春先からのステイホームで「読書をする時間ができた」と意気込んで買った本が、そのまま「積(つ)ん読」になっている人も多いのではないか。
読書週間は今月9日まで。気になりながら手に取れていない本。ページを開いたものの途中で挫折してしまった本。きちんと読んだはずなのに内容を思い出せない本。読書の悩みは尽きることがない。
そんな人たちの肩の荷を下ろしてくれそうなのが、春に刊行された「積読(つんどく)こそが完全な読書術である」だ。
著者で書評家の永田希(のぞみ)さんは「読書は本来すべて不完全なもの。やましさを感じる必要はない」と説く。積ん読の効能は、負け惜しみのようなものも含めてときおり耳にするが、ここまで堂々と主張されると何とも心強い。
どんなにまじめに読んだとしても、読み落としや記憶違い、記憶の欠落は避けられない。実質的にはすべての読書が拾い読みや曲解でしかない。だから、本を積んだまま眺めたり、書評だけを読んだり、本を読んだ人に感想を聞いたりするだけでも、立派な読書活動の一つといえるのだ――と。
電子書籍も変わりはない。題名や内容を見聞きしたり、関心を持ったりした時点で読書はすでに始まっているという。
そう考えると、だいぶ気が楽になる。今年の読書週間の標語は「ラストページまで駆け抜けて」だが、最後までたどり着くことにこだわる必要はないかもしれない。文字どおり「駆け抜け」て、ざっと読むことにも意味はありそうだ。
言葉をかみしめながらページをめくる醍醐(だいご)味は、それはそれとして大切にしつつ、そのときどきの気分に身をゆだね、自分流で本と対話したい。
それでも読んだ内容を忘れてしまうのは情けないし、時間を返してと言いたくなる。そう思う人にはこんな一節を。
今年の英ブッカー国際賞の最終候補に残った小説「密(ひそ)やかな結晶」で、著者の小川洋子さんが、記憶の消滅が起きる架空の島に生きる登場人物に語らせている言葉だ。
「(記憶は)姿を消したように見えても、どこかに余韻が残っているんだ。小さな種のようなものだ。何かの拍子にそこへ雨が吹き込むと、また双葉が出てくる。それにたとえ記憶がなくなっても、心が何かをとどめている場合もある。震えや痛みや喜びや涙をね」
心の奥底に沈んだ本の記憶も、いつかひょっこりと顔を出してくれるかもしれない。そんな思いがけない再会もまた、読書の楽しみだろう。
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