◇
アゼルリシア山脈の麓に転移で現れたアインズは、恐々として上空を見上げた。
連なる山々の頂をかすめるようにして、フロスト・ドラゴンの群れが乱れ飛んでいる。彼らもまた、旧スレイン法国領で見たゴキブリたちと同じだ。
アインズを呼んでいる。
「…………」
ほんの数秒前、ここならと潜り込んだ廃坑道で
その顔をこちらに向けた瞬間、ラースは有無を言わさず転移阻害の
(あれはちょっと危なかった……)
転移で逃げ出すのがもうほんの一瞬遅かったら、と思うとぞっとする。
先のカッツェ平野でのことといい、やはりこちらの行き先を予測されているのは確かだろう。
転移阻害の
ラースの手際の良さもあいまって、その背後にいるデミウルゴスの存在をまざまざと感じた。次にシモベの誰かに遭遇したら、今度こそアウトかもしれない──。
シモベたちは自分の位置情報を、即
ホームであるはずのナザリック地下大墳墓を、まるで不吉な魔王城のように幻視する。その前に大軍を従えた魔王デミウルゴス……。彼が、そしてその意を受けたナザリックが、使えるシモベをすべて投入してきたら、冗談ではなく世界中を網羅されてしまうだろう。
(一度だけ……
──ナザリックに。
今は探すな、必ず帰るからそれまで待て、と。
自分が命じればたぶんデミウルゴスも手を引くはずだ、と思う。
だが通信遮断を解いた瞬間、恐ろしいことになりそうな気がして仕方がなかった。
気分はほとんど逃亡者だ。
(いや、あながち間違ってもいないけど⁉ 逃亡者‼)
そもそもなんでこんなことになってるんだ、と思う。
デミウルゴスが自分を探しているのは、知らなかったとはいえアインズに無礼を働き続けていたことへの謝罪がしたいのだろうと最初は思っていた。
しかしこれは違うんじゃないか? と現状を見てそう思う。
先刻のラースのこともそうだが、やり方がどうにも強引というか、なりふり構わない必死さを感じた。そのイメージが、牢の中で滅茶苦茶に暴れていたデミウルゴスの姿に重なる。
どうかお慈悲を、と懇願する声が胸の痛みと共によみがえった。
だが自分ははっきりと言ったはずだ。デミウルゴスに罪はない、と。
(──……あれ?)
重そうに頭を上げるデミウルゴス。
張れあがった肉に半ば隠れた瞳は、まだどこかぼんやりしているようにも見えた。
(あいつまさか、俺がレイスだったとわかってないのか?)
いやありえないだろう、とアインズは即座に否定する。
目の前で変身して見せたのだからあれで理解できなかったはずはない、と。
だがそれなら、「もう一度レイスに会わせてくれ」とはおかしな話ではないか?
(あの場では混乱してたとしても、セバスたちだっていたんだし)
彼らがデミウルゴスの思い違いを指摘しなかったとは考えにくいが……。
記憶をたどったアインズは、そういえば、と軽く蒼醒める。
あの説明では、どうしてアインズが侵入者としてナザリック内を逃げ回っていたのか、セバスたちにだってわからないだろう、と気づいたのだ。
ナザリックに帰ったら、自分はその辺りのこともごまかさないといけないのか、と。
(い、いや……それはもうアイテムの実験で押し通せばいい。それより今は、デミウルゴスがわかってるのかわかってないのか──)
「──……‼」
まるで雷に打たれたかのように、突然アインズは硬直する。
カクン、と下顎の骨を下げ、思い出したことに愕然としていた。
俺はあいつに何と言った?
ショックを受けるデミウルゴスを見るのが嫌で。
それでも助けるためにはそうするしかないと覚悟を決めて、決死の思いでバラしたというのに──‼
(そこからやり直し……? 勘弁してくれ……)
デミウルゴスは、アインズがレイスだったとわかっていない。たぶん。
自分の失言を呪ってアインズはうめいた。
もう、二度とレイスには
◇
はるか昔にうち捨てられた坑道──
年月を経て苔に侵食された地面に、
(愚か者が……!)
ことが済み次第蘇生させて、もう一度いたぶりながら殺してやる。
憎々しげに首のない部下の死体をひとつ蹴りつけると、デミウルゴスは踵を返した。まだ怒りの冷めやらない脳内に、ブン…、と電源の入るような音が響く。
(デミウルゴス、マーレと合流したよ‼)
「ああ、ありがとう」
(そっちの様子はどう? 手がかりくらい見つかった?)
奥歯を噛みしめ、デミウルゴスは首なし死体をちらりとふり返った。
「いえ、残念ながらまだ……。ですが貴女が戻ってくれて心強いですよ」
デミウルゴスが7魔将を動かしたのは、アルベドに非常事態だと伝えた直後だった。
──カルネ村に差し向けておいた
カッツェ平野、そしてこの坑道と読みはいいところを掠めていたのに、もうあと一歩が届かない。デミウルゴスの手をすり抜けて、アインズはまたどこかへ消えてしまった。
(ねえ、デミウルゴス)
魔法で繋がったその向こうから、アウラがためらいがちな声を出す。
(……アインズ様の一大事だし、そりゃあたしも全力でお探しするけどさ)
「ええ」
(もし……もしも、だよ。もし御身が
「…………」
そのとおりだった。
だからこそデミウルゴスは、アルベドに伝えて捜索の方針を変えさせたのだ。もはや諸外国の目や、神人の残党のことなど構っている場合ではない、と。
「わかっています。ですから貴女も、できるだけ目立つように行動してください」
ナザリックのシモベごときに、御身の確保などできるわけがないのだ。
しかしデミウルゴスはそのことをはっきりとは口に出さなかった。
「肝心なのは、いずれかにおわすアインズ様の耳目に触れ、我々がどれほどにご帰還を願っているかをわかっていただくことですから」
「了解」
アウラとの
己が守っているのだ、などと──
ひとりになったデミウルゴスは、唾棄するようにそう思う。
自分は呪いを代わりに受けることでアインズを所有しているつもりになっていたのだ、と。
だが実際はどうだ? 御身に危険が迫っているというのに、シモベの力をかき集めても、お迎えにあがることすらままならない。
こんな時にでさえ、アインズの慈悲に縋らなければどうにもできないのだ。
デミウルゴスは心を鎮め、シモベに向けてもう一度
相手は、バハルス帝国へさしむけていた
「アインズ様は? そちらにお見えか」
(いえ……依然こちらにお姿は見えません。屋敷の様子にも変わったところは)
「引き続き警戒を。わかっているだろうが、くれぐれも屋敷の者たちに気取られないように」
(は。かしこまりました)
役立たずめ、とデミウルゴスは内心で毒づく。──エンヴィーのことではない。
デミウルゴスが脳裏に浮かべていたのは、先の皇帝ジルクニフの年老いた顔だった。
いまエンヴィーをさしむけているのは、退位した彼の住まう広大な屋敷の周辺だ。かつてはアインズも気軽に足しげく訪れていた場所だが、彼の退位をきっかけに訪問は途絶えた。
その後、デミウルゴスをはじめとするほかのシモベたちにも、ジルクニフには近づかぬよう、との厳命が下されていたのだが……。
数年前、バハルス帝国内でちょっとした内紛が起こりかけた時、アインズが真っ先に気に掛けたのもまた彼のことだった。
秘密裡に守るべき人間の筆頭としてその名が挙がったとき、まだ──とデミウルゴスは内心で驚いていたものだ。
もはや魔道国にとっては価値のない男だ。
「まだ、ご友誼が続いていたとは思いませんでした」
アインズの私室で──
化粧箱に入れたままのネックレスを眺めていたアインズに、思わずそう言ってしまっていた。もうジルクニフに近づくなとの厳命が下されたのは、そのネックレスを贈られた直後だったと記憶している。
「つきあいが続いていたわけではないぞ? ただ、あれが巻き込まれるのを見過ごすのは寝覚めが悪いというだけだ」
「…………」
精神操作そのほか、様々なバッドステータスに耐性を付与するネックレスは、ジルクニフ本人がいつも肌身離さずつけていた品だという。
そんな物を贈るというのも無礼であり、またアインズにとっては何の役にも立たない代物だ。そんな物を何故と苛立った。それ以後アインズがネックレスを出しているところは見たことがなかったが、廃棄や下賜もされていないだろうと思っていた。
不可解で、不快な──
デミウルゴスには推し量ることもできない、何らかの繋がり。
(……っ、思い上がりだ)
坑道を出たデミウルゴスは、羽を拡げる。
乱れ飛ぶフロスト・ドラゴンたちの間を抜けるようにして飛びながら、ほかの魔将たちにも確認の
アインザックの墓所、ゴンド・ファイアフォビトの鍛冶工房、ネイア・バラハ慈善協会本部……アインズの覚えがめでたい現地人たちの足跡が残る場に向かわせたシモベたちからは何の朗報もなかった。
太陽は少しづつ低い位置へと沈みつつあり、求めるひとの気配はかけらすら捉えることができない。
(アインズ様……!)
焦りと後悔に