◇
「ああ、お戻りだ。撤収の手配はお願いするよ。……わかっている」
すぐ後ろで、少し早口なデミウルゴスの声がする。
「お待たせしました、どうぞ──」
背後で、デミウルゴスが静かにドアを閉める。
(…………)
背中に視線を感じたが、デミウルゴスのほうを見ることもできなかった。
少しためらったような息遣いが聞こえた直後、数歩で距離を詰めてくる。横から窺うように覗きこまれて、また動揺が深くなった。
しっかりと抱きあげられ、ベッドの上に丁寧に下ろされた。
肋骨を甘噛みされたときにちらりと見えた牙の形が、余裕のなさをにじませながらそれでもちらちらと自分の反応を探っているような目が、どうしても心に浮かんでしまう。
「……あちらで、よろしいでしょうか」
デミウルゴスが視線で指したのは、ときどきゴロ寝にも使うソファだった。
三人は座れるだろうアンティーク調のそれ。猫足の足もとにはオットマンが置かれている。椅子に座ったまま呪言に縛られ、愛撫に溺れていたことが思い出されて何も言えなかった。
なんで最後までしないのか?
──当たり前だ。
デミウルゴスはただ、絡みついた“呪いの糸”を解きほぐそうとしていただけだったんだから。レイスの姿にならなければその糸はデミウルゴスにも見えないのだと聞かされて、ようやくすべてに納得がいったのだ。
「アインズ様……」
わずかな焦りをにじませて、デミウルゴスが決断を促してくる。
いつも、まず最初にあれをやろうとしたのは性格的なものだったんだな、と思う。そうしないと安心できなかったんだろう。
だけど今は本当に時間がない。デメリットが働くのは夜明けだとわかっていた。
わかっているけれども。
「──少し、待ってくれ」
「……⁉」
「着替えてくる」
「ですが……‼ いえ、どうか──お急ぎください」
不安そうに佇むデミウルゴスを残して、ウォークインクローゼットに逃げ込んだ。
後ろ手にドアを閉め、4坪程度の空間でアインズは緊張と羞恥を長々しく吐き出した。あまり時間はかけられない、と思う。デミウルゴスを待たせているのだから。
(何か、適当に選んで……)
本当は着替える必要などない。
ただ、レイスになっていた時の自分の痴態を頭から追い出す時間が欲しかっただけだ。空間を圧迫するほどにみっちりと吊られた装備の数々をいちいち見るような気も起きないが、着替えると言った手前、何か選ばなければならなかった。
(……っと)
装飾過剰な引出しの、上に積まれていた箱に肘をひっかけてしまう。
音を立てて床に散らばった化粧箱を拾おうとして、アインズの手がぎくりと止まった。箱から飛び出していたネックレスを、震えるようにそっと持ち上げる。
◇
お持ちになるがいい、と。
ほとんど投げて寄越すようにして、ジルクニフはそう言ったのだ。シモベたちには『贈られた』と言っているが、そんな綺麗な話ではない。
バハルス帝国に現在の皇帝が立った日──。
新皇帝の即位式典に出席したあと、アインズはジルクニフの私邸を訪ねていた。これからは自由な時間も多くなる。ナザリックにも時々遊びに来てくれればいいと誘うつもりだった。
なごやかな会談がおかしな流れになっていったのは何がきっかけだったか。
新しい皇帝はジルクニフの実子ではなかった。
正妃は失踪し、愛妾たちとの間にできた子らも政争の荒波に飲まれて消えていった。だがそのことについてジルクニフは、己の血を受けた者が魔道国の支配下に置かれるよりはずっとマシな結果だ、と言ったのだ。
「本当に友人だなどと思っていたのか? 私はあなたや、部下の方々と会うたびに胃を傷めていたんだぞ」
出会った頃よりも随分痩せた、という印象はあった。
だが、こけた頬に土気色の膚……目だけが爛々としていたあの時の彼は狂ってしまったんじゃないかと疑うほどで。
「指先ひとつ、言葉ひとつで簡単に私を殺せる者に、圧倒的な支配者を相手に、本気で友情を結べるほど私は豪胆じゃない。いつも薄氷を踏む思いで接待に務めていただけだ」
会いに行けばいつも楽しげだった。
統治についての考え方や手腕、支配者としての立ち振る舞い……多くのことを教えてもらったし、お忍びでの遊びにも快くつきあってくれた。「喜んでくれたなら嬉しい」「役に立てたなら光栄だ」と何度も言われた。
無理をさせていたなんて考えもしなかった。
「どれだけ否定しようが、権力者とはそういうものだ。ご存じなかったか? 人をねじふせ、従わせ、いるだけでプライドも意思も踏みにじる。民は支配者の心にではなく、権力に従っているのだよ」
この異世界でも、友人は作れるんじゃないかと思い始めていた。
「余生は平和に暮らしたいんだ。あなたがたに心乱されることなく、な」
そう言って、ネックレスをほとんど投げるように寄越してきた。
ジルクニフは特に、デミウルゴスの能力を恐れていたらしい。いつも身につけていたというそれは、いわばジルクニフの命綱のようなものだったはずだ。
どうしてそれを、と戸惑ったけれど。
「私にはもう身を守る物はない。エル-ニクス家も私の代で終わりだ。何も失うものもない。無礼者に直接手を下すのもお嫌なら、ご自慢のシモベでもなんでも差し向けてくればよかろう。だが、私をまだ友人だと思われたいなら今後は関わらないでくれ」
(嫌なことを思い出したな……)
ウォークインクローゼットの床に膝をついたまま、かざしたネックレスを見つめてアインズはそう思った。あの時に受けた衝撃はまだトラウマとして残っている。
シモベたちが心を獲得していくごとに、どこかで恐ろしいと感じている自分がいた。
「それを渡すのは最後の信用だ。魔道国の方が次に私の前に現れたなら……それを差し向けたあなたはやはり、人の心がわからない化け物だったと思いながら殺されるだけさ」
恐怖が、あるいは屈辱感が、好意を超えてしまっただけなのかもしれない。
だけどジルクニフは頭がよかった。あれは完全な平穏を手に入れるための策だったのかもしれない。こっちの好意を逆手にとった──
(わからなかったんだ、本当に)
今でもわからない、と目の前で揺れるネックレスをけぶるように見つめる。
本当に楽しかったから、実は嫌われていたなんて考えたくもなかった。ナザリックの者たちほどではないにしろ、ジルクニフは結構好きだった。
心の中が見せられたなら、あんな思いはしなくて済んだのかもしれないけど……
「アインズ様」
「──ッ‼」
いきなり間近で聞こえた声に、びくりとすくむ。
肩口から伸びてきた手が、アインズの手からネックレスを取り上げた。
「あっ……」
「夜が明けてしまいます。どうか、お早く」
見上げればデミウルゴスが眉根を寄せている。
彼が遠ざけるネックレスを、アインズの視線が少しだけ追いかけた。
「どうか、このようなもののことはお忘れください」
「──……」
「誓って呪言など使用しません。ですから、どうか……‼」
ここに、心があって見えるものなら
そう言ったのはこいつだったよな、と。
苛立ちを必死でおしこめているようなシモベの顔を見上げながら、アインズは自嘲めいた気分でそう思った。