2011年12月14日
会津砥(あいづど)
南会津の産業遺跡ネタ第2弾!
皆さんは「会津砥(あいづど)」って知っていますか?
八総鉱山と同じ南会津町滝原(たきのはら)は、かつてはその名を「会津砥」と呼ばれる良質な天然砥石の産地でした。
刃物を研ぐ砥石は、今は人造の物が主流で天然砥石を見る機会は殆どなくなりましたが、今でも刀職人や料理人では天然砥石を使っている人がいるようです。
私の父親も昔は建具職人だったので、カンナやノミの刃を研ぐのに滝原産の会津砥を使っていました。
釜研ぎ石は、だいぶすり減りはしましたが、今でも釜研ぎに使っており重宝しています。
<風覧坊>
ネットで「会津砥」を検索してみると、「昭和初期に旧満州の開拓者たちから会津砥が欲しいと要望があり、日本から旧満州に送ったほど」とか、「驚異の会津砥」と紹介されているので、大変良質で貴重な砥石だったことが分かります。
会津砥には白色と水色の二種類があって、白色は石英粗面岩にごま模様(長石の斑点)のある砥石、水色は溶結凝灰岩で造られた砥石で、どちらも中研ぎ用の砥石として使われていたようです。
会津砥の生産は昭和30年代が最盛期で最盛期で3軒の砥石工場がありました。
今では中山峠下の銅竜橋近くに高橋砥石工業所という看板のある建物だけが残っています。
当時の石切り場は八総鉱山選鉱場跡地(左下写真)の荒海川を挟んで反対側にあり、今もその出入口らしい跡(右下写真)だけは残っています。 (拡大して見てください)
南会津は雪深いため、秋までに原石を掘り起こし、冬の間は製造に専念していたそうで、冷風吹きすさぶ中、工場を閉め切って作業をしたので、舞飛ぶ粉塵により多くの作業員は50代前後で肺を患い、病に倒れたそうです。
最後は高橋砥石工業所さんが平成の初め頃まで営業していましたが、時代の流れで天然砥石の需要も少なくなり、終にはその姿を消してしまいました。
八総鉱山周辺にはキメの細かい(密度の高い)凝灰岩が露出していて、きっとそのような石が砥石に向いていたのでしょう。
溶結凝灰岩は、川などによって堅い部分が残り、柔らかい部分は侵食されやす
いので、しばしば深い谷や滝など特徴的な地形を形成するとありました。
代表的なのは吹割の滝(群馬県)だそうですが、滝原の地名の由来となった三滝や竜神滝なども、きっとそういう過程で誕生したのでしょうね。
南会津農林事務所の発行する「南会津のうりんニュース」に、「残したい特産品-天然砥石-」として会津砥が紹介されていました。
この記事へのコメント
1990.8/20-26 神奈川県の施設(八総鉱山の小学校だったそう)で開かれていたパフォーマンスフェススティバル'90」 に3日間参加しました。
街道からの入り口に砥石屋さんがあり、御婦人が一人でいらっしゃいました。ご主人が塵肺で近なくなられて一人になってしまい寂しいよとおっしゃっていました。山の採掘権をもう更新せずに返すとも。砥石を1枚買いました。値段は忘却。新潟に送っていたのだそうです。
川の水はきれいだが飲むなと、、田島の町でもそういわれましたが。 砥石山は鉱山の反対側にあり、そちらの水は飲めるよとも。山には端石がころがっているからと言ってくださったのでのぼってみましたら、、鉱山の赤茶の(錆)坑道入り口からはきれいな水が流れだしていました。反対の斜面をのぼりかけらを拾い持ち帰りました。
買ったト石は今でも使っていますが、包丁には仕上げもいらずこれ一本だけで十分な便利な砥石です。
もう一度拾いに出かけたいと思いながらも果たせていません。
当時鉱山跡の傷をかくしてい青々とした山はとてもきれいでしたが静まり返って不思議な感じがしました。
二十年を過ぎて樹々の浄化力で生き物の姿が戻っていることを願っています。
貴記事中に昭和30年代で会津砥が消えたとありましたので参考にと思いコメントを入れました。
1990年に八総鉱山小学校に芸術家の人たちが集まった時ですね。
私もあの時は、どんな事をしているのだろうと思って、小学校の玄関先まで見に行ったことがあります。
そうですか?
あの頃はまだ砥石を販売していたのですね。
貴重な情報ありがとうございます。
現在は小学校は解体されてしまって、一部の建物しか残っていませんが、今は荒海健康キャンプ村として使われています。
街道から入って直ぐの所に荒海健康市場という施設ができ、その奥にはルアー釣りの釣り堀ができましたが、その他はあの当時と変わっていません。
貴重な会津砥の歴史も、忘れられないよう奥会津歴史民俗博物館等でしっかり記録を残しておきたいですね。
会津砥の記事興味津々で拝読しました。
舘岩や尾瀬に向かう途中で、この砥石山跡近くを時々走っていました。
その時は昔鉱山が有ったことはうっすらと知っていましたが、立ち寄ったことはありませんでした。
傍に砥石山跡があることを知っていたら行きましたのにと残念に思っています。
民俗博物館に行けば現物を観ることが出来るでしょうか?
この記事に接する前に南会津町の方に同様の質問をしたところでした。
今年の夏までにはまた会津方面に出かけたいと思いますのでよろしくお願いします。
今も砥石はたまに見かけることがありますが、一般家庭では殆ど使われなくなってしまいましたね。
会津砥は私の子供の頃まではあって、同級生のお父さんも砥石職人でしたが、その方も肺を患って亡くなっていました。
自分の実家にも昔はカンナ削り用に会津砥があったのですが、今は無くなってしまいました。
自分も懐かしいと思って見てみたいのですが、残念ながら奥会津博物館にも無かったと思います。
南会津の歴史産業として紹介するコーナーがあっても良いかも知れませんね。
かつては養蚕も盛んで絹で織物を織っていた時代もあるので、そんな懐かしい風景の写真も見てみたいです。
各地にかつてあった砥石山はほとんど無くなってしまいましたね。
高級砥石の京都府の亀岡辺りでは今も採掘、加工、販売をしていますが。
かつて茨城県日立市で「助川砥」としてかなり有名な砥石山が有りました。
出荷量も多く、関東以外にも東北地方にも貨車で発送していたそうです。
今年になってからその砥石山をハイキングがてら、私の山仲間が調査をして場所を特定できたというの連絡。で、山中が集いその採掘、加工現場を見学してきました。
発動機や円盤裁断機などはそのまま放置。加工した製品の切り端が沢山散らばっていたので、欠片を拾い帰宅後刃物を研いでみました。
結果は素晴らしい物でした。
別な話ですが、潮来市の老舗の金物店で10年以上前に「昔販売していたと思うのですが、自然石の砥石は残っていませんか?」と尋ねたら、倉庫の中に埃まみれになって南京袋に入った砥石をごっそり出してきてくれました。
かなり割安であったのでそれを沢山購入して、知人友人にあげました。
会津方面にもそのような金物店が有ると双方にとって嬉しいですね。
会津博物館に無いのであれば期待薄でしょうか。
建物は建っていますが大分荒れているように見受けました。
今回は時間が無かったので鉱山跡へは行きませんでしたが、次回はそちらを見学してきたいです。
情報をありがとうございました。
新潟で、五十嵐砥の探索を、
楽しんでいる者です。
yahooブログで、
見ていただけると思います。
会津砥の、鉱山跡を見てみたいと。
思っています。
今、見に行くことは、可能でしょうか。
詳しい場所も、わからず。
去年、大内宿まで観光に、
南会津へ、出かけましたが、
会津砥には、出会えませんでした。
何か、ご存知のことが有りましたら、
お教え頂けませんでしょうか。
突然のコメント、
大変失礼いたしました。
八総鉱山跡地には今でも行けますが、会津砥の採取場所には行こうと思えば行けますが、辿り着くには簡単ではないかも‥。
ブログの会津砥の記事にある4枚目の写真が、会津砥採取地の入口になります。
今でも八総鉱山で働いていた当時の人たちの話しを聞くことが出来るので、地元(滝原地区)の人に聞いて行ってみました。
写真手前に荒海川が流れていて、反対側から撮った写真なのですが、真ん中下に見えている石積が、かつて会津砥の採取地に渡った橋の橋台になります。
小さい川なので、降りて対岸側に渡ることは簡単なのですが、ご覧のとおりその先は荒れ放題の藪になっているので、直ぐ近くではあるようですが大変ですよ。
切り出した石が今でも残っているとか?
会津砥の採取地の話しではありませんが、八総鉱山の話しでは、いろいろと面白い話しを聞くことが出来ました。
例えば、坑道の中で椎茸を栽培していたとか内緒でドブロクを作っていたとか‥。
でも、当時の人たちはもう80歳過ぎのご高齢の方たちですので、とても貴重な話しでした。
そうそう、会津砥の採取地跡や八総鉱山跡地の場所は、会津鉄道の会津高原尾瀬口駅で地図をネットから検索していただくと分かりますが、目の前を走る国道352号を檜枝岐方面に向かうと直ぐです。
道路右側にブログの1枚目と3枚目にある会津砥工場の建物がありますので、その目の前にある国道左側の町道を入っていった所です。
工場の所に銅竜橋という赤い橋が架かっていますが、ここがやがて日本海に流れる阿賀野川のに最上流端になります。(ここでは阿賀川です)
キャンプ場は強アレルギー症の療養施設であったとは知りませんでした。
砥石鉱山の入り口は分かりませんでした。
キャンプ場近くの河原で、子供の頭大の砥石と同じ凝灰岩? らしき物を2種類拾ってきました。
ここのところその石を整形して、据え付けタイプの砥石に仕上げました。
白ぽっぽいのと青っぽいのの2種類です。
白っぽい方はあまり硬くないのですが、青っぽい方は少々硬そうです。
両方を使い鉈と斧を研いでみました。
それなりに研げそうです。
次回行く折には鉱山跡近くの河原で、私流の法要をしてみたいと思います。
砥石従事者が塵肺で早逝されたという、当ブログの文字が何故か心に引っ掛かるものですから。
滝の原集落で何方かにお尋ねすれば、鉱山入口の詳しい説明を受けることが出来るでしょうか?
*このブログの記事から、東京都下の方から助川砥石の問い合わせが有りました。
何かの縁ですので、日立市の砥石山をご案内することになりました。涼しくなってから実施予定です。
ありがとうございました。
何度かコメントいただいていたのに、返事出来なくてすみませんでした。
八紘鉱山跡まで来られたんですね。
強アレルギー症の療養施設の所が八総鉱山小学校跡地になりますので、会津砥の原料となる石の採取場所はそれよりも奥にあります。
会津砥をネットで検索していたら面白いものを発見しました。
南会津農林事務所の発行する「南会津のうりんニュース」に、「残したい特産品-天然砥石ー」として紹介されていました。
それによると砥石鉱山の場所は南会津町滝原字獅子小屋という住所で、俗称「砥石山」と呼ばれていたようです。
砥石山は生産量も多く手軽に採取できることから、地元の人達の農閑期の稼業として昔から生産されていたとか。
農閑期の仕事にしていたので冬場だったのですね。
雪が積もるので、ソリで工場まで運び出せば、大した設備もいらなかったのかも知れません。
トラックの普及や機械化により、生産量も大幅に増えたとありますが、当時の生産設備では、砥石の主成である珪酸の粉塵を吸い込むことで起こる塵肺疾患(職業病)は避けられなかったとか‥。
前のコメントの返事の中で、自分の同級生の父親も肺を患って亡くなったと書いていましたが、小学校2年生の時の親世代なので、とても若くして亡くなった方もいたことになります。
砥石鉱山の場所は、滝原地区の80歳以上の方に聞けば分かると思いますが、もしかしたら航空写真を見れば分かるかと思い、グーグルマップで探してみました。
そしたら発見しましたよ。
自分が地元の人から聞いて入口の写真を撮ってきた場所と同じ所に‥。
記事の本文中に(追伸)で説明を加えましたのでご覧下さい。
よく解りました。
グーグルマップ及び航空写真の威力ですね。
鉱山跡の水処理施設の手前の対岸という所ですね。
次回は丁寧に探索してみます。
多くの人達が塵肺で早逝されたと聞きましたので、線香を立て供養を試みてみます。
我流ですが、四国お遍路2巡しましたので、やってきたいとおもいます。
なんとなく胸のモヤモヤがとれそうです。
風覧坊さんありがとうございました。
昨年豪雨が有ったそうで、渓相はすっかり変わったと地元の人が話していました。
朝日岐沢出合いから下流の橋まで約700m河原を歩きました。
その結果段差のあるのは河床にコンクリートの堰状のが一か所だけでしたので、其処を風覧坊さんの渡渉点と思い山に入りました。
航空写真の帯状の露頭状の場所です。
此処は土砂崩れ現場のようでした。
砥石原石を運搬した杣道らしきものを探しましたが見つかりませんでした。
結局今回は採掘現場跡には行きつきませんでした。残念でした。
出来ればDMで返信をいただけると幸いです。
昨年の豪雨で「渓相はすっかり変わってしまった」とご案内をいただいた方がおっしゃっていました。
塵肺で亡くなった方々のご冥福をお祈りしてきました。
ありがとうございました。
両親ともに砥石づくりに精を出し仕事に取り組んでいましたので、砥石を評価していただきありがとうございます。
ご連絡とれるすべがありましたらいくつか砥石があるので使って頂ければと思っております。
まさか高橋砥石工業所の娘さんからコメントいただくとは思ってもいなかったのでビックリです。
滝ノ原で砥石を造っていたことは、荒海小学校時代の同級生に父親が砥石工場に勤める人がいたので、話を聞いてはいましたが、ネットで調べて「会津砥」と呼ばれていたことを初めて知りました。
このブログを見て色々な方からコメントをいただきました。
特に、前出の山さんには何度も南会津に足を運んでいただき、獅子小屋の原石を採掘していた場所や、荒海川の枝沢を少し入った所にも加工場があったことなどを逆に色々教えてもらいました。
また、塵肺で亡くなられた職人さんのご冥福を祈って線香まであげていただき、感謝しています。
ご両親が丹精込めて造られていた会津砥を南会津の産業遺産としてしっかりと後世にも残していきたいですね。
私は荒海小、荒海中出身で、実家は会津荒海駅の近くです。
両親は実家にいますが、自分は須賀川市に住んでいます。
自分が小学校2年生の時に滝ノ原にあった分校が荒海小学校に統合され、その時に分校から転校してきた谷井さんという同級生の父親が砥石職人でした。
詳しい話は直接メールでやり取りしたいので、よろしければコメント投稿時の名前の下のメール欄にアドレスを入れて、もう一度コメントをいただきたいです。
よろしくお願いします。
田島子さん、私は茨城県在住の山さんと申します。
高橋砥石工場の娘さんということですが、ケイコさんとは従妹になられるのですか?
Iさんの話ではケイコさんの叔母さんが高橋砥石工場へ嫁いだ方だと教わりましたので。
詳細は風覧坊さんが言われるようにDMが良いと思います。
私のメールアドレスは風覧坊さんがご承知ですから。
次回は砥石山をじっくり登ってみたいと思うので、春になったら再訪したいと考えています。
風覧坊さん、このような展開を迎えるとは予想だに出来ませんでしたね。
できれば日時を調整して田島子さんとも調整できると嬉しいですね。
ケイコさんは私と従姉になります。
実家は事業を辞めて十数年経っているにもかかわらず、皆さんが高橋砥石工業所や砥石のこと嬉しく感じております。
これも何かのご縁かと思いますので機会がありましたらお会い出来ればいいなと思います。
自分も機会があったら砥石山を探索してみたいです。
南会津の産業遺産として記録は残しておきたいので、田島子さんからも砥石造りが盛んだった当時の話も色々と伺いたいです。
昔の写真もあれば奥会津博物館で会津砥を紹介するコーナーや企画展があってたらいいですね。
またDMで連絡させていただきますのでよろしくお願いします。
田島子さんが砥石工場の娘さん。
風覧坊さんは地域おこし、地域情報発信のエキスパート。
私は小木工や竹細工を趣味として、砥石に頻繁にお世話になって刃物を研ぐ砥石利用者。
三者三様ですね。
できれば機会を作り一堂に集い歓談をしたいですね。
私などが知らない昔の滝の原の話が聞けそうでワクワクします。
風覧坊さん、私のメールアドレスを田島子さんにお知らせ願いますか?
個別具体的な内容はDMがよろしいのではないかと思われますので。
yamaと申します。
コメントは初めてですが、ずっと拝見していました。
私も山さんと同様会津砥に興味を持ち、山さんと連絡を取り合いながら、独自に調査しておりました。
現在、高橋砥石工業の管理をされている田島の整備工場H氏ともお話しをすることが出来ました。
その時の話によれば、私の勘違いでなければ、H氏のお姉さんが田島子さんのお母さんではないでしょうか?
H氏の弟さんも一時高橋砥石工業を手伝っていたようにお聞きしました。
その時には田島子さんのような娘さんがいらっしゃるような話はお聞きする事ができませんでしたので、驚きました。
私も山さんと一緒に採掘現場に行きたかったのですが、まだ現場を訪れたことがありません。近くまでは行ったことはあるのですが。
田島子さんからお話が聞ければ大変貴重なことですね。
ぜひ私にもお声をかけて下さるとうれしいです。よろしくお願いいたします。
ちなみに、私は会津若松出身ですが、現在は東京多摩市に住んでおります。
会津に帰る時はいつも会津西街道を通って帰ります。田島に何人か友人もおります。
いつもブログを見ていただいてありがとうございます。
会津砥を知っている方が沢山いるようで、また会津砥の輪が繋がりました。
そうですね、私もまだ会津田島子さんとは詳しくお話しをしていませんので、いろいろお話しした中で砥石山を訪れる計画なども立ててみたいと思います。
できればyamaさんともDMでお話ししたいと思いますので、コメント入力の際のメール欄にアドレスを入れてもう一度コメントしていただくと助かります。
会津地方には滝の原だけでなく色々な所で
砥石が採れていたようです。
それらを探して保存しようと思っています。
よろしくお願いいたします。
そしてはじめまして。yamaです。
前出の山さんとかぶらないようにyamaと名乗っています。
コメントありがとうございます。
考えてみれば、高橋砥石工業さんに娘さんが居ても少しもおかしくはないのですが、正直びっくりしました。
南会津の砥石をいろいろ調べてもなかなか情報が伝わってこなかったのですが、昨年小さな糸口を見つけるとそこからさまざまな事が解ってきて、ついには娘さんとまでお話が出来るようになるなんて本当におもしろいものです。
田島子さんとは見ず知らずの私ですが、
お会いした時にはきっと話がはずむような気がしています。
機会がありましたらぜひお会いしたいとおもっております。
朝のNHKの天気お姉さんの話では「羽田空港辺りの南関東までは春一番が吹くかもしれないが、都心は微妙です」とのことでしたが何でなんで。
関東地方一円が春の嵐の真っ最中です。
この風が吹くようになると春近しです。
暦の上だけではなく、野も山も目覚め始めます。
当ブログで賑やかな春の出会いの催しについても具体的な話題にする必要ありと感じますが如何でしょうか?
田島子さんは群馬県からとのことですが、後の3人は須賀川、茨城、東京です。
風覧坊さんは仕事現役ですから週末か休日設定がよろしいでしょうか?
風覧坊さんのメールアドレスを全員承知していますので、それぞれが希望の時期をご連絡いただいて調整をしていくという形で如何でしょうか?
お諮りいたします。
ちなみに私 山さん は毎日日曜日ですので基本的には何時でもOKです。
大変楽しみです。
砥石の話のブログを探していたら、地元のサイトにたどり着き驚きと感激でいっぱいです。
何故かと言うと、昔中学一年生まで砥石沢(通称)に我が家と隣にもう一軒二軒で住んで居たのです。
当時砥石を製造していたのは、高橋砥石工業と五十嵐砥石さんと私の兄(既に他界)の営んでいた三軒だけでした。
高橋砥石工業さんは最後まで営業していましたが、五十嵐砥石さんは砥石沢に入って少し行った左側、そこから少し上った左側に兄の工場がありその川向に我が家が二軒並んでありました。
山さんの投稿では、朝日岐沢の出会いを下ったと書いていますが、そこから500㍍位上流の右側に入ったところが砥石山の入り口です。
昔と河川状況が変わっていて、入り口が分かりずらいかもしれません。
沢沿いを登っていくと左側の山の中腹に隧道が見えれば間違いありません。
質問等ございましたら投稿ください。
ビックリです!!
そうですか。砥石工場の関係者ですか!!!
その工場跡はだいたい分かります。昨年その沢周辺を散策しました。
本流沿い側の沢の出会い付近の五十嵐砥石さんの工場跡付近には、砥石製作過程で出るコッパが未だ散乱していまして、一つ持ち帰り、形は悪いのですが砥石に私が加工しました。
あの辺りに住んで居られたというのもビックリです。
少し大きな雨が降った時などは大変であったんじゃないですか?
もっとお話を聞かせてほしいのですが…
風覧坊さんとも「かずくん」さんとの連絡方法を相談してみます。
本当は私のメールアドレスを此処に表示するのが一番ですが…
ここにきて直接の関係者のお話が聞けるとはすばらしいです。
風覧坊さんがコメントを載せたのが2011年ですから、6年がかりで会津砥の輪が一気に実を結んだようですね。
砥石の上にも6年。
続けていれば本当にこういうこともあるんですね。
南会津の民俗史にも、くっきりと会津砥の足跡を残せるきっかけになるのではないでしょうか。
私の実家は会津荒海駅の脇で昔は建具屋をしていました。
かずくんさんももしかしたらお分かりかと思います。
昔、父が会津砥を使ってカンナの刃を研いでいたので、会津砥のことをもっと知ってもらおうと南会津の産業遺産として記事にしていました。
そしたら会津砥を知る方や会津田島子さんやかずくんさんのように、当時の砥石工場の方まで繋がりが出来て大変嬉しく思っています。
今度、4月に滝ノ原に集合して、砕石場跡を探索したり、盛んに砥石が造られていた昔の話を教えていただく事にしています。
よろしかったらかずくんさんもいかがでしょうか?
コメント返信の際のメール欄にかずくんさんのアドレスを入れてもう一度コメントしていただければ、個別に連絡を取りたいと思います。
よろしくお願いします。
昨日 2017年4月23日午前10時すぎから、滝の原地区の旧高橋砥石工業所にて、サミットが盛大に挙行されました。
私は数名を想定していたのですが、あにはからんや10名もの大人数にびっくりしました。
参加者は当ブログの風覧坊さん、砥石工業所の娘さんの田島子さん、それに私やそれぞれの関係者が集まってくださり、盛大に開催されました。
会津砥製作の最後の職人のAさん、昔、製品販売や卸をされていた方や田島子さんとの古い友人知人。
又ご婦人たちがそれぞれ手料理を持参して下さり、思いがけない滝の原の郷土料理をご馳走になりました。
大変美味しくいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。
最後の砥石職人のAさんの話は特に貴重な内容ばかり。
大変勉強になりました。工場内案内時の説明は特に貴重でした。
また、Aさんからは高橋社長(故人)の人となりがいくつも例を挙げられ説明を受けました。
経営者としての技術改良は当然としても、特に印象に残るのは、塵肺を予防するために設置した換気装置や作業員の防塵や安全に対する取り組み方への徹底指導。
その話を傍らで聞いて涙している田島子さんの感極まる姿も印象に残りました。
風覧坊さんには公私ともお忙しいとは思いますが、今回のサミットの内容の取りまとめをお願いします。
それがまとまる頃に第2回サミットが開催されることを願っています。
紅葉を愛でながらか、次のサクラの頃でしょうか?
いずれにしてもじっくり取り組んでいただき、南会津町の歴史的産業遺産資料の一つになることを願望しています。
今回参加して下さった皆様に改めてお礼を申し上げます。
風覧坊さん、田島子さん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。
PS:東京のyamaさんご心配をおかけしました。電話をいただき恐縮で~す。
かずくん さん、次回お会いしましょう
3月15日に物置小屋の残雪を下ろそうとして落下骨折し、行けませんでした。
このトラックの最初のころのコメントに高橋砥石屋さんにいたご婦人の話題が載っていましたが、たぶん今はすでに亡くなっている久子さんだと思いました。
久子さんは我が家からすぐそばの町営住宅に入居しており何度も挨拶やらお話をしていた思い出があります。
また特注で作っていただいた砥石もまだ我が家に健在です。
私は彼女の一学年下でしたが、兄が同じ職業だったのと近くにおられたので会うたびに世間話をしたのが今になっては思い出です。
あと2・3か月後には鮎釣りが始まります。
それまでには体調を整えようと自嘲したいと思います。
また機会がありましたら宜しくお願いします。
なにやら楽しそうなことが終わってしまった後でしたね~~。
滝の原へは、去年二度訪問しました。
会津と新潟の砥石の産地を調べています。
去年、会津で7ヶ所ほど探索に行きまた。
今年も数ヶ所訪問予定デス。
ヤフーブログで、
訪問した所は、全て記事にしています。
情報交換出来たら良いデスねぇ~~。
風覧坊です。
4月23日の会津砥の集い(会津砥サミット)では、お忙しい中をたくさんの方(総勢11名)に集まっていただきました。
田島子さん、山さんはじめ、皆さんにはすっかりお世話になり、感謝に堪えません。
ありがとうございました。
山さんがセッティングしてくれたサミット会場と田島子さんがいろいろ声を掛けてくれたおかげで、砥石を製作していた当時の話をいろいろ教えてもらったり、芋の煮っころがし(味噌カンプラ)など美味しい手料理を持ち寄ってくれた田島子さんの同級生の方たちと楽しい時間を過ごすことができました。
集いの様子は、本文中の最後に写真を載せましたのでご覧ください。
かつて砥石生産の最盛期だった頃の砥石山の採石現場の写真を見せていただいたり、高橋砥石工業所の工場内を見学させてもらいましたが、黒板のメモ書きも当時のままで、まるでタイムスリップしたかのようにも思えました。
また、会津砥は品質の良い砥石として他の砥石産地からもオーダーがあったことや、お年玉年賀ハガキの懸賞商品にもなっていたことを初めて知り、改めて会津砥が重宝な砥石であったことも分かりました。
実は解散した後、一人で砥石山に入ってみたのですが、最盛期当時の写真を見た後ということもあって、容易に当時の状況を思い浮かべることができたのです。
昔の運搬路の跡形もしっかり残っていたし、原石を採掘していた跡もしっかりと見て取れました。
当時の採掘の様子については、後日また記事にしてUPしたい思います。
yamaさん、かずくんさん、新潟まさやさん、今回は会えなくて残念でした。
会津砥の輪の繋がりで、また今回のように集まることがあるかも知れませんので、その際には是非よろしくお願いします。
今回参加できずにかえすがえす残念な思いです。次回を期待します。
まずはお疲れ様でした。
亡き姉H子を偲んで下さりありがとうございます。
私の実家は冬は雪深く生活するのには大変で両親の他界後、姉H子は田島に出て生活しておりました。
かずくんさんとはご近所だったのですね。
23日お会いできるのを楽しみにしておりましたがお見えにならず残念に思っておりました。
怪我をされたとの事、大変でしたね。
お大事にしてください。
私はかずくんさんの妹H子さんと同級生でT子と申します。
父は事業を閉めるにあたり最後の職人Aさんに山を埋土して頂き、山の採掘権を滝ノ原村にお返ししました。
この度、23日に会津砥石で集うことを滝ノ原の山に携わる方々に話したところ、皆さん足を運んで下さり、昔砥石産業が盛んだったころの貴重なお話を聞くことができました。
その話のなかで全国年賀状の2等景品に高橋砥石が入っていたそうです。
両親、姉がとても喜んでいたと職人Aさん、姉の友人から伺うことができ、私は嬉しくなり、誇らしく感じました。
姉H子が両親と共に家業を頑張って守っていてくれたからこそ今があるのだと感謝の気持ちでいっぱいになりました。
地元の集まって下さった方々は私の事はもちろん、かずくんさんの事も良くご存知の方々ばかりです。
次回はかずくんさんのお兄様が仕事を頑張っていた頃の話しや砥石が盛んだった頃のことを皆さんで語り合えたら幸いです。
今回、再び会津砥石が注目を集めることになった事は、風覧坊さんが南会津の輪の中で会津砥、そして高橋砥石工業所の砥石に注目して下さったからだと思います。
砥石を囲み不思議なご縁で集うことができたことと地元の皆様方に感謝しております。
本当にありがとうございました。
7月14,15,16日の3っ日間山形県の朝日連峰小国口登山道整備(草刈り)をしてきました。
私は昨年から鎌を使用してこの作業をしています。私以外は肩掛け式草刈り機でしています。
今回会津砥の小さなコッパ(15×15×60mm)と銚子石の荒砥(同サイズ)を携行しました。
切れが悪くなるとこれで砥ぎました。
結果はグーでした。
山上のテント場では会津砥サミットの様子も肴になりました。
梅雨も明け、暑さ本番のこれからの季節、皆様方も夏バテしないようにご自愛を。
最近の南会津は雨の日が多く、ゲリラ豪雨的な降り方で只見では被害も出ています。
地球温暖化の影響で日本海の水温が平年より2~3度高く、湿った空気が流れ込んでいるのが原因とのこと。
おかげで会津田島祇園祭も生憎の雨の中での開催でした。
さて、会津砥を奥会津博物館で紹介する件について、7月の初めに博物館担当者と話しをしてきました。
取り敢えずは館長宛ての要望書を提出することに‥。
要望書ならおやすいご用なのですが、なかなか忙しくて、まだ作成できていません。
Aさんとも相談して何名かの連名で出すことにしたいと思います。
急がねば‥。
私も会津砥を愛用しています。
私には包丁研ぎの仕上げにはなくてはならないバランスの切れ味を得られる天然砥石となっています。
本当に素晴らしいです。
京都の仕上砥石などは私には滑らかすぎてかえって食いつきが悪くて結局適度に荒れている会津砥に戻ってしまいます。
中砥好きには最高の砥石なんではないでしょうか。
質問なんですが会津砥には水色と白のタイプがあるということですが(水色は高品質)よくある白虎砥というのは白タイプなんでしょうか?
自分には区別がつきません。
よろしくお願いします。
包丁をきれいに研いでご使用のご様子何よりです。
滝の原産の会津砥は白に区分されると思います。
青色のは定かではありませんが、別の山だと思います。坂下の方の?
会津砥といっても山がいくつもあったようです。
元砥石職人の方の話では、滝の原の良い砥石と言うのは限りなく白に近い物です。
よく見るとその中に変成岩特有の水玉模様が入っていますが。
滝の原産の砥石にも多少の質の変化はあります。
砥泥が良く出るものと、そうでもないもの。
どちらが良いのかわかりませんが、砥泥の多く出る物の方が研げる気がしています。
それに砥石1本が白い物と、縞状とか帯状に変成の違いが見える物があります。
その縞状、帯状も研ぎに差異があるかどうかを、私の技量では判別できません。(斑な砥石でも研げているので)
会津砥最後の砥石職人のAさんに次回お会いしたら、その辺のことを教わってみます。
生活に使用する包丁の研ぎは、会津砥を仕上げ砥にして問題ないと思います。
茨城県日立市産の助川砥の方がもう少しきめが細かくて良いと思いますが、現在手に入らないかも?(私はかつての砥石山で、コッパを拾い使用しています)
切れる鉋刃を研ぐのには、京都産の合わせ砥がよろしいようです。(私もそうしています)
自分が使ってる2本の会津砥は確かに滝の原産の砥石だと思います。
一つは限りなく白く比べれば少し柔らかいです。
白とか水色とかはあまり関係ないんですね。
助川砥は持っていませんが近い場所の大泉砥は持っていますが多分だいぶ違うんだと思います。
中砥好きなんでおすすめの助川砥もなんとか入手したいと思っています。
ありがとうございました。
大泉砥」をご使用なのですね。
大泉は茨城県旧岩瀬町。
で、私もかつて砥石山へ行ったことがあります。
麓の民家に車を駐車させていただいたのですが、その家がかつて砥石を掘っていたというのです。
山の様子をお聞きして入ったのですが大藪。
アズマネザサが密生していてイノシシの住処でした。
結局見つけることは出ないで敗退。
掘り出しに使用したと思われるキャタピラ付重機も放置してありました。
その山の近くに深沢砥の山(高峰山)が有ります。
栃木県茂木町ですが、そこの採掘坑跡から拾ってきた石が優れものです。
かつて古い金物屋の倉庫で南京袋に入っていた砥石にそっくりです。
山続きなので、大泉砥もこの石に近いのだと思いますが確認はできていません。
この深沢砥は会津砥の前の研ぎに使用しています。
良く研げますね。
竹細工の刃物をほぼ毎日これらで砥いで使用中です。
助川砥、本当にどこにもないです?
幻です。
以下の理屈で家庭用包丁には会津砥がいい感じなんですかね。⤵︎
http://www.suisin.co.jp/toku02/2006-04/index.htm
会津砥は微妙に荒くても荒すぎなくてステンレスに合うのかもしれませんね。
クロムモリブデンは当たり前の時代ですからね。
高い砥石で細かくすればするほど440やVG10、ハイスなどは滑って使いづらくシャキッと切れない感じにもなる。
青鋼はクロムが滑る。そうだったんですね。
犯人はクロムなんですね。
大好きな黒打ち白二などはザラザラなんで細かくしても食いつき感がとてもいい感じがするのはこんな理屈なんですね。