「11月1日」
「11月1日」
初めに、僕は逃げも隠れもしない。
だから、何か言いたいことがあれば何でも言ってほしい。今から僕が言うことに賛同してもいいし、批判してもいい。とにかく、あの日の出来事が議論されることこそが大切だと思う。
あの日の夜、僕たちは犯してはならないことをした。だがここではあえてその行為の是非について論じるつもりはない。あの出来事を自由の履き違えだと表現する人もいた。だけど、あの場に居た当事者の1人として、あの瞬間僕たちは確実に「これから自分たちのすることが許されないもの」という自覚があったように思う。それは自由の履き違えという言葉で語られる、一方的な臨界点の拡張とは明らかに質が異なっている。言うなれば、臨界点を意図的に越境する行為だった。
某教員の言葉を借りるならば、それは確かに「教員生徒間の信頼関係を一方的意図的に破られた」行為なのかもしれない。しかし、本当にそれだけなのだろうか?
僕自身も文実に精通してる訳ではなく見聞き知った話だが、あの日の出来事は文実にとって、半分は意図的でもう半分は偶発的なものだったらしい。要するに、文実も「あそこまでは」やるつもりがなかったのだ。
では一体何が文実を、延いては生徒を激昂に駆り立てたのか。端的に言えば、それは教員への不信感であったように思う。
半年間の休校で、僕たちは自治をする場を失った。緊急事態を名目に、自治権を委任するはずの教員が全権を行使し物事を取り決めた。休校や登校再開、文化祭についての決定、全ては生徒が関与することなく一方的に通達された。 僕は、それ自体が間違っていたとは思わない。社会情勢を鑑みても、当時の学校運営は生徒が管理できる範疇を超えていた。
だけどその後、教員からどれだけ納得のいく説明がなされただろうか?なぜ他校が登校を再開するなか、7月になっても週1登校だったのか。なぜ文化祭は保護者のみ入場可能だったのか。なぜ招待制でも内部開催でも中止でもなくその方式が選ばれたのか。
生徒側は教員に働きかけた。当然多少の説明はあったが、それは到底、合理的かつ納得のいくものではなかった。僕たちが求めていたのは教員に対する抵抗でも反発でもない、情報と理由、そして納得だけだった。
原則禁止を理由に職員会議の議事録を一向に公開しない教員。当たり障りのないことばかり言って、事態への言及を避ける教員。放送をかけ、マイクを止める教員。一体あなた達がどれだけ僕たちに向き合ってきたというのだ。教員は生徒を「信頼」していた?笑わせるな、信頼関係とは相互承認で成り立つものだ。この半年の貴殿・貴女方の学校運営は、真に生徒に信頼されうるものであったとお考えか。
行き場のないこの感情が暴発したのが、あの日の出来事であったように感じる。勘違いしないで欲しいのは、僕は何も教員に責任があると述べたいのではない。あの出来事は言わば「文実によるクーデター」であり、間違いなく生徒に非がある。ただしその事態を招いた原因については、教員側の態度にも大きな問題があったと捉えているだけだ。
今後、麻布の自治は大きな転換点を迎えるだろう。その時に見直されるべきは生徒の自治との関わり方のみだろうか。学校運営は、生徒と教員の二者の協力の元に行われる。そのために、両者の間に信頼関係が必要なのは言うまでもない。生徒への締め付けを強めるだけならどんな学校だってできる。だがここが麻布であるならば、いや「麻布」である限り、我々にはそれとは異なる選択肢もあるのではないだろうか。
近年、麻布の自治には歪みが生じていたように思う。それはもちろん生徒がそうであったし、同時に教員にも変化があった。学生自治は国政ではない。不祥事という名の失敗と隣り合わせである。一方で、その失敗が受容される場でもある。生徒は失敗から学び、教員は生徒を導き育てる。その両者の関係にこそ、自治への教育的見地が見出される。
率直に言って、近年の教員にはある種の奢りがなかっただろうか。どうせ生徒は不祥事を起こし、我々が尻拭いをする。あくまでも生徒に自治を貸与しているのだという意識が、本来対等であるべき両者の力関係を壊してはいなかったか。
休み明けの木曜日以降、教員は文実や委員長の責任を問うかもしれない。だけど今回の件はあの時中庭にいた全員の責任だ。今回起こったのは文実の暴走でも内輪ノリによる不祥事でも何でもない。あの場にいた生徒の総意としての抑圧されてきた感情の吐露だ。だからこそ僕は、もし学校が責任を個人や一部の組織に転嫁するのなら徹底的に争いたい。僕たちは等しく罰せられるべきだ。
個人的な話になるが、去年の火事を受けた全校集会で、僕は自治の大政奉還を唱えた。結果としてキーワードだけが独り歩きしてしまったが、論旨としては、自治が形骸化すると自治権の返還もやむなしとなってしまうからもっと主体的に自治と関わろう、というものだった。
あれから1年、麻布の自治は再び危機に瀕している。今年僕たちは自治が奪われる恐怖を知った。去年が自治の在り方を問われた1年ならば、今年は自治の尊厳を守る1年なのだ。
ここまで長々と僕の文章に付き合ってくれてありがとう。最後に一言だけ言わせてほしい。
MAKE AZ ONE. ほんともう、それだけ。
2020年 11月3日 田中虎太朗