こんにちは!先輩

申神正子先生
綜合病院山口赤十字病院女性診療科部長

「こんにちは!先輩」

こんにちは!申神正子でございます。ああ、読み方、わかりづらいですよね、「さるがみまさこ」と読みます。結婚してこの姓になったのですが、名字が珍しいので、患者さんにはすぐ覚えていただけます。出身は、明治維新胎動の地、萩市でございます。吉田松陰先生の教え、至誠のこころ持ち、相当まじめな学生時代を経て、大学は、国引きの神話の里、八雲立つ出雲の国、島根医科大学に進学いたしました。

 出雲市での学生生活は、自然豊か、歴史とロマンに満ちあふれ、穏やかに過ぎておりました。教養2年が終了し、学部に進み、まず解剖実習が始まりました年の夏休みでございます。4年生の先輩がたから「うちの解剖学、田中教授は世界でも名だたる胎児コレクションをお持ちだ、胎児解剖の手伝いをしてくれまいか、アルバイトにもなるよ。」これに飛びつきました。それが、今思えば胎児との出会いであったと思います。妊娠8週程度の胎児から、10ヶ月までの胎児のご遺体。これを丁寧に解剖し、計測。そして各臓器を包埋し、病理学的に記録してゆく、その作業です。これは、かなり勉強になりました。発生学を実際手にとって確かめることが出来たのですから!

 その経験もあってか、ああ、それと産婦人科の先生方の強いラブコールと毎晩の晩ご飯に負け(笑)、産婦人科学教室入局を決めました。最初はそこまで強い意志もなかったように覚えております。内科的なことと外科的なこと、両方出来るな、そんな程度です。

 しかし、現実はタイヘン厳しゅうございました。どの科も決して研修医の時代は十分眠ることなんて出来ません。ええ、今のように研修医の健康を最優先にプログラミングなんてされていません、見て、触って、経験して、盗んで覚える、こんな時代です。

 こと、産婦人科は、生命の誕生という特別な場面、重大な責任をもち臨む決意を要する科でございます。それを、上司から実体験としてすり込まれました。妊婦さんが入院されましたら、ずっと付き添い、経過を追い、助産師や看護師がやる仕事まできっちり教え込まれました。寝てなんかおられません。指導医は今でも親しくしておりますが、あのころ、それこそ寝食を共にしながら教え込んでくださったおかげで、今があると思います。

 大学から、修行のために移った福山の個人産婦人科病院では、年間1000例以上の分娩数があり、ここでも、そこの院長に「男性にはなれないのです、もとから。だから、男のように振る舞うのではなく、女性らしく医師でいなさい、ですが、いわゆる女性の悪い面を出してはならない、女性だから出来る医療をしなさい。」と指導され、最初はがむしゃらにやっておりましたが、徐々にその意味がわかって参りました。院長には、診療の疑問点はもちろんのこと、患者さんのバックグラウンドまで慮りながら診療する姿勢を学びました。

 私は絶対に結婚はしないぞ、結婚生活なんかしていたら仕事出来ない、赤ちゃんはかわいいが、自分が妊娠することを想像できない、そう言っては、ともに働く助産師や看護スタッフから「一度は経験してみなさい」とおしかりを受けておりました。

 そうしておりましたら、交通事故にあったようなもので、今の主人と知り合い、入籍、すでに34歳。不妊治療で一児を授かることができました。35歳高齢初産でした。

 分娩して一年は、院長が育児休暇をくださいました。今思えばあの頃が、人生初めてゆっくり毎日を過ごした日々であったように思います。しかし、毎日変化する我が子の表情を喜びながら、現場から取り残されたような不安感が同じく心の中に存在する、不思議な一年間でもありました。
一年経過し、最初は時短勤務で再開でしたが、結婚して山口市から福山市までの通勤です。かなり辛いです。取り残された一年間を取り戻すためにがむしゃらにやります。焦るばかりです。子供は保育園に預けていましたが、急な発熱の際には、私は身動きできませんから、主人が対応しておりました。ぎりぎりの生活の毎日で肺炎を年に3回起こし、体重も激減。育児もまともに出来ない、出来損ないのお母さん・・・という負い目。これ以上の通勤はムリと判断し、今現在の山口赤十字病院に勤務となりました。

 そうなったらそうで、最初はフルタイムで勤務、一月7~8回の当直と7~8回の待機。当直は宅直ではございますが、呼び出しの電話で子供は起きて泣くものですから、リビングで毛布抱えて仮眠です。朝食を作るのも、相当前に病棟に連絡し、時間計算して家事、朝食の準備、主人の弁当作り・・・・・帰宅しようとして急患、その連絡さえ出来ずに家族に迷惑をかけ、自己責任にかられる。仕事場では、出来損ないの医者だ、家でも、出来損ないのお母さんだ。息が切れてきました。主人が、「もともと夫婦なら育児なり家事なり出来ることだろうが、それをなぜに他人に、親に頼らんとならん」という考えの持ち主ですので、気合いいれて両立しようとしましたが、ついに糸が切れ、いったん今の職場を離れました。

 一年間、これまた北九州へ新幹線通勤でしたが、時間には必ず帰宅できましたので、子供、家庭に集中することが出来、切れた糸が元に戻る期間でもありました。

 山口日赤を離れ、病院自体が厳しい状況におかれてから初めて、職場の条件も、医師数を増やす等の対処があり、これなら、一緒に頑張れるだろうと、山谷乗り越え、今の職に復帰しました。子供が小学校入学と同時にフルタイム勤務、すべて男性医師と同じ条件で働き始めました。そうすることで、やっと同じ位置に立てるのですから。

 「子供はやがて大きくなるから、がんばって!!」これが、先輩女性医師の言葉でした。
今は、子供もようやく中学生になり自分で出来ることが増えてきました。そこで今頃、ようやく自分を振り返り考えるのです。

 ワーク・ライフ・バランスって、なんなのでしょう。
いかに毎日の生活をスリムにするか?でしょうか。
でも、しなくちゃならないことは、
1. 本来の仕事
2. 依頼された仕事やらなんやら
3. 地域のあれこれ
4. 所属する会の責任任された仕事 ようやく、
5. 家事、子育て

我が子は・・・
母の背中は見ているだろうか
母が笑えているかどうか、見ているだろうか
母が生き生きとしていることは、どういった場面か見ているだろうか
せっかちで、時間に追われ、外面を気にして、実は余裕のない母と思われてはいまいか。

朝のNHK連続ドラマ、「とと姉ちゃん」も、「べっぴんさん」も、奇しくも今年は女性が働く、をテーマにしたもの。

 かたや、結婚せずにひたすら仕事に没頭、様々な苦悩、悲しみ乗り越え実りある生涯となり、かたや、進行形ではあるが、結婚、育児、家庭を持ち、悩み苦しみ、実りある生涯となるだろう。
見えてくるのは、こんなこと。
「自分だけで出来ることは限界がある。でもちょっとした助け合いで少しはうまくいく。こうありたい、こうあるべき、はあっても、諦めなくちゃならないこともある。自分だけですべて上手くいくなんて、あり得ない。お互い様があって、思いやって、解決するのだ」なぁと・・・・・
すこしでも、心からの笑顔になれるような、そんな時間やらがあると、次につながるエネルギーになると思うのです。それは、仕事の現場での患者さんとのやりとりからも受け取ることが出来ます。仕事外の他業種の方からの刺激であったり、趣味に没頭して達成感を得ることであったり。そうそう、山口日赤に復帰してからは、歴史の勉強や、ずっと離れていたピアノの練習も始めてみました。それも、心身のバランスをとるファクターになってくれています。

女性は、いくつものハードルを越えて前進しなくてはなりません。仕事を持ちながら、結婚、出産、子育て、介護。大変です。
1度しかない人生を、納得のいくように生き生きと過ごせるためには、起こることはすべてに意味があると信じ、自らの頭と手足を使って工夫し、「自分だけのワーク・ライフ・バランス」を作り上げていくことが大事だと思うのです。毎日が泣き笑いですけどね。偉そうに言いながら、悩んで戸惑い、叫ぶこともありますけどね、それら全てに意味があると。

プロフィール

現職
綜合病院山口赤十字病院女性診療科部長
出身地
山口県萩市
出身大学
島根医科大学医学部(現島根大学医学部)
卒業年
1997年