週のはじめに考える もやもや感が消えない
2020年11月8日 07時32分
「私が目指す社会像は、『自助・共助・公助』そして『絆』です。自分でできることは、まず、自分でやってみる。そして、家族、地域で助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りする」
菅義偉首相が国会での所信表明演説の中でこう述べました。
この意思表明にもやもや感が消えません。それはなぜなのか、社会保障の視点で考えてみます。
自助・共助・公助のいわゆる「三助」は自民党の考え方でもあります。
◆自助と共助と公助と
「個人の創意と責任を重んじ、これに総合計画性を付与して生産を増強するとともに、社会保障政策を強力に実施し、完全雇用と福祉国家の実現をはかる」
一九五五年の立党宣言などにこうあります。個人や民間の活動を軸に政府も役割を担うという意味でしょうか。
二〇一〇年に立党五十五年を迎えて策定した新綱領は明確です。
「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」
「三助」は社会の支え合いの考え方で、これ自体は理解できます。しかし、首相の発言に「自助ばかり求めるものだ」との批判が出ています。
なぜか。その理由は社会状況の変化です。高度成長期は人口も経済力も右肩上がりでした。賃金は上がり、共助は主に企業の福利厚生が担いました。
今は違います。賃金は上がらず、雇用が不安定で低賃金の非正規雇用が増えました。企業にも余裕はありません。子どもたちの七人に一人が貧困状態です。地域のつながりも途切れ、格差が社会の分断を深刻化させています。
そこにコロナ禍が襲いました。仕事を失う人が増え自助の基盤である雇用がやせ細っています。全日本民主医療機関連合会には、生活に困窮し医療を受けられない人から相談が寄せられています。
◆鬼にも「共感する心」
連動するかのように自殺者は増加傾向です。対策に取り組む「いのち支える自殺対策推進センター」によると女性が目立ち、特に八月は女子高校生が増えました。
追い詰められた人が「まず自助」と言われても困惑するのみです。
首相には眼前に広がる人々の苦境が見えているのだろうか。その疑問にもやもやします。
映画も公開された漫画「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」が人気です。その理由をこう考えられないでしょうか。
作品は鬼に家族を殺され、生き残ったものの鬼に変えられてしまった妹を人間に戻すために鬼たちと戦う主人公の姿を描いています。物語の最初にこんな場面があります。
山中で鬼と戦う剣士に妹を見つけられ殺されそうになります。なすすべがなく命乞いをする主人公に剣士が言い放ちます。「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
鬼はこちらの事情を察してくれるわけではない。その脅威は不条理そのものです。自身が強くなって妹を守るしかない、そう叱咤(しった)したのです。
厳しい自助の求めですが、前向きに生きる姿に憧れます。
でも、周囲に視線を移してみると、多くの人は無力です。コロナ禍が現代の鬼だとすれば自助で乗り切れる人ばかりではないことは同じ。支え合いが必要です。
主人公も助け合う家族や仲間をとても大切にします。しかも、元は人間で不遇な過去を持つ鬼たちの生きづらさにも寄り添おうとします。痛みを自分事のように感じてつながろうとする姿に思わず心が熱くなります。
ファンは現実では自助の困難さ、共助の大切さを痛感しているからこそ、主人公の「共感する心」を支持している気がします。
話を戻します。
「三助」について、首相の説明に見当たらないのはそのバランスです。共助には地域のつながりやNPO活動などに加え、保険料を出し合って生活を守る年金、医療、介護、失業給付などの社会保障制度も含まれます。そこから漏れる人を税で支える生活保護や各種の福祉制度が公助です。
あくまで共助、公助は補完的な役割にすぎず中心は自助なのか、あるいは共助と公助が連携して生活を守ることで自助が可能となる社会にするのか。社会保障制度の将来像が見えないことも、もやもやを増幅させています。
◆総合的、俯瞰的な姿を
さらに、首相は「三助」を目指す社会像と言いますが、これらは目的ではなく手段ではないでしょうか。こうした支え合いを通してどんな社会を目指すのか、その姿を示していません。ここが最大のもやもやです。
首相にはコロナ後も見据えた社会像こそ「総合的、俯瞰(ふかん)的」に語ってもらいたい。そう思います。
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