9月16日午後1時15分、東京高裁410号法廷、刑事第三部中里智美裁判長が、青梅談合事件の被告人酒井政修氏に対する控訴審判決を言い渡した。
一審では、検察官の立証は崩壊、求刑を罰金に落とすなど、事実上「白旗」を上げていた。当然の無罪判決に対して検察は控訴したが(【青梅談合事件・一審無罪判決に控訴した”過ちて改めざる”検察】)、控訴趣意書も全く的はずれ、殆ど無意味なものとしか思えなかった。
どう考えても一審無罪判決が覆る余地はないとは思うものの、2017年11月、名古屋高裁での美濃加茂市長事件控訴審判決という「悪夢」が私の脳裏をよぎる。「まさか、しかし、さすがに今回はあり得ない」、そう自分に言い聞かせる。
ところが、中里裁判長が、「主文」に続いて発した言葉は、「原判決を破棄する」だった。
またしても、控訴審での逆転有罪判決を受けることになった。それにしても、この事件の一審無罪判決を、どういう理由で「破棄」するというのか。
判決文の言渡しを聞いても、理由は全く理解できないものだった。
一審の第一回公判で、公訴事実を認めて保釈された直後の酒井氏と初めて会い、弁護人を受任ししてから約2年間、ともに戦い続けてきた。明治から続く地元の老舗の建設会社を経営してきた酒井氏への人望もあって、多くの仲間が弁護活動に協力してくれ、検察官立証を打ち破った末の一審無罪判決だった。
しかし、それは、控訴審判決での「原判決破棄」という言葉で、一瞬にして打ち砕かれた。
読み上げる判決理由もほとんど理解できないものだった。書記官室で受け取った判決謄本を読んで、さらに愕然とした。一審無罪判決を受けての「控訴審判決」などと言えるようなものでは全くない。
午後3時から、被告人の酒井政修氏と、逮捕された酒井氏に代わって、酒井組社長を引き継ぎ、懸命に会社を経営してきた次女の晶子氏とともに、司法記者クラブでの会見に臨んだ。
不当判決について私の説明に続いて、酒井氏が口を開く、「多くの人のおかげで一審で無罪を勝ち取ったのに・・・。悔しい・・・」後は、言葉にならなかった。
不当極まりない控訴審判決に対して、ただちに上告した。
上告審で、この事件での最後の戦いを行うことになる。しかし、そこには、刑事上告審の破棄事件は、年に1件あるかないかという、絶望的な現実がある。
一審で無罪、二審で逆転有罪という経過を辿った事件の被告人にとって、刑事裁判は「三審制」ではない。それどころか、一度たりとも、有罪の判断が正当に行われることなく有罪が確定することになる。
青梅談合事件の経過を改めて振り返り、控訴審判決がどのような理由でどのような判断を示したのか、それがいかに不当極まりないものか、いかに許し難いものかを述べることにしたいと思う。
警視庁捜査2課「青梅市の上の方が狙い」
酒井政修氏は、明治から続く青梅では老舗の地元建設会社の酒井組の社長として、青梅建設業協会会長として地域に貢献してきた。その酒井氏が刑事事件に巻き込まれた発端は、2018年5月、警視庁捜査2課立川分室に呼び出され、青梅市発注の公共工事に関して聴取を受けたことだった。警視庁捜査2課というのは、汚職・経済犯罪の捜査を専門とする部署だ。規模から言っても、「警視庁」という看板を背負っていることから言っても、全国の「捜査2課」のトップに位置する捜査集団だ。
聴取の後、警察官は酒井組の事務所までやってきて、パソコンの提出を求めてきた。一体何をしたいのかと思って、酒井氏が尋ねると、「青梅市の上の方が狙い。協力してくれれば悪いようにはしない」と言われた。しかし、酒井氏は、青梅建設業協会の会長をやっている関係で、市長や副市長や部長クラスと会うことはあったが、警察沙汰になるようなことで思い当たることは何もなかった。
その聴取の中で詳しく聞かれたのが、市の担当者から「緊急でやってくれ」と言われて、契約する前に着手していた災害復旧工事で、手続上必要だと言われて他の業者に頼んで見積書を出してもらい、それを市の担当者に渡したこと、それと、今回の事件になった「幹32号線」という約1億円の土木工事のことだった。
「幹32号線」の1期工事は、約3億円という青梅市では大規模な土木工事だった。O建設という会社が受注・施工していたので、2期工事も、その会社が受注するものと思われていた。ところが、2期工事は、市側が予定する発注金額では採算が合わないということで、そのO社は受注しないようだという話を聞いた。本来有利なはずの1期工事の施工業者が受注しないのであれば、他の業者が受注することはなおさら難しい、そのままでは、入札不調になって工事が大幅に遅れかねない。他の指名業者に確認したが、どこも受注する気は全くないということだったため、建設業協会の会長の酒井氏が、赤字覚悟で受注した工事だった。
「幹32号線工事」については、指名業者に連絡をとって受注する気がないかを確かめたことも正直に話した。すると、警察官は、「それも談合だ」と言って、談合を認める内容の書面を書くように言ってきた。「始末書のようなもので、これを書いてくれたら終わりだから」と言うので、警察官が書いた文面をそのまま手書きで書いて署名した。そこには、工事を受注した事情など全く書かれておらず、「当社が落札できるように協力依頼の電話をかけて協力して頂いた」などと指名業者に連絡をとって談合したことを認めるだけの内容が書かれていた。
その後、何回か聴取を受けたが、特に目新しいことはなく、その書面を書いただけで終わった。酒井氏は、それで警察の聴取は終わったと思っていた。
突然の「逮捕」、その日から全てが変わった
ところが、7月5日、酒井氏の自宅は、早朝から、夥しい数の報道陣に取り囲まれた。数日前に、警視庁担当だという新聞記者が「警視庁捜査2課のことで」と聞いてきたことを思い出した。酒井氏は、一体何が起きているのかわからず、取調べ担当だった捜査官に電話した。「とにかく、車でそこから抜け出して来てくれ」と言われたので、妹の運転する車で立川署に向かい捜査官と合流し、立川分室に連れていかれた。
そこで、談合罪の逮捕状を見せられ、逮捕された。「どうして俺が逮捕なんだ」と警察官に食い下がると、「裁判所で令状が出た」と言うだけで何も答えなかった。「警察の判断ではなく裁判所が逮捕を命令した」かのような言い方だった。
そういう取調官の態度や言動からも、酒井氏の逮捕が「無理筋」であることは警察の現場では十分に認識していて、警察の上層部の判断で逮捕が行われたように思えた。
コストをかけて捜査した以上、「見込み違い」だったとわかっても、潔く撤退しようとしない。面子のために、無理筋の事件を仕立て上げて逮捕を強行する。過去にも警察が繰り返してきたことだ。
酒井氏の逮捕は、NHK全国ニュースでも、「青梅市発注工事の談合事件」として新聞各紙でも大々的に報道された。突然、経営者を失った酒井組、酒井氏も、家族も、従業員も、その日からすべてが変わった。
逮捕の翌日には東京地検立川支部に送検され、その日以降、検察官の取調べも数回受けた。酒井氏は、逮捕当初から、赤字覚悟で受注した経緯や、発注者の青梅市のために入札不調にならないようにするためで、会社で利益を得ることが目的ではなかったことを精一杯訴えた。しかし、検察官は、他の指名業者を被疑者として取調べ、逮捕・起訴のプレッシャーをかけて、「談合の犯罪」のストーリーに沿った供述調書を作成して署名させていた。その供述内容を示して、「みんな談合を認めている」と言って、酒井氏に自白を迫った。
酒井氏は全面否認を続けたが、起訴された。
保釈請求も却下され、接見禁止のまま2カ月も身柄拘束が続いた。
事務所に届いた酒井氏の夫人からのメール
2018年9月初め、私の法律事務所ホームページの「問合せアドレス」に「藁にも縋る気持ちでメールしました」という書き出しの酒井氏の夫人からの長文メールが届いた。
夫は談合罪で逮捕され80日近くも留置されている。前年、癌の手術を受け、まだ十分に体力が回復していない。体調が悪化していないか心配で、一目でも会って様子を確認したいが、面会すらできない。弁護士からは、「本人が、9月19日に予定されている初公判で起訴事実を全て認めると言っている」と聞かされているが、犯罪になるようなことをする人ではないと、切々と訴えるメールだった。
夫人に事務所に来てもらい話を聞いた。一度、勾留中の酒井氏と接見して、私に弁護を依頼する意思があるかどうか聞いてみようと思った。しかし、弁護人の弁護士に本人の意向を確認してもらったところ、「保釈で早く出たいので、公判で事実を争う気はない」ということだった。それが本人の意思である以上、仕方がないと思い、夫人には「初公判で事実を認めるということのようなので、今の弁護士さんに保釈をとってもらってください。」と伝えた。「ただ、初公判で事実を認めても、弁護人が交代して、その後に認否を覆して争う余地もないわけでもない。保釈で出てきたら、証拠や資料を持ってご主人と事務所に来てください。」と言っておいた。
果たして「談合罪」なのか
9月19日の第1回公判で、酒井氏は、起訴事実を全面的に認め、検察官請求証拠がすべて同意証拠として取調べられ、保釈された。
数日後、酒井氏が、夫人と次女に伴われ、証拠の写しを持参して私の事務所に来た。それまでの経過と事件の内容を詳しく聞いた。
刑法は、「公正な価格を害する目的」と「不正の利益を得る目的」で談合した場合を「談合罪」の犯罪としている。いずれかの目的がないと犯罪は成立しない。
通常、刑事処罰の対象となる「談合」は、「受注を希望する業者が話し合った末、受注すべき会社を1社に絞り込み、他の業者は高い価格で入札して受注に協力する。それによって、入札での叩き合いで受注価格が下がらないようにする」というものだ。
そうであれば、談合がなかった場合と比較して、談合による受注価格が高くなるのは当然だ。その分、発注価格は高くなり、その分発注者は不利益を受けることになる。それが、「公正な価格を害する目的」の談合の典型例だ。
酒井氏の事件は、それとは大きく異なる。採算が悪く、赤字になりかねない工事で受注希望業者がなく、そのままだと、入札不調になって、再入札をせざるを得なくなり、工事が遅延する。大型工事の施工が遅れることで発注者の青梅市に迷惑がかかる。酒井氏の地元の後輩だった青梅市の建設部長からも、「何とか地元業者で受注してほしい」と言われていた。建設業協会会長の酒井氏にとって、青梅市と地元業者との信頼関係を損なうことにもなりかねないとの懸念から、いろいろ思い悩んだ末、仕方なく酒井組で受注することにしたものだった。
指名業者の一部に受注意思を確認するという「談合らしき行為」はあったが、それは、談合によって発注者に不利な価格で受注するという「公正な価格を害する目的」が認められない、つまり談合罪が成立しない典型例だと思えた。
酒井氏は、第一回公判で公訴事実を全面的に認めて、弁護人が検察官請求証拠をすべて「同意」していたが、証拠採用された指名業者の供述調書には不自然不合理な点が多々あった。工事指名後、酒井氏から連絡があり、「あれ頼むよ」「幹32号行きたいんだ」などと言われ、酒井組の受注に協力したというものだったが、それらの指名業者側に、もともと受注する気がなかったことは調書にも書かれている。受注する意思が全くなかったのだから、酒井氏と話したことは入札への対応には影響ない。「本件入札で酒井組の受注に協力する」ということはあり得ない。検察官のストーリーを押し付けられた調書であることは明らかだった。このような不合理な供述調書の信用性を否定する主張はできる。また、酒井氏の話を前提にすれば、談合罪の成立要件の「公正な価格を害する目的」がないとして無罪を主張することは十分可能だと思えた。
私は酒井氏の弁護人を受任し、無罪判決をめざして弁護活動を行うことにした。
10月10日の第2回公判で、罪状認否、弁護人意見を変更、「公正な価格を害する目的」がないとして、無罪を主張した。
弁護人の反証活動に協力してくれた指名業者の人達
第3回公判では、被告人質問が行われ、酒井氏は、逮捕以降、警察でも検察でもずっと訴え続けてきた言い分を、公判廷でしっかり供述した。
私は、青梅市に赴き、指名業者のヒアリングを開始した。彼らの話は、概ね酒井氏から聞いているとおりで、検察官調書の内容とは大きく異なっていた。談合罪の被疑者として取調べられ、逮捕・起訴のプレッシャーをかけられ、言ってもいない内容の供述調書に署名を求められて拒否できなかったものだった。
彼らから聴取した内容について陳述書を作成し、署名してもらった。検察官調書と相反する指名業者の陳述書を、検察官調書の弾劾のための「証明力を争う証拠」(刑訴法328条)として証拠請求をした。裁判所は、それを受けて、指名業者の証人尋問を行うことを決定した。
11月26日の第4回公判と12月10日の第5回公判で、4人の指名業者の証人尋問が行われた。談合罪の被疑者で取調べられ、酒井氏から連絡を受けて、工事を受注する気はないと答えただけなのに、「それも談合罪になる」と言われ、起訴プレッシャーの中で検察官が談合に応じたかのように作文した供述調書に署名させられたものだった。酒井氏から「あれ頼むよ」「幹32号行きたいんだ」などとは言われていないことも証言した。
補充立証の「立証準備」に3カ月の期間を要求した検察官
裁判所は、被告人質問や証人尋問の結果を受け、検察官に、「公正な価格を害する目的」があったと主張する根拠を明らかにするよう求めた。
一般的な談合では、「受注を希望する業者が複数いて、それが談合で調整されて、受注者が絞り込まれたこと」で談合がなかった場合より受注価格が高くなったことが立証できる。 ところが、本件では、酒井組以外の業者には受注意思がなかったので、「受注希望の調整による価格の上昇」が立証できない。
そこで、「公正な価格を害する目的」をどう立証するのかが問題だった。検察官は、「どうしても本件工事を受注したいという積極的な意思があったので、他の指名業者に連絡して受注意思がないことを確認していなければ、確実に落札するために予定価格を大きく下回る価格で入札せざるを得なかった」「だから、他の指名業者に連絡しなかった場合と比較して価格が高くなっている」という理屈で、「公正な価格を害する目的」を主張しようとした。
そして、その主張に関して、(ア)本件工事の受注で利益を得ようしていた、(イ)東京都の格付けを維持する目的があった、(ウ)酒井組の経営状況、工事受注状況、(エ)本件工事と同種の擁壁工事の平均落札率を立証する予定で、その立証準備のために3か月間の期間を要すると言い出した。3月末の定期異動まで引き延ばして、無罪判決を受けるのを免れようというのが、公判担当検察官の魂胆だと思えた。
酒井氏の主張からは、もともと「公正な価格を害する目的」の有無が問題になる事案だった。起訴の段階で、その点を十分に検討する必要があったのに、それを行っていなかったことを自ら認めたに等しい。
被告人の主張を無視して起訴しておいて、起訴後接見禁止で勾留を続け、保釈にも絶対反対という姿勢をとっていた検察官が3か月もの立証準備期間を要求するというのは、あまりに厚かましい言い分だった。
しかし、一審裁判所は、翌年3月末までの立証準備期間を与えた。控訴審で審理不尽と言われないようする配慮だと思えた。
検察官立証は“無残な失敗”、「白旗」を挙げた罰金求刑
本件では、(ア)~(エ)の検察官の立証が困難であることは明らかだった。
(ア)については、本件工事で利益が見込めないことを酒井氏が当初から覚悟の上で受注したことは、酒井組の積算の経過、入札価格の決定の経過についての工事部長の証言から明らかだった。
また、(イ)の東京都の格付けについては、確かに、数年前まで、Cクラスだった酒井組の東京都の格付けが、大型工事の受注でBクラスとなり、本件工事の受注がなければ、またCクラスとなる可能性があったが、完成工事高3億円程度の零細企業で、それまでの東京都の受注工事の殆どがDクラスだった酒井組にとって、Dクラスの工事の受注が可能なCクラスに格付けされる方が有利であり(直近のクラスであれば入札参加できる)、Bクラスを維持するとDクラスの工事が受注できなくなるのでかえって不利だった。
「酒井組の業績が赤字続きだったので、大型工事を何としても受注したかった」という(ウ)については、酒井組の経営は、概ね順調だったのが、本件工事を受注して赤字となったために、経営上大きなマイナスが生じたもので、本件工事を無理をして受注しなければならない事情など全くなかった。
(エ)は、擁壁工事というのが、手間のかかる困難な工事で利益が見込めない工事であることは、酒井組の工事部長だけでなく、複数の指名業者が証言していた。
検察官は、立証準備に3月末までの期間をかけた上、担当検察官は「狙い通り」、異動でいなくなった。5月から6月にかけて、引き継いだ検察官によって、(ア)~(ウ)についての東京都職員、金融機関の担当者等の証人尋問が行われた。一方で、弁護側立証として、酒井組の工事部長、経理担当者の尋問も行われた。
証人尋問の結果は、上記のとおり(ア)~(ウ)について、酒井氏に「積極的受注意思」があったとは到底言えないことが明らかになっただけであり、検察官立証の「無残な失敗」に終わった。(エ)について、一定期間で「擁壁工事」の入札状況について調査した結果は、大部分が「入札不調」であり、落札された場合も予定価格ぎりぎりだった。
7月19日の論告・弁論。検察官の求刑は「罰金100万円」だった。論告を作成するなかで、審理の結果、証拠全体を見直して、「公正な価格を害する目的」の立証ができていないことを再認識し、求刑を罰金に変更したのであろう。しかし、「罰金100万円」なら、在宅捜査で略式請求すればよかったはずだ。警視庁捜査2課が市役所を捜索したうえで被疑者を逮捕し、80日も勾留した事件ではあり得ない求刑だ。検察官は、有罪立証の大半が崩されたことで半分「白旗」を上げ、求刑を懲役刑から罰金刑に落としてきたということだろう。
そして、9月20日、一審無罪判決が言い渡された。
黒川弘務検事長の最終判断で「人質司法による冤罪」回避のための検察官控訴
このような一審での経過を見る限り、無罪判決が、控訴審で覆される余地は全くないと思えた。ところが、控訴期限の前日になって、検察官が控訴を申し立てた。「人質司法による冤罪」の事件が無罪判決で確定することを何とかして回避する目的としか思えなかった。
その検察官控訴を「最高責任者」として判断したのが東京高検黒川弘務検事長だった(その後、検察庁法に違反する「閣議決定による定年延長」で検事長の職にとどまった後、今年5月に、「賭け麻雀」疑惑が報じられて辞任)。
しかし、「検察官控訴」の事実は重い。一審無罪判決が出たことで、金融機関からまとまった金額の融資が再開される予定だったのに、検察官が控訴したことで刑事裁判が続くことになり、融資は見送りとなった。酒井氏に代わって酒井組の社長を引継いだ次女の晶子氏は、指名停止になっても他の地元業者からの工事下請でつないだりして、社員一丸となり歯を食いしばって会社を守ってきたが、それも限界に来ていた。
控訴趣意書は、一審での審理経過を全く無視し、公共入札の実務の基本的な理解を欠いているとしか思えない、的はずれな内容だった。控訴趣意書提出から、1週間で弁護人答弁書を提出。酒井組の経営状況を述べ、少しでも早く第一回公判期日が指定されるよう要請する書面も提出した。しかし、指定された期日は3月11日、控訴申立てから5カ月半も経過していた。
第1回公判で、職権で被告人質問と会社の経理担当者の証人尋問を行うことが決定され、6月10日の第2回期日で尋問が実施されたが、酒井氏も、経理担当者も、淡々と一審同様の供述をし、特に目新しい供述があったようには思えなかった。念のために、被告人側の供述を確認する程度の意味しかないものと思っていた。
ところが、冒頭で述べたとおり、9月16日に言い渡された判決は、「逆転有罪判決」だったのである。
これで「刑事裁判」と言えるのか
刑事の控訴審というのは、一審判決の判断を「事後審査」する裁判であり、最高裁判例でも、控訴審が一審の事実認定を覆すためには、一審判決に論理則・経験則違反があることを具体的に示すことが必要だとされている。ところが、この控訴審判決は、一審での審理を全く無視し、最初から「原判決破棄・有罪」の結論ありきで審理を行ったとしか思えないものだ。
控訴審判決は、
(1)本件当時、酒井組の経営状況は厳しく、年間売上目標の3分の1程度に当たる売上げを計上することができる本件工事を受注することの意味は大きい
(2)被告人のI(相指名業者)らに対する言動をみると、本件工事について、被告人には積極的な受注意思があったと認められる。これに反する被告人の供述は信用できない
(3)30%の数値目標(「外部への支払」を差し引いた金額が受注金額の30%以上となること)との関係では、酒井組が入札した工事価格(9700万円)から、120万円余り金額を引き下げることが可能である
との事実を認定し、そこから、
被告人には、何とかして本件工事を受注したいという「積極的受注意思」があり、しかも、採算を見込める範囲で、入札価格を引き下げることが可能だった。
との判断を導き
被告人が(Iらが所属する5社は、少なくとも本件工事の予定価格以下での入札はしないとの)認識を有していなければ、予定価格の10万円単位以下の部分を機械的に削っただけの価格で入札したとは考え難い。
として、酒井組の入札価格が、談合がなかった場合の価格を下回るとして、「公正な価格を害する目的」を認定し、これを否定した一審判決の判断を覆した。
酒井組の経営状況と大型工事受注の意味
(1)について控訴審判決は、
酒井組は、平成29年5月期に約2058万円の損失を計上し、また、平成28年5月期に約2361万円あった繰越利益剰余金が約303万円に大幅減少していることなどが認められ、本件当時の酒井組の経営状況には厳しいものがあったといえる。また、M(経理担当者)の当審証言及び被告人の当審公判供述によれば、本件当時も、Mは被告人に対し、少なくとも月1回は酒井組の経営状況(財務状況や資金繰り)に関する報告をしており、被告人は平成29年3月頃、Mから報告を受けて、同年5月期の決算が赤字になる見通しであることを認識していたことが認められる。
このような酒井組の経営状況も踏まえると、酒井組の年間売上目標の3分の1程度に当たる売上げを計上することができ、採算を見込むことができる本件工事を受注することの意味は、大きいと認められる。
としている。
しかし、このような判示は、一審の審理や証拠を全く無視したものだ。
一審では、検察官が、「酒井組の経営状況、財務状況が悪化している状況下で本件工事を受注していること」で「積極的受注意思」を立証しようとし、酒井組の会計関係資料の分析報告書や、複数の金融機関の担当者の証人尋問を請求するなど、相当な力を注いだ。しかし、その結果、逆に、酒井組の経営は、概ね順調で、本件工事を受注した当時、無理に大型工事を受注する必要が全くなく、本件工事受注が実質赤字となったために経営上大きなマイナスが生じたものであったことが明らかになった。ちょうど、本件工事の入札の時期が期末であった平成29年5月期に、約2058万円の損失が生じたというのも、大型工事の「期ずれ」によって、利益の一部が翌期に持ち越されただけで、本件工事の売上が見込める平成30年5月期には、むしろ利益の増加する要因だった。
酒井組にとって本件工事の受注が特に意味があったことの立証のために、東京都格付けへの影響まで持ち出し、東京都職員の証人尋問まで行ったが、格付けが何ら受注の動機にならないことが明らかになっただけだった。
「本件当時の酒井組の経営状況には厳しいものがあった」と全く実態に反する認定を行った上、酒井組の年間売上目標の3分の1程度に当たる売上げを計上することができ「本件工事を受注することの意味は、大きいと認められる」として、酒井氏の「積極的な受注意思」を認めた控訴審判決は、一審での審理の経過や検察官立証の結末を完全に無視したものだった。
指名業者の証言は無視
(2)も、一審での証人尋問をすべて無視して、検察官調書だけで認定したものだ。
控訴審判決は、「Iらの各検察官調書等の原審証拠によれば、被告人のIらへの言動等に関して以下の事実が認められる。」とした上、指名通知後に、Iに「今日、指名あったか。ほかの皆さんがよければ、うちにやらせてもらいたいんだけど。」と言った事実、Kに対し、「あれ頼むな。」と言った事実、「その2工事について、うちで行きたいんだけど。」と言った事実、Fに「32号行きたいんだよ。よろしく頼む。」と言った事実を認定している。それらは、酒井氏に「積極的受注意思」があったことを示す発言のように思える酒井氏は、そのような発言をしたことを、捜査・公判で一貫して否認していた。しかし、一審の第1回公判で、保釈のために、心ならずも、検察官調書にすべて「同意」し、証拠採用されたものだった。
私が弁護人を受任し酒井氏が無罪主張に転じた後、相指名業者の人達は、これらの発言を否定し、証人尋問が行われ、最終的には、一審判決は、検察官調書は「積極的受注意思」の根拠となるものではないと判断したものだった。
ところが、控訴審判決は、一審で指名業者の証人尋問の結果それが検察官調書との相反していることは全く無視し、検察官調書に書かれている酒井氏の発言とされた部分を、そのまま認定した。そして、それらの発言を否定する酒井氏の供述は、「信用できない」と理由もなく斬り捨てている。
突然出てきた「積算内訳書」で「採算が見込める工事」だったと認定
(3)は、酒井組では、「外部への支払」を差し引いた金額が受注金額の30%以上となること(粗利30%)を、工事の採算がとれるかどうかの「目安」としていたという「30%の数値目標」を前提に、本件工事の入札の際に、発注者の青梅市に提出した入札価格の「積算内訳書」に記載された金額で「粗利30%」を僅かに超えていたことをとらえ、入札価格をさらに引き下げることが可能だったとするものだ。
確かに、「外部への支払」を差し引いた金額が受注金額の一定割合以上となる、という「粗利」の確保は、工事による収益を確保するための一応の「目安」だと言える。工事部長も、警察調書で、その「粗利」について一般的な目安の数字として、「30~35%」と述べ、一審でも同意書証で証拠採用されていた。
控訴審判決は、その「30~35%」の数字と、酒井組が、本件工事について入札時に青梅市に提出した「工事費積算内訳書」の金額では、その数字が「30.8%」になっていることに目を付けたのである。入札時の酒井組の積算では「30%の数値目標」を「0.8%」上回っているので、それが30%になる金額まで入札価格を引き下げることが可能だった、上記(1)(2)により、酒井氏には「積極的受注意思」があったと認められるから、他の指名業者に連絡して受注意思がないことを確認していなかったら、もっと低い価格で入札していた、との結論を導いた。
そもそも、「入札時の積算」というのは、発注官庁側が示す積算単価を基本にして算定しているものに過ぎず、「工事費積算内訳報告書」も、そのような発注官庁向けに作成提出するものに過ぎない。実際に工事を受注して施工した場合、工事にかかる費用や得られる利益が入札時の積算のとおりになるわけではない。「30%の数値目標」は、最終的な工事採算に関する数字であり、入札時点での積算価格から、どれだけの費用が実際の工事施工で増えるか節減できるかの見通しを加味して、その目標を実現できるかどうかが判断されることになる。そのことは、公共工事の実務の知識が多少なりとあれば自明なことだ。そもそも「工事費用積算内訳書」は控訴審の被告人質問で突然持ち出されたものだった。その積算内訳書の数字に「30%の数値目標」を当てはめるなどというのは、一審の検察官の主張にも全くなかった。
「30%の数値目標」で、本件工事の採算性と被告人の認識を立証するなどということは凡そ不可能なはずだ.。ところが、控訴審判決ではそれを強引に行っているのである。
その結論を導くための証拠の不足を補うために行われたのが、控訴審裁判所の職権で行われた酒井氏の被告人質問と、経理担当者の証人尋問だった。経理担当者に、「30%の数値目標」が工事収益を見込めるかどうかの基準であることと、それを被告人の酒井氏に伝えていたことを証言させ、酒井氏に、そのように伝えられていたことを認めさせ、工事の収益性を認識していた根拠とすることが目的だった。判決文に引用された2人の供述を見て、職権尋問の目的が初めてわかった。
判決での被告人供述や経理担当者証言の引用も、控訴審での職権尋問で中里裁判長が強引な誘導尋問で、しかも供述の趣旨を歪曲したものだった。経理担当者Mは、「積算は役所に対するものなので、会社内での工事収益の見通しとは異なる」と説明しているのに、それを無視し、入札時の積算で「30%の数値目標」を超えていれば工事の採算が見込めると決めつけた。
被告人質問でも、酒井氏は「30%の数値目標」について聞いた記憶がないと供述しているのに、聞いていたかのような誤った前提で、酒井氏に「工事部長から、本件工事について30%の確保が難しいという話を聞いたか」と質問し、「あまり記憶にない」との供述を引き出した上、判決では、次のように判示している。
被告人は、当審公判で、工事受注に関する話があったときは、当該工事の工事粗利益の報告を受けること、本件内訳書を見たことを認めた上、積算をした段階で、30%の工事粗利益を確保することが難しい場合は、Aからその旨の話が出ると思うが、本件工事について、そのような話を聞いたということは余り記憶にない旨供述していることに照らすと、被告人は、本件工事の入札価格である9700万円が、少なくとも30%以上の工事粗利益を確保できるものであって、本件工事は採算を見込むことができるものであることを認識していたと認められる。
取調べの録音録画の下では、検察官ですら行わないような露骨な「誤導質問」で強引に被告人供述を引き出し、しかも、その供述の趣旨を歪曲して引用し、有罪の証拠にしているのである。
そのような露骨な誤導尋問に対して、異議すら述べなかったのは、弁護人として迂闊だったと言われれば、そのとおりだ。しかし、一審の審理の経過や結果を全て無視し、有罪判決の辻褄合わせのために控訴審職権尋問を行っているなどとは夢にも思っていなかった。
控訴審裁判所の裁判長は、その判断で、刑事裁判の最終結論を事実上確定させる力を持つ。まさに「閻魔大王」のような存在だ。その裁判長に、「誤導尋問です」と異議を述べることは、さすがの私もできなかった。
刑事控訴審とは何のための裁判なのか
刑事の控訴審判決は、上告審で覆されることは殆どなく、一度言い渡されれば、ほぼ確定判決となる。その控訴審の裁判長が、これ程までに露骨な誤導尋問を行い、引き出した供述で一審無罪判決を平然と覆す。それが、日本の刑事裁判の現実なのである。
一審の東京地裁立川支部では、野口佳子裁判長以下3人の裁判官が、第1回公判で起訴事実を全面的に認めながら、第2回で無罪主張に転じた被告人の酒井氏の言い分にも耳を傾け、同意書証として採用済みだった検察官調書についても、改めて証人尋問を行うなどして、信用性を慎重に検討し、「公正な価格を害する目的」の有無という最大の争点について、検察官にも立証の機会を十分過ぎるほど与えた上、酒井氏に無罪を言い渡した。
それにもかかわらず、不当極まりない「検察官控訴」の判断を行ったのが、黒川検事長の下の東京高検だった。
それに対して、控訴審裁判所は、一審裁判所の無罪判決について、審理の経過や判断を評価検討し、刑事事件判決として特に不合理な点の有無を慎重に判断し、不合理な点がなければ、直接審理を行った一審裁判所の判断を尊重する、というのが、同じ裁判所組織に属する一審裁判所が下した判断に対する、控訴審裁判所としての当然の姿勢だと思っていた。
ところが、中里裁判長らが行ったことは、それとは真逆であった。検察という組織の決定に基づいて検察官が行った「控訴」という結論の方を尊重し、それによって否定された一審無罪判決に対して、最初から「破棄する」という「結論ありき」で審理に臨んだのである。
これが、果たして刑事裁判と言えるのだろうか。
「人質司法」を丸ごと是認するのか
日産自動車のカルロス・ゴーン元会長が逮捕された事件でも、前近代的な日本の刑事司法、とりわけ、無罪主張を行う被告人が長期間身柄拘束される「人質司法」に対して、国際的な批判が高まった。
本件は、そういう「人質司法」に押しつぶされ、一旦は心ならずも起訴事実を認め、有罪判決を覚悟した被告人が、その後、裁判所の公正な判断を求めて無罪主張に転じ、1年近くの審理の結果一審無罪判決を勝ち取ったものだった。それは、日本の「人質司法」に一石を投じる事件でもあった。
ところが、控訴審では、一審の第1回公判で同意書証として採用された証拠だけを証拠として扱い、それ以降の、一審での審理はすべて無視、証拠が足りない部分は、控訴審で被告人らの職権尋問を行って、強引な誘導で引き出した(引き出したことにした)供述で、一審無罪判決を覆し、有罪とした。
それは、
一審で一旦有罪を認めた被告人が無罪主張に転じても、耳を貸す必要はない。無罪主張をしたければ、保釈を認められないことを覚悟して、検察官証拠を争い、その分、身柄拘束が続くことを覚悟しろ、それに耐えられる被告人であれば、無罪主張に耳を傾けてもいいが、保釈で出たいのであれば、無罪主張は諦めろ
と言って「人質司法」を丸ごと是認することにほかならない。
信じ難いことに、このような判決を下した中里裁判長は、司法研修所教官、東京地方裁判所部総括判事、水戸地方裁判所所長などを歴任し、2018年から東京高裁部総括判事を務めている「エリート中のエリート」であり、定年まで4年を残している。今後、高裁長官、最高裁判事などに就任する可能性もある、まさに、日本の刑事裁判所の中核にいる人物である。恐るべきことに、本件の控訴審判決のようなやり方が「日本の刑事裁判のスタンダード」ということなのである。
日本では、検察官が起訴した事件について「推定無罪」ではなく「有罪の推定」が働く。一審で無罪判決が出ても、検察が組織として有罪と判断して控訴すれば、再び「有罪の推定」が働き、一審無罪判決は容易に覆される。残念ながら、それが日本の刑事裁判の現実である。それは、「人質司法」と並んで、憲法上の「裁判を受ける権利」を著しく害するものなのである。
もちろん、このような「凡そ刑事裁判とは言えない判決」に屈することはできない。上告審でも、全力を挙げて戦い続ける。
しかし、その戦意も、そのための気力も、そろそろ限界に近づき始めている。