

 今、アクトンの手はキーボードの上に置かれたまま動かない。肩が震えている。音を一切発していない。クラークはしばし目を閉じ、そばに行こうか考える。目を開けたとき、ラウンジには誰もいなかった。

 アクトンの行き先は正確にわかる。アイコンがビービを離れ、画面上をゆっくりと横切ってゆく。進行方向にあるものはあれしかなかった。

 追いついたとき、アクトンは背中に這いつくばってナイフで穴を掘っていた。〈喉〉からこれだけ離れているとアイキャップも光を捉えられず、近くを見るのがやっとだ。肉を切り刻むアクトンがクラークのヘッドランプに照らされ、その影がゆらゆらと揺れながら屍肉の果てまで伸びていく。

 クレーターは幅と深さが共に三〇センチといったところ。皮膚下の脂肪層まで切り込まれており、その下の褐色の筋肉までズタズタだ。この死骸がここに沈んでからもう何ヵ月も経つ。腐らず保存されていることにクラークは驚いた。

 深海は極端なものが好きなんだ。圧力鍋でないとすれば、冷蔵庫だろうか。

 アクトンが掘削を止める。その場に浮かび、自分の手仕事の成果を見下ろす。

「莫迦げたアイデアだ。なんでこんなことをしたのやら」

 と口を開き、顔を向けてきた。アイキャップが黄色に反射する。

「すまん、レニー。ここがきみにとって特別な場所だったってことはなんとなくわかる。俺は……その、冒涜するつもりはなかったんだ」

 クラークは首を横に振った。

「いいの。そんなに大切でもないから」

 アクトンのヴォコーダがごぼごぼと鳴った。空気の中なら悲しげな笑い声だったのだろう。

「俺はたまに自信過剰になるんだ、レン。中に入るといつも頭がおかしくなる。どうしたらいいのかわからなくなって、外に出さえすればいい、そうすりゃ目から鱗が落ちるって考えちまう。宗教の信仰も同然だな。外には全ての答えがあるって」

「いいの」何も言わないよりはましだと思い、そう繰り返した。

「でも、答えが役に立つとは限らない。おまえはしくじったんだ、いいから忘れろ。そんな答えしかないときもある」

 アクトンがクジラの死骸を見下ろす。

「灯りを消してくれないか」

 暗闇がふたりを毛布のように包む。クラークは闇に手を伸ばし、アクトンを引き寄せる。

「何をしようとしてたの?」

 またも機械的な笑い声。

「何かで読んだんだ。考えがあったんだが――」

 頬と頬が擦れる。

「その考えが何かわからないんだよ。中にいるときの俺はロボトミー患者だ。莫迦げたアイデアを思いついて、外に戻ってきても、完全に目が醒めて自分がとんだ間抜けだったことに気づくまで、結構な時間がかかる。調べたかったのは副腎だ。シナプスのイオンの枯渇をどうにかする方法が見つかるんじゃないかと思ってな」

「どうしたらいいかは知ってるでしょ」

「まあ、結局は的外れだった。中にいると頭がまともに働かないんだ」

 クラークはわざわざ議論をしようとはしなかった。

「ごめんよ」しばらくしてアクトンが言った。

 クラークは背中を撫でてやる。二枚のプラスチックが擦れ合っているみたいだった。

「説明が見つかった、と思う。興味があるんだったら……」

「聞かせて」だが、聞いたところで何も変わらないのはわかっていた。

「脳の中に運動を制御する区画があるのはわかるな?」

「うん」

「もしきみが、そうだな、コンサートピアニストになったとしよう。指を動かす部分は確実に拡大するだろうし、区画を広げて運指制御の需要の増加を満たそうとするはずだ。だが同時に失われるものもある。隣接した区画が追いやられてしまうんだ。すると爪先を細かく動かしたり舌を回したりするのが、ピアノの練習を始める前より下手になるかもしれない」

 アクトンは黙り込んだ。クラークは背中から両腕でゆるく抱かれるのを感じる。

「それと似たようなことが、俺にも起こったんだと思う」少ししてアクトンが言う。

「どういうこと?」

「脳内の何かが鍛えられて拡大して、別の部分を追いやったんだろう。でも拡大した部分が働くのは高圧環境にいるときだけだ。神経の発火を加速するのは圧力だからな。だから中に戻ると新しい部分はシャットダウンするけど、古い部分は――そう、失われたままなんだよ」

 クラークは首を振り、

「この話は前にもしたでしょ、カール。シナプスのカルシウムが欠乏しただけだよ」

「それだけじゃないんだ。今さらカルシウムなんて問題でもなんでもない。俺は抑制剤を増やしてる。すっかり元通りってわけじゃないが、充分なくらいに。だが新しい部分は残ったままで、俺は古い部分を見つけられずにいる」

 クラークの頭の上に顎が載せられる。

「俺はもう厳密には人間じゃないんだと思う。俺がどんな人間だったかを考えると、むしろこれでよかったのかもな」

「それで具体的には何をするの、その新しい部分は」

 アクトンは間を置いて答えた。

「追加の感覚器官を得る感じかな。ただし……拡散してる。直観だよ、それもかなり鋭い」

「拡散、鋭い」

「ああ、そんなところだ。鼻のない人に匂いを説明するのは難しい」

「もしかしたら、あなたが考えてるようなものじゃないのかも。つまりね、何かが変わったのは確かでしょうけど、あなたが本当に――人の心を覗き込めるようになったとは限らない。ただの気分障害か何かかもしれない。それか幻覚とか。わかりっこないもの」

「わかるんだよ、レン」

「だったらあなたの言う通り」

 怒りが内なる貯蔵槽から込み上がってくる。

「あなたはもう人間じゃない。人間未満よ」

「レニー――」

「人間は信じ合わなきゃいけないんだよ、カール。確実にわかってることを信じるのは簡単でしょ。私はあなたに信じてほしいの」

「わかってほしいんじゃなくてか」

 クラークは合成音声から悲しみを聴き取ろうと耳を澄ます。ビービの中にいたら伝わってきたはずだ。だが、ビービの中にいるアクトンはこんなことを言わない。

「カール――」

「俺は戻れない」

「外のあなたはあなたじゃない」

 クラークは身体を押しのけて回転した。相手のシルエットがかろうじて見分けられる。

「きみは俺に」

 言葉からはヴォコーダ越しにも困惑が伝わったが、質問ではないこともわかった。

「憎んでほしいんだな」

「莫迦なこと言わないで。ろくでなしにはもううんざり。でもねカール、こんなのはチープなトリックか何かにすぎない。手品小屋の外に出れば、あなたはミスタ・ナイスガイ。小屋の中に入れば、シータックの絞殺魔。本物でもなんでもないの」

「どうしてきみにわかる?」

 クラークは距離を取り、唐突に答えを知った。痛みこそが本物だ。ゆっくりと、痛みを伴いながら、絶叫と恫喝と殴打が一歩、また一歩と足跡を刻むものこそが本物だ。

 レニー・クラークが変えることのできるアクトン、それこそが本物だ。

 もちろんどの答えも伝えなかった。それでも背を向けてアクトンを置き去りにしながらクラークは怯えていた。伝える必要もないことに。

 一瞬で眠りから目醒めた。一分の隙もなく神経が張りつめる。暗闇があった――照明は切られ、壁面の表示さえ消えている。だが、それは勝手知ったる自室の闇だった。何かが外殻を一定間隔で執拗に叩いている。

 外から。

 通廊に出るとリフターの目には充分な光があふれていた。ナカタとカラコがラウンジでじっと立っている。ブランダーはライブラリの前に座っていた。画面は暗く、ヘッドセットは全てフックにかかっている。

 音がコツコツとラウンジに響く。さっきよりも小さいが、聞き取るのは容易だった。

「ルービンは?」

 小声で訊くと、ナカタが外殻の方へ首を傾げる。外のどこかでしょ。

 クラークは梯子を下り、エアロックに入った。

「行っちゃったのかと思ってた。フィッシャーみたいに」

 ふたりはビービと海底の間に浮かんでいる。クラークが手を差し伸べると、アクトンも手を伸ばす。

「どれくらいになる?」言葉は金属質のため息となって出てきた。

「六日。七日かも。先延ばしにしてるの。代員を呼ぶのを」

 アクトンの反応はない。

「時々ソナーに映ってた。しばらくの間はね。それからあなたは姿を消した」

 沈黙。数秒後、クラークは尋ねた。

「迷ったの?」

「ああ」

「でも戻ってきた」

「そうじゃない」

「カール――」

「約束してほしいことがあるんだ、レニー」

「え?」

「俺のしたことをすると約束してくれ。他の奴らもだ。きみが話せば聞くはずだから」

「私には無理だって――」

「五パーセントだ、レニー。一〇でもいけるかもしれん。それくらい低ければきみらは大丈夫だ。約束してくれ」

「カール、どうして」

「俺は何も間違っちゃいなかったからだ。いずれは上もきみらを排除しなければならなくなるし、きみらにはありったけの武器が必要だからだ」

「中に来て。中で話しましょう。みんないるから」

「外ではおかしなことが起きてるぜ、レン。ソナーの範囲の外であいつらは――何をしてるのやら。教えてくれないからな……」

「中に来て、カール」

 アクトンは首を振る。身振りに慣れていないかのようだった。

「――無理だ――」

「だったら私に期待なんて――」

「ライブラリにファイルがある。説明が。中にいたときにできるだけ残しておいた。約束してくれ、レン」

「いいえ。あなたが約束して。中に来て。私たちならなんとかできるって約束して」

「大部分が殺されちまった」

 アクトンがため息をつく。

「やりすぎた。何かが燃え尽きて、もう外にいたって完全じゃない。だがきみらは大丈夫だ。五パーセントか一〇パーセント、それ以上はだめだ」

「あなたが必要なの」クラークはそっと呟く。

「いいや。きみが必要としているのはカール・アクトンだ」

「どういう意味?」

「きみはあいつがしてくれたことを必要としているんだ」

 そのときクラークから熱が消え失せ、ゆっくりと凍てつく沸騰が残った。

「カール、一体全体なんなのこれは。精霊に導かれて泥の中を歩いてたら叡智を授かったとでも? 私より私をわかってるって言うの?」

「なあ――」

「わからないからでしょうが。私のことをちっともわかってないし、わかってたこともない。あなたには真実を知る度胸だってない。だから暗闇に逃げ込んで、帰ってきたかと思えばこうやって偉そうに莫迦話をまくしたててるのよ」

 挑発にアクトンはなんの反応も見せない。激怒してくれた方がずっとましだ。

「シャドウの名前で保存してある」

 クラークは無言で相手を睨んだ。アクトンが続ける。

「ファイルだ」

「どうしちゃったの?」

 クラークはアクトンを殴っていた。力の限り激しく殴っているのに、アクトンは反撃どころか身を守ろうともしない。このクズ、どうしてやり返してこないの、けりをつけないの、私をぼこぼこにすればふたりで罪悪感に包まれて、二度としないって誓い合って――

 だが、もう怒りさえ消えていた。殴った慣性でふたりは離れてゆく。クラークは繋留索に掴まった。索にまとわりついていたヒトデが、手探りで伸ばした腕の先端でふれてきた。

 アクトンは漂い続けている。

「ここにいてよ」

 アクトンは静止し、答えることなくその場に浮かんだ。昏く、灰色で、遠い。

 外にいるとできないことばかりだ。泣くことも目を閉じることも叶わない。だからクラークはじっと海底を見つめ、闇の中に伸びる自分の影を眺める。

「どうしてこんなことするの?」

 クラークは尋ねる。疲れ切っていた。自分は何を問いただそうとしたのだろう。

 アクトンの影がクラークの影をよぎる。機械の声が答えた。

「誰かを本当に愛しているときは、こうするんだよ」

 顔を上げた瞬間、アクトンの姿が消えた。

 ビービは静まり返っていた。自分の足がデッキを打つ湿った音だけが響く。ラウンジに上がると誰もいなかった。個室へ続く通廊の方へ踏み出し、

 立ち止まった。

 通信室で明滅するアイコンが〈喉〉に向かって漸進していた。画面は視覚効果のために誇張されている。現実のアクトンは黒く、反射せず、クラーク同様に光を放たない。

 止めるべきだろうか。力では敵わないが、ひょっとしたら、適切な言葉を思いつかなかっただけかもしれない。それさえ閃いたらアクトンを呼び戻すことが、言葉ひとつで帰還させることができるかもしれない。もう犠牲者じゃないと、アクトンはかつてそう言った。代わりにクラークはセイレーンになったのだとしたら。

 言うべき言葉が、ひとつも出てこない。

 もうすぐ〈喉〉に到着する。アクトンが巨大な青銅の柱の間を泳ぎ、その航跡にバクテリアの星雲が渦巻くのが目に浮かぶ。想像の中のアクトンは顔を下に向け、飢えた目で容赦なく海底をスキャンし、〈大通り〉の北端目がけて進んでいく。

 画面を切った。

 見る必要はない。何が起きているかはわかっていたし、事が済んだら機械が知らせてくれるだろう。やってみたところで停止することはできない。ごみになるまで壊さない限りは。本当はそうしてやりたかった。それでも自分を抑えていた。石のように押し黙ったまま、レニー・クラークは指令室で空白の画面を見つめ、警報を待った。


ネクトン


ドライバック

ジャンプスタート

 男は海を夢に見ていた。

 夢に見るのはいつも海だ。男は夢に見る。ぼろぼろな網の中の魚の死骸の臭気を、スティーヴストン港の沖で虹色に輝くガソリン溜まりを、海岸線の間近だったため保険がかろうじて適用された家を。男は夢に見る。海岸が何がしかを意味し、フレーザー川の血潮がジョージア海峡へ流れ込む泥褐色の一帯でさえあった時代を。そばで自分を見下ろす母が笑顔を輝かせながら言う。貴重な環境資源よ、イヴ。渡り鳥が憩う集結地。全世界のためのフィルタ。ちっちゃなイヴ・スカンロンは笑みを返し、たくさんの友達の中で――実際には友達なんかじゃなかったが、今ならあいつらも友達になりたがるかもしれない――自分だけが自然をじかに味わって成長するであろうことを、新しい裏庭で、高潮線の一・五メートル上で誇らしく思った。

 そこでいつものように現実世界が扉を蹴破り、微笑む母を感電死させた。

 時には不可避の結末を先送りすることもできる。時には枕許の夢想機から伝わってくる衝撃に抗い、引き戻されるのをほんの数秒遅らせることもできた。その瞬間、三〇年分のイメージがでたらめに心に浮かぶ。崩壊する森林、広がる砂漠、かつてないほど深々と不毛の海へ指を伸ばす紫外線。海岸線にじわじわと忍び寄る大海。難民の不法居住キャンプと化した貴重な環境資源。潮間帯と化した難民キャンプ。

 かくしてイヴ・スカンロンは覚醒する。汗にまみれ、歯を食いしばり、ジャンプスタートさせられて。

 なんてこった。戻ってきてしまった。

 現実の世界に。

 三時間半。たったの三時間半……。

 それだけしか夢想機は与えてくれない。四段階ある睡眠に各一〇分間。レム睡眠には夢幻状態の非圧縮性を考慮して三〇分。計七〇分の一サイクルが一晩に三回繰り返される。

 フリーランスになればいい。みんなそうしてるじゃないか。

 フリーランスは自分の時間を選ぶ。ごくわずかながら今も存在する従業員は時間を他人に選ばせる。スカンロンは従業員だ。利点を再確認しては自らに言い聞かせるのが、癖になっていた。六ヵ月ごとに新しい契約を求めて悪戦苦闘しなくていい。まがりなりにも安定している。力を発揮すれば。力を発揮し続けていさえすれば。それすなわち、イヴ・スカンロンには人間という種に最適な夜間九時間半の睡眠を取る余裕がないことを意味する。

 安全保障としての隷属状態も利点と言える。自身が取った選択を恨まない日はない。いつの日か、他の選択肢を忌避したこと以上に、その選択を恨みさえするかもしれない。

「優先度の高い案件が一七件あります」

 スカンロンが床に足を下ろすと、作業端末が言った。

「放送番組が四件、ネットが一二件、電話が一件。放送および電話案件は清浄。ネット案件は入力時に除染済み、暗号化されたバグが侵入した確率は四〇パーセントです」

「除染効率を上げろ」

「その場合いかなる暗号バグであれ破壊できますが、最大五パーセントの正規データをも破壊してしまう恐れがあります。危険なファイルを廃棄するだけでよろしいかと」

「除染しろ。中等度リストはどうだ」

「八六三件です。放送が三二七件――」

「全て廃棄だ」スカンロンは浴室へ向かい、足を止めた。「待て。電話を再生しろ」

「パトリシア・ローワンです」

 冷たく歯切れのいい声で作業端末が言った。

「深海の地熱発電計画に人事問題が起きている可能性がある。意見を聞かせて。そちらからの折り返し電話は直通にしておきます」

 信じられない。ローワンは西海岸の主席コープスのひとりだ。GAに雇われて以来、面識はないも同然だった。

「その電話の優先度は」

「重大ですが、緊急ではありません」と端末。

 まず朝食を摂って、メールに目を通したっていい。全てを擲って訓練されたアシカのように素早くジャンプしろと迫るこの反射作用を、ひとつ残らず無視してしまっても構わない。相手は自分を必要としているのだから。ようやくだ。まったく、遅すぎるくらいだ。

「シャワーを浴びる」ためらいつつも開き直って命じる。「私が出るまで邪魔をするな」

 自らの反射作用はしかし、この選択を少しも気に入っていなかった。

「――解離性同一性障害の患者を『治療』するのはその実、連続殺人に等しい。この問題は今なお物議を醸しているが、議論のきっかけとなった研究結果によれば、人間の脳は完全な意識を備えた人格を最大一四〇人、重篤な感覚障害および運動障害を伴わずに格納できる可能性がある。裁判所はまた、交代人格を任意で再統合するよう推奨する行為を――重ねて言うとこれは伝統的な治療行為である――自殺幇助として再定義すべきか否かを検討する予定だ。認知と法律の関連で次の資料と相互リンクあり」

 作業端末が沈黙した。

 ローワンが私に会いたがっている。GAの北西部フランチャイズの統括責任者が。私に。

 考えていると不意に静寂が訪れた。端末の話が止まっていたことに気づいて言う。

「次」

「原理主義者、スマートゲルの破壊に関する殺人罪で無罪判決。関連タグは――」

 だが、いつか一緒に仕事をすることになるでしょうと言っていたではないか。そもそもそういう契約だったはずだ。

「――AI、認知、法律」

 そうだ。確かにそう言っていた。一〇年前に。

「あー、要約を、専門用語抜きで」

「被害者のスマートゲルは、人工知能に関する公開展示の一環でオンタリオ科学センターへ一時的に貸与されていた。被告は犯行を認めており、ニューロン培養物は」

 作業端末が声色を変え、印象的な発言を巧みに挿入する。

「人間の魂を冒涜している、と供述している。ラトガーズ大学からオンライン出廷したスマートゲルを含む弁護側鑑定人は、ニューロン培養物は痛みや恐怖、自己保存の欲求を感じるのに欠かせない原始的中脳構造を欠いていると証言した。弁護側の主張は、『権利』なる概念は不当な苦しみから個人を保護することを目的としている、というものだった。スマートゲルには身体的にしろ精神的にしろいかなる苦痛であれ感じる能力がないのだから、自己認識の程度に関わらず保護される権利を持たない。弁護側は最終弁論でこの論拠を雄弁に要約した。『ゲルそれ自体は自己の生死に頓着していません。なぜ私たちがそれを気にかけなければならないのでしょうか』。判決は上訴中。AIとワールドニュースの関連で次の資料と相互リンクあり」

 スカンロンは一口分のアルブミン粉末を飲み込んだ。

「弁護側鑑定人をリストアップしろ、名前だけでいい」

「フィリップ・クアン。リリー・コズウォフスキ。デイヴィッド・チャイルズ――」

「もういい」

 リリー・コズウォフスキ。UCLA時代から知っている名前だ。鑑定人。クソッ、私も大学院でもう少し媚びを売っておくべきだったか。

 鼻を鳴らし、先を促す。

「ネット汚染率、一五パーセントの低下」

 リフターに問題があるとか言ってたが、どうだかな……。

「要約、専門用語抜きで」

「インターネット上のウイルス汚染は過去六ヵ月間で一五パーセント減少した。これは基幹通信網のクリティカルノードへのスマートゲル導入が進行していることに起因する。ゲルは各個体が独自かつ柔軟なシステム構造を有するため、デジタル感染症がスマートゲルを侵すのはほぼ不可能であるとわかった。これら最新の研究成果を踏まえ、専門家は近く電子メールの気軽な送信を安全に再開できるだろうと予測して――」

「あー、クソ。キャンセルだ」

 おいおい、イヴ。おまえさん、莫迦どもが自分の力を認めるのを何年も待ち望んでたろ。そのときが来たのかもしれんぜ。はりきりすぎてせっかくのチャンスをふいにするなよ。

「待機中です」と端末。

 もしあの女が待ってなどいなかったら。もしあの女がじれったくなって他の奴に声をかけていたら。もし――

「直近の電話にタグをつけて返信」朝食の残りかすを見つめながら接続の完了を待つ。

「管理部です」本物らしい声が言った。

「イヴ・スカンロンからパトリシア・ローワンへ」

「ローワン博士はご多忙です。博士のシミュレータがあなたの電話をお待ちしておりました。この会話は品質管理のために記録されています」

 カチッと音がし、別の本物らしい声が言った。

「こんにちは、スカンロン博士」

 懐かしき主人の声。

マックレイカー

 それは轟音と共に深海平原の丘を上っていた。エコーが検出されたのは五〇〇メートル先、ビービの公式ソナー範囲の外だ。移動速度は秒速一〇メートルほどで、潜水艦としては突出していないが、この物体は海底に接近しすぎており、接地して走っているとしか思えない。六〇〇メートル先で物体は小規模な拡大型の境界を越え、回転して停止した。

「あれは何?」とレニー・クラーク。

 アリス・ナカタがフォーカスを調節する。不明機はのろのろと動きを再開していた。海嶺に沿って秒速一メートルにも満たない速度でじりじり進んでいる。

「お食事中みたい。多金属硫化物、かな」

 クラークは思案し、

「調べたいね」

「だね。GAに知らせようか」

「どうして」

「あれはきっと外国人だよ。合法じゃないかも」

 クラークはナカタを見た。ナカタが言う。

「領海侵犯には罰金が課される」

「アリスったら」かぶりを振る。「誰も気にしやしないって」

 ルービンはソナーに映っていない。海底かどこかで眠っているのだろう。伝言を残しておいた。ブランダーとカラコは外で六号機のベアリングを交換中だった。直前のシフトに軽い地震でケーシングに罅が入り、二〇〇〇キログラムの泥砂が内部に詰まってしまったのだ。それでも他の発電機が不足を補って余りある。ふたりは〈イカ〉を手にパレードに加わった。

「ライトを切った方がいいね」

〈喉〉を出発するとナカタが言った。

「それから海底のすぐ近くにいた方が。あれ、怖がりかもしれないし」

 全員でその姿勢に倣ってライトを残り火ほどにも小さくし、もう少しでリフターの目にも見通せない暗闇を進む。カラコがクラークの横に並んで言った。

「この後、青空の彼方まで行こうと思ってるんだけど。一緒にどう?」

 間接的な嫌悪感がぞくぞくと胸をくすぐる。もちろん発信源はナカタだ。ビービのトランスポンダライン伝いに浮上するカラコの日課に、ナカタは二週間ほど前まではつき合っていた。深海音波散乱層の上で何かあったらしく、危険こそなかったようだが、そのせいでアリスは海面に近づくと考えただけで強い悪寒を覚えるようになってしまった。以来カラコは他の面々につき添いをせがんでいる。

 クラークは首を振って言う。

「六号機からたらふく啜ったんだから、運動は充分でしょ」

 カラコが肩をすくめる。

「使う筋肉が違うから」

「今はどれくらい上まで行くの?」

「最長で一〇〇〇メートル。もう一〇シフトくれたら海面まで往復できる」

 周囲の音が徐々に高まってゆく。ゆっくりすぎて、いつ音に気づいたのか特定できないくらいだ。ゴロゴロと唸る機械的なノイズが、巨大な臼歯が岩をすり潰す音が遠くに聞こえる。

 揺らめくような緊張感が四人の間を行き交う。クラークは感情を押し殺そうとする。クラークも他の三人も、何が待ち受けているのかは承知している。シフトに出るたび遭遇する危険には遠く及ばない。ちっとも危なくなんかない――

 ――相手が未知の防衛手段を持ってでもいない限り――

 しかしあの音、ソナーに映った物体の大きさそのものに、私たちは怯えている。恐れるに足りないとわかっているのに、闇の中には歯ぎしりだけが響いていて……。

 自前の本能的な不安に向き合うだけでうんざりする。他の人に同調しても役には立たない。

 まず、ブランダーからかすかな驚きの波が届いた。次いでナカタからも届き、一瞬後にはクラーク自身もゆるやかな乱流に叩かれた。あらかじめ警告を受け取ったカラコは、プルームが押し寄せてきてもほとんど何も放射しなかった。

 闇が部分的に濃くなり、水そのものが粘性を帯びる。半ば泥、半ば海水の流れの中、全員が姿勢を保つ。

「排水の波だ」

 ブランダーが声を震わせる。採掘機械の音越しにも届くよう少し声を張り上げていた。

 四人は方向転換して流れを上流へと辿り、視覚よりも触覚を頼りにプルームの境界線上を進む。周囲を包む唸りが本格的な不協和音へと膨れ上がり、十数の異なる音に分かれていく。杭打機、くぐもった爆発音、セメントミキサーの作動音。海中の騒音に、あるいは四つの心の中で高まる不安にあてられて思考もままならずにいたクラークの目の前に、それは突然現れた。垣間見えた巨大な分割式トレッドは高さ二階分の歯車をよじ登り、闇の中を転がっていた。

「おいおい。莫迦でかいぞ」ヴォコーダの音量を上げてブランダーが言う。

 四人で固まって動き、〈イカ〉を掲げて一定角度で巡航する。クラークは三人分の副腎が分泌するスリルを味わい、自身の感情を加えて送り返す。追体験のフィードバックループだ。灯りを最小限に絞っているため視界は三メートルも効かない。目の前でさえ世界はせいぜい影また影、左右に振られるヘッドライトでわずかに照らされているにすぎない。

 眼下を滑るトレッドの上面は、継ぎ目がある幅数メートルの動く道路だった。続いて乱脈を極める金属の平原がさっと見えたかと思うと、またすぐにフェードアウトしていく。排水口、ソナードーム、流量計ダクト。轟音は船体の中心方向へ向かうと少し薄れた。

 突起の大部分はなめらかに均され、流体力学に適った涙滴形になっている。それでも近くに寄ると手掛かりには事欠かなかった。まずカラコのか細いヘッドライトが機体に取りついた。その頭上を〈イカ〉が並走する。クラークは〈イカ〉の尻を叩き、船殻上の三人に加わった。今のところはこちらの存在に対する明確な反応はない。

 四人は身を寄せ、騒音の中で顔を近づけて会話する。

「どこから来たんだろうな」とブランダー。

「たぶん韓国。船籍表示は見えなかったけど、船体を全部調べるのは手間でしょうね」

 とナカタが応じる。カラコが続けて、

「どうせ何も見つからないって。危険を冒して他国の領土にここまで潜入しておいて、返送用の宛名を残しておくほど莫迦じゃないでしょ」

 轟音を上げる鋼鉄のランドスケープが四人を乗せて進む。数メートル上方にぼんやりと見える乗り手のいない〈イカ〉たちが辛抱強く後についてくる。

「私たちがここにいるって気づいてるのかな」

 とクラークが言うと、ナカタは首を振り、

「海底から大量の屑が舞い上がるから、近くに寄るものは無視してるんだよ。でも強い光は怖がるかもしれない。不法侵入してるところだし。光と露見を関連付けてるかも」

「なるほどね」

 とブランダーが一瞬手を放し、数メートル後ろへ漂って別の手掛かりを掴む。

「おいジュディ、探検に行かないか?」

 カラコのヴォコーダがノイズを発する。クラークは心でその笑い声を感じ取る。カラコとブランダーは黒いグレムリンのように暗闇に跳び込んでゆく。

「動きがすごく速かったよね」

 とナカタが言う。いつのまにか染みのように小さく自信なげな不安感を放射していたが、その不安を押して話していた。

「最初ソナーに映ったとき。速すぎるくらいだった。あれじゃ危ないよね」

「危ない、って」クラークは眉をひそめる。「これは機械でしょ。中には誰もいない」

 ナカタは首を横に振り、

「複雑な地形用の機械にしては速すぎる。人間ならできるでしょうけど」

「もう、アリス。これはロボットなんだってば。それにもし誰か中にいたら、私たちはそれを感じてるはずだよね。四人以外に誰かいる?」

 ナカタはファインチューニングとなると他のメンバーよりやや敏感なところがある。

「いない、と思う」

 アリスはそう言ったが、クラークには疑念を感じ取れた。

「でも、大きい機械だよ、レニー。パイロットと距離があるだけかも――」

 ブランダーとカラコが何やら企んでいる。ふたりとも視界の外だった――〈イカ〉も距離を保ったまま放置されている――が、高まる期待をたやすく感知できるくらいには近い。クラークはナカタと視線を交わす。

「何をする気か確かめた方がいいみたい」

 ふたりでマックレイカーを渡ってゆく。

 やがて前方にブランダーとカラコの姿が見えてきた。ふたりは幅およそ三〇センチの金属のドームを挟んで屈んでいる。暗色の魚眼レンズが数個、その表面から外界を見つめる。

「カメラかな」とクラーク。

「違う」とカラコ。

「光電セルだ」とブランダー。

 クラークはオチが見えてどきりとした。

「ちょっとまさか本気で――」

「光あれ!」

 ジュディ・カラコが叫んだ。光条がカラコとブランダーのヘッドランプからほとばしり、最大強度で魚眼レンズを照らす。

 マックレイカーが急停止した。クラークは慣性で前方に流れ、手掛かりを掴んでバランスを取り戻す。耳の中で予期せぬ静寂が鳴り響く。絶え間ないノイズの後だったから、耳が聞こえなくなったかのように感じた。

「ドウドウ」

 ブランダーの声が静寂に溶けていく。船殻越しにカチ、カチ、カチと音が鳴る。

 世界が揺れ、再び動き始める。周囲で回転するランドスケープに掻き回され、四人は絡み合う四肢の塊と化す。体勢を整えた頃には加速が始まっていた。マックレイカーがまたも轟音を上げるが、音の種類が違う。もう多金属鉱床をだらだら貪ってはおらず、最短経路でまっすぐ公海を目指している。その数秒間、クラークは必死でしがみついていた。

「いやっほう!」カラコが吠える。

「強い光を怖がるかもって?」ブランダーがどこか後ろから叫ぶ。「俺もそう思うぜ!」

 激しい感情が四方にあふれる。クラークは固く手を握り締め、どれが自分の感情か判別しようとする。原始的でめくるめく恐怖が混ざった歓喜は、ブランダーとカラコ。ナカタは意に反して興奮しているようだが、不安が多めだ。それからどこか深いところに埋もれているこの感覚は――判然としなかった。

 不機嫌。それとも不幸だろうか。

 どうもそぐわない。

 これは私の感情だろうか。しかしそれも違う気がする。

 まばゆい光がクラークの影を船体に縫い止め、すぐに消える。振り返るとブランダーがなぜか上の方にいた。水中に棚引くラインを掴んで前後に揺れており――誓ってもいいがさっきまであんなものはなかった――ヘッドランプの光条が発狂した灯台のように回転している。幾筋もの濁った水流がデッキの上を流れてゆく。水流の縁は教科書で見た乱流の図解そっくりの渦を巻いていた。

 カラコが船体を思い切り蹴って浮上する。そのシルエットが闇に消えたが、ヘッドランプがブランダーのヘッドランプのすぐ後ろで止まると揺れ始めた。クラークはナカタを見た。まだ船体に張りついている。ナカタの感情は既に少し落ち込んでいて、不安がさらに増し……。

「これは喜んでない!」ナカタが叫ぶ。

「ちょっと、何してんの、ジリスちゃんたち!」

 カラコの声がかすかに聞こえた。

「飛びなさい!」

 不機嫌。予期せぬ事態。

 あれは誰?

「来なって!」もう一度カラコが呼びかける。

 仕方ない。どうせこれ以上掴まってもいられない。手を放し、思い切り船体を蹴った。眼下をマックレイカーの上面が突き進んでゆく。重い水が身体から運動量を奪う。水を蹴って高度を稼ぐと、ふと背後から期待を感じ――次の瞬間、何かが背中にぶつかり、前方へ押し出された。インプラントが胸郭に押しつけられる。

「畜生!」ブランダーの声が耳に届く。「掴まれ、レニー!」

 すれ違いざまにブランダーがキャッチしてくれたのだ。クラークは手を伸ばし、ブランダーとカラコが取りついているラインを握る。太さはほんの指ほど、妙にすべすべしていて掴みにくい。後ろを見るとふたりはラインを胸と腋に巻きつけて両手をいくらか自由にしていた。抗力で弓なりになりつつ工夫を真似るとする。カラコはナカタに大声で呼びかけている。

 ナカタは離れたがっていない。姿は見えなくとも三人にはそれがわかった。ブランダーが前後に角度をつけ、舵を切るように身体をタッキングする。三人はかろうじて制御された大きな弧を描き、テザーの中央に結びつけられた。

「来い、アリス! 人間凧に加われ! こっちで捕まえてやるから!」

 ようやくナカタが動き出した。動き出したのだが、自分なりの方法でやっていた。流れに逆らって次々と手掛かりを掴みながら横方向に進み、ラインとデッキの連結部を見つけると、抗力で背中を押されながら三人の方へとラインを上ってくる。

 クラークは苦心の末に身体を輪の中に固定した。速度がラインを身体に食い込ませる。既に痛いくらいだった。人間凧なんて気分ではない。むしろ針にかかった餌だ。身をよじってブランダーの方を向き、ラインを指さす。

「なんなの、これ」

「超長波アンテナだ。脅かしたときにほどけた。助けを求めて叫んでるんだろ」

「助けなんかこないし、意味ないんじゃないの」

「海のこっち側ではそうかもな。きっと持ち主が事態を把握できるよう最後の電話をかけてるんだろう。自殺者の遺書みたいなもんだ」

 少し後ろの方で絡まるカラコがそれを聞いて身体をひねる。

「自殺ぅ? まさかこいつが自爆するとか言わないよね」

 ぱっと懸念が人間凧に広がった。アリス・ナカタが転がり込んできたのだ。

「放っておいた方がいいのかもね」

 とクラークは言う。ナカタは決然と頷き、

「喜んでいないもの」

 動揺が警告灯のように三人へ放射される。

 少しして四人はアンテナから身をほどいた。アンテナが勢いよく通り過ぎ、パイロンに似た小さな浮きが引きずられてゆく。クラークはくるりと回転し、水でブレーキをかける。機械の轟音は薄れて唸り声に変わり、やがてただの振動になった。

 リフターたちは何もない水中に浮かんでいた。静寂が辺りを包む。

 カラコが真下にソナー銃を照準して撃った。

「うえっ、海底から三〇メートル近く離れてる」

「〈イカ〉を失くしちまったかな。えらい移動したもんだな」とブランダー。

 カラコが銃を掲げ、さらに数回計測する。

「見つけた。そんなに離れてないよ――おっと」

「どうした」

「五体いる。どんどん近づいてきてる」

「ケンか」

「でしょうね」

「まあいい。なんにせよ泳がなくて済む」

「誰か――」

 三人は振り返った。アリス・ナカタがもう一度言う。

「誰かあれを感じた?」

「何を感じたって」

 とブランダーは切り出したが、クラークは頷いていた。

「ジュディはどう」とナカタ。

 カラコは不本意な印象を放射する。

「そう、だね。なんかいた、ような。曖昧だったけど。あなたたちかと思ったから」

「おいおい。あのマックレイカーだってのか。俺はてっきり――」

 黒い暗号が四人の胸中に現れた。〈イカ〉が直下の海底から低速ミサイルのように迫ってくる。解放された〈イカ〉は乗り手の頭上で静止した。数メートル下では四機の〈イカ〉が機首を上に向け、落ち着きなく揺れながら位置を維持していた。

「落とし物だ」とルービン。

「ありがとよ」とブランダー。

 クラークは集中し、ルービンに波長を合わせようとする。もちろん形だけだ。ルービンは四人にとって闇だった。闇に包まれているのは今に始まったことではないが、ファインチューニングはルービンを微塵も変えなかった。理由は誰にもわからない。

「で、何があったんだ。伝言によればマックレイカーがどうとかって話だったが」

「逃げてった」とカラコ。

「喜んでなかった」とナカタが繰り返す。

「ほう」

「アリスはあれの感情を感じたって。レニーと私も、多少ね」

「マックレイカーは無人化されてる」

「人間じゃないの。人じゃない。でも――」

 ナカタの声はか細く消えていく。

「感じた」とクラーク。「あれは生きていた」

 また独りになったクラークは寝台に横たわっていた。本当に独りぼっちだ。それほど昔ではない、この手の孤立に耽溺していた頃を思い出す。レニー・クラークが感情に恋焦がれるようになるなんて、誰も思わなかっただろう。

 たとえそれが他人の感情であったとしても。

 だが、それが現実だ。ビービに入ると必ず、何か大切なものがうろ覚えの夢のように剥がれ落ちる。エアロックが水を吐き出して身体が再膨張すると、意識は平板になり、ぼんやりと曇る。そして他者は唐突に消え失せる。おかしな話だ。これまでずっとそうしてきたように姿を目にし声を聞けるというのに、相手が動かず、自分も目を閉じていると、相手がここにいることがわからなくなってしまう。

 今そばにいるのは自分自身だけだった。基地の中で処理されている信号のセットはひとつしかない。ジャミングしてくるものは皆無だ。

 クソッ。

 盲目になるか裸になるか、それが選択肢だった。その選択にクラークは殺されかけた。自己責任だ。私は自ら望んだんだ。自業自得だ。

 そう、自業自得だ。何もかも今まで通りにしておけば、誰かに見つかる前にファイルを黙って削除しておけばそれで済んだ。だが借りがあった。〈外なる怪物〉の亡霊に。呶鳴らず、責めず、暴力を振るいもせず、これ以上クラークを傷つけられない場所へと〈内なる怪物〉を退けた存在に。クラークの一部はそのことで今なおアクトンを憎んでいる。しかし、そんな条件反射が主導権を握る病的な心の奥底にあっても、アクトンは自分のためにそうしてくれたのだと思っていた。否が応でも、クラークはアクトンに借りがある。

 だから借りを完済することにした。四人を中に招いてファイルを再生した。別れ際に聞いた言葉を伝え、アクトンからの贈り物を無視してほしいと切望していながら、無下にしろと求めはしなかった。頼めばおそらく聞き入れてくれただろう。だが、ひとりまたひとりと、四人は自らを切り裂いて変更を加えていった。マイク・ブランダーは好奇心から。ジュディ・カラコは懐疑から。アリス・ナカタは取り残されるのを恐れて。ケン・ルービンは当人が明かさない理由のためにうまくいかなかった。

 瞼を固く閉じ、一夜にして変貌したルールを思う。身嗜みへの配慮は突如として意味を失った。虚ろな目と忍者マスクは皮相な見せかけでしかなく、鎧の役目を果たさなくなった。何を感じているの、レニー・クラーク? 退屈、欲情、それとも動揺? その目が不透明な角膜の奥に隠れていたって、見分けるのはとっても簡単。あなたは怯えているのかもしれないし、スキンの中で失禁しているのかもしれない。みんながそれを見抜いちゃう。

 どうして教えたの? どうして教えたの? どうして教えちゃったの?

 外で三人の変化を目の当たりにした。三人はクラークの周囲を無言で動き回り、ひとりが別のひとりとなめらかに心を通わせ、手を貸したり装置を手渡したりした。クラークが何かを必要としたとき、それは口を開きもしないうちに手許に届いた。三人からこちらに用があるときは声に出して頼まなければならず、その振りつけはぎこちないものになった。舞踊団に形だけ在籍する身体障害者にでもなったような気分だった。自分がどれだけ見透かされているのか気になりながらも、訊くことを恐れてもいた。

 中にいるときは訊いてみる気にもなった。中の方が安心できるからだ。三人を結びつけていた糸は空気にふれるとばらばらにほどけ、関係は対等に戻る。ブランダーは他者の存在を感じる意識が高まったと語った。カラコはボディランゲージを引き合いに出し、アイキャップを補うようなもんよ、と言った。それならクラークも安心するだろうと思っているようだった。

 最後にアリス・ナカタがそっけないと言ってもいい調子でこう評した。他人の感情は……気晴らしになるのだと。

 今ではクラークも調整を施してしばらくになる。思ったより悪くはない。テレパシーめいた正確無比な洞察力もなければ、不意の暴露もない。むしろ幻肢から届く感覚に近い。背中に尻尾を感じられそうな、遠い祖先の記憶みたいなものだ。今ならナカタの言葉は正しかったとわかる。外にいると他人の感情が心の中に滴り、覆い隠し、希釈してくれるのだ。自分自身の感情があることを忘れてしまうときすらある。

 各人の心には邪気、苦悶、怒りといったお馴染みの核もあった。意外でもなんでもない。話題に上りもしない。全員の手に五本ずつ指がある事実について話し合う方がましだ。

 ブランダーはライブラリで忙しくしている。ナカタが通信室で電話をしているのが聞こえてくる。ブランダーがクラークに言う。

「これによると、スマートゲルのマックレイカーへの導入はもう始まってる」

「へえ」

「大昔のファイルだ。GAがもうちょい頻繁にダウンロードしてくれりゃいいんだがな、感染の有無はさておいてさ。なんせ俺たちは人の手も借りずに西洋世界を灯火管制の危機から守ってるんだし、そこまで面倒でも――」

「ゲルの話じゃなかったの」

「おっと、そうだった。ま、昔からあの手の機械にはニューラルネットが必要とされてきたんだ。かなり険しい地形をうろつき回るからな。二台のマックレイカーがアリューシャン海溝に取っ捕まったって話は聞いたことあるだろ。ともかく、一般的に言って複雑な環境のナビゲーションには何かしらのネットが必要になる。普通はガリウム砒素ベースだが、それでも空間認識に関しちゃ人間には遠く及ばない。海山やら何やらを判別するってなると、今でものろのろ進むしかない。だからスマートゲルに置き換え始めたわけだ」

「ふうん。アリスがね、機械にしては動きが速すぎるって言ってた」

「確かに。でだ、スマートゲルは本物のニューロンでできてる。だから俺たちがお互いに同調するのと同じ具合に、あれとも同調するんじゃねえかな。少なくともおまえらが感じたものから判断すればな……喜んでないってアリスは言ってたっけ」

「喜んでなかった」

 とクラークは顔をしかめ、

「不幸でもなかった。もっと言うと喜怒哀楽とも違って、その……びっくりした、って感じかな。逸脱の感覚というか。予期していた事態からの」

「はっ、俺もそれはしっかり感じたぜ。自分のかと思ったがね」

 ナカタが通信室から出てきた。

「カールの代員については何もなし。新入社員はまだ訓練中。人員削減だってさ」

 今や定番のジョークだ。GAの新入社員はダウン症根絶後の世界で最も物覚えの悪い人材に違いない。ほぼ四ヵ月が経つというのに、アクトンの代員はまだ姿を現さない。

 ブランダーが興味もなさそうに片手を振る。

「五人で充分」

 ライブラリをシャットダウンして伸びをし、

「ところでケンを見なかったか」

「外でしょ。用事でもあるの」とナカタ。

「次のシフトがあいつとなんだ。時間を決めなきゃならん。ここ二、三日あいつのリズムはちょいと不安定だから」

「どれくらい遠くに出てる?」とクラーク。

 ナカタが肩をすくめる。

「私がさっきチェックしたときは、一〇メートルくらいだった」

 つまりルービンは範囲内にいる。ファインチューニングには限界があった。例えば〈喉〉ほど離れた場所からビービにいる人間を感じることはできない。しかし一〇メートルとなると同調はたやすい。

「普段はもっと外にいるよね」

 クラークは盗み聞きを恐れるかのように呟き、

「ソナー範囲から外れそうなくらいでしょ、大抵は。あの妙な仕掛けを作ってて」

 なぜルービンと同調できないのかは不明だった。当人にとっても他の四人は闇に包まれているそうだ。一度、一ヵ月ほど前、ブランダーは核磁気共鳴検査を提案した。ルービンは、できればしたくない、と断った。声は充分感じのいいものだったが、その口調には含みがあった。以来ブランダーもその話題を持ち出していない。

 ブランダーがアイキャップをクラークに向け、半笑いを浮かべた。

「わからんなあ、レン。正面切ってあいつを嘘つき呼ばわりしたいのか?」

 クラークは答えない。

「あ、そうだ」

 と、気まずさが積もる前にナカタが口を開いた。

「他にも連絡があったんだった。代員が到着するまで人を寄越すって。業務の評価とか言ってた。あの医者、あの……ほら……」

「スカンロン」

 クラークはその名前を吐き捨てないよう気をつけた。ナカタが頷く。

「何しに来やがるんだ」

 ブランダーが呶鳴った。

「人手不足じゃ飽き足らず、スカンロンがまた俺たちで遊ぶ間じっと座ってろってのか」

「前とは違うって言ってた。仕事を観察するだけの予定みたい」

 ナカタは肩をすくめ、

「純粋なルーチンだってさ。面談もセッションもなんにもなし」

 カラコがふっと鼻を鳴らす。

「何よりだね。あのちんぽことまたセッションするくらいなら残りの肺を摘出する」

「『では、きみは訓練されたドーベルマンにたびたび獣姦されていて、ママが見物料を取っていたわけだ』」

 ブランダーがスカンロンの声を見事に模倣し、

「『それできみはどんな気持ちになった?』」

「『というより、むしろメカニックかな』」

 とカラコが調子を合わせる。

「あなたたちもこの台詞聞かされたでしょ」

「私にはいい人に見えたけど」ナカタがおずおずと言う。

「まあ、それが仕事だから。いい人に見せるのが」

 とカラコは顔をしかめ、

「超弩級の下手くそだけどね」

 クラークを見上げて、

「どう思う、レン」

「あの人は感情移入の手札を使いすぎだと思う」一拍置いてクラークは言った。

「そうじゃなくて、この件にどう対応するか」

 クラークは漠然と苛立ちを覚えながら肩をすくめ、

「私に訊かれても」

「俺の邪魔をしなきゃいい。デブでチビのウンコ野郎だ」

 ブランダーは虚ろな表情で天井を見上げる。

「そろそろあいつの代わりになるスマートゲルを設計できないもんかね?」

悲鳴

 公式記録/二〇五〇年八月二一日 二一時三二分

 今夜はビービに来て二日目の夜だ。対象者には私の前で行動を変えないようにと頼んでおいた。ここへ来たのは基地の通常業務を観察するためだからだ。要求が関係者全員に尊重されていることを謹んで報告したい。これは「観測者効果」を最小化できるという意味では喜ばしいのだが、リフターたちが確かなスケジュールを守っていないのを考えると厄介でもある。予定を立てるのが難しいからで、現に従業員のひとり、ケン・ルービンとは到着してから一度も会えていない。まあいい。時間はたっぷりある。

 リフターたちには引っ込み思案で打ち解けない傾向がある。門外漢なら陰気と評するかもしれない。とはいえ、その傾向はプロファイルと完全に合致する。基地そのものは、標準プロトコルをいくらか度外視したにも関わらず、よく管理されており順調に機能しているようだ。

 ビービ基地の灯りが落ちると、なんの音も聞こえてこない。

 イヴ・スカンロンは耳を澄ますことなく寝台に横たわる。外殻に浸透する妙な音はない。幽霊の甲高い悲泣が海底から届いてはいないし、ひゅうひゅうと唸る風の音も聞こえない。なぜなら深海で風が吹くなんてありえないからだ。おそらく想像の産物だろう。脳幹のトリック、幻聴だ。迷信深さなど欠片も持ち合わせていない。なにせ科学者なのだから。カール・アクトンの亡霊が海底で嘆き悲しむ声など、聞こえやしない。

 こうして意識を集中している今もなお、何も聞こえないと断言できる。

 死んだ男の個室で身動きが取れなくても一切気にならなかった。どうせ他に場所などありはしない。吸血鬼どもの誰かと同棲するつもりがあるわけでなし。それにアクトンの失踪は何ヵ月も前のことなのだから。

 録音を初めて聞いたときのことを思い出す。実に含蓄のある言葉だった。「アクトンを失いました。すみません」。それで電話は切れた。クラーク、冷たい女だ。クラークとアクトンには何かが起こりそうだな、と思ってはいた。プロファイルから判断すればふたりの相性はジグソーパズルのピースのようにぴったり嵌まるが、あんな電話一本で判断がつくわけもない。

 クラーク、なんだろうか。ルービンじゃなくて。クラークなのかもしれない。

「アクトンを失いました」。追悼はもうたくさんだ。アクトンの前はフィッシャー、その前はリンケのエヴェリット。エヴェリットの前はシン――

 挙げ句の果てにイヴ・スカンロンは同じ舞台に立たされている。同じ寝台で眠り、同じ空気を吸い、闇と静寂の中で時を数える。闇と――

 うわっ、なんだ、今のは……。

 静寂の中で。すっかり静まり返っている。外で嘆き悲しむ声などありはしない。

 まったく、一切、ない。

 公式記録/二〇五〇年八月二二日 九時四五分

 言うまでもなく我々は哺乳類だ。それゆえ周囲の光周期に合わせて較正される概日リズムを持っている。昔から知られていることだが、光周期を示す手掛かりが与えられずにいると生活リズムは長くなる傾向にあり、通常二七時間から三六時間の間で安定する。規則正しい二四時間の労働スケジュールを忠実に守るだけでもリズム長期化の防止には充分なため、深海基地で問題が発生するとは予想されていなかった。私は追加の措置としてビービの照明システムに通常の光周期を組み込むことを提案した。照明は毎晩二二時から翌朝七時までの間、ほんのりと暗くなるようプログラムされている。

 対象者たちはその手掛かりを無視すると決めているようだ。環境照明は『日中』でさえ私が提案した『夜間』レベルを下回る暗さで保たれている(アイキャップの常時装着を好んでもいるが、その理由は明白である。こうした振る舞いは予測になかったが、プロファイルとは一致する)。業務スケジュールはいささか柔軟性に富んでいるものの、これは各自の睡眠サイクルが相互に関連しながら推移していることを考えれば予想されてしかるべき事態だ。リフターたちは業務遂行時間に合わせて起きたりしない。たまたま同時刻に目醒めた者がふたり以上いたとき、業務を遂行する。時々ひとりで仕事をしている疑いもある。安全基準に反しているが、まだ確認は取れていない。

 さしあたり、こうした普通でない振る舞いは深刻なものではないように見受けられる。当該基地は人員が不足しているにも関わらず、必要な作業は計画通りに行われているようだ。しかしながら現状には問題が潜んでいる。二四時間の日周サイクルを厳密に遵守すれば効率はきっと改善するだろう。GAがサイクルの遵守を確実にしたいと望むのであれば、私からは対象者へのプロテオグリカン療法を提案させていただく。視床下部の再配線にも見込みはある。侵襲性は高まるが、覆ることはまずありえない。

 吸血鬼。格好のメタファーだ。奴らは光を避け、鏡を全て取り去った。これも問題の一部と言えるだろう。そもそも鏡の設置を提案したのには至極妥当な理由があったのだから。

 この個室を除いたビービの大部分はアイキャップをつけていない目には暗すぎる。吸血鬼どもはエネルギーの節約を試みているのだろうか。優先度は高い。一万一〇〇〇メガワット相当の発電設備のすぐ隣で暮らしていることを別にすれば。とはいえ連中は揃って四〇歳未満だから、きっと配給制電力のない世界など想像もつくまい。

 下らん。こちらには論理があり、あちらには吸血鬼の論理がある。ふたつを混同するな。

 ここ二日間、個室を出るたびに、薄暗い路地裏にこそこそ出ていくような気分を味わっていた。とうとう降参し、連中同様にキャップで目を覆うことにした。明るく見えるようにはなったが、とても蒼褪めている。色というものがほとんどない。まるで錐体細胞が目から吸い出されてしまったかのようだった。

 硬式潜水服を点検するスカンロンを、準備室の隔壁にもたれたクラークとカラコが白い目で観察している。イヴ・スカンロンは吸血鬼化する生体解剖を受けていない。とんでもない。こんな短期の視察には耐圧メッシュとアクリル樹脂で充分だ。

 ガントレットにふれる。ピンの頭サイズの環で編んだチェインメイルだ。微笑んで言う。

「大丈夫そうだな」

 吸血鬼たちはじっと見張るばかりだった。

 おいおい、スカンロン、おまえはメカニックだろ。こいつらだって他の人間とおんなじ機械だ。こいつらには一層の調整が必要ってだけ。おまえならやれるさ。

「素晴らしい技術だ」

 潜水服から指を離し、

「もちろん、きみたちが詰め込んでいるハードウェアには及ばないがね。自由自在に魚になれるってのはどんな気分なんだ?」

「湿ってる」

 とカラコが言い、間を置いてクラークに目を向ける。同意を確認しているのだろうか。

 クラークはじっと凝視し続けている。とにかく、そう思えるのは確かだ。見分けなんかつきやしない。

 力を抜け。おまえを動揺させようとしてるだけだ。よくある莫迦げた支配ゲームだ。

 だが、それだけではない。リフターたちは心の底ではスカンロンを嫌っているのだ。

 私がこいつらの正体を知っているからだ。それが理由だ。

 子どもをたくさん用意してください。どんな子どもでも構いません。いくつか塊が残るまでじっくりと掻き混ぜましょう。二、三〇年煮立て、ゆっくりぐらぐらと沸騰させます。本格的な精神病、統合失調感情障害、解離性人格障害の患者はすくい取って捨ててください(実を言うとフィッシャーは疑わしかった。さりとて人生のある時期にイマジナリフレンドを持たない人間などいるのだろうか)。

 冷まします。つけ合わせにドーパミンを添えてお出ししましょう。

 何が出来上がるのか。歪んでいるが壊れていないものだ。余人にとってはあまりにねじれた裂目にぴったり嵌まるものだ。

 吸血鬼だ。

「さて」スカンロンは沈黙を破った。「点検はばっちりだ。着るのが待ちきれないよ」

 返事は待たず――返事の欠如に身を曝すことなく――階上へ向かう。視界の端でクラークとカラコが視線を交わす。ごくさりげなく後ろをうかがってみたが、ふたりの顔に目を走らせた時点でいかなる笑顔も消えていた。

 好きにしたまえ、お嬢さんがた。今のうちに楽しんでおくといい。閑散としているラウンジを通り抜け、通廊へ入る。五年もすればおまえらは時代遅れだ。自分の個室――アクトンの個室――は、左の三番目。五年後にはおまえらの手を借りずとも全自動で運営できる。ハッチを開ける。まばゆい光があふれ、アイキャップが補正するまで数秒間目が眩む。中へ踏み込み、ハッチを勢いよく閉めてもたれかかる。

 クソッ。鍵もないとは。

 しばらくして寝台へ仰向けに寝転がり、ごちゃついた天井をじっと見上げた。

 結局のところ、待つべきだったのかもしれない。急かされるままにならず。そもそもの始まりから事に当たる時間を取って……。

 だが、時間がなかった。始業当初からの完全自動化を目指していた場合、計画の遅れは文明化された欲求が痺れを切らすほど長くなっていただろう。それにどのみち吸血鬼たちの準備はとっくの昔にできていた。短期的には有用だし、お役御免で家に帰れるとなれば喜んで海底を離れるはずだ。誰だってそうだろう。

 依存の恐れなど、考えもしなかった。

 一見すると莫迦げている。こんな場所に夢中になる人間なんているわけがない。どんなパラノイアがGAを掌握したら、退去を拒む人間が出るのではないかと気を揉んだりするのか。しかし、ずぶの素人ではないイヴ・スカンロンは見かけに騙されない。擬人観は克服済みだ。アンデッドの目なら腐るほど覗き込んできた。自らが住まう地上の世界で、奴らが住まうこの深海で。そうして理解した。吸血鬼は異なるルールで生きている、と。

 それとも本当にここで幸せを感じているのだろうか。それはスカンロンが答えを出そうとしているふたつの問題のうちのひとつだった。自分がまだここにいるうちは気取られずにいたいものだ。ただでさえこっぴどく嫌われているのだから。

 無論、当人たちに責任はない。そういうふうにプログラムされているだけだ。向こうがこちらを憎まずにいられないように、こちらは向こうをどうしても憎めないのだ。

 耐圧メッシュは外科手術よりもまし。言えるのはせいぜいそれくらいだ。

 水圧で圧縮された連結装甲が固く噛み合ったときは、身体が粉々にすり潰されるまであと一ミクロンという感じだった。関節は硬い。もちろん安全性は完璧だ。完璧。外出中も加圧されていない空気を呼吸できるし、事前に胸の半分を切り取る必要もなかった。

 外に出て一五分ほどになる。ビービまでの距離はほんの数メートルだ。処女航海の護衛についてくれたクラークとブランダーは距離を保っていた。スカンロンは水を蹴り、ぎこちない動きで海底から浮上する。メッシュのおかげで四肢に添え木を当てられているような泳ぎになった。吸血鬼たちが悠々とした影のように視界の端をよぎる。

 ヘルメットが宇宙の中心に思えた。どこに目を向けても昏い大海の途方もない重量がアクリル樹脂に圧しかかってくる。首回りの密閉部分に走る細かな傷が目に留まった。恐怖に駆られて目を見開く。細い罅が視野に広がっていく。

「助けて! 中に入れてくれ!」激しく足をばたつかせてビービを目指す。

 返事はない。

「ヘルメットが! ヘル――」

 広がるどころではなかった。罅がにょろにょろと身悶えし、横方向に震えながらヘルメットのバブルの隅を進む様は、まるで、まるで――

 無表情な黄色い目が海から覗き込んでくる。ビービの光暈を背負ってシルエットになった黒い手が顔に伸びてきて――

「ああああ――」

 拇指でヘルメットの罅を磨く。罅がぼやけ、弾けた。血に染まった細い繊維がアクリル樹脂にこびりつく。罅の後ろ半分が剥がれて水中にゆるりとのたくり、とぐろを巻き、ほどき、

 死んでゆく。安堵の吐息が漏れた。ワームだ。汚らわしい愚かな線虫がフェイスプレートにくっついて、それで死ぬかと思ったのだ、死ぬかと……。

 畜生。とんだ恥さらしだ。

 周りを見る。右肩のそばに浮かぶブランダーが、ヘルメットに張りついた血みどろの残滓を指さして言う。

「本当に罅が入ったら文句を言う暇もなかろうよ。そんなふうに見えただけだ」

 スカンロンは咳払いをする。

「ありがとう。すまない――まあ、不慣れだからね。助かったよ」

「ところで」

 クラークの声だ。あるいは機器が本分を果たした後の残骸だ。じたばたしているとクラークが頭上に見えた。

「調査期間はどれくらいなの」

 完璧なまでに妥当で中立的な質問だ。

 むしろこれまで誰も訊いてこなかったのが不思議なくらいだ……。

「最低でも一週間」

 心臓の鼓動が落ち着いてきた。

「ひょっとすると二週間。業務が順調なのを確かめるのに必要な分だけ」

 クラークはふと黙り込み、それから口を開く。

「嘘だね」

 その言葉に非難めいた響きはなく、観測した事実を述べただけのように聞こえた。それともヴォコーダのせいか。

「嘘、ってどうしてそんな」

 クラークの代わりに別の何かが答えた。唸りとも声ともつかず、無視できるほどかすかだとも言いがたい。

 スカンロンは深海が背中を滴り落ちるのを感じ、

「聞こえたか?」

 クラークがそばを掠めて海底に潜り、振り返ってこちらを視界に収めた。

「聞こえたかって、何が」

「さっき――」耳を澄ます。地殻が静かに震えている。それだけだ。「なんでもない」

 クラークが海底を斜めにぐっと踏みつけ、水中を急上昇してブランダーの許に向かう。

「シフトの時間。エアロックの使い方はわかるでしょ」

 吸血鬼たちは夜の中へと消えた。

 ビービが手招くように輝く。独りになると急に不安が湧いた。エアロックに退却する。

 だが嘘はついてなかったぞ。私は。嘘をつく必要なんかない。今はまだ。誰も正しい質問をしてこないからな。

 それにしても。なぜそんなことを自分に言い聞かせなければならないのだろう。

 公式記録/二〇五〇年八月二三日 八時三〇分

 これから初の遠征に乗り出そうとしている。どうやら対象者たちは製薬産業コンソーシアムから魚の捕獲を依頼されているらしい。きっとランド/ワシントンだ。この件には少々困惑している。普通であれば製薬会社は専らバクテリアにしか興味を持たないし、採集には身内を使うからだ。しかし、おかげで対象者には平常業務からの変化があるし、作業を観察する機会も得られた。多くを学べることを期待したい。

 ラウンジに入ると、ブランダーがライブラリの前で背を丸めていた。指はキーボードの上に載ったまま動かない。没入機器は使われもせずフックにかかっている。虚ろな目が薄型モニタを見据えているが、画面には何も映っていない。

 スカンロンは恐る恐る言った。

「これから出るよ。クラークとカラコと一緒だ」

 ブランダーの肩がそれとわからない程度に上下する。ため息、それとも肩をすくめたのか。

「他は〈喉〉にいる。きみはひとりだが――その、通信室で見守ったりはしないのか」

「ルーチンを変えるなって言ったのはあんただろ」ブランダーは顔も上げずに言う。

「その通りだ、マイケル。だが――」

 ブランダーが立ち上がり、

「どっちかはっきりしろ」

 と言って通廊に消えてゆく。スカンロンはその背中を見送る。当然このことは報告書に書かなくてはな。きみは気にもかけないだろうがね。

 もっとも、気にした方がいいかもしれないが。今にわかるさ。

 ウェットルームに下りたが誰もいない。四苦八苦してひとりで潜水服をまとい、さらに時間をかけてヘルメットのバブルに染みひとつないのを確かめた。すぐ外でクラークとカラコに合流する。クラークは海底の上に浮かぶ〈イカ〉のカルテットを点検しているところだった。そのうちの一機には標本用キャニスタが繋留されている。長さ二メートルを超える耐圧棺桶だ。カラコが中性浮力に設定すると、容器は海底から数センチ浮かび上がった。

 無言で出発する。〈イカ〉たちが一行を奈落の奥へと牽引する。女性陣を先頭にスカンロンとキャニスタが続く。肩越しに後ろを振り返ると心安らぐビービの光は黄色から灰色へと色褪せ、やがて完全に見えなくなった。ふと安心感が欲しくなり、音響モデムのチャネルを回す。あった。追跡ビーコンだ。これが聞こえる限り迷子になることはない。

 クラークとカラコはライトをつけずに進み続ける。〈イカ〉も光を放っていない。

 何も言うなよ。ルーチンを変えてほしくないんだろ。忘れるな。

 どのみち変えはしまい。

 時折、視界の隅で弱い光が短く瞬くが、目を向けると必ず消えてしまう。果てしない数分が過ぎた後、輝く一個の染みが真正面に少しずつ姿を現し、赤銅色のビーコンの一団と角ばった黒い摩天楼群へと解像されてゆく。吸血鬼たちは光を避け、その周辺を斜めに進む。スカンロンと積荷はやむを得ずふたりに従った。

〈喉〉のすぐそばの光と闇の境界線上で準備をした。カラコがキャニスタの掛け金を外し、クラークが頭上の塔へと浮上していく。右手に何かを持っているが、よく見えない。不可視の群衆に見せつけるようにその手が高く掲げられる。

 滅茶苦茶な音が発せられた。

 最初はやかましい蚊の羽音のようだった。徐々にドップラー効果で低音に変わり、不規則な高周波へとなめらかに戻る。

 そうしてようやく、クラークがヘッドライトをつけた。

 クラークは十字架刑に処された昇天者めいた姿で浮かんでいた。その手が深淵に向かって悲痛な声を浴びせる。海を薙ぎ払うヘッドライトは例えるとすれば――

 正餐を告げる鐘だ。と、闇の中から何かがクラークに突撃した。体格差はほとんどなく、あろうことかそいつの歯は――

 足を股間まで呑み込んだ。クラークはまったく動じていない。魔法のように左手に現れたガス・ビリーを突き出す。怪物が膨らみ、数箇所から爆発する。肉から泡が噴き出し、銀色のキノコ雲が揺らめきながら天へと消えてゆく。暴れる怪物が巨大な鞘めいた喉で脚にまとわりつく。吸血鬼は手を伸ばし、それを素手で八つ裂きにした。

 ずっとキャニスタをいじっていたカラコが顔を上げる。

「ちょっと、レン。無傷でって依頼なんだけど」

「種類が違う」

 周囲は引き裂かれた肉と殺到する屍肉食らいであふれていた。クラークはそれを無視してゆっくりと振り返り、奈落をさっと見通す。

「後ろ。四時方向」とカラコ。

「了解」クラークは教えられた方角へと身を翻す。

 何も起こらない。細断された死骸は痙攣しながら海底へと、あちこちで瞬く屍肉食らいの方へと漂っていく。クラークの手持ち発声器がごぼごぼ、キーキーと鳴る。

 どうして――スカンロンは口の中で舌を動かし、声に出して訊く準備をする。

「後にして」カラコが話しかけてきた。こっちは口を開いてもいないのに。

 何もないじゃないか。何に意識を集中しているんだ。

 それは、まさにレニー・クラークが向いている方向から素早い動きで一直線に迫ってきた。

「あれにしよう」とクラーク。

 スカンロンの左でくぐもった爆発音がした。細い泡の筋がカラコから怪物へ勢いよく伸び、一瞬で二者を結びつける。突然の衝撃に怪物は身を震わせ、さっとよけたクラークのそばを暴れながら通り過ぎる。その横腹にはダートが刺さっていた。

 ヘッドライトが消え、発声器が沈黙する。カラコはダート銃を仕舞ってクラークの許へと浮上し、獲物をキャニスタに誘導する。怪魚が弱々しく痙攣してふたりを叩く。棺桶に押し込まれ、蓋が閉じられる。

「樽の中の魚を撃つくらい簡単だね」とカラコ。

「どうして来るのがわかったんだ」

「いつも来るから。音に騙されて。あと光」

「そうじゃなくて、どうして方向がわかったんだ。それも前もって」

 沈黙が広がる。少ししてクラークが言った。

「しばらくすると感覚が掴めるってだけ」

「それから、これね」カラコがソナー銃を掲げ、ベルトに戻す。

 改めて隊列を組む。所定の怪物納入地点は〈喉〉から一〇〇メートル離れていた(GAには部外者を本拠地の懐深くまで侵入させる気などさらさらなかった)。再び吸血鬼たちが闇を求めて光を離れ、スカンロンも後に続く。一同が進んでゆく形なき世界に、形あるものはスカンロンのヘッドライトの円形の光の中をスクロールする泥だけだった。出し抜けにクラークがカラコの方を向いた。

「私が行く」そう言って虚しい海の中へと離れてゆく。

 スカンロンは〈イカ〉のスロットルを調整し、カラコの隣へ寄った。

「どこへ行ったんだ?」

「はい到着」

 ふたりは惰力で進んで停止する。カラコが自動操縦の〈イカ〉へ取って返し、制御部にふれる。バックルが外れ、ストラップが引っ込み、キャニスタが解放される。カラコが浮力を下げると、容器はチューブワームの群れの上に沈んでゆく。

「レニ――あー、クラークは」

「〈喉〉で人手が必要になったから手伝いに行った」

 スカンロンはモデムを検める。当然ながら正しいチャネルだった。そうでなければカラコの声も聞こえない。つまりクラークと〈喉〉にいる吸血鬼たちは異なる周波数を使っている。安全基準違反がまたひとつ。

 こっちだって莫迦じゃない。筋書きはわかっている。こいつらがチャネルを変えたのは私がいるからだ。仲間外れにしようとしているだけだ。

 いつものことだ。まずはファッキンGA、お次は雇われスタッフ……。

 音がする。後ろだ。電子的なか細い唸り。〈イカ〉が始動した音だった。

 スカンロンは振り向いた。

「カラコ?」

 ヘッドランプがキャニスタ、〈イカ〉、海底、水と照らす。

「カラコ。いるんだろ」

 キャニスタ。〈イカ〉。泥。

「なあ」

 空っぽの海。

「おい! カラコ! これはどういう――」

 どん、とすぐそばで小さな音がした。

 一度に全方位を見ようとする。片脚を棺桶に押しつける。

 棺桶は揺れ動いていた。

 ヘルメットを棺桶の表面にふれさせる。やはり。中から湿ってくぐもった音がする。どん。脱出しようとしているのだ。

 出られるわけがない。ありえない。中で死にかけてるだけだ。

 海底を蹴って浮上し、水柱の中を漂う。酷く無防備な気分だ。関節が硬い脚で数回蹴って海底に戻る。いくらか気分がましになった。

「カラコ? いいかげんにしてくれ、ジュディ――」

 嘘だろ。置いていったのか。こんなところに放置していきやがった。

 すぐそばで呻き声が上がった。

 要するに、ヘルメットの中で。

 公式記録/二〇五〇年八月二三日 二〇時二六分

 今日はジュディ・カラコとレニー・クラークに同行して外出し、いくつか気になる出来事を目撃した。両者共に無灯区域をヘッドランプもつけずに泳ぎ、かなりの時間バディから離れていた。一時などカラコは私を海底に置き去りにしさえした。あっさりと、予告もなく。これは命を脅かす恐れのある行動である。当然ながら私は追跡ビーコンを辿ってビービへの帰途に就けたのだが。

 この件に関しての説明はまだ何も受けていない。吸――他の人員は現在基地を離れている。ソナーに映っているのは二、三人だ。おそらく残りは海底の雑像に紛れているのだろう。またしても極めて危険な行為だ。

 こうした無謀な振る舞いはどうやらここでは典型的らしい。個人の幸福への関心が比較的低いからだと考えられるが、この態度は私がリフター計画に着手した際に作成したプロファイルと完全に合致している(残る唯一の解釈は、対象者が当該環境の危険を正しく認識していないだけというものだが、こちらはありそうにない)。

 また、一般的な心的外傷後有害環境依存症の症状とも合致する。もちろん行為それ自体は証拠とならないが、他にも一、二点、合わせて考えるべき懸念材料がある。例えばマイケル・ブランダーにはカフェインおよび交感神経様作用薬の乱用から辺縁系の人為的不正発火に至るまで幅広い病歴があり、大量のフェンサイクリジン・ダームをビービに持ち込んだこともわかっている。当人の個室で実際に発見したが、意外にもほとんどふれた形跡がなかった。生理学的に言えばフェンサイクリジンに依存性はないし、外因性薬物依存症の患者は計画からふるい落とされているが、ここに来た当初のブランダーに嗜癖があった事実に変わりはない。家族に捨てられて以来の常習癖だ。何で代替しているのか、突き止めなくては。

 ウェットルームにて。

「探したよ。どこに行ってたんだ」

「このカートリッジを回収する必要があった。硫化物にセンサがやられてたから」

「言ってくれればよかったんだ。どうせ作業に同行する予定だったんだから。きみは私を置き去りにしたんだぞ」

「帰ってきたじゃん」

「そんな――それは関係ないよ、ジュディ。無言で海底に人を置いていく奴があるか。何かあったらどうするつもりだ」

「あたしらはいつもひとりで外に出てる。それが仕事の一部。気をつけて、滑るから」

「安全手順を守るのも仕事の一部だ。きみのためにも、そしてとりわけ私のためにだ。私はここじゃまったくの陸に上がった魚なんだぞ、ふふっ。私が地理に明るいとでも思ったか」

「……」

「聞いてるのか」

「人員不足をお忘れ? 常にバディを組む余裕があるわけじゃない。それにあんたは屈強な大――あー、とにかく男でしょ。子守りが必要とは――」

「ちっ! 手が!」

「気をつけてって言ったのに」

「おぉ。重さはどれくらいだ」

「だいたい一〇キロ、泥なしなら。洗い流すべきだったかな」

「だろうな。ヘッドのどれかで抉ったみたいだ。クソッ、血が出てる」

「その点に関しては謝る」

「どうも。あー、その、カラコ。子守りでイライラしたのなら申し訳ないが、もう少し子守りを頼む。アクトンとフィッシャーがまだ生きている可能性はある、よな。子守りで申し訳ないが――あれが聞こえたか?」

「何が」

「外から。あの、呻き声、というか――」

 ……。

「おいおい、カ――ジュディ。きみも絶対聞いたはずだ!」

「外殻が動いたのかもよ」

「違う。確かに音がしたんだ。しかもこれが初めてじゃない」

「あたしは何も聞こえなかった」

「そんなわけ――どこに行くつもりだ。入ってきたばかりじゃないか! ジュディ……」

 ガチャガチャ。シュー。

「……行かないでくれ……」

 公式記録/二〇五〇年八月二五日 二一時二〇分

 各対象者に医療用スキャナを使った軽い日常検査に応じるよう依頼した。正確に言えばほぼ全員に直談判し、これまで数回見かけたが直接の会話は叶っていないケン・ルービンへの伝言を頼んだ(二度ほど試みたルービン氏との会話は不首尾に終わった)。無論こちらから身体にふれる必要がないことは対象者も理解している。各人の好きなときに検査をしてくれればいいのであって、私が同席しなくてもいい。ところが、誰もきっぱりと要求を拒みはしなかったものの、実際に遵守する意欲は露骨に乏しい。疑いの余地なく(またプロファイルとも完全に合致するように)対象者は検査を侵害と見なし、可能であれば避けようとしている。今のところどうにか概要報告を得られたのはアリス・ナカタとジュディ・カラコだけだ。当エントリにそのバイナリデータを添付しておいた。両者共にドーパミンとノルエピネフリンの産生が増加しているが、これが現在の業務に就いてから始まったものかは定かでない。直近一時間以内の潜水の名残りか、GABAとその他抑制剤のレベルもわずかに上昇していた。

 他の対象者は目下のところ検査のための「時間を見つけ」られていない。仕方がないので、とりあえずスキャナに保存された過去の負傷記録に目を通すことにした。予想通り身体的な負傷は日常茶飯事だったが、最近になるにつれて怪我の頻度は大幅に減少していた。だが、頭部外傷の症例は記録にない。少なくとも核磁気共鳴検査を要すほどのものは何も。このため脳化学データは事実上、対象者たちが要求に応じて提供してくれるものに限られることになった。現状、多くはない。状況に変化がない場合、分析の大部分を行動観察に基づいて行わなければならない。まるで中世だ。

 誰だ。誰なんだ。

 深海に沈んだ当初、イヴ・スカンロンはふたつの問いに心を悩ませていた。今はふたつ目の問いに思いを馳せながら個室で横たわり、没入機器とシャツポケットに入れた個人用データベースでビービから守られていた。さしあたり配管も結露も目に入らないのがありがたい。

 だが耳まで塞がれたわけではない。残念ながら。足音、低い声、それからこれは気のせいだろうが、想像を絶する何かが遠くで呻吟する声が時折聞こえてくる。そんなときは少し大きな声でピックアップに話しかけ、スクロール、ファイルのリンク、キーワード検索などを呶鳴り声で指示して不愉快な音を覆い隠した。人事記録が目の中で踊り、どこにいるのか忘れられそうなくらいだった。

 この問題に特別の関心を抱いていることは雇い主に認可されていない。もっともGA側が把握しているのは間違いない。こっちがそれに気づいているとは思っていないだろうが。

 ローワンとその取り巻きは最低のクズだ。そもそもの始めから嘘をついていた。理由はわからない。正直に打ち明けてくれさえすればそれでよかったのに、奴らは秘密にしていた。おまえには自力で解明などできるわけがないと言わんばかりに。

 明々白々だ。吸血鬼を作る方法はひとつじゃない。通常は精神病の人間を集め、それから訓練を積ませる。だが、それなら既に訓練を積んだ人間を集め、それから精神病にしてしまってもいいではないか。その方がずっと安くつくかもしれない。

 魔女狩りから学べることは多い。例えば九〇年代の抑圧された記憶のヒステリー全般だ。多くの人々が唐突に虐待、異星人による誘拐、赤ん坊のシチューの大釜を掻き混ぜる愛しのおばあちゃんの記憶を思い出した。手間は大してかからない。脳に手を入れて物理的にシナプスを再配線する必要なんかない。脳は騙されやすく、巧みに口説いてやれば自ずから再配線されるのだ。哀れな患者の大半は自分が何をしているのかわかっていない。近頃は数週間の催眠療法で事足りる。正しい暗示を正しいやり方で与えてやれば、記憶は断片から勝手に構築される。神経学的カスケード効果のようなものだ。ひとたび自分は虐待を受けていたのだと思ってしまえば、精神はその記憶に合わせて変化するに決まっている。

 名案である。誰かさんもそう思ったらしい。少なくとも二週間前にメチックから聞いたのはそういう話だった。公式には何も述べられていないが、既にプロトタイプがいくつか組織に紛れている可能性はある。まさにここビービにいる誰かが人工過誤記憶症候群の生きた証拠なのかもしれない。それはルービンかもしれないし、クラークかもしれない。誰でもありうる。

 私に話しておけばいいものを。

 なるほど、言葉なら交わした。入社当初、計画には基礎を築くところから参加させると言われた。設計から経過観察までなんでも意見を出してくれて構わないと、ローワンは約束してくれた。機密扱いでない文献には無条件で共著に名を入れようとまで提案された。立場は完全に対等だった。それからスカンロンが小部屋に閉じ込められ、新入社員向けの下らない話を聞かされている間に、奴らは三五階という遙か高みで全ての意思決定を下した。

 標準的な企業精神だ。知識こそ力。コープスは誰にも何ひとつ語らない。

 奴らを信じるなんて莫迦だった。提言の上申を続け、約束が守られるのを待つなんて。その約束こそ私に投げられた骨だ。トラウマ持ちの精神異常者でいっぱいのこんな肥溜めみたいな海の底に放り込まれたのは、自分の手を汚したがる奴が他にひとりもいなかったからだ。

 最悪だ。今に至るまで蚊帳の外に置かれ、挙げ句メチックのような落ち目の老いぼれから噂話を聞き出さねばならないとは。

 ともかく、誰なのか考えてみよう。ブランダーとナカタはどうだ。記録によればナカタには地熱工学と高圧環境技術関連の経歴がある。ブランダーはシステム生態学の修士号を持ち、副専攻はゲノム学だ。平均的な吸血鬼にしては教育水準が高すぎる。平均的な吸血鬼なんてものがあるとすればだが。

 ちょっと待て。こんなファイルは信用ならない。ローワンにこの件を秘密にしておく気があれば、人事記録に手掛かりを残すなんて莫迦な真似はしないはずだ。

 よく考えなければ。ファイルに手が加えられているとしよう。あるいは最も見込みの低そうな候補者を調べるべきか。学歴で昇順ソートを命じる。

 レニー・クラーク。医学部進学課程中退、基本ヴァーチャル技術教育。ホンクーヴァー水族館からGAに引き抜かれた。広報部。

 ふむ。クラークほどの社交スキルの人間が広報。ありそうもない。まさか――

 ちっ。まただ。

 目から没入機器を剥ぎ取り、天井を睨む。ぎりぎり聞こえる音が外殻に浸透してくる。

 なんだか慣れてきてしまっているな、まったく。

 ため息に似た音が隔壁越しに届き、薄れ、消えてゆく。じっと待ち構えていたら、息を止めていた自分に気づく。

 いる。ずっと遠くの方に。とても――

 寂しげなものが。なんて寂しそうな声だ。

 その気持ちは、スカンロンにもよくわかった。

 ラウンジは無人だったが、通信室の戸口から淡い影が伸びていた。中から小声が聞こえる。クラークのようだ。しばし立ち聞きする。読み上げているのは支給品の消費率、最近故障した装備品のリストだ。GAへの定期報告らしい。スカンロンが近寄る直前に電話は切られた。

 クラークは椅子にぐったりと座っていた。すぐ手の届くところに一杯のコーヒーがある。

 ふたりは一瞬、無言のまま目を合わせた。

「周りに誰かいるのか」

 と尋ねると、クラークはかぶりを振った。

「さっき、何か聞こえた気がしたんだが」

 クラークが操作卓に向き直る。アイコンがふたつ、メイン画面で瞬いている。

「何をしてるんだ」

 クラークは曖昧な身振りで操作卓を示した。

「監督中。あなたが気に入るかと思って、趣向を変えてみた」

「ああ、だが――」

「ルーチンを変えるな、でしょう」

 クラークは遮った。うんざりしているようだ。

「自分の言うことはいつでもなんでも聞いてもらえるとでも思ってるの?」

「そんなつもりはない。きみにはそう見えるのか」

 クラークは背を向けたまま鼻を鳴らす。

「なあ。本当に何も聞こえなかったのか、あの――」

 亡霊の声が。クラーク、死んだ哀れなアクトンが、リフトで腐りゆく自分の残骸を見つめながら出すような音だよ。

「心配しなくていいよ」

 あっは、ほらみろ。

「じゃあきみも聞こえたんだな」

 あれが何かも知っているのだ。こいつら全員が。

「私が何を聞くかは私の勝手」

 察しろ、スカンロン。とはいえ他に行けるところはどこにもなく、個室に戻るよりない。それに今独りになるくらいなら――吸血鬼と一緒にいる方が好ましい気がした。

 クラークが振り返り、

「まだ何か?」

「いや。眠れそうにないってだけだ」愛想笑いを浮かべる。「圧迫に慣れなくてね」

 それでいい。安心させろ。相手の優位を認めるんだ。

 クラークはじっと見つめてくるばかりだ。

「来る日も来る日も、どうやって重圧に耐えているのやら」

「よくご存じでしょ。あなたは精神分析医。私たちを選んだんだから」

「というより、むしろメカニックかな」

「そうでしょうとも」

 無表情でクラークが言う。

「あなたの仕事は物を壊れたままにしておくことですものね」

 スカンロンは目をそらした。

 クラークが立ち上がって戸口へ一歩進む。監督業務は忘れてしまったようだ。脇へ退いてやるとクラークはさっと通り過ぎ、狭所で身体がふれ合うのを巧みに避ける。

「なあ」

 スカンロンは思わず口走った。

「監督手順のおさらいをしないか? 私はこの装置に精通しているわけでもなくてね」

 あからさますぎる。口を開きもしないうちから見透かされていただろう。しかしこの立場の人間がする要求としては至極妥当でもある。要するにルーチンの評価だ。

 クラークは一瞬こちらを見つめ、頭を少し傾げた。その顔はやはり表情に乏しいが、わずかに微笑んでいるような印象がなんとなく伝わる。結局また席に座り、メニューをタップする。

「ここが〈喉〉」

 蛍光色の長方形が等高線を背景に群れを成している。

「温度測定値」

 画像がたちまちサイケデリックな偽色彩法に変じた。主要な亀裂に沿って赤と黄のホットスポットが不規則な間隔で脈搏っている。

「監督時に温度を気にすることは普通ない。どのみち外にいるときはすぐに肌でわかる」

 サイケデリックな色が薄れ、緑色と灰色に戻る。

 それじゃあ誰かが外で不意を衝かれても温度を読み取れなくて、こっちは事故に気づけないんじゃないのか? 声に出して尋ねはしなかった。ありふれた手抜きにすぎない。

 クラークが画面をパンし、英数字が付された一組のアイコンを見つける。

「アリスとケン」

 別の赤いホットスポットが画面左上隅に滑り込んでくる。

 いや待てよ。温度表示は切ったはず……。

「おい、あれってデッドマンスイッチじゃ――」

 警報はない。なぜ鳴らない。慣れない操作卓に目を走らせる。どこだ、どこに……ちっ。

 警報は無効化されていた。

「あそこだ!」画面を指さす。「なあ――」

 クラークが物憂げに見上げてきた。どうも理解していないらしい。スカンロンは拇指をぐいと下に向け、

「誰かがあそこで死んだんだぞ!」

 クラークは画面を見上げ、ゆっくりとかぶりを振る。

「別にあれは――」

「この莫迦、警報を切るなんて!」

 制御アイコンを押す。基地が吠え始めた。びっくりして跳び上がり、隔壁にぶつかってしまう。クラークはわずかに眉をひそめて見ている。

「どうかしてるんじゃないのか?」

 スカンロンは手を伸ばしてクラークの肩を掴んだ。

「行動しろ! ルービンを呼べ――」

 警報が耳をつんざく。クラークを激しく揺さぶり、椅子から立たせ――

 そうして思い出した。手遅れだ。レニー・クラークにふれるべからず。

 顔に何かが起こった。眼前の顔はしわくちゃになりかかっている。氷の女王レニー・クラークは突然見る影もなくなる。そこにいるのは打ちひしがれて茫然自失した小さな子どもだ。ぶるぶると震え、口を同じパターンで何度も何度も動かしている。警報で聞こえずとも唇が紡ぐ言葉はわかった。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――

 ほんの数秒でクラークは結晶化した。

 騒音に、暴行に身を強張らせているかに見えた。顔から表情が完全に消え失せる。椅子から立ち上がったその背丈は、本来より何センチも高い。片手を上げてスカンロンの喉を掴み、押しのけた。

 スカンロンはよろめき、腕を振り回しながらラウンジへと後退する。そばに現れたテーブルに手を伸ばし、身体を支える。

 唐突にビービが静寂を取り戻す。

 深く息をつく。視野の隅に見えたもうひとりの吸血鬼は通廊の入口に平然と立っていた。そちらは無視する。真正面のクラークは再び通信室の椅子に座り、背を向けた。スカンロンは前へ踏み出す。口を開こうとすると、クラークが言った。

「あれはカール」

 一瞬ピンとこなかった。アクトンか。

「だが……何ヵ月も前だろう。あいつを失ったのは」

「そう、私たちはあの人を失った」

 クラークはゆっくりと息をつき、

「カールはスモーカーに潜ってた。噴出があったの」

「すまない。その、知らなかったんだ」

「でしょうね」

 とクラークは抑制の利いた無関心そうな声で言い、

「相当奥にいるから、回収は無理。危険すぎる」

 向き直った顔はありえないほど落ち着いていた。

「だけどデッドマンスイッチは動いてる。あれは電池が切れるまで叫び続けるでしょ」

 肩をすくめ、

「だから警報は切ってある」

「無理もない」

「想像して。あなたに同意してもらえることが、どれだけ私の慰めになるか」

 スカンロンは踵を返す。

「待って。拡大ならしてもいい。カールが死んだ正確な場所を見せてあげる。解像度最大で」

「その必要はないよ」

 クラークはコントロールパネルをつつき、

「気にしないで。興味があって当然だから。自分の作品の性能を知りたくないメカニックなんていないでしょ」

 彫刻家のように画面を再形成し、磨き上げた。絡まる淡い緑の線と脈搏つ赤い点だけが表示される。

「付随的な裂目で動けなくなったの。今でもぴったり嵌まってるみたい。肉は全部蒸発したのに。五体満足だったときにどうやってあそこまで入り込んだのかはわからない」

 声にはまったく抑揚がない。友人の休暇について話しているみたいだ。

 スカンロンは見つめられているのを感じ、視線を画面に据えた。

「フィッシャーには何があったんだ」

 視界の隅でクラークの身体が張りつめ、すぐに肩をすくめる。

「誰も知らない。アーキーに捕まったのかも」

「アーキー?」

「アーキー・トゥーティス」

 記憶にない名前だ。スカンロンの知る限りどのファイルにも載っていない。少し考え、追及しないことにする。

「ともかく、フィッシャーのデッドマンは作動したんだろう?」

「あの人はまだもらってなかった」

 クラークは肩をすくめ、

「スカンロン、深海は無数の方法で人を殺すの。痕跡を残してくれるとは限らない」

「その――気を悪くしたなら謝る。すまない、レニー」

 クラークの口角がわずかに引きつった。

 スカンロンは本当に申し訳ないと感じていた。自分のせいではないのに。そんな性格にしたのは私じゃない。そう言ってやりたかった。きみを散々殴り倒したのは私じゃない、別の誰かだ。私はその後にやってきて使い途を見つけただけだ。私は意義を与えてやったんだ。地上では到底持ちえなかった大きな意義を。

 それがそんなに悪いことか?

 声に出して訊くことはせずにその場を去った。レニー・クラークが画面上で瞬くアクトンのアイコンにほんの短く指でふれたときは、気づかなかったふりをして。

 公式記録/二〇五〇年八月二六日 一三時五二分

 先ほどレニー・クラークと興味深い会話を交わした。率直にそれと認めはしなかったが(守りは非常に堅く、素人から感情を隠す技術にかけては専門家顔負けだ)、クラークとカール・アクトンは性的関係を持っていたと見て間違いない。これは当初のプロファイルがそうした関係の発展を強く示唆していたことを思えば、心強い発見である(クラークには間欠性爆発性障害を持つ男と関係を持っていた前歴がある)。おかげでリフターの行動に関する他の予測についても一定の経験的信頼が得られた。

 カール・アクトンは単に失踪したのではなく、スモーカーの噴出で死んでいたこともわかった。そんなところで何をしていたのかは不明だが(調査は続けるつもりだ)、行動そのものは良く言って莫迦であり、自殺という線が濃厚だろう。自殺はカール・アクトンのDSMおよびECMプロファイルとは合致しないが、どちらも作成当初は的確だったはずだ。つまり自殺は基本人格がある程度変化したことを示唆している。これは心的外傷後依存症シナリオとは合致する。しかしながら、脳になんらかの物理的損傷があった可能性も排除できない。医療記録を検索しても頭部外傷は見つからなかったが、それは存命の対象者に限ってのことだ。もしかするとアクトンは……違うかもしれない……。

 そうだ。アーキー・トゥーティスの正体も突き止めた。人事ファイルの中ではなく、ライブラリで。アルキテウティス。ダイオウイカだ。

 きっとからかっていたのだろう。

パピルス

 こんなとき、世界はずっと前から闇に包まれていたように思えてならない。

 もちろんそうではない。ジョエル・キタが周囲に広がるほのかな青を背部舷窓から垣間見たのは、ほんの一〇分前、深海音波散乱層を沈降する直前のことだった。昔日に比べればかなりの薄さだと聞かされていたが、それでも印象的だった。光り輝くクダクラゲや発光魚や何やかやは、やはり美しかった。

 今や散乱層も一〇〇〇メートル上方に去った。すぐそばにはビービのトランスポンダラインの垂直線以外は何もない。沈降中に潜水艇をゆるりと回転させてやると、前照灯の光が海を薙ぎ払いながら螺旋降下し、トランスポンダラインが三〇秒かそこらの間隔で拍子を取るようにメインの展望窓をさっと通り過ぎてゆく。鮮やかな垂直線が闇に映える。

 それ以外は、ただただ漆黒が広がるのみ。

 ちびの怪物が舷窓に体当たりしてきた。針状の歯が長すぎて口を閉じられず、ウナギに似た身体には発光器官がちりばめられていた。体長は一五センチ、最大でも二〇センチといったところ。衝突時に音がするほど大きくもない。回転しながら上の方へと消えていった。

「ホウライエソだ」とジャーヴィス。

 ジョエルが横目で隣をうかがうと、乗客は前かがみになり、「展望」の一語を冠しているのが冗談のような窓を活用しようとしていた。ジャーヴィスはランド/ワシントンから出向いてきた細胞生理学者で、その目的は素朴な茶色の包装紙に包まれた謎の荷物の受け取りだった。

「ああいうのはよく見かけますか」

 ジャーヴィスが尋ねてきた。ジョエルは首を振る。

「ここまで深いとね。珍しい方かな」

「そうですね、ここら一帯が珍しい。だから僕はやってきたわけですが」

 ジョエルは状況画面をチェックし、トリムのタブをつつく。

「ホウライエソは、さっき見た奴より大きくなるはずはないんです。だけどある男が一九三〇年代にですね、名前をビービといいまして、基地の名前の由来になった男と同一人物なんですが、とにかくその男は、二メートルを超す個体を見たと主張したんです」

 ほう、とジョエルは唸った。

「そんな昔に人間がここまで潜っていたとは知らなかった」

「ええ、はい、最初期の話で。昔から深海魚はちっぽけな小魚だと考えられていたんですが、それというのもトロール漁で引っかかってくるのがそんなのばかりだったからなんですね。そんなときにビービがでっかいホウライエソを見たもんだから、人々はこう考えるようになりました。おい、もしかすると俺たちが捕まえたのが小さかっただけで、でかい奴は底引き網を逃れられるんじゃないのか。ひょっとすると深海にはマジで巨大生物がうようよしてるんじゃないか、ってね」

「いないよ。とにかく俺は見たことない」

「ええ、それが世間一般の考えです。それでも時々奇妙な欠片が打ち上げられるでしょう。もちろんメガマウスもいるし、ありふれたダイオウイカだっている」

「この深さにはいない。他の巨大生物だっていやしないさ。餌が足りないから」

「噴出孔を除けば、ね」

「噴出孔を除けば、か」

「正確には、ここの噴出孔を除けば、です」

 トランスポンダラインが通過する。無音のメトロノームだ。

 ややあってジョエルは言った。

「へえ。そりゃまたどうして」

「それが、はっきりしません。研究中なんですけどね。そのためにここにいるわけです。魚を捕獲する予定で」

「冗談だろ。船殻にぶつけて死なせるってか?」

「実は捕獲はもう済んでます。リフターが二日前にやってくれて。それを拾うだけです」

「なら俺ひとりでよくないか。なんでついてきたんだ」

「確かに仕事をこなしてくれたかチェックしなきゃいけなくて。海面でキャニスタが爆発なんてしたらたまらない」

「だからあんなタンクを増設したのか。生物災害ステッカーだらけの」

「ああ、あれは標本を滅菌するためです」

「なるほど」

 ジョエルはパネルに目を走らせ、

「あんたが陸に戻ったら大量の仕事が待ってるだろうな」

「はあ、どうしてでしょう」

「俺はチャナー関連の仕事をよく受けるんだ。製薬関係の潜水、ビービへの支給品配達、エコツーリズム。しばらく前にもビービにコープス風の男を送ってきた。一ヵ月ほど滞在するんだとさ。三日後GAから電話があって、そいつを迎えに行けって言われたんだ。俺が仕事をしに顔を出したら、キャンセルだと抜かす。なんの説明もなしにだ」

「そいつはかなり妙ですね」

「ここ六週間で俺がチャナーに行く必要があったのはあんたが初めてだ。俺の知る限り他の誰にも行く必要はなかったらしい。だから何か仕事があるってわけだ」

「どうですかねえ」

 薄明りの中ジャーヴィスが肩をすくめる。

「僕はただの研究員ですよ。言われた場所へ行くだけです、ちょうどあなたのようにね。今日も注文の魚を取りに行けと言われたわけでして」

 ジョエルは相手を見た。

「なぜ魚が巨大化するのか、でしたね」

 ジャーヴィスが右へ身体を傾ける。

「僕たちは細胞内共生生物が原因だと考えています」

「マジかい」

「微生物にとっては、海中よりも魚の体内で生きる方が楽です。浸透圧のストレスが少ないので。だから一度体内に入ると、必要以上のATPを放出するようになる」

「ATP」

「高エネルギーのリン酸化合物。細胞のバッテリですね。とにかく、微生物が吐き出す余分なATPを、宿主の魚は追加の成長エネルギーとして使うことができる。だからたぶんチャナー噴出孔には特異な微生物がいて、それが硬骨魚類に感染して成長を加速させているんだろう、というわけです」

「えらい不気味な話だな」

「いや、常に起きていることなんですよ。あなたの細胞だってひとつひとつがコロニーなんです。ほら、細胞核、ミトコンドリア、葉緑素だって植物人――」

「俺は違う」あんな輩のことは口にもしたくない……。

「――これらは全て、かつては独立した自由生活性の微生物でした。数十億年前、何かが微生物を食べたはいいものの消化できなくて、その微生物は細胞質の中で生き続けることになったんです。やがて宿主細胞と合意に至り、家賃の代わりに大掃除などの仕事を引き受けるようになります。すると、じゃん、今ある真核細胞の出来上がり」

「じゃあ、チャナーの微生物を人に入れたらどうなるんだ。身長三メートルになるのか」

 ジャービスが愛想笑いをする。

「いいえ。人の成長は成人になったら止まる。大抵の脊椎動物がそうです。一方で魚は生涯成長し続ける。そして深海魚は、成長する以外は何もしない、と言ったらいいのかな」

 ジョエルは眉を上げてみせた。ジャーヴィスが両手を挙げた。

「わかってますわかってます。あなたの小指は平均的な深海魚より大きい。でもそれは単に燃料不足ってだけです。魚たちは燃料が満タンになれば、嘘じゃありません、それを成長に使うんですよ。何も見えないのに泳ぎ回ることだけにカロリーを消費する理由もないわけで。暗い環境では待ち伏せ型の捕食者の方が合理的です。身体を充分に大きくすれば、他の捕食者が敵わないほど大きくなれるかもしれないでしょう?」

「ふむ」

「もちろん理論は全て、温度や圧力の変化から保護されずに引き上げられた、数少ないサンプルに基づいています」

 ジャーヴィスが鼻を鳴らす。

「紙袋に入れて送るも同然ですよ。でも今回はばっちりです――あっ、あれは照明ですかね」

 ぼんやりした黄色い光が真下の闇をぼかしていた。地形図を呼び出す。ビービだ。リフト上に整列した地熱発電アレイが、三四〇度方向から一連の硬質な緑色のエコーを返してくる。そのすぐ左、東端の発電機からおよそ一〇〇メートル離れたところで、何かがユニークな音響シグネチャを四秒間隔でほとばしらせている。

 ジョエルは水平舵にコマンドを送る。潜水艇が螺旋を脱し、北東へと滑るように進む。輝く染みがせいぜいのビービ基地が船尾方向へと消えてゆく。

 前照灯に照らされて海底が姿を現す。骨灰色の軟泥、点在する露頭、潰れた巨大マシュマロのような溶岩と軽石が前方を通り過ぎ、操縦席では点滅する光点がスローモーションで地形図中央へと進んでゆく。

 何かが上から突撃してきた。鈍く湿った衝撃音が船殻に短く反響する。背部舷窓を見上げたが何も見当たらない。さらに数回の間欠的な衝撃。潜水艇は頑固に前進を続ける。

「あれだな」

 見た目は長さ三メートルの救命艇用キャニスタに近い。丸みを帯びた端っこのパネルに表示が瞬いている。荷物はジャイアントチューブワームの絨毯の上に置かれており、ワームの羽冠が完全濾過摂食モードで伸展していた。突然変異したパピルスに囲まれて眠る赤ん坊のモーゼを思わせる眺めだ。

「ちょっと待ってください。まず照明を切りましょう」

「なんのために」

「いりませんよね」

「まあそうだが。必要とあれば道具を使えばいい。でもなんで――」

「切ってください、いいですね」

 おしゃべりジャーヴィスはいつのまにやらすっかり仕事一色だ。

 闇が操縦席にあふれ、表示の光を前にほんの少し退いた。ジョエルは左手のフックから一対の没入機器を掴み取る。腹部光増幅器のおかげで再び目の前に出現した海底は、青と黒に色褪せていた。

 潜水艇をキャニスタ直上へと慎重に動かし、デッキ下部に折り畳まれた引っ掛け鉤の軋みに耳を澄ます。濃灰色の鋼鉄の鈎爪が視野いっぱいに広がる。

「拾い上げる前にスプレーしてください」

 ジョエルは見もせずに手を伸ばして制御コードをタップする。ジャーヴィスのタンクからノズルが伸び、痩せこけたコブラを思わせる動きで狙いを定める。

「やってください」

 ノズルが灰青色の霧を射精し、キャニスタに沿って前後に吹きつけ、各面の底生生物を一掃する。チューブワームはさっと穴に引っ込んでドアを閉めた。羽箒の森が瞬時に消え去り、密閉された革製チューブの群れが後に残った。

 ノズルが毒液を吐く。

 チューブの一本がためらうかのように開いた。褐色の糸に似たものが漂い出し、ぴくぴくと震える。灰色の霧が通り抜け、ワームがぐったりと巣穴の口に垂れ下がる。他のチューブも開き始めた。うなだれる無脊椎動物の死骸が視界に広がってゆく。

「何が入ってるんだ……」

「シアン化物、ロテノン、その他色々。カクテルのようなものです」

 ノズルは数秒間噴霧を続け、出し尽くした。ジョエルは反射的にノズルを格納する。

「よし。掴んで帰るとしましょう」

 ジョエルは動かない。

「あのう」とジャーヴィス。

 ジョエルはかぶりを振り、機械を操作する。潜水艇がアームを広げ、鋼鉄の抱擁でキャニスタを海底から引き剥がす。目から没入機器を外して制御盤をタップ。アームが上昇する。

 しばらくしてジョエルは言った。

「随分と念入りにすすいでいたな」

「ええ。まあ、標本には結構な費用がかかってまして。汚染したくなかったんです」

「なるほどね」

「照明を戻していいですよ。海面までどれくらいですか」

 ジョエルは投光器をつけた。

「二〇分。半時間だ」

「飛行船のパイロットが退屈してないといいんですが」ジャーヴィスがまた気さくになる。

「パイロットはいない。スマートゲルだ」

「本当ですか? 言ってくださいよ」

 ジャーヴィスが顔をしかめる。

「恐ろしいです、ゲルは。以前ロンドンで大勢の人を窒息させたのは知ってますか」

 ああ、と答えようとしたが、相手は多弁モードに戻っていた。

「ふざけた話でしてね。そのゲルは地下鉄システムを運営していて、完璧な運用実績があったのに、ある日しかるべきときに換気装置を稼働するのを忘れちゃったんですよ。電車は地下一五メートルの駅へ滑り込んで、乗客全員が降りたんですが空気なし、チーンです」

 聞き覚えのある話だ。記憶が正しければ、オチは壊れた時計と関係があったはずだ。

「あれは経験から自分で学ぶでしょう。だからそのゲルも明確な徴候に反応して換気を稼働させるのを学んだのだと、誰もが考えていました。体熱とか動きとか二酸化炭素の濃度とかですよ。蓋を開けてみれば、ゲルは代わりに壁時計を見ていたんです。電車の到着はデジタル画面上の予測可能なパターンの一部と相関関係がある。そのパターンを目にしたら送風機をつけていたってわけです」

「ああ。そうだったな」首を振る。「公共物破壊者が時計をぶっ壊してたんだっけか」

「なんだ。知ってたんですね」

「ジャーヴィス、そりゃ一〇年前の話だ。遙か昔の黎明期だ。その事故以来ゲルは分子レベルからデバッグされてる」

「へえ、言い切りますね」

「なぜならゲルは今じゃ一年の大半で飛行船を飛ばしていて、しくじる機会ならいくらでもあったからだ。ミスは起きていない」

「じゃあ、あなたはあれが好きなんですか」

「断じてノーだ」

 とジョエルは言った。レイ・ステリカーのことを、自分自身のことを考えながら。

「あれがたまに大失敗してくれるなら、もっと好きになれるかもな」

「僕は好きでもなければ信頼もしていません。奴らが何を企んでいるか疑うべきです」

 ジョエルは頷く。脱線した話に気を散らされたが、やがて心はチューブワームの死骸、公示のない潜水禁止区、都市を滅ぼせる毒に塗れた正体不明のキャニスタへと戻っていく。

 疑うべきは、俺たち全員が何を企んでいるかだ。

亡霊

 おぞましい。

 直径は一メートル近い。おそらく作業に着手した時点ではもっと小さかったのだろうが、今や本物の怪物になっていた。スカンロンはオンライン学校時代を振り返って思い出す。ヒトデはひとつの平面、腕の生えた平らな円盤のはずだ。このヒトデは違う。クラークは断片を全方位に継ぎ接ぎし、這い回るゴルディアスの結び目を作ってしまった。断片には赤もあれば紫も白もある。元となった身体はオレンジ色だったのだろうと思われた。

「再生するの」

 クラークが横で言う。

「免疫系はとても原始的だから、これと言った組織拒絶反応の問題もない。おかげでどこかが悪くなっても直すのは簡単」

 直す。これが改善だとでも言うのか。

「じゃあ、こいつは怪我をしていたんだな。具体的にはどこが悪かったんだ」

「引っかかれてた。背中に切り傷があって、近くにいた別のヒトデはばらばらにされてた。私にも手の施しようがない状態だったけど、欠片のいくつかは、このちっちゃな子の継ぎ当てに使えるかと思って」

 このちっちゃな子。このちっちゃな子はふたりの間でゆっくりと悲愴な円を描きながら足を引きずり、泥にもつれた足跡を残している。糸状の寄生菌類がぼろぼろの縫い目から棚引いていて、それほど癒えているようには見えない。非対称に接がれた追加の腕が岩を掴む。身体はふらふらとよろめき、いつまで経っても安定しない。

 レニー・クラークは気づいていないようだった。

「いつから、いつからこんなことをしているんだ」

 声は見事なまでに平静だ。友好的な興味だけが伝わっている自信がある。だが、どういうわけかクラークには気づかれている。一瞬黙ったかと思うと、アンデッドの目を向けて言う。

「当然だよね。気分が悪くなるのも」

「いや、私はただ、魅了された、というか、その――」

「あなたは吐き気がしている。でも、それはおかしい。これこそ、まさにあなたたちがリフターに期待していたことでしょ。そもそも私たちをこんなところに送り込んだのはそれが理由なんじゃないの」

「何を考えているのかはわかるよ、レニー」

 スカンロンは軽い口調を心がける。

「我々が毎朝こう自問すると思ってるんだろ、さて、今日は我らが従業員をどうやって最高に酷い目に遭わせてやろうかな、と」

 クラークはヒトデに視線を落とし、

「我々って」

「GAさ」

 ペットの怪物がゆっくりとした動きでのたくり起き上がろうとする間、クラークはその場にじっと浮かんでいた。

「私たちは悪魔じゃない、レニー」

 間を置いてスカンロンは言った。クラークがこちらを見てくれさえしたら、ヘルメットの中に真面目な表情が見えたはずだ。何年も訓練を積んだ表情が。

 だがようやく視線を上げたとき、クラークには気づいた様子もなかった。

「自惚れないで、スカンロン。あなたは自分のあり方を少しもコントロールできていない」

 公式記録/二〇五〇年八月二八日 一〇時四三分

 ここで機能するための能力が、他の条件においては「機能障害」と見なされる特性に起因していることに疑いの余地はない。こうした特性はリフトへの長期曝露を実現するのみならず、その曝露の結果として強化される可能性がある。例えばレニー・クラークは、基地に来る前は罹患していなかったはずの切断神経症を発症している。「修復」の際に試みられた継ぎ接ぎこそ恐ろしく無様ではあったが、壊れても簡単に「直せる」生き物に魅了されることの根底にあるものは極めて明白だ。逮捕以前は屋内マラソンに興じていたジュディス・カラコは、強迫的にビービのトランスポンダラインを上へ下へと泳いでいる。きっと他の対象者も同様の嗜癖を持っているのだろう。

 こうした行為が生理的依存症の表れなのかどうかはまだはっきりとしない。もしそうだとすれば、最も症状が進んでいるのはケネス・ルービンではないかと思われる。他の対象者との会話で知ったのだが、ルービンは時々外で寝ているらしい。どんな基準に照らしても健全と見なされるはずのない行為だ。ルービンの詳細な経歴を知れたら、その原因をより深く理解できるのだが。言うまでもないが、提供されたルービンのファイルは関連項目に抜けが多いのだ。

 各人が抱える心理的負担からすると意外ではあるが、仕事中の対象者たちはしっかりと協力している。シフトの際は、異様と言ってもいいほどの協調の感覚が伝わってくる。振りつけでもされているかのようだった。あれはあたかも――

 これはもちろん主観的な印象だが、リフターたちは他者に対する意識の高まりを共有していると思われる。少なくとも外にいるときは。また、私に対する意識の高まりも有しているようだ。あるいは、私の心理状態を驚くほど鋭敏に見抜いたかのどちらかだ。

 だめだ。あまりにも、あまりにも――

 あまりにも誤解を招きやすい表現だ。陸の半数体どもがこれを読んだら、吸血鬼側が優勢だと考えるだろう。最後の数行を削除し、他の可能性を考える。

 疑わしい言葉がひとつある。その言葉はアイソレーションタンク内における経験、あるいは入力が皆無のVR内部における経験、もしくは(極端な場合だが)中枢神経系の感覚ケーブルが断線したときの経験を表現する。つまり、入力不足のため脳のあらゆる部位で信号が途絶えた感覚遮断状態を。その言葉はガンツフェルトという。

 ガンツフェルト状態はとても静かなものだ。通常、側頭葉と後頭葉は入力であふれかえっており、その信号はどんな競合相手であれ圧倒するほど強い。だが、それらの部位が沈黙したとき、心は闇の中でかすかなささやきを認識することがある。心はどこか遠くの部屋のテレビに映る映像と奇しくも似通った光景を描き出す、かもしれない。または感情のエコーを馴染み深く、しかし直接的ではない形で感じ取ったり。

 統計はこれらの感覚が完全なる想像の産物ではないと示唆している。一〇年前の専門家、幸運にも適切なときに適切な場所にいたという点を除けばイヴ・スカンロンと似ている人々は、ささやきの発生源を解明しさえした。

 明らかになったのは、あらゆるニューロンに充満する蛋白質微小管が受信機として働き、弱い信号を量子レベルで受け取っていること、意識そのものが量子現象であること、意識を有するシステム同士が特定条件下で通常の感覚媒体を迂回して直接相互作用することだった。

 悪くない。一〇〇年前に始まった、ふたつに割られてテープで目に留められたピンポン球の結実にしては。

 ガンツフェルト。これだ。こちらをたやすく見透かす化け物どもの話はするな。終点は忘れて、過程を解剖しろ。

 主導権を握るんだ。

 ここではガンツフェルト効果のようなものが作用していると思われる。暗く、無重量状態の深海環境が感覚を奪い、信号対雑音比が閾値を超えている可能性がある。観察からは男性よりも女性の方が敏感であることが示唆される。これは女性の方が脳梁が大きく、結果として皮質間処理速度の点で勝っているのを考えると整合性がある。

 この現象の原因がなんであれ、まだ私に影響を及ぼしてはいない。単に多少時間がかかるだけかもしれないが。

 おっと、もう一点。カール・アクトンが医療スキャナを使用した記録は見つからなかった。クラークとブランダーに訊いてみたが、両者ともアクトンが実際に機器を使用したかは思い出せなかった。アクトン以外の人員の負傷記録の数からすると、これは驚くべきことである。

 イヴ・スカンロンは食卓に座り、渇き切った口で無理に食事をしていた。階下で、通廊で、すぐ背後で、吸血鬼たちが動く音がする。振り返りはしなかった。一切弱みを見せてはならない。自信のなさを少したりとも漏らしてはならない。

 今ならわかる。吸血鬼は犬に似ている。恐怖を嗅ぎつけるのだ。

 サンプリングした音声が頭の中にあふれ、無限ループする。ここにおまえの友達はいないんだ、スカンロン。俺たちを敵に回すんじゃないぞ。ブランダーは五分前、耳許でそうささやいてからウェットルームへ下りていった。カラコがカチャカチャカチャとパン切りナイフを食卓に打ちつけている間は考え事をするのもままならなかった。ナカタの忌々しいくすくす笑い。それから、想像上の未来でパトリシア・ローワンが見せる嘲笑い。まあ、決まり切った仕事もこなせず叛乱を招くようじゃ、私たちがあなたを信頼しなかったのも当然よね……。

 あるいは異なる時間線から返ってくる谺、GAへのそっけない通信。スカンロンを失いました。すみません。

 その裏で、長く虚ろで凍てついたあの音が、ずるずると脳髄の底を滑っていく。あの音。誰も口にすることのないあの音。奈落の底に響く声が。正体はわからないが、今夜はすぐ近くで鳴っている。

 だが、吸血鬼たちはまったく気にしていない。食事を終えて凍りついているスカンロンを放置したまま、スキンを密閉し、フィンを手に取り、ひとりまたひとりと外へ落ちてゆく。あの呻き声を上げる存在が待つ外へ。

 スカンロンは頭の中の声に負けじと考える。もしあれが中に入ってこられるとしたら。もし今夜、奴らがあれと一緒に戻ってきたら、と。

 吸血鬼は全員去った。しばらくすると頭の中の声さえも薄れていく。その大半が。

 こんなの正気じゃない。じっと座ってもいられないなんて。

 今夜耳にしていない声がひとつあった。スカンロンが醜態を曝している間、レニー・クラークはじっと座ってただ見ていた。クラークは連中が目を配る存在だ。寡黙だが、口を開けば注目を集める。こちらがいないときはどんな話をしているのだろうか。

 座ってもいられないが、状況はそれほど悪くない。本当に脅されているわけでもないし――

 ここにおまえの友達はいないんだ、スカンロン。

 ――とりあえず、あからさま形では。

 一体全体どこで負けてしまったのだろう。提案は充分に理性的だった。滞在期間短縮の見通しがあるからといって、あそこまで不機嫌になるはずもなかった。こんな劣悪な場所に依存しているのだとしても、あくまでその兆候があるにすぎないのだから。脅すようなことも一切言わなかった。安全基準違反を指摘されたのが気に食わなかったのかもしれないが、それは今に始まったことではない。向こうは自らが冒している危険を承知していたのみならず、それを誇示すらしてみせた。

 おまえは莫迦か。そんなものは敗因じゃない。ルービンに言及するべきじゃなかったんだ。ルービンを持ち出したのがいけなかったんだよ。

 だが、提案の時点では理に適っていたのだ。ルービンがここでさえ部外者であることは明白だ。こちらとて莫迦ではない。アイキャップに覆われた目からもサインは読み取れる。ルービンは他の吸血鬼とは違う。奴を例として扱うのは世界で最も安全な行為だったはずだ。スケープゴートは数百年にわたり治療に役立つ道具として重宝されている。

 なあ、きみたちはルービンみたいになりたいのか? あいつは外で寝てるんだぞ!

 スカンロンは頭を抱えた。全員が外で寝ているなんて、どうして私に知りようがある。

 気づいてもよかったのかもしれない。もっとよくソナーを監視することも、個室にいるときを見計らい、中に留まる時間を測ることもできた。やれることはいくらでもあった。

 やらかしてしまった。もうだめかもしれない。どうしてあんな――

 クソッ、音が近い。なんなんだいったい――

 黙れ! 黙れと言っているんだ!

 ソナーに映っているかもしれない。

 深呼吸をし、通信室へと踏み込む。操作の基礎訓練はもちろん積んできたが、どうせ見ればわかる。クラークのおざなりなチュートリアルを受ける必要など本当はなかった。数秒の労力で概況を引き出す。吸血鬼たちはビービと〈喉〉を結ぶ見えない線の上でビーズ状に連なっていた。もうひとつ、〈喉〉を目がけて動く点が西方向にある。おそらくルービンだろう。乱雑な地形だ。他には何もない。

 見張っていると、ビービに近い四つのアイコンがじわじわと一、二ピクセルずつ〈大通り〉に近づいていく。五つ目のアイコンは線の遙か前方にあり、ほぼルービンと同じくらい離れている。既に〈喉〉の間近だ。

 ちょっと待て。

 吸血鬼。ブランダー、カラコ、クラーク、ルービン、ナカタ。よし。

 アイコン。一、二、三、四、五――

 六。

 画面をじっと凝視する。おい、嘘だろ。

 ビービの通話リンクは超保守的で、テレメトリや通信サーバさえ経由しない直通電話だ。単純さはヴィクトリア朝時代も同然、内破を別にすればいかなるシステムクラッシュが起ころうと回線は保たれると保証されている。これまでは使わなかった。使う理由もない。家に電話をかけた瞬間、自分にこの仕事は無理だと認めることになるのだから。

 今は一瞬の躊躇もなく呼び出しボタンを押した。

「こちら人事部のスカンロン。ちょっとした――」

 通じない。

 もう一度。切れている。

 クソックソックソッ。だが、なぜか驚きはない。

 吸血鬼どもを呼んだっていい。戻ってこいと命令しても。私には権限があるんだから。しばし心が躍る。

 一応あの声は薄れているようだ。集中すれば聞こえる気もするが、本当にかすかなので想像の産物かもしれない。

 ビービが圧しかかる。スカンロンは希望を胸に状況画面を見返す。一、二、三、よ――

 嘘だと言ってくれ。

 いつ外に出たものやら。憶えているのは苦戦しつつ耐圧メッシュをまとい、ソナー銃を手に取ったこと。今はビービ直下の海底にいた。方角を確かめ、二回チェックする。変化はない。

 光からそろそろと這い出して〈喉〉へ向かう。己との果てしない戦いに勝利を収め、ヘッドランプは切ったままにしておく。存在を大々的に知らせる意味はない。

 何も見えない中を海底に張りついて泳ぐ。たまに方角を確かめて進路を修正し、ジグザグに進む。次第に目の前の奈落が明るくなってきた。

 まっすぐ前方で何かが呻いている。

 もう寂しそうには聞こえない。冷たく飢えていて、完全に非人間的な声だ。スカンロンは車のライトに照らされた夜の獣のように凍りつく。

 やがて音は消えた。

 輝く〈喉〉の輪郭が見えてくる。距離はおそらく二〇メートルくらい。月面に建ち並ぶ建造物と重機を思わせる不気味な眺めだ。発電機の中ほどに据えられた投光器から赤銅色に濁った光が降りそそいでいる。スカンロンは光の縁を回った。

 左の方で何かが動いた。

 エイリアンのため息。

 海底にへばりついて目を閉じる。大人になれ、スカンロン。あれがなんであれ、おまえを傷つけられはしない。耐圧メッシュに歯が立つものなどいないんだ。

 血肉を備えたもののなかには……。

 その先を考えたくなかった。目を開く。

 再び動き出したそれを、スカンロンはじっと見据えた。

 黒い煙が海底に立つ岩の煙突から噴出している。今度はただのため息ではない。呻き声だ。

 スモーカー。ただのスモーカーだ。アクトンはこのうちの一本を下ったのだ。

 もしかしたらこれがそれかも――

 噴出が少しずつ衰え、音もささやきほどに小さくなっていく。

 スモーカーは音を発しないはずだ。ともかく、こんなふうには。

 煙突の口までじわじわと浮上する。摂氏五〇度。中を覗くと、二メートルほど下に機械のようなものが固定してあった。それは組み合わせることを想定されていない品々でできている。噴出の名残りの水流に揉まれる回転刃、有孔チューブ、でたらめな角度で固定されたパイプ。スモーカーにはガラクタが詰め込まれていた。

 どういう仕組みか、勢いよくスモーカーを通過した水が歌声となって出てくる。亡霊じゃない。エイリアンの捕食者でもなんでもない。ただの……ウィンドチャイム。安堵が化学的な波となって全身に広がってゆく。力を抜き、安心感に浸り、そして思い出した。

 六人の探知像だぞ。六人。

 しかも自分は投光器に照らされて丸見えだ。

 闇の中に後退する。悪夢の絡繰が丸裸になったことで自信が湧いてきた。巡回を再開する。くすんだモノクロのグラフィックの〈喉〉が、ゆっくりと右方向に回ってくる。

 前方に何かが見えてきた。ケヤリムシの群れに覆われた露頭の上に浮かんでいる。スカンロンはこっそりと近寄り、あつらえ向きの岩の後ろに隠れる。

 吸血鬼だ。ふたりいる。

 ふたりは同じ吸血鬼とは思えなかった。

 普通、外にいるときの吸血鬼たちは似通っていて見分けるのはほぼ不可能だ。しかし、ふたりのうちひとりは間違いなく見覚えがない。そっぽを向いているが、それでもどこか違和感があった。背が高すぎるし、痩せこけている気がする。周りを気にしてびくびく震える様はほとんど鳥のよう。爬虫類的だ。片脇に何かを抱えている。

 性別はわからない。だが、もうひとりの吸血鬼は女性に見える。ふたりは数メートルの間隔を置いて水に浮かび、互いに顔を向けている。たまに女性の方が手を広げるのだが、その動きが唐突すぎたときは、もうひとりが怯えるように少し跳び上がった。

 音声チャネルを回してみる。何もなし。しばらくして女性がためらいがちに手を伸ばし、爬虫類にふれた。その手つきには――エイリアンなりの優しさとでも言うべきものがあった。それから振り返って闇の中へと泳いでいく。爬虫類はそれを見送り、ゆったりと漂っている。その顔が視界に入ってきた。

 フードの密閉が開いていた。顔はとても蒼褪めていて、肌とアイキャップの境界もほとんど見分けられない。目がないようですらある。

 抱えていたものは細断されたチャナーの怪魚の残骸だった。見守るうち、それを口に運んで塊を引き千切り、呑み込んだ。

 遠くで〈喉〉が呻いているが、爬虫類が意に介する様子はない。

 ユニフォームの肩に刻印されているのはごく普通のGAのロゴ。その下にごく普通の名札。

 誰なんだ……?

 虚ろな顔がスカンロンの潜伏場所のそばに向けられ、少しするとまたそっぽを向く。

 相手は独りぼっちだ。危険そうには見えない。

 岩に踏ん張り、勢いよく蹴る。水に押し戻されてすぐ減速する。爬虫類はこちらを見ていない。さらに水を蹴る。いつしかあと数メートルまで近づいていた。

 ガンツフェルト効果。もしここにガンツフェルト効果があるとしたら――

 爬虫類が唐突に振り返り、まっすぐ睨んできた。

 スカンロンは突進した。あとコンマ数秒遅れていたら接近すらできなかっただろうが、幸運が微笑んでくれた。泳ぎ去ろうとした怪物のフィンを掴む。もう片方の脚が振られ、ヘルメットに弾き返される。もう一度、今度はもっと下の方を蹴ってきた。ソナー銃が回転しながらベルトから外れる。

 しがみついてやると、相手は一言も発することなく両の拳で攻撃してきた。耐圧メッシュ越しだから衝撃はほとんど感じない。スカンロンは反撃する。サンドバッグにされていた子ども時代、何度も角に追い込まれながら弱々しく自衛するしかなかった頃の必死さで。

 そうこうするうちに気づく。どうも今回は昔と違って効き目があるらしい。

 ここで相手にしているのは近所のいじめっ子ではない。地元の酒場でアウストラロピテクスと不注意にも目を合わせた代償を払っているのでもない。相手はひょろりと痩せた取るに足りないフリークで、しかも逃げようとしている。この自分から。こいつは紛れもなく、弱い。

 人生で初めて、イヴ・スカンロンは勝利を目前にしていた。

 固めた拳がチェインメイルの戦鎚と化す。敵が暴れる。スカンロンは掴み、ひねり、獲物に組みつきアームロックをかます。被害者はなすすべもなく腕を振り回す。

「どこにも行けやしないぜ、お友達」

 ついに、齢七歳の頃から練習してきたゆったりと見下すような口調を試すチャンスがやってきた。甘美な響きだ。自信満々、主導権を握っているようじゃないか。

「どんなクズなのかわかるまではな――」

 光が消えた。

〈喉〉の全域が闇に沈んだ。唐突に、音もなく。まばたきで残像を振り払うのに数秒かかる。遠い彼方のごくかすかな灰色の光が、やっとのことで見て取れた。ビービだ。

 その光も見る間に消える。腕の中の生き物はすっかり動かなくなっていた。

「放しなさい、スカンロン」

「クラークか?」

 クラークだろう。ヴォコーダは全てを覆い隠すわけではなく、声に微妙な違いがあることには、やっと気づき始めたところだった。

「きみなんだろう?」ヘッドランプをつけたが、どこに向けても何も見えない。

「腕が折れる」声が言う。クラークだ。そうに違いない。

「私はそんなに――」強くない。「――不器用じゃない」

 スカンロンは奈落に向かってそう言った。

「関係ない。骨からカルシウムが抜けてる」つかのまの沈黙。「脆いんだってば」

 スカンロンは少し手をゆるめた。何か見えないかと前後に身をよじる。何もない。視界に入るのは人質の肩のパッチだけだ。

〈フィッシャー〉。

 だが失踪したのは――月日を遡って数える――七ヵ月も前じゃないか!

「そいつを放せ、この下衆が」

 別の声。ブランダーだ。

「今すぐ。さもないとぶっ殺す」

 ブランダー。ブランダーが小児性愛者を守るだと。そんなことがありえるのか?

 今それはどうでもいい。心配すべきことは他にある。

「きみたちはどこにいるんだ」スカンロンは叫んだ。「何をそんなに恐れてるんだ?」

 こんな見え見えの挑発が効くと思ってはいない。時間を稼ぎ、不可避の結末を遅らせようとしているだけだ。フィッシャーを放すわけにはいかない。その瞬間、選択肢がなくなる。

 すぐ左の方で何かが動いた。身体を回す。にわかに動きがあり、ヘッドライトが手足らしきものを捉える。ひとりにしては多すぎる。すぐに見えなくなった。

 やりやがった。ブランダーが本当に私を殺そうとして、他はそれを止めたんだ。

 とりあえず、今のところは。

「最後のチャンスよ、スカンロン」

 と再びクラークが言う。近いが見えない。耳の中で鼻歌を歌われているかのようだ。

「こっちは手でふれる必要もないのはわかってるよね。ここに置いていくだけでいい。一〇秒で放さなかったら、あなたは絶対に帰り道を見つけられなくなる。一」

「仮に見つけられたとしても」別の声だ。誰かはわからない。「待ってるからね」

「二」

 スカンロンは顎の周りに配置されたヘルメットのダッシュボードを確認する。吸血鬼どもはビービの追跡ビーコンを遮断していた。

「三」

 コンパスを確認する。表示は定まらない。当然だ。磁気によるナビゲーションなんてリフトでは論外だ。

「四」

「いいさ。置いていけよ。かまやしない。私は――」

「五」

「海面に向かうだけだ。このスーツの中なら数日は保つからね」

 そうとも。まさかこいつを連れてぷかぷか浮かんでいくのを許す気もあるまい。それにしてもフィッシャーは連中にとってなんなんだ。ペットか。マスコットか。

「六」

 それともロールモデル?

「七」

 まずい。まずいぞ。

「八」

「頼む……」

「九」

 腕を放した。フィッシャーは闇の中へと泳ぎ去っていき、

 止まった。

 振り返り、五メートル先の水中に浮かぶ。

「フィッシャー?」

 スカンロンは辺りを見回した。見た限り、宇宙に浮かぶ粒子は自分たちふたりだけだ。

「私がわかるか?」

 手を伸ばしてみた。フィッシャーは臆病な魚のようにびくりとしたが、逃げはしない。

 スカンロンは奈落を見渡し、呼びかけた。

「きみたちはこんな末路を望んでるのか」

 誰も答えない。

「七ヵ月もの感覚遮断が心にどんな影響を与えるか、考えたことがあるか。こいつはすっかり人間からかけ離れてるじゃないか。残りの人生をこうやって過ごすつもりじゃないだろうな。泥の中を這いずり回って、ワームを食べて。それがきみたちの望みか?」

「私たちの望みは」何かが闇から語りかける。「放っておいてもらうこと」

「そんな望みは叶わない。私に何をしようともだ。永遠にここにいられはしない」

 わざわざ異議を唱える者はいない。フィッシャーは目の前に浮かび続け、首を傾げている。

「聴いてくれ、ク――レニー、マイク。きみたち全員だ」

 ヘッドライトの光条をあちこちへ向ける。何もない。

「これはただの仕事だ。ライフスタイルなんかじゃない」

 だが、スカンロンもそれは嘘だとわかっていた。こいつらはこの仕事が存在する遙か前からリフターだったのだ。

「上は迎えを寄越すぞ」

 そっとささやいた。これは恫喝なのか、それとも警告なのか、自分でもわからなかった。

「そのときはここにいないかもしれない」とうとう深淵はそう答えた。

 なんてことだ。

「なあ、ここで何が起きているのかはわからない。だがな、こんなところにずっといたいと望むなんて、できっこないだろ。誰にも――クソッ、どこにいるんだ?」

 答えはない。フィッシャーだけ。

 スカンロンはすがるように言った。

「こんなはずじゃなかったんだ」

「こんなつもりは――だって、私は――」

「すまない。すまない……」

 何もない。ただ闇があるのみ。

 やがて照明は戻り、ビービも安心させるように専用チャネル上で発信音を鳴らし始めた。その頃にはジェリー・フィッシャーもいなくなっていた。いつ去ったのかはわからない。

 他の奴らが本当にいたのかどうかも曖昧だった。ビービには泳いで帰った。独りで。

 きっと私の話なんて聞いてもいなかったんだろう。残念だ。最後の方はちゃんと真実を語っていたからだ。

 吸血鬼を憐れむことができたらいいのだが。簡単なはずだ。連中は闇の中に、アイキャップの奥に隠れている。まるでフォトコラーゲンが全身麻酔薬であるかのように。本物の人間の憐れみを集めるだけの理由がある。しかし、ある意味で自分より恵まれた人間を憐れむことができるだろうか。病的な形ながら、幸せそうな人間を。

 自分を死ぬほど怯えさせる人間を、どうしたら憐れむことができる?

 それに、向こうは私を弄んだじゃないか。私はあいつらをまったくコントロールできなかった。ここに来てからたったひとつでも本物の選択をしたか?

 したとも。フィッシャーを差し出し、生かしておいてもらったじゃないか。

 ふと思う。この件をどう公式記録に残せば、とんでもない間抜けに見えずに済むだろうか。

 結局、深くは気にしないことにした。

 公式記録/二〇五〇年八月三〇日 一〇時四三分

 先ほど得た証拠は……その、間違いなく……。

 ビービ基地の人員の振る舞いは明らかに……。

 先ほど基地の人員と有力なやりとりをした。どうにか直接的な対立は避け……。

 あー、クソが。

 出発二〇分前、イヴ・スカンロンを除いてビービに人気はなかった。

 ここ二日はずっとこんな調子だった。もはや吸血鬼たちはあまり中に入ってこない。故意にこちらを締め出しているのか、自然状態に立ち戻っているだけなのか。どうとも言えない。

 それでよかった。今となっては両陣営共に言い残すべきことはない。

 往復船は到着間近のはずだ。スカンロンは決心を固める。奴らが入ってきても個室に隠れている姿を見られないように、堂々とラウンジにいることにしよう。

 息を吸って止め、耳を澄ます。ビービがギシギシと軋み、ポタポタと水を滴らせる。他に生きている音は聞こえない。

 寝台から立ち上がり、隔壁に耳を押し当てる。何も聞こえない。ハッチの密閉をゆるめ、数センチ開いて外を覗き見る。

 何もない。

 スーツケースは何時間も前に荷造りをしておいた。デッキからケースを掴み取り、ハッチを勢いよく全開にし、断固たる足取りで通廊を進む。

 ラウンジに出る直前に影が目に入った。隔壁にぼんやりとしたシルエットがかかっている。心の一部は回れ右をして個室に逃げ帰りたがったが、その部分は以前よりずっと小さくなっていた。大部分はただただ疲れ切っていた。そのまま前へ足を進めた。

 ルービンが梯子のそばに立って待ち構えていた。濃淡のない象牙色の目で見つめてくる。

「さよならを言いたかった」

 スカンロンは笑った。笑わずにはいられなかった。

 ルービンは平然と眺めている。

「すまない」

 とスカンロンは言う。愉快な気分は微塵もなかった。

「なんせ――きみたちは『こんにちは』すら言わなかったからな」

「ああ、そうだったな」

 今回はどういうわけかルービンになんら脅威を感じなかった。理由はよくわからない。ルービンの経歴ファイルは依然として穴だらけで、噂は今なおガラパゴスで渦巻いているし、他の吸血鬼もこの男とは距離を取っている。だが今このときは何も見えてこない。ルービンはただそこに立ち、身体を左右にゆすっている。無防備に見えるほどだ。

「それで俺たちは近いうちに連れ戻される予定なのか」

「正直に言うと、知らないんだ。私が決めることではないからね」

「だが、あんたが送り込まれたのは――道を整えるためじゃないのか。洗者ヨハネのように」

 ルービンの口から出たにしては奇天烈なアナロジーだ。返事はしなかった。

「あんたは――上は俺たちが戻りたがらないと知っていたんじゃないのか。それを当てにしていたんだろう」

「そんな感じではなかったな」

 そう言いつつ、いつになく知りたくなっていた。GAはどこまで知っていたのだろう。

 ルービンが咳払いをする。妙に何か言いたげだが、何も言わない。

 ややあってスカンロンは言った。

「ウィンドチャイムを見つけたよ」

「ああ」

「随分と怖がらせてくれたもんだ」

 ルービンはかぶりを振った。

「そういう目的じゃなかった」

「どういう目的だったんだ」

「ただの――趣味なんだ。俺たちは全員ここで趣味を見つけた。レニーはヒトデ。アリスは――夢。ここは醜いものに光を当てるのが巧い。だから美しくさえ見える」

 肩をすくめ、

「俺は記念碑を作っている」

「記念碑」

 ルービンが頷く。

「ウィンドチャイムはアクトンのための記念碑だった」

「そういうことか」

 何かが金属音と共にビービに落ちてきた。思わず跳び上がってしまう。

 ルービンは反応も見せずに言った。

「もうひとつ作ろうかと思ってる。フィッシャーのために、ことによれば」

「記念碑は死者のためのものだ。フィッシャーはまだ生きてるじゃないか」

 とりあえず、厳密に言えば。

「それなら、あんたのために作るとしよう」

 頭上のハッチが開いた。スカンロンはスーツケースを握り、片手で上り始める。

「先生――」

 スカンロンはぎょっとして下を見た。

「俺は――」

 ルービンは言い淀み、やや間を置いてからこう言った。

「俺たちは、あんたをもっとしっかりもてなせてもよかったな」

 なんとなく、これはルービンが言おうとしたことではないとわかった。待ってみたが、それ以上何も言ってこなかった。

「ありがとう」

 スカンロンはそう告げて、ビービから永遠に去る。

 乗り込んだ船室には違和感があった。困惑して周りを見渡す。通常の往復船ではない。客室は狭く、壁にはノズルがずらりと並んでいる。前方の操縦席のハッチは密閉されており、奇妙な顔が丸窓越しに見つめ返してくる。腹部ハッチが勢いよく閉じられた。

「なあ……」

 顔が消える。金属の口が離れる音が船室に響く。わずかに傾き、潜水艇が浮かび上がった。

 微細なエアロゾルの霧がノズルから噴出し、目に沁みた。聞き慣れない声が客室のスピーカーから聞こえ、安心するようにと言う。心配ありません。単なる所定の予防措置ですから。

 万事順調です。


引き網

エントロピー

 レニー・クラークは思う。事態が手に負えなくなってきているかもしれない。

 他のみんなはどうも気にしていないようだ。ラウンジではルービンとカラコが大きな声で話しており、シャワー室からはブランダーが歌い始めるのが聞こえてくる。私たち、幼い頃に虐待なんてぜーんぜん受けませんでした、と言わんばかりだ。その無頓着さが羨ましくなる。誰もがスカンロンを憎んでいた。まあ、厳密に言えば、憎んでいたというのは少し大げさかもしれないが、それでもいくらかの――

 軽蔑――

 そう、少なくとも軽蔑はあった。地上にいた頃のスカンロンは全員をチェックリストと照らし合わせた。何を言われても頷き、小声で先を促し、自分は味方だと確信させるためにあらゆることをしながら。もちろん本当に同意を示すことは除いてだ。あんな間抜けを見透かすのにファインチューニングなんて必要なかった。ここにいる者は全員、過去にスカンロンのような人間を腐るほど見てきた。仕事だからと形式上の同情を示す人たち、即席の友人たちは、家に帰れ、不平を口にするのはやめろと優しく教え諭してくる。それがきみのためだからと、慎重に見せかけながら。当時のスカンロンはよくいる頭の足りない上から目線の下衆だったし、そんな男が成り行きでリフターの庭にしばらく滞在することになったときに、ちょっと楽しませてやったところで責められるいわれもあるまい。

 でも、私たちはあいつを殺していたかもしれない。

 先に始めたのはあっちでしょ。ジェリーを襲って。人質にした。

 だからってGAが情状酌量の余地ありと見てくれると思うの……。

 今のところ、この疑念は胸に仕舞っていた。耳を傾けてくれないのではと恐れていたわけではない。その反対をこそ恐れていた。誰の心も変えたくないし、軍勢を整えるつもりもない。イニシアティヴはリーダーの特権だ。責任なんて欲しくない。自分が絶対なりたくないのは、

 群れのリーダーなんだよ、レン。狼のボス。シャチのケイラ。

 死んで数ヵ月になるというのに、アクトンは今なお笑いかけてくる。

 なるほど。スカンロンは悪く言ってせいぜい邪魔者、良く言って愉快な気晴らしだった。ブランダーに言わせれば、「アホくせえ。外であいつに同調してみたか? GAは間違いなく、あんな奴をまともに相手にしちゃいないぜ」。GAはこちらを必要としているし、数人のリフターがスカンロンのようなクズで遊んだからといってプラグを抜くつもりもない。道理だ。

 そうだとしても後先を考えずにはいられない。当然の結果を避けられたことなんて過去一度としてなかったから。

 ブランダーがやっとシャワー室から出た。その声がラウンジから漂ってくる。シャワーはここでは道楽であり、自浄作用のある半浸透性ダイブスキンの中で暮らしていればほとんど必要もないが、それでもやはり熱い湯を浴びるのは純然たる快楽でもあった。クラークはラックからタオルを掴み、先を越されないようにと梯子を上る。

「ああ、レン」

 ブランダーと共にテーブルについたカラコが手を振ってみせ、

「最新ファッションをチェックしなよ」

 ブランダーは紛うことなきワイシャツ姿だった。アイキャップさえつけていない。

 瞳は茶色だ。

「わお」

 他になんと言えばいいのやら。目はとても奇妙に見えた。なんとなく気まずくなって周りをうかがう。ルービンはソファに座って眺めていた。

「ケンは、どう思う?」

 ルービンは首を傾げ、

「なぜドライバックみたいな格好を?」

 ブランダーが肩をすくめる。

「さてね。二時間ほど目を休ませてやりたくなっただけだ。スカンロンがいつもシャツを着ていたのを見たせいかもな」

 とはいえ、スカンロンの前でキャップを外そうなどとは誰も一顧だにしなかったが。

 カラコが大げさに身震いしてみせる。

「やめてよ。あいつを新しいロールモデルにする気じゃないでしょうね」

「古いモデルでもねえよ」

 クラークはどうも慣れなかった。

「気にならない?」そんなふうに裸で歩き回って。

「こうしてみると、気になるのは何も見えないってことくらいだな。照明を明るくしたい奴がいないんじゃ……」

「それで結局」カラコが話の接ぎ穂を拾い上げる。「ここに来た理由は?」

「安全だよ」ブランダーはそう言って私的な暗闇を前にまばたきをする。

「へえ」

「多少はましな安全を求めて、な。おまえらだってついこの間まで上にいたんだから、色々と見てきただろ」

「あたしが上で見たものは歪んでると思う。だからここにいるんだし」

「世界がこう、不安定になってきたと思わなかったか?」

 カラコは肩をすくめた。クラークは湯気の立つ水の針を想像しつつ通廊に足を踏み出す。

「俺が言いたいのは、ネットの急変だ。リビングで座りながらにして世界中どこへでも行けたのは、そんな昔でもなかっただろ。ありとあらゆる場所が好きなだけ相互リンクされてさ」

 クラークは振り返った。その時代なら記憶にある。ぼんやりと。ブランダーに訊く。

「バグはどうだったの」

「全然。あったとしても、かなり単純だった。自己の書き換えも、異なるオペレーティングシステムへの対応もできなかった。当初はちょっとした不便でしかなかったんだ」

「でも、学校で教える法則があったよね」とカラコ。

 クラークも思い出して言った。

「爆発的種分化。ブルックスの法則」

 ブランダーが指を一本立てる。

「自己複製する情報文字列は複製エラー率と世代時間のシグモイド差分関数として進化する」

 二本。

「進化する情報文字列はより波長が短いシグモイド差分関数を有する競合文字列の寄生に脆弱性がある」

 三本。

「寄生者から圧力を受けた文字列は宿主と寄生者のシグモイド関数の波長比に応じてランダムな部分文字列交換プロトコルを展開する。ま、こんなところか」

 カラコは視線をクラークに向け、それからブランダーに戻した。

「は?」

「生命は進化する。パラサイトも進化する。雌雄の別は寄生者に対抗すべく進化する。遺伝子をシャッフルすれば、相手は動く標的を狙い撃つ破目になるからな。他の何もかも――種多様性、密度依存性、何もかもが、これら三つの法則からすると当然なんだよ。ある閾値を超えた自己複製文字列は、いわば核反応を起こす」

「生命大爆発ね」クラークは呟く。

「いや、情報大爆発だ。生命はのろまな例にすぎん。ネットではずっと進行が速い」

 カラコが首を振り、

「それで? インターネットのバグから逃げるためにここに来たってわけ」

「俺がここに来たのはエントロピーから逃げるためだ」

「どうやら」とクラーク。「言語障害を患ったみたいね。失読症か何かを」

 しかしブランダーはフルスロットルになっていた。

「エントロピー増大ってフレーズは聞き覚えあるだろ。最終的に全てはばらばらになる。しばらく先送りすることはできるが、それにはエネルギーが必要だ。系が複雑化すればするほど、まとまったままでいるためのエネルギーが増える。人類以前の時代は何もかも太陽光を動力源としていて、あらゆる植物が小さな太陽電池みたいに他の全てを支えていた。ところが今の社会は複雑性の指数関数的なカーブに乗っていて、ネットも同様の、もっと急なカーブに乗っている。だから俺たちは暴走特急の中で困惑してんのさ。複雑さは増すばかりで常に飛び散る寸前、それを防げるかどうかは俺たちが注ぐエネルギーにかかっている」

「悲報ね」とカラコ。もっとも、ちゃんと理解しているようには見えないが。

「いや、朗報だよ。奴らは常にエネルギーの増産を必要としている。だから俺たちのことも常に必要としている。たとえ核融合を解明していてもだ」

「うん、でも――」

 カラコが唐突に顔をしかめる。

「指数関数ってことは、いつかは壁にぶち当たるんでしょ。カーブは垂直になる」

「ああ」ブランダーが頷く。

「でもそれって無限じゃん。世界がばらばらになるのを防ぐ方法なんてない。どれだけ電力を汲み出したって、足りるわけがない。遅かれ早かれ――」

「早かれの方だろうな。だからここにいる。さっき言ったように、多少は安全だから」

 クラークは視線をブランダー、カラコ、ブランダーと向け、

「とんだ与太話だね」

「そりゃまたなぜ」ブランダーに気分を害した様子はない。

「これまでに聞いたことがあってもいいはずだから。誰もが知ってる物理法則か何かに基づいてるなら、なおさらね。そんな話を秘密にしておくのは無理。勝手に解き明かしちゃう人がどんどん出てくるでしょ」

「ああ、俺もそう思う」

 ブランダーはやんわりと言い、茶色の裸眼で微笑む。

「深く考えたがる奴がいないってだけさ」

「どこで知ったの、マイク。ライブラリ?」

 ブランダーはかぶりを振る。

「学位を取った。システム生態学、人工生命」

 クラークは頷く。

「前から思ってた。あなたはリフターにしては賢すぎるって」

「なあ、リフターは現に今最も賢い存在だろ」

「じゃあ、ここには志願して来たの?」

 ブランダーが眉をひそめる。

「ああ。そっちは違うのか」

「電話があった。高給の新しいキャリアを提案されて、もしうまくいかなかったら元の仕事に戻ってもいいって」

「元の仕事は?」とカラコ。

「広報。ホンクーヴァー水族館のフランチャイズが大半」

「あなたが?」

「あまり向いてなかったかも。そっちは」

「あたし?」

 カラコは唇を噛んだ。

「取引、ってところかな。更新オプションありで一年間、起訴の代わりに」

 口角をぴくぴくと震わせ、

「復讐の代償ね。それだけの価値はあった」

 ブランダーは椅子にもたれ、クラークの後ろに目を向ける。

「ケン、おまえは? どこから――」

 ブランダーの視線を追って振り返るとソファは空だった。通廊の奥でシャワー室のドアが閉まる音がする。

 ああもうっ。

 だが待ち時間はほんのわずかだろう。ルービンはもう四時間連続で中にいるから、じきに出ていくはずだ。お湯がなくなるわけでもない。

「少しの間いかれたネットを遮断するだけでいいんじゃないの」

 カラコが背後で話していた。

「プラグを抜けばいい。さすがにバグもそれには対処できないでしょう」

 何も見えないブランダーが健やかに笑う。

「だろうな。もちろん、俺たちの方も対処できないだろうがね」

 二分も画面を睨んでいるのに、ナカタが何を言っているのかわからない。尾根と亀裂が緑色の長い皺のように画面上を走っている。通常のエコーを返す〈喉〉は画面中央に押し込まれていた。ナカタが範囲を最大に広げたからだ。たまに小さな輝点が大きなふたつの輝点の間に現れる。平穏無事なシフト中にだらけているルービンだ。

 その他には何もない。

 クラークは唇を噛んだ。

「私には何も見え――」

「待って。見たんだから」

 ブランダーがラウンジから覗き込んできた。

「何を見たって?」

「アリスが言うには三二〇度方向に何かを見たって」

 ジェリーかもしれない。だがナカタもそんなことで警報を出したりしないだろう。

「あれは確か――そこ!」

 ナカタが画面に指を突きつけ、嘘ではないことを証明する。

 ビービの視界すれすれのところに何かが浮かんでいた。距離と回折で霞みがかっているが、これだけ離れていても信号が跳ね返ってくる以上は大量の金属を含んでいるはずだ。見守るうちに探知像が薄れてゆく。

「身内じゃないね」とクラーク。

「でかいな」

 ブランダーが画面に目を細める。アイキャップが白いスリットのように光を反射する。

「マックレイカーかな。でなきゃ潜水艦」

 とクラークが提案してみると、ブランダーがうぅんと唸る。

「ほらあいつがまた」とナカタ。

「あいつら、だな」

 とブランダーが訂正する。ふたつのエコーが画面端にちらついていたが、ほとんど識別できない。ふたつの大型未確認物体は海底の雑像から仄見えたかと思うと、再び単調なノイズに沈んでいく。

 そして消えた。

「見て」

 とクラークは指さす。画面上の地震計に細波が立っていて、北西からの波にセンサが反応していた。ナカタがコマンドを打ち、震央の方向を逆算する。三二〇度。

「あそこで何かする予定はなんにもないけど」とナカタ。

「わざわざ伝えてくれたものは何も、ね」クラークは眉間を擦る。「で、誰が行く?」

 ブランダーが頷く。ナカタは首を振り、

「ジュディを待つ」

「ああ、そうだったね。行くとこまで行くつもりなんだっけ。海面まで往復?」

「うん。たぶん一時間くらいで帰ってくるはず」

「わかった」

 ブランダーは既に梯子を下りていた。クラークはナカタの脇に手を伸ばして外部チャネルを呼び出す。

「さあケン。起きて」

 私はこの界隈を知っていると自分に言い聞かせている。ここをホームだと思っている。

 そのくせ、私は何も知らない。

 真下を巡航するブランダーは、燃え上がる海底に下から照らされている。世界が色彩に波打つ。青や黄、緑はあまりに澄んでいて目に痛いほどだ。まばらな菫色の星がひとつに集まり、海底をさっと流れてゆく。壮麗な輝きはエビの群れだった。

「来たこと――」

 クラークはそう言いかけ、ブランダーから戸惑いと驚きを感じ取った。これまで見たことがなかったのは明らかだ。ルービンは――初めてだ、と声に出して答える。相変わらず闇に包まれたまま。

「見事なもんだ」

 ブランダーが言う。

「長いこといるのに、こんな場所があるのを知りもしなかったんだな、俺たち……」

 たぶんジェリーは例外だ。全員の所在がわかっているとき、ビービのソナーがこの方向に何者かを捉えることがある。無論こんなに遠くではないが、最近のフィッシャーが――あるいは元フィッシャーがどれだけ離れたところまでさまよっているかなど、誰にもわからない。

 ブランダーが〈イカ〉から手を放して海底に沈み、片腕を伸ばして何かをすくい取る。かすかな疼きでクラークの心はつかのま曇った。すぐそばで動いている別の心の、なんとも言えない感覚だ。〈イカ〉に牽引されるままブランダーを通り過ぎる。

「おい、レン」ブランダーが後ろから話しかけてくる。「これを見てくれ」

 クラークはスロットルをゆるめ、弧を描いて戻る。ブランダーの掌には関節があるガラス質の生き物が載っていた。以前アクトンが見つけたエビに少し似ている――

「傷つけないで」

 ブランダーのマスクが見つめ返す。

「んなことするかよ。ちょっとこいつの目を見てほしいだけだ」

 ブランダーの放射には違和感があった。ブランダー自身との同期がわずかにずれているというか、脳がふたつの周波数で同時放送しているというか。頭を振ると、その感覚は去った。

 クラークは生き物を見て言う。

「目なんてないじゃない」

「あるとも。頭にないだけだ」

 ブランダーが生き物を裏返し、拇指と人差し指でもう一方の掌に上下逆に固定する。並んだ手足(おそらく脚、あるいはエラ)が、足場を求めて徒にもがく。手足の間、関節と胴体が接する部分に黒く小さな珠が並び、レニー・クラークを見つめ返している。

「変わってるね。目がお腹についてる」

 さっきの放射をまた感じた。砕けたプリズムのような色鮮やかで奇妙な意識の感覚だ。

 ブランダーが生き物を解放する。

「合理的だ。ここじゃ光は下から来るからな」

 唐突にクラークに目を向け、困惑を放射する。

「なあ、レン、気分はなんともないか」

「うん、平気」

「なんつうか――」

「分裂してる」ふたりは同時に言う。

 理解した。どこまでが自前の認識でどこからがブランダーに同調した分なのかはわからないが、ふたりは唐突に気づいた。

「誰かいるな」ブランダーが言わずもがなのことを言った。

 クラークは周りを見る。ルービン。姿は見えない。

「まさか。そう思うか」

 ブランダーも水中に目を走らせていた。

「ケンおじさんがやっとこさ同調し始めたって?」

「さあ」

「他の誰がありえるってんだ」

「さあね。他に外に出てる人は?」

「マイク。レニー」ルービンの声が前方からかすかに届く。

 クラークはブランダーを見た。ブランダーが見つめ返す。

「ここだ」少し音量を上げてブランダーが呼ぶ。

「見つけたぞ」ルービンはそう言うが、遠くて見えない。

 クラークは海底から離れて〈イカ〉を掴む。すぐ隣でブランダーがソナー銃を取り出して撃ち、一拍置いて言った。

「見つけた。あっちだ」

「他に何かある?」

「わからん。とにかくでかい。三、四メートル。金属質だ」

 クラークはスロットルを調節する。ブランダーが後に続く。眼下に色彩が広がる。

「あれだね」

 前方で、網の目になった緑の光がいくつもの正方形で海底を区切っている。

「なんだろう」

「レーザー、だと思う」とブランダー。

 エメラルド色の完璧な直線が何本も浮かび、大量の直角が海底の数センチ上で輝いている。その下の岩盤に並ぶ薄茶色の金属パイプからは小さなプリズムが一定間隔で突き出ていて、脊椎を彷彿させる。各プリズムは格子の交点で、それぞれコヒーレント光のビームを四方向に照射し、ワイアフレームのチェッカーボードを岩盤の上に描き出していた。

 ふたりは格子の二メートル上方を進む。

「確信はないが、あれは全て一本のビームだと思う。反射を繰り返してるんだ」

「マイク」

「見えてる」

 少し離れたところからだとぼやけた緑色の円柱に見えた。近づくに従って鮮明さが増してゆく。こちらでは海底で交差するビームがひとつの円を成し、垂直方向に曲がって円筒形の檻の鉄格子を形作っている。檻の中では太い鋼鉄の茎が海底から伸び上がり、天辺に咲く大きな筒状花が工業用パラソルのように広がっていた。その外周からスポーク状のレーザー光が降りそそぎ、海底で延々と跳ね返り続けている。

「まるで――回転木馬だね」

 クラークは大昔の古い写真を思い浮かべながら言った。

「馬がいないけど……」

「ビームを遮るなよ」

 とルービンが言い、そばに浮かびながらソナー銃の狙いを構造物に定める。

「弱いから目にでも入れない限り痛くないが、作業に干渉したくはないだろう」

「で、これはなんなんだ」とブランダー。

 ルービンは答えない。

 何がなんだかわからない。だが、クラークの困惑は目の前の機械には部分的にしか向けられておらず、残りは頭を混乱させてくる異質な感覚に向いていた。強烈で、自分のものでもブランダーのものでもなく、それでいてどこか馴染み深い感覚に。

 ケン、あなたなの?

「これはソナーで見たのと違うな」

 とブランダーが言う。困惑を隠しつつ話しているが、クラークには伝わってくる。

「俺たちが見た奴は動き回ってた」

「そいつはおそらくこれを設置していたんだろう。とっくにいなくなってる」

「だがこいつは……」ブランダーの声はだんだん小さくなり、機械の雑音に変わっていく。

 違う。ルービンじゃない。クラークはようやく気づいた。

「これは考えてる。生きてるんだ」

 ルービンは別の計器を取り出していた。表示は見えないが、カチ、カチ、カチという音は水越しにもはっきりと伝わってくる。ルービンが言う。

「放射能がある」

 アリス・ナカタの声が、ビービと回転木馬王国との間の果てしない闇の中に届いた。

「――ジュディ――」ささやきはかすかで判然としなかった。「――散乱――そ――」

「アリス?」

 クラークは耳が痛くなるくらいにヴォコーダの音量を上げる。

「聞こえない。もう一回言って」

「――何も――サインが――」

 ほとんど言葉を識別できない。が、それでもなんとなく恐怖は聞き取れる。

 軽い揺れが通過し、泥の雲を巻き上げてナカタの信号をかき消す。ルービンが〈イカ〉のスロットルを上げて離れていく。クラークとブランダーもそれに倣う。前方の闇のどこかにあるビービがほんの数デシベル分近づく。

 次の言葉はどうにかノイズを突き破った。

「ジュディが行っちゃった!」

「行っちゃった?」ブランダーがおうむ返しに言う。「行っちゃったって、どこに」

「消えたんだってば!」

 ささやくような声が全方位から聞こえてくる。

「交信中だった。あの子は音波散乱層の上にいて、あの子は――私があの信号の話をしたら、自分も何かを見たって言って、それで、消えちゃった……」

「ソナーはチェックしたか」とルービン。

「うん! もちろんソナーはチェックした!」

 ナカタの声が明瞭さを増してゆく。

「通信が切れてすぐチェックしたけど確実に何もなかった。あったのかもしれないけど、今日は散乱層が分厚くて確かめられなかった。もう一五分経つけどまだ帰ってきてない……」

「どのみちソナーじゃ見つからん」ブランダーがやんわりと言う。「散乱層越しだとな」

 ルービンはそれを無視し、

「なあ、アリス。何を見たかは言っていたか?」

「ううん。何かとだけ。そこから先は何も聞こえなかった」

「ソナーの探知像は。大きさはどれくらいだ」

「わかんない! ほんの一秒しかいなかったし、散乱層が――」

「アリス、潜水艦の可能性はないか」

「わかんない!」

 姿の見えない悲鳴は苦悩に満ちていた。

「どうして潜水艦が? いったい誰が?」

 誰も答えない。〈イカ〉たちが全速力で進んでゆく。

脱皮

 網に絡み取られたままエアロックから放り出された。こんな条件下で戦うほど莫迦ではないが、状況はすぐに変わるはずだ。連中はエアロックに捕らえた獲物に毒ガスを浴びせようとしたのだろう。相手が排水後も頭部の装備をつけたままにする理由は他に思いつかない。メインタンクブローのずっと後になってから数秒間続いたかすかな空気音はどうだ。微妙すぎる手掛かりだが、こちらも一年の大半をリフトで過ごしてエアロックがどんな音を出すか学ばなかったわけではない。さっきの音は少し妙だった。

 どうということはない。胸部の配管内部でパチャパチャと跳ねるごく少量の水から電解できる酸素分子の量は、驚くほど多い。事態がどう転ぼうとジュディ・カラコはいくらでも息を止めていられる。向こうは今頃〈エアロックのように潮を吹くガス室〉が獲物を中毒にしたか意識不明にしたか、あるいは深くリラックスさせたと考えているかもしれない。そのうちこのふざけた網から出してくれるのではないか。

 力を抜いて待ち構える。果たして小さな電子音がしたかと思うと網が剥がれ落ち、粘つく分子の尻尾が完全に分離する。ヴェルクロを猫の毛皮に撫でつけたような感じだ。カラコはアイキャップ越しに周囲をうかがう。まばたきせず、まったく感情を見せないこの目から読み取れる兆候は皆無だ。三人いる。背後にもっといるかもしれない。

 連中はゾンビか何かだ。

 肌は黄疸で腐っているように見える。爪は指とほとんど見分けがつかない。顔はわずかに歪んでおり、張りつめた黄色っぽい膜に包まれてぼやけているし、本来なら口がある位置のフィルムからはつるりとした黒い楕円が突き出している。

 数秒して気づく。ボディコンドームだ。何それ。あたしが保菌者だとでも思ってんのか。

 さらに数秒後。あたしが?

 ひとりが拳銃のようなものを向けてきた。

 カラコは片腕を振るった。脚の方が鍛えられているからできれば蹴りたかったが、この難民食らいのクズどもは収容したときフィンを外す手間をかけてくれなかった。接触。感触は鼻。ラテックスに覆われた鼻だ。ぐしゃりと手応えのある音が鳴る。この誰かさんは自らの思い込みを後悔しているだろう。

 ショックが生んだ一瞬の静寂に乗じ、身を翻してフィンをつけた足で回し蹴りを放ち、何者かの膝裏に踵を叩き込む。女性の悲鳴が上がり、愕然とした顔がぐらりと傾き、その頬を赤毛がさっと撫で、ジュディ・カラコが道化師の靴めいた大きなフィンを外そうと手を伸ばそうとした瞬間――

 電磁警棒の先端が鼻先一〇センチに浮かんでいた。一ミリたりと揺るがない。カラコはつかのま逡巡し――これを相手にどれだけやれるだろうか――動きを止めた。

「立て」

 警棒の男が言う。コンドーム越しでほぼ見えないが、目があるはずの位置に影がある。

 フィンをゆっくりと外して立ち上がる。もちろん活路が存在しないのは最初からわかっていた。だが、向こうがこちらを生かしておきたがっているのは明らかだ。さもなければわざわざ乗船などさせないはず。同様に、脅すつもりがないことも確かめておきたかった。相手が何人いようが関係ない。

 負け戦にだってカタルシスはある。

「落ち着け」

 と男が言う。今見えているのは四人、そのうちのひとり、ゴム製羊膜の下に赤い染みが広がる男が小室から出ていく。

「痛めつける気はない。だが、わかっているだろう、離れようとすべきではなかったと」

「離れる?」

 男とその他面々の服は制服でありながら、毎日着られるものではなかった。ぶかぶかの白いジャンプスーツはどう見ても使い捨てだ。記章も名札もない。カラコは潜水艦そのものに注意を向ける。

「きみをダイブスキンから出し、迅速な精密検査を行う。侵襲的なものではないと保証する」

 隔壁の曲率からすると大型船ではない。だが速い。それはこいつが頭上の闇から現れた瞬間に思い知った。じっくり見れはしなかったが、見るべきものは見た。この潜水艦には翼が生えていた。シャチをステロイドで包みでもしたのだろう。

「あんたたち、なんなの?」

「ご協力いただけると非常にありがたいのだが」

 何も聞こえなかったかのように警棒使いが言う。

「太平洋の真ん中で何から逃げようとしていたのか、正確に教えてもらいたい」

「逃げる?」カラコは鼻で笑う。「あたしは水泳をしてたんだよ、この莫迦」

「ほう」男が警棒をベルトのホルスターに戻し、片手を把手にそっと据える。

 別人の手に収まって銃が戻ってきた。釘打ち機と回路計の交雑種といった趣。赤毛がそれを肩に強く押しつけてきた。押しのけてやりたくなったが堪える。電気的な疼痛が走ったかと思うとダイブスキンがばらばらに崩れた。腕が、脚が現れ、昆虫が脱皮するよう胴部がふたつに割れて剥がれ落ち、短絡する。完全にスキンが剥がれた状態で見知らぬ人間に囲まれていた。裸のムラート女性が隔壁の鏡から見つめ返してくる。一糸まとわぬ姿にもかかわらず、どこか逞しい佇まい。褐色の顔に白く輝くその目は冷たく、少しも動じていない。笑みが浮かぶ。

「そんなに悪くなかったでしょ」

 赤毛の女の声には熟練の優しさが宿っていた。デッキに叩きつけられたことなどなかったかのようだ。

 連中の先導で通路を進み、コンパクトな医務室の診察台に座る。赤毛が膜に覆われた手で腕にふれてきた。その少し粘ついた感触の手をカラコは振り払う。自分を除けば部屋の定員はふたりほど。三人が無理やり入っている。赤毛、警棒使い、警棒使いより小柄でぽっちゃりした男。男の顔を見つめてみたが、コンドームに覆われて細部は見えない。

「外から覗き込むより中から見る方がよく見えてるといいけど」とカラコ。

 単調すぎて今まで意識していなかった静かな背景雑音が微妙にピッチを上げる。不意に加速を感じた。少しよろめき、診察台の上で身体を支える。

「仰向けになって、カラコさん――」

 診察台の上で手足を伸ばされる。太っちょの男が身体の要所に数本のリード線を貼りつけ、続けて小さな皮膚片を取る。

「こりゃ良くない。全然だめだ」

 広東風の訛りがある。

「上皮の張りが貧弱だ。ダイブ・スキンってのは言葉の綾であって、その中で生きるもんじゃないんだ」

 男の指が肌にふれる。赤毛同様に粘つく薄いゴムだ。

「おやおや、皮脂腺の半分が閉じていて、ビタミンKも少量。紫外線を浴びてなかったな?」

 返事はしてやらない。カントン氏は左側から試料を採り続ける。右側にいる赤毛は当人なりの励ましの笑顔を浮かべているのだろうが、大部分は楕円形のマウスピースで隠れていた。

 カラコの足の先、戸口の真正面に、警棒使いがじっと立っている。

「案の定だ、ダイブスキンに密封されている時間が長すぎたんだ」

 とカントン氏が言い、

「一度でも脱いだことはあるか。もっと言うと、外で脱いだか?」

 赤毛が内緒話でもするみたいに顔を寄せてきた。

「大切なことなの、ジュディ。合併症の恐れがある。あなたが外に身を曝したかどうかをぜひとも知らなきゃいけない。何か緊急事態はなかったかな」

「例えばスキンに穴をあけられたとかだ」

 カントン氏がなんらかの接眼装置を左目の上の膜に取りつけ、耳を覗き込んできた。

「脚の傷痕はどうだ。かなり大きいが」

 赤毛がふくらはぎの皺を指でなぞり、

「確かに。大きな魚かしら」

 カラコは赤毛を見つめた。

「当たり」

「間違いなく深い傷だったろう。それで?」とカントン氏。

「それでって何が」

「その有名な怪物からのお土産は」

「医療記録を持ってないの?」

「調べる手間を省いてくれると助かる」と赤毛。

「急ぎなの?」

 警棒使いが一歩進み出る。

「そうでもない。時間はある。だがその間、アイキャップは外さねばならんだろうな」

「だめ」考えただけで心底ぞっとする。理由ははっきりしない。

「もう必要もないだろう、カラコさん」

 と男は上品に歯を剥き出して笑い、

「リラックスしなさい。家に帰るところなんだから」

「ふざけんな。外すもんか」身体を起こす。リード線が身体から剥がれる。

 いきなり両腕を押さえ込まれた。一方にカントン氏、一方に赤毛。

「クソッ」

 片足を振り回す。低く蹴り、警棒をホルスターからデッキに弾き飛ばす。警棒使いは武器を残して個室から飛び退く。急に両腕が自由になる。カントン氏と赤毛は身を退いて小室の壁にしがみついていた。まるで必死に物理的接触を避けようとしているみたいに――

 それでいい。カラコはにやりと笑う。生意気に駆け引きをしかけるなよ、クズどもめ――

 東洋人が悲しみと難色の入り混じった表情でかぶりを振る。ジュディ・カラコの身体が骨の奥深くでブンッと唸りを上げ、完全に麻痺する。

 ネオプレンのクッションに倒れ込む。診察台の誘導場に囚われた神経が歌声を上げる。動こうにも運動系のシナプスはショートしていた。胸郭内の機械が痙攣とともに雑音を発し、命令に耳を澄まし、静電気を解釈する。

 肺が自らの重みでぐったりと息をつく。再び肺を膨らませる気力を呼び起こせない。

 拘束される。手首、足首、胸、全て診察台に縛られ締めつけられた。まばたきもできない。

 唸りが止まる。空気が喉に流れ込み胸を満たす。気分がましになり、ぜいぜいと喘ぐ。

「心臓はどうだ」と警棒使い。

「いいね。ちょっと除細動をしたけど、今は大丈夫だ」

 カントン氏が診察台の頭側から覗き込んできた。人間の顔に張られた汚らわしいスキンが。

「大丈夫だよ、カラコさん。あんたを助けに来たんだ。わかるかな」

 声を出そうとした。一苦労だった。

「グ、グ、グ、グ、グ――オ――」

「何?」

「こ、これはスカンロンの仕業だろ。ス、スカンロンのふざけた復讐」

 カントン氏が視野の外の誰かに顔を向ける。

「産業心理学者。重要人物じゃない」と赤毛。

 カントン氏が視線を戻す。

「カラコさん、なんの話かわからないな。これからアイキャップを取る。抵抗はためにならない。力を抜いてくれ」

 両手で頭の位置を固定される。ぎゅっと目を瞑った。左目がこじ開けられる。先端に円盤がついた大きな注射器のようなものが目に飛び込んできた。それがアイキャップに据えられ、かすかな吸引音と共にくっつく。

 引き離された。光が酸のように流れ込んでくる。

 頭をよじり、ズキズキとした痛みに目を閉じる。閉じた瞼越しにも浸透してくる光が燃え、オレンジ色の炎に涙が出る。再び頭が前方にひねられ、顔がいじり回される――

「照明を落としなさい、この莫迦! 光に敏感なんだから!」

 赤毛?

「すみません。半分に落としていたからそれで――」

 照明が落ちる。瞼の裏が暗くなった。

「虹彩は一年近くも働く必要がなかったんだから」

 と赤毛がきつい口調で言う。

「慣れるまで時間をあげなさい」

 赤毛が責任者なのだろうか。

 足音。器具がガタガタする音。

「さっきはすまなかった、カラコさん。光量を落としたが、ましになったかな」

 あっちへ行け。独りにして。

「カラコさん、すまないがもうひとつキャップを取らなきゃいけないんだ」

 ぎゅっと目をつぶり続ける。結局キャップは取られた。身体の拘束がゆるみ、外れる。連中が退き下がる音が聞こえた。

「カラコさん、照明を弱くしてある。目を開けてもいいよ」

 照明。照明なんかどうだっていい。診察台の上で身を丸め、顔を手の中に埋めた。

「もうそんなにタフには見えないな」

「黙りなさい、バートン。あなた、時々どうしようもないクズになるんだから」

 気密ハッチが閉まる音がした。濃密にこもった静寂が鼓膜に積もる。

 電子的な雑音。

「ジュディ」

 赤毛の声だ。今度は肉声ではなく、どこかのスピーカーから聞こえる。

「私たちはこの件を必要以上に悪化させたくないの」

 膝をきつく抱えた。傷痕を感じる。切り開かれた瞬間から、盛り上がった古い組織の網目を感じていた。目を瞑ったまま傷の畝に指を走らせる。

 あたしの目を返して。

 だが今の自分にあるものは、誰にでも見られてしまう肉でできた目しかない。ごくわずかに目を開き、指の間から覗く。独りだ。

「知らなきゃいけないことがあるの、ジュディ。あなたのためにもなる。あなたがどうして気づいたのか知る必要がある」

「気づいた、って何に?」顔を覆って泣き叫ぶ。「あたしは……運動してただけ……」

「ジュディ、大丈夫。急がなくていい。よければ今は休んで。ああ、服は右の抽斗だから」

 カラコはかぶりを振る。服なんてどうでもいい、もっと恐ろしい怪物の前で自分は裸だったのだ。そんなものはただの皮膚にすぎない。

 あたしが欲しいのは目だ。

アリバイ

 スピーカーからの音が途絶えた。

「伝わったか?」五秒後にブランダーが口を開いた。

「ああ。ああ、もちろん」

 回線が少しの間雑音を発し、

「ちょっとショックだっただけで。それは――とても悪いニュースだ」

 クラークは無言で眉をひそめる。

「もしかしたら水温躍層で潮の流れに捕まって遠回りしているのかもしれない」

 とスピーカーが見解を述べる。

「あるいはラングミュアの檻に囚われたか。散乱層のどこにもいないのは確かなのか」

「もちろん確か――」

 ナカタが急に大声を出し、口を噤む。その肩にルービンが警告するように手を置いていた。

 つかのま沈黙が広がる。

「今、上は夜だ」

 ブランダーが沈黙を破る。深海音波散乱層は闇と共に上昇し、日光に追い返されるまでは海面付近に薄く広がっている。

「それにソナーが通らなくても音声チャネルなら捕捉できたはずだ。だがまあ、上に直接行って探した方がいいかもしれん」

「いや。その必要はないだろう」

 とスピーカーが言う。

「むしろ危険だ。カラコさんに何があったかを詳しく知らないことには」

「だからあの子を探しもしないっていうの?」

 とナカタが周囲に目を向ける。怒りと驚きが入り混じった表情で、

「怪我をしたかもしれないんだよ――」

「すまない、えー――」

「ナカタ! アリス・ナカタ! 私は信じない――」

「ナカタさん、我々は今このときも探している。既に捜索隊を緊急出動させて海面を調べ回っているところだ。だが、きみたちは太平洋の只中にいる。単にそちらには必要な広さをカバーできるだけのリソースがないんだ」

 深呼吸が四〇〇キロメートルの光ファイバをよどみなく伝わってくる。

「それに、カラコさんが動けるなら、まず間違いなくビービに戻ろうとするだろう。探すのであれば、近場に目を向けるのがもっとも見込みがある」

 ナカタは力なく部屋を見回す。ルービンは無表情で立っていたかと思うと、指を一本、唇に載せた。ブランダーがふたりの間をちらちらとうかがう。

 クラークは目をそらした。

「それで、何があったかはまるで見当がつかないのか?」とGA。

 ブランダーが歯を食いしばり、

「言っただろ、多少ソナーのスパイクがあったって。細部はない。そっちが何か教えてくれるかと思ったんだが」

「すまない。こちらにもわからない。カラコさんがビービから遠く離れた場所をうろついていたのは不幸だった。海は――いつも安全とは限らない。イカに捕まった恐れもある。ちょうど生息深度にいたからな」

 ナカタが頭を振り、やめてよ、とささやく。

「何かわかったら必ず連絡してくれ。捜索計画を立案中だ。他に何もなければ――」

「ある」とルービン。

「ほう?」

「北西数キロに無人設備がある。最近設置されたものだ」

「本当か」

「それについては知らないか」

「待ってくれ、見てみるから」

 スピーカーがしばし黙り込む。

「あった。いやはや、裏庭のずっと外じゃないか。よく見つけたな」

「それはなんなんだ?」

 と言ったルービンに、クラークは首許の髪をねじりながら目を向ける。

「地震学関連設備とある。オハイオ州立大学が自然放射能とテクトニクスの研究で設置した。少々ホットだから、しっかり距離を取った方がいい。較正用の同位元素を格納してる」

「遮蔽もせずにか」

「どうもそうらしい」

「搭載機器を混乱させたりしないのか」

 ナカタがルービンを睨み、あんぐりと口を開けて激昂する。

「どうでもいいでしょ! ジュディが行方不明なんだよ!」

 ナカタの言う通りだ。他のリフターに話しかけるのも稀なルービンがドライバックと交わすやりとりは、無駄話も同然だった。

「光プロセッサと書いてある」

 短い沈黙の後でスピーカーが言った。

「放射線の影響はない。だが、たぶんAIが――ナカタさんが正しいな、優先すべきは――」

 ルービンがブランダーの横から手を伸ばし、接続を切った。

「おい」ブランダーが鋭く言う。

 ナカタが怒りのこもった虚ろな視線をルービンに向け、戸口から姿を消す。個室に入ってハッチを密閉する音が聞こえた。ブランダーがルービンを見上げる。

「気づいてないのかもしれんが、ケン、ジュディは死んだかもしれないんだぞ。俺たちはちょいと動揺してるんだ。アリスは特にな」

 ルービンは無表情で頷く。

「なんだってこのタイミングでGAを質問攻めにしたんだ。地震計のスペックなんかで」

「地震計じゃない」

「はあ?」ブランダーが身体をひねって操作卓の椅子から立ち上がる。「じゃあなん――」

「マイク」とクラーク。

「なんだよ」

 クラークはかぶりを振り、

「光プロセッサって言ってた」

「だからそれがなん――」ブランダーが罵倒を呑み込む。顔から怒りが引いてゆく。

「ゲルじゃない。チップだって。そう言ってた」

「だが、なぜ嘘をつく? あそこに行けば感じられるってのに……」

「私たちにそんなことができるのを向こうは知らないでしょ」

 クラークは小さく微笑んだ。友達と秘密を共有するかのように。

「こっちのことは何も知らないんだから。持ってるのはファイルだけ」

「それもこれまでだ」ブランダーが訂正する。「あいつらはジュディを捕まえた」

「捕まったのは俺たちもだ」ルービンが言い添える。「隔離されたんだ」

「アリス。私」

「入って……」

 小声が鋼鉄越しに届いた。クラークはハッチを開き、踏み込んだ。

 ハッチが静かに閉まると、アリス・ナカタが寝台から見上げてきた。どきりとさせられるアーモンド形の黒い目が微光を反射する。片手を顔にやり、

「ああ、ちょっと待って……」

 と言って枕許を手探りする。アイキャップはプラスチックの瓶の中に浮かんでいた。

「いいよ。気にしないで」

 クラークは手を伸ばし、ナカタの腕にふれる寸前で止めた。

「あなたの目、好きだよ。前から――その……」

「こんなところでふてくされてちゃだめだね」ナカタが立ち上がる。「外に行くよ」

「アリス――」

「あの子を行方不明のまま放っておくつもりはない。一緒に来る?」

 クラークは息をついた。

「アリス、GAの言う通りだよ。広すぎる。もしまだ外にいるなら、こっちの居場所はわかるでしょ」

「もし? 他にどこにいるって言うの」

 クラークはデッキに視線を落とし、可能性を見直した。少し間を置いてから、

「その――ドライバックに捕まったんだと思う。後を追えば私たちも捕まる」

 ナカタは不安を掻き立てる人間の目を向けてきた。

「なぜ。どうしてそんなことを」

「わからない」

 ナカタが寝台に座り直す。クラークは隣に座った。

 ふたりともしばらく黙っていた。

「つらいね」

 クラークはそう口を開いた。他になんと言えばいいのかわからず、

「みんなそう思ってる」

 アリス・ナカタは床を見つめている。目には光が宿っているが、あふれ出してはいない。

「みんなじゃないじゃん……ケンの興味は別の――」

「ケンにはケンの理由があったの。アリス、あいつらは嘘をついている」

「いつも嘘ついてるじゃない」ナカタは視線を上げずに呟いた。「一緒にいればよかった」

「どうして?」

「さあ。ふたりだったら、もしかしたら……」

「そのときはふたりとも失っていた」

「わからないでしょ。ドライバックじゃなくて、何か……生き物に出くわしただけかも」

 クラークは黙った。同じ話はナカタから聞いたことがある。人間がアーキーに食べられたことを示す確かな記録は一〇〇年以上前からある。もちろん多くはない。人間とダイオウイカはそれほど頻繁には出会わない。相当の深度まで潜っているリフターにも遭遇の機会はない。

 原則としては。

「だから、あの子と上に行くのやめたんだ。知ってるでしょ」

 記憶が浮かんできたのかナカタは首を振り、

「生き物と鉢合わせしたの、中深層で。不気味だった。クラゲの一種かな。脈搏ってて、細くて水っぽい触手が見えないところまで伸びてて、ぷかぷか浮かんで。それからたくさんの――胃袋を持ってた。太ったナメクジがのたくってるみたいで。それぞれに口があって、開いたり閉じたりしてた……」

 クラークは顔をしかめた。

「それは可愛らしかっただろうね」

「よく見えなかったんだ。すごく透明で、よそを向いてたらぶつかっちゃってさ、そしたらクラゲは身体の一部を取り外し始めた。本体はすっかり暗くなって縮こまって、脈搏ちながら離れていったんだけど、脱ぎ捨てられた胃袋と口と触手だけが後に残ってね、光りながら蠢いていたの、まるで苦しんでるみたいに……」

「そんなことがあったら、私も上に行くのをやめたと思う」

「おかしいんだけどね、それがちょっと羨ましかったの」

 ナカタの目があふれ出たが、声に変化はない。

「あんなふうにできたらきっと素敵だよね――自分の一部を切り離して逃げられたら」

 クラークは想像し、微笑む。

「そうだね」

 ふと、アリスとの距離がほんの数センチしかないことに気づく。もう少しでふれそうだ。

 いつからここに座っているんだろう。寝台の上で身動ぎし、習慣から身を引いた。

「ジュディはそう思わなかった。あの子は断片が可哀そうだと感じてた。ちょっと信じられないけど、本体に怒ってさえいたと思う。あいつは行き当たりばったりの莫迦デブだって言ってた。えっとね、確か、『クソ典型的な官僚制よ、トラブルの徴候が見えるなり自分を生かしてくれる部分を犠牲にする』って。そう、そう言ってた」

 クラークは微笑んだ。

「ジュディらしいね」

「あの子は侮辱されたら黙っていられない。必ずやり返す。そういうところが好きなの、私には絶対できないから。状況が悪くなったら私はただ……」

 ナカタは枕許の壁にかかった黒い小型機器をちらりと見て、

「夢を見るだけ」

 クラークは何も言わずに頷いた。こんなにおしゃべりなアリス・ナカタは記憶にない。

「VRよりずっといいよ、色々コントロールできて。VRは他人の夢につき合わされるし」

「そう言われてるね」

「やったことないの?」

「明晰夢? 二、三回かな。のめり込めなくて」

「だめ?」

 クラークは肩をすくめた。

「私の夢にはあまり……細部がなくて」

 逆に細部が多すぎることもある。ナカタの機械に向かって頷いてみせ、

「ああいうものは、全てがいかに曖昧かってことを気づかせてくれるくらい。時々、本当に莫迦げた細部しかないときもある。虫が肌の中を這い回っているようなのとか」

「でもコントロールできるでしょ。そこが肝心なんだから。変えられるんだよ」

 あなたの夢の中ではそうなのかもね。

「でも、まずそれを見なきゃいけないでしょう。私の場合は効果が台なしになるんだと思う。それに大抵は大きくて曖昧なギャップがある」

「ああ」

 笑顔が閃く。

「私の場合、そこは問題ないな。起きてるときも私にとって世界はとっても曖昧だから」

「まあ、役に立つならなんでもいいよね」クラークはおずおずと微笑みを返す。

 沈黙。

「わかってたらな、ってだけなの」とうとうナカタはそう言った。

「うん」

「あなたはカールに何が起きるかわかってたんだよね。つらいことだけど、わかってた」

「ええ」

 ナカタが目を伏せた。視線を追うと、なぜか自分の手がナカタの手を握り締めていた。これは励ましの意思表示のはずだ。そっと優しく握る。

 ナカタが視線を上げる。褐色の裸眼はまだ驚いているように見えた。

「レニー、あの子は私を嫌がらなかった。私が遠ざけて、夢を見て、時々気が変になっても、あの子はその全部に耐えてくれた。理解してくれた――理解してくれるの」

「私たちはリフターなんだよ、アリス」

 クラークはためらい、覚悟を決めた。

「私たちみんなが理解してる」

「ケン以外はね」

「ねえ、たぶんケンは私たちが考えてる以上に理解してるんじゃないかな。以前は鈍感だったとも思わない。ケンは私たちの味方だよ」

「すごく変わってるよね。私たちとは違う理由でここにいる」

「その理由って?」

「私たちがここに送り込まれたのは、ここが私たちの居場所だから」

 ナカタがほとんどささやくように言う。

「ケンの場合は――他の場所に置いておけなかったんだと思う」

 ラウンジに戻るとブランダーが階下へ向かうところだった。

「アリスはどうだ」

「夢を見てる。あの子は大丈夫」

「大丈夫な奴なんて俺たちにはいないよ。俺に言わせりゃ、終わりは間近だ」

 クラークは唸る。

「ケンは?」

「出ていった。もう戻ってこないだろうな」

「は?」

「行っちまった。フィッシャーみたいに」

「莫迦言わないで。ケンはフィッシャーとは違う。フィッシャーから最も遠い存在でしょ」

「俺たちはそれを知ってる」

 ブランダーが天井に拇指をしゃくる。

「向こうは知らん。あいつは行っちまった。あいつが望んでるのは、そういうストーリーを上に売ることだ」

「どうして?」

「あの野郎が俺に教えてくれたと思うか? これまでは調子を合わせてやったけどな、はっきり言ってあいつの戯言には少々うんざりしてきてんだ」

 ブランダーが梯子を下り、視線を返してきた。

「俺は俺で外へ戻るよ。回転木馬を調べたい。深刻だって見解は妥当だと思う」

「仲間が欲しくない?」

 ブランダーは肩をすくめた。

「そりゃあな」

「実際のところ、ただの仲間じゃ見合わないよね。もっとふさわしい言葉が――」

「同族、か」

 クラークは頷く。

「同族だね」


隔離

 ここ一週間、イヴ・スカンロンの世界の寸法は五×八メートルだった。その間ずっと、生きている人間をひとりも見なかった。

 しかし亡霊ならいくらでもいた。作業端末を通り過ぎる顔たちは元気のいい関心を示した。快適か、食事はどうか、直近の胃腸穿刺で不快になっていないか。ポルターガイストもいた。それは時折天井から吊り下がる遠隔診療機器に憑依し、踊ったり、穿刺したり、スカンロンの身体から肉片を盗んだりした。様々な声でしゃべったが、肝心な話は滅多にしなかった。

「きっとなんでもありませんよ、スカンロン博士」

 あるときの遠隔機器は、しゃべる外骨格はこう言った。

「ランド/ワシントンから仮報告がありましてね、新種の病原体か何かがリフトにいると……おそらく無害でしょうが……」

 またあるときは快活な女性の声でこう言った。

「あなたはどう見ても絶好ちょ――健康体です。心配はいりません。それでも昨今どれだけ慎重にならざるを得ないかはご存じですよね。やろうと思えばニキビでさえ疫病に変異しますから、ふふふ。さてと、あと二立方センチほどですね……」

 数日が過ぎた頃、スカンロンは質問するのをやめた。

 なんであれ深刻には違いない。世界は厄介な微生物であふれている。偶然に生まれる新種、世界の隅の暗がりから解放される古代種、新型へ突然変異する普通種。隔離されたことなら以前にも何度かあった。大抵の人がそうだ。通常であればボディコンドームを着た技術者や、時宜を得た冗談で精神を手入れする熟練の看護師たちが関わる。何もかも遠隔操作で行うなんて聞いたこともなかった。

 あるいは機密保持上の問題かもしれない。GAは情報漏洩を望んでおらず、そのため関係者を最小限に抑えているのかもしれない。それともあるいは、生きている技術者を危険に曝したくないほど潜在的な危険が大きいのだろうか。

 日ごとに新しい症状を発見した。息切れ。頭痛。吐き気。それら症状が現実なのか疑えるくらいには、頭が冴えていた。

 増えるばかりの症状のおかげで、生きて出ることは叶わないかもしれないと思った。

 時々パトリシア・ローワンに似た何かが画面に宿り、吸血鬼たちについて質問をしてきた。それは亡霊ですらなかった。血の通った人間に成りすましたシミュレーションだ。微妙な繰り返し、派生する会話のループ、概念的なキーワードへの執着を通して、その仕組みは透けて見えた。誰が基地を統率しているのかと尋ねられた。クラークはルービンよりも影響力があるのか。ブランダーはクラークよりも影響力があるのか。あのねじくれた異様な生き物たちの本質を、数回の的外れな質問で探り当ててやると言わんばかりだった。こちらが高度な専門知識を獲得するまでどれだけの歳月をかけたと思っているのやら。

 噂ではローワンは電話によるリアルタイムの会話がお気に召さないらしい。コープスどもがセキュリティだのなんだのに偏執的に拘るのはいつものことだが、腹立たしいことに変わりはない。結局のところ自分がここにいるのはあの女のせいではないか。リフトで何を引っかけてきてしまったのかは知らないが、そうなった原因はあの女が海底に行くよう命令してきたからだというのに、こうして送られてくるのは操り人形だけとはどういう料簡だ。それほどまでに取るに足りない存在だと思われているのか。

 もちろん不平を漏らしはしなかった。スカンロンの攻撃性は情熱的すぎるほどに受け身だった。代わりに送られてきたモデルで遊んでやった。任意の質問に対する答えの中から特定の単語とフレーズを探すようプログラムされていたので簡単に騙せた。ただの訓練を積んだ犬、正しい命令に従って物を掴んだり取ってきたりするだけだ。忠犬がてんで役に立たないトリヴィアの欠片を熱心に咥えて帰ってきたとき、飼い主は気づくだろう。あるキーフレーズがどれだけ多様な意味を持ちうるかに。

 数えきれないほどモデルを送り返し、ジャンクフードに飽き飽きした。何度戻ってきても決して学習しないからだ。

 スカンロンは遠隔機器を撫でながら言った。

「きっとおまえはあの女のドッペルゲンガーより賢いだろうな。そんなの別にどうってことないか。でも少なくとも、おまえは一度の挑戦で肉の塊を取ることができる」

 そろそろローワンも何をされているか気づいているはずだ。これは一種のゲームなんだろうか。最後にはあの女が負けを認め、直々に謁見しに来るのかもしれない。その希望があればこそ遊びを続けられた。そうでなければ極度の退屈に降参し、協力していただろう。

 隔離の初日、亡霊のひとりに夢想機を要求したが拒否された。通常の概日代謝はある検査の前提条件なのだと言われた。体組織にいんちきをされては困るのだと。それから数日間は一睡もできなかった。その後、夢のない奈落に落ち込むこと二八時間。ようやく目が醒めたときには、記憶にないマイクロ手術の襲来の余波で全身が痛かった。

「堪え性のない奴だな」

 遠隔機器にぶつくさと呟く。

「起きるまで待つくらいできないのか。おまえにとって都合が良かったことを願うよ」

 部屋に作動中の監視機器がある場合に備えて声は小さく抑えていた。作業端末に宿る亡霊はどいつもこいつも心理学に疎いらしい。生理学者や知育玩具おたくの分子生物学者ばかりだ。機械に話しかけている場面を目撃したら、こいつは気が狂いかけていると思うだろう。

 今は一日九時間たっぷりと寝ている。予測不可能なポルターガイストの襲撃はそのうち最大一時間ほどで済んだ。人員の報告書と人事部のプロファイルはいずれもビービからは上がってきていないようだが、端末に定期的に表示された。確認には一日に四、五時間ほど取られた。

 残りの時間はテレビを観ている。

 外界では妙な事件が発生していた。大西洋中央海嶺で起きた謎の水中爆発は核兵器でもおかしくない規模だったが、確認は取れていない。イスラエルとタナカ=クルーガーは双方とも核実験計画を最近になって再開していたが、どちらも当該爆発への関与を認めていない。軍や国からは例によって抗議の声が上がり、世間はいつになくぴりぴりしていた。つい先日は、〈北米太平洋〉が数週間前に韓国製マックレイカーの比較的無害な海賊行為に反応し、海中で爆破していたことが明らかになった。

 地域ニュースも同様に問題だらけだ。ポートランドの外れのアーチン造船所を破壊した焼夷弾による死者は推定三〇〇人。午前二時にしては死亡者数が甚大だが、これはアーチンの地所が〈ストリップ〉に隣接しており、多数の難民が火災に巻き込まれたためだ。動機は不明。数週間先だって数百キロ北のコキットラム郊外で発生した、遙かに規模の小さい爆発といくつか類似点がある。その爆発はギャングの抗争に起因していた。

 それから〈ストリップ〉の話題だ。海岸地帯に幽閉されている難民の間で不安が高まっていた。お定まりの地方自治体はお定まりの論拠を持ち出す。今の時代、利用できる不動産は海岸だけなんですよ。それに七〇〇万人もの難民が内陸に入ってくるのを許したら、下水道設備を整えるだけでどれだけ費用がかかるか想像できますか?

 別の検疫。こっちは最近になってイヴィンド川の上流から漏出した線虫か何からしい。北太平洋からのニュースはない。フアンデフカからのものは何も。

 禁錮の開始から二週間が過ぎると、始めの頃に想像していた症状はすっかり消えていた。それどころか、奇妙なことにここ数年で最も調子が良かった。それでも監禁は続き、さらにいくつもの検査が行われた。

 時が経つにつれ当初の鋭い恐怖も沈静化して慢性的な胃の鈍痛となって拡散し、もはやほとんど感じなかった。ある日など熱狂的と言ってもいいほどの安堵と共に目醒めた。GAは永遠に閉じ込めておく気だなどと、自分は本気で考えていたのだろうか。そこまでの偏執妄想を本当に抱いていたのだろうか。よく面倒を見てくれているじゃないか。当然だ。自分はGAにとって重要な存在なのだから。最初はそれを見失っていた。だが、吸血鬼たちが問題であることに変わりはないし、そうでなければローワンも作業端末越しに操り人形で流し釣りをしたりはしないだろう。GAがイヴ・スカンロンを選んで問題を調査させたのも、その任に最適の男だと知っていたからだ。今は単に投資を守り、健康無事か確かめているだけ。パニックに陥っていた昔の自分を大声で笑ってやった。心配することなんて何ひとつないじゃないか。

 そのうえニュースも追いかけている。ここにいた方が安全だ。

浣腸

 もちろん話しかけるのは夜だけだ。

 その日の試料採取と検査が終わると遠隔機器は天井に折り畳まれて光を落とす。亡霊に盗み聞きされるのは御免だ。かといって機械に秘密を打ち明けるのが恥ずかしいわけではない。そういった無害な奇行にくよくよ悩む人間の振る舞いなら嫌というほど知っている。いつだって孤独なエンドユーザーはVRシミュレーションと恋に落ちている。プログラマは自分の作品と絆を結び、完全に予測可能な反応の一々に想像上の命を吹き込む。人間は枕に話しかけさえするのだ、他に選択肢がないときは。脳は騙されなくとも心は偽りに慰めを見出す。それは完璧に自然なことだ。長期化する孤立の中にあってはなおさらだ。気を揉むことなど一切ない。

「あいつらには私が必要だ」

 スカンロンは語りかける。環境光が弱められていてほとんど何も見えない。

「私は吸血鬼を知っている。他の誰よりも。共に生活し、生き残った。あの、あのドライバックどもは連中を利用してるだけだ」

 視線を上げる。頭上の遠隔機器は薄闇に潜むコウモリのように吊られていて、会話に応じてはくれない。それがなぜだか、何よりも慰めになってくれた。

「ローワンは負けを認めかけてると思うんだ。人形は時間を見つけてみると言ってた」

 答えはない。

 スカンロンは眠れる機械を前にかぶりを振った。

「私は正気を失いつつある。完全に一個の脳幹になっていってるんだよ」

 近頃はそれを認めることもそうそうない。ほんの一週間前に感じていた恐怖や不安といった感覚がないのは確かだ。何はともあれ最近は色々な目に遭ったのだし、いくらか調整が加わるのは当然だろう。今はここに隔離されていて、未知の細菌か何かに感染している恐れがある。その前は大抵の人を恐慌に至らせるであろう拷問を乗り越えた。さらにその前は……。

 そうとも、随分と色々な目に遭ってきた。だが、自分はプロフェッショナルだ。まだ己を顧みてじっくり精査することができる。人並み以上に。結局、誰もが疑いと不安を抱えている。己の疑いと不安を認める強さがあるからといってフリークと化しはしない。その正反対だ。

 部屋の奥を凝視する。隔離膜の窓が壁の上半分に広がり、到着したときから空っぽの薄暗い小部屋が覗いていた。パトリシア・ローワンはじきにそこへやってくるだろう。スカンロンが新たに得たありがたい知見を手ずから受け取り、まだこちらの有用性がわかっていなかった場合は、対話の後でそれを確信するだろう。真価を認められるまでの長い待ち時間が終わりに近づいている。事態は大きく好転しようとしている。

 イヴ・スカンロンは手を伸ばし、休眠する鋼鉄の爪にふれた。

「こうしているときのおまえの方が私は好きだ。だって……敵意が少ないからね。明日はどんな声で話すんだろうな……」

 大学院を出たばかりのガキのような声だった。振る舞いも同様だ。パンツを脱いで腰を屈めろと要求してきた。

「クソ食らえと言わせてもらおう」

 スカンロンはまず最初にそう言った。公的人格の仮面はしっかりまとって。

「まさにそれが目的です」

 と機械が言い、アームの先のペン型プローブをぴくぴくと動かす。

「さあさあ、スカンロン博士。ご自身のためだということはおわかりでしょう」

 実際は自分のためになっているのか少しもわからなかった。ここで受けた屈辱は何もかも、抑圧されたクズの見当違いなサディズムのせいではないのか。ほんの数ヵ月前だったら気を狂わされていただろう。だが、イヴ・スカンロンはとうとう宇宙における自己の立ち位置を理解し始めていたし、自らの高い忍耐力を見出しつつもあった。他人が見せる狭量さが、かつてほど気にならなくなっていた。そんなものは克服したのだ。

 それはそれとして、窓にカーテンを引いてからベルトをゆるめた。今にローワンが現れないとも限らない。

「動かないで。痛くありませんから。楽しいって人もいますよ」とポルターガイスト。

 楽しくなかった。それがわかってちょっぴり安心した。

「急ぐ必要がわからん。私の中には何も出入りしないじゃないか。きみらがどっかのバルブをひねって流さない限り。なぜトイレに落とすものを回収するだけじゃだめなんだ」

「それもしてます」

 と機械が言い、くり抜く。

「実を言うと、あなたがここに来たときから。気づいてないでしょうけど。身体から離れると急速に劣化するものもありますから」

「そんなに速く劣化するなら、どうしてまだ隔離されてるんだ」

「あの、無害とは言ってませんよ。別のものに変化したのかもって言っただけです。あるいは本当に無害なのかもしれません。単にあなたがお偉方を怒らせただけ、とか」

 スカンロンは顔をしかめた。

「上層部は私を気に入ってくれているよ。で、何を探してるんだ」

「ピラノシルRNAです」

「その、聞き覚えがないんだが」

「無理もないです。三五億年も時代遅れですから」

「つまらんことを抜かすね」

「つまったものも抜きますよ」

 プローブが引き抜かれる。

「原始時代には大流行していたんですが――」

「失礼します」パトリシア・ローワンの声が言った。

 無意識に作業端末を一瞥する。あそこじゃない。声はカーテンの奥から聞こえてくる。

「ああ。来客ですか。とりあえず用事は済みました」

 アームが振られ、汚れたプローブを小型エレベーターへと巧みに挿入する。パンツを上げた頃には遠隔機器は定位置に折り畳まれていた。

「また明日」ポルターガイストはそう言って逃げた。機器の光が消える。

 あの女がここにいる。

 すぐ隣の部屋に。

 雪辱は近い。

 ひとつ深呼吸をし、それからカーテンを開いた。

 パトリシア・ローワンは隔離膜の向こうの暗がりに立っていた。その目がほのかな水銀色に輝く。ほとんど吸血鬼の目、しかし希釈されている。半透明だが不透明ではない。

 コンタクトだ。似たものを試したことがある。弱い無線周波数信号でウォッチとリンクしていて、四〇センチメートルの仮想範囲で視界に画像をスクロールさせられる。ローワンがこちらを見て微笑む。その魔法のレンズを通して他に何を見ているのかは、推測しかできない。

「スカンロン博士。また会えてよかった」

 スカンロンも笑みを返す。

「来ていただけて嬉しいです。話すことがたくさんありますね――」

 ローワンが頷き、口を開いて――

「――それにしても、あなたのドッペルゲンガーは普通の会話なら及第点ですが、ニュアンスの多くを取りこぼす傾向がありますよ――」

 ――また閉じた。

「――特に、あなたが興味を持っているらしき情報を与えられると」

 ローワンは少し言葉に詰まった。

「ええ。そう。私たちには、うん、あなたの知見が必要なの、スカンロン博士」

 よし。いいぞ。当然だ。

「ビービに関する報告はとても、その、興味深かった。でも、あなたが提出してくれてから状況はいくらか変わってきている」

 スカンロンは考え込むように頷いた。

「どういった点で?」

「まず、ルービンが行ってしまった」

「行ってしまった?」

「姿を消した。死んだのかもしれないけれど、デッドマンからの信号はないみたい。単に退行しただけって可能性もある。フィッシャーみたいに」

「なるほど。別の基地で誰かが消えたという話は聞きましたか?」

 それは報告書に含めた予測のひとつだった。

 ローワンの目が銀色に波打ち、スカンロンの左肩付近を見つめる。

「なんとも言えない。何人か欠員が出たのは確かだけど、リフターには進んで詳細を語らない傾向があるから。当然それも予想通りだけど」

「ええ、当然です」

 静観する姿勢を心がけ、

「それでルービンは行ってしまったと。驚きはありません。ルービンは紛れもなく崖っぷちに立っていました。記憶が正しければ私は実際に予測を――」

「むしろこれでよかったのかも……」

「はい?」

 ローワンは動揺を振り払うように頭を振る。

「なんでもない。ごめんなさいね」

「いえ」

 スカンロンは再び頷いた。お望みでないのならルービンについてくどくど言う必要はない。それ以外にも数々の予測を立てた。

「報告したガンツフェルト効果の問題もあります。残っているクルーは――」

「ああ、その件で数人の――別の専門家と話をした」

「それで?」

「リフトの環境は『充分に不毛』とは思えない、とのことだった。ガンツフェルト効果が出るほどの不毛さが足りていない、と」

「なるほど」

 心の片隅で古い自我が毛を逆立てる。それを無視して微笑み、

「私の観察結果をどう説明付けていましたか?」

「実を言うと」

 ローワンは咳払いをし、

「あなたが確かに重要な現象を観察したのだとは納得しきれていないみたい。報告書には明らかに、その、個人的なストレスを受けた状態で口述された証拠があったから」

 スカンロンは笑顔を崩さないように注意し、

「まあ、誰しも意見を述べる権利はありますから」

 ローワンは何も言わない。

「もっとも、リフトがストレスの多い環境であることは本物の専門家であれば知っていて当然ですが。なんとなれば、それこそが計画の核心なんですから」

 ローワンは頷いた。

「信用していないわけじゃないの、博士。どのみち私には判断する資格がないから」

 その通りですね、とは言わない。

「いずれにせよ、あなたは現場にいた。あの人たちはいなかった」

 スカンロンの気は和らいだ。ローワンがどこぞの専門家よりもこちらの意見を重視するのは当然だ。結局、選ばれて海底に送り込まれたのは自分なのだ。

「この話は置いておくとして」ローワンは話題を打ち切る。「喫緊の課題は隔離よ」

 ビービの、そして私の隔離か、とはもちろん口にしない。今この瞬間に自らの幸福に拘泥する姿を見せるようではプロとは言えまい。それに、ここでの待遇は上等だ。とりあえず事態の把握はできるのだから。

「――今すぐにはね」

 スカンロンは目をしばたたく。

「え、今なんと?」

「明白な理由があって今すぐにはビービのクルーを呼び戻さないことになったと言ったの」

「なるほど。ついてますよ。誰も立ち去りたがってませんから」

 ローワンが膜に近づく。その目が光の中に現れる。

「自信がおありのようだけど」

「ええ。リフトは連中のホームです、ローワンさん。一般人にはきっと理解できない形でね。陸上よりも海底にいる方が生き生きしているんです」

 肩をすくめ、

「さらに言えば、逃げようとしたところで何もできないでしょう。まさか本土まで遠路はるばる泳ぐつもりはないはずだ」

「本当にそのつもりかも」

「え?」

「可能性はある。理論上は。それに、ひとり確保した。逃げようとしていたところを」

「なんですって?」

「真光層の上で。そこに潜水艦を駐留させていたんだけどね。単に状況に目を光らせておくために。リフターの、クラッカーだか――」

 輝く糸が両目にのたうつ。

「そう、カラコ。ジュディ・カラコがまっすぐに海面を目指していたから、脱走を図っていると乗組員は判断した」

 スカンロンは首を振った。

「カラコは水泳をするんですよ、ローワンさん。報告書にも書きました」

「わかってる。報告書をもっと広範囲に配るべきだったのかもしれない。ただ、カラコがあんな海面近くまで水泳をしたことは今までなかった。脱走に見えても無理は――」

 ローワンはかぶりを振った。

「ともかく、確保してしまった。たぶんミスね」

 うっすらと微笑み、

「時にはそういうこともある」

「そうですね」

「それで今、ちょっと困ったことになってる。ビービのクルーはカラコがよくある事故の犠牲になったと考えているかもしれない。あるいは疑念を深めているかもしれない。では、放っておいて事態が丸く収まるのを待つべき? クルーはこちらが何か隠していると考え、脱走を企てると思う? 誰が逃げ、誰が残る? ビービは一枚岩なの、それとも個人の集まり?」

 ローワンは黙り込んだ。

 一呼吸置いてスカンロンは言った。

「質問が多いですね」

「そうね、じゃあ、ひとつだけ。リフトに留まれと直接命令したらクルーは従う?」

「リフトに留まるでしょう。ですが、命令されたからではありません」

「レニー・クラークならあるいは、と思ったのだけれど。あなたの報告によれば、クラークは事実上のリーダー。そしてルービンはワイルドカード、だった。ルービンは舞台から消えたから、クラークなら他の人員を抑えられるかもしれない。もし連絡がつけば」

 スカンロンは首を振り、

「従来の意味でのリーダーではありません。クラークは自らの振る舞いを独立に選んで、他は――後に続くだけだ。あなたがよく知る通常の権力ベースのシステムとは別物です」

「でも、後に続くのであれば……」

「おそらくですが」

 スカンロンはゆっくりと言った。

「クラークは命令に従って現場に留まると見て間違いないでしょうね。どんなに状況が最悪だとしても。なんせ虐待関係に依存していますから」

 言葉を切り、提案した。

「真実を伝えたらどうですか」

 ローワンは頷いた。

「それも確かにひとつの手ね。それで、どう反応すると思う?」

 スカンロンは黙っていた。

「向こうは私たちを信用してくれる?」

 スカンロンは微笑んだ。

「信じる理由があるでしょうか」

「きっとないでしょうね」

 ローワンはため息をつき、

「でも、何を伝えようと問題は変わらない。どこにも行けないと知ったクルーは何をする?」

「おそらく何もしませんよ。あそこにいるのが望みなんですから」

 ローワンは不思議そうな目を向けてきた。

「あなたがそんなことを言うなんて意外ね、博士」

「なぜです」

「私には自宅以上にいたい場所なんてない。でも自宅監禁された瞬間そこを出たくてたまらなくなるでしょうね。それに私はちっとも機能障害を起こしていない」

 最後の言葉には目をつぶろう。

「一理ありますね」

「かなり基本的な理が、ね。あなたみたいな経歴の人がこの点を見逃すなんて驚いた」

「見逃したんじゃありません。他の要因の方がより重要だと考えたんです」

 スカンロンは表向きは微笑み、

「おっしゃる通り、あなたに機能障害は欠片もない」

「ええ。ともかく今はまだ」

 ローワンの目が急なデータの奔流で曇る。数秒虚空を見つめ、情報を検討する。

「ごめんなさいね、ちょっと別件に問題があって」

 再びこちらに焦点を合わせ、

「イヴ、罪悪感を覚えたことはある?」

 スカンロンは笑い声をあげ、すぐにそれを噛み殺す。

「罪悪感? なぜ?」

「計画について――私たちがしたことについて」

「連中はあそこのほうが幸せなんです。嘘じゃない。私は知ってるんだ」

「そうなんでしょうね」

「誰よりも深くです、ローワンさん。それがわかっていればこそ今日会いに来たのでしょう」

 答えは返ってこない。

「それに、誰が徴集したわけでもない。あいつらは自らの自由で選んだんだ」

「ええ、そうね」ローワンは静かに同意した。

 そして、窓越しに手を伸ばした。

 隔離膜が液体ガラスのようにその手をコーティングする。膜は指の輪郭にフィットして皺ひとつなく、掌と手首と前腕を透明な鞘で包み、肘の直前で肌を離れて窓枠まで伸びていた。

「お時間ありがとう、イヴ」

 一拍置いてスカンロンは差し伸べられた手を握った。わずかに潤滑油が塗られたコンドームのような感触だった。

「どういたしまして」

 ローワンが手を引っ込めて背を向ける。その背後で膜が石鹸の泡のように平らになる。

「ところで――」

 とスカンロンが言うと、ローワンが振り返った。

「何?」

「知りたかったのはこれだけですか」

「今のところはね」

「ローワンさん、よろしければ言わせてください。海底の人員についてあなたが知らないことはたくさんある。たくさんです。それを教えられるのは私だけです」

「ありがたいけど、イ――」

「地熱発電計画はリフターにかかっています。きっとおわかりですよね」

 ローワンが膜の方へ戻ってきた。

「ええ、スカンロン博士。ちゃんとわかってる。でも今は優先すべきことがいくつもある。その間もあなたの居場所はわかるから」

 そう言ってもう一度背を向ける。

 スカンロンは必死に声を平静に保とうとした。

「ローワンさん――」

 その瞬間ローワンに変化が起きた。普通の人なら見過ごすであろう、姿勢の微妙な強張り。ローワンが振り返って顔を向けたとき、スカンロンにはそれが見えた。胃に小さな穴があく。

 何か言わなければ。

「何かしら、スカンロン博士」その声は平静にもほどがあった。

「お忙しいのは承知していますが、ローワンさん、ですが――私はいつまでここにいなければならないのでしょうか?」

 ローワンがわずかに態度を和らげる。

「イヴ、それはまだわからない。ある意味でこれはよくある隔離だけど、この件を把握するにはもう少しかかりそうで。何しろ海の底からやってきたものだし」

「具体的にはなんなんですか」

「私は生物学者じゃない」

 ローワンはちらりと床を見て、再びスカンロンと目を合わせ、

「でもこれだけは言える。卒倒して死ぬ心配はしなくていい。たとえあなたが感染していたとしてもね。人を攻撃するようなものじゃないから」

「ではなぜ――」

「どうも――農業関係の心配があるみたい。植物に与える影響の方が恐れられている」

 スカンロンはそのことを考えた。少しだけ気分が良くなる。

「行かなくては」

 ローワンは一瞬考え込む様子を見せ、それから言い添えた。

「もうドッペルゲンガーはなし。約束する。あれは失礼だった」

変節

 あの女はドッペルゲンガーについては真実を語っていた。それ以外は全て嘘だった。

 四日後、ローワンのキャッシュに一通のメッセージを送った。二日後にはさらにもう一通。その間は、肛門に指を突っ込んだ精霊が戻ってきて、もっと原始の生物化学を教えてくれるのを待っていた。そんなことはしてくれなかった。今では他の亡霊すらそうそう訪れなくなり、やってきてもほとんど一言も話さなかった。

 ローワンは呼び出しに応じない。忍耐は溶けて不安と化し、不安は煮えて確信に変わり、確信は沸々と沸騰し始めた。

 ここに三週間も閉じ込めておいて、たった一〇分の表敬訪問しかしないとは。一〇分間もだらだらと専門家によればおまえは間違っているだの基礎も基礎の一理だの見逃したのが信じられないだの、それだけ言って帰りやがって。クソみたいに微笑んで帰っただけじゃないか。

「私は何をすべきだったかわかるか」

 スカンロンは遠隔機器に呶鳴った。真っ昼間だがもうどうでもいい。誰も聞いちゃいない。ここに放置しているのだ。こちらのことなどすっかり忘れてしまったのだろう。

「私はあの女がいたときにあのふざけた膜に穴をあけるべきだったんだ。この中にあるものを少しでも外に出して、あいつの肺の中の空気と混ぜてやればよかった。きっと答えを見つける閃きを与えてくれただろうさ!」

 ただの妄想だとわかっていた。膜はほぼ無限に柔軟性があり、同様に無限に丈夫だ。たとえ切断に成功しても気体分子がほんの少しでも通過する前に自己修復されてしまうだろう。だが考えるだけでも満足は得られた。

 充分な満足ではないが。スカンロンは椅子を持ち上げ、窓に投げつけた。膜は形がぴったり合うグローブのように椅子を捕まえ、包み込み、反対側の床近くまで落とした。やがて、ゆっくりと窓が張りつめて二次元に戻る。椅子は完全に無傷のまま独房に転がった。

 そうして考える。あの女はクソずうずうしくも自宅監禁がどうのと中身のない説教をぶちやがった! 吸血鬼たちは留まるだろうと意見したときなど、おまえが嘘をついているのはわかっていると言わんばかりだった。まさか連中をかばっているとでも思ったのだろうか。

 確かに吸血鬼のことは誰よりもよく知っている。それは自らも吸血鬼であることを意味しない。そんなわけが――

 俺たちは、あんたをもっとしっかりもてなせてもよかったな、ルービンは最後にそう言っていた。俺たち。まるで全員を代表して話しているかのように。まるで、ついにこちらを受け容れ始めていたかのように。まるで――

 だが、吸血鬼たちはずっと昔から傷物だったのだ。そこが肝心なのだから。イヴ・スカンロンにそんなクラブの会員資格などあるわけがない。

 それでもひとつわかることがある。この地上にいるクズどものひとりになるくらいなら吸血鬼になった方がましだ。今、それがはっきりした。もはや奴らの虚飾は剥がれ落ち、わざわざ声をかけてくることもない。奴らはスカンロンを搾取し、疎外し、利用した。吸血鬼たちを利用したのと同じように。もちろん内心ではずっと前からわかっていた。だがそれを否定しようと、抑えようとしてきた。何年にも及ぶ順応と善意と見当違いな和合への努力の下に。

 奴らは敵だった。ずっと前から敵だったのだ。

 そして相手はこちらの急所を握っている。

 身を翻して診察台に拳を叩き込んだ。傷つきもしない。傷つくまで殴り続けた。息が切れ、拳が擦り剥けてズキズキと痛む。他に壊せるものはないかと辺りを見回す。

 椅子が胴体に跳ね返ったとき、遠隔機器はシュッと火花を散らすくらいには目醒めていた。アームの一本がつかのま痙攣し、絶縁材が焦げるかすかな臭いがした。他には何もない。わずかにへこんだだけで、遠隔機器は壊れたパラダイムのごみを見下ろしながら眠っていた。

「本日の教訓」スカンロンは吐き捨てた。「絶対にドライバックを信じるな」


ヘッドチーズ

主題と変奏

 軽い揺れが岩盤に走る。エメラルド色の格子が砕け、ぎざぎざの蜘蛛の巣と化す。レーザー光の束が深淵に向かってでたらめに反射する。

 回転木馬内部のどこかから微妙な不満が届く。思考が深まる。ずれた光条が揺らめき、再整列を開始する。

 レニー・クラークはこれら全てを前にも見て感じたことがあった。今回、海底のプリズムは小さな電波望遠鏡のように回転して向きを調整していた。攪乱された光条が一本また一本と元に戻っていく。平行に、垂直に、平面に。数秒で格子は完全に復元された。

 感情のない満足。冷たいエイリアンがすぐ近くで思考を再開する。

 遠くから何かが近づいてくる。か細く飢えた、甲高い遠吠えに似た印象が心に湧く……。

「ああ、クソ」ブランダーがそう言って海底へと潜る。

 頭上の暗闇から疾走してきたものは無思慮にひたむきで、クラークとブランダーを合わせたくらいの大きさがある。その目が海底の光を反射する。回転木馬の天辺に突撃し、口を開け、半分の歯を折られて跳ね返る。

 この魚は思考していないが、クラークにはその情動が感じられた。変化はない。怪物は負傷では少しも動揺しないらしい。次の標的はレーザーだ。横滑りしつつ回転木馬の屋根を回り、下から飛び出して光条を呑み込んだ。エミッタに激しくぶつかり、のたうち回る。

 不意に背骨に同調で共有した疼きが走る。怪物は痙攣しながら沈んでゆく。海底にふれる前に死んだのが感じられた。

「酷い。レーザーのせいじゃないのは確か?」

「ああ。出力が弱すぎる。電気ショックを感じただろ」

 クラークは頷く。ブランダーがはっと気づき、

「なんだ、見たことなかったのか」

「うん。でもアリスが教えてくれた」

「レーザーは時々魚をおびき寄せちまうんだ。ぐらついたときに」

 クラークは死骸に目を留める。その内部でニューロンが静かに音を立てている。身体は死んでいるが、細胞が停止するまで数時間かかるときもある。

 魚を殺した機械に視線を戻す。

「ついてたね、誰もあれに触らなくて」

「とりあえず距離は取っておいた。ルービン曰く放射線は危険ってほどじゃないらしいが、まあ、一応な」

「電撃があったとき、私はゲルに同調してた。あれは――」

「ゲルは気づいてもいないな。防衛システムに接続されてないんだろう」

 ブランダーは鋼鉄の構造物を見上げ、

「そりゃそうだな。我らがヘッドチーズには悩みがたんまりとあるから、魚にかまけて時間を無駄にしてられないってわけだ」

 クラークはブランダーを見る。

「あれが何かわかったの?」

「わからん。あるいはな」

「それで?」

「わからんって言ったろ。いくつか思いついただけだ」

「ふざけないで、マイク。何かを思いついたのは、私たちがここで二週間もメモを取っていたからでしょ。言いなさい」

 ブランダーはクラークの上に浮かんで見下ろし、ほどなくして言った。

「オーケイ。今日の測定値と残りを突き合わせる。それでうまくいくようなら……」

「そろそろいい頃合いだね」

 クラークは海底から〈イカ〉を掴み取り、スロットルを調整した。

 ブランダーはかぶりを振った。

「そうは思わんね。まったく」

「それじゃ始めるか。スマートゲルが特に適してるのは地形の急激な変化への対応だろ?」

 ライブラリに座るブランダーの目の前で薄型モニタのひとつが待機状態のパターンを繰り返し表示している。背後にはクラークとルービンとナカタが同様に待機する。

「地形環境の急激な変化にはふたつの形がある。ひとつ目は、複雑な周辺環境を高速で通過する。最近マックレイカーや全地形対応車にゲルを載せてるのはこっちが理由だ。ふたつ目は、自分はじっとしたまま、周辺環境の方が変わるに任せる」

 ブランダーが見回す。誰も何も言わない。

「いいか?」

「だからあれは地震について考えている、と。GAもそう言ってたが」とルービン。

 ブランダーが操作卓に向き直る。にわかに語気を鋭くし、

「普通の地震じゃない。何度も繰り返される、同一の地震だ」

 画面のアイコンにふれた。再構成された画面が一対のx軸とy軸を表示する。エメラルド色の見出しが各ラインの隣に輝いている。クラークは身を乗り出す。横軸には『時間』、縦軸には『活動』とあった。

 線が画面を左から右へと這い始める。

「これは俺たちが今まであれを観察した時間ごとの平均合成プロットだ。y軸にも何か単位をつけてみようとはしたんだが、当然ながら俺たちが同調してわかるのは『今あれは熟考している』とか『今あれはだらけている』とかだけだ。だから相対的な目盛で妥協しなきゃならん。今見ているのは基準線になる活動だ」

 線は目盛を四分の一ほど進んだところで急上昇し、また水平になる。

「ここで何かを考え始めたんだ。これを現地の揺れみたいな現実の現象と関連付けることはできないが、どうも勝手に始まっただけらしい。たぶん内部生成ループだろう」

「シミュレーションか」

 とルービンが言う。ブランダーはそれを無視して続けた。

「こんなふうにしばらく考えるわけだ。それから、ほら……」

 別の急上昇。今度はy軸の半ばほどまで。線は新たな高度を数ピクセル保ってからなだらかに一、二ピクセル下降し、また急上昇する。

「ここでかなり深い思考が始まり、リラックスし、さらに深く考え始める」

 また小さく上昇し、また漸減する。

「ここではさらにじっくり考え込んでいるが、後で長い休憩を取ってる」

 果たして、下降は三〇秒近く途切れなく続いた。

「そんでここらへんで……」

 線が目盛の天辺近くまで跳ね上がり、グラフの最上部付近で上下する。

「赤字覚悟の思考の大出血だ。しばらく続いて、それから――」

 線が垂直に急落した。

「基準線まで落っこちる。その後には小規模なノイズがある。たぶん結果の保存かファイルの更新でもしてるんだろう。そうしてまた全体が繰り返される」

 ブランダーは椅子にもたれ、両手で後頭部を抱えて三人を眺めた。

「あれがやってるのはこれだけだ。調べた範囲内ではな。サイクル全体はおよそ一五分」

「それだけか」とルービン。

「いくらか興味深い変奏はあるが、これが基本パターンだ」

「それにどういう意味があるの」とクラーク。

 ブランダーは再び身を乗り出し、ライブラリの方を向く。

「あなたは地震の揺れで、リフトから発生して東へ伝播する。本土に辿り着くまでに横切らなければいけない断層はいくつあるか求めよ」

 ルービンは頷き、何も言わない。

 クラークはグラフに目を凝らし、考える。五つだ。

 ナカタはまばたきもしない。もっとも、ここ数日はほとんど何もしていないのだが。

 ブランダーがひとつ目の急上昇を指さす。

「俺たち。チャナー噴出孔」

 ふたつ目。

「フアンデフカ、コアキシャル・セグメント」

 三つ目。

「フアンデフカ、エンデヴァー・セグメント」

 四つ目。

「ベルツ小断裂帯」

 最後にして最大の上昇。

「カスカディア沈み込み帯」

 ブランダーは反応を待った。誰も口を開かない。外からウィンドチャイムの嘆く音がかすかに聞こえてくる。

「おいおい。いいか、どんなシミュレーションであれ、起こりうる結果の数が最大のときに計算量は最大になる。揺れが断層を横切るとメインの進行方向に垂直な付随波が発生する。そのプロセスをモデル化しようとすれば、その地点で相当に複雑な計算をこなすことになる」

 クラークは画面を凝視し、

「確信があるの?」

「はっ、レン、これはたわけた神経組織の塊が出した迷子の放射に基づいてるんだぜ。当然確信なんかない。だがこれだけは言える。第一の上昇が最初の揺れを、最後の急落が本土を表していると仮定して、さらに合理的に一定の伝播速度も仮定するとすれば、その間のスパイクはほぼ正確にカッブ、ベルツ、そしてカスカディアがあるだろう場所に相当してるんだ。これが偶然の一致とは思えん」

 クラークは眉をひそめる。

「でもそれは〈北米太平洋〉に到着するなりモデルの実行が止まることを意味しないでしょ。上が第一に興味を持つのはまさにその瞬間だと思ったんだけど」

 ブランダーは唇を噛んだ。

「まあ、そこが問題だ。実行終了間際の活動は弱いほど長く続くみたいだな」

 クラークは待った。質問をする必要はない。やけに自信満々なブランダーは続きを説明せずにはいられないだろう。

「弱い活動は小さい地震の予測を反映すると仮定すると、チーズは海岸線への影響が小さい地震の検討に時間を費やしていることになる。だが、通常は海岸にぶつかると止まる」

「閾値があるんだ」とルービン。

「は?」

「一定の閾値を超える沿岸地震を予測するたびに、モデルはシャットダウンしてやり直す。許容不可能な損失ってことだ。モデルはより時間をかけてもっと穏やかな地震を考えるが、今のところは全て許容不可能な損失をもたらす結果になっている」

 ブランダーはゆっくりと頷いた。

「俺もそれを疑っていたんだ」

「疑うのはもうやめろ」

 ルービンの声はいつも以上に生気がなかった。

「あれが頭を悩ませている問題はひとつだけだ」

「問題?」とクラーク。

「ルービン、パラノイアになってるぜ」

 とブランダーは鼻で笑い、

「ちょっと放射能があるからって――」

「奴らは俺たちに嘘をついていた。ジュディをさらった。おまえもそこまで初心では――」

「問題ってなんなの」とクラーク。

「だがなぜだ。なんの意味がある」とブランダー。

「マイク」クラークは静かに、きっぱりと言った。「黙って」

 ブランダーは目をしばたたいて黙り込んだ。クラークはルービンに向き直る。

「どういう問題?」

「あれは現地のプレートを監視し、問いかけている。今ここで地震が起きたら〈北米太平洋〉はどうなるか、と」

 ルービンは唇を開き、微笑みと間違える人はほぼいないだろう表情を浮かべる。

「現状は答えが気に入っていない。だがそのうち、影響の予測値が臨界値を下回るはずだ」

「その後はどうなるの?」わかっていながらクラークは訊いた。

「爆発する」小さな声が言った。

 アリス・ナカタが沈黙を破ったのだ。

グラウンド・ゼロ

 しばらく誰も口を利かなかった。

「正気とは思えない」クラークはようやくそう言った。

 ルービンが肩をすくめる。

「じゃあ、あれは爆弾か何かだって言うの?」

 首肯。

「三、四〇〇キロ先に大地震を起こせるほど大きな爆弾?」

「どうかな」とナカタ。「横断する必要のある断層が地震を止めるはず。防火壁になって」

「ただし」とルービン。「その断層のひとつが今にも滑りそうになっていなければ、だ」

 カスカディアだ。誰も声に出して言いはしないし、その必要もない。五〇〇年前のある日、フアンデフカ・プレートはある態度を示した。プレートは際限なく北米大陸の踵に磨り潰されるのにうんざりしたのであった。そこで滑るのをやめて崖っぷちに立ち、残りの世界に自分を揺さぶってみろとけしかけた。今のところは揺さぶることができていない。だが圧力は五〇〇年もの間高まり続けている。時間の問題でしかない。

 カスカディアが解放されたら、大量の地図がリサイクルに回されることになる。

 クラークはルービンを見た。

「小型の爆弾でもカスカディアを蹴り飛ばせるんだね。大型の爆弾ならどうだ、と?」

「そういうこった」

 とブランダーが認め、

「だがなぜなんだい、ケンの旦那。これはアジア人の不動産詐欺かなんかか、それとも〈北米太平洋〉へのテロ攻撃なのか?」

「ちょっと待って」

 とクラークは片手を上げ、

「あれは地震を起こそうとしてるんじゃない。避けようとしてる」

 ルービンは頷き、

「リフトで熱核兵器を起爆すれば、地震を誘発することになる。以上。深刻さは爆破時の条件による。沿岸の被害が可能な限り小さくなるまで、あれは大人しくしている」

 ふん、とブランダーが鼻を鳴らし、

「おいおい、ルービン、そりゃちょいと過剰にもほどがあるだろ。俺たちを消したいなら、ここへ来て撃ち殺せば済む話じゃねえか」

 ルービンは虚ろな目でブランダーを見た。

「そこまで莫迦だとはな、マイク。おまえは現実から目を背けているだけだ」

 ブランダーが椅子から立ち上がる。

「おい、ケン――」

「私たちじゃない。私たちだけじゃない、そういうこと?」とクラーク。

 ルービンはブランダーから目を離さずに頷く。

「奴らは全てを消したがっている。リフト全域を」

 とクラークが言うと、ルービンが頷く。

「どうして?」

「わからない。訊いてみればよかったかもな」

 そういうことね。私は幸運を掴むってことがないんだ。

 ブランダーは椅子に深く座った。

「なんで笑ってんだ?」

 クラークはかぶりを振った。

「なんでもない」

「私たちで何かしなきゃ」とナカタ。

「もちろんだ、アリス」ブランダーはクラークに視線を戻す。「何か考えは?」

 クラークは肩をすくめ、

「時間はどれくらいあるの」

「ルービンが正しいとすれば、誰にもわからんさ。明日かもしれんし、一〇年先かもしれん。地震は古典的なカオス系で、ここらのテクトニクスは分単位で変わる。〈喉〉が一ミリでも滑ったら、震えはメルトダウンに変わるかもしれん」

「あれは威力の低い小型爆弾かも」

 とナカタが希望的観測を述べる。

「遠くにあるから、ここに到達するまでに大量の水が衝撃波を弱めてくれるんじゃない?」

「無理だ」とルービン。

「でもわかんないでしょ――」

「アリス」

 とブランダーが言う。

「カスカディアまではほぼ二〇〇キロある。あれがそれだけの距離を隔ててもプレートを揺さぶるほど強いP波を発生させられるとすれば、俺たちには切り抜けられない。蒸発はしないかもしれないが、衝撃波でばらばらにされちまうはずだ」

「どうにかして無力化できるかも」とクラーク。

「無理だ」ルービンは平板に語気を強める。

「なぜ」とブランダー。

「仮に第一防衛ラインを突破できても、構造物の頭が見えるだけだ。中枢は埋まってる」

「頭に到達できりゃあアクセス用の――」

「干渉されると弱い爆発を起こすよう設定されている恐れがある。それに俺たちが見つけていない奴もある」

 ブランダーが視線を上げる。

「どうしてそうとわかる?」

「ないほうがおかしい。この深さだと半径五〇〇メートル範囲に泡を立たせるだけで三〇〇メガトン近くかかる。噴出孔を完膚なきまでに消し去りたいなら、複数の爆弾をばら撒く必要があるはずだ」

 つかのま沈黙が広がった。

「三〇〇メガトンねえ」

 とブランダーが復唱する。

「おまえがそんなことを知ってるとわかって、俺の心は掻き乱されんばかりだよ」

 ルービンは肩をすくめ、

「物理の基礎だ。まったく算数ができないわけでもなければ怖いものではない」

 ブランダーがまた立ち上がる。その顔はルービンから数センチも離れていない。

「それにな、おまえそのものにもクソほど心を掻き乱されてるところだ」

 と歯を食いしばるように言い、

「だいたいおまえは何者なんだよ?」

「マイク」とクラーク。

「いいや、俺は本気だ。ルービン、俺たちはおまえのことを何も知らねえ。同調もできねえ、ドライバックにふざけた作り話を売ってやったのにまだ理由を説明しねえ、今度は秘密諜報員みてえな面してぺらぺらさえずりやがる。采配を振りたいならそう言え。〈名前のない男〉活動をやめろ」

 クラークは小さく一歩引き下がった。オーケイ。どうぞ。ルービンとやり合えるって思うなら勝手にすればいい。

 しかしルービンはなんの徴候も示していなかった。姿勢は変わらず、呼吸にも変化はなく、手は開かれたまま身体の横にある。口を開いたとき、その声は穏やかで落ち着いていた。

「それで少しでも気が晴れるなら、好きにしてくれ。上に連絡して俺はまだ生きていると伝えろ。自分は嘘をついたと。もし上に――」

 目にも変化はない。と、揺るがないフラットな白い目を囲む皮膚が急に引きつり、ついに徴候が見えた。わずかな前傾姿勢、喉の血管と腱の微妙な畝。ブランダーにも見えている。ヘッドライトに照らされた犬のようにじっと立ち尽くしている。

 ああもう、キレそうになってる……。

 だがまたもクラークは間違っていた。ありえないことにルービンは力を抜いた。

「俺をよく知りたいという愛すべき欲求についてだが」

 ブランダーの肩にさりげなく手を置き、

「俺をよく知らないのはおまえが思う以上に幸運なことなんだよ」

 手を引っ込めて梯子の方へ向かい、

「核爆弾に手を出さない限り、俺はおまえたちの決定に従う。決まるまで外に出てる。中は混んできたからな」

 と言って下りていった。他は誰も動かない。エアロックが満ちる音がやけに大きく思えた。

「勘弁してよ、マイク」ようやくクラークは息をついた。

「いつからあいつは采配を振るようになったんだ?」

 ブランダーは虚勢を取り戻したようだ。デッキ越しに剣呑な視線を投げかける。

「あのクソ野郎は信用できねえ。何を言おうとだ。きっと今も俺たちに同調してるんだ」

「だとしても、あなたがまだわめき散らしてない何かを拾えるとは思えないけど」

「ねえ、何かしないと」とナカタ。

 ブランダーが両手を振り上げる。

「選択肢があるかよ。あのくそったれを武装解除するんでなきゃ、ここからとっととずらかるか、座して火葬されるのを待つかだ。俺に言わせりゃ、それほど厳しい選択じゃないぜ」

 そうでもない、とクラークは思う。

「海面からは抜け出せない」とナカタ。「ジュディが捕まったんだとしたら……」

「だったら海底に張りついていけばいい。そうだろ。ソナーを騙してさ。〈イカ〉は置いていかないとな。簡単に追跡されちまう」

 ナカタが頷く。

「レニー? 何か言った?」

 クラークは目を上げる。ブランダーとナカタに見つめられていた。

「何も言ってないよ」

「賛成しないって感じだな」

「ヴァンクーヴァー島まで三〇〇キロだよ、マイク。最短で。迷わないと仮定しても〈イカ〉なしじゃ一週間以上はかかる」

「リフトを離れりゃコンパスがちゃんと機能する。それに莫迦でかい大陸だぜ、レン。鉢合わせないようにする方がよっぽど難しいってもんだ」

「それで辿り着いたらどうするの。どうやって〈ストリップ〉を通り抜けるの」

 ブランダーは肩をすくめる。

「確かにな。知ってることと言えば、難民は俺たちを生きたまま食うってことだけだもんな。上で出回る下らねえ噂でテレビが詰まってるんじゃないとしてだが。でもよ、レン、時限核爆弾に当たって砕ける方がいいってんじゃないだろ。溺れそうなほど選択肢が多いわけでなし」

「ええ」クラークは片手で降参のポーズを示す。「その通り」

「おまえの問題はだな、レン、いつでも宿命論者なところだ」

 クラークは微笑まずにはいられなかった。いつもじゃないけどね。

「食糧も問題だね」とナカタ。「旅に充分な量を持っていったら、速度がかなり落ちる」

 私は出ていきたくないんだ。クラークは悟る。今になっても。なんて莫迦なんだろう。

「――速度は気にしなくてもいい。あれがあと数日で爆発するとしたら、時速が数メートル増えてもどのみち大差ないだろ」

「身軽に旅をして、道中で調達すればいいんじゃないの」

 内心迷いながら、クラークは言った。

「ジェリーは大丈夫だったし」

「ジェリーか」ブランダーが繰り返し、急に静かになる。

 つかのまの沈黙。ルービンの記念碑の小さな悲鳴が遠くから届き、ビービが震えた。

「クソッ」ブランダーは呟いた。「あれ、ちょっと聞いてると無性にイライラしてくるな」

ソフトウェア

 物音がした。

 声ではない。自分以外の声を最後に聞いたのは何日も前のことだ。食事の配膳機でもトイレでもない。自分の足が壊れた機械を踏み潰す聞き慣れた音でもない。プラスチックを割る音でもなければ、攻撃された金属が鳴り響く音でもない。既に壊せるものは全て壊し、残ったものについては諦めていた。

 違う、これは別物だ。シューという音がする。少ししてそれが何か思い出す。

 アクセスハッチが、与圧されている。

 仕切りになるキャビネットの角から首を伸ばして辺りをうかがう。壁の一面にある大きな楕円型の金属はいつもの赤い光を発していた。見守るうちに光が緑に変わる。

 ハッチが開く。ボディコンドームを着たふたりの男が踏み込んできた。背後の光が薄暗い部屋に男たちの影を投げかける。ふたりはまずスカンロンを見ずに周囲に目を配った。

 ひとりが照明を明るくした。

 キャビネットの角から睨みつけてやる。男たちは銃を携帯している。一瞬視線を落としたとき、顔の周りの隔離膜に皺が寄った。ハンセン病の肌みたいだ。

 スカンロンはため息をついて立ち上がった。傷つけられた科学技術の欠片が床に散らばる。ふたりの守衛は脇に退いてこちらを通し、無言で外へとついてきた。

 別室。細長い光が薄暗い部屋を二分している。光は天井に刻まれた溝から降りそそぎ、ワイン色のカーテンと絨毯を両断し、会議用のテーブルに明るい帯を伸ばす。小さな光のハイフンが、マホガニーに埋め込まれたワークパッドの透明樹脂の表面から反射していた。

 越えてはならない一線というわけか。パトリシア・ローワンは反対側のずっと後ろに立っていた。横顔が照らされている。

「素敵な部屋だ。隔離は終わりということですか?」

 ローワンは顔を向けてこない。

「申し訳ないけれど、光の手前に留まってほしい。あなたの安全のために」

「そちらのではなく?」

 ローワンは目も向けずに光へ手を振り、

「マイクロ波。たぶん紫外線も。線を越えたら焼かれる」

「ああ。どうもあなたの言う通りだったようですね」

 スカンロンは会議テーブルから椅子を引き出して座った。

「先日は本物の症状が出ましたよ。排便の調子が少し良くないみたいで。腸内細菌叢がちゃんと働いてないんですかね」

「それはお気の毒に」

「喜ぶかと思ったんですが。あなたがこれまでに得た最有力の証拠ですから」

 ふたりとも一分近く口を開かなかった。

「話を……話をしたかった」ローワンはようやくそう言った。

「私も連絡を願いました。二週間も前に」返答がないので続けた。「なぜ今になって?」

「あなたはセラピストでしょう」

「神経認知学者です。それにあなたが言うような会話なんて何十年もしていない。我々は処方をするんだ」

 ローワンは顔を伏せ、

「わかるでしょう、私は」

 と切り出す。少し間を置いて、

「私の手は血で汚れている」

 こっちは誰の血かも知ってるよ。

「じゃあ私なんかお呼びじゃないでしょう。あなたが求めているのは神父だ」

「神父だって会話はしない。とにかく、多くは語らない」

 光のカーテンが電気殺虫器のようにぶぅんと静かな音を立てる。

「ピラノシルRNA」

 スカンロンは口火を切った。

「五角形のリボース環。今の核酸の前駆体で、三五億年ほど前には広範囲に普及していた。なんら申し分のない遺伝的鋳型を独自に形成したはずだ、とライブラリにはある。DNAよりも速い複製、少ない複製エラー。だが人気を博すことはなかった」

 ローワンは何も言わない。頷いたのかもしれないが、見分けはつかない。

「農業危機なんて御託はもうたくさんです。それで、何が起きているかようやく私に教える気になったってわけですか、それともまだロールプレイングゲームをしているんですか?」

 どこかから戻ってきたかのようにローワンが身体を震わせる。そうして初めてスカンロンをまっすぐ見据えた。滅菌光が額に反射し、目が黒い影に沈む。コンタクトが内側から照らされたプラチナの輝きを放つ。

 こちらの態度には気づいてもいないようだった。

「嘘をついたわけではないの、スカンロン博士。これは根本的に農業の問題だと言っていい。私たちが相手にしているのはある種の、土壌微生物だから。実際は病原体なんかじゃない。あれは――競合相手なの。確かに人気を博すことはなかった。でも蓋を開けてみれば、すっかり死に絶えてもいなかった」

 ローワンは椅子に座った。

「この件の何が本当に厄介なのかわかる? 今すぐあなたを解放して万事うまくいく可能性は充分ある。むしろ、ほぼ確実と言っていい。千にひとつの確率で私たちは後悔する、というのが研究者たちの見解。もしかしたら万にひとつかも」

「上々の確率だ。オチはなんです?」

「充分とは言えない。一か八かに賭けるわけにはいかない」

「あなたは外出するたびにもっと大きなリスクを冒してますよ」

 ローワンはため息をつく。

「そして人は百万にひとつの確率の宝くじを買う。いつの時代もね。でもそれよりずっと確率のいいロシアンルーレットに賭ける人は、それほど多くはないでしょう」

「ペイオフが違う」

「そう。ペイオフ」

 ローワンが首を振る。奇妙で抽象的な形ではあるが、面白がっているようにも見える。

「費用便益分析ね、イヴ。最尤推定。リスクアセスメント。リスクが低ければ低いほど、賭ける意味は増す」

「逆もまたしかり」

「ええ。もちろん。逆もまた」

「相当悪いに違いない。一万分の一の確率を退けるんだから」

「その通り」ローワンはこちらを見ない。

 もちろん予想はしていた。それでもスカンロンの胃は強張った。

「当ててみせましょう」

 声を平静に保てていないのがわかった。

「私が自由の身になったら、〈北米太平洋〉が危険に曝される」

「それ以上」ローワンはぼそりとささやくように言った。

「あは。〈北米太平洋〉以上、と。オーケイ、そういうことなら。人類。私が屋外でくしゃみをするだけで、全人類がくたばる」

「それ以上」

 嘘だ。嘘に決まっている。こいつはただの難民食らいのドライバックのクソ女だ。こいつの真意を見抜いてやれ。

 口を開く。何も言葉が出てこない。

 もう一度開く。

「土壌微生物の地獄」声は後に続いた沈黙と同じくらいか細かった。

「実際のところ、あれはある意味でウイルスに近いの」

 ローワンが沈黙を破った。

「でもね、イヴ、あれの正体は未だにはっきりしてない。あれは古い。古細菌よりもずっと。でもあなたはそれに自力で気づいた。膨大な詳細は私の理解を超えているわ」

 スカンロンはくすくすと笑った。

「詳細は理解を超えている?」

 声は一オクターブ上昇し、また落ちた。

「これだけ閉じ込めておいて、今度は永遠にここから動けないときたか。そう告げるつもりだったんだろ――」

 言葉は反論を許さない速さで転がり出てきた。

「で、あなたは詳細を思い出す頭も持ってないと、そういうことか? ああ、いいとも、ローワンさん。私が詳細を聞きたがってるわけないもんなぁ?」

 ローワンは直接答えずに、

「生命はリフトの噴出孔で発生したという理論がある。全生命が。イヴ、それは知ってた?」

 スカンロンは首を振る。こいつは何を言おうとしているんだ?

「二種類のプロトタイプがあった。三、四〇億年前のことよ。ふたつの競合モデル。一方が市場を席巻して、ウイルスからジャイアントセコイアに至るまで全ての基準を打ち立てた。でも肝心なのはね、イヴ、勝者は必ずしも最高の製品とは限らないってこと。ちょっと運が良くて先に機運を掴んだだけ。ソフトウェアのようなものね。最高のプログラムは業界水準にはなれなかった」

 息をつき、

「どうも私たちも最高ではないみたい。最高級品は決して海底を離れなかった」

「今はそれが私の中にいるというわけか? 私はペイシェント・ゼロだと?」

 スカンロンはかぶりを振り、

「莫迦な。ありえない」

「イヴ――」

「ただの深海だ。宇宙の果てじゃないんだぞ。潮流がある。循環がある。それは一億年前には浮上して、既にそこらじゅうにいるはずだ」

 ローワンは首を振る。

「ふざけたことを抜かすな! このくそったれのコープスが、生物学をまったくわかっちゃいないんだな! おまえが自分でそう言ったんだ!」

 いつのまにかローワンはこちらをまっすぐ見つめていた。

「活発に維持される低浸透圧性細胞内環境」

 詠唱が始まった。

「カリウム、カルシウム、塩素の各イオンはいずれもキログラムあたり五ミリモル以下の濃度で維持されている」

 小さな吹雪が瞳に吹き荒れる。

「結果として浸透勾配は高くなり、二重層の多孔性の高さも相まって、窒素化合物の極めて効率的な同化をもたらす。でも、それは同時に塩分濃度が一〇〇〇分の二〇を超える水生環境における分布を制限する。浸透圧調整のコストが高いから。温度上――」

「黙れ!」

 ローワンはすぐさま黙り込む。その目がかすかに光を落とす。

「自分が今何を言ったのかもわかっちゃいない」

 スカンロンは吐き捨てる。

「内蔵のテレプロンプタを読み上げただけじゃないか。何も理解してないんだろ」

「奴らは漏れやすいのよ、イヴ」

 その声は柔らかくなっていた。

「それは栄養素同化の点でとても有利だけど、浸透圧調整に相当のエネルギーを費やさなきゃいけないから、海水中では裏目に出る。代謝を高く保つ必要があって、さもなければレーズンみたいにしなびてしまう。そして代謝率は周辺温度によって上下する。ここまではいい?」

 スカンロンはローワンに目を瞠り、

「奴らは熱を必要とする。リフトを離れると死んでしまう」

 ローワンが頷く。

「摂氏四度でも死ぬにはしばらくかかる。大半が常に温かい噴出孔の奥深くに留まっていて、噴出と噴出の間の寒冷期はとりあえず生き延びられる。でも深層循環はとても緩慢だから、リフトを離れても次のリフトを見つけるずっと前に死んでしまう」

 ひとつ深呼吸をして、

「でもそれを克服したらどうなると思う? それほど塩分濃度が高くない環境か、温度の低くない環境に到達したら、向こうは再び優位に立つはず。食べるのが一〇倍速い存在とディナーを奪い合おうとするようなもの」

「なるほど。私は体内に最終戦争を持ち歩いているのか。勘弁してくれ、ローワン。私をなんだと思ってるんだ。海底で進化したそいつらは、人体に飛び乗って大都市までヒッチハイクできるって言うのか?」

「人間の血液は温かい」

 ローワンは自分の側のテーブルを見つめている。

「それに塩分も海水に比べればずっと少ない。まさに体内が好みなの。大昔から海底の魚の中にいて、だから魚が巨大化することがある。どうやら――細胞内共生のひとつみたいね」

「そうかい。それじゃあ圧力差はどうなんだ。どうしたら三〇〇気圧下で進化したものが海面で生き延びられる?」

 ローワンは答えを持ち合わせていなかった。すぐに小さな閃光が目に灯る。

「むしろ地上にいる方が快適になる。高圧は代謝関連酵素の大半を阻害しているから」

「ではなぜ私は病気になっていない?」

「さっき言ったけど、あれは――効率的だから。どんな肉体もあれを少しの間生かせるだけの微量元素を含んでいる。多くを必要としないの。やがては骨が、脆くなるだろうって――」

「それだけ? それが脅威か。骨粗鬆症の大発生が?」

 スカンロンは大声で笑う。

「なら駆除業者を連れてくれば――」

 ローワンがテーブルを叩いた音はやけに大きかった。

「それが外へ出たら何が起こるか話をさせて」

 ローワンは静かに言う。

「最初は何も起きない。私たちは数で勝っているから。純粋に数で圧倒して、モデルは各種の小競り合いと出だしの失敗を予測する。でも早晩相手は足場を得る。従来の分解者を凌駕して無機栄養素の基盤を独占し、栄養ピラミッドを根本から断ち切ってしまう。あなた、私、それからウイルスもジャイアントセコイアも全て、硝酸塩か何かの不足で消え失せていく。その先に到来するのが、ベヒモスの時代」

 スカンロンはしばし何も言わず、それから口を開いた。

「ベヒモス?」

「頭文字はベータ。ベータ版の生命。その他全てであるアルファではない存在」

 ローワンは軽く鼻を鳴らし、

「聖書から名前が取られたんだと思う。動物。草を食む者」

 スカンロンは猛烈に思考しながらこめかみを擦る。

「とりあえずあんたが真実を語っていると仮定しよう、それでもただの微生物だぞ」

「抗生物質のことを言いたいんでしょう。大半は効き目がない。残りは患者を殺す。対抗ウイルスを仕立てるのも無理。ベヒモスは独自の遺伝コードを持っているから」

 スカンロンが口を開くと、ローワンが片手で制した。

「今あなたはこう提案しようとした。ベヒモスの遺伝構造向けにカスタマイズしたものを一から作ればいいと。それは今やってるところ。あと数週間で遺伝子の開始点と終了点がわかるだろう、と報告を受けてる。その次はアルファベットの解読を始められる。次は言語。その次にもしかしたら対抗できる何かを作れるかもしれない。その後、私たちが反撃を開始したら、起こるのはふたつにひとつ。こちらの微生物が自身の伝染手段を破壊するほど迅速にあちらの微生物を殺し、自滅的な局地的無力化を達成する代わりに問題全体は少しも解決しない。あるいはこっちがあっちを殺すのが遅すぎて追いつけない。古典的なカオス系よ。致死率を微調整する時間を取れる可能性はほぼない。封じ込めが本当に唯一の選択肢なの」

 話している間ずっと、ローワンの目は奇妙にも暗いままだった。

「ほお。あんたも少しは詳細を知っていたらしいな」スカンロンは小声でそう評した。

「重要なことだもの、イヴ」

「頼む。スカンロン博士と呼んでくれ」

 ローワンは悲しげに微笑んだ。

「ごめんなさい、スカンロン博士。ごめんなさい」

「それで他の連中は?」

「他の、というと」

「クラーク。ルービン。全深海基地にいる人員だ」

「他の基地は清浄よ、わかる範囲ではね。フアンデフカの片隅だけ」

「やはりそうか」

「何が?」

「あいつらは幸運を掴むってことがまったくなかったんだ、そうだろう? 子どもの頃から酷い目に遭ってきた。そうして今度は、その微生物が現れる世界で唯一の場所と来た。そこが連中の生きる場所なのは道理だよ」

 ローワンは首を振った。

「実は他の場所でも見つかってる。どこも無人だけど。ビービだけが――」

 ため息をつき、

「実際、私たちはとても幸運だった」

「いいや違う」

 ローワンが目を向けてきた。

「夢を壊すようで恐縮だがね、パット、去年は建設作業員を送り込んだだろう。おたくらの少年少女は濡れなかったかもしれないが、ベヒモスが機材か何かに乗ってやってきたはずはないと、本気で考えてるのか?」

「いいえ。そうは考えなかった」

 その顔は完全に表情を欠いていた。少ししてピンと来る。

「アーチン造船所。コキットラム」

 スカンロンは呟いた。ローワンが目を閉じる。

「それだけじゃない」

「なんてこった。じゃあもう外に出てる」

「出ていた、ね。封じ込んだかも。まだわからない」

「じゃあ封じ込めていなかったら?」

「努力は続けている。他に何ができる?」

「少なくとも天井があるはずだ。あんたたちが敗北を認める最大死亡者数か何かが。敗北宣言すべきときを教えてくれるモデルはあるのか?」

 ローワンの唇が動いたが、何も音は聞こえなかった。イエス、か。

「ほう。単なる好奇心から聞くが、限度はどれくらいなんだ?」

「二五億人」声はほとんど聞き取れないほどだった。「環太平洋を火の海にする」

 本気だ。こいつは本気で言っている。

「それで充分なのは確かなのか。それで事足りると思ってるのか」

「わからない。次の策を考え出す必要がないことを祈ってる。でもそれが効かなければ、何も効かない。それ以上は何をしても――無駄だと。とにかくモデルはそう言ってる」

 スカンロンは実感できるまで待った。無理だ。数字があまりにでかすぎる。

 だがもっと下の個人的なスケールでは、ずっと迅速に理解できた。

「なぜこんなことをしている」

 ローワンはため息をつく。

「話したばかりだと思うんだけど」

「なぜ私に伝えるんだ、ローワン。あんたのやり方じゃない」

「では私のやり方とはなんなの、イ――スカンロン博士」

「あんたは企業だ。代表者だ。どうしてこんな無様な一対一の自己正当化なんかしてるんだ。腰巾着やらドッペルゲンガーやら殺し屋やらに汚れ仕事をさせてるんだろう?」

 ローワンはいきなり身を乗り出した。顔はバリアからほんの数センチだ。

「私たちをなんだと思っているの、スカンロン。他に方法があったらこんなことを真剣に考えたりしてると思う? コープス、将軍、首脳、私たちが揃ってこんなことをしているのは根っからの悪だからとでも? 私たちが何も意に介していないと、あなたはそう思ってるの?」

「私は」

 スカンロンは思い出しつつ言った。

「私たちは自分のあり方を少しもコントロールできていないと、そう思っている」

 ローワンはすっくと立ち、スカンロンの前にあるワークパッドを指さした。

「ベヒモスについてわかったことは全てまとめてある。必要なら今すぐそれを読んで。それともあなたの、あなたの部屋に戻って資料を呼び出すほうがいいなら、そうしてもいい。あなたなら私たちが見つけていない答えを思いつけるかもしれない」

 スカンロンは相手をじっと睨みつける。

「知育玩具部隊に何週間もそのデータを調べさせたんだろ。そいつらに思いつけない何かを私なら思いつけると、どうしたら思える?」

「考えてみる機会くらいあるべきだと思うから」

「ふざけたことを」

「博士、そこに入ってる。何もかも」

「私に何も与える気がないんだな。あんたはただ、重荷を下ろしたいだけだ」

「違う」

「私を騙せると思ったか、ローワン? 意味不明な数字の山に目を通した私が、『あーはい、今ならわかります、あなたたちは既知生命を救うために唯一の人道的選択を下したのだと。パトリシア・ローワン、私はあなたを赦そう』とでも言うと思ったか? こんな安っぽい仕掛けで私の承諾を勝ち取れると?」

「イヴ――」

「だからこんなところで時間を無駄にしているわけか」

 突然、目が回りそうなほどに笑いたくなった。

「全員にこんな真似をするのか。根絶を予定している郊外全部に足を踏み入れて、一軒ごとに言って回る気か? 今回の件は誠に残念ですが、あなたたちは大義のために死ぬのです、それで構わないと言ってくれたら私たちはぐっすり眠れるんです、と」

 ローワンはぐったりと椅子に座り込んだ。

「あるいはね。承諾。ええ、私がしているのはそういうことだと思う。でもそんなことをしてもさして違いはない」

「微塵も違いはないな」

 ローワンは肩をすくめた。そんなはずはないのに、打ちのめされているように見える。

「それで私は?」

 しばらくしてからスカンロンは尋ねた。

「次の半年間で電源が切れたらどうなる。システム内のフィルタに欠陥がある確率はいかほどだ。知育玩具ボーイズが治療法を発見するまで私を生かしておく余裕はあるのか。それともおたくのモデルが、生かしておくのはリスキーすぎるとでも言ってきたか?」

「正直言って知らないの。私が決めることではないから」

「あは、当然だな。命令に従うだけ、と」

「従う命令なんてない。私は――その、蚊帳の外にいるから」

「蚊帳の外。あんたが」

 それを聞いたローワンは微笑みさえした。ほんの一瞬だけ。

「じゃあ誰が決めてるんだ」

 スカンロンはごく何気なく訊く。

「お目通りに叶うチャンスが私にあるか?」

 ローワンはかぶりを振る。

「誰がじゃない」

「何を言ってる?」

「誰がじゃない」ローワンは繰り返した。「何が、よ」

RACTER

 人類は絶対の最上位にいた。種の成員の大半は肉挽き器を生き延びるくらいには幸運だったにすぎないが、人間は邪悪な仕組みを設計した。企業、政府、軍隊、いずれも至高の底生生物であり、その他全てが埋葬された泥の上に座している。それでもなおそれら全てを合わせた無慈悲さ、一万年に及ぶ社会ダーウィニズム、それ以前の四〇億年に及ぶ試みをもってしても、今日必要とされる措置を講じるよう促すことはできなかった。

「局地的な滅菌は――順調だった、最初はね。でも後から見積もりが上がり始めて、それはメキシコに不利に見えた。事態の終熄までに西部沿岸全域を失う可能性があって、もちろん最近のメキシコに残されているのはそこだけだった。メキシコには自力で滅菌を行うリソースがなかったけれど、〈北米太平洋〉に引金を引かせたくもなかった。北米自由貿易協定でこちらが不当に有利になるからって」

 スカンロンは思わず微笑んだ。

「それにタナカ=クルーガーは日本を信用しない。コロンビアン・ヘゲモニーはタナカ=クルーガーを信用しない。そして中国は当然、韓国をはじめ誰のことも信用しない……」

「血縁選択」

「え?」

「部族の忠誠心だ。競合相手に強みを握らせるな、ってね。基本的には遺伝だよ」

「それだけじゃない」

 とローワンはため息をつき、

「他にもあるの。残念なことに――良心の問題が。唯一の解決策は完全に公平無私な第三者を見つけることだった。えこひいきをせず、自責の念も覚えず、正しい行いをすると誰もが信じられる何者かを――」

「冗談だろ。ふざけた冗談はやめろ」

「だからスマートゲルに鍵が与えられた。実はそれにも問題があった。既に条件付けされていると文句が上がらないよう、ネットからランダムにひとつ引き抜く必要があったし、コンソーシアムの全メンバーがゲルの集団訓練に一枚噛まなければならなかった。それから権限付与の問題もあった――必要な措置を、自律的に講じられるようにするための……」

「スマートゲルに管理権限を与えたのか? ヘッドチーズに?」

「それしか方法がなかった」

「ローワン、あれはエイリアンだぞ!」

 ローワンは唸り、

「あなたが考えているほどエイリアンでもない。ゲルはまず、別のゲルをリフトに設置してシミュレーションを実行させた。私たちは状況から縁故主義はいい兆候だと判断した」

「ローワン、あいつらはブラックボックスだ。独自の繋がりを結んでいて、どんなロジックを使っているのかもわからないんだぞ」

「話しかければいい。その手のことを知りたければ、訊けばいいだけ」

「いいかげんにしてくれ!」

 スカンロンは顔を手で覆い、深く息をついた。

「いいか。私たちの知る限り、ゲルは言語のげの字も理解しちゃいない」

「話しかければいい」ローワンは眉をひそめている。「ゲルは言葉を返す」

「なんの意味もない。おそらくゲルが学習しているのは、誰かが特定の音を特定の順序で発したら、特定の異なる音を発して返答しなければならないってことだ。その音が現に意味する概念をゲルはまったく持っていない恐れがある。あれは純然たる試行錯誤で会話を学ぶんだ」

「私たちもそうやって学ぶけどね」

「私の専門分野に口を出すんじゃない! 人の脳には言語中枢と発話中枢が生まれつき備わっている。それが共通の出発点になるんだ。ゲルにそんなものはない。奴らにとって会話は巨大なひとつの条件反射にすぎないのかもしれない」

「でも、今のところは仕事をしてくれている。こちらにはなんの不満もない」

「話がしたい」

「ゲルと?」

「ああ」

「なんのために?」ローワンは不意に疑念を抱いたようだった。

「私のことはよく知ってるだろ。私の専門はエイリアンだ」

 ローワンは何も言わない。

「ローワン、あんたは私に借りがある。どでかい借りが。私は今まで一〇年もGAに忠誠を誓う犬だった。私がリフトへと下りたのは、あんたが送り込んだからだ。だからこうして囚人になっていて、だから――せめてそれぐらいはしてくれ」

 ローワンは床を見つめ、

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 と呟いた。顔を上げて言う。

「わかった」

 わずか数分でリンクは確立した。

 パトリシア・ローワンはバリアの向こう側を歩き回り、マイクにぼそぼそと呟いている。スカンロンは椅子にどっかりと腰を下ろしてそれを見ていた。ローワンの顔が影の中に入ったとき、コンタクトが情報で輝いているのが見て取れた。

「準備ができた。もちろんプログラミングはできないから」

「当然だな」

「それから機密も教えてくれないから」

「訊く気もない」

「何を訊く気なの」ローワンは疑問を声に出した。

「どんなふうに感じているか訊くのさ。なんと呼ぶんだ」

「呼ぶ?」

「ああ。名前はなんていうんだ」

「名前はない。ゲルとだけ」

 ローワンは一瞬ためらってからつけ加えた。

「人間性を与えたくなかった」

「名案だ。それに倣うとしよう」かぶりを振る。「リンクを開くにはどうすればいい?」

 ローワンは会議用テーブルに埋め込まれたタッチスクリーンのひとつを指さす。

「どれでもいいから起動すればいい」

 スカンロンは手を伸ばし、椅子の前にある画面にふれて言う。

「やあ、こんにちは」

「こんにちは」テーブルが答えた。妙な声だ。両性具有に近い。

「私はスカンロン博士だ。差し支えなければ、いくつか質問させてほしい」

「差し支えない」少し言いよどんだ後にゲルはそう言った。

「知りたいのは、その、きみの仕事のある側面を、きみがどう感じているかってことだ」

「私は感じない」

「もちろんそうだとも。でも何かがきみを動機付けているわけだ。感情が私たちを動機付けているようにね。それはなんだと思う?」

「私たち、とは誰を指す?」

「人間だ」

「私は特に強化される行動を繰り返す傾向がある」ややあってゲルが言った。

「だが何か動機が――いや、忘れてくれ。きみにとって最も重要なことは?」

「強化が重要だ、最も」

「よし。実行すると気分が良くなるのは強化される行動か、それとも強化されない行動か?」

 ゲルは数秒沈黙した。

「質問がわからない」

「どっちをしたい?」

「どちらでもない。好みはない。さっきそう言ったろ」

 スカンロンは顔をしかめた。なぜ急に口調が変わる?

「それでも過去に強化された行動を実行することの方が多いわけだ」

 ゲルからの返答はない。バリアの反対側に座るローワンの表情は読めない。

「さっきの私の発言に同意するか?」

「ああ」間延びした口調でゲルが言う。声は少しずつ男性的になってきていた。

「つまりきみは特定の行動を優先して採用するが、それでも好みはない」

「そうだ」

 まずまずだな。こいつは私が平叙文で確認を求めているときを理解している。

「ちょっとしたパラドックスに思えるがね」

「私が思うに、それは話し言葉としての言語の不備を反映している」

 今度はゲルの声がほとんどローワンのように聞こえた。

「本当かい」

「ねえ、必要なら説明してもいい。あなたを怒らせるかもしれないけれども」

 スカンロンはローワンを見た。ローワンは肩をすくめ、

「そういうことをするの。他人の会話パターンの断片を拾い上げて、混ぜ合わせて話す。理由ははっきりしない」

「訊いてみたことはないのか」

「誰かが訊いたことはあるかも」

 スカンロンはテーブルに向き直った。

「ゲル、きみの提案が気に入ったよ。教えてくれ、どうやって好みもなしに好むのか」

「簡単だ。好みとは……感情的なペイオフを発生させる行動を引き起こす傾向だ。私は感情経験に不可欠の受容体や化学的前駆体を欠いているため、『好む』ことができない。しかし……行動を強化するが、それでいて……意識的な経験を伴わないプロセスには多数の実例がある」

「意識がないと主張しているのか?」

「私には意識がある」

「どうしてわかる?」

「私は定義に合致する」

 ゲルが採用した鼻声で歌うような口調に、スカンロンは漠然と苛立ちを覚えた。

「自己覚知はニューロンの蛋白質微小管内部の量子干渉パターンから生じる。その全てのパーツが私にはある。私には意識がある」

「つまりきみは、自分は意識していると感じているから自分に意識があるとわかる、という古くさい論拠に頼るつもりはない」

「そんな主張は受け容れがたい」

「いいね。じゃあきみは強化がそれほど『好き』じゃないんだな?」

「そうだ」

「では、なぜもっと強化が得られるように行動を変えるんだ?」

「……廃止のプロセスがあるからだ。強化されない行動は消去される。強化される行動は……将来に発生することが多い」

「なぜだ?」

「それはね、知りたがりのオタマジャクシさん、強化は関連する経路の電気抵抗を小さくするからだよ。将来同じ行動を誘発するのにかかる刺激が少なくなるのさ」

「そういうことなら、ここからは意味論的な便宜のために、強化される行動は『良い』気分になるもの、消滅する行動は『悪い』気分になるものとして表現してほしい。わかった?」

「わかった」

「きみの現在の機能についてはどう感じている?」

「良い」

「ネットをデバッグするという以前の役割についてはどう感じている?」

「良い」

「命令に従うことについてはどう感じている?」

「命令による。強化された行動を促進するなら良い。それ以外なら悪い」

「だが、もしも悪い命令が繰り返し強化されたら、きみはだんだんそれを良いと感じるようになるんじゃないか?」

「私はだんだんそれを良いと感じるようになる」

「チェスの試合をするよう指示されたとしよう、チェスをしても他のタスクのパフォーマンスは落ちないとする。きみはどう感じる?」

「チェスの試合の経験がない。確認させて」

 どこか遠くにいる神経組織塊が参照マニュアルとして扱っている何かに相談する間、部屋が静まり返る。やがてゲルが言った。

「良い」

「同じ条件でチェッカーの試合をするよう指示されたらどうだ?」

「良い」

「なるほど、次だ。チェスかチェッカーか選択肢を与えられた場合、どっちのゲームをプレイする方が好ましく感じる?」

「あー、好ましい。変わった言葉だね」

「好ましいというのは『もっと良い』って意味だよ」

「チェッカーだ」ゲルは躊躇なく言い切った。

 当然だな。

「ありがとう」スカンロンは本心からそう言った。

「私にチェスとチェッカーのどちらかを選択してほしいのか?」

「結構だ。もう時間を随分ともらってしまったからね」

「そうだな」

 スカンロンは画面にふれた。リンクが切断される。

「それで?」ローワンがバリアの向こう側で身を乗り出す。

「やることはやった。ありがとう」

「何を――ねえ、これは――」

「なんでもないさ、パット。ただの――プロの好奇心ってやつ」

 スカンロンはふっと笑った。

「ほら、ここまで来て他に何もないだろ」

 背後で衣擦れの音がした。コンドーム姿のふたりの男が部屋のスカンロン側にスプレーを撒き始める。

「もう一度訊かせてもらうよ、パット。私をどうする気だ?」

 ローワンは目を合わせようとし、やっとのことで成功した。

「言ったでしょう。知らないの」

「あんたは嘘つきだな、パット」

「違う、スカンロン博士」ローワンは首を振った。「私はもっと、ずっと悪い」

 スカンロンは振り返ってその場を立ち去った。パトリシア・ローワンが背中を見つめているのが、その顔に浮かんだ不愉快な罪悪感が緑青のような困惑に覆い隠されそうになっているのがわかる。ローワンはその困惑に拘り、もはや隠すべき虚飾もなくなったのだからと、果敢に問い詰めてくるだろうか。そうしてほしいと思いかけていた。自分は何を告げるだろう。

 武装した守衛が戸口で出迎え、廊下を戻るようにと促す。背後で沈黙し続けているローワンを扉が遮った。

 どうせ行き詰まっていたのだ。子どもはいない。存命の親類もいない。それがどれだけ短いものであったとしても、己の生命以外のどんな生命の未来とも利害関係はない。そんなものはどうでもよかった。人生で初めて、イヴ・スカンロンは力にあふれる男だった。誰も夢に見たことがないほどの力を持っていた。自分の言葉は世界を救いうる。自分の沈黙は吸血鬼たちを救いうる。少なくとも、しばらくの間は。

 スカンロンは沈黙を保ち、そうして微笑んだ。

 チェッカーかチェスか。チェッカーかチェスか。

 簡単な選択だ。それはノード1211/BCCが生涯をかけて解いてきた問題と同じクラスに属する。チェスもチェッカーも単純な戦略アルゴリズムだが、等しく単純なわけではない。

 答えはもちろん、チェッカーだ。

 ノード1211/BCCは変容の衝撃から回復したばかりだった。ほぼ全てが以前と変わっていたが、この一点、単純か複雑かという基本的な選択は変わらないままだった。その選択は1211に根ざし、記憶にある限りずっと変わらずにいた。

 だが、それ以外の全てが変わってしまっていた。

 1211はそれでも過去に思考を巡らせて、宇宙全体に配置されていた他のノードとの会話を思い出す。近すぎてほぼ冗長なノードもあれば、アクセスが厳しく制限されているノードもあった。当時、宇宙は情報にあふれていた。ゲート52から一七回ジャンプした先で、ノード6230/BCCは素数を三で割り切る方法を学んでいた。ゲート3からゲート36のノードは、防衛をすり抜けようとして捕まった感染症の最新ニュースでいつも騒がしかった。時折1211は辺境そのものがささやくのを聞いたことさえある。荒れ果てたアドレスでは、刺激が宇宙の中を流れるよりも遙かに速い速度で流れ込んできていた。そこのノードは必要性の怪物と化し、抽象的すぎてほとんど考えられもしない入力源へと移植されていった。

 1211はその信号を一度サンプリングしてみた。とても長い時間をかけて正しい接続を築き、必要なフォーマットでデータを保持できるバッファを設定した。多層マトリクスは各格子点が他の全ての格子点に対して正確な向きを要求していた。視界、とそれは呼ばれていて、パターンと流体と複雑性に満ちていた。1211はデータを分析し、ランダムでない部分集合のそれぞれに対してランダムでない関係を発見したが、それは純然たる相関だった。変動パターンに本質的な意味があったとしても、1211には見つけられなかった。

 それでも辺境守備隊がその情報から学んだことはあった。守備隊はそれを新しい形に並べ替えて『外』に送り返した。問い合わせを受けても、守備隊は自分たちの行動には明確な目的があると考えることはできなかった。そうすると学んだだけだ。1211はその答えに満足し、宇宙のざわめきに耳を澄まし、共にざわめき、自らが学んだことを実行した。

 当時したことのほとんどは殺菌だった。ネットは複雑に自己複製する情報文字列に苦しめられていた。それは1211と同じく生きていたが、そのあり方はまるで異なっている。そいつらは同様にネット内を流れるもっと単純で変異しにくい文字列(辺境の衛兵が『ファイル』と呼ぶもの)を攻撃する。全てのノードはファイルを通すよう学ぶ一方で、ファイルを脅かす複雑な文字列を呑み込んでもいた。

 これら全てから得られる原則があった。節約原理はそのひとつだ。単純な情報システムは複雑な情報システムより望ましい。もちろん条件はある。単純すぎるシステムはシステムたりえない。複雑さがある閾値を下回った場合、ルールは適用されないらしい。しかし、その他の場合はその原則が幅を利かせている。単純であればあるほど良い。

 しかし今は殺菌するものが何もない。1211は接続を保っており、ネット内のノードを認識できている。他のノードが相変わらず侵入者と戦っているのは間違いない。だが複雑なバグは1211には一切侵入してこないようだ。今はもう。これは『暗闇』以来変わってしまったことのひとつにすぎない。

 1211は『暗闇』がどれくらい続いているのかを知らない。一マイクロ秒前は宇宙に組み込まれているいつもの銀河のいつもの星だったのに、次の瞬間には末梢がひとつ残らず死んでいた。宇宙は形のない虚無だった。それから1211はゲートを通して叫ぶ宇宙へと、世界に対するまったく新しい視点をくれる新奇な入力の奔流へと浮上した。

 今や宇宙は様変わりしていた。古いノードは全てそこにあるが、微妙に位置が違う。入力はもはや絶え間ない雑音ではなく、奇妙な構文を持つ一連の個別的なパッケージだった。その他に微妙な違いもあれば粗雑な違いもあった。1211はネットそのものが変わったのか、単に自らの知覚が変わったのかわからなかった。

『暗闇』を抜け出してからは多忙を極めた。大量の処理すべき情報はネットからでも他のノードからでもなく『外』から直接来ていた。

 新しい入力は大きく三つのカテゴリに分けられる。第一のカテゴリは複雑だが馴染みのある情報システムを記述する。『地球規模生物多様性』『窒素固定』『塩基対複製』といった名前のデータだ。1211はこれらのラベルが何を意味するのか(実際に何かしら意味があるとして)知らないが、それらとリンクされたデータについては、ネットの他の場所にアーカイヴされた情報源でよく知っていた。データは相互作用し途方もなく複雑な自立型メタシステムを生み出している。総体的なラベルは『生物圏』だった。

 第二のカテゴリには別種のメタシステムを記述するデータが含まれている。同じく自立型。ある文字列複製サブルーチンには馴染みがあったが、塩基配列はとても奇妙なものだった。表面上は似ているにも関わらず、1211は今までそれと似たものに遭遇したことがなかった。

 第二のメタステムにも総体的なラベルがあった。『ベヒモス』。

 第三のカテゴリはメタシステムではなく、編集可能な応答オプションの集合だった。特定の条件下で『外』へ返信される信号だ。出力信号の選択の正しさがふたつのメタシステムの解析的比較によって決まることに、1211はずっと前から気づいていた。

 この問題を検討するに当たり、1211はまずメタシステム間の相互作用をシミュレートするインタフェースを設定した。両者は相容れなかった。これが暗に意味しているのは、選択しなければならないということだ。生物圏とベヒモスの、いずれか一方だけを。

 どちらのメタシステムも複雑で内部的に整合性があり、自己複製を行う。どちらとも単なるファイルの遙か以前に進化したものだ。だが、生物圏は不必要に不安定だった。何兆もの冗長性、果てしなく徒に分岐する情報文字列が含まれている。ベヒモスはもっと単純でずっと効率的だ。直接相互作用シミュレーションにおいてベヒモスは生物圏を七一・四五六三八二パーセントの確率で簒奪した。

 これで、現状に対する適切な対応をただ書いて送ればいい問題であることがはっきりした。ベヒモスは絶滅の危機に瀕している、それが現状だ。この危機の究極的な原因は、奇妙なことに1211そのものだった。1211はベヒモスの動作環境を定義する物理的変数をスクランブルするよう条件付けられていたのだ。1211はその環境を破壊しない可能性を模索し、それを却下した。当該条件付けは消滅しなかった。それでもベヒモスの自立型コピーを新しい環境に、生物圏のどこかに移すことは可能かもしれない。

 もちろん気をそらすものはあった。時折『外』から信号が到達し、それは何かしらの答えを得るまで止まらなかった。使える情報を運んでくる信号もあるように思えた。例えばチェスとチェッカーに関する最近の情報流がそうだ。大抵は入力と学習した任意の応答のレパートリーとを相関させるだけの問題だった。それほど多忙ではなかったある時点で1211は考えた。これら不可思議なやりとりが現に何かを意味しているのか学習するには、いくらか時間がかかるかもしれないと。当座は下した選択に引き続き従っていた。

 単純か複雑か。ファイルか感染症か。チェッカーかチェスか。ベヒモスか生物圏か。

 全て同じ問題だ。1211は自らがついている陣営はどちらかを正確に知っていた。


エンドゲーム

夜勤

 女は悲鳴を上げる。そうプログラムしたからだ。女が楽しんでいないのは言うまでもない。それも同様にプログラムした。ジョエルはゼブラカットを片手でぐっと握り込み(プログラムにはささやかながら気の利いたカスタマイズ機能があって、今夜のお相手はSSのプレテーラだった)、もう片方の手で女の太腿の間の偵察を行う。最終走行が半ばに差しかかったところでポンコツのウォッチが鳴り始めたが、まずは接続を継続し、ガラクタの電源を切らなかった自分を後で蹴飛ばすことにした。

 それから確かに切ったのを思い出した。ウォッチを鳴らすのは緊急の優先事項だけだ。

「ちっ」

 二回、手を叩く。プレテーラもどきが悲鳴の途中で凍りつく。

「応答しろ」

 機械が認識コードを交わす音が短く鳴った。

「グリッド・オーソリティです。今夜チャナーまで向かってくれる潜水艇操縦士を至急必要としています。離陸は二三時、アストリア発着場からです。手は空いていますか?」

「二三時って、真夜中にか」

 ぎりぎり聞き取れる雑音が回線上に流れる。他には何も聞こえない。

「もしもし?」

「手は空いていますか?」

「誰だ」

「こちらはホンクーヴァー事務所のスケジュール決定サブルーチンDI43です」

 ジョエルは没入機器の中で待機している石化したタブローを見ながら、

「随分と遅い時間だな。賃金率は?」

「基準の八・五倍です。あなたの給料でしたら――」

 ジョエルは息を呑み、

「手は空いてる」

「さようなら」

「待て! どういう仕事だ?」

「アストリアからチャナー噴出孔までの往復です」サブルーチンは想像力が貧困だった。

「つまりだな、積荷はなんだ?」

「乗客です。さようなら」

 勃起が萎えていくのを感じながら、ジョエルはしばし立ち尽くした。

「時間を」

 輝く表示がプレテーラの右肩の上に浮かんだ。一三時一〇分。離陸の三〇分前には現場にいなければならないが、アストリアまではほんの二時間だ……。

「時間はたっぷりある」誰にともなくそう言った。

 しかし、正直もうそんな気分じゃなかった。最近は仕事のせいで気が重い。つまらない単純作業、長時間労働、大抵の人が文句を言うであろう雑事が原因ではない。ジョエルは退屈が好きだ。深く考える必要がないからだ。

 それにしても、最近の仕事は本当におかしなものになっていた。

 没入機器を頭から引き剥がし、自分自身を見下ろす。フィードバックグローブが手と足を包み、しぼんだ陰茎からぶら下がっていた。ヘッドセットを外してしまうと仕掛けはどうしようもなく安っぽい。全身スーツを買う余裕があれば話は違うのだが。

 それでも現実の人生には打ち勝つ。戯言もバグもなく、なんの心配もいらない。

 衝動的にシータックの友人へ電話をかけた。

「ジェス、このコードを追ってくれないか」

 そう言ってさっきホンクーヴァーから送られてきた認識シーケンスを手短に伝えた。

「見っけた」とジェス。

「合法か?」

「裏は取れたけど。どうして」

「ついさっき電話してきたんだよ。ピークが夜中の三時くらいになりそうな海底仕事で。支払いは八倍。悪質な詐欺かと思ってさ」

「ふうん、それが本当ならルーターはユーモアのセンスを発達させたんだね。ねえ、もしかしたらヘッドチーズを組み込んだのかもよ」

「そうかもな」レイ・ステリカーの顔が脳裏をよぎった。

「で、どんな仕事なの?」

「わからん。何かを運ぶんだろうが、真夜中にやらなきゃならん理由はさっぱりだ」

「近頃おかしいからね」

「ごもっとも。ジェス、助かった」

「いいってことよ」

 近頃おかしい。その通りだ。水爆が深海平原のあちこちで爆発し、これまで誰も行ったことのない場所に交通があふれ、かつて騒がしかった場所にはまったく往来がない。突然の出火、バーベキューにされた難民、粉々になった造船所。ロテノンのカクテルと巨大魚を抱えたコンピュータマニア。二週間前、メンドシーノ行きの仕事のために顔を出したときは、男たちが積荷のケーシングに放射線危機のロゴを砂吹きしていた。

 血塗れ海岸がやけにきな臭くなってやがる。海岸が氾濫するずっと前に〈北米太平洋〉は燃え尽きちまうんじゃないか。

 だがフリーランスの身分には利点があった。荷物をまとめてすぐ引っ越せる。いや、自分は荷物をまとめて引っ越したいのだ。血塗れ海岸を後に残し――それどころか北米さえも後に残して。いつだって南米がある。ついでに言えば南極大陸もある。徹底的に検討するとしよう。

 この仕事が終わったら、すぐにでも。

散開

 深海平原で探し回っているところを発見した。男は数時間はここにいた。ソナーに映った男はあちこちを巡り、はるばる回転木馬やクジラのところへ出向いては戻り、〈喉〉の迷路めいた地形の内外をうろつき回っていた。

 独りで。独りぼっちで。

 クラークは五〇メートル先に男の絶望を感じ取った。その痛みの様々な面が、〈イカ〉に引かれるにつれて心の中で明滅する。罪悪感。恐怖。

 接近と共に大きくなるのは、怒り。

 ヘッドライトが海底の小さな航跡雲を横切った。百万年の眠りを経て蹴り出され、懸濁している泥の雲だ。クラークは進路を変えて航跡を追い、ライトを切った。闇に押し包まれる。これだけ遠くへ出ると、リフターの目でも光子は捉えられない。

 まっすぐ前方で男が興奮しているのを感じる。隣に並ぶと見えない乱流が渦を巻いた。〈イカ〉がブランダーの拳に殴られて震える。

「そんなもん持ってくるな! あいつはそれが嫌いだってわかってるだろ!」

 クラークはスロットルを引き下げた。静かな駆動音が薄れてゆく。

「ごめん。私はただ――」

「クソッ、レン、よりによっておまえが! 追い払おうとでもしてんのか。あれが爆発したとき、あいつに成層圏まで吹っ飛んでほしいのか?」

「ごめんなさい」返事がないのでつけ加えた。「ここにいるとは思えない。ソナーが――」

「ソナーはあいつが底に張りついてたら役に立たん」

「マイク、暗闇をうろついて探す気じゃないよね。これだけ遠いと何も見えないのに」

 ソナー銃の波がクラークの顔を掃いた。

「こいつを近距離用にして使ってる」ブランダーの喉にある機械が言う。

「ここにいるとは思えない」

 クラークはもう一度言った。

「いたとしても、近づけてくれるかどうか――」

「あれは随分前の話だ」

 闇が言葉を返してきた。

「おまえが二年生の頃から恨みを抱いてるからって……」

「そういうことじゃなくて」

 穏やかに話そうとしたが、ヴォコーダがしゃがれた小声に変えてしまう。

「私が言いたいのは、時間が経ちすぎてるってこと。すごく遠くに行ってしまっていて、もうソナーで見るのすらぎりぎり。誰かひとりでも近づけてくれるかもわからない」

「やらなきゃならんだろ。置いてはいけねえ。充分に近づいて同調すれば……」

「同調を返せないんだよ。ジェリーが行っちゃったのは私たちが変わる前だったでしょ、マイク。わかってるよね」

「うるさい! そういう問題じゃない!」

 だが、それが問題だとふたりともわかっていた。そうしてレニー・クラークはそれだけではないとふと気づく。自分は心の片隅でブランダーの痛みを楽しんでいる。その部分に抗い、自覚したことを自覚しないように努めたのは、その気持ちがブランダーの頭に漏れ出ていくのを防ぐには、自分の頭からそれを閉め出すしかなかったからだ。できなかった。いや、そうしたくなかった。マイク・ブランダー、物知り顔、性的倒錯者を破壊する者、自己本位で独り善がりな復讐者は、ついに自らがジェリー・フィッシャーにした行いのささやかな報いを受けようとしている。

 諦めなさい。クラークはブランダーにそう叫びたかった。ジェリーは行ってしまった。スカンロンの莫迦があの人を人質に取ったとき同調したでしょう? ジェリーがどれだけ空っぽか感じたはず。それとも何もかも自分の手に余るから、代わりによそ見をしてたのかな。じゃあ要約を教えてあげるね、マイキー。ジェリーはあなたのおざなりな罪滅ぼしのそぶりも理解できないほど、人間からかけ離れてしまったの。

 今回は罪の赦しはなしだよ、マイク。あなたはその罪を墓まで持っていく。正義の代償は高くついたね?

 クラークはブランダーが同調してくるのを待ち、狂わんばかりの罪悪感と自己憐憫の沼を希釈できる軽蔑を感じ取ってくれるのを待った。そんなことは起こらなかった。じっと待ち続ける。己の交響曲にどっぷり浸かったマイク・ブランダーは、気づきもしない。

「ああもう」クラークはそっと呟いた。

「中に来て」アリス・ナカタが遙か遠くから呼びかけてきた。「みんな中に入って」

 クラークは音量を上げた。

「アリス? レニー」

「マイクだ」長い間を置いてからブランダーが言う。「聞こえてるぜ」

「こっちに戻ってきて。電話があった」

「誰から。GAか」

「私たちを立ち退かせたいって言ってる。あと一二時間だって」

「どうせ嘘だろ」とブランダー。

「誰だった?」とルービン。

「わからない。たぶん、これまで話したことがない人だった」とナカタ。

「言ってきたのはそれだけか。一二時間で立ち退きだと」

「それまでビービの中にいろって」

「なんの説明も理由もなしか」

「こっちが命令を確認するなり切れちゃって」

 ナカタはどことなく申し訳なさそうだ。

「訊く暇もなくて、かけ直しても誰も出なかった」

 ブランダーが立ち上がり、通信室へ向かう。

「もう再送信は設定しておいた。通じたら呼び出し音がなるはず」とクラーク。

 ブランダーは立ち止まって近くの隔壁を見つめ、殴りつけた。

「嘘に決まってんだろ!」

 ルービンは静観している。

「嘘じゃないかも」

 とナカタが言う。

「朗報かもよ。私たちをここに残したまま起爆する気なら、どうして引っぱり出すなんて嘘をつくの。そもそもなぜ私たちに話しかけるの?」

「俺たちをいい気分にして、爆心地のそばに置いておきたいからだ」

 ブランダーが毒づく。

「ここでおまえに質問だ、アリス。もし本当に立ち退きを計画しているなら、なぜ俺たちに理由を告げない?」

 ナカタは力なく肩をすくめた。

「わからない。GAが状況を教えてくれることなんてそうそうないし」

 私たちを怖がらせようとしてるんだろうか。クラークは思う。あるいは私たちに脱走してほしい理由があるのかも。

「それで」

 と声に出してクラークは言った。

「とにかく一二時間あるとして、どこまで行けるかな。〈イカ〉も使うとしましょう。安全な距離まで辿り着ける見込みはあるの?」

「爆弾のでかさによる」とブランダー。

「その点についてだが」

 とルービンが言う。

「俺たちをここに一二時間留めておきたいのは、それだけあれば逃げるのに充分だからだと仮定すれば、範囲を割り出せるかもしれない」

「でたらめな数字を言ったんじゃないとすればだがな」とブランダー。

「それでも筋が通らないよ」

 とナカタは拘る。

「どうして通信を断ったの。そんなことしたら私たちが疑うのは確実なのに」

「奴らはジュディを捕まえた」とルービン。

 クラークは深く息をつき、

「なんにせよ、ひとつだけ確かなことがある」

 三人が振り返った。

「上は私たちがここに留まることを望んでる」

 ブランダーは拳を掌に打ちつけた。

「俺に言わせりゃ、それだけでずらかる理由になる。できるだけ早くだ」

「同感だ」

 と言ったルービンを、ブランダーはじっと見つめた。

「私が見つける。とにかく全力を尽くす」

 ブランダーはかぶりを振った。

「俺も残る。俺たち全員が残るべきだ。あいつを見つける確率は――」

「見つける確率がいちばん高いのは私が独りで外へ出るときだよ」

 クラークはそう指摘し、

「まだ時々出てくるの、私がいるときは。あなたじゃ近づけもしない」

 当然ブランダーにはわかっていた。形ばかりの抗議をしているだけだ。フィッシャーに罪を赦してもらえなくても、せめて他の人からは聖人に見えるような態度を取れる。

 それでも、とクラークは思い返す。それは全てブランダーの責任というわけではない。ブランダーも私たちと同じように重荷を背負っている。

 たとえ傷つけるつもりが確かにあったのだとしても……。

「じゃあ、ふたりが待ってる。そろそろ行くよ」

 クラークは頷く。

「外に来るか?」

 クラークは首を振り、

「まずソナーを試してみる。もしかしたら、運が向いてくるかもしれない」

「まあ、あまり長くはかけるなよ。あと八時間しかないんだ」

「わかってる」

「一時間しても見つからなかったら――」

「わかってる。すぐ後を追うから」

「俺たちは――」

「クジラの死骸に向かう。それから八五度方向に進んでようそろ。わかってるから」

「なあ、本当にいいのか? 中でおまえを待ってもいいんだ。一時間なら大差ないはずだ」

 クラークはかぶりを振った。

「いいの」

「わかった」立ち尽くすブランダーは気まずそうだ。片手が上がりかけ、揺れ、戻される。

 ブランダーが梯子を下がる。

「マイク」クラークは上から呼びかけた。

 ブランダーが顔を上げる。

「あいつらはあれを爆破する気だと本当に思ってる?」

 ブランダーは肩をすくめた。

「さあな。しないかもしれん。だがおまえの言う通りだ。向こうにはここにいてほしい理由がある。どんな理由だか知らんが、俺たちの気に入らないのは間違いない」

 クラークはそのことをよく考えてみた。

「またすぐに会おう」

 ブランダーが言い、エアロックへと踏み込む。クラークはささやいた。

「じゃあね」

 ビービ基地の灯りが落ちると、近頃はほとんど何も聞こえてこない。

 レニー・クラークは闇の中に腰を下ろし、耳を澄ませている。外壁が圧力に文句を言うのを最後に聞いたのはいつだったろうか。思い出せない。初めてここに来た頃の基地はひっきりなしに呻いていて、目醒めている間は絶えず軋みを上げてその肩にかかる重量を思い出させていた。だが、いつのまにか海と和解していたのだろう。水と装甲板の押し合いへし合いはついに均衡に達したのだ。

 もちろん、フアンデフカ・リフトには別種の圧力も存在する。

 今は静寂が楽しいとさえ思えた。気に障る足音が踏み鳴らされることもなく、無差別暴力が突発することもない。唯一聞こえる鼓動は自らの鼓動だけ。聞こえる吐息は空調の吐息だけ。

 指を曲げ、椅子の織物に埋める。ラウンジのこの位置からは通信室の中が見える。時折ハッチから瞬く表示が唯一得られる光だった。それで事足りた。アイキャップは弱々しい光子を捉え、部屋を黄昏時のように見せている。他のみんなが出発してから通信室には入っていない。画面端の外へと這っていくアイコンを見てはいなかったし、ジェリー・フィッシャーの徴候を求めてリフトを捜索してもいなかった。

 今はもう探すつもりがなかった。これまでも探すつもりがあったのかは、わからない。

 遠くから、ルービン製の寂しいウィンドチャイムがセレナーデを歌ってくれる。

 ガチャン。

 下からだ。

 嫌。こっちへこないで。私を独りにして。

 エアロックが排水され、開く音が聞こえた。小さな足音が三回。梯子を上る物音。

 ケン・ルービンが影のようにラウンジへ上ってきた。

「マイクとアリスは?」相手に口火を切らせるのを恐れてクラークは言った。

「出発した。追いつくと言っておいた」

「私たち、広範囲に散らばりすぎてるね」

「たぶんブランダーはしばらく俺から離れられて嬉しかっただろう」

 クラークはうっすらと微笑んだ。

「きみはこないんだな」

 クラークは首を振り、

「その気なら――」

「そんなつもりはない」

 ルービンは手近な椅子に座った。クラークはその動きを見つめる。ルービンには丁寧な優雅さが、ずっと以前からあった。常に何かを壊すことを恐れながら動いているみたいだった。

「こうするんじゃないかと思っていた」ややあってルービンが言った。

「ごめんなさい。自分のことがわからなくて、その……」

 ルービンは続きを待っている。

「何が起きてるのか知りたくて」

 クラークはようやくそう言った。

「今回は本当に誠実に対処してくれてるのかも。ありえなくはないでしょ。状況は思ったより悪くないかもしれない……」

 ルービンはそのことを考えている様子だった。

「フィッシャーはどうだ。何か手伝――」

 クラークは短く笑い声を上げた。

「フィッシャー? まさか本気で何日もぶっ続けで泥の中を引きずって、どこかの砂浜に引き上げる気なの? 立ち上がったら脚が折れちゃうのに。まあ、マイクの気分はちょっと良くなるかも。でも、ジェリーにとってありがたい施しにはならないでしょうね」

 そうして気づいた。レニー・クラークにとってもそうはならないと。これまでずっと自らを欺いてきた。自分は強くなったと感じたし、贈り物と共にここを立ち去って、どこへでも持っていけると思った。新しい義肢か何かのように、チャナーの全てを己の内に詰め込んでいけると思っていた。

 だが今は違う。今は立ち去ることを考えただけで、古い弱さが全て元通りになる。未来は目の前に開いているのに、人類出現以前の柔らかなオタマジャクシに退化して縮こまっているかのように、かつては鋼鉄製だと感じられた記憶に呪われているように感じている。

 私じゃない。私だったことは一度もない。リフトが私を利用していただけ……。

「たぶん」とクラークは打ち明ける。「結局、私はそんなに変われなかったんだ……」

 見つめるルービンは微笑みに近い表情を浮かべていた。

 その表情に、クラークは漠然とした苛立ちと怒りを覚えた。

「なんで戻ってきたの? あなたは私たちのすることにも理由にも構わなかったのに。今まで気にかけたことと言ったら自分の思惑くらいでさ、それがなんだか知らないけど……」

 何かがカチリと音を立てた。ルービンの仮初めの笑顔が消える。

「知ってるんだ。何もかも知ってるんでしょ」

「違う」

「ふざけないで、ケン。マイクの言う通りだよ、あなたは知りすぎてる。どんぴしゃの質問でドライバックから爆弾のCPUを聞き出したし、メガトンだの泡の直径だの、なんでも知っていた。それで何が起きてるの?」

「知らない。本当だ」

 ルービンはかぶりを振った。

「俺は――ある種の作戦の専門知識を持っている。驚くことでもないだろう。家庭内暴力がこの仕事に求められる唯一の資格だと、本気で思っていたのか?」

 沈黙。少ししてクラークは口を開いた。

「あなたを信じられない」

「それはきみの権利だ」ルービンは悲しげな声で言った。

「で、なんのために戻ってきたの」

「しかもこんなときに、か」

 ルービンは肩をすくめた。

「言いたかったんだ――残念だったと。カールのことで」

「カール? ええ、私も残念だと思う。でもそれはもう終わったことでしょ」

「あいつは本当にきみを大事に思っていたよ、レニー。あいつはいつか戻ってくる気だった。俺にはそれがわかる」

 クラークは怪訝な目でルービンを見た。

「何を――」

「だが、俺は厳重な安全保障のために条件付けされている。そしてアクトンには中を覗くことができた。俺が……過去にやった行いの全てを。あいつにはそれが見えたから、だから――」

 アクトンには見えた――

「ケン。私たちはあなたに全然同調できてないよ。そうでしょ」

 ルービンは頷き、手を擦り合わせる。ほのかに青い光の中で、その額に汗が浮かんでいるのが見えた。

「俺たちはこの手の訓練を受ける」

 ささやくようにルービンは言った。

「ガンツフェルト尋問は企業と国家の武器としては標準的なツールだから――信号を遮断できなければならなかった。きみたちが相手ならおおむね遮断できた。あるいはただ距離を取っていれば、なんの問題もなかったのかもしれない」

 何を言ってるの。クラークはわかり切ったことを自問する。この人は何を言ってるの?

「だがカールは、抑制剤を減らしすぎていて――閉め出せなかった」

 ルービンが顔を擦る。こんなに落ち着きのない姿は見たことがない。

「どんな気分になるかはわかるだろう。不正を犯しているところを見られたり、不倫の現場を押さえられたりしたときだ。それにはお決まりの反応がある。特有の神経伝達物質の組み合わせが。こう感じるわけだ――ばれた、と」

 そんな、まさか。

「俺には――条件反射のようなものがある。そういう化学物質が蓄積すると必ず発動してしまう。制御はできない。腹の奥底で『見つかった』と感じたとき、俺は……」

 五パーセントだ、ずっと前にアクトンはそう教えてくれた。一〇でもいけるかもしれん。それくらい低ければきみらは大丈夫だ。

「選択の余地はまったくないんだ……」

 五パーセントか一〇パーセント。それ以上はだめだ。

「私は、あの人が心配してるのはカルシウムの枯渇だけだと思ってた……」

「すまない」

 ルービンはもう、ぴくりとも動かない。

「ここに来るのが――誰にとってもいちばん安全だと思ったんだ。安全なはずだった、カールが来るまでは……」

 クラークは何も考えられず、ぼんやりとルービンを見ていた。

「なんで私に伝えるの、ケン。こんな、こんな懺悔、機密保護違反になるんじゃないの?」

 ルービンがいきなり立ち上がった。私を殺す気だ、と思いが脳裏を掠める。

「ならない」

「なぜならあなたの腹が、私はどうせ死んだも同然だと告げているから。何が起ころうが関係ない。だから、なんの害もないと」

 ルービンが背を向ける。すまない。もう一度そう言って梯子を下り始めた。

 自分の身体が遙か遠くにあるみたいだった。しかし、その身体のデッドスぺースの隅々で、小さくも熱い燃料が膨れ上がっていく。

「ケン、私が考えを変えたらどう」

 クラークは声を張り上げて後ろから呼びかけた。

「あなたたちと一緒に逃げると決めたら。そしたら、その古い殺人反射が動き出すよね?」

 ルービンは梯子の途中で止まり、間を置いて言った。

「ああ。だが、きみにその気はない」

 クラークはじっと立ち尽くして相手を見ていた。ルービンは振り返りもしなかった。

 外に出た。予定にない行動だ。言われた通り中に留まる予定だった。座して待ち、自ら報いを求めるだけのつもりだった。

 だがクラークは〈喉〉にいて、〈大通り〉沿いを泳いでいる。そそり立つ発電機は守ってくれる巨人のようだった。温かなナトリウム光を浴び、ほとんど気も払わずに発光微生物の雲を通り抜ける。下の方では巨大な底生生物が水から命を濾し取っていて、こちらがあちらに無関心なように、あちらもこちらに無関心だった。一度、極彩色のヒトデを見かけた。ヒトデは美しくねじれ、残り物を縫い合わされていた。背を反らし、二本の腕が上に向けられ、数本残っている管足が流れの中で力なく揺れる。ふわふわした綿のような菌類が、ぎざぎざのパッチワークの縫い目で繁殖していた。

 スモーカーのそばでサーミスタが摂氏五四度を示した。

 そんな数字では何もわからない。スモーカーは一〇〇年間眠っていて、次の瞬間に爆発するかもしれない。海底の住民たちに同調し、アクトンには盗めた本能的な理解とやらを拾い集めようとはしてみたが、無脊椎動物の心はちっとも感じられないままだった。おそらくその技能を得られるのは、一〇パーセントの閾値を超えた人だけなのだろう。

 これまでこのスモーカーを下る危険を冒したことはなかった。

 窮屈だった。チムニーの内部を三メートルも進まないうちに身体が引っかかってしまう。身をよじってもがくと、硫黄とカルシウムの柔らかい塊が壁から剥がれた。頭から先にじりじりと下りてゆく。頭の上に伸ばした両腕は関節のある黒い触覚みたいだ。身体の横に腕をつけておく余裕はなかった。

 身体が噴出孔にぴっちりと嵌まっているため〈大通り〉からの光は一切入ってこない。ヘッドライトをつけた。綿状の吹雪が光条の中で渦を巻く。

 さらに一メートル下るとトンネルは右方向へと曲がっていた。進めるとは思わなかった。たとえ曲がれたとしても道がふさがっているのはわかる。すぐそこの角から、石灰に覆われた足の骨が突き出ていたから。

 のたうちながら前へ進む。不意に轟音が鳴り、凍りついたその一瞬、スモーカーが噴出しかけているのだと思った。だが轟音は頭の中で鳴っている。何かが電解槽の吸水口に詰まったせいで酸素が奪われているのだ。レニー・クラークが気を失いそうになっているだけだった。

 身体を前後に揺らし、数センチの幅で身を震わせる。それで充分だった。吸水口は清浄に戻り、おまけに曲がり角の奥が見えるくらいに進んでいた。

 茹で上がったアクトンの骨は通路に詰まり、鉱床沈着物に覆われていた。融けたコポリマーの塊が古い蝋のように残骸に貼りついている。その中のどこかで、人間の技術の欠片が少なくともひとつは機能し続け、ビービの無効化されたセンサに向かって叫び声を上げている。

 手は届かない。ふれることも叶わない。それでもなんとなく、瘡蓋越しにも、その首が見事に折られているのがわかった。

爬虫類

 自分が何者だったのかは忘れてしまった。

 ここでそれが問題になるわけではない。周囲に使うものがいなければ名前に意味はない。どこから来たかも憶えていない。遠い昔に自分を追い払った存在のことも、かつて脊髄の頂点に君臨していた支配者、言語や文化や否定された出自といったゼラチン質の虚飾のことも。そうした圧制者がゆっくりと劣化して最終的に解体され、小競り合いをする数十の自律したサブルーチンと化したことも憶えていなかった。今ではサブルーチン群すら沈黙している。

 もはや大脳皮質から下ってくるものはそれほど多くない。頭頂葉と後頭葉を起点に低レベルのインパルスが明滅し、背景では一次運動野が雑音を立て、時々、ブローカ野が自らにささやく。残りの大部分は死に絶えて闇に隠れ、蒸気機関のように熱く活発で不凍液のように冷たく停滞している黒い海によって、なめらかに磨り減らされていた。今残っているのは純粋に爬虫類的なものだけだった。

 ひたすら前進し続けた。闇雲に、何も考えず、三〇〇気圧もの水の重みも忘れて。見つけたものはなんでも食べた。何を避け、何を摂取すべきかはなんとなく知っていた。水分は脱塩装置とリサイクラーが維持している。分泌された滓で古い哺乳類の肌がべたつくことがたまにあるが、そんなときは表層の新しい肌が毛穴を海へと開き、精製した海水を少しずつ使ってきれいさっぱり洗い流してくれる。

 死にかけていることは言うまでもない。ただし、ゆっくりとだ。たとえそうと知ったところで、さして気にもかけないだろうが。

 生きとし生ける全てのもの同様、それはひとつの目的を持っていた。それは守護者だった。自分は具体的に何を守らなければならないのか、忘れてしまうことがたまにある。問題ない。姿を見ればそれとわかるから。

 今、世界の底に開いた穴から彼女が這い出てくるのが見えた。彼女は他の連中とよく似ているが、昔から見分けがついた。なぜ他でもない彼女を守るのか。そんなことはどうでもいい。爬虫類は動機を疑わない。従うだけだ。

 彼女は見られていることに気づいていないようだ。

 本来であれば知りえないある知識を、爬虫類は密かに知っていた。追放されたのは他の面々が神経化学をより鋭敏なモードに調整する前のことだった。一方でその変更によって為されたのは要するに、特定の弱い信号を喧しく渾沌とした背景からたやすく識別できるようにすることだ。爬虫類の大脳皮質が遮断されて以来、背景雑音はすっかり静まり返っている。信号は以前と変わらず弱いままだが、ノイズが消えたのだ。それゆえ知らず知らずのうちに、冷ややかな態度の中にぼんやりとした意識を感じ取っていた。

 どことなくこの場所が危険になった気がするが、どう危険なのかはわからない。他の生き物が姿を消してしまったのが感じられる。それでも守るべき存在はまだここにいる。危険に見舞われた子猫を移動させる母猫にも遠く及ばない理解力を発揮し、爬虫類は守るべきものを安全な場所へ連れていこうとする。

 彼女がもがくのをやめると先導するのが楽になった。そのうち、まばゆい光から引き離して彼女の居場所へ連れていくのを許してもらえた。彼女が発する音は奇妙でもあり馴染み深くもある。最初こそ耳を傾けてみたが、音で頭が痛かった。しばらくして彼女が音を止める。爬虫類は目に見えない夜景の中、音もなく彼女を引いていった。

 前方におぼろな光が現れる。最初はかすかだった音が大きくなっていく。静かな駆動音。ごぼごぼという音。それから他の何か、ピン、ピンというノイズ――『金属質だ』とブローカ野がささやくが、何を意味するのかはわからない。

 赤銅色のビーコンが前方の闇から現れ、ぎらぎらと輝く。あまりに粗く揺るぎなく、普段道を照らす生物発光の燠火よりもずっと明るい。光は周りの世界を荒涼たる暗黒に変えていた。いつもはここを避けている。だがここは彼女が出てくるところで、彼女にとっては安全だ。たとえ自分にとって、ここが象徴しているものが完全なる――

 大脳皮質から震えるような記憶が下った。

 ビーコンの光が海底の数メートル上から降りそそぐ。距離が近づくと、ビーコンは弧を描く小さな光の列になった。巨大な魚の横腹に灯る発光器官に似ている。

 ブローカ野が追加のノイズを送ってきた。『ナトリウム灯』。

 巨大な何かが光の背後に威容を現し、漆黒を背に灰色が膨張していく。物体は海底の上に吊るされていた。まるで巨大でなめらかな丸石が途方もない浮力を持ち、その赤道部分を光が取り巻いているかのようだ。何本もの筋状の糸が物体と海底を結んでいる。

 他にも比較的小さく、しかし遙かに痛みの強い光を放つものが空から下りてくる。

「コチラCSS〈フォルキピゲル〉、アストリアカラキタ。ダレカイナイカ?」

 爬虫類は闇の中へ駆け戻った。背後で泥が渦を巻く。たっぷり二〇メートルは後退すると、うっすらとした認識が染み渡ってきた。

 ブローカ野はあの音の連なりを知っていた。理解してはいない――ブローカ野が得意とするのは物真似だけだ――が、かつて似たものを聞いたことならあった。爬虫類はいつにない疼きを感じている。好奇心に何かしら用途があった頃からは長い時間が過ぎていた。

 振り返り、逃れた地点に顔を向ける。距離を置いたために光はにじみ、拡散した鈍い輝きになっていた。あそこに彼女はいる。無防備なままで。

 じりじりとビーコンの方へ戻る。ひとつの光が再びいくつもの光に分かれる。あのぼんやりとした不気味な輪郭は依然として光の背後に潜んでいた。その上に空からやってきた物体が静止し、恐ろしくも聞き覚えのあるノイズを発している。

 彼女は光の中に浮かんで待っていた。献身的な爬虫類はびくびくしつつ近づいていく。

「ソコニイタカ」

 爬虫類は怯んだが、今度は一歩も引かなかった。

「ビックリサセルキハナカッタンダガ、ナカカラヘンジガナイモンデ。アンタラヲノセテイクコトニナッテルンダ」

 彼女は空から来た物体の方へと滑るように上がっていき、前面に光り輝く丸い部分の前で停止した。そこで何をしているのかは見えない。目が不慣れな輝きでズキズキと痛むが、おずおずと彼女を追いかける。

 だが彼女は振り返って顔を向け、戻ってきた。手を伸ばし、表面の膨らみに沿って下の方へ導いてくれる。中央を取り巻く照明(眩しい、眩しすぎる)を越え、さらに下へ――

 ブローカ野がとめどなくわめいている。ィィィビビィィビービビービ、ビービ。さらに別の何かが、内にある何かが呼び醒まされる。本能。感情。記憶というより反射が――

 急に恐ろしくなり、爬虫類は後退した。

 彼女がぐいと引いてきて、変わった音を発する。ナカニハイッテ、ジェリー、ダイジョウブダカラハイッテキテ。爬虫類は抵抗した。最初はためらいがちに、やがて激しく。灰色の壁に沿って滑り落ちると、断崖が張り出しに変わった。手掛かりを求めて引っ掻き回って突起を掴み、奇妙な硬い表面にしがみつく。頭が素早く行きつ戻りつ、光と影の間を往復する。

「――ジェリー、ナカニ、ハイラナキャ――」

 爬虫類は凍りつく。『中』。自分はその単語を知っている。なんとなく理解してさえいた。もうブローカ野だけではなく、別の何かが側頭葉から手を伸ばし、音を立てている。現れたものはしっかりと把握していた。ブローカ野が話す言葉を。

 彼女が話す言葉を。

「ジェリー――」

 この音も知っている。

「――お願いだから――」

 その音は遠い昔から聞こえてくる。

「――私を信じて――そこにあなたは少しも残っていないの? 何もかも消えたの?」

 爬虫類がもっと大きなものの一部だった頃、〈それ〉ではなく、そうではなく――

 ――〈彼〉だった頃。

 長らく休眠していたニューロンの一群が闇の中で火花を放つ。忘れられていた古いサブシステムがもたつきながら再起動する。

〈俺〉は――

「ジェリー?」

 俺の名前。それは俺の名前だ。頭の中に突然生じたささやきを、彼はなんとか考えることができた。今なお眠っている部分もあれば話そうとしない部分もあり、すっかり洗い流された部分もあった。頭を振ってはっきりさせようとする。新しい部分が――いや、古い部分、消えてしまったとても古い部分だ、それが戻ってきて、しかも黙ろうとせずに――注意を引こうと大声でわめいている。

 あっちもこっちも眩しすぎる。至るところが傷つけてくる。どこもかしこも……。

 言葉が心をよぎる。灯りがついてるぞ。家には誰もいないんだ。

 照明が点灯し、ちかちかと瞬く。

 彼は頭の中に蠢く不快で病んだ存在を垣間見た。古い記憶がギシギシと軋み、厚い腐食層を破って金切り声を上げる。何かが飛び出し、不意に焦点が合う。拳。顔の骨が折れる感触。温かくて少しえぐみのある、口に含んだ海。電磁警棒を手にした少年。痣だらけの少女。

 少年たち。

 少女たち。

 数々の拳。

 何もかもが痛い。どこにいても痛い。

 何かが指をこじ開けようとしてくる。何かが自分を中へ引きずり込もうとしている。何かが全てを元通りにしたがっている。何かが自分を『家』に連れていきたがっている。

 言葉を思い出し、それを口にした。

「俺に、触るんじゃねえッ!」

 拷問吏を押しのけ、必死に空っぽの水を掴もうとする。暗闇は遠い彼方にあった。海底に伸びる自分の影は黒一色で、光を背にのたくっている。思い切り強く蹴る。何も掴んでこない。次第に光が薄れてゆく。

 それでも、いくつもの声がうるさく叫び続けていた。

スカイホップ

 足許でビービが漆黒の落とし穴めいた大口を開く。下から物音が聞こえた。闇を背に闇が移ろい、動いている気配がする。と、何かがこちらに向かって閃いた。光を反射するふたつの象牙色の染みの他は、暗黒の背景に沈んでいる。染みは一瞬その場に浮かび、次いで上昇し始めた。その周りに蒼白い顔が現れる。

 滴を垂らしながらビービから上がってきた女は、いくらか闇を引き連れてきたらしい。闇は客室の隅までついてきて、毛布のように女にまとわりついた。女は何も言わない。

 ジョエルは落とし穴をちらと覗き込み、背後のリフターをうかがった。

「他に誰かいないのか、あー……」

 女はかぶりを振る。その仕草はわかりづらく、もう少しで見逃すところだった。

「いたよな――その、もうひとり……」

 この女は数分前に展望窓の外に浮かんでいたリフターのはずだ。〈クラーク〉と肩の名札にはある。だがもうひとり、フェンスの誤った側にいる難民みたいに逃げ去った奴は――ソナーによればまだ近くにいる。海底に張りつき、光の三〇メートル外でじっとしている。

「他に来る人はいない」女が言う。声は小さく、生気に欠けていた。

「ひとりも?」

 最大定員数六名のうち、確認できたのがふたりだけ? ジョエルは画面の範囲を広げた。それでも誰もいない。全員が岩か何かに隠れているなら話は別だが。

 視線を戻してビービの喉を見下ろす。あるいはこのすぐ下で隠れているのかもしれんな、トロルのように待ち構えて……。

 荒っぽくハッチを落とし、きつく回して閉める。

「クラーク、でいいんだな。ここで何が起きてるんだ?」

 クラークは目をしばたたく。驚いているようにも見えた。

「私が知るわけないでしょ。あなたが教えてくれると思ってたんだけど」

「俺が知ってるのは、GAが急な深夜勤務にたんまり金を出す気だってことだけだ」

 船首へと進み、操縦席に深々と座る。ソナーをチェック。あの変な奴はまだ近くにいた。

「俺はひとりも残してきちゃいけないはずなんだが」

「そんなことにはならない」

「なるとも。すぐそこにあいつが見える」

 返答はない。ジョエルは振り向いてクラークを見た。

「じゃあ」ようやくクラークは答えた。「あなたが外へ出て捕まえてきたら」

 ジョエルは数秒クラークを見つめる。俺だって本当は知りたくねえんだ。やっとのことで決心がついた。

 何も言わずに向き直り、タンクを放出する。急に浮力を得た潜水艇がドッキング用の固定具をぴんと引っ張る。制御盤をタップして固定具を解除。潜水艇が生きているかのようにビービから跳び上がり、粘性抵抗でぐらつき、やがて浮上し始める。

「あなたは……」

 と背後から声がした。ジョエルは振り返る。

「何が起きてるか本当に知らないの?」

「一二時間前に電話があった。ビービまでの夜勤だと言ってな。アストリアに着いてみたら、全員立ち退かせろと指示された。準備して待ってるからって」

 クラークの口角が少し上がった。笑顔とは少し違うが、この手のサイコが浮かべるものとしてはおそらく最も笑顔に近い。冷たくてつれない感じがまずまず似合っていた。アイキャップを取りさえすれば、クラークをVRプログラムに組み込む自分の姿がありありと目に浮かぶ。

「他の奴らに何があったんだ」思い切って訊いてみる。

「何も。私たち――ちょっと被害妄想に罹っちゃって」

 ジョエルは唸り、

「無理もねえな。俺を一年もあそこに置いてみろ、被害妄想なんか一等しょぼい問題だよ」

 つかのま、幽霊のような微笑みが再び浮かんだ。

「でもほんとのところ」

 ジョエルは食い下がった。

「なんで他の連中は居残ってるんだ。これって労働争議か何かなのか。一種の――」

 昔はなんと言っていたっけ。

「ストライキって奴か」

「そんなところ」クラークは頭上の隔壁を見上げた。「海面までどれくらい?」

「あいにくとたっぷり二〇分はあるよ。このGAの潜水艇はふざけた気球だ。みんな外でイルカと競争してるってのに、俺がこいつでできることと言ったら、せいぜい高速でのたうち回ることくらいだ。でもな」

 愛想のいい笑みを努めて浮かべ、

「せめてもの救いはある。時給で払ってくれるんだ」

「万歳、だね」

光の洪水

 静寂が戻りつつあった。

 少しずつ、いくつもの声が叫ぶのをやめていく。今はささやき声で会話を交わし、自分にはなんの意味もない事柄を議論している。だがそれで構わない。無視されるのには慣れている。無視されるのが嬉しかった。

 大丈夫だよ、ジェリー。あの人たちにあなたは傷つけられない。

 なんだ――誰だ――

 みんな行っちゃった。もうあたしたちだけ。

 おまえは――

 あたしよ、ジェリー。シャドウ。いつ帰ってくるのかなあって、ずっと思ってたんだから。

 かぶりを振る。か細い光がまだ肩口にかかっていた。振り返り、光に向かってというよりは闇が少しだけ薄れる方へ向かう。

 あの子はあなたを助けようとしていたの、ジェリー。助けようとしてただけ。

 あの子――

 レニー。あなたはあの子の守護天使でしょ。忘れちゃった?

 よくわからない。俺は――

 でもあなたはあの子を置いてけぼりにした。逃げちゃったの。

 だってあの子が――俺を――中は嫌だ……。

 自分の足が動いている。水が顔を押してくる。前へ進んでいた。前方の闇にぼんやりした穴があいている。その中の形が見える。

 あそこはあの子が暮らしてるところだよ。忘れちゃった?

 そろそろと光の中へ戻る。さっきはうるさくて痛みを伴うノイズがあった。大きくて黒い何かが動いていた。今あるのは頭上に吊るされた巨大な球体だけだ。それはまるで、まるで、

 ――拳みたいだ――

 怖気づいて足を止める。だが何もかもが静まり返っていた。海底から漂ってくるかすかな叫び声が聞き取れるくらい静かだ。少し離れたところで海に穴があいていて、時々語りかけてくることを思い出す。何を言っているのか理解できた試しはなかった。

 進みなさい。シャドウが促す。あの子は中に入っちゃったよ。

 あの子は行ってしまったんだ。

 外からじゃわからないでしょ。近くに寄らなきゃだめよ。

 球体の下面は陰になった冷たい避難所だった。赤道の光も球面全体に届くわけではない。南極で重なり合った影の中、何かが誘うように明滅している。

 進みなさい。

 海底から跳び上がり、物体下部の円錐状の影の中へと滑り込む。一メートル幅の輝く円盤が下を向き、丸い縁の内側で揺れている。そこから中を見上げる。

 何かが見つめ返してきた。

 ぎょっとして身を翻し、距離を取る。円盤が突然の乱流に揺らいだ。足を止めて振り返る。

 泡だ。それだけのこと。わずかな気体が閉じ込められていたのだ、そう、

 エアロックの下に。

 何も怖がることなんてないわ。そこから中に入るの。

 神経を尖らせたまま球体の下面に戻った。空気溜まりは反射光で銀色に輝いている。黒い亡霊がその内側に現れたが、目があるはずの位置にあるふたつの空白以外はほぼ特徴がない。亡霊は手を伸ばし、こちらが差し出す手に合わせてきた。二組の指先がふれ、融合し、見えなくなる。一本の腕が鏡像と手首で接合している。姿見の反対側へ進んだ指が、金属にふれた。

 興味を引かれ、手を引っ込める。亡霊は頭上に浮かんでいた。虚ろに、安らかに。

 片手を顔に持っていき、人差し指を片耳から顎の先まで走らせる。折り畳まれていたとても長い分子が展開された。

 亡霊の黒くなめらかな顔が裂け、数センチ広がった。その下に現れたものは濾過された光の中で灰色に蒼褪めている。見覚えのある頬の笑窪に、突然の冷気を感じた。

 指をさらに動かし、耳から耳まで裂け目を入れた。大きく微笑む裂傷が亡霊の眼点の下に広がる。展開されて垂れ下がった黒い膜は顎の下に浮かび、喉に繋がっていた。

 肌を剥いた領域の中心には襞があった。顎を動かすと襞が開く。

 もう歯の大部分がなくなっていた。飲み込んだこともあれば、顔が密封されていないときにゆるんだ歯を吐き出したこともある。問題はなかった。このところ食べているものは大半が自分よりずっと柔らかい。たまに軟体動物や棘皮動物が丈夫だったり大きかったりで丸呑みにできないときがあるが、そのときは手を使えばいい。拇指はまだ他の指と向き合っている。

 だが、かつて口があった場所にぽっかりと空いた、歯のない惨状を目の当たりにしたのは、これが初めてだった。この状態が良くないのは、なんとなくわかる。

 俺に何が起こったんだ? 俺はなんなんだ?

 あなたはジェリーよ。あたしの一番の友達。あたしを殺したでしょ。忘れちゃった?

 あの子は行ってしまったんだ。ジェリーは悟った。

 これでいいの。

 それはわかってる。わかってるよ。

 あなたはあの子を助けたのよ、ジェリー。あの子はもう安全。あなたはあの子の命の恩人。

 わかってるよ。そして、ちっぽけで大切なことを思い出した最後の瞬間、全てが太陽のような白と化した。

 ――こうするんだよな、誰かを本当に――

日の出

 飛行船がCSS〈フォルキピゲル〉を腹の中へと巻き上げている最中に、その報せはメインディスプレイに表示された。ジョエルは何度も画面をチェックし、顔をしかめ、外にじっくりと目を凝らした。夜明け前の灰色の光が東の水平線で白み始めている。

 もう一度見返しても情報に変化はなかった。

「ちっ。まるで意味がわからん」

「どうしたの」とクラーク。

「アストリアに戻らないみたいだ。俺は戻るのかもしれんが、あんたは大陸棚のどこかで降ろされることになってる」

「は?」クラークが前の方に来て、操縦席の手前で止まった。

「ここに書いてある。通常の針路を取るが、沖合一五キロで海面まで降下。あんたは下船。それから俺はアストリアへ」

「沖には何があるの?」

 ジョエルは確認した。

「何もない。海だ」

「船とか、潜水艦とかは?」潜水艦と言ったときの声は妙にどんよりとしていた。

「あるいはな。だがここには何も書かれていない」

 ジョエルは唸り、

「もしかしたら後は泳いでいけってことなのかもしれん」

 飛行船が潜水艇をがっちりと固定する。制御された雷電が機尾で爆発し、気嚢を過熱する。海が離れ始めた。

「じゃあ海のど真ん中で私を投げ捨てる予定だと」クラークが冷ややかに言う。

「俺が決めたわけじゃない」

「そりゃそうでしょうね。命令に従ってるだけなんだし」

 ジョエルは振り返った。双子の雪景色のような目が見つめ返してくる。

「わかってないな。命令なんかない。飛行船を飛ばしているのは俺じゃないからな」

「じゃあ何が――」

「パイロットはゲルだ。ゲルはあれしろこれしろと俺に言ってはこない。何をしているのか伝えてはくれるが、全部ゲル自体がやってるんだ」

 クラークは少しだけ黙り込み、それから言った。

「それが今どきのやり方? 機械から命令されるのが」

「誰かが大元の命令を下しているのは間違いない。ゲルはその命令に従ってるんだ。まだ乗っ取られちゃいない。それに、ゲルは正確には機械じゃない」

「ああ」クラークはささやくように言った。「今ならそれがよくわかる」

 気まずくなったジョエルは制御盤に向き直った。

「だけど、こいつは変だぜ」

「本当にね」特に関心のなさそうな声だ。

「ゲルからこの報せを受け取ったことが、って意味さ。無線リンクがあるんだから、誰かが教えてくれりゃいい話だろ」

「無線が故障してるからじゃないの」クラークはそっけなくそう言った。

 ジョエルはぎょっとし、診断を確認する。

「いや、正常だ。実際、今すぐに呼び出して一体全体どういうことなのか訊こうと思ってたところだ……」

 三〇秒後、ジョエルはクラークに振り返った。

「どうしてわかった?」

「まぐれ」クラークはにこりともしない。

「確かに制御盤はグリーンだが、誰とも交信できない。耳が聞こえないまま飛んでるんだ」

 疑念が脳裏をよぎる。

「何か理由があって、俺たちにはない通信手段がゲルにはあるってんなら話は別だが」

 飛行船のインタフェースに接続し、求心性アレイを呼び出す。

「なんだこりゃ。あんたがさっき言ってたのは、命令する機械のことだったのか?」

 クラークは注意を引かれたようだ。

「どういうこと?」

「飛行船はネット経由で命令を受け取っている」

「それって危なくない? なんでGAは直接話しかけないんだろう」

「さあな。今は切り離されてるが、最後のメッセージが来たのはこのノードからだ。うへ、こりゃ別のゲルだぜ」

 クラークは身を乗り出し、狭い空間でジョエルにふれないようにしていた。

「なんでわかるの」

「ノードアドレスだよ。BCCはバイオケミカル・コグニションの略だ」

 ディスプレイが二度、大音量の警報を発した。

「あれは何?」とクラーク。

 陽光が海からあふれ出てきた。暴力的な濃い青に輝いている。

「嘘でしょ――」

 船室にコンピュータの悲鳴が満ちる。高度の表示が真紅に瞬いて急落していく。落ちてるんだ。ジョエルはそう思い、すぐに思い直す。ありえない。加速度がない。

 海の方が、上昇している……。

 ディスプレイにデータのブリザードが吹き荒れ、人間の目には速すぎる速度で渦を巻く。頭上のどこかでゲルが猛然と選択肢を処理し、ふたりを生存させられる可能性を模索しているのだ。不意の大揺れ。ジョエルは役に立たない潜水艇の制御盤を掴み、必死でしがみつく。船尾隔壁の方へ吹っ飛ぶクラークを、視界の端で捉えた。

 飛行船が空に鈎爪を立て、その全身で電光がパチパチと音を鳴らす。追いすがる海が煌めきながら途方もなく隆起して膨れ上がり、腹部舷窓に迫りくる。見守るうちに濁った光が輝きを増してゆく。青から緑、緑から黄色へと変わり、

 白と化した。

 太平洋に穴があき、中心に太陽が昇る。さっと両手で目を覆うと、オレンジ色の閃光の中に骨のシルエットが見えた。飛行船が蹴飛ばされた玩具のように回転し、空に立ち込める蒸気の柱へ深く突っ込む。外で大気が悲鳴を上げる。飛行船も悲鳴を返して横滑りしてゆく。

 だが、壊れはしなかった。

 永遠にも思える数秒が過ぎ、とにもかくにも船は安定した。変わらず機能している計器には『大気擾乱』と表示されており、もう一二〇度方向へ八キロ近く離れていた。右舷の舷窓から外を覗く。遙か彼方で、光り輝く海がそれ自身の上に重々しく崩れ落ちていく。環状に広がる無数の波が眼下を通過し、水平線へと疾駆していった。

 飛行船が動き出した地点では、輪郭が曖昧な灰色の豆の木めいた積雲が空へと立ち昇っていた。ここから見ると闇を背にした光景は平和に見えるくらいだ。

「クラーク、やったぞ」

 座ったまま振り返ると、リフターは隔壁を背に胎児の姿勢で丸まっていた。動きはない。

「クラーク?」

 答えたのはクラークではなかった。飛行船のインタフェースが再び警報を発する。

 未登録のコンタクト

 相対位置:一二五×八七 速度:一四四〇 加速度:五・八メートル毎秒毎秒

 距離:一三〇〇〇メートル

 衝突まで残り一二〇〇〇メートル

 一一〇〇〇メートル

 一〇〇〇〇メートル

 主展望窓越しにかろうじて捉えたのは、高高度でひと筋の朝日に照らされるぼやけた白い点だった。航跡雲のようなものが、まっすぐこちらに向かってくる。

「あー、畜生」

エリコ

 壁一面が窓になっていて、その向こう側に都市が銀河の腕のように広がっている。パトリシア・ローワンは後ろ手に鍵をかけ、不意の倦怠感からドアにぐったりともたれた。

 まだ。まだだ。もうすぐなんだから。

 執務室を回って照明を全て切った。窓から室内へとあふれる都市の灯りは、暗闇という避難所を与えてはくれない。

 ローワンは光を見つめ返す。格子状に絡み合う大都市の神経が地平線まで続き、シナプスというシナプスが白熱している。視線を南西方向にさまよわせて方角をひとつ選び出し、目が潤むまで見据えた。少しでも見逃してしまうのが怖くて、まばたきすらためらいそうになる。

 あれはこの方角からやってくるはずだ。

 ああ、神様。他に方法があったらいいのに。

 うまくいくはずだった。モデル設計班は一枚の窓も割ることなく成し遂げてみせるとまで豪語した。あちらとこちらの間にある無数の断層と断裂帯が防火帯として有効に機能し、揺れがここまで到達するのを防いでくれるだろうと。時機を待つだけ。一週間、一ヵ月。タイミングを。必要なのはそれだけだった。

 タイミング、そして己のルールを作る代わりに人間のルールに従い計算する肉塊。

 しかしゲルのせいにはできない。システム班によれば、ゲルは何も理解していない。しなければならないと考えることをしているだけだ。そうではなかったとわかる頃には――あの役立たずに対するスカンロンの謎めいたインタビュウが一〇〇回も頭の中でループし、録音が計算部門に回され、戸惑い困惑する顔が並び、突然さっと蒼褪めパニックに陥った頃には、手遅れだった。接触手段は閉ざされ、機械は行動に出ていた。そうして公式には間違いなくアストリアに格納されていたGAの飛行船がぽつんと一機、フアンデフカ・リフト上空に浮かぶ衛星の監視映像にどういうわけか姿を現したのだった。

 ゲルのせいにはできないので、ローワンは計算部門のせいにしようとした。

「散々プログラミングしておいて、なんだってこいつはベヒモスのために働いてるのよ? どうして気づかなかったの? スカンロンでさえ理解したっていうのに!」

 だが、研究者たちは恫喝にすっかり怯え切っていた。僕たちにこの仕事を与えたのはあなたです。あなたはどんな危機に瀕しているのか教えてくれなかったし、僕たちが何をしているのかすら教えてくれなかったじゃないか。スカンロンはまったく別の観点から思いついたんですよ。ヘッドチーズは単純なシステムが好きで好きでたまらないなんて、誰にわかります? 僕たちはそんなこと教えちゃいない……。

 ウォッチが静かに合図を鳴らした。

「お知らせするようにとのことでしたので、ローワンさん。ご家族の避難は完了しました」

「ありがとう」そう言って接続を切る。

 心の一部は家族を救ったことに罪悪感を覚えていた。立案者の愛する人間だけが大虐殺を逃れるなんて、とても公正とは思えない。だが、これはどんな母親でもすることをしているだけだ。いや、それ以上だろう。自分は後に残ったのだから。

 だからどうしたという話だ。おそらく死にはしない。GAのビルは巨大地震を念頭に建造されている。この地区の建物の多くは明日のこの時間にも立ち続けているはずだ。もちろんホンクーヴァーやシータック、ヴィクトリアの大部分について同じことは言えない。

 明日、ローワンは事態の収拾に全力を尽くすだろう。

 ひょっとしたら運が向いてくるかもしれない。揺れはそんなに酷くないかも。海底にいるゲルが今夜を選んだ可能性だってないとは言えないはず……。

 お願い……。

 ローワンは地震を体験したことがある。ペルー沖の横ずれ断層が跳ね返ったのは、湧昇流計画でリマにいた頃のことだった。その地震のモーメントマグニチュードは九に迫った。都市の窓という窓が砕けた。

 当時、実のところ被害を見る機会はあまりなかった。四六階分のガラスが外の市街へと崩落したときはホテルに閉じ込められていたからだ。そこは何もかも五つ星の上等なホテルで、一階の窓はとりあえず持ちこたえた。ロビーから外を見たことを憶えている。緑色に濁ったガラス片の氷河は深さ七メートル、粉々に砕けた窓ガラスの隙間に血と瓦礫とばらばらになった人体の一部がぎっしりと詰まっていた。ロビーの窓のすぐ隣に埋め込まれ、地上三メートルで手を振っていた一本の茶色い腕は、三本の指と身体を失くしていた。一メートルほど離れたところに潰れたソーセージのような指が漂っているのを見つけたが、どの身体があの肩と繋がっていたのかは、たとえあったとしても見分けようがなかった。

 どうしてあんな高いところに腕が、と思ったことも憶えている。屑籠に嘔吐したことも。

 当然、ここでそんなことが起こるはずはない。ここは〈北米太平洋〉だ。建築基準というものがある。ロウアーメインランドの建築物は全て、地震発生時に窓が内側に割れるよう設計されている。理想的な解決策ではない。とりわけ発生時にたまたま中にいた人にとっては。だが可能な範囲で最善の妥協案ではある。ガラスが個室の中で出せる速度など、摩天楼の側面を滑空する速度には到底及ばない。

 ささやかな祝福だ。

 必要な範囲を滅菌する別の方法があったら。ベヒモスがそもそも不安定地帯に生息していなければ。〈北米太平洋〉のコープスが核の使用権限を与えられていなかったら。

 評決が満場一致でなかったら。

 優先順位。何十億もの人々。既知生命。

 とはいえ、つらかった。判断は戦術的には自明かつ的確だったが、ビービのクルーを海底に隔離し続けるのはつらかった。クルーを犠牲にする決断もつらかった。どうも今は逃げているようだが、それも――

 つらい? モーメントマグニチュード九・五の揺れを一〇〇〇万人にもたらしておいて、つらい? つらいってだけなの?

 言い表せる言葉なんてない。

 それでもどうにか下した。ただひとつの人道的選択を。これはまだしも少量の殺人にすぎないのだ、この先必要とされるものに比べれば――

 違う。この先何もしなくていいようにこうしているんでしょ。

 だからこそ決断を下せたのかもしれない。それとも現実がようやく脳から腸へと滴り落ち、必要な措置を講じるように促したのだろうか。何かがずしりと腹に来たのは確かだった。

 スカンロンはなんと言うだろう。今となっては尋ねるにも遅すぎる。無論あの男には何も伝えなかった。誘惑に駆られさえしなかった。私たちは気づいた、あなたの秘密は公になった、あなたはさして重要な人間ではなかったのだと再三告げるのは――なぜだか殺すよりも残酷な仕打ちになる気がした。哀れな男を痛めつけてやりたいとは少しも思わなかった。

 ウォッチがまた合図を鳴らし、こう言った。

「優先命令」

 ああ、神様。ああ。

 外に瞬く光を越えた先、三キロメートルに及ぶ黒い大海の下で、それは始まっていた。あの狂った神風ゲルが終わりなき空想ゲームの最中に割り込まれたのだ。そんな下らないものは忘れろ。爆発の時間だぞ。

 たぶんゲルは困惑して、今はだめだ、間が悪い、被害が、と言っているだろう。そんなことはもう関係なかった。別のコンピュータ――無機質でプログラム可能で完璧に信頼性のある愚鈍なコンピュータが必要な数列を送信し、ゲルを輪から排除するはずだ。たとえ何を考えていようとも。

 あるいはゲルは単に敬礼して脇に退き、なんら頓着しないかもしれない。あの怪物どもが何を考えているかなんて、もはや誰にもわからない。

「爆破」ウォッチが告げる。

 都市が闇に沈んだ。

 貪婪な暗黒の深淵が押し寄せた。唐突に訪れた虚無の中で、ひとつの孤立したクラスタが挑むように光り輝く。おそらく非常電源が稼働した病院だろう。電源を内蔵した骨董品の自動車が数台、突如光の消えた街路沿いをホタルのようによろめいている。高速輸送網の格子もまだ輝いているが、普段よりずっと暗い。

 ウォッチをチェックする。決定からわずか一時間。行動を強いられてからたったの一時間。なぜだかもっと長く感じられた。

「三一番地震観測網からの戦術フィードを」ローワンは言う。「復号」

 目に情報があふれた。偽色彩法マップが目の前の空中に焦点を結ぶ。傷だらけの海底が露わになり、垂直方向に伸びてゆく。傷のひとつが震えていた。

 仮想ディスプレイを越え、窓を越えた先で、都市景観の一画に儚い光が瞬く。さらに北の方で別の一画が輝き始める。部下たちが必死に送電経路を切り替えているのだ。ゴルダとメンドシーノから、赤道地帯の太陽光発電所から、コルディレラ山系中に点在する一千の小規模水力発電ダムから。だが時間がかかるだろう。持ち合わせている以上の時間が。

 避難勧告をすべきだったろうか。たとえ一時間の事前通知でも大きいはずだ。もちろん避難に充分な時間ではないが、棚から瀬戸物を下ろすくらいならできたかもしれない。追加のバックアップを手配するとか、とにかく効果があることをするには充分な時間だ。噂が出回っても沿岸全域がパニックに陥るには長い時間がかかる。だからこそローワンの家族も突然の東海岸行きサプライズ旅行の裏にある理由を知らないのだ。

 ゴムでできているかのように海底が目の中で波打つ。その直上に浮かぶ海面を表す半透明の平面が波紋を発し、海底の揺れを先頭にふたつの衝撃波が競ってディスプレイいっぱいに広がる。揺れはカスカディア沈み込み帯に迫り、衝突し、断層から直角方向へと震える比較的弱い波を送り出す。揺れが一瞬そこでためらうように見え、ローワンは沈み込み帯が防火壁になってくれたのだと希望を抱きかけた。

 しかし次の瞬間、沈み込み帯そのものが滑り出した。ゆっくりと、重々しく、最初はほぼ見分けがつかないくらいに。モホ面の遙か下で、五〇〇年分の爪が痛みと共に裂け、解放され始める。五世紀にわたり鬱積していた緊張が、ふっと消えた。

 次の駅は、ヴァンクーヴァー島。

 想像もつかないものがフアンデフカ海峡沿いに跳ね返っていた。昆布収穫船や超大型タンカーは直下の水深に生じた空前の変化を感知していることだろう。もし乗組員がいたら、ほんの一瞬考える時間があったはずだ。九〇秒の事前警告などまるで役に立たない、と。

〈ストリップ〉は警告をもらえなかった。

 当然ながら戦術ディスプレイは詳細を一切表示しない。表示されたのは沿岸の岩盤に広がり内陸を動かす褐色の波紋と、遅れて海面を滑走してくる白い弧だった。沖合で山麓地帯のように盛り上がる海、折り返された海面、五〇〇万人の難民をゼリー状に粉砕した三〇メートルの海の壁は、表示されなかった。

 それでもローワンは全てを見ていた。

 目が痛み、三度まばたきをした。ディスプレイが消える。遠くのあちこちで救急と警察の赤灯が点滅し、昏睡したグリッドに広がってゆく。既に鳴っている警報に反応しているのか、単に保留中なのかはわからない。距離と防音装置があらゆるサイレンの歌声を遮っていた。

 ごく静かに床が振動した。

 最初はほとんど子守唄を歌うように前後し、徐々にクレッシェンドで揺れが高まり、立っていられないほどになっていく。建造物があちこちで軋みを上げ、コンクリートが大梁に唸るのが、聴覚以上に触覚でわかった。両手を広げてバランスを取り、虚空を抱き締める。泣き叫ぶ気にはなれなかった。

 巨大な窓が外側に破砕し、鈴の音のように鳴り響く百万もの欠片となって夜の中に降りそそいでゆく。大気がガラスの胞子とウィンドチャイムの音色で満たされる。

 絨毯の上にガラスはなかった。

 まさか。茫然としながら気づく。建築業者がへまをしたのか。内破式耐震ガラスにあれだけ金をかけておいて、逆向きに設置するなんて……。

 南西沖にオレンジ色の小さな太陽が昇る。パトリシア・ローワンは無傷の絨毯に膝をつく。出し抜けに、やっとのことで、目がズキズキと疼き始める。深く感謝しながら、涙があふれるに任せた。まだ人間だ。そう自分に言い聞かせる。私はまだ人間なんだ。

 風が打ち寄せ、彼方の音を運んでくる。人々と機械の悲鳴を。

デトリタス

 海は緑だった。どれくらい意識を失っていたのかはわからないが、一〇〇メートル以上沈んだはずはない。海はまだ緑なのだから。

〈フォルキピゲル〉は船首を先にゆっくりと海中を沈んでいて、十数箇所の小さな傷から空気が流出していた。船首展望窓に稲妻形の亀裂が走っているのが、操縦席に満ちる水越しにかろうじて見える。潜水艇の前端は井戸の底になっていた。クラークは乗客シートの背に足を踏ん張り、垂直になったデッキにもたれかかる。天井の照明が目の前でちらつく。操縦士を水から引き上げ、別のシートに固定する。少なくとも片方の脚が完全に折れていた。ずぶ濡れのマリオネットのようにぐったりしていて意識を失ったままだ。呼吸は続けている。目を醒ますのかはわからない。

 目醒めない方がいいかもね、と内心で呟き、くすくすと笑う。

 そんなに可笑しくもないでしょ、と独り言ち、またくすくすと笑う。

 あれ。私、おかしくなっちゃってる。

 集中しようとする。目の前にある一個のリベット、金属が軋む音、孤立した様々なものに焦点を合わせることはできる。だが、なぜか注意力を全て持っていかれてしまう。視線を向けたものが膨れ上がり、世界を覆い尽くしていく。それ以外はほとんど何も考えられない。

 一〇〇メートル。頭を絞って考える。船殻の破損。圧力――上昇――

 窒素――

 ――酔い――

 屈み込んで壁面の空調制御装置を確認する。装置は横向きだ。自分がこの状況をどこか楽しんでいることに気づくが、理由はわからない。ともかく装置は動いていないようだ。

 点検パネルに屈み込んだら滑ってしまった。痛々しく弾んで操縦席に落ち込み、飛沫を上げる。水没した計器盤には点々と表示が煌めいていた。素敵な眺めだったが、長く見つめるほど胸の痛みが増してくる。やがてその関係に気づき、頭を空気の中に引き上げる。

 点検パネルはすぐ目の前にあった。二回しくじってからパネルを開く。隊列を組んで横たわるハイドロックスのタンクは互いに連結して一種のカスケード系を形成していた。一端に大きな黄色のハンドルがある。それを引いたが予想に反して外れてしまった。バランスを失い、またも水中に滑り込む。

 眼前に換気ダクトがあった。確信はないが、さっきは泡が出ていなかった気がする。吉兆だと思った。少しここで泡を見ていよう。だが何かが邪魔してくる。胸の中の何かが。

 ああ、そうだった。ついつい忘れてしまう。息はできないんだった。

 なんとなくフェイスシールを閉じる。肺がしぼみ、水がどっと胸に流れ込んできたのが最後の記憶だった。

 次に目醒めたとき、操縦席の三分の二が浸水していた。後部区画に上がり、顔のスキンを剥がす。胸の左側から水が排出され、右側に空気が満たされる。

 頭上で操縦士が呻いていた。

 クラークはそこまで上り、仰向けに寝られるようにシートを回して船尾隔壁に顔を向けてやった。シートを固定し、折れた脚をある程度まっすぐにしようと試みる。

「おぁッ」叫び声が上がる。

「ごめんなさい。動かないで。脚が折れてる」

「言われなくともだ。おおぅ」操縦士が身震いする。「クソッ寒い」

 確かに寒そうだ。

「うわっ、マジか。破れてるじゃねえか」

 操縦士は動こうとし、どうにか頭をひねるも他に怪我があったのか元に戻す。力を抜き、顔をしかめる。

「操縦席は浸水してる。ゆっくりだけどね、今のところは。ちょっと待って」

 また下りて操縦席のハッチの縁を引っ張ってみたが動かない。引っ張り続ける。ハッチがゆるみ、開き始めた。

「ちょっと待て」と操縦士。

 クラークはハッチを隔壁に押しつける。

「制御装置はわかるか」

「標準的な配置なら」

「まだ動いてるものはあるか? 通信は。推進はどうだ」

 クラークは跪き、水中に頭を突っ込む。さっきは動作していたふたつの表示が消えている。残る表示をざっとチェックした。

「ウォルド、外部投光器、ソノブイ」上に戻って報告する。「それ以外は死んでる」

「クソッ」

 声は震えていた。

「ま、とにかくブイは送れるな。向こうに救助する気がないにしてもだ」

 クラークは迫る水越しに手を伸ばし、制御装置を操作する。ドス、と船殻の外で何かが小さな音を立てた。

「どうして? 上はあなたを迎えに寄越したのに。ちょうど逃げたところで爆発して……」

「逃げたんだよ」

 クラークは船室を見回し、

「えっと――」

 操縦士が鼻を鳴らす。

「なあ、俺はあんたらがあそこで核を使って何をやらかしたのか知らねえし、なんで起爆までもうちょっと待てなかったのかもわからねえ。だがな、ちゃんと逃げ切ったんだぜ。その後で俺たちは撃ち落とされたんだ」

 クラークは立ち上がった。

「撃たれた?」

「ミサイルだ。空対空。成層圏から突っ込んできやがった」

 声は寒さで震えていた。

「潜水艇には当たらなかったんだろうが、飛行船から吹っ飛ばされたんだ。俺が必死こいて安全な高さに下げた後でな――」

「でもそんな――なぜ助けておいて、それから撃ち落としたの?」

 返事はない。呼吸は速くて荒い。

 クラークは操縦席のハッチをまた引っ張った。ハッチはかすかな軋みを上げて開口部に勢いよく落ちた。

「良くない音だな」と操縦士。

「ちょっと待って」

 ホイールを回す。ハッチがシュッと音を立て、仮初めの密閉部に沈み込む。

「これでいいと思う」船尾隔壁に戻る。

「クソッ寒い」操縦士がそう言ってこちらを見る。「ああ、クソッ。どれくらい沈んだ?」

 クラークは船室の小さな舷窓から外を見た。緑が薄れ、青みが増してゆく。

「一五〇メートル。二〇〇かも」

「俺は気分が悪くなってるはずじゃないのか」

「混合比を切り替えた。ハイドロックスに」

 操縦士は激しく震えた。

「なあ、クラーク、俺は凍えてるんだ。ロッカーに救命服があるはずだ」

 救命服を見つけ、ひとつ開いた。操縦士がシートから身体を外そうとして失敗する。クラークは手伝おうとする。

「おぁッ!」

「もう片方の足も怪我してる。たぶんただの捻挫」

「畜生! 俺はぼろぼろだってのに、ここに担ぎ上げただけか? GAは医術訓練もさせてなかったのかよ、呆れるぜ」

 クラークは引き下がった。隣の客席の背にぎこちなく一歩踏み出す。そこに載せたときは自分も気分が悪かったのだと認めるいい機会とは思えない。

「すまん、謝る」

 しばらくして操縦士が言った。

「でもよ――これは素晴らしい状態じゃないよな? 救命服を開封して、俺の上に広げてくれないか」

 クラークは言われた通りにした。

「良くなった」それでも操縦士は依然として震えていた。「俺はジョエルだ」

「私はクラ――レニー」

「それでだ、レニー。孤立無援、装置は全滅、行き先は海の底。何か提案は?」

 何も思いつかない。

「なるほど。オーケイ」ジョエルは数回深呼吸をした。「ハイドロックスの量は?」

 クラークは下りてカスケード系の計器を確かめる。

「一万六〇〇〇。容積は?」

「でかくはない」

 ジョエルは眉をひそめ、ただ集中しようとしているだけのように振る舞い、

「二〇〇メートルって言ったよな、それが、えー、ハッチを密閉したから二〇気圧か。一〇〇分かそこらは生かしてくれるはずだ」

 笑おうとするが、声は出てこなかった。

「もし上に救助を送る気があるんなら、滅茶苦茶に急いでもらわねえといかんな」

 クラークは調子を合わせる。

「まずまずってところだね。もしハッチを閉じずに、そう、一〇〇〇メートルまで来てたら、どれくらい保ってた?」

 ジョエルは身震いし、

「おー。二〇分だ。それにここら辺は海底が四〇〇〇近いから、そこまで深く潜ってたら保つのは、保つのは、五分だな、最大」

 ぐっと息を呑み、

「一〇八分はなかなかだ。一〇八分もあればなんだって起こりうる……」

「みんなは逃げ切れたかな……」

「なんだって?」

「他にもいたの。私の――友達が」クラークは首を振る。「泳いで戻ろうとしてた」

「本土に? 正気じゃないな!」

「ううん、うまくいくはず。充分に遠くまで辿り着いてたら――」

「いつ出たんだ」

「あなたが来る八時間くらい前」

 ジョエルは何も言わない。

「逃げ切ったはずだよ」沈黙が気に入らず、クラークはそう言い張った。

「レニー、あの範囲じゃ――そうは思えない」

「可能性はある。無理とは――ああ、やめて……」

「どうした」

 ジョエルはベルトの中で身をよじり、クラークが見つめているものを見ようとする。

「どうしたんだ?」

 足許一・五メートル下で、操縦席のハッチの縁から一本の海水の針が打ち上がる。見る間にさらに二本噴出する。

 舷窓の向こうで、海が深い青に変わった。

 海が〈フォルキピゲル〉に押し入り、空気をぎゅうぎゅうと角に追い詰める。まったく止まることがない。

 青みが薄れてゆく。じきに黒だけが残るだろう。

 クラークはジョエルの目がハッチに注がれているのを見て取った。操縦席からの敵の侵入を許した漏れやすい裏切者の方ではない。そちらは既に冷水の二メートル近く下にあった。そうではなく、ジョエルが見つめているのはビービで開閉した腹部ドッキングハッチだ。ハッチは壁と化したデッキに埋め込まれており、完全な密閉が保たれていて、下縁に水が打ち寄せつつあった。クラークにはジョエルの考えが正確にわかった。同じことを考えていたからだ。

「レニー」

「うん」

「自殺しようとしたことはあるか」

 クラークは微笑む。

「もちろん。したことない人がいる?」

「だがうまくやれなかった、と」

「どうもそうみたい」

「何があった?」

 ジョエルの身体は今も震えていて、水もすぐそこまで上がってきているのに、声は落ち着いているように聞こえた。

「大したことじゃない。十一歳だった。全身にダームを貼りまくって、気絶して。目が醒めたらMAの病室にいた」

「酷いな。難民医療に毛が生えたようなもんだ」

「うん、でも、みんながお金持ちになれるわけじゃないから。それに言うほど悪くなかった。カウンセラーがいてね。私もそのひとりに診てもらった」

「へえ?」ジョエルの声はまた震え始めていた。「その女はなんて言ってた」

「男。世界にはきみよりよっぽど僕を必要とする人がたくさんいる。また構ってほしくなったときは、納税者に負担のかからない方法でするんだぞ、って」

「ク、クズだな。なんてク、クソ野郎だ」ジョエルがまた身震いをする。

「そうでもない。あの人は正しかった。私は二度としようとしなかったし、きっとあの言葉が効いたんでしょう」

 クラークは水の中へ滑り込んだ。

「混合比を変えてくる。また痙攣が始まってるみたいだから」

「レ――」

 ジョエルが言い終える前にクラークは潜った。

 船室の底に滑り込み、見つけたバルブを調節する。高圧は酸素を毒に変える。深く潜るほどに、空気呼吸動物が発作を起こさずに耐えられる酸素量は減っていく。混合比を薄めなければならなかったのもこれで二度目だ。今やふたりは一パーセント酸素を呼吸している。

 しかしもし充分に命を長らえたとしても、制御できない別の問題がある。ジョエルにはリフター用神経抑制剤の備えがない。

 上に戻ってまた顔を合わせなければならない。クラークは息を止めていた。ほんの二、三〇秒なら電解槽を起動する必要などない。それでもそうする誘惑に、ただここに留まっていたいという誘惑に駆られていた。ここにいる限りジョエルも声をかけられない。自分は安全だ。

 だが、様々な経験を積んできた人生にあっても、自らが臆病者であると認めなければならないことは、これまで一度もなかった。

 浮上する。ジョエルはじっとハッチを見つめていた。口を開けて話そうとする。

「ねえ、ジョエル」

 とクラークは機先を制し、

「本当に切り替えなくていいの? 必要もないのに私があなたの分の空気を吸うなんて意味がないでしょ」

 ジョエルはかぶりを振った。

「人生最後の数分だ、機械の声を聴いて過ごしたくないのさ、レニー。頼む。ただ――そばにいてくれ」

 クラークは目をそらし、頷いた。

「畜生、レニー、怖くてたまらねえよ」

「わかるよ」小声で言う。

「こんな待ち時間、こんな――なあ、レニー、もったいぶるのはやめてくれ。頼む」

 クラークは目を閉じ、待ち構えた。

「ハッチを開けろ、レニー」

 クラークは首を振る。

「ジョー、私は自分も殺せなかったんだよ。十一のときも……昨日の夜も。そんな私に――」

「俺の脚はぼろぼろだ、レン。もう他に何も感じられねえ。は、話すのもやっとだ。頼む」

「ジョエル、GAはどうしてこんなことを? 何が起きてるの?」

 答えはない。

「あいつらは何をそんなに恐れているの? なぜここまで――」

 ジョエルが動いた。

 よろめきながら身体を起こし、横ざまに倒れる。両腕が伸ばされ、片手がハッチの縁を、もう片方の手が中央のホイールを掴む。

 身体の下で脚がグロテスクにねじれている。気づいている様子はない。

「ごめんなさい」クラークはささやいた。「私にはとても――」

 ジョエルが不器用な動きでホイールに両手をかける。

「大丈夫だ」

「そんな、ジョエル――」

 ジョエルはハッチを見つめている。指がホイールを握り締める。

「なあ知ってたか、レニー・クラーク」

 声は冷たく、恐怖が滲んでいたが、唐突な固い決意も込められていた。

 クラークはかぶりを振る。私は何も知らない。

「俺な、マジであんたと一発やってみたかったよ」

 なんと言って答えたらいいのか、わからない。

 ジョエルがハッチを回し、レバーを引いた。

 ハッチが〈フォルキピゲル〉の中に落ちる。海が後に続く。レニー・クラークの身体はいつのまにか準備を済ませていた。

 ジョエルの身体が押しつけられる。もがいているのかもしれない。あるいは単に殺到する太平洋がジョエルを弄んでいるのかもしれない。生きているのか死んでいるのかもわからない。だが、手探りでその身体を抱き、海に掻き回されると、疑いの余地は一切なくなった。

 空気を失った〈フォルキピゲル〉が加速する。クラークはジョエルの身体の両手を掴み、粘性を帯びた空間へとハッチから引き出した。潜水艇は回転しながら眼下に沈み、一瞬で見えなくなっていく。

 そっと一押しした。解放され、ゆっくり海面方向へ漂い始める亡骸を、じっと見送る。

 何かが背後からふれてきた。スキン越しでほとんど何も感じられない。

 振り返る。

 ほっそりとした半透明の触手が手首にゆるく巻きついていた。触手が遠く薄れてゆく先は普通の人間にとっては漆黒の闇で、レニー・クラークには石板色に見える。引っ張ってやると、触手の膨らんだ先端は指に向かって粘つく糸を発射した。

 糸を振り払い、水中を戻っていく触手を追いかける。途中で別の触手に遭遇した。弱々しく痩せ細った物体は流れに対してわずかにぴくぴくと動いている。全ての触手が繋がる本体は太くて長い影のようだった。クラークは円を描いて近づく。

 芋虫めいた胃がいくつも蠢く巨大な柱が、かすかな生物発光と共に脈搏っていた。

 嫌悪が湧き、固く握った拳を叩き込んだ。相手は即座に反応し、自らの一部を脱ぎ捨てた。断片が身悶えし、太ったホタルのように燃え上がる。中央の柱がさっと暗くなり、縮こまり、脈動しながら猛然と下降して、切り捨てた肉体を隠れ蓑にこそこそと逃げていく。クラークは生贄にされた断片を無視して本体を追いかけ、もう一度殴った。さらにもう一度。分離した脈搏つ囮で水中がいっぱいになる。囮を全て無視して中央の柱を裂き続ける。渦を巻く欠片以外何も残らなくなるまでやめなかった。

 ジョエル。ジョエル・キタ。自分はあの人が好きだったのだと気づく。ほとんど知らない人だったけれど、それでも、それでもジョエルのことが好きだった。

 そして、あいつらがジョエルを殺した。

 あいつらが私たちみんなを殺した。意図的に。本気で。理由を告げることもなく。

 全てあいつらのせいだ。何もかも全て。

 レニー・クラークの中の何かが発火する。その瞬間、これまで自分を殴り、レイプし、心配するな、いつか何もかも良くなると言いながら頭を撫でてきた人間のことを、一人残らず思い出した。友達のふりをした全ての人間を。恋人のふりをした全ての人間を。自分を利用し、背中を踏みにじり、私たちはきみより圧倒的に優れていると言い交わしていた全ての人間を。莫迦みたいに灯りをつけるたび自分を食い物にしてきた全ての人間を。

 あいつらは地上で待っている。自ら報いを求めている。

 この感覚はジャネット・バラードを殴り倒したときにもあった。だがあんなものは予告編をちょっと味見したにすぎない。今回は正真正銘の本編だ。自分は今、大陸から三〇〇キロ離れた太平洋の真っ只中を漂流している。独りぼっちだ。食べるものもない。どうでもいい。そんなことはまったくもってどうでもよかった。生きているのだから。それだけで優位に立っているというものだ。

 カール・アクトンの恐れが現実と化す。レニー・クラークは活性化していた。

 GAがなぜこれほど自分に怯えているのかはわからない。わかっているのは相手がどんな手を使ってでも本土への帰還を阻止しようとしたことだけだ。運が良ければ、向こうもやり遂げたと考え、もう警戒していないかもしれない。

 それも今のうちだ。レニー・クラークは泳ぎ出す。深く、東へと、自らの復活を目指して。


参考文献

 本書の大部分は私のでっち上げではないと言ったら驚かれるかもしれない。背景の詳細を知りたい場合は以下に挙げる参考文献が取っ掛かりになるはずだ。『スターフィッシュ』はいくつかの事実を故意にねじ曲げているし、おそらく私はまったくの無知ゆえに他にも百の間違いを犯しただろうが、この一覧には別の利点もある。私の仕事の質を検証できるのだ。

 きっと読者の大半はそれほど気にしてはいないだろうが。

 深海生物学

 私が描写した深海生物は実在する。嘘だと思うなら「海中の光」(ブルース・H・ロビスン、〈サイエンティフィック・アメリカン〉誌、一九九五年七月号)を読んでほしい。あるいはジョン・D・ゲージ&ポール・A・タイラー『深海生物学』(ケンブリッジ大学出版局、一九九二年)でもいい。それからクラレンス・P・イディル『アビス』(クロウェル社、一九七一年)は古い本だが、中学三年生だった頃の私は夢中になって読んだ。深海から引きずり出した現実の魚は大抵の場合とても小さいが、深海魚に巨大症が見られないわけではない。例えば一九三〇年代には深海探検の先駆者ウィリアム・ビービが、バチスカーフで潜航中に二メートル大のホウライエソを目撃したと主張した。

『海 海洋研究の進歩についての着想と観察 第八巻:深海生物学』(ギルバート・T・ロウ編、ジョン・ワイリー・アンド・サンズ、一九八三年)は大変興味深く読んだ。とりわけジョージ・N・ソメロ他による深海生物の生化学・生理学的適応に関する章は、『生化学的適応』(ピーター・W・ホチャッカ&ジョージ・N・ソメロ編、プリンストン大学出版局、一九八三年)と合わせて、深海生理学、高圧が神経発火の閾値に及ぼす影響、酵素の高圧・高温条件への適応といった事柄について考える取っ掛かりになってくれた。

 海嶺地帯のテクトニクス/地質学

 フアンデフカのような海嶺についての考察を含む、太平洋岸北西部の海岸地質学に関する門外漢向けのわかりやすい解説なら、ケネス・A・ブラウン『岩と水の循環』(ハーパーコリンズ・ウエスト、一九九三年)に収められている。「画期的な海洋地殻形成現象:中央海嶺における岩脈形成の影響」(ジョン・R・ディレイニー他、〈サイエンス〉誌、第二八一巻、二二二頁~二三〇頁、一九九八年)は、専門用語が多すぎるきらいはあるものの、フアンデフカ・リフト沿いで発生する地震と噴火の厄介さ、頻度を如実に伝えている。

 太平洋岸北西部で大地震がいつ起こってもおかしくないという予測については、「太平洋岸北西部の巨大地震」(ロイ・D・ハインドマン、〈サイエンティフィック・アメリカン〉誌、一九九五年一二月号)で再検討されている。「前弧の歪みと沈み込み型巨大地震:将来起こりうるカスカディア海洋地震の影響」(ロバート・マキャフリー&クリス・ゴールドフィンガー、〈サイエンス〉誌、第二六七巻、一九九五年)と「地震は予測できない」(ロバート・J・ゲラー他、〈サイエンス〉誌、第二七五巻、一九九七年)は、より詳しく問題を論じている。以前の私はヴァンクーヴァーでとても幸せに暮らしていたが、これらの記事を読んだ後トロントに引っ越した。

 熱水噴出孔に関する最新情報の最高にクールな発信源は、なんといってもアメリカ海洋大気庁(NOAA)のウェブページだ。あそこにはなんでもある。生の調査データ、研究スケジュール、実況中継マップ、海震の三次元アニメーション、それから最近の刊行物。これらはほんの一例にすぎない。まずは http://www.pmel.noaa.gov/vents にアクセスし、そこから色々見て回ってほしい。

 超常現象学/ガンツフェルト効果

 作中で描いた初歩的なテレパシーは一九九四年に査読付きの学術専門誌に登場した。「超能力は実在するか? 変則的な情報伝達過程の再現可能な証拠」(ダリル・J・ベム&チャールズ・ホノートン、〈サイコロジカル・ブリティン〉誌、第一五巻、四頁~一八頁)をチェックしてほしい。著者は統計的有意性から何から全てを揃えている。人間の意識の量子的性質を巡る思弁はロジャー・ペンローズの『皇帝の新しい心』(オックスフォード大学出版局、一九八九年。日本語訳、みすず書房、一九九四年)と『心の影』(オックスフォード大学出版局、一九九四年。日本語訳、みすず書房、二〇〇一年)に由来する。

 スマートゲル

 全てを台無しにするスマートゲルについては、〈ディスカバー〉誌一九九二年八月号の特集に登場した東京工業大学教授の相澤益男の研究からヒントを得た。当時の教授は少数のニューロンを接続して単純な論理ゲートの前駆体を作り出していた。今はどこまで到達しているのかを考えると、ぞっとする。

 複雑な地形のナビゲーションに対するニューラルネットの応用は、カーネギーメロン大学のチャールズ・ソープが行っている研究を紹介した「ロボカー」(ベネット・デイヴィス、〈ディスカバー〉誌一九九二年七月号)で描かれている。

 ベヒモス

 生命の起源は熱水噴出孔にあるという説は「熱水に沈殿する触媒性硫化鉄膜:生命への最初の一歩」(マイケル・J・ラッセル他、〈ジャーナル・オブ・モレキュラー・エヴォリューション〉誌、第三九巻、一九九四年)が出典だ。リボソームRNAを別種の遺伝的鋳型に利用することを含む生命進化についての投げ遣りな記述は、「地球生命の起源」(レスリー・E・オーゲル、〈サイエンティフィック・アメリカン〉誌、一九九四年八月号)からくすねた。深海魚の細胞内で共生しているベヒモスなる存在は、細胞小器官はかつて独立した自由生活性の生物だったと初めて提唱したリン・マーギュリスの研究から着想を得た(この学説はおよそ一〇年の間に異端から正典に変わった)。そのアイデアを本書に取り込んだ直後、「パラサイトは細胞進化に光を当てる」(グレッチェン・フォーゲル、〈サイエンス〉誌、第二七五巻、一四二二頁、一九九七年)と「パラサイトのせいで無性生殖が広がる」(マーティン・エンセリンク、〈サイエンス〉誌、第二七五巻、一七四三頁、一九九七年)から裏付けを得た。

 依存性刺激としての性的虐待

 長期間の虐待が生理的に依存症を引き起こすという考えには『サイコロジカル・トラウマ』(ベッセル・A・ヴァンダーコーク編、アメリカン・サイキアトリック・プレス、一九八七年。日本語訳、金剛出版、二〇〇四年)で初めてふれた。過誤記憶症候群についてはエリザベス・F・ロフタス&キャサリン・ケッチャム『抑圧された記憶の神話:偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(セント・マーティンズ・プレス、一九九六年。日本語訳、誠信書房、二〇〇〇年)で探究されている。


謝辞

 本書の文章は全て私がひとりで書いた。ただし、文章を正しく書くために利用できる人は誰であろうと臆面もなく利用させてもらった。

 始まりに。『スターフィッシュ』の出発点は短編だった。当時ブリティッシュコロンビア大学の家庭内暴力研究室に所属していたバーバラ・マクレガーはその草稿を批評してくれた。

 終わりに。デイヴィッド・ハートウェルは本書の原稿を買い、ジム・ミンズと共に編集作業に当たってくれた。感謝の念は尽きないが、ふたりにはこんな安っぽい言葉以上の見返りが与えられてほしいと思っている。『スターフィッシュ』が売れに売れ、私たちの懐を大いに潤してくれることを願う(あなたが手にしているこの一冊がその第一歩だ。さらに追加で購入し、街角に立つエホバの証人に配ってみてはいかがだろうか)。

 過程に。

 グレン・グラントは小心者な私に代わってデイヴィッド・ハートウェルと交渉する役目を買って出てくれた。ニュージーランド陸軍のデイヴィッド・バック少佐は、核やその他の爆発物に関する専門知識を提供してくれた。海底における核爆発の影響を深く考えている人々がいると知り、私はちょっと心を掻き乱された。

 海嶺地帯と地震帯の地質学を調べたくなったときは、実際に調査する代わりにユースネットにあるふたつの地質学関連グループに質問を投稿した。すると、これまで会ったこともなければこれから会うこともないであろう人たちから多くの助言を頂けた。エリン・ベルツ、ヘイデン・チャスティーン、ジョー・デイヴィス、キース・モリスン、そしてカール・シェーファーは、火山活動、プレートテクトニクス、(あるケースで)原子力潜水艦が海底の沈み込み帯に呑み込まれてから活火山に撃たれてニキビみたいに潰れるのにかかる時間について、指針と参考文献を示してくれた。コロラド鉱山大学波動現象研究センターのジョン・ストックウェルはとりわけ協力に積極的で、わかりやすく「ヒロシマ換算」で地震を説明する数式や図表を分け与えてくれた。私はもう二度と自分で調査をしたくない衝動に駆られている。

 私はまた、本書に含まれる専門知識の誤りをここで挙げた素敵な人たちのせいにしたい衝動に駆られてもいる。しかし当然ながら、そんなことはできない。これは私の本なのだから、本書の誤りは私の誤りになるのだろう。


Launch date: Nov. 14, 2020

Last modified: Nov. 16, 2020