思 い 出

三用千秋先生
2015.8







 原稿依頼の封筒が届いてから、三寒四温の月日が流れて早や緑と微風の5 月、過ぎ去った過去の流れが走馬灯のごとく頭の中をよぎればよいのだが、長年に亘る在職のせいか各学年の生徒の名前と顔がなかなか頭に浮かばず、過ぎ去った60 年の記憶を呼び戻すのには多くの時間が必要だった。

 この三六会の学年には3 つの大きな事件というか、思い出がある。

 1 つ目は昭和32年の4 月に一緒に着任した三浦敦先生のことである。学年主任の仕事が多忙になり、山岳部顧問の責務を果たすことが困難になったので手伝って欲しいという事で、一緒に山登りをすることになったが、それも長くは続かなかったのである。


 
というのは広島に投じられた原子爆弾の放射能による病気で入院することになったからである。 病気のよくなるのを祈りながら生徒と共に輸血をしたが、その願いもむなしく、35 年6 月28 日帰らぬ人になってしまった。

 その後、先生の遺言どおりに吾妻・飯豊・朝日の頂上に遺骨の一部を埋葬し、ケルンを積んだ。 毎年登る度に、崩れたケルンを積み直して冥福を祈ったが、今はそれも出来なくなったのは寂しい限りである。

 2 つ目は、学校登山で起きた赤痢事件であるが、33 年5 月30 日は大変良い天気に恵まれ、吾妻登山に向かう途中、小白布で休憩昼食を取った。 生徒達は汗をかいたので、冷たい川で顔や手を洗ったりしたが、これが仇になるとは「知らぬが仏」で、上流の大白布で赤痢患者が発生していたのだ。

 下山してから生徒の欠席が目立ち、赤痢患者が発生し、私は生徒と共に宮内病院に隔離入院、家には保健所の職員が来て、池と周囲の水溜まり、井戸水、そして手洗い等を一斉消毒、家の前には赤紙が貼られ、隣近所に大変な迷惑を掛けてしまった。

 3 つ目は、興譲館高校の教育課程の中に、芸術教科音楽(後に美術教科を設置)として正式に置かれたのは、これが初めてのことだったと思う。


 
 講堂から体育用具室(音楽室に改造)に移動、教具も教材もゼロに等しい音楽環境の中で音楽教育ができるだろうか、と不安もあったが授業もクラブ活動(合唱)を情操教育の一つとして、これからの長い人生の中で音楽を愛好する事のできる生徒を育てたいという気持ちでいぱいだった矢先、生徒の中からバンドを作りたいという希望と、学校側としても応援活動を強化したいという事で、この学年の卒業記念品として吹奏楽器一式(10 名編成)を贈ったのがこの学年である。

 翌年に吹奏楽部が誕生。以後の興譲館高校が米沢市や置賜地域の音楽活動のリーダーとして活動するには、地域全体の活動を高める必要があると思い、NHK米沢放送合唱団、米沢市民オーケストラの設立と指導、市役所音楽隊の指導や市内の各合唱団の指導等によって市民の音楽文化活動に対しての関心と理解は深まっていったと思う。

 特に興譲館高校の第一回定期演奏会は地域の中学、高校に大きな影響を与え、卒業生を中心にして設立した社会人の吹奏楽愛好会の活動は地域の活性化に大きく貢献を成し遂げたと思っている。

 3 つのクラブの顧問として、長年、指導育成の携われたのは、若さと情熱ばかりでなく優れた生徒と教職員、保護者等多くの人の協力があったからと感謝しております。