7回忌を迎えた「高倉健」 「実妹」も「チーム高倉」も呼ばれない異様な密葬の光景
慶応病院の特室での最期
映画俳優・高倉健が鬼籍に入ったのは2014年11月10日のことだった。早いもので今年は、亡くなって7回忌を迎える。そのプライベートは生前、厚いベールに覆われていたが、その秘密は年を追うごとに徐々に語られ始めている。不思議な面々が集った密葬の光景や「養女」の父親へのインタビューから名優を偲ぶ。
(週刊新潮2015年11月19日号に加筆・修正しました。肩書や年齢などは当時のものを採用しています)
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<ちりて後おもかげにたつぼたん哉>(蕪村)
うしなってから折に触れ顔かたちが甦り、その存在の大きさに気づくというのは、残された者の宿命である。
「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」と劇中で口ずさんだ俳優・高倉健が悪性リンパ腫のため息を引き取ったのは、2014年11月10日のことである。時刻は午前3時49分を差していた。
享年83。場所は慶応病院3号館6階の「特室」。かつて安倍晋三首相が潰瘍性大腸炎で入院したこともあり、一泊10万円を下ることはない部屋だ。
そのちょうど1年前の13年11月、健さんが文化勲章を受けたときの会見で、「200何本という膨大な本数の映画をやらして頂きましたけど、ほとんどが前科者。そういう役が多かったが、こんな勲章を頂いて」と喜びを口にしたうえで、「これからの作品選び、章に恥じないものをやらなければいけないと思っている」
こんな風に“次”への意欲を燃やしていたものだ。
だが、それを打ち砕くように病魔はすでに身体を蝕んでいた。
2013年5月1日に健さんと縁組をして養女に
事実、健さんと30年来の交遊がある気学の研究家・安部芳明氏は、体調の悪化を感じ取っていたようで、
「そのころ、高倉さんに珈琲を送ったことがありました。ご存じの通り、高倉さんは珈琲を非常に好まれていましたから、珍しいものが手に入ると送っていたんですよ。そうすると必ず直筆の礼状が来るのですが、そのときは代筆の手紙でした。そんなことは今まで一度もなかったので、筆が取れないほどに重篤なのかな、と思ったものです」
ちなみに安部氏は、自身が監修する手帳に健さんの運気の良い方角などを記して伝えたり、人生訓のようなものを毎月のように送り続けてきた。
ともあれ、没してのち1年を迎えるまでのあいだ、付き合いを率先して話す人、黙して語らない人、さまざまではあったが、みなが虚を衝かれたのは、「健さんに、かつて女優だった養女がいた」という告白ではなかったか。
今年で51歳になる彼女は2013年5月1日に健さんと養子縁組をした。結果、唯一の子として預貯金や不動産を相続したうえで、『永久保存版 高倉健 1956-2014に手記を発表し、18年に亘る献身や健さんとの最期の日々などを明らかにしている。
しかしながら、ものごとにはすべて表と裏があり、さらに言えば、「大事なことは語られない言葉の中にある」といった警句がないわけではない。
それでは、秘匿されてきた密葬の光景から述べることにしよう。
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