これを書いている11月6日現在、アメリカ大統領選挙にかんするゴタゴタはまだ続いている。

まったくの見当はずれかもしれないが、恐れ多くもトランプ氏の気持ちを推測してみると以下のようなことになるのではないかと思う。

 

「自分はアメリカ大統領にもっとも相応しい人間である。それは事実なのであって、そのことは自分がなによりもよく知っている。であるからして、本来、選挙などというまだるっこしいことをしないで、全国民がただ自分を信任し、自分に全権を委任すればいいのである。そうすれば自分はアメリカ国民にとって最善の政策をなすであろう。

しかしまことに残念なことに今の制度はそうなっていない、選挙というようなかったるいやりかたによって選ばれなければいけないことになっている。しかし自分は「正しい」のであるから、選挙が行われれば、自分が当然選出されるはずである。

万一、そうならないとすれば、それはどこかで不正が行われているからである。その不正が暴かれるならば、当然自分が大統領となることは自明である。」

 

民主主義あるいは多数決原理というのは、われわれは何が正しいかを決して知ることはできないという見方を前提にしている。

何が正しいのかはわれわれには決してわからないのだから、とりあえず、今、多くの人が賛同していることを当面の指針としていこうというだけのきわめて頼りない制度である。

 

しかし、何が正しいのかを、われわれに教えてくれると考えられているものはいくつかあって、その一つが宗教である。

 

アメリカは、信仰の自由を求めた百余人の清教徒たちによって建国された。1620年であるから、今から丁度400年ほど前。11月に北アメリカ大陸に到着したピルグリム・ファーザーズは、キリスト教徒にとって理想的な社会を建設することをめざした。

 

さて、わたくしのような医者にとっては、進化から見る見方はすべての医療の場での行為の基礎として必須のものであって、それを前提にしなければ医療行為の体系のすべてが根拠を失ってしまう。

だからアメリカにおいてはいまだに進化論を公教育の場で教えるか否かが真剣に議論され、それに代替するものとして創造説もあわせて教えられるべきであるなどということが唱えられていたりするのをみると、ただもうあきれる思いである。

 

しかし、それはわたくしが日本人だからであって、アメリカはいまだに宗教の国なのである。その理解なしにはトランプ現象というのも理解できないのではないかと思う。

それに対して日本は「世間の国」ではあるかもしれないが「世俗の国」である。だから多くの日本のクリスチャンにとってもキリスト教とはもっぱらイエスの教えすなわち新約聖書であって、旧約聖書はイエスの時代に伝えられていた伝承を集めただけの本という程度の認識なのではないかと思うし、なぜ「ヨハネによる黙示録」などというものが新約聖書の末尾に付されているのか、多くの日本のクリスチャンにとって理解不能なのではないかと思う。

概して、日本人にとっての宗教は個人の道徳律を規定するものであっても、集団の統合という指向とは無縁なものである。

 

さて、ここで急に話が変わって日本学術会議の話題となる。

というのも、われわれに何が正しいのかを教えてくれると考えられているもので宗教の対極にあるものとして狭義の科学、広義での学問の世界があると思われているのではないかと思われるからである。

少なくとも多くの学者さんたちはそう考えていて、永遠の相のもとで仕事をしている自分たち学者の神聖な世界に、その時々の利害に基づいて離合集散している汚らしい政治屋ごときが口を出してくるのは甚だ不愉快である、「汚らわしい下郎どもは下がっておれ! この場はすべて自分たちにまかせておけばいいのだ!」とでもいうような芬々たるエリート意識を、わたくしなどは最近の学術会議に関する報道などをみていると、強く感じてしまう。

 

何がいいたいかというと、トランプさんの物の見方・考え方と日本学術会議会員(の一部)の方の物の見方・考え方はどこかで存外、似ているのではないか、ということである。

トランプさんは日本学術会議などというものに微塵も関心を持たないだろうが、日本学術会議会員(の一部)の方は「あなたの物の見方や考え方はトランプさんと似ていませんか?」などといわれたら烈火のごとく怒るであろうと思う。

彼等はトランプ氏の如きは汚らしい政治屋のなかでも最低最悪の部類の保守反動と思っているであろうと思うので、ただただ心外であろう。

 

学者さんはもちろん理科系と文化系にわかれる。

概して日本の理科系の学者さんは政治や宗教の方面にかかわることには《触らぬ神に祟りなし》という極めて日本的な方針で接しているから(欧米で学界に一大波乱を引き起こした社会生物学論争は日本ではほとんど何の波風も立たせなかった)、デネットが「解明される宗教」(原題「呪縛を解く」2006年)というアメリカ人の読者に向けた本を書き、アメリカ人でない読者はこれを読んで「アメリカが置かれている状況について何かを学んでほしい」と望んでいるのをみても、何だか無駄なことをしているなあという受取り方であったろうと思う。

解明される宗教 進化論的アプローチ

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事実、言論は無力であり、デネットさんが何をいっても、その言説は海に捧げる葡萄酒一滴ほどの効果もなく、アメリカはますますこじれ、劣化して現在に至っている。

デネットさんの応援団としてピンカーさんも頑張って、大部の「暴力の人類史」を書き、さらにはこれまた大部の「21世紀の啓蒙」をも書いて、長い目でみれば、人類はよくなってきている、明るい方向に向いていると懸命に読者に語り、悲観的になるな!と鼓舞してはいるが、(少なくとも短期的には)アメリカは暴力の方向に戻り、啓蒙の方向からは退行していっているように見える。

 

それに対し、どうも日本では長谷川真理子さんのような進化論の啓蒙書を書く人は少ない(夫君の寿一氏は日本学術会議の会員だったことがあるようだが)。もともと日本では進化論はただ進化論であって、政治などとは何のかかわりもないものと、あるいは進化はもう常識であって論じるまでもないことと思われているからなのであろうか?

 

それでは文科系はといえば、たとえば憲法学者などというのがいて、その言っていることはわたくしから見ると、ほとんど一本のピンの上に何人の天使がとまれるかに類した現実とはいささかのかかわりを持つようにも見えない形而上学である。

われわれの知るうることは永遠に仮説にとどまるのであり、仮に真理に至ったとしても、それが本当に真理であるとは決して知ることはできないという謙虚な態度はわれわれの周囲からどんどんと失われてきているように思える。「自分が正しい。お前は間違っている。」と互いに罵り合っている。

 

啓蒙とは「おそらく、あなたが正しいので、自分が間違っているのでしょう」とする謙虚な態度をいうのだそうであるが。

 

 

【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)