男はいったん性的な刷り込みが行なわれると生涯逃れられなくなる
冒頭で紹介したシンジさんは、満員電車のなかの「偶然」によって、突然、電撃のように「女性の身体に触れる」という欲望に脳を乗っ取られてしまった。こうした体験は、性依存症者のごく一般的なものだという。
なぜこんなことが起きるのか。それについてアメリカの心理学者ジェシー・ベリングは『性倒錯者 だれもが秘める愛の逸脱』(化学同人)で興味深い説を紹介している。
パラフィリア(性倒錯)は偏った性的嗜癖をもつことで、「露出症、フェティシズム、窃触障害、窃視障害、小児性愛、マゾヒズム、サディズム、服装倒錯的フェティシズム」の8つがDSM-5(アメリカ精神医学会APAの診断・統計マニュアル)に記載されている。
ベリングはそれ以外にもさまざまなパラフィリアを挙げている。身体欠損性愛(アクロトモファイル)は、四肢を切断した女性に性的関心をもつ。身長差性愛(アナスティーマフィリア)は高身長や小人の女性を強く好む。それ以外でも、(どれもきわめてまれな例ではあるものの)鳥性愛(オルニソフィリア/鳥に対する強烈な願望)、サヴァン性愛(サヴァントフィリア/知的障がい者に対する性的な興奮)、隙間性愛(カズモフィリア/身体の割れ目、裂け目、亀裂に性的に惹かれる)、地獄性愛(スティジオフィリア/地獄に落ちてゆくことを考えながら興奮状態に達する)、階段性愛(クリマコフィリア/階段を下りているときにもっとも強いオルガスムを感じる)などが報告されている。――開高健ノンフィクション賞を受賞した濱野ちひろ氏の『聖なるズー』(集英社)は動物性愛者を取材したノンフィクションだ。
こうしたパラフィリアの特徴は男性が圧倒的に多いことで、その男女比は99対1だという。この性差は動物実験でも確認されており、生まれたばかりのヒツジとヤギの赤ちゃんを入れ替える実験では、ヒツジの「養母」に育てられたオスのヤギ(ヤギの「養母」に育てら得たオスのヒツジ)は、成長して本来の群れに戻されても、生物学的に自分と同じ種のメスになんの興味を示さず、性的行動は自分が育てられた種(ヤギのオスはヒツジ、ヒツジのオスはヤギ)のメスにのみ向けられた(性倒錯になった)。それに対して、同じように入れ替えて育てられたメスは、大人になってから、どちらの種のオスとも性的行動をするようになった(バイセクシャルになった)。
こうした性差をベリングは、男はいったん性的な刷り込みが行なわれるとそれを変えることができないが、女は性愛に「柔軟性」があり、広範囲の刺激に対して性的に興奮しうる(刷り込みを上書きできる)からではないかと述べている。
この性的刷り込みは一般に思われているよりずっと早く行なわれ、「男の子の4歳の誕生日から9歳の誕生日までの間のどこかの時期」とされる。この「敏感期」になんらかの性的対象にエロスを感じると、それが長期記憶に刻印され、思春期になってテストステロンが爆発的に増える時期に強く喚起されるようになるというのだ。――文学作品でしばしば幼年時代の性的体験が語られるのはたんなる意匠ではなかった。
男の場合、いったん性的な刷り込みが(偶然に)行なわれると、生涯、そこから逃れられなくなる。このことを1980年代に性科学者のジョン・マネーは、「だれもが「通常の異性愛のおとな」になるための航路の一連の指示をあらかじめもって生まれてくるが、幼少期の破壊的な社会的出来事によってこの標準的な航路からまったく予測不能な道へと外れることがある」と主張した。
マネーは「部族社会にパラフィリアについての報告がまったく見られない」ことから、性倒錯者を「西洋社会の病的な文化(性を抑圧すると同時に挑発する、性的に混乱し、しばしば敵意に満ちた文化)の被害者」と見なしてこう述べた。
パラフィリアは自らの意思による選択ではない。それは意思の力ではどうすることもできない。罰ではパラフィリアを阻めないし、迫害したところで絶やすことはできず、逆にそれを煽り、強める結果になる。……パラフィリアの人は破滅をくぐり抜けて生き延びた人だ。
この仮説は、フェティシズムやSMBD(サド・マゾ・ボンデージ・緊縛)などのパラフィリアが、きわめて知的で社会的・経済的に成功した男性のあいだで広く見られるという経験則をうまく説明することができる。
利発な子どもは、なにか問題があると無意識にそれを解決しようとする「直観的問題解決者」だ。そんな子どもが幼年期(敏感期)にエロス的な体験をすると、性的に成熟していないため、それがなんなのかを知ることはできず好奇心が満たされない。
こうして脳が「問題解決モード」になったまま思春期を迎えると、偶然のきっかけで敏感期の記憶が性的興奮と結びつき、性的に逸脱してしまう。だとすれば、「表面的には「性的でない」世界が子どもにとって過度に性的なものとして謎めいている」現代社会が問題なのだとベリングは示唆する。
小児性犯罪は依存症という脳の病
フェティシズムやSMBDなどのパラフィリアの欲望が、性風俗などで合法的に満たされるのなら本人の自由だが、窃触障害(痴漢)や窃視障害(盗撮)は被害者に大きな苦痛を与え、加害者も人生を棒に振りかねない。しかしそれ以上に深刻な結果を引き起こすのが小児性愛(ペドフィリア)であることは間違いない。
性依存症者の専門外来で治療に携わる精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳氏の『「小児性愛」という病――それは、愛ではない』(ブックマン社)には、小児性犯罪者(男性・47歳)の次のような訴えが紹介されている。
先生、僕はずっと刑務所に入っていたほうがいいと思うんです。ここには子どもがいません。だから子どものことを考える時間もほとんどありません。
でも、外に戻れば子どもがいますよね? 僕は小さな女の子を見ると頭が真っ白になって気づけば後をつけてしまうんです。どうやったらこの子とふたりきりになれるだろう、どうやったら触れられるだろうって、無意識のうちに考えならがら。
だから、ここから出たら絶対またやります。やらないという自信がまったくないんです。
これは別の事件だが、1992年に女子中学生2人を殺害し懲役17年の判決を受けた、事件当時30代だった男性Kは「極刑」を望んで控訴し、最高裁で上告を棄却され20年間服役した。刑期を終えて2012年に出所、その翌年に成人女性に対して強制わいせつ事件を起こして2014年から2度目の服役をし、4年後、ふたたび出所したとたんに女児の下着や運動靴を盗み、別の7歳女児にわいせつ行為をして怪我を負わせたとして2019年2月、福岡高裁で懲役7年の判決を言い渡されている。
Kは最初の事件に対し、「本心から極刑を望んでいた」「いまでも自分に下される判決としてしては死刑しかなかったと思っています」と語ったと報道されている。
斎藤氏も小児性犯罪は依存症という脳の病であり、加害者を道徳的に批判することはなんの解決にもならないという。なんといっても、Kは自ら極刑を望んで控訴するというきわめて「道徳的」な判断を(理性のうえでは)しているのだから。
Kのような再犯のケースでは、出所後の過酷な環境が影響していることも考えられるだろう。小児性犯罪者は刑を終えても社会に居場所はなく、「もう死んでもいいと思うくらいヤケになっていた、どうせ死ぬなら強姦してからにしようという視野狭窄に陥り、「自分が死ぬか、他人に加害するか」という究極の二者択一を自問自答した」と語る出所者は珍しくないという。