第1章 五人と五感と偽りと
1節 八ヶ橋廻凛は全てが聴こえる
キャラクターを簡単に紹介させていただきます。
八ヶ橋廻凛 (やつがはしみりん)
高2女子。大人しいというより、寡黙な性格をしている。
あることをきっかけに、全ての声が聴こえる能力を得る。
その能力と向き合っていく姿を、本作品では描いていきたい。
槇野聖音 (まきのせいん)
高2男子。とんでもないくらいのお人好しで心が異常なまでに綺麗。
八ヶ橋とは2年連続同じクラスであるが、面識はない。
たまたま2−4を通りかかった際に、八ヶ橋が泣いている姿を見かけて慰めたことから、二人の関係は始まる。
音。それは振動が空気中を渡り、耳という器官に入ってくることにより得られる、情報の一つである。
基本的に音というものは、誰であろうと聞こえるものであり、病を抱えていない限り、人間には一介に入手可能な情報だ。
音には多くの役割がある。声を通した意思の疎通、音楽による安らぎ、環境音などによる状況判断、など。
たとえば目が塞がっていても、歩道に立たされているとしたら、車の走って行く音を頼りに自分がどこにいるのか、大まかの特定は可能となる。
このように音という要素は、万人にとって等しく与えられて、等しく理解の及ぶものである。
しかし、八ヶ橋廻凛という少女にだけは、特別なものとして扱うべきであろう。
八ヶ橋廻凛。彼女には音にならない音、声にならない声が文字通り“聞こえる”。
それは耳がいい、聴覚に優れる、などといった一般論で片のつく話ではなく、言うなれば彼女だけの異能といえるものだ。
そして彼女は、自分がこのようになってしまった原因について、おおよその目処がついていた。
とすればあの日泣いてしまったのは、単なる現実逃避だったのかも知れない。
そしてあの日悪運にも、泣いている姿を他人に見られてしまった。それも、関わりのなかった人間に。
だからこそ、違和感を覚える。
槇野聖音という少年に。
八ヶ橋は今まで、多くの人間と関わりを持ってきた。それは男子であっても例外ではなく、クラスメイトの一人を除く全員以外とは面識を持ち、ある程度の信頼を持ちあえる関係は築いてきた。
その除かれた一人こそが、槇野聖音である。
一年生二年生と同じクラスでありながら、会話はもとより、目が合ったこともない。どんな些細な関わりもなかった。
そんな彼につい先日泣き顔を見られ、更には頭を撫でられ慰められたことが、如何に大きな出来事であったか。
実際、彼のその行動で八ヶ橋の涙が止まったかと言えば否だが、立ち直るきっかけを作ってくれたことには違いない。
大抵の人間であれば、恩人だと最大限の感謝を送り、その後は持ちつ持たれつな関係に発展しそうものだが、そんなことになる気配は、二人の間には微塵もなかった。
「ふーん、ふふーん、ふっふふーん」
そうこう思いを巡らせているうちに、聴き覚えのある微妙な鼻歌が聴こえてきた。
また昨日のように墓穴を掘る羽目になるかもしれない。
けれど今回は泣いていないし、話しかけてくる理由なんてないはず――
「あ、八ヶ橋。昨日あの後……ぶわっ?!」
咄嗟に槇野の口に自分の手を当て、それ以降の発声を強制的に封じた。
少し後ずさり、もごもごする槇野だったが、八ヶ橋はそんなこと気にしていない。
気にしていたのは別のものであって。
「ねぇ、八ヶ橋さんと槇野くん、何があったの?」
小声でひそひそと疑問をぶつける女子。
「さぁ、あの二人だよ?何かあるなんて考えにくいんじゃ…」
冷静な判断で事を済ませようとする男子。
「そうそう、堅物の八ヶ橋廻凛となんちゃってイケメンの槇野聖音、あんな二人がくっつくわけないでしょ?」
嘲るように嗤う柄の悪い女子。
「いや逆に考えろ?ぼっち同士だから惹き合った、なんてこともあるんじゃねぇの?」
悪ノリなのか本気なのか、罵り声を上げるヤンキー男子。
八ヶ橋には、全て聞こえていた。
そう、全て。
『うわー、槇野くんかわいそ…。あんなやつと関わっちゃうなんて』
刺さる。
『気持ち悪いコンビが生まれちゃったな。より一層距離を置かなきゃ。槇野くんには悪いけどね』
刺さる、刺さる。
『クズ二人の組み合わせならお似合いじゃん?あ、でも槇野くんには恨みないけどね』
刺さる刺さる刺さる。
『あんな二人がくっついてクラスの、ましてや学校の空気が悪くなったらどう責任取ってくれんだろうな?いやでも、槇野は関係ないか』
刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる刺さる――
八ヶ橋には、そんな“心ない”心の声が、全て、余す事なく、聞こえていた。
最低だ。憎むなら、蔑むなら、罵るなら、私だけにすればいいのに。
槇野くんは関係なんて、ないのに。
今すぐ耳を塞ぎたかった。全ての声を、音を遮断して、自分というものが朧げになるのを止めたかった、けれど。
怒りに満ちる刹那の間に、彼女は別の行動を起こしていた。
空いた方の手で、自分の机をひっくり返したのだ。
否、ひっくり返しただけではない。
その華奢な腕からは想像もできない、異常な怪力とも思えるものを具現化して――。
机が、天井に突き刺さっていた。
こう表現すれば誰しも、この意味不明な文章に理解を示す事は難しいだろうが、実際そう表現する他ない状況だった。
机のおおよそ三分の二が天井にめりこみ、びくともしていない。
むしろここまで綺麗に、最小限の穴だけを開けて突き刺すこの技量は、称賛に値するものなのかもしれない。
当然、クラス中は静まり返り、天井と、事態を引き起こした張本人である八ヶ橋とを交互に見やり、唖然としていた。
中には腰を抜かしている者、目を塞ぎ、事実を認めようとしない者がいた。
そして、上を向いた手を、すらっと伸びた足を震わせ、虚な目で唇を噛み締める者も。
自分が起こした現実を認められず、今すぐにでも視界を覆いたい。
けれどそんな手は空いていなかった。
左手は依然として槇野の口を押さえ、利き手である右手は机を突き上げたという事実を証明するために上を向いたままで。
それでも、今にも崩れそうな下半身に大げさなほどに力を込め…
八ヶ橋廻凛は走り去った。
全力で逃げようとした。
現実から。
静寂から。
違和感だった。
何も聴こえなかった。
教室が静寂に包まれていたとはいえ、彼女にだけ聴こえるものがあるはず。
そう、本音、という心の声というものが。
だがあの瞬間、何も聴こえなかった。正確には、机を突き上げた時から。
ありえない話ではあるが、仮に机のような質量体積ともに大きいものが壁や天井や壁に激突しようものなら、それなりのデシベルが発生するはず。だが、それがなかったのだ。
無駄のない美しい突き刺さり方であったとはいえ、あれだけの惨事、それ相応の音が発生して当然のもの。だがそれがなかったのだ。
思えば、他のクラスの人間が野次馬として寄り付いてこなかったのは、伝わっていなかったからだろうか。
視覚という情報での伝えようがなければ、聴覚に頼るのが人間。その両方でも得られない情報は次いで嗅覚を用いるのだが、この場合嗅覚は当てにならない。
つまり、2−4の教室という限られた空間に居ない人物には、この状況は伝わっていなかった。
だからこそ、野次馬の不在は必然だったと言えるだろう。
だがおかしい。なぜ、音は消えていたのか。
あの空間には当然、空気が存在していた。そして音源ももちろん、八ヶ橋が自前で用意したと言えるものだが。
なのに音は発生せず、生徒たちも発声しなかった。
けれど今は、しっかり自分が走っている音、すなわち足音が、長く続く廊下に響き渡っている。
本当にあの一瞬だけ、音が世界から消えたのだ。
そうこう思いを巡らせているうちに、八ヶ橋は屋上に辿り着いていた。
何を当てに走っていたというわけではないが、自然とこの場所に向かっていたらしい。
前々から彼女は、何かから逃げたくなったとき、嫌なことがあったときなどには屋上で一人、時間を過ごすことが多い。
今回もそのパターンの一つである、というだけで。
「はぁ、はぁ…」
全速力で走り続けたせいで、息切れしていた。
2−4の教室は一階東棟。屋上は中央棟の4階であり、移動距離はそれなりのもの。息切れしないとしたらそれは余程の体力を持っている人なのだろう。
肩で息をしながら、おもむろに歩みを進め、開けた屋上の真ん中辺りに立った。
この学校の屋上には手すりがない。ここで戯れあいなどをして暴れようものなら、4階の高さから真っ逆さま、なんてこともあり得る。
心地よい春風が吹き抜けていく。
高いところほど風は気持ちいいものだ。いっそ、この風が全てを吹き飛ばしてくれたらいいのに。
艶のある髪を靡かせながら、八ヶ橋は端へと寄っていく。
相変わらず、心地よい風が吹いていて――
ひゅうっ
突然、突風と呼ぶに相応しい豪速の風の槍が、八ヶ橋を突き抜いた。
本当に、吹き飛ばした。
『死ねよ』
そんな声と一緒に。
風に突き飛ばされるように、否、文字通り突き飛ばされ八ヶ橋は為す術もなく地面へ一直線に――
「ったく、どこまで手がかかるんだよ、お前は」
とはならなかった。
本能的に差し出していた右腕、そこに誰かの手指が絡まっていた。
ぎゅっと力を込められた右腕はそれなりに痛いものであったが、落下により本来受けるはずだった痛みに比べれば可愛いものか。
絡まりついた誰かの手首を目で追ってみると、なんとなく予想はしていたが、腕の主は槇野だった。
逡巡の後、槇野にぐいっと引っ張られ、八ヶ橋は両足をしっかりと床面に突き立てる。
何事もなかったかのように、槙野も体の横にぴしっと腕を戻していた。
「……」
「…………」
しばらく向かい合った二人の間に沈黙が満ちる。
春風は“どこ吹く風”といった顔で穏やかに吹き抜けていく。
風の顔など、おかしな話ではあるが。
「あの、さ」
沈黙は苦手とは思えない槇野が口を開いた。
「まさかとは思ったけど、その…早まるなよ?」
余計なお世話だ。いくら悲しいことがあって、いくら信じられない事実を知って、いくら嘘を暴いたからと言って、死に急ぐような真似だけはしたくない。
『間に合ってよかった』
死に急ぐような真似はごめんだが――
『生きててくれて、良かった』
泣き喚くような真似くらいなら、許してくれるはず。
八ヶ橋は槇野の胸に飛び込み、嗚咽を上げながら泣き顔をもう一度晒した。
今度は昨日のような無感情の涙ではなく、しっかり意味を持った、浄化の涙で。
「あ、いや、そんなつもりじゃなかったんだけど…」
それでも槇野は、昨日と同じように優しい声と
『好きなだけ泣けばいいよ』
殊更に優しい“本音“であやしてくれた。
目を瞑って泣いていたから見えてこそいなかったが、槇野の表情はきっと、この世で一番優しいものだったに違いない。
こうして再び、二人は安寧の時間を同じ思いで過ごしていた。
『『このままこの時間が永遠に続けばいいのに』』