100年以上前のキリスト教世界の人々は、マスターベーションや性倒錯は罪であると言った。当時は性がほとんど医療化されていなかったが、かわりにキリスト教が性道徳を厳しく管理していた。
20世紀後半に一時的に緩んだものの、現在の日本もまた(かつてのキリスト教世界とは異なるかたちで)性道徳が厳しくなり、性のタブー視が進んでいるのではないだろうか。親や教師は子どもの性教育や性行動を持て余し、社会もまた、猥褻なものを少しずつ社会の辺縁へと押しやってきた。低用量ピルもいまだ普及しているとは言えない。性的なコンテンツこそ豊富にあるものの、それらの社会的位置づけは貶められているに等しい。猥談は笑って済ませるものではなく、ハラスメントとして告発されるものとなっている。かつては「不倫は文化」などと言っている芸能人もいたが、2020年に同じことを言えば、その芸能人は不道徳とみなされ社会的制裁を受けるだろう。
そしてキリスト教道徳に替わって私たちの道徳判断の基準になっているのは、資本(主義)とそれを追求するための効率性や生産性だ*3。効率性や生産性の乏しい人や行動に対し、社会は、人々は、厳しい目を向ける。生産性を低下させるたぐいの男性性欲は、効率性や生産性の道徳基準からみて正しくない欲求、矯正しなければならない欲求である。
健康的で清潔で道徳的な社会に男性性欲の居場所なし
こうやって振り返ってみると、男性性欲のうち、少なくとも個人や社会の効率性や生産性に悪影響をおよぼし、本人や周囲が苦しむものに関しては、医療による治療や管理の対象になっていく可能性は十分にあるように思える。なぜ今まで医療化の標的とみなされていなかったのか、不思議に思えることさえある。
ではなぜ、男性性欲が医療化されてこなかったのか?
ひとつには、男性性欲に衝き動かされる行動が過去には好ましいとみなされていたからでもあろう。
男らしさの歴史 II 男らしさの勝利 〔19世紀〕 (男らしさの歴史(全3巻))
- 発売日: 2017/03/23
- メディア: 単行本
アラン・コルバンらによる『男らしさの歴史』には、今日の日本でなら犯罪や迷惑やハラスメントとみなされるだろう性的な振る舞いが、男性にとって望ましいとされてきた歴史が綴られている。そうでなくても、近代以前の性風俗は現代よりおおらかで、猥談や性的接触が街や村にあふれていた。そのような社会状況のなかでは、みずからの性的機能をアピールできない男性は男らしくないとみなされかねず、沽券にかかわる問題だった。
もうひとつ、医療や道徳を司る立場を長らく男性が独占したことに伴って、男性性欲が管理や道徳のまなざしを免除されていた、という一面もあるのではないかと個人的には思う。 上掲ツイートにあるように、男性は、女性の生殖や性欲を管理してきた。はじめは腕力や宗教や道徳で。現代では医療によって。他方、男性自身に対しては男性性欲の奔放さを許容してきた。もちろん「男性性欲に奔放さが許容されてきたこと」と、「男性が異性獲得競争に勝たなければならなかったこと」や「男性が性的機能をアピールしなければならなかったこと」は表裏一体の問題ではある。いずれにせよ、男性性欲を管理の対象とする歴史は、女性の生殖や性欲を管理の対象とする歴史に比べれば短く、ここには不平等が潜在している。
だとすれば、たとえば女性目線で男性性欲を腑分けすることによって、これまでは議論されてこなかった男性性欲の問題、管理されるべき問題が詳らかになることだってあり得るのではないだろうか。男性自身は気づきにくいが女性ならば気付き得る、男性性欲に伴う認知や行動の歪みはあるように思う。それはまだまだ研究されていないし、管理されてもいない。健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会にふさわしい男性性欲のテンプレートは、女性からの目線によって彫琢されていくのではないだろうか。
そうやって男性性欲が検証され、研究され、それに伴う認知や行動の歪みがマネジメントされ、男性自身の苦しみが解消されれば、男性はより生産的で合理的な個人へ、より正しい個人へと生まれ変われるだろう。すべての男性が、女性や子どもからみても安心できる男性、迷惑や脅威や不快感を与えない男性になるとしたら、それはハーモニーにみちた、すばらしい新世界ではないだろうか。
それだけではない。男性性欲にともなう認知や行動の歪みを検証・研究し、苦しんでいる男性に手を差し伸べた医療者は、プレステージを獲得し、学界にポジションを獲得するだろう。製薬会社は利益を、社会は生産的で効率的な男性労働者とGDPを得る。男性性欲を医療化してしまったほうがみんなが得をするし、みんなが道徳的になれるのだ。自分自身の男性性欲を後生大事にしているような、時代遅れの一部の男性以外の皆が、この変化から恩恵を受け取り、恩義を感じることだろう。
だとしたら、男性性欲は、いまだ手付かずのままの金鉱脈ではないか?
考察を続けるうちに、私は、男性性欲に悩む男性に救いの手をさしのべ、社会の生産性を高め、より安全・安心で道徳的な社会を主導する唱道者になりたいものだ、という誘惑をおぼえた。誰からも感謝され、どこからみても正当性を獲得できそうな、そういう金鉱脈が目の前で無防備な姿をさらしているのではないか。悪魔が、もとい天使が"『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』みたいな本を書くより、悩んでいる男性を救うために、社会の生産性や効率性に貢献するためにあなたも奉仕してはどうですか"と耳元で囁いている気がする。
もちろん最後のパラグラフは冗談なのであしからず。
だが私よりもこの問題をよく知り、私よりも社会に貢献したくてウズウズしている誰かがいれば、きっと男性性欲は医療化されていく。そして歴史を振り返る限り、そういう誰かは必ず出てくる。
*1:性嗜癖、いわば調子が悪かった頃のタイガー・ウッズが陥った状態はこれにいくらか似ているが、これも現時点ではDSM-5の性機能不全群に含まれていない
*2:実際には、新石器時代の女性はもっと妊娠や授乳に人生の多くを費やしていて月経が起こる頻度が少なかった、という話もある。もっともその場合、妊娠や授乳を繰り返すことに伴って別種の身体的問題が女性について回っただろう
*3:マックス・ヴェーバー『プロ倫』風に考えると、資本主義的道徳とキリスト教道徳は繋がっているわけで、深堀りすると楽しいのだが、ここでは踏み込まない