老年
老年
1求婚
大河内明美は47歳になるキャリアウーマンであった。
仕事の内容は編集である。
大河内明美は一度離婚したことがある。
大学を出て、出版社に勤めて、仕事の上で知り合った作家の男と結婚したが、二年ほどして離婚した。
理由は作家の男の注文がうるさくて耐えられなくなったからである。
ご飯はササニシキ、夕食には焼き魚、酒は越乃寒梅、おやつはシベリヤとすべての事柄にルールがあり、それを守らないと機嫌が悪くなるのである。
その作家の男は、作品は優れたものを書くので、別れて以降も、仕事の上で今でもつながりがある。
その作家の男は再婚したが、妻となった女は今でもその作家の男の定めたルールを守っているのか、それともルールをまったく無視しているのか大河内明美は興味津々であったが、聞いたことはない。
だから、大河内明美はもう結婚はこりごりだと思っていた。
一人で暮らすことが自分の定められた運命だと思い、受け入れていた。
けれども、ある日、突然求婚された。
求婚したのは出版社に入社して一年の大河内明美の部下の柏木荒太(かしわぎ・あらた)である。
柏木荒太は身長180センチ、体重70キロ、東京大学法学部を出て、司法試験にも在学中に予備試験を受けて合格していた。
高校は都内の名門公立高校である。
大河内明美の勤める出版社「林檎書房」は日本でも一流の出版社であった。
新潮社、岩波書店、文藝春秋、講談社、みすず書房と並ぶ老舗であったが、これまで東京大学法学部を出た法曹資格を持つ男が入社したことはなかった。
せいぜい、早稲田や慶応の文学部、時々東京大学文学部を出た人間が入る程度であった。
大河内明美自身は上智大学外国語学部英文科を出ていた。
趣味としてバイオリンを弾いていた。
大河内明美は不意の求婚にとまどった。
しかも、男は大河内明美の所属する文芸二課の部下である。
文芸二課とは文庫本を扱う課であった。
すでに林檎書房から単行本として出た小説を一年半ほどしてから文庫化する。
すでに評価が定まった本を出すので割合に暇な仕事であった。
柏木荒太は給湯室でお茶を飲んでいる大河内明美に言った。
「部長、私と結婚してください」
大河内明美は柏木荒太が何を言っているのかよくわからずに問い返した。
「柏木君は、私と結婚したいと言ったのですか」
柏木荒太は言った。
「はい、言いました」
大河内明美は言った。
「あなたは結婚という言葉の意味をわかっているの。結婚とは男女が夫婦となることを言うのよ」
柏木荒太は言った。
「知っています。僕は東京大学法学部を出た男です。日本語は知っています」
大河内明美は言った。
「柏木君は私をからかっているに違いない」
柏木荒太は言った。
「いいえ、僕は昨年、東京大学で行われた就職ガイダンスで部長を見てから、あなたのことが忘れられず林檎書房に入社したのです」
大河内明美は昨年、東京大学で行われた就職ガイダンスに、人事部から頼まれた出席したことを思い出した。
暇な部署の部長ということで、指名されたのであった。
そこで大河内明美は編集の仕事の魅力を語った。
翌年、東京大学から入社したのは柏木荒太だけであった。
大河内明美は尋ねた。
「私とあなたの年齢差はいくつか知っているの」
柏木荒太は言った。
「私は22歳です。部長の歳はいくつか知りません」
大河内明美は言った。
「私は47歳よ。あなたとの間は四半世紀の違いがあるわ」
柏木荒太は言った。
「そんなことは僕は気にしません」
大河内明美は言った。
「私は気にするわ」
柏木荒太は言った。
「では、歳の差がなかったとしたら、結婚してもらえましたか」
大河内明美は答えた。
「もし、同じ歳の若者だったら、私はあなたの求婚を真剣に考慮したことでしょう。あなたは完璧な経歴と容姿を持った将来有望な人間だもの」
柏木荒太は言った。
「年齢の差なんて何の問題にもなりません」
柏木荒太は歌い始めた。
何億光年輝く星にも寿命があると
教えてくれたのはあなたでした
季節ごとに咲く一輪の花に無限の命
知らせてくれたのもあなたでした
last song for you
last song for you
約束なしのお別れです
last song for you
last song for you
今度はいつと言えません
あなたの燃える手あなたの口づけ
あなたのぬくもりあなたのすべてを きっと私忘れません
後姿みないで下さい
Thank you for your kindness
Thank you for your tenderness
Thank you for your smile
Thank you for your love
Thank you for your everything
さよならのかわりに
眠れないほどに思い惑う日々熱い言葉で
支えてくれたのはあなたでした
時として一人くじけそうになる心に夢を
与えてくれたのもあなたでした
last song for you
last song for you
涙をかくしお別れです
last song for you
last song for you
いつものようにさり気なく
あなたの呼びかけあなたの喝采
あなたのやさしさあなたのすべてを
きっと私忘れません後姿みないでゆきます
さよならのかわりにさよならのかわりに
https://youtu.be/TAh8zPDw7o0
歌い終えると柏木荒太は言った。
「部長、もう一度私の提案を考えてみてください」
大河内明美は茫然とした。
2 電話
その日、一日、大河内明美はぼんやりして過ごした。
幸い大河内明美は部長であり、ピリピリしているよりもぼんやりしているくらいの方が仕事が回った。
大河内明美は午後7時に会社を出た。
文芸二課は暇な部署なので、作家への接待がない時はいつもこの時間に会社を出て、帰宅するのである。
大河内明美は会社を出ると携帯で電話をかけた。
大河内明美はファーウェイのスマホを使っている。
最近の携帯は手のひらに余るほど大きいが大河内明美は左手にスマホを持ち、的確にある番号を指で次々に押した。
「はい、上林夕暮(かんばやし・ゆうぐれ)です」
男の声がした。
「もしもし、大河内明美です」
大河内明美は名乗った。
「やあ、君か、最近ご無沙汰をしているね。新しい文庫の話かな」
出たのは大河内明美の元の夫の作家であった。
「いいえ、あなたに相談したいことがあるの」
上林夕暮は言った。
「君が僕に相談したいこととはなんだろう」
大河内明美は言った。
「とても繊細な問題よ」
上林夕暮は言った。
「では、うちに来てくれ。明日の夜でどうだ」
大河内明美は言った。
「あなたはまだあのマンションに住んでいるの」
上林夕暮は言った。
「君が出て行ったままだよ」
大河内明美は尋ねた。
「新しい奥さまがおられるでしょう」
上林夕暮は言った。
「妻も君と会えれば喜ぶだろう」
大河内明美は言った。
「では、明日7時過ぎにうかがいます。
夕食は済ませて行くから気を使わないでください。
お茶だけでよろしいわ」
上林夕暮は言った。
「待っているよ」
3決断
大河内明美は午後7時半に上林夕暮のマンションを訪れた。
24の時から2年間このマンションで上林夕暮と暮らしたものであった。
けれども、再び訪れたのは初めてであった。
上林夕暮の二度目の妻のソフィアが明美に言った。
「ようこそ、おいでくださいました」
ソフィアは大河内明美が卒業した上智大学外国語学部に留学するために日本に来たポーランド人であった。
日本語学科で上林夕暮の小説を研究するために上林夕暮の元を訪問し、結婚することになったらしい。
ソフィアがお茶を置いて部屋を去ると大河内明美は言った。
「美しい奥さまね」
上林夕暮は言った。
「ありがとう」
大河内明美は尋ねた。
「奥さまはいくつなの」
上林夕暮は言った。
「まだ25だ」
上林夕暮は53歳だった。
大河内明美は言った。
「28歳差ね」
上林夕暮は言った。
「そうなるね」
大河内明美は言った。
「幸せそうで安心したわ」
上林夕暮は言った。
「ありがとう、ところで君の相談と言うのはなんだい」
大河内明美は昨日、部下の柏木荒太に求婚されたことを話した。
上林夕暮は言った。
「嘘だろう」
大河内明美は言った。
「嘘じゃないわ」
上林夕暮は言った。
「47歳のおばさんに、東京大学法学部を出て、法曹資格を持った22歳の男に結婚を申し込まれることはあり得ない」
大河内明美は言った。
「どうして」
上林夕暮は言った。
「47歳はもう女としては下り坂だ。好んで結婚する22歳の男はいない。いたとしたら君の貯金目当てだろう」
大河内明美は言った。
「私には貯金はそんなにないわ」
上林夕暮は言った。
「それはどっきりだろう。君はからかわれているんだ」
大河内明美は言った。
「ずいぶん、私のことを悪(あ)し様(ざま)にいうのね」
上林夕暮は言った。
「ごめん」
大河内明美は言った。
「いいわ、それで踏ん切りがついたわ」
上林夕暮は尋ねた。
「どんな踏ん切りがついたというのだ」
大河内明美は言った。
「今にわかるわ」
4日だまり
大河内明美は柏木荒太の求婚を受け入れた。
その理由は「女としては下り坂」の自分がそうではないということを、上林夕暮に見せつけるためであった。
それに考えてみれば、それは悪い話ではなかった。
少なくとも将来夫の介護の心配はいらないだろう。
大河内明美が上林夕暮のマンションを訪れた翌日、給湯室で柏木荒太にOKの返事をすると柏木荒太は言った。
「ありがとう。大切にするよ」
大河内明美は言った。
「お願いします。旦那様」
大河内明美はこうして柏木明美となった。
柏木荒太は林檎書房を退社した。
これは夫婦で同じ会社に勤めることは内規で禁じられていたからである。
その代わり結婚した者には結婚手当として二割給与が割り増しとなる。
柏木荒太は都内の大手の弁護士事務所に所属し、主に離婚訴訟を扱うことになった。
驚いたことに翌年大河内明美は新しい命を授かった。
美しい男の子が生まれ、柏木荒太は「莉一(りいち)」と付けた。
これは指原莉乃のファンだったわけではなく、麻雀の「リーチ」から取ったのである。
大河内明美は育児に専念するために林檎書房に育児休暇を二年間申請して認められた。
手のかかる二歳児の時期を過ぎると仕事に復帰したが、もはや文芸二課の部長ではなく、給湯室長に任命された。
給湯室長は社内の人のためにお湯が沸いているか確かめたり、お茶の葉っぱを仕入れる係である。
大河内明美は60歳の定年まで、給湯室長を無事に勤めた。
その頃には柏木荒太は弁護士として一人前になり、独立して事務所をかまえるようになっていた。
息子の莉一は12歳となり、サッカーに熱中していた。
退職して家の窓から外の日だまりを見ていると自分にこのような穏やかな老年が訪れるとは思ってもいなかった。
これもすべて上林夕暮のおかげだと思うと大河内明美はおかしくなった。
大河内明美はひそやかに歌い始めた。
「愛してる」っていうあなたの言葉は
「さよなら」よりも哀しい
これ以上何も言わなくていい
だからこの夜を止めてよ
呼吸(いき)するみたいに
ふたりは出会ったね
疑いもせずに傷つけ傷つき
痛みこそ愛だと信じてきた日々
声をひそめながら
ふたりだけの秘密を
ひとつずつ増やすたび
つくり笑い心で泣いてる
おなじ色の夢みていたいのに
ちがう道に離れてく
出会いのときを選べないのなら
せめてこの夜を止めてよ
大きな背中を見つめていられたら
それでよかったのに
どんなに激しくあなたを愛しても
答えはみえない
終わりにしたいのなら5秒だけください
目を閉じて深呼吸
その間に忘れてあげるわ
「愛してる」っていうあなたの言葉は
「さよなら」よりも哀しい
これ以上何も言わなくていい
だからこの夜を止めてよ
あまい過去の記憶なんて
わたしは惜しくな い
かたちのある未来なんか
しがみつきたくはない
おなじ色の夢みてたつもりで
ちがう道を歩 いてた
別れのときも選べないのなら
せめてこの夜を…
「愛してる」っていうあなたの言葉は
「さよなら」よりも哀しい
これ以上何も言わなくていい
だからこの夜を止めてよ
ねえお願いこの夜を止めてよ
https://youtu.be/vMk81-Y_cYU
おしまい
写真は児島みゆきさん
小説の内容とは無関係です
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