男色の医学的根拠。百合という幻想。
女性声優が百合営業をやるのはデフォであるが、これはイケメン彼氏を隠すためである。女性声優が本当にベッドで抱き合っているなんて絶対にない。歴史的に見ても、男色という趣味は幅広く行われていたが、百合という趣味は稀である。レズビアンもホモセクシャルに比べるとずいぶん少ないとされる。
(このエントリーでは真性のレズビアンではない少女が愛し合うのを百合と定義する)。
アイドルにしても同じである。村重杏奈は宮脇咲良と百合営業をしていたが、上京した時に深夜にひとり抜け出してジャニーズと会っていた。15歳なだけに週刊文春の報道は控え目だったが、たぶんラブホくらいは入っているだろう。村重杏奈はカモフラージュとして百合営業をしていたのである。百合営業するのは逆に怪しいと言える。
男色が道楽としてあり得るのに、百合という道楽がないのは不可思議であるが、快楽の格差については医学的根拠がある。男色は肉体的にも快楽が非常に強いらしい。
検死の専門家である上野正彦の「死体は生きている」にはこんなことが書いてある。
昔は不衛生でも平気な世の中だったのである。ヨーロッパでは19世紀まで医師は手を消毒しなかった。それがゆえに、出産時の産褥熱で死亡する女性がとても多かったのである。センメルヴェイス・イグナーツという人物が、1847年あたりに、「医者が手を消毒すると産褥熱になる確率が10分の1になる」と発表した時は非難囂々であり、医学にとって大スキャンダルでもあったから、彼は凄まじい嫌がらせにあい医学界から追放され、悲惨な生涯を閉じた。19世紀後半にパスツールやコッホの細菌学が出てきたことで、ようやく、センメルヴェイス・イグナーツの仮説の正しさが証明されたのである。細菌の存在が知られるようになると、衛生的に男色は危険度が高すぎるとわかるから、ガチのホモ以外はやらなくなる。江戸時代までわりとあったはずの男色の道楽が明治からなくなったのも、このあたりの衛生観念の発達であろう。
女性同士だと、快楽を共有する仕組みがない。強烈な快楽を得るには、どうしてもペニスが必要なのである。少女と少女が愛し合おうとしても、快楽には限りがある。少女が少女に対して、火影のような想いを灯しても、躰の隅から隅まで版図を広げ焼き尽くすような快楽には至らない。レズビアンの少なさも、快楽の度合いの低さが原因だと推察される。だからどう転んでも男根中心主義になるのである。
しかし、いくら快楽の度合いが低いとはいえ、少女が少女を愛さないというのは不思議である。百合営業があるということは、(男性ファンから)需要があると知っているのだろうし、ファンサービスとして唇を重ね合わせてみせるが、実際にプライベートで身体を重ね合わせることはない。男色という道楽が衛生面でリスクが高いのに対して、百合はリスクがなく、ガチ百合が発覚しても、何らイメージダウンにならず、イメージアップする要素しかないのに、断じてやらないわけである。需要があっても供給がない。村重杏奈にしても、宮脇咲良とガチ百合であれば、ファンから大喝采を受けたはずなのに、同じホテルにいたと思われる宮脇咲良の肢体を愛でることに関心はなく、深夜に無断外出してまでジャニーズを求めたのである。
美少女が美少女と絡み合うという究極の耽美が、少女本人からすると(百合営業はやるけど)ガチでは絶対にやりたくないというのがとても興味深い。百合は男色のような不衛生さがなく、一点の曇もない美であることは寸毫の疑いもない。橋本環奈と道重さゆみちゃんが躰を求め合い素肌を重ね合わせていたら、それを醜いと思う人間はひとりもいるはずがなく、腕を絡ませ襟足に舌を這わせるだけで現世を超越出来るはずなのに、その絶対的な美が具現化されることは決して無く、吉本芸人やジャニーズに食われたという訃報しか届かない。枕営業は出来ても、ガチ百合は出来ないのが女性アイドルなのだ。どれだけ俗界から離れた聖者として百合を演じても、素顔は俗塵にまみれ、現世に堕し、泥人形としての実態を表してしまう。われわれはアイドルとは霊安室で対面するしかなく、買ってしまったCDは遺髪のように残るのである。リヒャルト・ゾルゲは第一次世界大戦でドイツ軍人として戦った人物であるから、まさか彼がソビエトのスパイだと思う人間はいなかった。ゾルゲは戦傷を負いドイツ軍を除隊となった後に共産主義にかぶれ、ソビエトのスパイとなったが、元ドイツ軍人がナチス党員として日本にやってきたのだから、正体を見破るのは至難の業であった。これに比べたら、薄っぺらい百合営業など下手な嘘でしかないし、まともな理性があれば、その裏側くらい即座に見破れるのだが、百合の実在を信じたいという気持ちが目を曇らせるのである。男だってイケメンを見て「抱かれてみたい」とふと思うことがないわけではないから、美少女が美少女に惹かれないという事実が腑に落ちないのだが、釈然としないながらも男根中心主義を認めなければならない。女と女が惹かれ合わないのが、ジェンダーの力学なのだ。橋本環奈と道重さゆみちゃんが出会っても、今からベッドに連れ込もうと思わないのが女という生き物なのである。人間はソドムには容易く堕ちるが、百合を実現する聖者はいない。天意を受けた人間など、これまでの歴史でひとりもいなかったし、すべてが僭称であり、われわれは雑居房のような地上で蠢めきながら繁殖していくだけなのだ。
(このエントリーでは真性のレズビアンではない少女が愛し合うのを百合と定義する)。
アイドルにしても同じである。村重杏奈は宮脇咲良と百合営業をしていたが、上京した時に深夜にひとり抜け出してジャニーズと会っていた。15歳なだけに週刊文春の報道は控え目だったが、たぶんラブホくらいは入っているだろう。村重杏奈はカモフラージュとして百合営業をしていたのである。百合営業するのは逆に怪しいと言える。
男色が道楽としてあり得るのに、百合という道楽がないのは不可思議であるが、快楽の格差については医学的根拠がある。男色は肉体的にも快楽が非常に強いらしい。
検死の専門家である上野正彦の「死体は生きている」にはこんなことが書いてある。
解剖学的に肛門に人さし指一本を入れたあたりに、男には前立腺がある。その下側に精のうという小さな袋があって、睾丸でつくられた精子がそのあたりに貯留されている。 鶏姦の場合、ここが相手方のペニスによって刺激されるから、精液が洩れるような快感が一気に生ずる。これをこらえようと肛門括約筋を収縮させると、相手方は膣括約筋よりもはるかに強いしまりに合うから、もう何をかいわんやである。男役も女役も同時に、最高の快感に到達できる。だから一度、体験するとやみつきになり、女性はいらなくなるとまでいわれている。
昔は不衛生でも平気な世の中だったのである。ヨーロッパでは19世紀まで医師は手を消毒しなかった。それがゆえに、出産時の産褥熱で死亡する女性がとても多かったのである。センメルヴェイス・イグナーツという人物が、1847年あたりに、「医者が手を消毒すると産褥熱になる確率が10分の1になる」と発表した時は非難囂々であり、医学にとって大スキャンダルでもあったから、彼は凄まじい嫌がらせにあい医学界から追放され、悲惨な生涯を閉じた。19世紀後半にパスツールやコッホの細菌学が出てきたことで、ようやく、センメルヴェイス・イグナーツの仮説の正しさが証明されたのである。細菌の存在が知られるようになると、衛生的に男色は危険度が高すぎるとわかるから、ガチのホモ以外はやらなくなる。江戸時代までわりとあったはずの男色の道楽が明治からなくなったのも、このあたりの衛生観念の発達であろう。
女性同士だと、快楽を共有する仕組みがない。強烈な快楽を得るには、どうしてもペニスが必要なのである。少女と少女が愛し合おうとしても、快楽には限りがある。少女が少女に対して、火影のような想いを灯しても、躰の隅から隅まで版図を広げ焼き尽くすような快楽には至らない。レズビアンの少なさも、快楽の度合いの低さが原因だと推察される。だからどう転んでも男根中心主義になるのである。
しかし、いくら快楽の度合いが低いとはいえ、少女が少女を愛さないというのは不思議である。百合営業があるということは、(男性ファンから)需要があると知っているのだろうし、ファンサービスとして唇を重ね合わせてみせるが、実際にプライベートで身体を重ね合わせることはない。男色という道楽が衛生面でリスクが高いのに対して、百合はリスクがなく、ガチ百合が発覚しても、何らイメージダウンにならず、イメージアップする要素しかないのに、断じてやらないわけである。需要があっても供給がない。村重杏奈にしても、宮脇咲良とガチ百合であれば、ファンから大喝采を受けたはずなのに、同じホテルにいたと思われる宮脇咲良の肢体を愛でることに関心はなく、深夜に無断外出してまでジャニーズを求めたのである。
美少女が美少女と絡み合うという究極の耽美が、少女本人からすると(百合営業はやるけど)ガチでは絶対にやりたくないというのがとても興味深い。百合は男色のような不衛生さがなく、一点の曇もない美であることは寸毫の疑いもない。橋本環奈と道重さゆみちゃんが躰を求め合い素肌を重ね合わせていたら、それを醜いと思う人間はひとりもいるはずがなく、腕を絡ませ襟足に舌を這わせるだけで現世を超越出来るはずなのに、その絶対的な美が具現化されることは決して無く、吉本芸人やジャニーズに食われたという訃報しか届かない。枕営業は出来ても、ガチ百合は出来ないのが女性アイドルなのだ。どれだけ俗界から離れた聖者として百合を演じても、素顔は俗塵にまみれ、現世に堕し、泥人形としての実態を表してしまう。われわれはアイドルとは霊安室で対面するしかなく、買ってしまったCDは遺髪のように残るのである。リヒャルト・ゾルゲは第一次世界大戦でドイツ軍人として戦った人物であるから、まさか彼がソビエトのスパイだと思う人間はいなかった。ゾルゲは戦傷を負いドイツ軍を除隊となった後に共産主義にかぶれ、ソビエトのスパイとなったが、元ドイツ軍人がナチス党員として日本にやってきたのだから、正体を見破るのは至難の業であった。これに比べたら、薄っぺらい百合営業など下手な嘘でしかないし、まともな理性があれば、その裏側くらい即座に見破れるのだが、百合の実在を信じたいという気持ちが目を曇らせるのである。男だってイケメンを見て「抱かれてみたい」とふと思うことがないわけではないから、美少女が美少女に惹かれないという事実が腑に落ちないのだが、釈然としないながらも男根中心主義を認めなければならない。女と女が惹かれ合わないのが、ジェンダーの力学なのだ。橋本環奈と道重さゆみちゃんが出会っても、今からベッドに連れ込もうと思わないのが女という生き物なのである。人間はソドムには容易く堕ちるが、百合を実現する聖者はいない。天意を受けた人間など、これまでの歴史でひとりもいなかったし、すべてが僭称であり、われわれは雑居房のような地上で蠢めきながら繁殖していくだけなのだ。